本当に日本映画でなかなかこう壮大というか、なんかもう一大器っていうのをしっかり見たな感覚があって、そういう意味ではすごい満足をして出られたなと思いますし、
歌舞伎をこの観点でしっかり見るってことって、まああんまりないじゃないですか、それだけでもまあ貴重な体験ではあったのかなとは。
で、見ながらずっと、似た話見たことあるなーって思いながら見てたんですけど、たくさんある。たくさんあるんですけど、僕の中だと、
これ漫画って言ってもいいのか、漫画と僕はアニメで見てすごい好きな作品なんですけど、昭和元禄落語真珠っていう作品があって、めちゃくちゃ似てんなって思いながら見てはいて。
めっちゃ分かりますね。
僕も同じことを思いながら見てました。
ですよね。
めっちゃ重ねてました。
すっげー似てるんですよ、二人の関係性だとか、あるいはその間を女性が生き返る感じだとか、
あと結局その片方の男性が持っているものっていうものに憧れと、憧憬と嫉妬を両方抱きながら、そこの呪いとその先に行こうとする男の話っていうか、
そういうところがすごい似ていて。
なんで、一個の芸を極めるって、ある種似たところに行き着いちゃうのかな。
そして二人の男性のある種友情みたいなものを描こうとすると、っていうのを見ながらちょっと思ったりはしました。
この作品でもそれでも良かったなって思ったのは、マリアさんがある種男のピュアネスに理想的に描いてみせたっていう、
友情みたいなところを実写の日本語映画でこのバランスで描いたのって、あんまりまだ見たことなかったなって思って、自分は。
二人の関係性ってちょっと特殊だなって思う。男性的コミュニケーションの中では。
お互いのことをライバルなんだけど、決定的に攻撃をし合わないライバルというか、潰し合わないライバルって感じがするし、
なんならちょっとだけもはやブロマンス的な匂いみたいなものもすごい感じられるっていう意味で。
でも確かにあるっちゃあるのかな。でもなんかすごいそこが、暴力的なものを割と結構背して描いてる感じ。
今受けるのはこういう形なんだろうなっていうのをすごい見てて思ったっていう。
でもそれも二人とも女型をやってるっていうところもおそらくあるんだろうなと思うんですけど。
ちょっとそこのバランスが、この絵が独特な気がするし、あの吉澤亮さん横浜流星さんの二人だからこそできた空気感なのかなって思って。
そういう意味では、見た話は見たことあるんだけど、他に類を見ない空気感にはなっていて面白いなと思いました。
はい。僕はですね、すごくよくできていると思いました。もう3時間退屈することはなかったです。
楽しみながら、終盤まではかなり胎児を乗せて楽しんではいたんですけど、娘と胎児するところでちょっと引いたなっていうのはあったんですけど。
僕の好みになるんですけど、悪魔に魂を打ったやつは、未来永劫地獄の窯の底で煮込まれ続けてくれと思うので、許されようとすんなっていう思いはすごいあります。
なんかその、痛厚なことをしているから最終的に許されるみたいな結論はあんまり僕は好きではないです。そこは。
あと、お二人ともおっしゃってたように、暴力的なとこは描かないし、結構淡白だなって思うとこもあって、
男同士の関係性を嫉妬とかそういうもの込みで描くんだったら、もっとネチョネチョしてくれてもいいけどなって僕は思ってはいたんですね。
もう血よりも濃くって、粘液よりも粘い関係性っていうものを描いてくれてもよかったなと思うんですけど、この淡白さが本作のバランス感覚なのかなっていうのを思ってます。
それはバンジーにつけてなんですけど、例えば女性の描き方とか、歌舞伎業界みたいなもの、リエンですよね。
の習わしみたいなものとか、そういったものももっとえぐく描けるし、もっと嫌な側面もあるとは思うんですけど、
嫌な側面ありますよねって言葉で言いつつも、わりと爽やかな女感に着地しているっていう。
でもよく考えたらひどいですよねっていう、その淡々としている中に常に嫌なものは後ろに置かれているっていうバランスは、
そこは狙ってるのか狙わず、無自覚なのかはわかんないですけど、そういうものには結果的になっているかなって気はしました。
あと、芸能とか芸術ってものに対する捉え方なんですけど、ちょっと僕やっぱり芸能芸術を崇高なものにしすぎることには抵抗感がある人間ではあって、
この話をサラリーマンがやったらみんなノーって言うじゃないですか。この話がシステムエンジニアの話だったらみんなノーって言うじゃないですか。
あるいは工場の生産ラインに入っている人の話だったらノーって言うじゃないですか、絶対。
なぜ芸能芸術ならそれがオッケーになるのかっていうのは考えたいなと思ってます。なぜそれがオッケーなのか。
