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2025-05-21 1:02:29

第212回(2)『クィア QUEER』墨国→亜馬孫、男二人(独り)旅

『クィア QUEER』の話をしました。 主人公リーが孤独にもだえ苦しみながら他者を求めていくことを、批評的に描きつつも批判はしていないバランスや、人とつながれないからこそ孤独は大切なんじゃないかという話をしています。 ■メンバー ・山口 https://creators.spotify.com/pod/show/chottoeibana ・マリオン https://x.com/marion_eigazuke ・オーイシ https://x.com/pteryx_joe ■映画の話したすぎるBAR 日時:2025年5月31日(土) 詳細:https://virtualeigabar.com/eiga-bar 場所:『週間マガリ』大阪市北区 天神橋1丁目11-13 2階 https://magari.amebaownd.com ■お便り https://virtualeigabar.com/contact ■SNSアカウント X(Twitter):https://twitter.com/virtualeigabar Instagram:https://www.instagram.com/eiga_shitasugi ■番組グッズ販売 https://suzuri.jp/virtualeigabar

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サマリー

このエピソードでは、映画『君の名前で僕を呼んで』や『Bones and All』の監督ルカ・ガダニーノの作品について、イニシエーションと孤独、クィアに関する考察が深まります。特に、登場人物ウィリアムとユージーンの関係や、彼らの欲望の描写について議論が行われます。また、男性間の複雑な関係性や欲望について探求し、社会における男性性の描写に焦点を当てます。ダニエル・クレイグ主演の映画に見られる男性同士の微妙な距離感やコミュニケーションも取り上げられます。さらに、墨国から亜馬孫への男二人旅を通じて、さまざまな人間関係や孤独感が語られ、キャラクターたちの葛藤やつながりを求める姿が描かれ、依存や孤独がテーマとなります。メキシコからアメリカへの旅における男性同士の孤独やコミュニケーションの問題も描かれ、特にアルコールやドラッグを通じた人間関係の構築や、孤独とつながりの間で揺れ動く感情が深く探求されます。クィアのテーマに関しても、人間関係や孤独の重要性について議論が行われます。

映画の背景とテーマ
今日のテーマトークは、クィアです。はい、ではマリオンさん、解説をお願いします。
はい、映画ドットコムより解説を読ませていただきます。
君の名前で僕を呼んで、Bones and Allのムカグア・ダニーの監督が、007シリーズのダニエル・クレイグを主演に向かい、
1950年代アメリカのビート・ジェネレーションを代表する作家、ウィリアム・S・バローズの自伝的小説を映画化。
1950年代、メキシコシティ。退屈な日々を酒や薬でやり過ごしていたアメリカ人駐在員、ウィリアム・リーは、美しくミステリアスな青年、ユージーン・アラートンと出会い、一目で恋に落ちる。
渇き切っていたリーの心は、ユージーンを渇望し、ユージーンもそれに気まぐれに応えるが、求めれば求めるほどリーの孤独は募っていく。
やがてリーは、ユージーンと一緒に人生を変える体験をしようと、彼を幻想的な南米の旅に誘い出すが、
自分を保ってないほど一途に相手を求める主人公リーを、クレイグが新たな魅力で演じ切り、2024年第96回ナショナル・ボード・オブ・レビューにて主演男優賞を受賞。
テレビドラマアウターバンクスのドリュー・スターキーがユージーンを繊細に演じ、アステロイドシティのジェイソン・シュワルツマン、ファントム・スレッドのレスリー・マンビルが共演。
2024年第81回ベネチア国際映画祭コンペティション部門出品。
はい、では内容に触れる話をやっていきますので、ネタバレ気にされる方がいたら是非見てから聞いていただけたらと思います。
はい、ではアサヒの感想、マリオさんいかがでしたか?
そうですね、ウカガダニーノの作品はどれも大好きなんですけど、なんかここまで波長がめっちゃ合うみたいな映画はなかったかもなーみたいな、ある意味でって感じですけど。
だいぶぶっ飛んだ映画でもあったので、けどなんかめちゃくちゃ自分の中の波長とめっちゃ合ったなーっていう感覚がすごいありました。
本当にこの主人公のどうしようもなくみっともなくて、けどその苦しいほど切ないみたいな感情がすごいめちゃくちゃ刺さっちゃってる自分がいて、
誰かを求めたいとか求められたいみたいなものが募れば募るほど彼の孤独っていうのがどんどん深まっていきみたいな感覚がなんかすっごく良くって、
ただその思いは本当にドラッグみたいに体を蝕んでいってもしまっているんですけど、
まあ本当にあのいい歳したおじさん括弧役中が若い男の子に手を出すみたいなどうしようもない話って言われちゃったらそうはそうなんですけど、
いやでも僕はその切なさとか切実さがめちゃくちゃなんかグサグサくるなーというふうには思いました。
ラストもすごく悲しみもすごいあるんですけど、そこで突き放さない感じの余韻っていうのもあって、そのラストもすごい大好きで、
いやちょっとこんなに刺さるとは思ってなかったなっていう感じでした。
はい、おじさんいかがでしたか。
まあ本当に見るドラッグだなって思いながら見てたんですけど、
なんかこう見ながら、なぜ人はドラッグで飛びたいんだろうっていうのをちょっと考えたというか、
なんかそのある種の答えに行き着いてる映画なんじゃないかなっていう気がしました。
なんていうんですかね、ドラッグ的な描写というか、ドラッギーな描写って割と最近よく、ある種の結構ブームでもあるような気がしてて、
アニメーションから実写まで結構いろいろなドラッギーな描写ってあるなぁとは思って、最近よく見るなぁと思ってたんですけど、
なんていうんですかね、ただ灰になるっていうんじゃなくて、自分の境界線を溶かしたい感じというか、
