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はい、フォーニッツ大山レイディオ 大山です。
いつもですね、東方のレイディオをお聴きいただきまして、ありがとう ございます。
はい、今回はですね、阪神大震災、こちらについてね、私のちょっと
お話をね、したいと思います。
はい、今日ね、1月の17日ということで、
27年前にね、阪神大震災、こちらがね、あった日なんですね。
私、この阪神大震災はですね、非常にちょっと思い出深いというか、非常に印象に、今まで生きてた中でも非常に印象に残るね、
私の中では出来事だったんですね。 で、こちらについてね、今回はね、ちょっとね、お話ししたいと思います。
阪神大震災がね、あったのは今から27年前になるんですけど、ちょうど私がですね、大学3年生から4年生に上がるね、
この1月ですから、大学3年生の冬ですよね、にありました。 その当時ですね、私は神戸市の兵庫区の方にね、住んでまして、
いわゆる被災地のね、ど真ん中に近い部分でね、生活してたんです。学生生活を送ってたんですね。
その当日どうだったかと言いますと、非常に明け方の早い時間だったので、正直ね、びっくりしますよね。
実はの私、この日ですね、風邪で熱があってですね、寝込んでたんですね。
昼間、その前日の昼間はちょっとね、ずっと休んでて寝てて、
で、夜中ね、なかなか寝つきが逆に悪くて、体調も悪いということで、ベッドの上で最初寝たんですけど、なかなか寝れないということで、今度はね、床の方に布団を移して寝てみたりとか、でまたベッドに直ってみたりとか、
そんなことをちょっと繰り返して、夜中寝つけないところで、ようやく明け方ね、多分4時とかぐらいにようやく寝れるような、うとうとし始めたところで、で、ちょっとしたところでね、阪神大震災がね、起こったんですね。
本当にすごい揺れで、その時はですね、ベッドに直って寝てたんですけど、ベッドにしがみついてましたね。
何のことか、何が起こったのか本当にね、私はわからなくて、ひどいなんかこう、なんか悪夢のようなね、夢を見てるんじゃないかなっていう、そういう錯覚にすらちょっと起きたんですね。
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私ベッドにしがみついてて、で、狭いワンルームに住んでましたので、ベッドがね、それだけの非常に強い揺れでしたので、
端から端にね、角から角に動いてということで、1メートルぐらいは軽く動いてたと思うんですね。
洋服を入れてるね、
そういう棚もね、倒れたりとか、テレビもね、ひっくり返ったりとか、もう非常に朝起きて明るくなったら、非常に部屋の中もぐっちゃぐちゃの状態でしたね。
私はね、学生でしたので、その当時ね、あのちょっと単位がちょっとヤバいのがちょっとあったんですね。
で、その中でもね、これはちょっと学校行かないとまずいやつがあるということで、非常に焦ってね、慌ててその大学のね、友人の方にちょっと連絡取ったら、
何言ってんだと、学校どころじゃねえよみたいな感じでね、言われて、それもそうだよなと思ったんですよね。
でね、明るくなって外見てますと、私が住んでましたね、ワンルームマンションの前の、
町の電気屋さんのね、大きな看板が落ちたりとか、もう道路はボッコボコですね。もうウネ波打ってですね、非常にひどい状態でしたね。
で、あの、私の友人なんかね、冗談混じりに、朝起きたらね、家の屋根がなかったよとかね、そういう人もいましたし、逆に半信高速をね、夜中走ってる友人がいて、それで半信高速でね、すごい揺れがあって、で、止まるんだけど、何とかね、事故らずに何とか生き残ってたとか、そういうね、私の連れもいましたね。
で、あの、震災があってね、自分の家のね、周りの状況っていうのは、目に映るんでわかるんですけど、町全体の様子っていうのが、なかなかね、正直わからない状況でですね、朝のニュース番組とかテレビ見て、長田の方で非常に火災がね、兵庫区の方でも火災があって、結構救急車とかがもう頻繁に走っててっていう状態でしたよね。
で、長田の方なんかのね、火災とかニュースで取り上げたりなんかしてて、いやこれはね、ちょっとこの世の終わりじゃないですけど、どうなるんだろうっていうのを非常に不安をね、感じましたよね。
で、一人でいてもね、ちょっとあれで、部屋の中もぐっちゃぐちゃな状態でしたので、どうしようかということで、大学のね、私の連れと、近くの小学校にね、避難しようということで、冬寒い中でしたけど、避難しましたね。
