始まりました映画の話したすぎるラジオ第240回になります。この番組は大阪で映画トークバイベント映画の話したすぎるBARを開催している店長メンバーらによる映画トーク番組です。
私、映画の話したすぎるBAR店長の山口です。
マリオンです。
大石です。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
お願いします。
はい、初めにちょっとお知らせありまして、この回配信が12月入ったタイミングになるんですけれども、今年もですね、2025年の年間ベストの投票を募りたいと思っております。
はい、2025年の公開あるいは配信の作品から1作品だけ選んでお送りいただけたらと思っております。
はい、もしよかったらコメントも添えて送っていただけたらと思うんですけれども、締め切りが12月25日中に投票いただけたらと思っております。
はい、また我々の年間ベストと含めて、この番組としての2025年ベスト映画を決めれたらなと思っておりますので、よろしくお願いいたします。ということで、はい、では近況の話し入っていきたいと思います。
マリオンさんいかがされていました?
そうですね、映画自体は結構いろいろ見に行ったんですけども、果てしなきスカーレットとか、ブルーボーイ事件とか、あとスプリングスティーン、孤独のハイウェイとか、いろいろ見ていったんですけども、僕はその中でもブラックフォン2が話したくて、
ブラックフォン2、いい映画なんですよねーみたいな。いい映画っていうかやっぱり、そもそもまずブラックフォン前作、めちゃくちゃ面白かったじゃないですか。
めちゃ良かったです。
そこはちょっとホラーではあるんですけど、ちょっと趣向が少し変わったかなって感じではあるんですけども、でもやっぱなんか演出というか、いいし、やっぱりあの登場するイーサンホーク演じる殺人鬼ですよね。
あいつの存在感がね、すごくいいっていうことに尽きるなというふうに思いました。
今回、一応ストーリー的には若干前作のネタバレみたいになっちゃいますけども、続編、今回の続編はイーサンホーク演じる殺人鬼が怨霊となって出てきますと。
なるほど。
という感じなんですよ。で、その主人公だった少年がもう今は結構立派な青年になって、妹の方も、予知無というか、見れた妹がいたと思うんですけど、彼女もちゃんと成長してティーンエイジャンになってっていう感じなんですけど、本当に憎々しく思っているわけですよ。
イーサンホークからすると。そんなイーサンホークがですね、「復讐をしてやるぞ!」みたいな感じで舞い戻ってくるというか。ただの暴力野郎だったわけですけど、なんだかんだ怨霊として残るまでには、いろんな人に業を背負わせている男であったっていうことがわかるという感じなんですけども。
で、今回は妹の方ですね。予知無を見れる。にも牙を剥けようとするみたいな話になってくるって感じなんですよね。まずね、イーサンホーク演じる殺人鬼なんですけど、こいつすごくいいなって思ったところがありまして、怨霊になったわけなんですけど、襲い方がやっぱり暴力しかない男だったっていうところがすごく良くて。
音量とかになっているので、いわゆる超自然的な能力というか、スーパーナチュラル的な怪現象みたいなのを起こすみたいなことをするのかなって思ったんですけど、目の前に現れたらちゃんと斧を持って、夢の中の概念としての斧を持って、相手に襲いかかってくると。
で、こいつ死んでも非禁な暴力でしかやってこないんだなっていうあたりに、こいつなりの美学と言いますか、美学というか想像力の無さなのかもしれませんが、そこにこだわっているとこすごくいいなと思いまして、それだけで結構こいつやるじゃんと、謎に僕は壺に入ってしまったというか、感じになってしまって、ちょっともうこのキャラのことがより良い存在だなというふうに思えたというのが。
もうこの映画を見てよかった理由の一つですね。もういいですよ、もう暴力しかやらないみたいな。幽霊になっても君は暴力なんだねみたいな。その存在感がすごくまず良かったっていうのが1個と、あと演出がすごく良くて、夢のシーン、妹が夢を見ているシーンがあるんですけど、夢の中でも入り込んじゃって、なんかちょっと夢遊病みたいになってるんですよね、いわゆる。
