始まりました映画の話したすぎるラジオ第243回になります。この番組は、大阪で映画トークバーイベント映画の話したすぎるBARを開催している店長メンバーらによる映画トーク番組です。
私、映画の話したすぎるBAR店長の山口です。 マリオンです。大石です。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。お願いします。はい、えーと、今回が2025年の通常回のラストの収録になります。はい、ではまずオープニング入っていこうと思うんですけれども、マリオンさんいかがされてました?
そうですね、今週は1本話したい映画があるんですけど、みんなおしゃべりっていう映画を見たんですけども、これお二人ご存知ですかね?
タイトルは聞いてます。
一応どんな映画かっていうと、ポスターとかすごいローシャVSクルドジンっていうすごいサブキャッチみたいなのがついてるんですけど、
ローシャのコミュニティとクルドジンのコミュニティが同じ商店街の中にいて、その両者が喧嘩じゃないですけど仲田街していってしまうみたいな、簡単に話しちゃうとそんな感じなんですけども、
本当に劇中、日本語と手話とクルド語といろんな言語が行き交うような感じで、字幕もそれぞれ、字幕がデフォルトでついてるみたいな映画なんですけど、ずっと字幕がついてて、
けど、字幕も一個の演出のひとつというか、きちんと翻訳がされるわけではなかったりするんですよね。
たとえばクルド語とかも、そのままアルファベットというか、僕らが通常読めないような言語でバーって出てて、そのとき何て言ってるかはわからないみたいな。
たまたま日本語もわかる人が通訳してくれるときとかはその内容がわかったりするんですけど、
その辺すごく徹底しているというか、言葉って本当にいろんな言語があって、通じないよねっていうところをすごくしっかりやっているというか、
それぞれ使う言語というか、そこがすごいアイデンティになっているがゆえに、いろいろ圧力というか、こういう思いがこの言語にはあってっていうのが、結構両者いろいろ出てくるんですよね。
でもそのクルド人のコミュニティっていうのも、なんでお前らクルド語喋らないんだよとかって、
クルド人のコミュニティの中でも普段はトルコ語だったりを使うみたいなっていうのがあったりとか、
あと手話のローシアのコミュニティの中でも、ひとり多分アメリカからやってきた人がいて、
で、お子さんがいるんですけど、そのお父さんとか子供は多分アメリカ式の手話で喋ってる。
けど、一応日本という国に来ているので、日本の学校では日本語手話で話を聞いたりというか、
話せるように練習したりとか、そこへ溶け込もうとしてるとか。
あと、耳が聞こえる人の手話と、実際のローシャーたちが使う手話の圧力とかも描かれたりとか。
なんかすごい、いろんなトピック詰め込んでて、すごくいろいろ考えさせられるというか。
日本って単一の、これ違いますけど実際は、一つの言語で民族も一つみたいな言われ方しますけど、
全然そんなことないよねっていうことをすごく改めて実感させられるというか、そういう映画になってて。
これはすごいなというか、当たり前なんだけど、全然気づいてないことたくさんあるじゃんっていうことに気づかされるみたいな映画でしたね。
まず、タイトルというか、サブコピーのセンセーショナルさはすごい気になってはいたんですよね。
ちょっと過激すぎではっていう気もせんでもなかったんですけど。
この言語が複数にまたがるっていうのがちょっと興味深いなぁとは思って。
マリオさんがおっしゃられる通り、言語の同一性って言ったらいいんですかね?って、民族って意識にすごい寄与してるじゃないですか。
言語を共有している、我々は単一の民族ですよねっていう意識が働きやすいと思うんですけど、
そこで、クルード人の人たちが使ってる言語っていうのが、我々じゃないっていうふうに感じてしまうところとしてあると思うんですけど、
じゃあそうなった時に、手話って我々って感じてるのかなって。
それが日本語の手話だったとしても、もしかしたら少し違うものとして感じているのかもしれないなって。
それ自体がちょっと気づきというか、問題提起として面白くもあるし、少し怖さも感じる部分としてあるなぁとは思って。
自分、ちょっとそこに意識行ってなかったんだみたいな気づき自体にちょっと怖さも感じるなぁと思ったりとか。
あと、ちょっと聞いてて思い出したのが、ヨーロッパ新世紀っていう映画を思い出してたんですけど、
あれも確かルーマニアかどこかが舞台で、劇中でルーマニア語とドイツ語と英語とフランス語ぐらいが入り混じって、全部が違う色の字幕として表現されてたんですけど。
さらにそこにアジアから稼ぎ出てる人たちがそれぞれの言語を喋るけど、その人たちには字幕をつけないみたいな意図的な演出がされてて。
