でもそれってどっちかというと普通側に立つ人の話のような映画なんだなって思ったときに、
なんかこれでこの気持ちわかるって言っていいのかなっていうのがすごく疑問に思ってしまって。
今とすることはわかるけど、なんかちょっとこれ飲み込んでいいのか飲み込みにくいぞっていうふうにどうしても思ってしまうみたいな映画でしたね。
なんかまたこのテンションなんですね。
このテンションなの?いや、まあわからないですけど。
ここから皆さんの話でどう話が転んでいくかとかね、変わってくると思うので。
じゃあここからがっつり喋っていこうと思うんですけど、その前にちょっとお便り、今回3つ来ていますので、
じゃあまずお便りちょっと読んでいきたいなと思うんですけど、まずは前田さんお便りお願いします。
M原さん、店長メンバーの皆様こんばんは。
テーマ映画の性欲、原作未読の状態で鑑賞しましたが、個人的には2023年下半期ベスト級の作品でした。
語りたいことはたくさんありますが、なんといっても、正常位のセックスの真似を行うシーンが最高でした。
荒垣由依演じる夏希と、磯村優と演じる吉道の2人が、正常位のセックスの滑稽さを笑いながらも、絆を確かめ合う場面は、
性嫌悪症の傾向がある自分には、よくぞ言ってくれたという喝采を送りたい気持ちもありましたし、
普通ではない2人が真に交わり合った尊いやり取りに感じられ、本当に感動しました。
この数年の映画で最も好きなシーンかもしれません。また稲垣五郎、荒垣由依をはじめとした役者陣も素晴らしかった。
特に稲垣五郎は窓目にて出演した役とは大きく違う、いわゆる普通の人、役でしたが、ちょっと嫌な感じが絶妙でしたね。
妻が自分に監視をなくし、料理がレトルトカレーや電子レンジ調理のオムライスになっても、不平を言わず食べる姿は絶妙に不憫で、改めて上手い役者だと思わされました。
妻子との関係も彼なりにはかなり情報しているんですよね。彼なりにはですが、自分には本当に突き刺さる映画でしたが、人によって見え方や感想が全く違う映画とも思います。
店長メンバーの皆様やリスナー各位のご意見、ご感想を非常に楽しみにしています。
それにしてもアサイリョー原作映画は今年も少女は卒業しないという傑作がありましたが、本当にハズレがないですね。素晴らしい。
はい、ありがとうございます。
正常位のシーン、すごい僕もよくて、僕はあのシーン見ててめちゃめちゃクリエイティブやなぁと思って、
意味を問い直していくというか、あ、そういうことみたいな、これをするためにこういう構造になってるんですねみたいな、
正常位を脱構築していくみたいな感じが、あのセックスのポストモーラーっていう、いや面白くてあそこ。
で、単純にやってることがすごく楽しそうなのもよくて。
そういう個人のことに紐づいてる話のレベルでそれをやろうとしたときに、
突き詰めると、そもそも最大公約数的なものなんてないんじゃないかっていうのがあって、
結局どのレベルで因数分解するだけの話じゃないですか。
異性愛者ですって言ったら、ノーマルだよねって、カッコノーマルですけど、
じゃあ女の人が目に涙溜めてるので性的に興奮しますって言ったら、
ちょっと珍しいかもねってなるけど、その線ってその時々でつまみ上げたものの捉え方でしかないし、
同じものをつまみ上げたって、それ見方によっては大多数だねってなるし、少数だねってなるかもしれないし、
めちゃめちゃ恣意的だし、使ってる人が自分の都合のいいタイミングで自分をマジョリティーかマイノリティーかを切り替えて表現してるじゃないかっていうものに思えてくるというか、
なんか互いに双方暴力的だなって思うんですよね、どっち側も。
あとやっぱりマジョリティーだから行きやすいとかでもないから、
その分け方をする意味ってどこにあるのかっていうのも、ちょっと本作、結構その行きづらさみたいなのも結構大きな要因、映画の中の要因になってると思うんで、
そこをどこに結びつけてるかっていうのがちょっと曖昧なんですよね。
そうなんすよ、切り締まるんだと各マジョリティーの人って別に行きやすくないよねっていうのを描いてたから、
あれ?逆戻ったってちょっと思って。
まあ映画と原作って多分違うから、同じね、アサイー両原作って軸では語れないかもしれないけど、
あれ?なんかマイノリティーとマジョリティーが恣意的に分断されたぞって本作見てて思って。
そこに関して、原作を読んだ上で特に映画というよりも僕は原作にそれを強く感じたのが、