で、夢を見てる時にルックがフィルム調になるんですよ。まずそのフィルムの質感がまず良いっていうのもあるし、で、そっからシームレスにちょっと夢遊病みたいになっちゃってるので、そこから、おい起きろ起きろってこう主人公というかお兄ちゃんに揺さぶりかけられると、いわゆる普通のデジタルな画面に戻っていくみたいなシームレスにっていう、まずこれが良いですよねっていうのがあって。
フィルムの質感とプラスの編集の畳みかけ感とかもすごく良くて、これがまずかっこいいじゃんっていうのが1つと、あと長回しである講習電話みたいなところ、結構何回も出てくる場所があるんですけど、そこにこう死者からの電話がかかってくるんですけど、前作と同様にですね。
それを撮ると、周り一面雪、雪原味というか真っ白な銀世界みたいな感じなんですけど、画面がぐるっと回って、カメラがぐるっと回っていくと、その白い雪景色に残りポツンと謎の人影味というか、出てきてみたいなのが、ポツンポツンと出てきてみたいなのが、まずそこかっこよすぎるでしょみたいな。
演出としてこうゾワッとするというか、そういう気の利いた演出がね、しっかりと行き届いていて、本当に良いホラー映画だなというふうに思ったという感じでした。
前作、我々結構好きやったじゃないですか。ただよくできた1だったから、2あるんかみたいな思いはあったんですよ。そもそもあいつ死なかったっけみたいな、死んだやつ出てくるのかよって思ってたんですけど、よく考えたらこの世界そもそも幽霊おったわと思って。
そこは別に全然おかしくないなと思ったんですけど、話聞いてて思い出してたのは、エルム街の悪夢を思い出してたんですけど、あれも元々クッソゲッスイ殺人鬼だったのが、フレディとして蘇って、そもそも名前フレディだったか。
怪異として蘇って、夢の中で人殺ししていくって話で、そのエルム街の悪夢の1を2でやったみたいな感じなんかなってちょっと思ったりしたんですけど、ゲッスさも共通してるなと思って。
そうですね、確かに。でもフレディってもうちょっと自分の能力というか、ちゃんと超自然的なというか使ってくるじゃないですか。イーサン・フォークは違いますよ。もう暴力してしかないですよ。えらいですね、みたいな。
なので、あとフレディとかも近いんですけど、今回もちょっとやっぱりスティーブン・キングみのあるものにはなってるので、やっぱり近いのはあとあれですよね、ペニー・ワイズですよね。見てくと本当に途中からね、ペニー・ワイズっぽくなると言いますか、天末がですね。
そういうのがありますので、そういう意味でもちょっと近いというか感じがするんですよね。けど、ペニー・ワイズはもう本当に超自然的な存在っていう感じでしたけど、イーサン・フォークは違いますからね。もう血肉の通った暴力をするだけの男という。
ペニー・ワイズって子供がいなくなることへの恐怖そのものの概念みたいな感じで見てるというか、イットっていう話自体がそういうものとして見てたんですよね。
やっぱりそのペニー・ワイズ自体は超常的なものとしてあるから、ある種の概念みたいな、象徴みたいなものとして見てたりはしてたんですけど、ブラックホーンのあいつってもう何というか、ただの一犯罪者の範疇を超えれないから、それがまあいいとこでもありますよね、このシリーズの。
そうなんですよね。
いい意味で血に足ついてる感じというかね。
そうなんですよ。その存在感がもう好きですという感じですね。もちろんその主人公側の話ももちろん素晴らしいんですけどね。やっぱりものすごいトラウマを植え付けられてるので、そことの正念になってもまだちょっとその影にどこか怯えてもいてどこか強がっているみたいな、どう乗り越えていくのかみたいな話にもなってるので。
そういった意味でもすごく、ドラマもすごい見どころある映画になってたので、ぜひぜひみんな見てくれみたいな。もうこいつは暴力しか振らない男なんだっていうことをね、肝に銘じて見に行っていただけたらなと思いますね。はい、今週はこんな感じです。
はい、オイさんいかがされてました。
今週は2本見てましてですね、まず1つ目が落下の王国4Kリマスターを見てきました。で、本当にこれ関東でやってる劇場がちょっと思ったよりも少ないっていうのもあって、ほぼほぼ劇場満席なんですよ。
すごいですね。
僕見に行った回も多分全部売れてたかな。てかみんなどこでこの作品知るんだろう。しかも年齢層も本当に小学生で親子できてる層から20代30代50代おそらく当時見られた方までかなり幅広くてですね。