その言語が入り混じっているっていうことを演出としてやるっていうのが結構すごいなって思うし、それを日本の作品でもやってるんだなっていうのは興味深いですね。
それこそ、さっきの手話の話ちょっとだけ深掘ると、僕はこれ見てないんですけど、ただマリオさんがさっきおっしゃってた、手話にも2種類あるって話とか。
結構それは割と自分は知識としては知ってるんですけど、日本語対応手話と、いわゆる老舗の方々、日本の老舗の方々が独自のコミュニティの中で作っていった手話っていう。
基本的にはネイティブはむしろそっちで、日本語対応手話っていうのは長者側に寄せたその手話なんですよね。
多くの場合、テレビとかで多分翻訳として流れてるものの一部はそうだったりするっていう、それで批判が飛んだりするんですけど、よく。
なんかその辺の解像度、例えばさっきのクルド人の中でもクルド語とトルコ語があったりとか、もちろんそれは生まれた地の国が違ったり、それぞれのバックグラウンドが違うんでそれはそうなんですけど、
なんかその言語って切り口を、そういうふうな多様性の描き方として描くんし、まさにアイデンティティってさっきおっしゃってましたけど、
なんかそうですね、もういわゆる僕らは普通に共通民族だと思い込んでるじゃないですか、日本って。
だからこそちょっと排他的になりやすいっていう、良くない面があるなと思ったりするんですけど、
なんかそれを絵師場の中で、いやいやそれだけじゃないでしょっていうところにしっかり視点を持たせてくれるし、
さらにそこの解像度まで深めてくれるっていう意味で、めちゃくちゃ解像度高い作品だなっていうふうに思って、ちょっと見たいなとは思ってました。
いや本当にすごいですね、解像度高いというか、本当にああそうだなっていう、すごい気づきが本当にやっぱあるというか、
で、ほんと手話の話も、僕もなんとなく知識としては知ってたんですけど、
老舗の方が実際に使う手話と、県庁舎というか、耳が聞こえる側が使う手話って違うっていう話とか、
あとね、本当に手話のコミュニティの中でもほんの一部の地域でしか使ってないやつとかもあるとか。
そうですね、ありますあります。手話の方言みたいなやつですよね。
そうそうそう、方言みたいな、もう近いですけど、でもそのコミュニティが消滅したらもうその言語なくなっちゃうよね、みたいな。
っていう、そういう危機に直面してるというか、だからこそ自分たちの言葉を守らなきゃいけないみたいな気持ち、
すっごいなんか節々からあるというか、っていうのはすごい感じられるんですよね。
で、やっぱりクルード人のコミュニティに関しても、劇中ちゃんと出てくるんですけど、
クルード人って本当にいろんな国にまたがったところにあるので、
なのでトルコ語を喋る人もいるし、アラビア語を喋る人もいるし、みたいな、
なんかそういうグラデーションというか違いが本当はあってっていう、そこはまた難しいなぁとも思いますし。
で、結構そこでやっぱ、ローシャのコミュニティとクルード人のコミュニティの中にちょっと板挟みになるキャラクターがそれぞれ出てくるんですよ。
ローシャ側ではいわゆるコーダですね。
ローシャの家族で唯一耳が聞こえるみたいな、っていう娘、その人が主人公というか、女の子がいるんですけど、
で、クルード人側の方では日本語ができる男性、子供がいるみたいな。
たぶん設定としてはマイ・スモールランドとかとすごい近い感じの。
そうですね、近い感じですね。
で、ほんの些細な行き違いかなんかで、ちょっと喧嘩みたいになっちゃうところからこれ始まっちゃうんですけど、
結構面白いなと思ったのが、そこで何があったのかっていうか、なんとか中を取り戻そうとしてしっかり通訳というかするんですけど、
結構伝え方のニュアンスというか、スタンスが違うっていうのとかもあって、
言われたものをそのまま翻訳する人と、言われた内容をちょっとこっちで要約して伝えるとか、
要約してとか、もうちょっと口を荒く言ってたのを音便にして返すとかっていう、その辺のスタンスとかあって、
じゃあ本当はこれどっちがいいんだろうね、みたいなのがあって、わかんないなって、すごい考えさせられたりとかもしたんですよね。
あー、なるほど。
いやー、もうちょっと気づきが多すぎて、面白すぎるっていうのもあるし、もうテーマとしてすごいなと思いますし、
あとこの映画、最後とんでもないことになるんで、とんでもないことというとあれですけど、そんな終わり方ある?みたいなっていうものが見れますので、
そういった意味でも驚きますので、ぜひぜひこれは必見な映画かなっていうふうに思いました。
なるほど。
はい、今週はこんな感じです。
はい、おいさんいかがされてましたか?