多分そのマジョリティーとマイノリティー、さっき言ったようにどこに視点を当てるかで違うと思うんですけど、
結局視点の当て方自体では全員、すべての人間がマイノリティーになり得ると思うんですよ、どこかの観点。
例えば性欲に関して言うならマイノリティーになる人がやっているし、その線引きって多分個々人だと思うんですよ。
で、結構そこのカウンターの役割、今回当てがわれてるのはカンベ・ヤイコだと思うんですけど、
つまり彼女からダイヤに対して言うセリフっていうのが、「いや、でもあなたが線引いてんじゃないの?」っていうところを言うわけですよね。
私たち理解したいんだよ、みたいなところを言ってくる。で、なんかそれってある種そのマジョリティーとマイノリティーを描きながら全員が全員そのマイノリティー性を発信できる時代になったから、
あえてマイノリティーしか描かないことで、でもこれってみんなそう言ってない?っていう風に描けてるのかなって気はしていて。
なんかその線引きは全員が全員意図的にやっているからそう描いているのかなっていうのはちょっと思ったんですけど。
だからあの2人の間だって水でも違うかもしれないじゃないですか。
水のどこがいいのって違うかもしれないけど、
それはどうも完全一致してるように見える。
もしかしたらそれはお互い情報してるからかもしれないですけど、
なんかその誤差があるっていうのも描いてもよかったんじゃないかなと思って、
私ちょっと水が噴き出してるのがいいんだよね。
僕は水に沈んでいくのがいいんだよねみたいな、
その多様性と言われた先にある、
そっから先の細分化みたいなのがあってもいいんじゃないかなというか、
めちゃめちゃ実はカッチコシなんですよね、本作のカテゴライズって。
めちゃめちゃ多様じゃないというか、
なんかそれはそもそも本来のマジョリティである異性愛の中でも、
そっから先のめちゃめちゃ細かいわけじゃないですか。
そうなんですよ。
じゃあその水が好きって一色の、一つの色なんですかって。
そうですね、あとやっぱり趣味の解像度っていうのすごいわかるんですけど、
なんていうのかな、性的興奮って、
そんな公園でパシャパシャキャハハっていう感じのテンションではないんじゃないかなっていうのもやっぱりあって、
そう、そう、そう。
それも思いました。
それで、2人でダムとか行って、すごい爽やかなシーンもありましたけど、
サントリーのCMかなっていうぐらいの爽やかなシーンで、
いや趣味じゃんってなりますよね、そりゃ。
見てると、いいじゃんこれでみたいな。
2人で山登ってるみたいな。
そうですよね。
それと何が違うのっていう。
マイナス4浴びに行ってますみたいな風にしか見えないっていうのは、そう思ってる。
なんか何なんでしょうね、めっちゃあの2人の関係性というか特殊さみたいなものが、
すごい無垢な感じに見えるみたいなのが、
なんか危うくねそれもみたいなっていう風にすごく思っていて、
なんかそれだったら何ですか、危害加えないからいいんですかみたいな話っぽくも見えるじゃん、下手したらみたいな。
それはどうなんだみたいなっていう風にすごく見てしまってて、
やっぱそれはもう全部なんか、いろんなものがごちゃ混ぜになって普通じゃないものみたいなカテゴライズで、
なんか雑にこう提示して見せて、それで疑問を投げかけるからちょっとそこが飲み込みにくいんだけどみたいな風に感じるところなんですけど。
あのシーンを爽やかに見れてるのって、
結局僕たちが水妖精的に感じるっていうのがないと思ってるから、あのシーンを爽やかに見てるわけですよ。
あのシーンは異名的にはマスターベーションをしてるシーンじゃないですか、要は。
それを爽やかに見えてるっていうのは結局水に精的な興奮を覚えるっていうのはないですっていうのを、
僕たちが思ってるからああいうシーンに見えてるとは思うんですよ。
本当は精的な興奮を覚えてるんだったら、
高骨な表情をするのではって気もしたし、そもそも夜のシーンではしてたから高骨な表情。
あれ?これは単に水遊びをしている表情に見えるというか、
なんだろうな、なんかちゃう気がするんですよそれって。
わかんないけど。
ちょっとなんか騙されそうになってる気がするみたいな、
めっちゃそこになんか引っかかってるのがずっと見てる間なんか警告が頭の中に鳴ってるみたいな感じでどうしても見てしまってて、
なんかそれこそ僕、人でないものに恋をする?みたいなというか思って、
なんか映画でもたまにあるじゃないですか。