その孤独である自分という体の檻をドロッと誘拐させて、で本質的に誰かと繋がるっていう、
途中映画の中でまさにそれを表現するシーンっていうのが出てきますけど、
そういうことかってちょっと理解ができたというか、
人間という心を持つ動物がどうしたって孤独に耐えきれない、だけど本質的には孤独であるっていう、
この現実と理想の矛盾からそれをどうにか解決しようとして、
古代からずっといろいろ多分やってきたところに一つの答えがドラッグなんだなっていうことをちょっと思ったぐらいには、
なんか割と意味わかんないって思ってたけどちょっとわかるぞというか、
むしろそういうことなら理解はできるぞというか、
なんかそういう試作が進む映画だったなっていう感じがしてますね。
見てる最中は結構すごいもの見せられてるし、ついていけないシーンも多々あったんですけど、
見終わった後に、ああそうかそういうことかっていうのがどんどんどんどん降り落ちていく感覚がするタイプの映画というか、
自分の中に蓄積されたものというか、そこで留まったものがだんだんだんだんこう形になっていく感覚がしたので、
めっちゃ面白い映画体験だったなと思ってます。
僕はですね、ちょっとあんまりわかんなかったかもしれないなとは思ってます。
まずウィリアム・バローツ全然知らんくって、
多分彼の反自伝的小説が原作っていう風に聞いてるので、
もちろんそれ知ってた方が絶対語りやすいんだろうなっていうのはあるんですけど、
そこが全然わからないので、その切り口ではちょっと喋れないし、
映画見ながらその部分を受け取れてないっていうのもあるのと、
やっぱり自伝的な話であるがゆえにちょっと道筋がわかりにくいというか、
あんまりエンタメ的じゃない部分は結構あると思うんですけど、
やっぱり僕エンタメが好きなので、ちょっと苦手意識は感じたところはあるっていうのと、
終盤の南米に行ってからが、やろうとしてることはわかるけど、
あんまり面白く感じないっていうのがあったっていうのはありました。
ただやっぱり序盤のダサさ、
自信なさげに若い男の子に言い寄ろうとしていく感じのダサさ周りは、
好きなやつだなというところと、
あとタイムリーにも酒かす映画だなと思ったのがあったですね。
たしかに酒かす映画ですね。
酒っていうのもドラッグなので、
もちろんコカインやったりヘロインやったりしてましたけど、
もちろんアルコールっていうのも彼にとっての重要なドラッグだったと思うんですけど、
その文脈だったら多少は自分の中から広げられるかなって気はしてます。
クィアの定義と男性性
という感じですかね。
ではお便り一通いただいてますので紹介させていただきます。
大西さんお願いします。
はい、みいろさんからいただきました。
初めまして、本作は成田地からしてガダニーノのフィルムグラフィー史上最もパーソナルな作品だと思いました。
しかし最もパーソナルな言葉が最もクリエイティブとも言えない出来になっているのがまた面白く、
ガダニーノの作家性、それは時代や社会がどうあれ人間が当然抱く欲望を両手でしっかり持つ仕草であります。
それこそ皆さんが親の仇のように言及する男性性に接続している欲望を批判的に肯定する、
そんな真面目に見えるし適当に撮っているようにも見える両面性に何よりも見せられてきた人間としては、
今作はあまりにもショットとショットの繋ぎが意味に修練されており余白が極端に少なく感じました。
余談ですが山口さんは以前別のポッドキャストの異人たちの回で作中のセリフを引用してクイアとゲイの呼び方について話していましたが、
本作はクイアという言葉が社会的、過去アクティビズムの文脈を持ち合わせる以前のものとして取り扱われており、並べてみると興味深かったです。
長くなりましたがクイアカルチャーには誠実でありながらアクティビズムとは距離を置く、独自の立ち位置を行くガダニーノにこれからも注目したいところです。
ありがとうございます。
最もクリエイティブとは言えない出来っていうのがどこを指しておっしゃられているのかなっていうのをちょっと考えてたんですけど、
なんかあの僕が感じたのは結構あの過去作で見た感じちょっとあるなとは思った部分はあって、
思いにずっと縛られる感じとかは君の名前って僕を呼んでとか思い出しましたし、ちょっとドラッキーな映像表現とかサスペリアとかも思い出したりはして、
ちょっとあのこういうこと自体は別にやったことないわけじゃないよなっていうのは思った部分はあったんですよね。
それこそそのさっき言及しましたけどその体の境界線が溶け合うというか、その体の一つのその境目を超えるってある意味ボーンズ&ウォールのラストとかもそうだよねっていう風にも捉えられるし。
確かにそうですね。
なんかずっと繰り返し描いてきたことをやってるって言ったらやってる、それが作家性とかになるとは思うんですけど、
それがたぶんこのお便りの三浦さんからすると結構今回はその意味でガチガチだなみたいな。
ところがやっぱりちょっと物足りなさというかとまた違いますけど、
たぶん本当にたぶんこのルカガダ・ニーノはこのクイアっていう人たちがめちゃくちゃ好きだったんだと思うんですよね。きっと。
だからもう好きすぎるが故にちょっとやっぱゴリゴリにこうなんというかこう真面目に作っちゃったみたいな感覚をたぶん感じたのかもしれないですね。
それこそ確かにガダ・ニーノってその欲求とかを映画的設定とか世界観とかに乗せて理解できるようなパッケージにして僕らに渡してくれるようなイメージがちょっとあるというか、
それこそチャレンジャーズであればそれをテニスっていうパッケージにして例えとして僕らに見せてくるわけじゃないですか。
さっきのボンズ&ウォールだったらそれをある意味世界観としてのカニバリズムとか職人っていうところでそこを見せてくる。
今回は結構それをど直球にやってる感じですよね。現実世界の中で。
だからこそちょっと真面目に見えるのかなとかは思われたのかなってちょっと考えましたけど。
でもおっしゃってるクイアって言葉にアクティビズム性を剥奪してるというか、原来の意味でのクイアって言葉って今回語られてるっていうのはあんまりその見てる最中、
それこそ映画のタイトルになってる段階ではちょっとアクティビズム的な文脈から僕は多分知った言葉なんで、そういう目で見ちゃったことがあって。