こんな映画を、この映画をここまで見られるというか認知があるってこと自体にまずちょっと僕びっくりしたんですけど、僕そろそろ山口さんが石岡英古展のお話をされた時に初めて知ったぐらいだったので。
で実際見てみたんですけどね、美しすぎるおとき話。ほんとずっと、わー綺麗っていう。何なら本物の世界遺産にとってますもんね。映画ってここまでできるんだっていうのをちょっとやっぱり度疑問な顔されましたし。
あとはその、まあもちろんこれは言わずもがない石岡英古さんが全てスタイリングした衣装のアイデアというか見事さはもう語る言葉を持たずというかもう見れば一目瞭然でわかるという。本当になんか見てて目が楽しい映画ってこういうことだなっていうのをすごい思いながら見てました。
でそれこそお話自体はある種おとぎ話、本当に病院の2人のちっちゃい女の子と青年、ちょっと既視念量を持ったスタントマンの青年、スタントマンであった青年がこう、彼がある種自殺をしようとして薬を取りに行かせるために女の子に物語を語るわけですけど。
この映画、なんで落下の王国、もちろん最初語り部であるスタントマンが落下するところから物語が始まるって意味で落下から始まる王国って意味でもあるんだろうなと思ってたんですけど、まさにその本作のラストですよね。で見ててすごい不思議だったんですよ、この映画。
なんかやたら途中、語り部であるスタントマンの彼の精神状態もあって、物語、おとぎ話中の物語の主人、登場人物が本当あっけなく死んでいくんですよね、バタバタと。不思議なぐらいあっけなく死んでいくんですよ。
で、まあもちろんそれは彼の精神状態っていうのを表しているというふうにも捉えられるような気もするんですけど、なんかラストシーンを見てすごい腑に落ちたというか、ラストシーンってそのハリウッド黎明期の映画のスタントシーンがこう重ねられていくというか、短いショットでつながって、それでエンディングを迎えていくんですよね。
で、それこそこの映画の冒頭、語り部である主人公がある種事故を起こしてしまうその落下シーンっていうのは、その後劇場というか病院でその映画が公開されるシーンがあるんですけど、そこではカットされてる。ほとんど映ってないんですよ。
で、それを見てそういうことかって思ったのが、そのハリウッド、特に黎明期におけるそのスタントの危険さと、でもそれでもそこに映画っていうものを信じて名もない、名もなく、何ならエンドクレジットにも残らないかもしれない形でスタントをしてきたスタントマンたちへの敬意の話だったんだ、これはっていうふうに結構僕は解釈していて。
だからこそ、そのハリウッドの映画であれば死なない主人公たちっていうのが、この彼の物語の中では簡単に絶えやすく死んでいく。でもそういう名を残せなかった人たちを主役にした話が彼のおとぎ話だったんだっていうふうに解釈すると、ああなるほどそういうことかっていうふうに結構踏み落ちる部分があって。
そういう落下、ある意味スタントをしてきた人でスタントマンたちへの敬意であり感謝であり、あるいは哀悼なのかもしれないっていうふうに思うと、すごいこの映画自体に込められた思いみたいなものをすごい美しい、もちろん残酷でもあるんですけどね、美しいものだなというふうに感じたので、そういう意味ですごい結構ラストの底まで見たところでちょっと泣きそうになったというか、すごいもの見たなっていう感じになりました。
僕もちょっと見てきたんですよ。僕は劇場公開当時に見てて、久しぶりに1回だけTSUTAYAで借りて見てたのかな。だから人生で3回目今回見たんですよね。
で、一番初めに見た時にあれってなってたことがあって、ラストでその主人公のロイっていう元スタントマンの彼が復帰してるのかなっていうふうな捉え方をしてたんですよ。
でもあれ復帰すんの無理じゃねってなってて、こううまく咀嚼できてなかったんですよ。で、もうその見る機会も全くない映画だから、なんで復帰できたのかなみたいなのをよく分からなかったんですよ、ずっと。
で、今回見てようやく腑に落ちたというか飲み込めたんですけど、これって要は同じような人がたくさんいたっていう結論で終わってるなっていうのが結構強烈だなと思って。