恋する遊園地とか僕思い出しましたけど、
遊園地のアトラクションに恋をしてしまった女性の話とかがありましたけど、
あれとかやっぱりちょっとなんか、彼女にとっては切実なんだけど、
なんかどこかちょっとおかしくもあって、
でなんかやっぱりちょっとドロドロした部分とかも描いていたはずだったんですけど、
今作そこがあんまないっていうのはいいのか?それってめっちゃ思ってましたね。
なんか本当に飲み込みやすく包まれちゃってるせいで、
やっぱりなんか結局多様性側になんていうかな、
僕らが立ちたくなっちゃうような、
多様性っていいよね、やっぱ彼らもインクルージョンすべきだよねみたいな意見にだんだんなっていくような、
なんかそれってすごい作品の意図とは逆なんじゃないかなみたいなこともすごい感じながら見てたんですけど、
それこそ多分原作の中で1個、僕好きなセリフがあって、
多様性とは都合よく使える美しい言葉ではない、
自分の想像力の限界を突きつけられる言葉のはずだっていう一説があるんですよ。
なんかそういうシーンが今回はなかった、とにかく。
そう、なんか、いやそんなことだったら勝手にやってくださいとしか思わないっていうか、
なんていうのかな、そもそもなんかフェチであったり、
自分の性的なものって別にそんなに人と共有しないじゃないですか、普通の、普段から。
だからなんていうのかな、この8さんも書いていただいてるんですけど、
結局その異性愛規範というか、私が今回すごい嫌だったセリフがあって、
2人でYouTubeでサトルさんを見つけて、これ違うの?ってなった時に、
私たちじゃない誰かなんだってなった時に、この人が1人じゃなかったらいいねって言って、
誰も1人じゃなかったらいいよって言うじゃないですか、
その時にめちゃくちゃ普通の価値観押しつけてくるやんと思って、
すごくなんか嫌だったんです、あのセリフ。
なるほど。
なんか結局誰かといたかったんだっていう、そことフェチの話って、
限りなく趣味が合う誰かといたいっていう話なのですかっていう、
それもすごく違和感があったし、
ありましたね。
別にそれを誰にも理解されなくてもいいって思ってる人ももちろんいると思うし、
誰かが理解してくれる、誰かがそばにいないことはかわいそうだみたいな意味合いのセリフに聞こえてすごく嫌だったんですよね。
素敵なセリフでしたけど。
なんかそのセリフってしかも特にですけど、
なつきは同じようなこと言われてめっちゃムッとしてたじゃないですか、職場の先輩みたいだから、
同じような似たようなこと言われてめっちゃムスッとしてるのに、
自分はあんなこと言ってるんだからなっていうのはめちゃくちゃ思いました。
何なんだろうなっていう、
つながりを求める気持ちはわかるんですけど、
やたらとそこだけに回収してくるなみたいなというか、
せっかく他とは違う、普通とは違うみたいなことに対するものを描くみたいな話のはずなのに、
なんかそこめっちゃ引っかかるぞっていうのはすごく思いました。
本作って人間の側面が性的思考しかないかのように見えるんですよ。
彼らって水に性的興奮を覚えるというより、
まずアロマンティックっていうのが近いのかなと思うんですけど、
恋愛感情を覚えないっていうのがあって、
彼らの生きづらさってどっちかというとそっちの側面の方が強いと思うんですよ。
恋愛感情を覚えないから結婚してる人の話を聞くのがしんどいし、
親の圧力も鬱陶しく感じる、だから生きづらいっていうのが強いと思うんですけど、
それって水へのフェテシズムとはまた別の問題だと思うんですよ。
そこで、でも彼らの関心の中心は水に対する性的思考になっていて、
それを共有できない人は孤独だっていうふうに評価するっていう。
でも僕、例えばインターネット見てても恋愛感情を感じない人、
あるいは性的興奮を覚えない人、アセクシャルとかアロマンティックっていう人たちが
映画とかポップカルチャーを楽しんでるっていうのを見たことあるんですよ。
だから別に性的思考だけじゃなくても人と繋がることはできるんですよ。
人間の側面多面的だから何かで人と繋がることはできるんだけど、
そこをそもそも持とうとしてない、彼らは。
それって性的思考の少数派生動向とは別の話じゃないですかって思って、
それを性的思考の話にすげ替えてる気がするんですよ。
そこじゃなくないって。
しかも彼ら、その唯一人生で楽しみを覚えてる水に対する性的興奮っていうことだけで繋がって、
