始まりました、映画の話したすぎるラジオ、第203回になります。この番組は、大阪で映画トークバーイベント、映画の話したすぎるBARを開催している店長メンバーらによる映画トーク番組です。
私、映画の話したすぎるBAR店長の山口です。
マリオンです。
大石です。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
お願いします。
はい、では、近況の話から入っていこうと思うんですけども、マリオンさん、いかがされました?
そうですね、今週は、ヨルゴスランティモスの初期作を映画館でやってるってことだったので、
キネッタっていう長編デビュー作と、アルプスっていう作品と、
ヨルゴスランティモスが制作で、出演もしてるアッテンバーグっていう映画の3本を見てきたんですけど、今週。
ただ、全然意味がわかんなかったので、したっていうことしか特に喋れませんっていう。
なるほど。
ギリシャの奇妙な波っていうムーブメントがあるらしいんですけど、そこからヨルゴスランティモスとか生まれてるわけなんですけど、
今まで見てきた通り、奇妙じゃないですか。
あれがもっと再起走ってるとああなるんだ、みたいな。初期作の再起走り方とかでもちょっとびっくりしましたけど。
話よくわからんし、わからんというか、
ずっと支配と束縛とかの話をずっとしてるっぽいんではあるんですけど、
あまりにも、「で?」っていう感じはするというか、話があまりにも進まないしよくわかんないしみたいな、
奇妙なことになってて、特にキネッタはちょっとよくわかんないってまま終わっちゃって。
アルプスの方はまだもうちょっとわかりやすい方だったんですけど、にしてもなんじゃこりゃって感じの映画になってたので、
ぜひ機会のある方はぜひ見てみてほしいなっていうか、なんじゃこりゃってなってほしいっていう感じでしたね。
全然やってるって知りませんでした。
そうですね。たぶんミニシアター、今回第7芸術劇場で見てきたんですけど、
ちょっとそういうポツポツとやってるみたいな感じですかね。
たぶんジャイホーとかの辺かな?ストレンジャーとか、あとグッチーズフリーズスクールのあれを書いてあったような気がしたけど、間違ってたかもしれないですけど。
ちなみにランティモス以外のギリシャ映画とかもやってるんですか?
例えばリンゴとポラロイドとかも確か奇妙な波を一つに数えられたりすると思うんですけど。
から出てきた監督さんですよね。クリスタント・フーニフみたいな人ですね。
その人のは入ってないかな。あくまでランティモスが関わっている3本みたいな感じですかね、今回。
ランティモスの特集上映ではあるって感じなんですね。
そうですね。ある意味そういう感じですね。
で、最近カゴの中の乙女のリバイバルもやってたじゃないですか。
なのでそれもちょっと合わせてもあるのかなっていう感じですけど。
カゴの中の乙女も試写の方で見せてもらったんですけど、それを見てなかったんでちょっと見たいなって見たんですけど。
あれも訳わかんない話だったなっていうか、あっちの方がすごいわかりやすい話だったんですけど。
まあ奇妙で気持ち悪い話をやってっていう感じで素晴らしかったですけど。
ちょっと今回の3本はちょっと難しいよって感じがしたので。
まあまあでも触れてみて全く無駄だったかってそういうわけじゃないんですけど、すごく興味深い作品たちでしたね。
で、まあちょっと先週ちょっといろいろアカデミー賞関連の映画を見てたんで、僕はそっちの話をちょっとメインに今回したいなって思ってたんですけど。
コンプリート・アンノーン、名もなきもの、コンプリート・アンノーンなんですけど、ちょっと見てっていう話をしたいなと思ってて。
僕全然ボブ・ディランのこと全然知らないで見に行ったんですけど、なんかボブ・ディランってめちゃくちゃすげえ人なんやっていうかかっこいい人なんやっていうのを今回の映画で初めて知るみたいな感じでした。
なんか結構ボブ・ディラン詳しい人からちょーっと聞いたんですけど、ボブ・ディランってずっと長く活躍されてる人じゃないですか。
なので結構色々こう曲の変遷というかどういうことをやってたかの変遷がいろいろ歴史が長い人で、どこを切り取るかみたいなのが結構難しい人らしいんですよね。
