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2025-11-26 1:04:47

第239回(2)『旅と日々』映画という旅、言語化という旅、旅ももちろん旅ったら旅

『旅と日々』の話をしました。 本作で描かれる目的のない旅を起点に、メンバーの「旅」観や、言語化することなどについて話しています。 ■メンバー 山口 https://creators.spotify.com/pod/show/chottoeibana マリオン https://x.com/marion_eigazuke オーイシ https://x.com/pteryx_joe ■映画の話したすぎるBAR 日時:2025年12月20日(土) 詳細:https://virtualeigabar.com/eiga-bar 場所:『週間マガリ』大阪市北区天神橋1丁目11-13 2階 https://magari.amebaownd.com ■お便り https://virtualeigabar.com/contact ■SNSアカウント X(Twitter):https://twitter.com/virtualeigabar Instagram:https://www.instagram.com/eiga_shitasugi ■番組グッズ販売 https://suzuri.jp/virtualeigabar

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サマリー

第239回では、映画『夜明けのすべて』について語られ、三宅翔監督の描く旅と日常の繊細な描写が印象に残ります。特にキャラクターの内面的な探求や、旅を通じた言語の重要性についても深く考察され、リスナーに旅の本質について問いかける内容となっています。このエピソードでは、次ヨシハルの作品を通じて、映画や短編の中に描かれる旅の概念が探求されます。日常の美しさや、その非日常性について考察し、主人公の視点や感情が深く掘り下げられています。また、映画を通じた旅やその表現方法について語られ、特に主人公のリスキーな旅行スタイルやフィルムカメラの持つ意味が取り上げられています。旅行そのものの目的と映画の関係性についての深い考察も展開されます。映画と旅の関連性について深く考察され、精神的な旅行や言語化の難しさが語られます。言葉の限界と、それでも言語化を続けることの重要性が強調されています。映画『旅と日々』を通して、言語化や映像表現の重要性が論じられ、自己表現の多様性について探求が進んでいます。言葉だけでは伝えきれない思いを感じながら、旅と表現の相互関係が描かれています。

映画の概要とテーマ
今日のテーマトークは、旅と日々です。はい、ではマリオンさん、解説お願いします。
はい、映画ドットコムより解説を読ませていただきます。
夜明けのすべて、稽古、目を澄ませて、の三宅翔が監督脚本を手掛け、
杉義晴の短編漫画、海辺の女系、本屋羅道の弁さんを原作に取り上げたドラマ。
怪しい彼女、新聞記者のシム・ウンギョンを主演に迎え、
行き詰った脚本家が旅先での出会いをきっかけに人生と向き合っていく様子を、
三宅監督ならではの繊細なストーリーテリングと独特の空気感で描き出す。
強い日差しが降り注ぐ夏の海。
浜辺に一人佇んでいた夏夫は、影のある女、渚と出会い、二人は何を語るでもなく散策する。
翌日、再び浜辺で出会った夏夫と渚は、
台風が接近し大雨が降りしきる中、海で泳ぐのだった。
とある大学の授業で、杉義春の漫画を原作に、李が脚本を描いた映画を上映している。
上映後、質疑応答で学生から映画の感想を問われた李は、
自分には才能がないと思ったと答える。
冬になり、李は、ひょんなことから雪に覆われた山奥を訪れ、
オンボロ宿にたどり着く。
宿の主人、弁蔵はやる気がなく、暖房もまともな食事もない。
ある夜、弁蔵は李を、夜の雪の原へと連れ出す。
脚本家の李を、霜雲玄。
宿の主人、弁蔵を、鶴見真一が演じ、
河合雄美、高田満作、佐野志郎が共演。
スイスロカルノで開催された第78回ロカルノ国際映画祭のインターナショナルコンペティション部門に出品され、
日本映画としては、18年ぶりとなる最高賞の金標賞を受賞した。
はい。
映画に対する感想
はい。ではここから内容に触れる話に入っていきますので、
ネタバレ気にされる方がいらっしゃったら是非見てから聞いていただけたらと思います。
では3位の感想、マリオンさんいかがでした。
そうですね。映画的にというか、話的には何も起こってないんだけど、
なんか面白いっていう、ちょっと不思議な映画だなというような感じでしたね。
もうちょっと、予告編の段階でどんな映画なんだろうというふうには思ってたんですけど、
まさかそんな感じの映画っていうか、
夏の話と冬の話が交互に描かれている感じなのかなと思ったら、
実は夏の場面はそういうことでみたいなというか、
映画ない映画になっててみたいな、
っていうちょっとトリッキーな、ちょっとメタな視点込みで描くみたいな、
ちょっとトリッキーな作り方として、まずそれも面白いなと思ったんですけど、
そこから雪山形への旅のシーンになって、
そこからどんどん不思議な出来事、不思議というか、
特にドラマチックなことが起こってないんだけど、
それがすごくドラマチックであるみたいな描き方というか、
そういう雰囲気っていうのが映画から醸し出されていくみたいな映画になってて、
すごく見てるだけでもすごく豊かな時間を過ごせてたなというような感じはすごいしました。
あとやっぱり今作を通じて、旅とか日常とかっていうのを捉え方とかについて、
いろいろ考えてみたくなるような映画だったかなと思いました。
特にそれぞれの旅への思い入れというか、
旅ってあなたにとって何ですかみたいなのを見た人と喋りたくなるみたいな、
そんな映画だったなというふうに思ったのと、
あと言葉にすることについてもちょっとすごい考えたくなるような映画になってて、
特に脚本家、主人公が脚本家なのかって言葉を操る職業の人だからこそ、
よりそこで言葉にがんじがらめになってるみたいな感覚があるみたいなことをトロするわけですけど、
その感覚なんか別に脚本家でもなくても、
みんな感じてることなんじゃないかなっていう感じも僕はすごいしたので、
そういったことも含めて、
そのことを今映画として語ってくれてることはすごくよくわかるなというか、
結構最近のトレンドというか、
兆候みたいな感じでもあるのかもしれないななんてこともちょっと思ったりしましたかね。
感想としてはこんな感じですかね。
はい、大井さんいかがでした?