それでそれ以外の人たちと自分たちを完全に分断するじゃないですか。
お前たちの価値観、性的思考しかないのってめちゃめちゃ反多様性だなっていう気がするというか。
しかも生きづらさに対する表現が、地元の友達に周りはみんな結婚しててとか、
親にもそんな空気出されるみたいな、いやそれ別に性的思考がどうとか関係なく。
僕らだって感じたことあるわっていう。
よく感じるやつなのだがっていう。
そこもすごくもったいないというか、そんなもんなんですかみたいな。
生きづらさそのレベルって思っちゃうじゃないですか。
それだったらみんな生きづらいよねみたいな話になっちゃうので。
そうですね。だからあえて極端で解像度低い言い方で表現すると、
彼らって視野の狭い寂しがり二人だと思うんですよ。
性的思考以外に何かを見出せなくて、かつめちゃめちゃ寂しがりというか、
それでつながることに意味を見出してるって、別にそれが悪いとかじゃなくて、
それ以外の人間のつながりってあるじゃないですかっていうことをしてないから、
性的思考のマイノリティであることとは別の要素が強い二人に見えるというか。
なんかそれを性的思考の話で、それに彼らは孤独って話されたら正直困る。
なんかだいぶずれてる気がする、それは。
そうですね。
結局そのずれが気になったのを見て、
結局これやっぱりなんかその、いわゆる普通側にいる人のためようの話だなって、
そうですよね。
なるじゃないですか。
普通の感覚じゃんって思いますね。
なんかそれいいのか本当にっていう。
これでなんか普通じゃないことあるよねみたいな、共感するのは本当に乱暴じゃんってやっぱすごく思うし、
なんかそんぐらいの解像度になんか留めちゃう雑な感じって。
申し訳ないですけど、この監督の前作の前科物の時にも思いましたけど、
同じじゃね?料理はって正直思いましたよ。
雑だなって思ってましたけど。
前科物よりも映像面でははっきりこの作品が良かったと思いますけど、
内容の密度に関しては一緒じゃないですか?正直って思ってしまいましたけど。
この二人、特になつきと磯村ハヤスさんが演じてた佐々木の二人における、
本質的な問題点って何て言うかな、問題点という言い方がいいのかわからないですけど、
既死念慮というか、世界に対する期待を全くしないことだと思うんですよ、どちらかというと。
原作ですけど結構それが描かれてるというか、そこの紐づきとして自分の特殊な性癖があるっていう描き方をしてるんですけど、
そんな異常な性癖を自分で自分の評価としてそういう性癖を持っている自分はいなくなればいいと思っているみたい。
むしろ問題はそっちじゃないかなという気もちょっとして。
本作、あんまりそこも役者さんの演技に任されているとはいえ、
あるいは最初に磯村さんがモノローグ的なところで、
明日当たり前のように生きたいと思っている人たちのもので溢れてるみたいな台詞があるから捉えられるんだけど、
あんまりそこの問題を重視してない感じがして。
むしろ二人になれたから一緒になれる、寂しがり屋が二人になってようやく一緒になれたのは、
それはそこがなくなったからだと思うんですよ。性癖が満たされる相手が見つかったからじゃなくて。
なのにそこがあんまり描けてないというかわかりづらくなっている。
原作読んでるから、原作読んでる人はそこを補完してそうだねって見れるんだけど、
そもそもそれを人の気持ち、あるいはモノローグでしか表現できないようなものをどう映像化するのかって、
多分非常に難しいところでもあるとは思うんですけど。
でも少なくともそこが欠けていたところは、ちょっとやっぱ原作を持ってたメッセージをすごい軽くしてしまった感じも少しして、
フランクに見やすくなっている。悪くも。なんか悪い意味でっていう。
そうですね。
だから割とあれなんですよ。結構忠実なんですよ。本作、原作と比べると映像化するポイントだとか、
映像としてその役者さんに演じさせるところとか、割と忠実なんですよ。今回原作と比較すると。
だけど、ただ映像化すればいいってもんじゃないぞっていうのもちょっと思ったというか。
原作は原作にできることがあって、小説は小説にしかできないことがあって、それをやっていて、
それに対する映画っていう立場が多分映画としてできることをしてない気がしたというか、
ただ映像化しただけに見えてきてしまったっていう。
なるほど。あとちょっとめっちゃ触れにくい部分を触れたいんですけど、
小異性愛者が出てくるのを、本作は非常にややこしくしてて、