あれ、だからあの先を描いてないんですよね。彼の人生のあの先を描いてなくって。で、それって映画には刻まれているっていう救いでもあるんですけど、でももう名もなきものとして消費されていったっていう悲劇でもあるから、結構ものすごい両面を持った終わり方だと思うんですよね、あれ。
すごく残酷、救いでもあるんだけど強烈に残酷でもあって、そこがなんか筋が通ってなさすぎて僕は復帰できたと解釈してたんですよね、ずっと。
そうですよね、それこそお話を聞く女の子はおそらく復帰できたと解釈していたし、僕はむしろ彼女って映画をこれまで見たことがないっていう設定が確かあったかと思うんですけど、おそらくあの病院で初めて映画というコンテンツを触れて、その後に多分映画を見るようになったんだと思うんですよね。
ときに公開年代とか全くわかんないものを映画を見たら、ロイが現役だった頃の映像を偶然見ちゃったぐらいなのかなってちょっと思っていて、それを時系列として彼女の中では復帰したんだと解釈したっていう。だからまさにその残ってるっていう救いでもあり、消費されてるという呪いでもあるというか。なんかその両面だと思うんですよね、あのラスト。
だからまあそれも含めてその物語の両面性を描いてたなとは思ったんですよね。で、主人公のアレクサンドラにとってもロイにとっても物語っていうのは必要であったんだけど、もう2人ともものすごい過酷な人生を送ってるんで。
物語がなければ救いなんてないじゃんっていうのはあるんだけど、同時にその物語もまたその残酷すぎる側面を帯びてしまっているっていう、ちょっとそのよしよしを超えちゃってるなとは思って。ちょっと改めてむちゃくちゃ嫌な話でもあるし、僕はその嫌さが改めて好きだなぁと思ったんですよね。
だからこそあれだけ美しい映像というか衣装なんだろうなっていう気がして、その毒を持つ生物が鮮やかであるのと同じように、やっぱり魅力的なものっていうのはそのと同じぐらい毒性を持ってるってことだなと思うんですよ。
そういうもの、物語とは美しくもあり残酷でもある。それは物語の中ではなく外側にその残酷性が秘められている。でもその美しい物語は人間が生きることって必要であるっていうその了義性がやっぱり見事に刻まれてるなというふうな感覚になったので、なんかそういう意味でちょっとすごい映画体験をしたなっていう感覚になりましたね。
同時にすごい生命力に溢れてる作品だなと思って、描かれてることは死の匂いがプンプンしてるんだけど、ただ映画そのものからものすごい生命力が伝わってくるんですよね。
そうなんですよ。そんなことできるんだっていうね。だから、生きることの複雑、複雑さっていうとすごい簡単なことになっちゃうな。でも、了義性だなっていうふうに。だからそれを両方を捨てずに最後まで走り切ってる映画だな。ある意味最後にそれを判定させてみせてるような気もするんですけど。
なので、なんかいい映画見たなっていう感覚はしましたね。この映画は。っていうのがあらかの僕の感想なんですけど、あともう一作品見てて、これもほぼほぼ満席で見たんですけど。
女性の休日っていうドキュメンタリーを見まして、ちょうどこれは50年前1975年にアイスランドで起きたデモ運動って言えばいいのかな。ファミニズムにおけるデモ運動なんですけど、そのアイスランドにいた女性の90%以上がある1日勤務であったり、あるいは家庭のケアっていうところをしない。
で、集会に集まるっていうことが実際に起こったということを描いたドキュメンタリーで、50年前、今アイスランドって多分ジェンダー指数で言うとほぼほぼ世界1位の国になってるんですけど、50年前はもちろんそんなことはなかったわけですよ。
ほとんど今の日本的活調性も非常に当たり前のようにあったし、っていう中でレッドストッキングっていう、いわゆるサハ的な女性活動団体っていうところがある種発端になって、ストライキをしましょうと。
そういうことで自分たちが存在していることの重さであったり、あるいは給与の価格観みたいなもの、あるいは評価のされなさみたいなものを、おかしいでしょっていうのを私がいなくなったらどうなるかっていうのを確かめてみましょうよっていうのを実際に実行したというのが女性の休日なんですけど。
この映画見ててすごい政治ってこうだなっていうふうに思ったのが、最初サハ団体、女性たちのその女性の日、国際女性デーっていうのが国連で示されて、その時にいわゆる女性活動家、それはウハ、サハ両方とも込みで集会をするっていう機会があって、そこでこれをやろうっていう話になるんですけど、最初サハ団体が掲げたのはストライキをしましょうっていうふうに言ったんです。