そうですね、結構僕は刺さるというか、
なんていうか、面白く見たっていう感じですね。
ただなんか映画自体のストーリーが、
マリオさんおっしゃったように面白いという感じだったり、
めちゃくちゃ好きっていう感じというよりは、
なんというか、ディテールが全部いいと言えばいいんですかね。
なんかそういう感覚を受けました。
ただ前半の夏の映画は僕そんなに刺さってなくて、
てかある意味映画内映画としても、
あえてそういうつまんないよねこれって言ってるのかなぐらいな感じでもちょっと思ったんですけど、
ちょっとこう概念的すぎる感じというか、
この手の映画見た時の困る感わかるなって思いながら見てはいて、
なんで映画見終わった後に佐野志郎がちょっと困りながらコメントしてましたけども、
マジその感じだよねっていう。
なんでだから前半最初ちょっと不安だったんですよ、
これ合わないかもなって思ったんですけど、
後半東北に立ってからは結構、
あーなるほどっていう感じがしてきたというか、
私ごとというか、どちらかというと妻ごとなんですけど、
最近妻が脚本の教室に通ってました。
それこそ三宅翔監督もご出身の映画美学校っていう、
まさに夜間学校ではあるんですけど実は。
に脚本コースでちょっと通い始めたところもあって、
なんとなく最近脚本を書くってどういうことなのっていうのを夫婦で話し合う機会が結構多くて、
そういう意味で今作結構面白かったというか、
脚本を書く、物語を作るってストーリーの骨を作ることじゃなくて、
ディテールを詰めていくことなんだっていうのが多分この映画からすごい感じたことだなって思ったんですよ。
たとえば、つつみ真一演じる謎の宿屋がありますけど、
あの宿の主人がじゃあ俺のことでも脚本にしてみるみたいなことを言って、
書いてインタビューしようとするんですけど、そこであんまり言葉にならないわけですよね、主人は。
ただ部屋にあるものは彼の人生を物語っているっていう、
そうやってやればいいんだっていうふうに気づいていくっていう、
なんかあれすごい示唆的だなと思って。
その映画っていうのが、まるで最初主人公は言葉にがんじがらめになっている。
言葉で何かを考えようとする。
で、まさにそれをやったのが前半の映画。
だからこそすごく思念的だし概念的で、
若干こう見る人選ぶというか、分かりづらい作品になってしまっているっていうところはあると思うんですけど、
後半のその実際に旅に出て、その自分、外の世界に出たことによって、
見えてきたものに勝手にストーリーが宿ってくんだ。
どうやってそのストーリーはストーリーテリングすればいいんだっていうことに気づいていくって話だなってすごい思ったんですよね。
そうするとある意味言葉から解放される映画でもあるなと思ったし、
それをある意味もう1回それで言葉に帰っていく映画のようにも思えたっていう。
で、それこそちょうど今妻が学校の教室に行きながら、
ストーリーっていうのは実はほとんどの映画がだいたい同じなんだと。
で、プロットによって映画は個性が違うんだ。
だからETとメッセージは同じなんだって話から始まったらしいんですけど、実は。
大きなストーリーとして描くとね。
ただそれをプロットとしてこう映画のどういう順番でその情報を出していくかっていうことが変われば、
映画というのはメッセージとETぐらいかなり違うものになるよっていうような授業を受けてるらしくて、
なんかそういうのもすごいこの映画見ながら考えちゃいましたね。
だからその旅に出るってことももちろんそうなんですけど、
物語を作るってどういうことなんだろうかっていう、
そしてその特に映画として物語を作る、映像として物語を作るというものがどういうもので、
視聴者からの反響
どういったプロセスの中で生まれてくるものなのかっていうのをすごい明確に示されてる映画だなっていうふうに思ったので、
僕は結構その点ですごいこの作品面白いなっていうふうに感じましたっていう感じです。
僕はですね、映画としてはそこまで刺さってないかなっていう感覚はあって、
あえて今日喋るにあたって、あえてポジションを誇張して、
この映画に対して日寄りで喋ってみたいと思うんですけど、
この映画を見ることで覚える感覚って旅をしたら得られるんじゃないかなと思って、
だったら旅をしたらいいのではってちょっと思ったとこがあったんですよ。
実際僕は自分が一人で旅しているときはめちゃくちゃ僕自分のこと面白いと思ってるんですよ。
いやこいつめっちゃ面白いなって思ってるんですけど、
それって他者がいたら出ない面白さで、その面白さって自分だけが需要しているんですよね。
でもそれって結構旅の本質なんじゃないかなって思って、
もちろんエピソードトークとして他者に披露した面白いことも起きたりはするんですけど、
そうじゃない自分一人が何かをしている時ってめちゃくちゃ面白いんですよ。
いやこいつめっちゃ面白いなって。
でもそれを他人に伝えたらそんなに面白くないと思うんですよ。
自分だけが見ていて、自分だけがそこで行っている旅っていうのが、
自分にとってだけめちゃくちゃ面白かったりすると思うんですよ。
それこそが旅なんじゃないかなと思ったから、
なんか旅の本質を問えば問うほど、
映画っていう形を取った時点でちょっとずれてるんじゃないかなって気もしていて、
だから旅をしたらいいと思います。
自分ってめっちゃ面白いなって思うと思うんで。
っていうね、ちょっとあえてポジションは誇張して喋ってるんですけど、
結構僕本質的なことなんじゃないかなって気もしていて、
この話が広がるかどうかわからないです。
とりあえず種だけ巻いたんで広がったらいいなと思って喋りましたっていう感じですね。
ではお便りいただいてますので紹介させていただきます。
大石さんお願いします。
はいタウルさんからいただきました。
こんにちはタウルです。
三宅翔は私にとってフェイバリットな監督で、
本作も映画的表現と映像の見応えが素晴らしい作品でした。
久しぶりに杉義春の漫画も読んで原作にも触れ、私は2回見に行きました。
本作タイトルから察する通り非日常と日常といったテーマが興味深く、
その境界線が曖昧になっていくことで立ち現れる感覚を味わう作品だと思いました。
夏パートにあった外れた場所での出会い、魚の死と捕獲、
大丈夫かと声を掛け合うといった場面が冬パートにも登場して、
創作されたことを追体験しているような不思議な感覚になります。
また主人公が脚本家ということで、この経験が作品になるんだろう、
いや今見ているものがまさにそれではないかといった気分になります。
主人公が私たちを取ったらどう見えるんでしょうねといったセリフもありますし、
作中の至るところにそんな感覚を呼び起こす描写がありました。
そんな風に咀嚼していると、映画の中の非日常の世界も、
日常の細やかな日々も実は自然に共鳴しているのだという感覚が強くなってきました。
最後、それまでの描写ではなかったように主人公が手前から奥へ歩いていくショットに
前向きな力を感じ、改めて映画に触れることもリアルな日常も、
そのどちらももっと大切にしようという思いが湧き出しました。
とのことです。
はい、ありがとうございます。
ありがとうございます。
すげえヨシハルの漫画って読まれてます?