えっと今週はですね、配信されている、結構劇場スルーになっちゃった作品って、ちょっと話題になってるやつだと思うんですけど、
ルカガダニーノの新作がAmazonプライムで配信スルーになってましてですね、
アフター・ザ・ハントってやつなんですけど、これがちょっと喋りたくて、結論があるとめちゃくちゃ好きなんですよ、この映画。
で、ストーリーはちょっとターとかに近いような話のようにも見えるし、
ですね、なんで、舞台は家大学、大学なんですよ。
で、哲学科の教授をジェリア・ロバーツが、まあこれが主人公になるんですけど、
で、彼女が、要は職を取れるかどうかの瀬戸際なんですよね、その。
はい。
あー、ディア・ストレンジャーの西島秀俊みたいな感じですね。
そうそうそうそう。アカデミーやると結構そこはめちゃくちゃあるあるだなっていう感じなんですけど、
そのちょうど助教、准教ぐらいで、普通だと多分残念感に1回で定期で更新されてくんだけど、
そっから本当に教授職というか研究室を持てるかどうかみたいなポイントに立っていると。
で、彼女の同僚としてアンドリュー・ガーフィールドが演じる男性の教員もいて、
で、彼女たちは哲学科に属してるんですけど、で、そのアンドリュー・ガーフィールドの同僚、多分ほぼほぼ同じポストの人がいると。
多分研究分野もかなり近いし、昔からのある程度仲はある人なんだろうなっていう、まあちょっと小田中でもあるんですけど、その2人が。
で、ジェリア・ロバーツは小田中なんだけど、結婚してるパートナーはいるっていう状況なんですよ。
で、その中で、アンドリュー・ガーフィールドを演じる男性教員に性的暴行を受けたと訴えてくる自分の教え子が出てくるんですね、女性の。
で、そこから、まあある種そのアカデミックにおけるセクハラ問題みたいなところが転がっていって、
それがこうどう主人公たちの関係性をこう巻き返していくかというか、巻き込んでいくかっていうような話になるんですけど、
まあだからキャンセルカルチャーとかのことを結構しっかり描いてるっていう意味で、すごい他に近いテーマ性を抱いている映画ではあるんですけど、
これ僕すごい良いなって思ってるのが、ちょっとね、今回の片井坂にもまたこれ通じるんですけど、
その肥大化した、てか内面化された社会性と実際の個人的な感情をどう折り合いつけるかって話になってるのが、僕すごい良いなと思ってるんですよ、この映画。
まあある種セクハラを受けてしまった、というか性的暴行を受けてしまったと訴える女子生徒っていうのがいて、その女子生徒がある種はウォーク的に描かれるんですけど、
ただ彼女は最初にジュリア・ロバーツ演じる主人公に、まあそういうことがあったんだっていうのを訴えに来るわけですね。
で、その訴えに来て、で、助けてほしかったんだけど、ジュリア・ロバーツはアンドリュー・ガーフィールド、加害者であるアンドリュー・ガーフィールド、ちょっと濃い中である。
プラスアルファはその、自分のライバルでもあるっていう関係なので、過剰に落としてもそれはそれでっていう。
だから、なんかのらりくらりかわそうとするんですよ。
で、それをやろうとするんだけど、結局その大学側に訴えられて公になっていくと、アンドリュー・ガーフィールドを罰するというか、避難するような感じに徐々になっていく。
ただ、その性的暴行を受けたと言っている女子生徒も女子生徒で、まあ多分それはある程度は事実なのかもしれないっていう描き方にバランスになっているんですけど、
結構真実破の中的な感じではあるんですが、そのある程度は多分アンドリュー・ガーフィールドやったんだろうなっていうふうに見ながらも、
ただ、なんかジュリアロバーツ側に特別な感情を抱いてないとも描かれてるっていう。
ここは多分ルカ・ガダニーのらしさなんですけど、っていう三角関係者に見えなくもないんですよ、この映画。
アカデミックだし、実際起こっていることは非常にショッキングな出来事が起こっているというふうに描いているんだけど、
あくまでそういうふうな事件が起こったという体で話は進んでいくんだけど、果たしてこの3人本当にそうかっていう。