この〇月の〇日にストライキを実施したい、つまり自分たちがどのぐらいの社会における存在、家庭における存在かっていうのをしっかりとアピールしたいと、なのでストライキを実行しようって言ったんですけど、それに対してウハ団体、ウハ的の女性団体が、いやストライキってのはあまりにも強すぎると、響きが強すぎて自分たちはそこまで参画はしたくないっていうふうに、結構そこでまず揉めるっていう話が流れてくるんですよね。
そこでとあるご老人がツカツカと前に出てきて、いやストライキじゃないんだって言って、デイオフ、休日なんだっていうふうに言い換えることで、休日ならいいわって言って、ほぼ90%の女性が参加できるっていう状況になってくっていう、いやー政治だなーと思いまして。
すごいですね。言葉の言い換えでそれを持ってきますみたいなのって、よくありますよね。 そうそうそう。でもそういうことなんだなーっていうのすごいなんか腑に落ちたんですよ。あまりにそこに政治的というか思想的な色が出てしまうと、やっぱり参加しづらい。自分の思想と反するから。でも全員が参加しないと意味がない何か社会の運動というか、社会運動があったときに、そこをどう響きの中でマイルドにしていくかっていうところ。
そこのなんか落としどころみたいなところをどうするかっていうのがすごい、もちろん現実これも起こったことでもあるので、すごい納得したんですよね。なるほどな、ストライクを休日と置き換えればそういけるのかっていう。ちょっと面白かったのは、基本この映画ってどちらかというとそのレッドストッキングに参画していた人たちに取材をして撮られてる。彼女たちのインタビューがメインなので。
その人たち、50年前、今本当に皆さん良いお年、良いご年齢になられて、しかもその後結構本当にアイスランドでの女性の地位ってどんどん上がってたんですよね。女性大統領が出てきたりとか、女性政党ができたりとかっていう形で。
しかもそこの主要人物になっていった人たちに取材してるんですけど、その人たちがまだ新鮮に怒っているっていう。あれはストライクだった、休日じゃねえっていう。すごいなーって思いながら、なるほどなっていう。そこもちょっとおかしみもありましたし。
でもそれで結局実行できて、いまだにこれって何年に1回というか、何か女性的なフェミニズム的な問題が浮かび上がってた時に、じゃあやろうって言って結構開催されてるイベントなんですって。っていうぐらい定着したっていうところもあるし、そこから50年間継続したわけですよね。
という中で、やっぱり男女の格差の地位がここまで、もちろんアイスランドという国の特性というか、めちゃくちゃちっちゃいコミュニティなので、ネットワークとかインターネットがない頃からそういう運動が起こりやすいっていう地盤はあったんですけど、とはいえ50年かければここまでできるんだってことを結構証明してくれてる社会実験のようにも自分には思えて。
そういう意味でも、ああ社会って変わるんだなあっていうのを結構実感した映画で、これも非常に良かったです。
どういう要因でアイスランドがそういう風になっていったのかっていうのは、ちょっと驚異深いなとは聞きながら考えてたんですけど、そういう女性の運動って、割とどの国でもあったと思うんですね。
もちろん日本でもあったと思うんですけど、多分そこまで抜本的な変化を生みきれていないと思うんですよね。
その差がどこにあるのかなっていうのは、ちょっと興味深いなというか、そこに意義があるのかなって考えてたんですけど、何なんだろうなっていうのはここで結論でいるはずないことを今喋ってますけど。
そうですよね。実はこの映画の後に対話というか、そこで来たお客さんの一部で、配給会社が確か企画してたんですけど、話してみましょうという、この映画で思ったことを感想を交換しましょうみたいな会議に実は参加したんですけど、そこでもやっぱり話題にはなって。
で、ちょうどその50年前って国際女性デーが国連によって制定された日、1975年4年、確かそこまでかなと思うんですけど、その時期って日本でももちろん同じような集会はあったんですって。それはアメリカでもあった。
で、この女性の休日っていう監督はアメリカ人の方なんですけど、でもこの日本もアメリカも両方ともその運動が結局50年間続かなかったんですよね。