いや、僕全然読んだことなくて。
僕も読んだことないですね。
僕今回初めてちゃんと手に取って読みました。
この映画を読んだ後。
で、あの漫画がねむっちゃ良くって。
この今回の原作、2作。
で、どっちかというと僕はウンベの女系の方が良くって、
次ヨシハルの作品の魅力
ウンベの女系はこの何でもなさが漫画になった時にむちゃくちゃ良いんですよ。
で、次ヨシハル、あのもうちゃんと手に取ったの初めての身で言うのは何なんですけど、
まず風景が良いんですよね、描き込みが。
もう重い。重いというか、なんかザラザラしてるんですよね、背景が。
なんかこの世界の赤みたいなものをすごい感じるんですけど、
その説得力を持った海の表現みたいなのがすごい良くって。
で、このウンベの女系のラストが、
僕が読んだ限りで次ヨシハル作品で唯一見開きを使って表現してるんですよ。
それがあのすごい良くって、
その海のなんて言ったらいいんですかね、本当に
海という余白そのものを見せられてるみたいなのがすごい良かったんで。
で、あの感覚はちょっと僕この映画の前半からは感じられなかったというか、
なんかあんま面白くないタイプの映画だなっていう感じで見てたんですよね。
まあ、あえてなんですけど、この映画の作り的にそういうふうにしてるとは思うんですけど、
いや、あの原作すごい良かったですね。
最近次ヨシハル原作作品ってなんかちょこちょこ映画になってるの見るなって気がしてるんですけど、
多分去年の雨の中の浴場は結構印象的だったからってのはあるかなと思うんですけどね。
そうですね、僕もあれがやっぱ印象残ってますね、雨の中の浴場が。
変なとこ連れてかれますからね、なんかね。
あれもまたね作品内作品が出てくる話というか、
それが入れ子構造になりまくってるんで、どこからがどこまでなのかすごいわかりづらいんですけど、あの映画。
ただなんかそういう構成にしたい、まあ多分短編が多い作家さんなのかなと僕は想像してるんですけど、
なので多分短編をそれぞれ映画にしてくってなると、
そういう作品内作品として提示するっていうのが一番スマートなやり方って形になってくのかなとちょっと見ながら思ったりはしてたんですけどね。
旅の視点と非日常
僕、まあ今回短編をいくつか20作品ぐらいかな、読んだんですけど、まず旅をしている話が多いんですよ。
あーなるほど。
だから自分が行った先を観察している視点としての話がすごく多い。
で、常にそこで主人公というか、まあ主人公って言うほど短編なんであんまりフォーカスも当たらないんですけど、
その観測者、まあ語り手と言った方がいいかもしれないですけど、その語り手が常に他者っぽい感じとしている感じなんですよね。
あとその各短編の主役が漫画家のことが多くて、そこもやっぱ今回の映画に重なっている部分かなと思うんですけど、
確かに。
語る側の人がそこにいるっていう感じは多いなと思って。
ただ、月代春の僕が読んだ限りだと、あんまりそこで作家論みたいなとこまで踏み込まないというか、
まあもちろん短編だからそこまで踏み込めないんですけど、あくまでその歌詞本時代の商業作家というかも、あくまで商品を作ってますみたいな。
商品を作ってるどころか、まあこの原稿なんぼで売れるなぐらいの、そこまでプロ意識も強くない感じの漫画家なんで大抵の場合。
今回みたいにその脚本の脚本論みたいなとこにちょっと踏み込んだような感じになっていることはほぼなかったなと思って。
ほぼなかったというか、僕は見た限りなかったなと思ったんで、そこは多分広げたとこなんだと思うんですけど。
そうすると、本人の反次元的な旅エッセイとかって意味合いも結構あるんですかね。
いやごめんなさい、そこはわかんないな。
なんかでもなんとなくそんな感じもあるのかしらってちょっとその設定をきっかけで思ったりもしたんですけど、
もちろん同じ主人公じゃないからそこは多分厳密にはそうじゃないんだろうなとも思いつつっていう感じですけどね。
とにかくね、すべてに漂う人生の赤みたいなものがすっげーいいんですよね。
あーなるほど。
もうしみったれた、本当に。
僕が人生で唯一読んだことがあった、小学生時代に読んだことがあったリアリズムの矢と今回読み直しましたけど、
もう読んだ中でも本当にしみったれてるんですよね。
もう読んでてげんなりしてくれるぐらい。
でもまあなんか真髄だなと思いました、そこが。
なるほどな。
それに対して映画版はっていう風にちょっと話を戻しますけど、タオルさんもおっしゃってる通りで、
すごい映画論的、特に後半がかなりそこを顕著になるなと思ってたんですけど、
それこそ撮ったらどう映るんでしょうねっていうのを、まるで撮られてるかのようにいうセリフとかもありますし、実は撮ってるんですけど。
そうですね。さらっと自己言及じゃないけど、ことやってくるのがちょっとふふって笑っちゃうみたいなというか、
そういうちょっとしたくすっと笑いみたいなのが満ちてるみたいな映画だったなという感じはしましたね。
大爆笑ポイントはあるんですけど、声がカチコチになってるとか大爆笑やなって思ったんですけど。
あと焼けばバレないっていうのもね、けっこう僕は笑いましたけどね。
そういうちょっと爆笑ポイントはあるんですけど、そういうちょっとした日常のくすっとしたことみたいなのの寄せ集め感があって、
それが日常の愛おしさじゃないですけど、それを旅の中で感じる、旅という非日常でも感じるというか、
日常は非日常であり非日常は日常であるみたいな、どっちもどっちであるみたいな感じを映画でさらっといりのけてしまうみたいな感じがすごいなと思いました。
それで言うと、僕よく旅先、今回のソフトドイツでもすごい感じたし、他の旅先でも大体旅に出ると言っても感じるんですけど、
ここに生活があるんだなっていうことを感じるんですよ、すごく。
それなんですよ。醍醐味、それなんですよ。
だから、もしもここに自分が生まれていたらどんな人生を歩んだんだろうっていうのを毎度想像しちゃうんですよね。
だからそれこそ、僕けっこうこの想像、好きな想像が、本当に田舎道を車で走っている時に、山間部の途中に突然村があったりするじゃないですか。
ここで生まれたらどんな人生なんだろうなーとかっていうのをすごい想像しちゃうんですよね。
でもここにも当たり前のように家があって人がいて生活があるわけじゃないですか。
だからサマリオさんがおっしゃった通り、非日常の中の日常って言うんだけど、それはある人のとおりは日常なわけでもあるわけですよね。
僕のとおりはただ非日常なだけで。
そこの果てしなさみたいなものにグッとくるというか。
そこを想像して人生の可能性みたいなものを、あったかもしれないイフの人生みたいなものをいつも想像しちゃうっていうのはやっちゃいますね。
目的のない旅の意味
それもすごい今回の作品の中で感じた旅だなって感じはしました。
分かります。
確かにね。分かりますね。
でもそれこそ、この間の東京に行った時、嫌いながらアイスルーム見に行った夜は、終電も遠に過ぎたんで、歩いて30分ぐらい歩いてホテルまで帰ったんですけど、
その時に結構東京の路地裏というか、住宅とかマンションとかアパートとか並んでるところを道として歩いて帰ったんですよね。
いわゆる東京の華やかなじゃない部分みたいな。
人の営みがめっちゃ見えるところみたいな。
ところを夜道をそう言って歩いて帰ったんですけど、ちょっとその時間はすごく豊かだったなっていう思いがすごいありましたね。