裏に個人的、もうちょっと別の感情で動いてないっていうのが、ところどころで見え隠れするところがめちゃくちゃ面白くてですね。
なんかその女子生徒側もちょっとだけどうやらジュリアロバーツに恋心らしいもの。
それは少し錯覚かもしれないんだけど、それを抱いているようにも思えるし。
で、ジュリアロバーツはジュリアロバーツで、めちゃくちゃ秘密主義的なものすごいプライベートをひた隠しにする、
自分の感情をひた隠しにするキャラクターとして出てくるんですけど。
で、ある種の欠陥も抱えてるっていうキャラクターなのがどんどん見ていくとわかるんですが、
なんかその完璧じゃなさというか、ほころびみたいなところの奥にある真相みたいなものを聞くと、
てか最初の事実はちょっとヒントとして出てくるんですけどね。
それを聞くと、ああってことは性的暴行ってあったのかなっていうのも、そしたらもうなんか揺れてくるみたいな。
その中で社会は彼女の側、要は性的暴行を受けたということを公言した彼女の側にどんどん社会というかメディアみたいなものは煽られていくというか、
そこをこそ応援していくんだけど、真実ってどうなんだろうっていう。
で、これ多分ちょっと危険なポイントもあるような気がしてて、いわゆる相対主義的な描き方ではあると思うんですよね、すごく。
実際に起こったことを少し相対化するような視点がある。
で、これ多分エリントンもまさにそうだなと思っているとこなんですけど、相対化してちょっと冷床主義的にも見えるんだけど、
一方で過激化するイデオロギーによる対立みたいなものの裏側にはもっと個人的なものがあるかもねっていうふうに、
その社会の問題にする前の個人の問題っていうのを描いているようにも思えるんですよ。
なんとなく今年そういう映画、僕すごい多いなと思っていて、
それこそベイビーガールとか僕もそういう映画だったなって思ったりするんですけど、
あとワンボタラースターアナザーもそうだと思っていて、
アメリカがある意味そういう映画というか、通常なのもそうなのかもしれないし、
そのエリオロギーで対立していくというか、その暴走していく部分にちょっと相対主義でもいいから、
一回冷静になってみようよっていう視点をなんか、
今提示しようとしているのかなっていうのがちょっと隠れしたりしていて、
そういう意味ではその、結構いろんな映画今年ありましたけど、
その中の上手い落とし所アフターザサンとはやっているような気がするなっていう意味で、
僕はすごいこの映画面白かったです。
見てないので、あくまで今聞いた範囲での受け取り方で喋っちゃうんですけど、
ロガガダニーノって、今世間一般でこの立場の人は正しいっていうふうに言われる傾向があるとか、
あるいはその正しくないって言われる傾向があるみたいなのに、
あんま乗っからないなっていう感覚があるんですよね。
その立場が弱いと言われる側であるとか、
あるいは少数者って言われる側の人が別に正しくあるわけじゃないみたいなことも描いてくるなっていうのはあって、
で、それってフェアでもあるし同時にちょっと危なっかしさもあるとは思うんですよね。
ただ彼のスタンスとしてそこのフェアネスをかなり重視してるんだろうなっていうのはすごい感じるんですよ。
そこは面白いですね。やっぱそういうふうに作ってくるんだなっていう。
で、そこはやっぱりちょっとターと違うと思うんですよ。
そうなんですよ。
やっぱりターって、女性がそういう男性社会の中で権威の側になったら同じように振る舞いますよねっていうのを誇張して描いてたから、
そこのフェアネスみたいなのはあんまりないというか、
やっぱりちょっと誇張されたものとして描かれてたと思うんですよね。
なんかその個人の中にある複雑さの平みたいなとこはあんまり描いてなかったと思うんですよ、ターは。
あくまでこういう構造の話、で、その構造の中に女性を当てはめたら結局男性と同じような振る舞いになりますよねって、
もちろんその女性ならではの見え方もしてるんだけど、
やっぱりその構造の話になるというか、その個人の被弾の話はあんまりしないなっていう感覚はあったんで、