なんか一本の映画で全部の人生まとめるとかはとてもじゃないけど、無理っていう。
ちょっと変わり種でやった映画はあるんですけど、全部のボブ・ディランを複数の役者でやるっていう、アイム・ノット・ゼアっていう映画があったりするらしいんですけど。
今回そのボブ・ディランの中でも特にかっこいい時期みたいならしいんですよね、今回。
それをティモシー・シャラメがやってるっていうので、まずみんなちゃんと歌歌うんですよ。
そうらしいですよね、なんかね。
ボヘミアン・ラプソディーだったら吹き替えって言ってたじゃないですか。
あれも別に悪いわけではないんですけど、今回ちゃんとみんな歌ってるっていうのの凄みみたいなのが、そこがまずすごいいいなって思いましたね。
ちゃんと生身の人間がそこで歌ってるみたいな。しかもそれがモノマネとかでもなくみたいな。
ちゃんとモノマネっぽくならずに、でもこの人がやるボブ・ディランだからこそ発せられる歌みたいな。
とか、ジョーン・バイズっていう女性のフォークシンガーがいるんですけど、その人もその人らしい声でやるみたいな。
みんな歌が上手くて、すごいなっていうのがまずあったのと、
ボブ・ディランって人がある意味でミステリアスであり、ある種のかっこよさがあるっていうか、
人から決められたものにとことん抗っちゃうような感じの人なんですよね。
フォークシンガーとしても一躍長くどんどん売れていくわけなんですけど。
で、ある事件がクライマックスに、事件というかある出来事がクライマックスに描かれるんですけど、
そこに至るまでの過程でも、完全に自分は自分だからみたいなことを自ら演じ続けてるみたいな人になってて。
時代の妖精とか、ある種のプロテストソングとかも歌い続ける人なんですけど、
そこに共鳴しつつも、ある種の枠とか固定概念みたいなものからは、
すごい自分からどんどん避けて反発しようとするみたいな。
なんかそこはちょっとやっぱ広いくにも見えるなぁみたいな。っていうのがすごくあって、
確かにこれはかっこいいっていう。っていうのはすごい思いましたね。
女性関係はだいぶだらしねぇなって感じの映画からしてましたけどね。
完全にすごい人かっていうのはあれですけど。
かなりフィクションも入ってるっぽいっていう感じではあるっぽいので、
本当はこの時期にこれはやってないんだけど、実際にやってるけどちょっと組み合わせてるみたいなこととかはあったりするみたいですけど。
でもなんかそのボブ・ディランっていう人の、この時期のボブ・ディランのすごさとかかっこよさみたいなのは、
すごいよく出てるみたいな映画になってて、ちょっとね、いや素晴らしいなぁっていうふうに思いましたね。
僕も詳しくないですけど、やっぱこのフォークを歌ってた時期って、
ボブ・ディランの一番イメージとして強い部分というか、
ライク・ア・ローリングストーンとかは一番有名だと思うんですよね。
そこで興味引かれる部分もあるし、同時にその何というか、
求められたらそれじゃないことをするみたいなことをやり続けた人っていう情報も聞いてるんで、
じゃあこの映画ってどこに行くんだろうみたいな興味もあって、
結構危うく思うというか、自由な人であろうとしついてむしろめっちゃ束縛してる人に見えかねないと思うんですよね、
それって描き方によっては。ものすごい難しい題材だと思うんですよ、ボブ・ディランって。
いや本当に難しいと思います、本当に。
これをなんか、ジェームズ・マンゴールドがこれぞアメリカ絵画って感じで描いてるのがやっぱ見事だなというふうにやっぱ思いましたし、
あと僕唯一ボブ・ディランであーって思ってたのが、ウォッチメンのオープニングってわかりますか。
あれボブ・ディランじゃないですか、時代が変わる。
あれも出てくるんですけど、それ彼が歌うとすごい熱狂が生まれてくるんですよ、その歌を歌うと。
なんかそれを見て、この曲元から好きだったけどより好きになるというか、いやかっこいいよねみたいな。
っていうのは改めて気づかされたりもしたしっていうのがあって、
本当にボブ・ディラン全然僕みたいに詳しくないですみたいな人がここから触れてくんだろうなって思います、本当に。
すごい話のネタにもなるというか、たまたま知らないカフェに入って、初めて入るカフェに入ってパンフレット読んでたんですけど、コンプリーターのの。