さっそーと若い兄ちゃんがループでさっそーとさーって僕の横通り過ぎていったりとかして、
ああ、人が生きてるなあ、この街はみたいなふうに思ったりとか。
で、東京なのになんかすごい、これは何の廃墟だみたいな感じが、例えば急に出てきたりとか。
なんかそこもちょっと、東京にもこんな場所あるんやみたいな。
そういう驚きとかもあったりとかして。
なんかそれは確かにちょっと僕の旅行エピソードの中でも豊かに感じられた瞬間って何かあったかなっていうのは結構直近でそういうのあったなって思いましたね。
僕、若い時、何回か青春18キップの野宿旅行みたいなことをしたことあるんですけど、青春18キップってもう呆れるほどだるいんですよね。
道中が。
で、特に地方に行けば行くほど、路線ってどんどん便数が少なくなって鈍厚になっていくんですよね。
本当に進みが悪い。
もう何時間も待つみたいなことがあって、急行とかあるいは新幹線に乗るようなテンポの良いことなんて一切なくって、
もう全く何でもない景色みたいなことを、傷口に塩を塗り込まれるようにもうじわじわとやられ続けるんですけど、
それが醍醐味やなって思ってて、ああ人生だなって、これ人生だなって思いながら、そこに生きてる人とかのことを無視できない旅になるんですよね。
そこに人生きてるんだよなぁみたいな。テンポ良くないから、ずっと同じ景色見ながら、ああそこに家あるなぁ、そこに人いるよなぁみたいなことを、どうしても想像するとこまで至っちゃうんですよ。
テンポが遅いから。
でもそこで感じたことって、むちゃくちゃ面白いなと思って、逆に僕一人で行動してる時って、有名な観光地とかあんま行かないんですよね。
そういう方が芯を食ってるなっていう感覚というか、なんか神社あるなぁみたいなのとかで行ったりとか、なんかあんま面白くないなぁみたいな。
もう面白くない方が面白いんですよね。
なんかそれをすごい思い出して、この僕が今非日常として思いながら見てる海の景色とかを日曜として見てる人がいるんだなぁとかっていうのはね、なんかそれが。
でも残るのってそっちなんですよ。
20年経っても覚えてるのってそっちだったりして、なんかそれこそ旅だなって思ったりはしてるんですけど。
何にしに来たんとかって劇中でも聞かれてたじゃないですか、弁蔵さんに。
特になんとなくって、いやもうそれが全てやみたいな。何も決めてなかったですみたいなのだなっていう感覚があったんで。
いやそうだよなって聞かれても困るよなぁみたいなの。めっちゃわかるんですよね、あれ。
目的地って言い訳ですからね、旅における。
とりあえずそれだけ置いとかないとなんかやっぱり気持ち悪いから置くけど、でも本質はそこじゃないよなっていうのはすごいわかりますね。
その件なんですけど、僕目的地がないと旅行に行かない人なんで、目的のない旅に出るじゃないですか、今回の脚本からの主人公も。
僕の中にそういう目的のない旅を楽しむみたいな風情とか趣が全くなさすぎて。
自分ってなんて感性の鈍い人間なんだろうってこの映画見ながら思ってたんですけど正直。
なるほど。いやでも大井さんもおっしゃってましたけど、目的地って言い訳でしかなくって、
例えばそうだ京都行こうっていうキャッチコピーありますけど、あれって僕別に最終的に京都に行かなくていいと思うんですよ。
通り過ぎて別のとこ行ってもいいと思うし、途中で行くのやめてもいいと思うんですよね。
あくまで着火剤でしかないというか。で、なんで旅するかって言ったら、旅してる時の自分が面白いからだと思うんですよね。
こいつ面白いってなるんですけど。
それあんま分かんないんですよね。
あ、そうですか。
いや、そうだ京都行こうになったら、それは京都にしか行かないしってなるんですよ、やっぱり。
それでやっぱり僕観光地しか行かないし、にぎわってるとこ、東京でもいわゆる名所というか、
みたいなとこしか行かないみたいな、そういう風になっちゃいがちなんですよ。
だから、宿もそこに考えずにぽやーっとして、たまたま空いてたゆきやまの弁当さんのとこに泊まるみたいな感覚がない。
なくて、いやもう、すごいそれに憧れはあるんですよ。憧れはあるんですけど、
いざじゃあ自分がやるかって言うと全然そういう原動力がほぼないなっていうのに、
すごい正直この映画を見ながらめちゃくちゃそういう風情が自分になさすぎるなって思って、
すごいあーってちょっと思ったりはしたんですけど、
けどこの映画を見てその何もなさというか、その目的のなさみたいなのを味わうことはすごいできてるんですよ。
リスキーな主人公の旅
なので冒頭で山口さんが、いや旅でりゃいいやんみたいな言ってましたけど、
僕は映画を見ることで旅してるなってすごい思ったっていう感じがしたんですよね、今回は。
それもまた旅かってちょっと思えたというか。
主人公のあの旅の仕方って超リスキーだと思うんですよね。
死ぬじゃないですか。
ワンチャン死にますからね、あれ。
等死でしょ。
もちろん話の合わないの方のラジオやってるパートナーの土屋さんは、荒れ方の旅しかしない人なんですけど、
怖っ。
逆に。
怖いわ。
目的地も何も決めずにとりあえず飛んでみるっていう。
そういうのないんだよな。
いやただ、話しかけに絶対自分できないなとは思います。
宿も決めずに行って、で現地で宿を探して撮れるから、一応海外行くときはさすがに撮ってる場合もあると思うんですけど、
ただ、基本は移動してたらバスだけで行くとか、インドバスで半島をずっと行った男なんであいつは。
すごいですよね。
そういうリスクはしちゃえないなっていうのは思うんで、だからあの主人公はすごいと思いますよ。相当ラディカルだと思います。
いやまずそもそもね、雪山に入って行くのは危ないんですよ。
そう。危ないだろうなって思いますよ。
装備なしで行くのめっちゃ危ないんですよ。
うんうんうん。
よういかんなっていうか、自分でレンタカー借りてそこまで運転しようとか絶対嫌じゃないですか。
主人公は電車で行ってましたけど、極力自分が危険にならないようなやり方でしかああいう場所行けないなって思っちゃいましたね、正直。
僕一人で京都の山奥の山小屋に行ったことあるんですよ、冬に。
ほうほうほう。
雪の上は歩ける装備持ってたんですけど、つけ方よくわかんなくってめっちゃ下手やったらもううぜえってなって、もう普通に山用の靴で雪の中歩いてたんですけど、本当に動けなくなるんですよ。
僕ここで死ぬんかもしらんなって思った時あって、本当に動けなくて。
一人で雪の中で泣いてたんですよ。僕このまま死ぬんやなって思ってたんですけど。
だからあれ本当に危なくって、だからあの旅館の人もあんなの進めたらダメなんですよ、絶対に。
あの人死ぬから、本当に。
本当にそうですよね。
いやでも、ああいうのだと思います、旅って。
マリオンさんは目的地を決めて行くっておっしゃってたんですけど、目的設定とかが嫌だから旅をしてるんですよね。
そういうことをしないために旅をしてるから、とりあえずあっち方向行こうって決めて。
で、その時点でどこにたどり着くかもあんま決まってないんですよね。
多分このペースやったら今日のうちに帰れらんなみたいな感じで行って、
で、車内ここで泊まるかみたいな。
学生時代やったら僕も野宿してたんで、とりあえず行けるとこまで行って道端で寝たらいいやみたいな感じだったんですよね。
いやー、やっぱ目的なく、これ旅行に限らずなんですけど、目的のない散歩とかも僕無理だなって思ってて。
やろうとするんですけど、結局あっち行くかーみたいな目的決めないと、どこにも歩けば歩みが進められなくなっちゃうというか。