でも確かに振り返ってみたら、ある種の自虐としてもクイアって言葉が多分使われてる。
そうですね。完全に自虐として使ってまして。
もともとフーガーリナーみたいな意味の言葉ですもんね。
そうですよね。だから、あ、そっかそっか、もともとはそうだよな、それがある種今意味を転じてるっていうことなんだなっていうのを改めて感じたし、
ゆえに彼がダニエル・クレイグと友人がクイアなのかクイアじゃないのかっていう問いがわりと物語を引っ張る1個のキーになってるような気はしてたんですけど、
その意味合いみたいなものもだいぶそこの言葉のニュアンスを読み取り違えるだけで結構変わるなとも思ったりはしました。
それこそ偉人たちで、本当にね、クイアっていうのとゲイという言い方の違いってありましたけど、
たぶん2人ともクイアって言葉は知ってるけど、たぶんその意味合いが違う感じはめっちゃ今回でもあったというか。
ダニエル・クレイグの、ダニエル・クレイグとかウィディアムですね、は本当に昔通りのクイアって意味を兼ね備えたキャラクターであり、
で、ユージンは昔の時代ですけどどちらかと今っぽいクイアの文脈にのっとったキャラっぽいのかなって思って、
なのでそこが生じるというか、みたいなことがあるのかなと思って。
ただ本当に自分の思うクイアっていうものを追い求めるウィディアムにとっては、それは同じクイアであっても違うものっていうことが、
時に彼の孤独を深めていくんだなというのが切ないなとも思いますけど。
そうですね。
あと、ダニエル・クレイグが演じているリーってやっぱりすごい男性性に満ちたキャラクターだとは思うんですよね。
ずっと拳銃見せびらかして持ち歩いてるのをめちゃくちゃ自信ないんだなっていうのがすごい印象的で、
力を誇示するのって自信のなさの表れだし、本作でも若い男の子にアプローチするときってめちゃめちゃかなびっくりなんですよね。
で、それって若者にどう生まれるかっていう恐怖の表れでもあるんですけど、
同時にそれが大丈夫ってなった瞬間めちゃめちゃ雑になるんですよね。
そうですね。
なってましたねっていう。
そのバランス取りのうまく取れなさみたいなのがすごい結構男性性的なものだなっていうふうに僕は解釈してるんですけど、
ただやっぱりそれはそれとして、ホモセクシャル自体を変なものとしては描かないというか、
お互いの中でもおっしゃっていただいてますけど、
欲望を批判的に肯定するっていう部分、それはすごいあるよなと思って。
リーのすごい男性性の滑稽さと同時に、でもその性欲自体を否定的に描かないって言ったらいいんですかね。
人のセックスを笑うなっていう映画というか元小説がありましたけど、
男性性と欲望の探求
本作見てて人のセックスは笑わないけど、それはそれとしてその個人は滑稽であるっていうふうに描いてるなみたいなのを感じて。
だからそのセックスそのものに対してめちゃめちゃ誠実なんですよね。
でもそうじゃない、それ以外の人の部分はめちゃめちゃ滑稽だし、無様に描いてて、
そのバランス感覚は本作に限らずずっとあるかなって気はしてます。
確かに確かに。
欲望を否定的に肯定するっていう、いや端的にまとめていらっしゃるなっていうか、確かに僕もそういう人だなと思っていたので、
欲望の、ありのままの欲望を本当に肯定してくれるような人みたいな、
人間の根本から発せられる欲みたいなものをすごく丁寧に描く人っていうのは本当に思っていたので、本当にそうだなと思いますね。
本当に我々本当に親の敵のように男性説について言及しすぎだなっていうことを改めて知っていただいて、
ちょっと本当に、はいって思いました、すいませんみたいな。
ここ最近がね、特にね。
いつまで話しとんねんみたいな気持ちですよね、本当に。
でも自分の中でやっぱり解決しきれてないところですからね。
ずっとホットなトピックなんですよ。
ずっと。
そのせいでなんかもう擦り続けてしまっているんですけど。
そうですね、ちょっと擦りすぎてるのかもしれないですね。
ちょっとなんていうか、惹かれ始めているかなっていう。
なんかこう、ビシッとお便りで言われちゃうと恥ずかしいというか。
ちょっとその自覚はあって、最近だからなんていうんですかね、
自分の中で多分そこに含めてなくても良かったものを男性説という箱に入れ始めてる気がしてて。
なんかそこに入れて批判する立場に立たないとちょっともうどうしようもいられないというか、
もう許さなくて、許していいぐらいのものまでちょっとその批判の箱に入れ始めてる気がしてて。
ちょっとその批判の箱に入れ始めてる節が自分の中にちょっとあって。
それすごいあります。
許していいものと許さない方がいいものの境界線をちょっと今見失ってて。
今見失っているというかずっとですね。
ずっとそう。この番組やる中でずっとそうで。
逆にその女性の前田さんからちょっとそれはみたいな突っ込みが入ってたりしてたんですよね。
そうでしたね。
それはもうターの回がそうやったんですけど、
女性であるターの男性説っていうものを僕がものすごい批判的に見てたら、
それはちょっとみたいな感じで女性である前田さんから突っ込まれてっていうのがあったから、
もうずっとそれをやってるんですよ。
特に僕は。
未だに落としどころを見つけられてないんですよね。本当。
やっぱちょっと僕の中でもなんか最近ちょっとそれだけでは語れないところがあるかなみたいなのを思い出すと、
やっぱちょっとやっぱきっかけとしてアノーラがでかいなとは思ってますけど、僕の中で。
あれとかもやっぱすごい男性性というフィルターを通してみたら、
確かにちょっとな、いろいろなみたいな方とかはもちろん全然あって。
あったけどそれでもみたいなところに惹かれてるところもあってみたいなのが、
語る中で、僕はそういう感じで語っちゃったところはあるんですけど。
だからいろいろ僕も試行錯誤しながらだなっていうのは本当にそうですね。
そいつが自分の中であまりにも高い価値決定とか意思決定の高いところに居続けるのもちょっと、
なんか何かおかしくする気がするなって気が最近してきていて。
そうなんですよね。
なんかある種の単純化みたいなことにまたなってしまう可能性がやっぱあるかもなーみたいなこともあって。
例えば男性性って箱に入れちゃったらそれは個人で解決できない、あるいはしなくていい問題にできちゃうっていうのもある気がしていて。