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で、あのー、どうしてもね、昼間、建物の中にいると寒いので、建物の中にいると危ないのでね、外に出て、ちょっとね、まあちょっと、震災が収まるのをちょっと待とうっていう感じでいたんですけど。
で、あのー、グランドのね、グランドにこう、友人と立ってても、まあ焚き火の周りとかにいても、なんて言うんですかね、自分の足元が地面がね、バババッと漫画家、映画家のようになんかこう、割れていくような、そんな感覚がずーっとあるんですよね。
あのー、地震の揺れがずーっと継続的にありましたので、あのー、なんですかね、船にこう揺られてるようなね、そういう感覚すら、ちょっとあったのを覚えてますね。
で、まあ速攻してるうちにね、まあ、あのー、やっぱり寝たりね、そういう体休めたりとか、そういう、自分の体調があんまり良くなかったので、まあ友人のね、あのー、アパートの方にちょっとね、えー、まあ居候というか、避難させていただいて、そちらはね、被害が少なかったので、えー、避難させてもらったんですね。
で、しばらくね、えー、1週間か、あのー、10日ぐらいね、その友人のところには、まあ、同居というかね、居候させていただいたんですけど、まあその間ね、えー、水やガスやね、水道っていうのが全部止まってまして、あのー、まあ私がね、友人が住んでたのが、あのー、先日ね、ツイッターでもちょっとアップしましたけど、あの、神戸のね、大蔵山って言いまして、まあ、もっこすラーメンとか有名なね、えー、近く、ちょっと裏の方に住んでまして、
その大蔵山公園にね、あのー、よくゴミを出す大きなバケツとかに、水をね、汲みに行って、それを何度もね、あのー、往復して、あのー、お風呂の浴槽の方に水を溜めて、ということで、まあ例えばトイレ使ったりする時に、そういうの、水をね、使ったりとか、いうことをね、えー、しましたよね。
非常にね、あのー、普段生活してると、あのー、水ってあんまりこう意識して、だーっとね、流したりとかしてましたけど、まあなんか水のありがたみとかですね、そういうのも感じましたし、まあ震災の中ではね、こういうそういう緊急事態の中では物流が止まりますので、
えー、例えば近くのね、コンビニ行っても全部もうあれですね、あのー、ショーケースに並んでる商品とかっていうのは特に食料品はね、もうパンとか、まあもうそういったものっていうのはもう全然ないですね。で、カップラーメンとかもなかったような記憶がありますね。
で、なかなかね、本当交通が寸断されますと、まあそういった中で、あのー、お店の方にね、えー、商品が届かないということで、そういうのがありましたね。
で、あのー、私がね、その居候してた友人のね、えー、大谷さんが非常に、まあご年配の方でしたけども、非常にいい方でね、あのー、例えば、えー、配給でね、例えばパンをもらいましたとかっていうときに、これ食べなとかっていう感じでね、えー、私たちにくれたりとかね、そういうのを、あのー、されてまして非常にいい方ですね。
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まあやっぱなんか人間って温かみがあるなーっていうふうにね、本当思いましたよね。
まあ神戸の方はね、非常にこう、なんて言うんですかね、そういう温かみとか、あのー、ね、みんなでこう頑張っていこうみたいな、そういうね、えー、方が多かったようなね、気がいたしますよね。
人の温かさにもちょっと触れたような、まあそういうね、経験をしましたね。
で、あのー、まあそんな感じでね、えー、私は多分1週間か10日間ぐらいね、まあ、えー、友人のね、えー、部屋に一緒にこうちょっと避難してたんですけど、まあなかなかガスやね、電気も、まあ電気は早めに復旧したと思うんですけど、ガスとかね、まあ水道とかもちょっと使えないということで、まあ生活がなかなかできないということでね。
その当時あったのが、あのー、水を使わないで済むシャンプーとかあったんですけど、それを私ね、使ったらね、ちょっと頭が、あ、こう皮膚合わなかったんですね。
頭かゆくてかゆくてね、本当にもうちょっと我慢ならないって感じでしたけど、しかもね、まあ冬ということでね、非常にね、ちょっとね、あのー、そういうのもありましたね。
まあ1週間10日してね、なかなかそうやっても生活の方が、あのー、通常に戻るのはちょっと難しいなということで、あのー、私はね、田舎の鹿児島の方にね、えー、帰ることにしました。
私の友人もね、帰ったんですけど、まあその時はね、あのー、神戸のね、神戸港から大阪の南港の方までね、フェリーが出てまして、で、まあ大阪のね、まあ南とか、あ、南じゃないですね、梅田の方とかを通って、まあ兵庫のね、伊丹空港にね、行って、それでね、えー、実家の方にね、あのー、帰省したという感じだったんですけど、