でも目的のない散歩できる人って別にそんな何も意識してないじゃないですか。
なんかもうそこが羨ましいなっていう、憧れだけしかないというか。
そういう意味ではですよ。この映画ってそういう目的のない散歩へのヒントを与えてる気がしていて、ちょっと実は。
それが、それもさっき言った私たちにとったらどうなるんでしょうね、だと思うんですよ。
三宅翔監督って、そろそろ稽古とかからそう、なんなら君の鳥を歌えるからもそうな気がしてるんですけど、何でもない日々を描くというか、それを映画にするのが上手い人だなって僕思ってるんですよね。
そこの、いわゆる何にも、何の変哲もない日常を、詩的に映像を使って、ポイムの意味での詩的に描いてみせることが上手い作家っていう印象があるんですけど。
なんか、今回の旅の中での主人公たちの掛け合いとかって、なんかそういうヒントになるんだろうなって思って、それはたぶん日常に持ち帰れるものでもあるんだろうなって思ったんですよね。
だから、それこそ一時期、短歌とか我々読んでましたけど、短歌を読むって日常をポイミックに詩的に読み換えるっていう行為だと思うんですけど、
あれってたぶん、旅の中でその主人公がやっていた、映画にするとしたら、物語にするとしたら、これはどうすればいいんだろうっていうことにすごい近い行為だと思うんですよ。
31文字の物語だと思うんで、短歌って。
なんかなので、そういう日常を詩的に読み換えてみるっていうのを実は、結構三宅翔監督でずっとやってるのかもなっていうのは、今回改めて見てて思いましたけどね。
いや、わかるかもというか、旅って自分しか読まない詩を書くことだと思うんですよね。
自分しか見ない映画を撮ることだなって思って、この映画俺しかわかんねえなって思いながら、自分面白いけどこの面白さ自分しかわかんねえよなって思う映画を撮ってるんですよ。
フィルムカメラの旅の本質
旅の間の。現在進行形でその映画を撮りながら見ながらなんですけど、だからそれ自体が目的なんですよね。
だからその目的地っていうのはあくまでそのそれをその映画内でのゴール設定でしかないというか、でもその1個上のレイヤーでの目的は映画を撮ることそのものだと思うんですよね。
あくまで目的地は劇中の目的設定であって、映画自体が撮りたいし映画自体が見たいっていう、それを撮るのは自分だけだし見るのも自分だけなんだけど、でもそれ面白いじゃんっていう感覚かなって思って。
だから多分なんですけど、さっき東京で宿まで帰られる間のところ、まさにあれって目的地はあるんですけど、ある種予定してない目的な散歩でもあるわけじゃないですか、同時に。
まあ確かにそうですね。
だからその時間が得たからだったのって、多分この映画におけるその雪道の間を帰る2人とほぼ同じなんじゃないかなって気がするんですよね。
あー、なるほど。まあそうですね。だから、まあそうか。いや、全くその目的のなさというか何もなさ?旅とかの。みたいなのに、全く共鳴できてないわけじゃなかったんですけど、ちゃんとこの映画見てそれは感じてるし、僕も旅の一部分でそういうこと感じてはするんですけど、
本質的にもっと高みには行けてない感じがすごいあるから、すんごいあー死んでるなー、僕みたいな感じすごいしちゃったんだよなーっていう。
そうかー、なるほどなー。
そうなんですよね。だからみんな旅に対してどういう思いで旅してんだろうってめっちゃ気になったのはそういう理由だったんですけど、
自分が本当にこういうイベントがあるからここに行きますとか、ここの観光地有名だから行きますとかいうぐらいしか動機がないなっていう自分の中にって思ったので、
あーもう日常疲れたからもうなんでもないとこ行きたいみたいな感じっていうその動機だけでどっか行くみたいなのがなくて、あーって思ってたんですけど、やっぱお二人はそういうのはちょっとどっちかっていうとあるっていうか、自分の中にあるって感覚があるってことですよね。
というより、自覚的、自己言及的かどうかの差でしかないというか、みんなできると思うしやってるけど、それを自分で言ってるだけだと思うんですよ。
あー。
そんだけの差、だからマリオンさんが東京旅行中にやってたことも多分それなんですけど、ただそれを目的地だけを後から言及しているからそう見えてるだけで本当は多分道中って色々あるはずだと思うんですよ。
だから最終ゴールだけじゃなくて途中で別の目的って発生してると思うんですよね。
行動中って、あ、なんかあそこにあるなってちょっと見てみようかなみたいな、その目的の言及げみたいなものをその自覚的に内包して行動するか、自覚してなくてやってるんだけど、後からそんなに意識してないみたいな、その差でしかないんじゃないかなと思って。
気づいてないだけっていう。
でも豊かさを感じられてるんであればある意味気づいてるのかもしれないなとも思いましたけどね。
そうですね。気づきやすいときと気づきに全く気づいてないときの差が激しいというか。多分僕夜になればなるほど感じやすくなるというか、結構皆さんそういう感じだと思うんですけど。
多分昼にあそこ30分普通に歩いても何も思わない可能性が僕あるっていう。
なるほどな。
それについてもう一個だけ映画の中で上手いなって思った話していいですか。
はい。
主人公フィルムカメラ持ってくじゃないですか。
はい。
あれ本当マジでそうだよなって思ってて、ここ最近自分もフィルムカメラ買っていろいろ持ち歩いたりして、ドイツも持ってったんですけど、やっぱねフィルムカメラ持ってくとちょっと切り取りたくなっちゃうんですよ、どうしても。
なんかね、突然主人公感出るんですよ。
いいですね。
別にフィルムじゃなくて全然デジタルカメラでもいいんですけど、やっぱスマホじゃないなと思うんですよね。
スマホじゃ日常から切り離されるところまでいけないんだけど、カメラ持った瞬間にちょっと物理的に何かが離れる感覚もあるし、絵を撮るっていうポエムを読んでる気にもなるっていう。
僕に足りないのはカメラか、みたいな。
カメラ買ったらもしかしたらってちょっと思いました。
かもしんないですね。
フィルムカメラいいですね。
その場で見れないのがいいと思うんですよ。
そうなんです、おっしゃる通りで。
帰ってきてから現像して1週間ぐらい待って、てか何ならカメラその旅だけでは全然撮り切れなくて、フィルム36枚。
で、再びぐらいしてようやく現像できるぐらいなんですよ、大体。
だから現像してくれるタイミングで、自分の中でも思い出になってるものが、絵として出てくる感じがあって。
しかも粒子が粗いですし、脳内の絵ってこうだよなってのが出てくるし、何なら自分の想像もしてなかった、どう写ってるかもわかんないんで、シャッター切った瞬間に。
そこもかなり運というか、状況というか、勝手に一応オートで撮ってはいるんですけど。
その時のレンズの状態であったりとか、あるいはそのシャッター速度の状態だったりっていうのをどう判断、カメラが、センサーがしたかっていうことにかなり依存してくるので。
なんかその旅の後も偶然を楽しめるっていう良さがあって。
そう、なので、結局すごいフィルムカメラっていうのが旅の本質を言い得てるなーっていうのはすごい見てて思った。
実体験として思ってはいたんで、そう思ったんですよね、あの映画見てて。
そうか、確かにそうですよね。
ちょっと言葉にがんじがらめというか、言葉の檻に囚われてるような感覚みたいなのを、主人公にモノローグで言ってたと思うんですけど。