まぁ今回、アフター・ザ・ハントはそこを描いてんのかなーっていう聞いてる限りの感想です、これは。
そうですね、もう大方その感じで期待してみてもらったらいいのかなと思うんですけど、
いわゆるどちらが間違いでっていうのをすごい断罪的にも描かないし、
まさにその一番好みの映画で多分加害的に描かれるであろう男性の、アンドレ・ガーフィルドがやってるんで、
その辺のね、繊細さもね、結構見事に描かれてるんですよ。
なんていうか、やってることはこいつって思いつつ、ただ確かにちょっと信じたくなっちゃう可愛げもあるなみたいな、
絶妙なバランスで全体的にこう、人物描写が描かれていくんですね。
なんかその辺りのその役者の配置だったりとか、あと絵的にもこう結構切羽詰まるというか、息が詰まるような絵も多い中で、
とはいえやっぱり美しさもしっかりドカガダネードなんであったりはする。
詩的なところもあったりはするっていう、なんか全体的にすごいバランスよく作られてるなっていう感じもありつつ、
2025年の映画になってるなっていう気がしたので、もちろんこれ劇場を描かれづらいのがすごい理解ができるんですけど、
なんか液晶で見たかったところもちょっとあるし、
まあでも配信で逆に広く見れるっていうのは、それはそれでいいのかもしれないなぐらいに思ったりはしたっていう。
そのぐらい結構好きな映画でしたね、アフター・ザ・ハント。
いや見なきゃなーと思ってたんですけどね、僕もねーっていう、見てねーよーっていうこれもあるし、
ナイブズアウトの新作も起きてるしみたいな感じで、
配信がすごい溜まってるなーっていう状態なんですけど。
そう、あのJ・キリーとかもありますからね、これも僕見たんですけど。
J・キリーねー、まあ僕映画館でそれは見たんであれなんですけど。
あ、なるほど、はいはいはい。
そっかー。
ちなみにちょっとだけ言うと、J・キリーのラストとアフター・ザ・ハントのラストはちょっと似てるので。
あ、ほんとですか。
はい。ただ、アフター・ザ・ハントの方が、そこそんな飛躍するんだっていう。
へー。
ちょっとびっくりしました。ここまでここ、なんかこのトーンで描いてたのに、最後その飛躍で終わるんだっていう。
えー、いや、あのー、J・キリー見てない人にとっては何のこっちゃって話なんですけど、感動的じゃないですか。
はいはいはいはいはい。
いやもうあれはちょっとね、泣いちゃうなーっていうラストだったと僕は思ってるんですけど。
もう映画とはっていうね。
で、やっぱそういうのが僕ら好きになっちゃうなーっていうのもあるし、
で、そこがまあこうね、リアルとフィクションがないまぜになった感じですよね、もう最近あれはね。
っていうので、すごく素晴らしいラストだなって思ったんですけど、
アフター・ザ・ハントもそれに近いっていうのが、ちょっと全然想像つかないですね。
そこの部分はちょっと違うんですけど、ある意味最後のトリックというか、ちょっとした飛躍。
本当にラストのラストの飛躍が全く同じだったので、ちょっとびっくりしたっていう。
へー。
もうね、あの誤解を恐れず言うと、むちゃくちゃ面白いんですよ、これが本当に。
本当に、あの極崎健三氏が強烈すぎるんですよね。
で、冒頭始まって最初に彼の自宅兼店舗みたいな建物のシャッターがあるんですけど、
田中角栄を殺すために記すっていうのがバーンって描かれてるんですよね、シャッターに。
本人の次長のタイトルっぽいんですけど、だからあの宣伝のために書いてるっぽいんですよね、それ自体は。
で、同じ文言が書いてある、そのエディントンにようこそへ出てきたみたいな選挙カスタムカーみたいなのに乗ってるんですけど、もうね、超ド級の犯罪者なんですよね。
まずあの、障害知事事件を起こしてるんですよ。
で、あの人を殺して服役してて、あと公共の産画で天皇に向かってパチンコ玉を打ったりとか、あるいは天皇のポルノを、ポルノ写真をビルからばらまいたっていうので善か惨犯のなんですけど、
で、もう徹底的に天皇広人を断罪するみたいな感じで、もう天皇批判、天皇性批判を行い続けてるアナーキストなんですよね。