見てたら、そこのオーナーの人がボブ・ディランじゃんみたいな。
話しかけてもらって、ちょっと僕も買い際だったんですけど、レコードがかかってるお店だったんですけど、最後にレコードかけてもらって、いいですねみたいな。
めっちゃいい。
っていう風になって買えるみたいな、そういうちょっと微笑ましい時間を過ごしたりとかもしました。
いいですね。
ちゃんとちょっとボブ・ディラン聞いてみたくなったなっていう感じでした。
あとちょっとすいません、日本語で話したいんですけど、すいませんね。
ノーアザーランド、故郷は他にないっていうドキュメンタリーなんですけど、これはパレスチナのドキュメンタリー、パレスチナのアスカドキュメンタリーですね。
パレスチナに住むバーセル・アドラーさんっていう人が、ずっとイスラエル軍の破壊行為とか占領行為をずっとカメラで撮ってて、それを今もSNSで発信されてる方なんですけど、
その方と、あとイスラエル在住のジャーナリストのユバル・アブラハームという方が2人がメインに出てくるんですけど、その2人がイスラエル軍のそういったひどい行いっていうのを記録していくっていう。
ニュースではなんとなく、なんとなくと言ってもあれです、あんまりよくないですけど、知ってたつもりではあったんですけど、
いや実際にこんなこと起こってんだっていう衝撃は結構ちょっと重たいものを持って突きつけられてるなーっていう感じでしたね、本当に。
あまりにもひどいっていう。あまりにもひどいし恐ろしいっていう。
特にバーセルさんはもう完全に目つけられてるんですよね。
なので本当に夜中に村に軍がやってきてみたいなとか、怖いんですよね本当に。
で、お父さん捕まっちゃったりとかもするしみたいな。
っていうことが平気で行われてて、もう完全に力で抑えつけてやろうって感じですよね、その辺。
っていうのがあまりにも恐ろしいし。
そんな中でもパレスティナとイスラエルという分断された、それぞれの国に住む2人の青年が発信し続けてるっていう。
ある種の友情の話でもあるしっていうところでもあるし、でも逆にちょっと2人で一緒に発信してるからこそ、余計にその差が恐ろしいみたいなこともちょっとあったりするんですよね。
イスラエルに住んでるユヴァルさんは、僕は帰るから家に行って行って帰ってく瞬間って、
全然悪気ないししょうがない、それは当たり前のことなんですけど、何とも言えないなって気持ちになったりもするっていう。
そこのちょっとすでにある構造の差みたいなんじゃないですけど、っていうのも同時にちょっと感じもするっていう。
彼が悪いとか言ってるわけじゃないですよ。悪いわけじゃないですけど、
そういったことも計らずも浮かび上がってもいるしみたいなこともあって、本当に不条理だな、この現状はっていうのをちょっと突きつけられるドキュメンタリーでした。
パンフレットはめちゃくちゃ内容濃くて、これも筆読って感じだったので。
これ、ベルリンの国際映画祭で上映された時に、結構ベルリンの市長からクレームが来たりとかいろいろあったりとかしたらしいんですけど、
そういったドイツがそういうことを言っちゃう理由は何なのかみたいなのとかも詳しく書いてあったりとか、
なるほど。
うわー、なるほどなーっていうすごい勉強になりましたね、この辺。
これちょっとぜひ見てほしいなってドキュメンタリーでしたね。
いやー、賞を取って良かったですね、本当にこれは。
いやそうですね、これはちょっと取ってほしかったなと思ったので、
ちゃんと2人でアメリカの受賞式来てたので、本当に良かったなーっていうのは見てて思いましたね、受賞式見ていて。
いやー、あれはいいニュースやなって思いながら僕は聞いてました。
しかもなんとなく今年の作品所有者系のこと取り寄せ方が多いって多い感じとしましたしね。
そうなんですよね、そうですよね。
ちょっとそれもあって余計にこうなんとも言えん感じにもなりましたけど、
ブルータリストとかあった中でとかっていうのがいろいろ考えとこあるよなーっていうのはちょっと思いましたけどね。
あと最後にちょっとニッケル・ボーイズっていう映画なんですけど、
これAmazonプライムで見れる作品なんですけど、
ピューリッザ賞を受賞してる作品があったのかな?