まあ震災起こってね、すぐっていうのは、まあ私のね、大学の友人でも神戸に住んでる連れとかはね、まあ大阪とか、奈良とか、京都の、あのー、人間とかは、まあ例えばあのー、JRとか、阪神高速、あ、阪神電鉄とか、阪急電鉄とかも全部ね、止まってましたので、あのー、阪急のね、線路をずーっと歩いて、大阪の方まで歩いて帰ったっていうね、そういう私の友人も、えー、何人かね、
いましたよね。
ということでね、本当にね、あのー、すごい、まあ神戸ってすごい大きな町ですけど、まさかね、こういう事態になるとも思ってもみませんでしたし、やっぱりね、物流も飛ばれば交通もね、寸断されてということで、あのー、意外と大都市って脆いんだなーっていうのにも、非常に感じましたよね。
まあそういうことをね、ちょっと感じましたね。
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で、あのー、私がですね、しばらく実家の方にその後、あのー、帰った時もね、しばらくなんかこう震災のそのー、揺れてる、自分の体がこう揺れてるような感覚っていうのが、船に揺られてるようなね、そういう感覚っていうのが抜けずに、なんかね、やっぱ寝言でもなんか、言ってたらしいですね。
うちの袋とかなんかその当時、なんか言ってましたけど。
なんかそういう、震災の衝撃の強さというかね、あのー、そういうのがやっぱり印象に、心臓心理というかそういう部分にね、あったのかもしれないですよね。
ということで、阪神大震災ね、あのー、すごい私の中では思い出に残るというかね、非常にちょっと印象的だったし、私の人生の中では非常に大きな出来事だった阪神大震災ですね。
あのー、5000人を超える方がね、亡くなられたということで、あのー、本当に私はね、この時に本当に運良くね、あのー、命を失うことなく、まあ今に至るという感じなんですけど、やっぱりね、あのー、そのー、お亡くなりになられた方のことを考えますと、やっぱりあのー、生かしていただいてるというやっぱ意識はね、やっぱり毎年この1月17日を迎えるたびに、
私の中ではね、感じている部分ですよね。やっぱりまあ、あのー、生きていく上ではね、そういう部分っていうのは、やっぱり意識していきたいなというふうにも、私自身はね、感じてますね。
ちょっと余談ではあるんですけど、あのー、私ね、東日本大震災の時は、震災が起こってね、3か月ぐらいしてから、当時デネコンに勤めてましたので、国家の一大事ということで、あのー、災害の復旧工事の方にね、えー、半月ぐらいね、ちょっと行ってたんですけど、やっぱりその時もね、非常にね、
あのそこに住まれている方の生活ってどうなんだろうとか すごく考えさせられたんですね
でその マジービリッジってありますけどまあその二葉町とかねそういう
第一原発の復旧工事にあたりましたけどその周辺の音待ちのことを考えますとそこに 住まれている方がねあの
その時どういうふうに生活されているのかなということをね 非常にこう心痛か痛いなんかそういうね
感覚をね持ったのがありますよね で町にはね
牛とかまあ馬とかねそういうキャス野生化した動物家畜の音 そういうのがあのもう人が1個1人いなくなってそういう
放置されたね 動物たちがこうねあのいるんですけど本当にゴーストタウンですよね
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ということでまあそういったねあの天才ですのでまあなかなか防ぎようはないかとは思います けど
いつ何時に何が起こるかわからないっていうのはねまあ阪神大震災とか 東日本大震災を通してもやっぱりね
感じることでもありますよね 考えてみたらね阪神大震災からもう27年も経つのかなと思うと
マウントあっという間のような気がしますけどね まあまあそういった経験
昔ね いたしましたまあそういうことでねまあ
改めましてですねこの阪神大震災で 被災されてお亡くなりになりました
方々に対しましてですね
ご冥福をですねお祈りしたいと 思っております
またですね 自分の人生ね大事にね
やっぱり生きていかなきゃいけないなということをね 1月17日を迎えて改めてね
ちょっと感じた次第でしたね まあ今回ね不動産にはかからないまあお話ですけれども
阪神大震災1月17日ということでにちょっとね触れてお話をね させていただきました
いつもですね東方のレイリーを聞いただきましてありがとうございます それでは今回はこちらで失礼しますありがとうございました