そこからちょっと解放される手段としてのカメラっていうのはやっぱありますよね。
言葉に頼らない何かを切り取るというか、情感を語ってみせるみたいなところとしてのカメラっていうのは確かに大事だよなーみたいな感じはしますよね。
なんていうか、目的達成の宝器なんじゃないかなって気がして。
おー、はいはいはい。
写真を撮ろうと思ったら、当然デジタルでその場で確認しながらベストを追求していくのがいいと思うんですけど。
そういうのがそもそもできないから、それでもう撮る。で、もう中身は後でっていうのかなって思って。
だから、目的の観光地に行くっていうことも放棄してるっていうか、放棄というかそもそもそんなに重視しないっていうのが正しいんですけど。
もちろん写真もいいものを撮れた方がいいんだけど、そこが市場命題ではないっていう。
いい写真を撮りたいとか目的地に行きたいじゃなくって、それはあくまできっかけでしかなくって。
写真を撮るとかそこに行くっていうこと自体が主体というか、それをやってる自分の面白さを見つけたい。
で、それはそんなに人にアピールしたらそんなに面白くないとは思うんですけど。
目的と自己発見の旅
いやーでもなんかこれ自分だけが面白いと思ってるなっていうのを面白がるというかっていう感覚はあるなと思って。
結構言葉にするとシャラ臭く感じちゃう部分もあると思うんですよね。
だから、だから一人なんですよ。それを人に見せたいわけじゃないっていうか。
エピソードトークがもちろん残ったりはして、人に話して面白いってなったりするし、そういうエピソードトークが欲しいっていうのはあるんですけど。
同時に絶対これ人に関しても面白くはないよなみたいなことを、自分だけがこの瞬間面白がってるみたいなのを重要視してるところがあるというか。
実際あの雪山の中の宿で寝てるとき、今は自分何やってるんだろうってなってると思うんですよ。
自分の脇で帰ってると思うあれは。
そう、そうですね。
食べる瞬間ありますよね、あれ瞬間ね。
いや、めっちゃある。ほんとに。
野宿してる時とか、もうしんどくって体バリバリになるから早く寝ついてくれと思ってるんですよ。
寝たらこの地獄から解放されると思いながら、必死で寝ようとしてるんですけど。
それをちょっと遠くから自分が見てて、なんかバカなことしてるっていう映画を見てるみたいな感じもあるというか。
っていうのはあるかなとは思いますかね。
なるほどな。今回の映画と今の話を通じて旅の楽しみ方じゃないですけど、ちょっと分かった気がしましたというか。
旅出たくなりました。
精神18キップ。この年から結構しんどいですけど。
しんどいっすよ、あれ。
この年でやるのな。
若いうちにやっとけばよかったなって思いますけど。
でも、今回の旅と日々を通じて、本当に旅行した感覚というか、豊かさであったりとか、史上ポエティックな感じとかってすごい感じられたので。
本当はもっといろんな場所に実際に行ってみるが本当は旅行なのかもしれないんですけど。
僕の中でもやっぱり映画を見るっていうのは一つの旅行だなっていう感覚はやっぱりすごいあるなとは思ってはいたので。
やっぱり映画というので、いろいろ空想の世界から現実の重たい部分の世界まで含めてですけど。
そういったものを通じて、映画を通じて僕は旅をしているなっていう感覚のこともすごい改めて思ったりもしたので。
あとは実際に足を踏み出すだけかなという感じですかね。
映画でも、いわゆるハイコンセプトと言われているような映画とソフトストーリーと言われるような映画ってあると思うんですけど、
それぞれ全ての瞬間のゴールが明確な映画と、その場面場面の目的が明確じゃない映画ってあると思うんですよ。
それってまさに旅においても言えるというか、全ての瞬間が目的地に行くためにある旅と、
目的地に行くっていうことを目的としていない旅っていうのはあると思うので、
まさにこの映画とかは後者っぽさはありますよね、それは。
この瞬間の意味がよくわからないみたいな映画ってあると思うんですけど、
当然旅においてもそういうものもあるっていうことだと思うんで、
映画見てる時点でそもそも旅の所有はあるんじゃないかなっていう気はするんですけど。
そうですね、そうかもしれません。
そもそも次のお便りちょっと行かないと。
そうですね、すみません、めっちゃ話が盛り上がってしまった。
じゃあマリオさんお願いします。
Kさんからいただいてます。
稽古や夜明けのすべてを見てきた成果、
16mmとは違うおそらくデジタルのパキッとした画面に結構違いを感じました。
日本が舞台ながらも韓国人の主人公がモノローグで韓国語で考える時に字幕になるので、
その時の感じ方がだいぶ文学的なものに思えました。
前半の先生が亡くなった後に双子の弟が出てくるところや、
後半雪国への旅で帽子が飛んだり、
宿のおじさんでのやり取りなどにはどこかおかしみを感じられました。
今までの作品の環境音とかもよく入る中、
雪国のところでは喧騒がなくおじさんの作業の音がただ聞こえてくるというのも、
内静的にどんどん向かわせて憂鬱になっていきそうな感じがあるのに、
どこか楽しいやり取りだった。
同じことを繰り返している日々にも、
どこか思いがけない旅をするような気持ちを持ちたいと思いました。
ありがとうございます。
ありがとうございます。
ここにも書かれてましたけど、モノローグであったりとか、
僕結構冒頭が印象に残ってるんですけど、
ハングルで脚本を主人公が書いていくときのリズム感の良さ。
鉛筆でノートに文字を書くっていうものの音楽性みたいなものが結構心地いいなと思いながら最初見てたんですけど、
本当にさっき文字というか言葉からある印象、解かれていくっていうのは後半で描かれていく中で、
前半は言葉で考える面白さみたいなものも実は描いてはいるんだろうなっていうのは見ながら思ってはいて、
その辺も結構見てて、あんまり見たことないなと思ったので、面白かったっちゃ面白かったですね。
言葉にならないものを味わうみたいな映画ではあるんですけど、
一方で言葉にすることもすごく大切というか、
それはそれですごく、それもまた豊かであるって言ってくれてるような感覚はすごいあったというか、
結構そのものズバリいいパンチラインで言葉を紡いでくれてるからそう思えるっていうのはすごいあったかなとは思いましたね。
それこそ本当に主人公のモノローグでのちょっと自分の言葉にある種限界を感じているというか、
言葉ではないものの方がどんどん自分の描いたものより素晴らしいんじゃないかというか、
言葉にガンディガラメになってるんじゃないかみたいな感覚を結構ちゃんと言ってくれてたなと思っていて、
その感じをすごく説明的でもなく、ただ気持ちの表現としてすごく染みるような形でセリフが紡がれていたなという感覚があって、
なんかあんな絵はすごく印象に残る一連のモノローグだったなっていうふうには思いましたね。
確か主人公が自分の部屋で語ってるところで、
最初の感情が全部言葉になってしまったみたいなことを言ってたような記憶があるんですけど、
なんかそんなこと言ってましたよね。
なんかそんな感じのこと言ってましたね。
結構わかるなって気持ちもありつつ、ちょっと言い方難しいんですけど、
言葉にならないことと言葉にできることを両方合わせ持ちたいって言ったらいいんですかね、感覚として。
だから旅に出たんだろうなとも思うんですけど、
自分の言語に収まっていない体験を自分の中に授与したいっていう感覚なのかなって気もして。