で、あの、住んでるのが神戸なんですけど、12月23日、昭和天皇の天皇誕生日になったら、公共に行って演説するんですよね、公共の周りで。
で、まあそこに警察とか、もう多分公安らしき人とかがもう集まってきているんですよ。
もう多分、もうご存知、奥崎憲造みたいな感じで、もう要注意人物のはずなんで。
で、その、そこで彼が天皇批判をしている横で右翼外戦車が通っていくとかっていう、もう強烈な笑顔があったりとか、あの、すごいやこれってなってるんですけど。
ただ、まあそこでね、彼がまあ、その、自分が所属していた部隊で、その兵隊がどうも重殺刑に処されたらしいと。2名。
ただ、どうもそれが終戦後に行われたっぽいっていうので、彼がそれを追求していくんですよね。
で、もともとこのドキュメンタリーの撮影自体は、あくまで奥崎憲造氏自体の面白さに着目して撮り始めたっぽいんですけど、
そこからその重殺刑の真実を追求していくっていう部分にフォーカスした方が、より面白いんじゃないかってことで、
そこにどんどん話の焦点が当たっていくんですよね。
で、今話って言ったんですけど、これドキュメンタリーというよりは、かなりフィクションとドキュメンタリーの境目が怪しい作品で、
その奥崎憲造氏自体がどんどん、なんていうか、演じていくんですよね。こういうキャラというか。
だんだんその被写体であることに乗っていくというか、利用していくというか、より過激に振る舞おうとするし、
カメラの側もその過激さを煽っていくような共犯が生まれていってるんですよ。
本作、ドキュメンタリーの中でも際立っている点として、そのカメラと被写体の共犯関係、その虚実入り混じった殺気にある真実みたいなものがすごいみたいなので、
よく言われてるっぽいんですけど、見ててこれいいのかって思うんですよ。
これはいいのかっていう、こんなことやっていいのかっていう、その追求していく先で旧日本兵、自分が所属してた部隊のいろんな人たちをやったことを暴いていくんですけども、
その人たちはもうそこで起こったことを本当は墓まで持っていきたかったんですよ。
暴いてしまうのか、なるほど。
いや、これを言わないのはお互いのためにそっちの方がいいでしょうみたいな、そういう妥協は彼は許さないんですよね。
でもその追求される側も、人生も黄昏を過ぎて、あとは人生を畳んでいく段階に入っているような、もう老朽に至っている人たちの過去の罪をゴリゴリに暴いていくんですよね。
その周りに、その人の奥さんであるとか、あるいは孫とかが映るんですよ、画面の端に。
これ自体は、もちろん僕、その戦争犯罪とかちゃんとあわかれるべきだと思いますけど、彼らの人生にここまで踏み込むこと自体はいいのかみたいな、その感情も同時に生まれるんですよね。
なんかその、同時にいいのかでも必要なんじゃないかみたいな、二律兵犯が見てる側の心に生まれ続けるし、それをやってる側も、ドキュメンタリーというよりはわざとそうやってるっていうのが、ちょっとあまりに倫理的に危うすぎるんですよね。
ちょっと強烈すぎましたね。さすが伝説的な一作で、僕ずっと名前は知ってたんですけど、見るの怖かったんですよ、本当に。怖すぎて。
今回のきっかけがなかったら、もうずっと一生積んどこうかなって思ってたんですけど、いい機会だと思って見たんですけど、いやちょっとこれはね、恐ろしい作品だったなぁと思いましたね。
本当になんか、人間のむちゃくちゃエグいところを描き出している。それはその旧日本兵の人たちもそうだし、奥崎健三氏その者もそうだし、その監督の原監督撮ってる側の内面もちょっと浮き彫りにしちゃってるような恐ろしさがある一作なんですよね。
見ててちょっと思い出した作品、これもドキュメンタリーなんですけど、アクトブキリングっていうドキュメンタリー映画があるんですけど、これがインドネシアで、たぶん1960年代かな。
サハの人たちを民間の自警団みたいな人たちが虐殺していったっていうのを、その党人たちは悪いことしたと思ってないから危機としてそれを語るんですよね。それをじゃあ当時の様子をもう一回演じてくださいって言って、それをカメラに収めていくっていうドキュメンタリー映画だったんですけど、本人たちはもう英雄的に振る舞ってたりするんですよね。