本作って、心の内側は基本的に何を持ってもいいっていうのがスタンドとしてあったと思うんですよ。
そういうセリフもあったと思うんですけど、でも小異性愛って共有されないじゃないですか。
それで実際、本作でも悪として描かれてるんですけど、
なんだろうな、これ言い方ほんまに難しいんですけど、
小異性愛の人はいちゃいけないっていうか、
子供に対する性犯罪が行われてはいけないっていうのは、
僕はそれは絶対嫌と思うんですけど、
なんていうか、心の内側はどうしようもなくねって思って、
実際思っていることは発露するっていうのは本作でも描かれてたことだと思うんですよ。
それ言い出すな、みたいなのもあって、
あと、たぶんすごい大事なセリフなんですけど、
いなくならないよって言ってたじゃないですか。
それは、排除してもいなくならないよっていう、
それは水に性的興奮を覚える人もそうだし、
小異性愛の人もいなくならないよっていうことも含んでしまってると思うんですよ。
いや、これほんまに言い方難しいんですけど、
当て馬に使ってる、
違うんだよな、なんだろうな、ごめんなさい。
これほんまに言い方むずすぎて、ちょっとしゃべれないんですけど、
なんていうか、小異性愛に対して許容できるものになってる。
水に性的興奮を覚えることが。
でも、だから、
いや、もう言い方むずい。
この本作で小異性愛者を出すのであれば、
やっぱり、実際に行動を絶対に起こさせてはいけなかったと思うんですよね。
人間が心の中で、
何を考えても自由だっていうのは、本当にその通りで、
ただ行動に移してはいけないことがあるっていう。
そこに対して、行動に起こしてしまってる上に、
その行動の起こし方も最悪な、
最悪なケースを持ってきてるせいで、
これまで許容しろってことですか?みたいな気持ちにさせられてしまったというか。
私からしたら、結構すごい、やっぱり、
子供に対する性犯罪って、本当にめちゃくちゃ許せないことなので、
それがあった後に、あの二人が取り調べ室で、
自分の何ていうのかな、自分の中の譲れないものを主張するシーンとかも正直どうでもよくなってしまって、
いや、今それどころじゃないから、みたいな風に思えてしまって。
だからすごく嫌。本当にお便りで書いていただいてる通り、本当に悪手だと思いましたし。
そうなんですよね。
あそこであの例を出すことで、分断させようとしてるのかなって思ったんですよ。
そういうマイノリティとかに対しての。
ああいうのって分断ある行為の一つだと思うんですけど、
あまりにもちょっと極端に悪い例を持ってきて、
それで全体のイメージを悪くさせるみたいな手口というかレトリックみたいなもんじゃないですか、みたいな風にすごく見えて、
そこでこの人たちはあんま真剣に考えてないのかな、この辺の話みたいな風にすごく見えてしまうし、
本当に実際やっぱあれは起こさせないことみたいなのが大事というか、
実際に内心思ってる、内心の自由ってある人もいますし、
実際そういう人いると思うんですけど、
そういう人たちってやっぱめちゃくちゃ苦しんでるはずなんですよ。
実際できない、やっちゃいけないって分かってるし、
だからこそ自助グループとかがあったりもするだろうし、
そういうグループが見つけられなくて孤独で自殺を考えるとかっていう人だっているしみたいなのが見たことあるんですけど、
そういったのとかが実際ある中で、ああいう極端に悪い例を持っていって、
ほら、こういうのも許容できないんですか?とか許容できないでしょ?みたいな感じで問いかけるみたいなのって、
すっごいやだなやり方するよねってすごく思って、
いじわるとかじゃなくて、むしろ分断させようとしてるんですか?みたいな気持ちにすごくさせられて、
ここもなんかすっごい乗れなくて、どうなんだってすごい思ったところでしたね。
小児性愛の人が実際に求めている性的な行為に比べたら、水に性的興奮を覚える人たちの行為って、
はるかにこの世界に存在しやすいわけじゃないですか。
そうなんですよ。
単に水遊びしてるだけなんですよ。
そこで私たちはしんどいですっていうのもあるけど、
この人たち、したいこと絶対したらダメな人たちなんですけど、この人たちの救いってどこなの?って思って、
だから僕本作、そもそも性的指向に関する話って言われてたから、
じゃあこの2人って小児性愛なのかなって思ってみたんですよ。
めちゃめちゃ難しいテーマ挑戦するやんと思って、