僕、言語化好きな人なんですよ。すごい言語化好きな人で。
でもちょっと人と話ししてて、言語化しちゃうと余白がなくなってつまらなくなっちゃうというか悲しくなっちゃうみたいなことを人から言われたこともあって、
わかるかなとも思いつつ、僕、自分が言語化した程度ではこの世界とかこの自分のことを語り尽くせるはずがないから、言語化に勤め続けていいと思ってるんですよ。
言語化もまた旅じゃねってちょっと思うというか、どんなに言葉にすることに尽くしても絶対届かないから、逆に安心していくらでも言語化していいんじゃないかなって思ってて、
絶対届かないから。
それ似た感覚を土屋さんも実は話してて、土屋さんは逆なんですよ。絶対届かないからじゃあ言葉にしないっていうタイプなんですよ。
それを言葉にして届かないんだけど、それである種思考停止になってしまうことが怖いから、じゃあ言葉にせずに考え続けた方がいいって彼は言うんですよ。
なるほどな。どっちも正しいというか、一理あるなって感覚はすごいあるんですけど、
こういうラジオやってる時点で我々言語化好き人間であることには変わりないんですけど、
僕とかクロスレイムとかで感想を書いたりとかもしてるので、やっぱり言語化っていうのはすごく大事というか、
思ってはいるんですけど、一方で言語化してたらチンプになるというかっていう感覚というか、
あと思ったように人に受け取られないっていうこともすごいあるじゃないですか。
そこがすごく悲しいなとも思うみたいな感じがあって、
それこそ前ラジオで喋ったドリームズって映画がすごいそれをしっかり描いてた映画だったなっていうふうな感覚があったんですけど、
今回の旅と日々に関しても言葉にすることの限界。
でも言葉にしないとやってけないというか、したい自分もいるというか、
言語化の重要性
その辺のジレンマというか気持ちの行ったり来たりみたいなのを描くっていうのはすごく今っぽいというか、
都画言語化って僕らに限ったことじゃないんですけど、言語化が史上主義感がすごい強いじゃないですか、やっぱり。
ライサンされてる感じありますよね。
僕らもそこに乗ってはいるんですけど、果たしていいのかっていうと、それはそれでちょっと違うよねって感覚もあるじゃないですか。
そういったことに対して映画からもそういう葛藤というか、疑問みたいなのを投げかける作品が今んとこ僕の中で2本ですけど、連続してきてるっていうのは、
現代社会、言語化にどう向き合うかっていうのとかは結構みんな考えてるんだなっていうふうにすごい思ったんですよね。
いやー、言語化の定義が多分違うと思うんですよ。多分。
世の中で今、ライサンされている言語化って、言い尽くせている、語れている、正解を出せているっていうことに対する欲望の現れだと思うんですよね。
正解を引けている俺が欲しいみたいな。だから言語化が推奨されているのかなと思うんですけど。
絶対そんなこと無理だから何本でも語ろうぜっていうものかなって思って。
世の中の真実とかじゃなくて、自分でしかないと思うんですよ。言語化なんてどこまで行っても。
自分が言ってることをどこまで出せるか。今この瞬間の自分の言葉をどこまで出せるかでしかないから、世の中の真実なんて絶対届かないし、それは正解でもなんでもないっていう。
僕はその意味では世界をすごい信頼しているなって思います。絶対に自分が正解を引けないから、いくらやってもいいっていうぐらいには思ってて。
それはもう絶対に自分の言葉でしかなくって、誰かにとっての正解なんか絶対ないぞって僕はかなり信用してると思います。世界を。
対話と理解の難しさ
たしかにたしかに。多分ドヤさんが恐れてたり、あるいはマネさんがさっき言った、誤配層というか誤読というかっていうところって、世界が自分を間違って捉えるという怖さだと思うんですよね。
あるいは自分自身がそれを受け取られてしまったことによって真実にしてしまう怖さというか、思考停止は本来できないものなんだけど、
でも世界側がそれで解決ということにしてしまったら、自分の思考が止まってしまうんじゃないかっていう恐怖だと思うんですよ。
それに対する山口さんのラディカルさというか、いやいや世界はどうもけど自分の言葉ではあるっていう結構軸あるなっていう話を聞きながら僕思ったんですけど。
そうですね。だからそういうちょっと僕が喋ってるのは不安というか、みたいなこと。もちろん山口さんが全くそういうことを感じないわけではないんでしょうけど、
あまりそこにこう、そうじゃないだろうみたいなところに強く言い切ってくれるところがすごいなというふうには思いますし。
そうですね。だからちょっとドリームズのラストとかも、なんて言うんでしょうね。言葉にしたことでなんか違ったなって。
結局それって読んでもらったときに自分の体験というか趣旗というか思ったことを趣旗にしたものを両親とかに読んでもらうんですけど、
それで両親というかおばあちゃんとかお母さんとかに読んでもらうんですけど、やっぱりちょっと捉え方がどうやら違っていて、
なんか肩に当てはめられていく感覚があって、自分がそのとき感じた気持ちじゃないものになっていく感覚みたいなのがちょっと趣旗に中では発生しちゃうみたいなふうにはなってしまうんですけど。
でもそれも悲しいことでもあるけど、けどそれはそれで心地よくもあるというか、きちんと対話のもとにそれがされてるから、それが決して嫌なもんじゃなかったりするというか。
そういうふうな描き方はされてはいるので、僕自身もそこが不安だなという感覚はあるんですけど、それはそれで僕いいことかなともちゃんと思っているというか。
そうっすよね。だから言葉って、僕も結構言語家派、それこそ土屋さん多分その話を一回ラジオの回で何回かやってると思うんですけど、めちゃくちゃ言葉にしたいタイプだし、言葉として考えたい。
多分思考が言語であることも大前提としてあると思うんですけどね、ビジュアルというよりも。
だからっていうのもあるんですけど、言葉では表現しきれないっていう山口さんの意見、僕も結構似たことは感じつつ、言葉で表現して、それで表現しきれないものっていうのをどう余白に詰めるのかというか、
言葉の外側にそれが詰められるのかというか、圧縮できるのかっていうのは考えてる気がするというか。
多分それが映画という映像手段であったりとか、あるいは文学における答えを出さないところというか、余白として残してあるところとかだったりするんだろうなと思うんですけど、
表現することっていうことなのかなっていう、すごい総合して言うと、言葉にすることも映像にすることも写真を撮ることも含めて、自分のインプットしたものを世の中に表現するということの指摘性というか、それによって自分を保てるっていう、そこなんだろうなと思って、場合って。
映像表現へのアプローチ
なんで、しゃべれない人も多かったら絵を描いたらより解像度が高いところで伝えられるかもしれないし、なんかそういうところは、実は言葉だけじゃなくて人によっては様々な手段があるんだろうなーっていうのもちょっと感じたりはしましたね。
そうですね。いろいろ本当表現ある、それがその人にとっての自己実現じゃないですけど、自分の生きる証みたいなのが残るじゃないですか。なんかしらみんなそういうのしたいし、なんかしらやれてると思うんですけど、とかく言葉が優位すぎるっていう感じがね、ちょっとこう、それはそれでよかったんだっけみたいなふうには思うっていうのがあるんですかね。