コルソン・ホワイトヘッドっていう人が書いてる一つが原作で、
これある事件をベースに書いてる小説なんですけど、
それがなんかアーサージ・ドジャー少年院事件っていう事件があって、
そこで少年院内で大罰とか暴力とか殺人とかまで起こってるみたいな、
そういった劣悪な環境の少年院があって、
ずっと勧告とかいい加減にしろっていうか直せって言われてるのにもかかわらず、
結局何年も何年もずっと残り続けたみたいなっていうレベルの少年院らしくて、
そこ閉鎖になった後に2話調べてみたら人骨がいっぱい出てきたみたいな。
っていうちょっとどうかしてる事件だなっていうのがそこをベースに作ってるんですけど、
まだ白人と黒人差別が色濃く残ってる時期というか、南部での方ですからね。
いまだにバスの座席が区切られてたりみたいな時期の話で、
そこにニッケル校っていうニッケル学校みたいな名前の学校に入った少年の話なんですけど、
これ描いてるのがすごいのが一人称視点で描いてるんですよ。
エルウッドっていう少年が主人公なんですけど、その主人公の一人称視点でずっと続くんですよ。
しかもそこの映像がめちゃくちゃ美しいっていう感じになってて、
本当に撮影所にノミネーションされてないのはちょっとおかしいレベルの見事な撮影でそれを描いていて、
途中からでももう一人主人公が出てくるんですよ。
ちょっと名前をどわそりしちゃったんですけど、もう一人の主人公が出てきて、その二人の話になってくるんですね。
でももう一人の主人公が出てきてもそのもう一人の主人公の視点で語られるので、
視点が切り替わるということで切り替えし、いわゆる撮影の切り替えしというかカメラの切り替えしをやってるっていう。
あーなるほどなるほど。
感じになってるっていう映画になってて。
まずちょっと撮り方がトリッキーなのもあるし、映像も美しいしっていうのですごくこう、
うっとりしちゃうとか目が釘付けになっちゃうっていうのもありますし、
やっぱりその視点、一人称の視点だからこそ、ちゃんとわかんないことはわかんないままなんですけど、
明らかにこれ良くないことが今後起こるだろうなみたいなことを余白だけが残ってるみたいな感じなのもあったりするんですよね。
ある少年の行く末とかどうなっちゃうんだろうなとか思っちゃうあるキャラクターがいたりとかするんですけど、
でもその最後までは描かれないし、見てないので彼はっていうのとかもありますし。
で彼その、エルウッド自身が体験するある出来事みたいなのも大変、うわーみたいなことも描かれたりするしっていうので、
ちょっとある種の没入感を持ってその事件というか、おぞましい事件というのを描いてるみたいな話。
でなおかつちょっとこれ時々変な時系列のものが挟まってくるんですけど、
途中いきなり未来のエルウッドが出てきたりするんですよ。
え?ってなるんですけど、見てると何でか分かるんですけど。
ちょっとトリッキーだし、題材のこともあんまり何も知らないでみたらなんだこれってなっちゃう可能性が高いんですけど、
けど多分これ見たら最後めちゃくちゃえ?ってなると思います。
マジかってなると思います。
もうこれ以上ちょっとネタバレなしで喋るのは難しいレベルの感じではあるんですけど、
まあでも僕はちょっとえ?って声がちょっと出そうになるレベルのものだったし、
これは映画館で見たかったよっていうレベルの美しさだったので、
これは本当にちょっと、これちょっと早くみんな見て欲しいなって思いましたね、これは。
好きになってんすよね。
いやでも聞いてるだけで胃が痛くなってきたんですけど、重いと思って。
重いんですよ、重いんですよ。
重いんですが、が、映画としては本当にこれすごいなって思いましたね、本当に。
積極的になんか、なんでこれがこうなってるのかな?みたいな考えながら見ると、
よりちょっと胃が重くなるような話ではもちろんあるし。
でもあるんですが、いやでもこれはマジですごいですっていう。
やめたいなあ。
未来のエルウッドくんの視点がなぜそうなってるのかとかいう話とかもね、
するとうーんっていろいろ考えたりするんですけど、
ちょっとこれは見て欲しい作品ですね、はい。
なるほど。
すいません、ちょっとしゃべりすぎました、今週こんな感じです、すいません。
では大井さん、いかがされてました?