地元の名刺とかになってたりするんですよ。当時虐殺を行ってた人たちが。で、そのある種の英雄譚として、その虐殺行為を語っていくっていうのをカメラに収めるっていう、その虚実入り混じった感じっていうのに少し通じるものがあると思って、今すごい恐ろしいものを見てるなっていうのがあるんですけど。
ただ、ゆきゆきって新聞がより恐ろしいのは、その映像内で演じてるっていうのを自覚的に演じてるんじゃなくて、大崎憲装氏本人がその演技じゃなくて乗っかっていくんですよね。
演技じゃなく、自分はこう振る舞うのが自分なのだっていうのを出していくんですよ。その彼自身の多分義憤で行動してる部分もあれば自己顕示欲もあると思うんですよね。そのもうすごいいろんなものが入り混じったものをさらに虚実もぐっちゃぐちゃな状態で見せられて、
これはいいのかみたいなのがもうラストまでずっと続くんですけど、さらにラストがすごいんですよね。その虚実入り混じったものの果てにカメラっていうものを通じて虚構の先にある真実っていうのを見せられる続けた後で、そのカメラを経てない純粋な真実としてあまりに強力な爆弾がラストにポンってあるんですよ。
だから実際に調べたら簡単にわかる事実としてあることがラストでポンと描かれるんですけど、これがさらにその虚実入り混じった先にある揺るがしようのない真実がさらに恐るべき物事として全てをぶっ壊してくるんですよね。
ちょっとこれね、凄すぎるんですよ。で、今ちょっとテンション高く語ってることさえ僕ちょっと危ういなと思うぐらいには良くない作品です。これは本当に。あんまりお勧めしないかもしれません。僕はもうこれはもうやっちゃいけないと思うんですよね。ドキュメンタリーっていう手でこれをやるのは良くないと思うから、今回のエディントンへようこそみたいにフィクションでやるべきかなって思います。
ドキュメンタリーとしてこれをやるのは僕はもうやってはいけないんじゃないかなっていう。ただ、それをやれた時代に撮られた映画として恐るべき一作であることは間違いないとは思いました。すごいですよ、本当に。
そうですね。僕も見たことあったんですけど、ギョッとしますね。最後何やったっけって思い出したら、あ、あれかーって今思い出したんですけど。でもなんて言うんですかね、このある種の過激さが、ある種痛快ですらあるって、なんて言うんですかね、今のSNS社会的だなってちょっとすごい思うんですよね。
言い切っちゃう人に憧れるじゃないですけど、そこに乗る、乗っかっていっちゃうみたいな、それが良しとされちゃうみたいな感覚のある意味走りでもあるよなって、今思うとそういう存在でもあるなって思うんですよね。
そうなんですよね。僕もそれ見ながら思ってて、この映画の中ではカメラが他者の視点として被写体自身の行動に影響を与えちゃってる。もともと持ってる彼の義憤とかある種の善戦みたいなものとは別の行動指針がそこに加わっちゃって、それがより過激なものとしてこの社会に投影されてしまってるんですよね。
それってインターネット、特にSNSが簡単に実現できてしまってる。だから当時はまだカメラっていう選ばれし者だけが関われるもの、映す側も映される側もあくまで選ばれた存在だったものが全員そこに関わっていけるから、本来持ってたモチベーションをより専用化したものに勝手になっちゃうみたいなのって今いくらでもあると思うんですよ。
なるほど。だからバズの呪いみたいなものの走りがそこにあるんですね。
のように見えるなーってちょっと今思うとですけどね。
確かになるほどなるほど。
ただ本作自体は彼が最終的に捕まるんですよ。収監されるんですけど、その後でこの映画が公開されてるから、奥崎氏自体はそのバズの部分には関与できてないというか、あんまり認知してないはずなんですよ。
たぶん映画がヒットしたこと自体は知ってたと思うんですけど、実際には見てない。その自分の行動にその映画のヒット自体はあんまり影響与えてないんです。少なくとも映画の段階では。
なるほどなるほど。
だからどっちかというとその見られているっていうことが彼の行動を加速させていったっていう。