いやそれは個人の問題じゃないってさらっと言われた時に、
あ、やばいってなるんですよなんか。
未だに全然バランス感覚見極められてないですね本当。
そういう意味で言うと本作とか映画の話に戻りますけど、
ダニエル・クレイグの演技
ガタリーノって確かに割と男性性の話をしてきてる作家でもあるよなっていうのは振り返ってみると思うところではあって。
チャレンジャーズとかもろに男性性の話ですしね。
いやでもなんか批評はしてるけど批判はしてないんですよね。
そうですね。
あの男二人の意地の張り合いを、いやー男性ってこういうとこありますよねって言ってるけど、それがそのなんていうか暴力的だとかそういう感じの落とし所にはしてなくて、
まあだから一つのバランス感覚を持っている作家だと思うんですよねそれに対して。
そうですね。
そのバランス感覚がやっぱり好きなんだろうなぁとは思いますね本当に。
ともすればきっとトキシックって言葉をつけてもいいようなことを描きつつ、でもその独占の先にあるものを必ず見せてくれる感じというか。
まあそれをだから全肯定してるわけではないからこちらも飲み込めるんですけど。
そうそうそうなんですよね。
そうですね。
そこのちょっとそれはみたいな部分とか、ダメでしょみたいなところとか、バカだねみたいなところも含めて描いてくれてるみたいなところがやっぱりいいんだろうなというか誠実なんだろうなと思います。
本作もだからちょっとそういうところがある気はして。
まあそうですよね。いや完全にだらしない人ですよこの人みたいな。には間違いないですよみたいな。それは違いないです。
男の悪いとこ煮詰めてるには煮詰めてるんだけど、でもとはいえ彼のそれって孤独から来てんじゃんっていうところはしっかりまともに描くし。
その繋がりたい欲求みたいなものってむしろ男性の方が持ってませんかとか、体に触れたい欲求とかっていうのってその表面的にならない男性こそ持ってるし、その欲求自体は正しいんじゃないのっていう風にも言ってるような気がするんですよね。
もちろんそれを誰に向けてどういう風に放つかは本当に考えなきゃいけないんだけど、欲求を持つこと自体は間違ってないよねっていう風にも見えて。
だから本来そこを結構それすらもある意味トキシックだからって言って捨て去ろう、自分とか結構そういう風にやっちゃいがちなんですけど、いやいや欲望ぐらいはあるじゃんそこは認めようぜっていう風に描いてるようには見えるっていうバランス感は。
なんか結構現代の作家の中では珍しく男性、まあ男性のためのっちゃわけじゃないんですけど、なんかそこに対してすごいこのスタンスはなんだろうな、世界のトラカタの一つの答えかもなって思うところはちょっとありますね。
いやそうなんですよ、そこを目指したいとは思ってはいるんですよね。目指したいと思っているんだけれども、その素直に目指してはいけないんじゃないかっていう疑念をずっと持ってしまっているっていうのがあって、それを過剰にブレーキをかけ続けているっていう反省は本当にあるんですけど、
まあちょっと既に比重かけすぎていることはわかりますか。
やっぱりこのテーマのちょっとね。
まあそういう映画ではありますからね。
いやそういう映画ではあったんですよ。
いや絶対そこにはたぶん触れるだろうなっていうふうにね、触れたくなる映画でも絶対あったし。
まあじゃあとりあえず我々からトピック出していきましょうか。
どっからいきましょうかね。
そうですね。
まず役者の話とかしたらいいかなと思うんですけど、いやダニエル・クレイギューのくたびれ姿が、ちゃんとくたびれてるし、
あとあのコミュニティの中で完全に異質感がすごいっていうのが、本当に存在感がすごいなって思ったんですけど、
しかもまためちゃくちゃくたびれたシャツみたいな。
すごいですよねあの。
あれやばい。
なんか汚え汚えというかしょうがないじゃないですか。
だってメキシコのうだるような暑さの中でも汗もめっちゃ染み込んでると思うんですよ。
汗染みめっちゃすごいだろうと思うんですよ。
けどなんかね、そこにしかない何かあるよね。色気じゃないけど。色気なのかなあれは。
物はめちゃくちゃ感じるっていうか、すごいなって思いました。
一方でユージンの綺麗な服を着ていることよっていう。
そうね、そうなんですよね。
綺麗にポルシャスとか着てんのよねみたいな。
すごい。
だからちょっともうね、セルフネグリフトに入ってるぐらいの服装というか。
まともに歩けてない人って感じがすごいするんですよね、あの服装。
ちゃんとだらしなく見える服だもんなっていう。
それこそね、007できちっとスーツを着てた人がですよ。
トムフォードのスーツ着てた人が?みたいなね。
5万ぐらいするスウェット着てた人が。
そうでしたね、あのスウェット5万でしたね。
あの行きつけの店でも、まあ半分腫れ者扱いだと思うんですよ、あれ。
絡み方うざいっすね。
そうなんですよね。それは本当にそう。
うざいというか距離感バグってんなみたいな感じなのかわかんないけど。
突然ね、ちょっといいなって思ったからあのお辞儀の仕方は気持ち悪いですよね。
ねえ、やはりこっぱつかしいシーンですよね。
あら顔面真っ赤になるシーンですけど。
しかも本人それで痛いことわかってまたこうおぞおぞとちょっとしょぼくれて戻るじゃないですか。
大胆なんだか、小心者なんだかみたいな。
いやでもね、飲み屋に入り浸ってる中年男性って基本あーだと思いますよ。
そうなのか。
僕は本当にそこを観察し続けてきたんですけど、寂しさで距離感バグっている人多いっすよ本当。
酒かすウォッチャーの思いっこ一言ですわ。
当時撮影も含めて言ってますけど、
いや本当にね、アルコールを介して紡がれる人間関係の中でないと立場を作れなくなっちゃってる人の距離感が測れなくなってる感じはすごい感じて。
本当にね、何回も見てきたんですよ。
自分の失敗も含めてだと思うんですけどそれは。
自己批評も含めて言ってますけど、
いやー、おじさんは孤独で狂うんですよ本当に。
友人見つけた時の感じとかもすごくて、あれっていわゆるメイルギーズじゃないですか。
対象が男性なだけで。
めちゃくちゃじろって見て、ずっと意識してて、
で、あの、照準を定めている状態になっちゃってて、いちいち何かあったらアプローチしてくるっていう。