えっとですね、今週なんですけど、
まず、埼玉県立近代美術館っていうところでやってた、
映画の中の女性イメージ、見る見られる女性っていう、
美術館で映画を上映するっていうイベントに行ってきたんですけど、
で、見た映画っていうのが燃える女の肖像なんですよ、もちろん見てます。
なので、冴えたの鑑賞にはなるんですけど、
その燃える女の肖像を見て、その後に明治学院大学の教授で、
最近本も出されてたはずだよな、の斉藤綾子先生っていう映画研究者の方が、
燃える女の肖像だったり、あるいは映画全体のカメラっていうのは誰の眼差しかっていうところの講演会をして、
それを聞いてきたんですけど、
それがめちゃくちゃ面白かったんですよね。
まずはその話しようかなと思うんですけど、
まず燃える女の肖像って、もう2人もちろんご覧られてるかなと思うんですけど、
この燃える女の肖像がどうして革命だったかっていうところ、
多分いろんな語り方されるし、いろんな語り方ができる話だし、
まさに見る見られるの映画かなとは思うんですけど、
やっぱり1個大事だっていうふうにおっしゃったのは、
モデルと画家っていうのが対等な関係にあると。
それ以前というか、いわゆる旧来の映画、ハリウッド映画を代表的に描かれるものっていうのは、
基本的にカメラの眼差しは、男性の政治的な眼差しっていうところがすごく強くあると。
だから女性が出てくるとき、女性にフォーカスは合うんだけど、
その後ろがよりぼやけるというか、理想化されることが多いんだっていう話をしたんですね。
だから男性が映るシーンと女性が映るシーンっていうのを、
パンで切り返して見せたりするじゃないですか。
それを1個1個切り取って分析をしてみると、
男性側は背景がしっかり映ってるのに、女性側は背景がよりぼやけてる。
ポートレートっぽくなっている。
それはまさに男性視点で女性の理想化をそこに掲げていることの表れなんだよねっていう話とかをしていて。
ああ、なるほどなっていう。
そういう視点で見たときにじゃあ、
モエロの肖像って何がすごかったかって言ったら、もちろん女性だけの環境で、
女性という力関係が対等であるっていう、2人の関係性を描いているっていうのもありますし、
かつ、見られる側に主体性を持たせたっていうところはやっぱり大事って話をされていて。
これ多分いろんなところに語られていることだなと思ったんですけど、
エロイーズですよね。モデルになる。
描き側の画家に対して、私もあなたを見てるっていうふうに言うじゃないですか。
それってまさに劇場で客体化されている、あるいは消費される側に立っている女性っていうのが、
観客側を見ているというか。
映画鑑賞者側の特権性をあるし、育つ瞬間なんだと。
だからこそそこにこう、なんていうか、
切りつきみたいなものがあるんだっていうような話をされていたのがすごい面白かったんですよね。
で、そう考えたときに、アノーラのラストってって思ったんですよ。
アノーラのラスト、先週ちょっと山口さんと丸山さんとだいちゃんさんを含めて4人で話しましたけど、
最後、助手席からアノーラって直接こっちを見るんですよね。
直視するんですよね。
それまではどちらかというとアノーラの背景もぼやけてるし、
ある種理想化された女性だし、消費される象徴としてすごく描かれてきてると思うんですよ。
ただ、アノーラのラストってすごく真っ直ぐこっちを見つめてくる。
で、それをこっちも眼前に見られるっていう状況になるわけじゃないですか。
そこからアノーラのラストに向かっていくっていう。
それって確かに意図的に挟まれてるというか、
これまで消費されてきた、虐待化されてきた女性であるアノーラが、
死体性を持つっていうことに気づかされた瞬間なんだろうなっていうのを見てて思ったりもして。
だからこそ山口さんがお話の中で、
イゴールが観客なんだってお話をされてたと思うんですけど、
そう感じられる演出になってるんだなっていうのを感じて。
なるほどね。
もちろん死体はイゴールだから男性ではあるっていうところが、
またこうねじれてる気もするんですけど。
とはいえ、なるほどその視点というか、
カメラというのが誰の眼差しかっていうことを前提に、
映画を見ていくといろいろなことが見えたりするんだなっていうのを考えた。
すごい面白い講演でした。