その、現代社会の多分システム側のバグというか、そんな気はしますけどね。単純にその、自制的に言葉が優位なだけなのかもしれない。
まあ、それはそうですよね。嫌な言い方すると、言葉をハックすると勝てちゃうんで。
そうですね。だって、それこそこれ、ゆる言語学ラジオって大人気のポッドキャスト、YouTubeがありますけど、そこで確か1回ビジュアル進化っていう本を取り上げて、その話をされてたことがあって、もし今僕らはある意味言語化がある程度できるというか、好きでやってる人間ですけど、絵を描くことがコミュニケーションのメジャーだったとしたら、自分たちはマイノリティになるぞって話をしてたりして。
全然その世界ってあり得るわけじゃないですか。
そうですね。
そう。ってなった時に、ああ、なんかそのイフの世界、イフというか全然あり得た中で自分たちが言葉っていうのを今、言葉扱えてるってことで優位というか、ちょっと面白く喋れてることのなんか優位性みたいなのを感じてるけど、それは運なんだろうなっていう。
はいはいはい。
で、当たり前のように言葉で表現できないことってのはあって、それを僕らは逆に失ってるんだろうなっていうのも同時にその時に思ったんですよね。
だから言葉じゃない表現に触れたいからこそなんか映画見てるとかいうとこもちょっとあるような気はするんですよね、やっぱり。
それを言葉にしてるのはある意味野暮なのかもしれないんですが。
まあまあ、ずっと野暮なことし続けてきてますけど、そういう意味では。
それはそれでですけど、やっぱりそこに本当に言葉じゃないやり方であるポエティックというかリリカルなものをちゃんと実感できるみたいな。
そういう映画、今本当に旅と日々っていう作品はそうなっていたとすごく思ったんで。
だからよりちょっとそういう言語化とか表現ってなんだろうみたいなことをやっぱりちょっと考えたくなるみたいな映画にはいってますよね。
だから僕らは言葉で喋れるからこうやってラジオでアウトプットしてますけど、きっと映像で撮ったりとかストーリーに起こしたりとかっていうほうが得意な人にとってはきっとじゃあ映画撮ろうってなるんでしょうね。
そこって逆にですけど、世の中でどっちが有利だからどっちをやるとかってことでもないんじゃないですかね。
自己表現の旅
言語化が有利だから言語化をやってるとかじゃなくて、ビジュアル化が有利だからビジュアル化をやるとかじゃなくて、別に言語化したら勝てるから別にやってるわけじゃないとは思うんですよ。
ビジュアル化に勤めてる人もビジュアル化では勝てないと分かっててやってるとかじゃなくて、ただ言葉にしたいだけ、ただ筆を振るいたいだけなんじゃないかなと思って。
別にそれで真実を語りたいとか究極のビジュアルを具現化させたいとかじゃなくて、言葉にするのが好き、筆を振るうのが好きっていうだけなんじゃないかなと思うんですよね。
なんかそこで言語化するのが野望とかっていうのもなんか逆に違うんじゃないかなと思って。
なるほどね。
だから旅をするために歩いてるのと言語化してるのって何が違うんですかってちょっと思うんですよ。
言語化じゃないものだから逆にすることってそういうことでもなくないと思って。
だからただ電車に乗ってるだけとかも表現なんじゃないかなと思って。
それだって自己表現じゃないですか。言語化もそうだしビジュアル化もそうだし、すべての行動は自己表現なんだから。
逆になんか言語化が野望みたいなことを言うのもなんか違うんじゃないかなって気がするんですよ。
はいはいはいはいはい。なるほどね。
いいじゃん別に言語化したって。それで語尾されたってしょうがないよ。
別に何やったって語尾はされますよ。ビジュアル化したものも誤読されるし、自分の行動も全部なんかあの人変なことしてるわって思われますよ。
それは別にそれが言葉だけなんか変にヒゲしなくても良くないって思うんですけど。
なるほどなるほど。
いいじゃん別に。なんかちょっと僕あの言語化ヒゲ逆張りちょっと世の中にあるじゃないですか今。
言語化が崇高であるっていうものに対して、いや言語化ってそこまでじゃねえみたいなのに対して、もう一回僕はそれに逆張りします。
複雑だな。
強いな。
でも言わんとしてることは分かります確かに。
そうっすね。
言語化も旅なんですよ。別に目的地目指して行ってるんじゃなくて、言語化するのが好きだから言語化してるだけなんですよ。
確かに僕らのこの映画談義って割と散歩ですもんね。
確かにそっか。
そうですね。喋りたいからこういうの喋りたいこと喋って、そっからまあいろいろこう、あるあるところに行ったり、全く全然ドライブしないなみたいなこともありますけどみたいなことを楽しんでいるというか、ってことですよね。
台本もあるようでないですからね。
そうなんですよね。
ないですね。ほぼないですからね。出たとこ勝負で喋ってますからね。
いやー、うん、なんでしょうね。だからその、切り分けんの違うなっていう。その目的があるものと目的がないものを切り分けんのも違うし、言語化と言語化じゃないものを切り分けんのもなんか違うなと思って。
もう全部旅です。はい。全部旅です。
全部旅と日々だと。
このラジオまた旅と日々であるしっていうか。
いや、それはほんまにそうだと思ってますよ、それは。
まあそれは確かに。
そっか、いやだから結構、僕のその旅の考え方とか言語化するということの考え方がちょっとやっぱり凝り固まってたじゃないですけど、その視点あるわみたいな、ちょっとすごい今回気づかされました、ほんとに。
うん、そうですね。
だって映画見て喋るときに目的地決めずに今ね、だいたい喋りますからね。
うん。
ほんとこれ言ったろうとか思ってあんま映画館出たことないもんな。
そうですね、まあ思ったことはこれだなぐらいしかざっくりとしか用意はしてこないんで。
そう、だからどこに行けんだろう今回って毎回思いながら話してますもん。
そうですね。
今日とかもどこ行くんだろうなって思いました。
そう、ちょっと不安でしたよね。
なんかこんな感じのことをみんな喋りたいな、聞きたいなぐらいはありましたけど、なんか映画の話、この映画の話してたかどうかよく今日わかんないんですけど、まあ僕は話しかったからいいやって思ってるんですけど。
まあでも、旅と日々の本質は多分そこにあるからなっていう。
同時に今日の僕の喋りはレトリックでしかないとも言えるんですけど。
また、そんな自分でそこにまた戻るみたいな。
レトリックもまた旅なんです。
もう全部考え直すと言えば。
なんでもそこに回収できてる。
こういうの旅やんみたいなことは言わんやんみたいになりますけど。
はい、まあこんな感じでいいんじゃないでしょうか。
はい、ではそんな感じで旅と日々の話を終わっておこうかなと思います。
ではお知らせになります。
映画の話したすぎれば次回開催日は12月20日土曜日の予定です。
場所は大阪南森町週刊曲がり19時オープン23時クローズです。
またこの番組ではお便りを募集しております。
番組全体やトークテーマ作品に向けてご自由にお送りくださいませ。
場の最新情報、次回テーマはXおよびインスタグラムにて告知しております。
各ご案内や番組説明文をご確認くださいませ。
それでは映画の話したすぎるラジオ第239回旅と日々の回を終わりたいと思います。
それではまたお会いしましょう。さよなら。
さよなら。
01:04:47

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