なんか男同士だからちょっとキャッチしやすくなってるけど、あれ女の子だったら起きてる事象エグいですからね本当に。
そうですね。完全にダメなやつ。
男でもダメですけど。
だからそこでミラリングした時に、これでもやっぱ良くないことが起きてるぞっていう風に見えるものとして作ってると思うんですよ。
それは、うかがダニーの作品はいつもそうかなと思ってて、
君の名前で僕を呼んでとかも、これすごい綺麗な話になってるけどよくよく考えると、
年上の男が年下の男の子をたぶらかす話だなって見えることもないじゃないですか。
まあまあ確かにね。
それを年下の方の性別変えたらめちゃめちゃえげつないものになるんですけど、
なんか男同士だとちょっとそう見えないって。
でもそこをよく考えると、いや全然良くなくない?みたいなことになることをやってるなっていうのがあって、
その冷静さを取り戻した時に、
リーのこの下手さ、いろんなこと下手さがすごい見てくるなぁとは思って、
良くないことをしていますよっていう。
そうっすよね。
UGも最初結構拒否をするというか拒絶するんだけど、
たぶんだんだん不便に思ってくるのかなっていう感じがあって。
UGの感情ってなかなかこっちからは読みづらい気はしたんですけど、
そのリーの感情がテンテルに分かる一方で。
そうですね。
やっぱりその読み取れなさっていうか、
人間関係の複雑さ
露骨に自分以外の誰かと親しげに話しているというところを見るだけでめちゃくちゃ不安になるじゃないですか、彼って。
けど普通そういうものじゃないですか。
人付き合いってそんぐらい広いものじゃないですか、みんなってそれぞれ。
当たり前なんだけど、でもそのことを考えだしたらどうしようもなく不安になるみたいなことはあるなぁと思って。
本当にそこはすごいよくわかるっていうか。
だから本当に普通の人付き合いの延長線で彼は多分ずっと振る舞っているだけな気がするんですよね。
めっちゃわかるなぁと思って。
自分が仲良い人が自分以外に仲良い人がいるっていう話されるのちょっとズキってくる瞬間ありますもん。
僕もあるんですよ。
僕もあるんですよ実は。
めっちゃ恥ずかしいんですけどこれ本当に。
もうズキってくる瞬間があって、まだあるみたいな。
ええ大人ですけどみたいな。
でもそんな当たり前だとわかってるんですよ。
ほかのいろんなひみな人付き合いがあるって知らない人付き合いがあるってわかってるんですけど。
なんかねそういうのにこうね、どうしようもなく不安を覚えてしまうみたいなのは本当にダメですねって思いつつも
めっちゃなっちゃってるんだよなーっていうのは思いますね本当に。
根本的に自信がないんですよね本当。
そう。
ずっと疑ってて相手のこと。
そうなんですよね。
だからUGと会う前におそらくミッキー・シコの現地の男性らしき人とバーで会って
ホテル行ってアダコーダするシーンあるじゃないですか。
でそのことが終わった後でお金払おうとしてるシーンのあのいたたまれなさ。
ああそうですね。
で相手はそのまま出て行っちゃうっていう。
依存と孤独
なんていうか自分単体でこの関係が成立する自信がないからなんかお金払いそうになっちゃうみたいな。
もう不憫すぎてちょっとあそこ笑っちゃってもうめちゃめちゃ辛いシーンだなって。
そうですね辛いっすね。
でしかもあれですよねそのUGとその本当にようやく結ばれるっていうまでの話で
なんていうか彼の腕が幻影のように彼をUGに触っているような仲良い彼じゃないですか。
あそこたまんないっすよね。
触れたいけど触れられないが出ているみたいな。
もうたまんないっすねあれね。最高って思いましたけど。
そういう演出のオンパレードでたまんなかったんですけど今回本当に。
だからきっとその彼とその後一夜を共にするじゃないですか。
その後割とこうUGがまたちょっと離れていくというか自分から外向かれる感じのところで
あれって俺の妄想ってなってる気がするんですよ。
思ってると思う。
その切なさですよねなんていうか。
つながってたと思ったらつながれてなかったというか本質的につながるとは何かみたいなことで
答えないじゃないですかそれ実際。
けどなんか答えがあるように思い込んでしまうみたいなことはあるって思って。
あるぞーみたいな。
それこそ基本的に人間関係ってある種のちょっとした相互依存だと思うんですけど
その依存のどこまで依存をしたら自分にとってその人と人間関係が結べたかっていう度合いって個人差があるじゃないですか。
その苦さだと思うんですよね。
自分はこのぐらい求めたらこの人に認知してもらったって思うけど
相手からしたらちょっとのこのぐらいでも認知した。
でもこのぐらいでむしろ人間関係を保っておきたいぐらい自分をしっかり持っていたいって人もいるし。
それぞれのそのコンフォートゾーンって全然わからないからっていう中で結局試行錯誤していくしかない中で
彼はそもそもすごく依存体質だし。
でもその依存体質であることって抜け出せないというかどうしようもないですもんね。
その受け答えをしてくれる人がいないからじゃあ自客に走ろうってなっちゃうんだよなっていう。
人間ってそういうもんだもんなっていう。
そこにあんまり成功体験がないんじゃないかなと思うんですよね。
だからその人間関係が今ないし、成功体験がないから自信もないし。
で、まあなんか極端なことをする急に踊ってお礼するかと思えば
もうめちゃくちゃ怯えて悪夢みたいな。
みんなからめっちゃないがしろんされる悪夢見てるみたいなことにもなるし。
分かっちゃうんだよな、そこは正直。
でもなんかそれって成功体験だから解決する問題とも実は思ってなくて。
ほうほうほう、なるほど。
なんて言うんですかね。
例えばそれが成功体験というか、お互い同じぐらいに依存できる人が見つかったとして
果たしてそれはそれで幸せかって話があると思うんですよ。
完全な相互依存って割とちょっと呪いになると思うんですよね。
本人にとっても相手にとっても。
ある種それでズブズブ深く身にはまっていくっていうパターンもあるわけじゃないですか。
リスク分散の重要性
ってなった時に、どちらにせよその人が持ってしまったここまでを自分の中で愛というか
人間関係の線として定義しようって定義を変えられない限りもうどうしようもないんだけど
それを変えるのって多分成功体験では難しい気がしてて。