だからこの続く国と続かない国の要因で確かに何だろうなっていうのが非常に気になるところではあって、一つなんとなく映画みたいで違いがある、そうすると配給会社の方も少し補足をされてたんで、そこも含めて考えると、
コミュニティの密さの違いなのかなっていうのもちょっと聞いてて思ったりはして、アイスランドってめちゃくちゃ小さいコミュニティ間での結束力が強いっていうのが言われてるんですよね、その地方都市間での。
で、たぶん1975年ぐらいってちょうどアメリカも、アメリカはもともとそうですけど日本も都市化というか、徐々に徐々に中央集権的なというか、東京とか都市部に仕事というのができてきて、そこに一人身で各家族みたいな感じで出てくるっていうところで、これまであった農村的コミュニティみたいなのが分断されていく歴史があったと思うんですよね。
で、アイスランドはおそらくそこがちょうどよく保たれた状態で残っていたっていうことなのかなって思っていて、で、そういう中でやっぱり似たような、同じような集会が起きたとしても、なかなかそれが横に広がっていかなかったっていうのはあるのかもなっていうのはちょっと、そこで話しながらも思ったことではあるんですけどね。
たしかに。国の何というか、発展の成長とちょうど、多分その時期ってもうちょっとどちらかというと日本とかアメリカってちょっともう成熟、まだ成長途中であると思うんですけど、ちょっといわゆる先進国的なというか、進み切ってるからこそちょっともうそこを変えようが難しいみたいな状況だったのかもなっていう感じはちょっと今の話聞いてて思うんですけどね。
思いましたね。都市化っていうことって、要は経済発展そのものじゃないですかっていう。ちょうどアイスランドはまだ過渡期じゃないですけど、ここからもう成長していくぞみたいな段階のときに、じゃあそのときに一緒に女性の地位向上も一緒にちゃんとそこも考えて成長していきましょうみたいなことがタイミング的にできたっていうことなのかなって感じはすごいしましたね。話を聞いているとですけど。
なるほど、なるほど。だから、その小規模な共同体の中では女性同士の結びつきは強かったけれども、都市化することで各家族化していくと、女性同士の結びつきはなくなるというか、その元々あった結びつきはなくなって、家族ごとの単位になったときに、じゃあ女を家庭にみたいなのがより強化されたみたいなのもあったりするのかな。
ちょっとごめんなさい、これは推論でペラペラ喋っちゃったんでよくないんですけど。
そうですね、僕も多分推論で、おそらくこの辺は研究がされてるはずなので、論文読んであるときっておそらくこの比較っていうのはあるはずではあるんですけど、僕もあくまで推論の域を出ない語りではあるんですが、でもなんかやっぱりこう、地盤的な違いみたいなものもありますし、あとはやっぱりその、そもそも社会側の授業のされ方。
実際その女性の休日が結構印象的だったのが、実際休日を取りますって言ったときに、割とその家庭内の男性、もちろん家庭によるとは思うんですが、ある程度協力的ではあったっていうのが描かれていくんですよね。
社会としてはそこは受け入れないけど、でも自分の奥さんが例えば会社に子供連れてきて今日は休日だからって言って、子供を見なきゃいけないっていうのは割と社会で実際に起こった、ある程度授業がされたっていうのも前提としてあると思うんですよ、運動自体が。
なんかやっぱりそういう、そこを受け止めるっていう地盤が多分日本にはおそらくまだない、そういう意味ではある意味遅れてるっていうふうに表現してもいいのかもしれないんですけど、
部分が当時、あるいは今現在においてもあるのかもなっていうのもちょっと思ったので、なんかやっぱりこう他国の比較というか他国の状況をその歴史を踏まえて見てみるっていうのは、
割と現代の我々がどういうふうな社会に生きてるっていうか、当たり前と思ってる社会がそうでもないぞってことを知る上でやっぱり大きな意味があるな、ドキュメンタリーでそういう側面もあるよなっていうのをすごい感じられた作品でしたね。
非常に有意義な映画鑑賞拝見だったなと思ってます。
なるほど。今週はこんな感じです。
はい、えーっと僕は落下の王国しか見てないので、まあ喋り終えたかなっていう感じなので、ではこのままでまた僕入っていきたいと思います。