絶対にやってはいけないという欲望を抱えてる人たちの孤独の話なのかなと思ってたら、
もっと事例としては珍しいって言ったらいいのかな。
わかりにくいというか少なく見えるけど、
もう何喋るのも言いにくいんですけどね。ごめんなさいね。
やっぱりさっきも言葉としてあったんですけど、無垢なものに見えてる。
水に性的興奮を覚えるっていうことが、だって性行為じゃないから。
でもそうじゃなくて彼らにとっては性行為なんですよ。
何だったらちょっと汚いことをしてるわけじゃないですか。
僕基本的に性欲って全部気持ち悪いと思ってるんです。
それをギリギリで共有してるものだと思ってて、
例えばそれって昨日会った2人で偶然上手いこと言ってるだけで、
本来的にはぶつけ合ったらめちゃめちゃ気持ち悪いものだと思うんですよ。
でも共有しないといけない。なぜならこの世界に存在してしまうのだから。
それを自分が理解できないもの、自分が本当は形容できないかもしれないものもこの世界にあるっていうことを理解するっていうのが
ダイバーシティなのかなって僕は理解してるんですけど。
そこで彼らの無作を物語が担保するんだとしたら、正直ずるいじゃないですかそれは。
何だったら、実際作中でも描かれてるけど、
いわゆる一般的な異性愛の方がよっぽど気持ち悪いことをしてるわけですよ。
なんかよくわかんない性情意っていう行為をして、よくわかんない儀式をしてる人たちで、
なんかよくわかんねえことをしてるわけですよ。
いや、性欲って気持ち悪いなっていうのがあると僕は思うんですけど、
その中で唯一水という清いものに喜びを覚える人たちっていう、
何かちょっと保証されてる感じが見えちゃってる。正直。
だってやってることただの水遊びなんだものっていうのが何かねって思います。
なんか私だったら、めちゃくちゃ調達するのが楽だから、
なんだろう楽だし、だって家で水出てくるわけだから、
なんかいろんなことできるじゃんって、
めちゃくちゃヤバい状況だぞ今っていう。
大丈夫かこのまま言ってってすごい心配にもなりました。
全身全霊をかけて証明できないのかな。
そんなに無理ですか。
私たち水に興奮するんですよねって。
実際あの写真以外に子供をどうこうした証拠なんて私たちの手元には全くないんですって。
そういう事例もあるんですっていうのを訴えたらダメですかあれ。
実際隣の犯人の宇野昌平さんは結構理解を示しそうな態度を途中から出してるじゃないですか。
そうですね。
結局彼に心開かないのはそちらの問題で後も取れるというか。
挙句の果てにオタクは家庭大丈夫ですかみたいな。
逆に尋問されるみたいなことになりましたよね。
家庭円満マウントをかけてくるっていう。
そう。
あれそうなんですよね。
なんかトータルやっぱりこの絵が何やりたかったんだみたいな風になっちゃうのかな。
これみたいな風に感じるというか。
収支ずれたところで話されてたなみたいなところかなって感じになっちゃうんですけど。
トータルはずっと見た時に僕も感じてた違和感みたいなのが、
今回改めて喋ってもよけいにそれは違和感だったなっていうのがはっきりしたんですけど。
なんか合わないなーと思ってたけど本当に合わなかったなっていう。
それは僕の、これもちょっと関係ない感じの話ですけど。
エンディングの曲もあんま好きじゃなかったんですけど。
バウンディーの。
この話でこんな曲流されてもなんか不運みたいな感じになりませんですか。
僕だけですか。これは僕だけですね。
なんか違う気がするぞみたいな気持ちになったんですけど。
あんまり音楽聞いてなかったかもしれないです。
私も終わった瞬間、これどういう風に話そうかなって。
音楽のテンションがこのしっとりした話に合ってるのかみたいなことが気になってしまう。
もちろん映画の内容自体にもすごく引っかかってる部分がすごいあったので、なんだかなーっていうのはすごく思ってたんですけど。
なんか終始勘どころを外した映画だったのかなみたいな感じがしてしまうなーっていう。
僕やっぱりあの大学生の彼女の話が一番飲み込みやすくて。
僕にも刺さった話で。
ちょっとやっぱ分かりにくく感じたとは思って。水に性的興奮っていうのを。
それをちょっとこねくり回しすぎてたんじゃないかなって気もして。
異性愛嫌悪って非常に分かりやすいというか、異性愛者に対する直接的なアンチなわけですよね。
アンチテイゼなわけだから、何ていうかそういうねじれの位置にあるものじゃないので、裏っかわだから想像をしやすいというか。