なんて言うんですかね。失敗の体験でも多分ないんだよな。
多分そうすると結局自虐に走るからってなると。
どうすれば自分の初期設定を間違ったというか
自分がなかなか繋がらない初期設定に自分のゲージを設定してる時に
直すというか戻すというかちょうどいいところに調節するってできるのかしらってちょっといつも思っちゃうんですよね。
それに関しては僕の感覚的なところで言うと
適切な人間関係ってリスク分散ができてる状態なんじゃないかなと思って
この人との人間関係がうまくいかなくなってもそうじゃないところに別の人間関係があって
そっちで自分っていうものはある程度守られているっていうのが余裕になるっていうのがあるかなと思うんですよ。
だから一つの出会いに対してオールインせずに距離感測りながらコミュニケーション取れたりするけど
その保険がかかってない状態だとそこにオールインせざるを得なくなっちゃうというか
その極端さがアンバランスさを生んで不安定さを生んでってなっちゃうんじゃないかなと思ってて
だから成功体験って言うとちょっと言葉として強すぎるかもしれないんですけど
人間関係のリスク分散みたいなちょっとまああの狡猾な言い回しにはなっちゃうんですけど
そういう側面ってあるかなとは思ってて
まあまあ今日この人とうまく話せなくても別で会話できる人はいるしみたいな
そういう保険が結果的に余裕としてうまく生きやすくなるみたいなこともあるんじゃないかなと思うんですけど
なるほどな
だからそれこそリーの場合って職場みたいなものがそんなに移されないから
どんな仕事をしてるかもわからないんですけど職場的な人間関係って薄くてもいいじゃないですか
薄く相互依存できている状態というか
彼にそういうものがきっとないんだろうなっていうのはすごい映画を見てて思ったことではあって
そうですよね
原作のクエアってアメリカにいた時の話とかもあるみたいなんですよ
だからバローズ自身がアメリカにいた頃の話を元にしたみたいなのもあるらしいんですけど
それがなくてメキシコからスタートしてるからそこしかない人に見えるんですよね
それが彼の保険の効いてなさに見えてるとこがあるというか
過去が見えたらもうちょっと違う見え方すると思うんですけど
まあ確かに確かに
そうですね確かにな
正直職業わかんなかったので
それこそあらすじで駐在院って書いて駐在院だったんだって思ったぐらい
じゃないですか正直
っていうのはやっぱありますね
それからなんかもう完全にバローズの自伝的小説なので
小説家かなぐらいしか持ってなかったとこはありましたんですけど
そもそもやっぱり職業的にも孤独っちゃ孤独なのかなみたいなのはあったのかもしれないですけどね
いや孤独やと思いますよもうあの立場
周りメキシコの人多いし
だから英語もどこまで通じるかも
まあ100%のコミュニケーションは取れないと思うんですね言語的にも
あと周りにいるアメリカ人たちも
まあなんかちょっとアウトサイダー寄りの人が多そうだし
確かに確かに
でやっぱその中で彼言うてもインテリじゃないですか
がっつり本読んでて
でも同時にめちゃめちゃマッチョに染まってるから
すごいあの顕著持ち歩いて男らしさ振り回ってるけど
その同性愛コミュニティはむしろちょっとなんというか
ゲイカルチャー的なちょっと女性的な振る舞いとかしてる人が多かったりする中で
俺は男だみたいな振る舞いしてて浮いてるし
でなんか彼のアンバランサーがどこにも居場所を作れてない状態になっちゃってるっていうか
なんかめちゃくちゃ伝わってくるなと思って
あとあの本作すごい印象的なのが窓に一つもカーテンかかってなくないですか
そうですよね
確かに
この街にカーテンはないのかっていうぐらい窓の外が見えてて
しかもなんかあんまり写実的じゃないというかちょっと絵画的な風景ばっかだったなっていう風に僕は感じたんですけど
それこそ最近見た目眩とかもちょっと思い出すぐらいな
ちょっと人工的な景色に見えましたよね窓の
確かになんか結構バリバリCGっぽいなみたいな風景で結構ありません
車がいっぱい光ってるシーンとかめっちゃCGっぽいなと思ってましたけど
あれ絶対そうですよねCGっていうかミニチュアなのかな
わざとやってるかなミニチュアっぽい感じはあったかもしれないです確かに
あと飛行機とかもあれそうだと思うんですけど
ちょっとミニチュア感ありますよね確かに作り物感っていうかねあるのか
いやまあそのなんだろう部屋の外に見える景色は人工的っていうのがなんか結構孤独を感じるっていうのはあるし
あとそもそも部屋から見る外の景色ってもうなんか孤独そのものだなって気はしてるんですけど
はいはいはいわかる
一人でいる部屋って結構脳にストレスかかるぐらい孤独だった
特に大学時代めちゃめちゃもう夜が来るたび大変なことになってたんですけど
わかるちょっとわかるぞっていう
それから目を背けるためにはカーテンがいると思うんですよ
窓の外の世界があるって実感がもうやばいんで
窓の外って存在してほしくないんですよ部屋の中にいる時は
でも本作もずっと窓の外見えてません?
見えてますね
見えましたね
俺じゃない世界がいてみんなが繋がってるけど俺は一人部屋にいますっていうのが常に醸し出されてるから
いやそりゃドラッグ逃げるって
ちょっとだからロボットドリームスのドックもいいね
連想する感じありますよね
なるほどな確かにそうですね
確かにカーテンないっていうのはそういうことかなるほどな
一人だけど一人じゃないんですよね窓が開いてると
自分だけが孤独っていうのが際立つけどカーテン閉まってると世界がないから
自分一人であることが孤独にそんなに見えないと思うんですけど
なんかそれすごい際立ってんなと思いながら見てたんですよね
なぜ彼はカーテンをしないんですかね
やっぱ繋がりたさじゃないですか
なるほどな
シャットアウトもできないんだよねっていう
それやったらもう完全に一人でいいっていうことを
自分で辞任しちゃうからそれはしたくないんですよね
そうそうそうやっぱそういうふうには人間できてないしっていうことだなと思って
いやあのそれねあの自己体験含めて喋るんですけど
酒かすあるあるだなと思って
酒場に何か面白いことないかなって言ってお酒飲みに行って
誰とも話せずに何も起きないまま帰るみたいな
他の席が楽しそうにしてるのを一人で飲んでる時のあの僕だなと思って
それつれえ
それはつれえよ
いやでもその酒場に行くってそういうことめっちゃあるんですよ
カーテンを閉めずに窓を開けて楽しいことが入ってきたらいいなって思ってるけど
そこの踏み込む努力は別にしないしそこのバランス感覚もないから
ずっと孤独なままお会いそお会いそというかお会計というか
それはつらいよ
でもあの酒かすじゃなかったですけどその感じはわかりますよ
ねわかるわかりますよ
めっちゃわかりますよ
今いくつか自分の頭の中に嫌な思い出が思い浮かびました
あったなっていう
そろそろまたロボットドリームズの話になってますけど
友達見つけにウィンタースポーツしに行ったみたいな話と一緒じゃないですか
会いに行ったみたいな話と一緒じゃないですか
酒かすに限らずそういう経験あるって思いますよ
だとしたらリーはそれが常に何としてたら地獄すぎるなと思って
そうじゃないとあんな飲み歩かないですって
でもそうですよねやっぱなんか面白いことないかながやっぱきっかけというか
旅の孤独と病気
毎日飲みに行くのってやっぱそれは大いにあるじゃないですか
そこでね友人に出会うわけですから
出会ったとてなんよなーっていう
いやなんか2人きりで旅行に行くことになるじゃないですか
2人きりになったとたんもう病気になるじゃないですか
あの瞬間にこれは何も解決にならんって思いましたよね
結果またこいつは孤独に震えるんだみたいな病気に震えてるんですけど劇中では
これは孤独に震えてるだけだなって思って
最初に登場したときもちょっとアルコール系っていうのが揺れてるんですよね
ちょっとなんか体揺すってるというか
あれは僕ずっと彼が揺すってるのは孤独で揺されてるんだと思ってて
孤独に震えてるんだってずっと思ってたので
なんかこの旅は絶対何の意味もならんっていうのが
単的に表されてるなと思ってあの辺好きなんですよね
あとまあ彼アルコールずっと飲んでるし
コカインもヘロインも多分やってるじゃないですか
僕はドラッグってその既死燃料の現れかなと思ってて
僕がお酒飲むときって基本そうなんですけど
なんというか生へのこだわりを減らしたいっていう願望みたいなとこがあって
なんか生きてるって生への執着だと思うんですけど
酔うとそこが雑になるんですよ
なくなるんじゃなくて雑になるんですけど
なんかそういううっすらとした自殺願望が含んでるのが僕にとっての印象なんですけど
それをもっとエクストリームにしていくとヘロインやったりするんだろうなって思って
その自殺願望の根幹には孤独があるんですけど
なんかわかるんですよねそこは
結果的にアルコールの力で一応人とはつながってるというか
それしか人のつながりが作れてないとも言えるんですけど
なんかそのうっすらとした既死燃料の解消手段としての
ドラッグとアルコールを使って
ギリそれで人との関係性が成り立って
ギリギリ生きながらえているみたいな状態が
さすがに今の僕からはめちゃめちゃ遠いんですけど
分からんことはないなって思いながら見てて
そうなんですよねだからめちゃくちゃ痛々しいと思うんですよ
ドラッグと人との関係
さっきのお便りにもあった通りで
批判的には描くけど肯定もしてる気がするところがやっぱ面白くて
その欲求自体は多分人間である以上
男性女性に限らずかもしれないですけど
どうしようもなく持ってるし
彼のこの状況だったら誰でも落ちるでしょっていう風にも見れるというか
だから何だろう
ドラッグに行くまでがめちゃくちゃ僕ロジカルに感じたんですよ
そういう意味で
この欲求を持っていてこの状況なんだったら
人間はこの行動を自然と取るよねっていう風に見える
だからそこが何かエクセントリックなことであったりとかっていうわけではないし
結局彼が究極を求めてるテレパシーじゃないですか
ジャングルに行く理由がそうですけど
そこねそこ
一番どうかしてるパートですけど
まず何でって感じですけどね
なんかとはいえ彼のその状況を見たら
何だろう本音を人が話してるかわからないっていう不安感を取り除きたいっていうのが多分欲求じゃないですか
そうですね
だから完全にやりたいこととして人類補完計画なわけじゃないですか
形を変えた怒り言動なんですよね
てか割とこれはちょっと男性性に紐づいちゃうのかなとも思ったり思わなかったり
基本コミュニケーション下手っていうのはあるなとは
男性の方がよりそうなる傾向が強いっていう
全てに対して等しく揃いたいんじゃなくて
男性的なカルチャー自体があんまりコミュニケーションの
なんというか
綿密さを求めない感じになっちゃってる
とこがあるかなとは思ってはいて
大雑把である方が自分というものは確立されてるよねみたいな
他者に対するきめ細やかさの欠如になりがちみたいなところもあるかなって気はしてて
それがコミュニケーション不全になりがち問題は本当あるとは思ってるんですけど
ただまあそうじゃないものが欲しいっていう
だから他のトラックじゃなくってそれがそれが欲しいってなってるっていうのは
それもわかるんですよね
そうですね
本当にヤヘですか
吸ってからの描写はもうなんじゃこりゃでしたっけ
まず何をしてるんだみたいな儀式からやり
そっから口から出てきたあれは何ですかみたいなのかね
ギャーってしたけど
その後に文字通り繋がっていくような
幻影というか体感を彼は多分得たと思うんですけど
お互いの体の中に入り込んでいくみたいな感じ
あれも本当に多分求めてたものだったはずだったと思うんですけど
けど彼はその先にはいかなかったわけですよねみたいなこともちょっと考えるといろいろ
それは自分が求めてたものじゃなかったのかもしれないし
本質的にはやっぱりあそこまで深くは繋がれない
それが繋がりたくないって思ったのかもしれないし
なんであれ結局やっぱ自分の何か思い通りのものではなかったんだろうなみたいな
繋がったとてみたいなことにまたやっぱり気づいてしまう
場面だなぁと思ってだからすごい切ないなぁと思ったんですよねあの番が結構
繋がったと思ったんだけどみたいなのが
あそこまでエクストリームな過程にそう感じてしまったらもうちょっと
孤独そのものになっちゃうんだよなーっていうのはちょっと見てて思いました
あれちょっとやりたいですよ合体しちゃってるの
あそこマニアにあったやつですか?
いや他者は怖いなってそれへ取っ払いたさちょっとわかるかなっていう
僕結構その自分の自我が他の人から切り離されていることを楽しんでもいるんですけど
同時にそのそこで感じる孤独感みたいなのを一体化することで紛らわせたいみたいな欲求はあるっちゃあるかなと思って
ちょっと羨ましいなって思ってたんですよあそこ羨ましいなって思ってたけど
ただまあ同時に嫌だなとも思うところもあるというか
だから最後あのもっともっといけるよってあの博士が君たちもっといけるよって言ってるけど
買えますってやってるの僕あれあのエヴァンゲリオン9劇場版のラストやった
まあ確かに
確かになそうかなそうだな結果気持ち悪いってなって終わるみたいなところかもしれない確かにそうですね
やっぱ一体化とかキモいっすよって言って生きていくっていうのもなんかそういうことかなってちょっと思ってたんですけど
確かに確かに
やっぱ結果ね他者と関わるって多分それだけ圧力が生まれるものっていうのにも気づくシーンでもあったのかもしれないんですよねあれが多分もしかしたらですけど
深く入るということはというかその分傷つくこともあってみたいな
っていうのが多分まあの幻想的な本当にサスペリア的でしたけどあそこ本当に
ところから感じててあったから多分あのまま途中で帰っちゃったのかなとかはね思いました
逆に内面を男性がそのある人の自分のことを話すのが苦手な傾向があるっていうのはありますけど
内面をですね出したところでそれを分かり合えるかっていうところもある気はしていて
なんかより自分たちの本当のコアに触れてしまったらそれはそれで本当に人が離れていくっていう危険もある
よなあるいは自分の触れたくないところに触れさせなきゃいけないっていうことを認められないよなとかも思ったりするんで
孤独の価値
なんですかねだからあれはもちろん幻覚幻想であるというふうに捉えることもできるんだけど
本当にそうだというふうに捉えることもできるような気がして
そうですね全然そっちでも全然ありっていう感じですよね
表面的ではなく本当に繋がったんだけどその結果
あー俺やっぱ孤独だわって
だってね酔った勢いでね君と話がしたい言葉なしでって言うような人ですよみたいな
あのセリフも大好きなんですけど
だから言葉がなんて言うか言葉の内側にあるものが本当に綺麗なものというか本当に美しいものだとも限らないしっていう
いやーこれはどうすれば救われたんだろうな
ラストとか結構これ完全に終わり方全然もう終わりにしようとほぼ一緒っちゃ一緒じゃないですか
ほぼ一緒ですね
ほぼというかもうすごい孤独なラストを迎えますみたいな最後を迎えますみたいな感じでしたけど
最後ワンシーンっていうか本当最後の最後にそれこそあのポスタービジュアルのあれが入るじゃないですか
入れますね一瞬で
あれが最高だなって僕は思ったんですけど
その孤独も愛してあげてくれてるようなラストでもあるし
なんかその彼の願いかもしれないし
自分の世ではなかったけどまあ自分の世界ではみたいな
そういった繋がりと触れ合えたのかもしれないしっていうかいろんななんか余地が残ってるラストで
こういうダメな男が孤独のまま死にましたちゃんちゃんじゃない着地っていうのが本当に僕はすごい素晴らしいなと思いました
ちょっともう最後異人たちっぽい
そうなんですよねこれも異人たちっぽいんだよなって思って
すごい異人たちを連想しましたけどラストの一瞬のちょっとで
ああいうの弱いんだろうなっていう
僕は弱いなと思いましたし
しかも本当にそのゲイ男性の話どちらもそこに孤独にまつわる話として
それがやっぱりその結構普遍的に刺さるものとして
多分これからも映画が作られていくというか
こういう映画が頻発してるっていうのはすごい素晴らしいことだなというふうに思います
僕は南米で留まらなかったところでやっぱ孤独って楽しいのかもしれないなとは思ったんですよね
楽しいかもしれないというか楽しむしかない
それを楽しいということにするしかないのかなって思って
何でしょうね
孤独だからまあ人とつながって面白いっていうのはあるだろうしっていう
ちょっと言語化甘いんですけど
言語化甘いんですけど
結構やっぱ自我って大事だなとは思ったんですよね
やっぱ繋がったらそれで揺らいじゃうから
何だろうちょっと詰み甘いこと言ってんなって今自覚あるんですけど
でもなんかわかる気はすごいして
何て言うんですかね何かを共有することももちろん人間だから幸せなんだけど
さっきの文振りの話もそうかなと思うんですけど
個人の中で煮詰めたものってやっぱりその人にしかないオリジナリティだし
それを持ってそれが面白いって思ってもらうから他者とまた繋がれると思うんですよ
常に繋がってる状態ってだからSNSって僕あんまり最近距離置いちゃったりしてるのはあるんですけど
常に誰かと繋がってる状態だと孤独になれないと思うんですよね
そうすると他者の中の自分で生きなきゃいけなくなっていくというか
本当の意味で自分の中で熟成されていくものってあんまりなくなっちゃう気がして
それって結局人と話す時にもうそれ知ってる知ってるとか
この前これ言ってたよねそうそうで終わっちゃうというか
それ以上の何か深みみたいなものが自分の中にできないし熟成もされないような気がして
摂取したものを自分の中でしばらくずっと黙って温めておくそれは孤独であるってことだと思うんですけど
それが多分孤独を楽しむってことだしそもそもリーってめちゃくちゃ読書家だとするなら
彼はきっとそういうところを楽しめてる人だとも思うんですよね
絶対そうですよね
もちろんだからそれを人と繋げるのがすごく下手なんですけど
あとはいえやっぱりそういう面も人間にはあって多分孤独は必要で
そうですね孤独を知ってるからこそ人と深く愛したいというか繋がりたいという欲望欲というか
願いが生まれるっていうか
最初から繋がってたら多分その思いって多分すごくちっぽけなものになると思うんですよね
人と繋がるとかっていうことがやっぱりそれは孤独っていうことが
だから本当にこの絵が孤独を愛することと本当に人と繋がることっていうのが
なんかすごい大事だっていうことをめちゃくちゃ言ってくれてるなともそう思って
その辺が本当にめちゃくちゃ素晴らしいなと思いましたしみじみ良いと思いながら
劇場アートにしたって感じですね
逆説的にめちゃくちゃ繋がりたい人を描くことで孤独の良さもちょっと描いてるようにも見える
繋がったとして孤独も大事じゃん
本当に繋がることが幸せじゃないじゃんっていうふうにも見えるから
クィアのテーマと孤独
それはやっぱりこのさっきある意味モストクリエイティブの方かもしれないなと思いますね
この映画においてる
孤独を嫌がる人を描くことでむしろ孤独の大切さを描けてるっていう
そうですね
じゃあそんなところにしておきましょうか
ではそんなところでクイアーの話は終わっておこうかなと思います
ではお知らせになります
映画の話したすぎれば次回開催日は5月31日土曜日です
場所は大阪南大井町週刊周り19時オープン23時クローズです
またこの番組では大量募集しております
番組全体やテーマ作品に向けてご注意にお送りくださいませ
バーの最新情報次回テーマはxウェブインスタグラムにして告知しております
各ご案内は番組説明文をご確認くださいませ
それでは映画の話したすぎるラジオ第212回クイアーの回を終わりたいと思います
それではまたお会いしましょう
さよなら
さよなら
01:02:29

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