僕はあんまり上に置きたくないんですよね、それらを。で、それを芸能芸術は人間より上にあるのか下にあるのかっていう比較をする側面で、
一本取り上げたい、比較対象として取り上げたい映画があって、それがさらば我が愛、覇王別姫っていう映画なんですけど。
よく出ますよね、これもね。
本作との比較でよく名前がある作品なんですけど、僕が取り上げたい切り口は、芸能芸術は人間にとってどの位置に置かれているのかっていう部分なんですよね。
ちょっと込み入った話になりかねないので、そこまで喋れんのかっていうのはあるんですけど、そんな感じです。
はいはい、なるほど。
はい、ではお便り紹介させていただきます。ではマリモンさんお願いできますか。
はい、キネ坊主グッチョンさんからいただきました。
原口さんですね。
原口さん。
原口さんからお便りきてます、まさかの。お久しぶりですというかね。
お久しぶりでございます。
ご無沙汰しております。今回現時点では私の中では今年の日本映画ベストである国宝家テーマ作品でしたので、
久しぶりにお便りをお送りさせていただきます。
壮絶なる人生を送った歌舞伎役者を描いた一世一代の物語である今作。
恐れ多くも歌舞伎をしっかりと鑑賞したことはないのですが、
それでも歌舞伎という日本の伝統が持つ力を見せつけられてしまったように感じました。
本作をきっかけにして、歌舞伎について本格的に鑑賞してみようと思っております。
冷静に考えてみれば、歌舞伎役者を演じているのは俳優であり、その俳優の演技に魅了されてしまったのですが、
吉澤涼さんと横浜流星さんが1年半もかけて修行をして歌舞伎を習得した上に、
菊男俊介になりきった上で歌舞伎を演じているのですから、尋常じゃない演技の賜物だと伝わってきました。
なお、原作小説を執筆した吉田周一さんが3年もかけて歌舞伎の世界を研究した上で書き上げており、
映像化された本作の凄まじさをより一層感じる次第です。
175分にも及ぶ大作である本作の魅力を語り出すときりがありませんが、
特にラストの詐欺娘での衣装替えシーンにはコントラストの変化や、
劇版の音楽が相まったことによる凄まじさに震えて涙してしまいました。
今もなお何度でも劇場で見たくなる作品です。
はい、ありがとうございます。
ありがとうございます。
プラズさん、ラジオを卒業されてからもバーの方にも何度か来ていただいたりはしてたんですけど、
また良かったら来ていただけたらなと。
で、今年ベストということで、
ちょっとお便りの中で触れられた部分だと、僕結構意識して見てた部分として、
俳優さんが歌舞伎役者を演じるっていうことの、
どこまでたどり着けるのかなっていう部分をすごく考えながら見てたんですよね。
すごいなと思いながら間違いなく僕は見てたんですけど、
ただ僕全然歌舞伎本会館なんで、
すごいんだけど多分、完璧ではないんだろうなとは思うんですね。
芸に完璧って言葉を使うの自体が違うのかもしれないんですけど、
だって彼らが1年半ぐらいの演技の練習でたどり着けたらいけない領域を描いている話なわけじゃないですか。
そうですね。
そこに関しては僕は、もちろん役者のお二人の努力の賜物もそうですし、
それを部分に加えて映画の力で総合力を補ってたなっていうのはすごい感じてたんですよね。
なんかショットの使い方とかそういう部分で、
本来歌舞伎がたどり着けるかもしれない領域みたいなもとに、
映画として近づけているように僕には見えました。
それは多分その通りだなって思ってて。
結構勇気あることやってるなって思うんですけど、
歌舞伎のその演目やってる時に普通に劇場を流すとか。
結構勇気いるなって思うんですよね。
そこにまた別の曲をかぶせるんだとか。
っていうのとかもすごい多分勇気いるなって思ったし。
あと本当にカットで割ってとか、ほんの一部分。
前編はできないので、もちろんその演目。
それやったらほんと浜口隆介みたいになっちゃいますけど。
清水さんみたいになっちゃいますけど。
でもそれができないにしろ、
じゃあどうやってそこで歌舞伎役者を演じているようにできるかみたいな。
っていうのとかはすごいやっぱ考えてるんだろうなっていうのはすごい思いましたね。
さすがお二人だな。
吉沢亮さん、横浜流星さんだなって思う。
あれだけ女方のメイクって言っていいんですかね。
こうしても表情がわかるというか。
そこの表情の演技が見えるっていうところが。
表情の演技を見えるように撮ってるっていうところが本作上手いところだなと。
途中、田中敏さん、園児さん、人間国宝のおじいさんから吉沢亮さんの聞く音に対して、
顔がいいことっていうのは呪いになるよみたいな話があったと思うんですよ。
とはいえこの映画、この二人の顔の良さで売ってるよなっていうのすげえ多い。
本当にもうずっと見ながらね、面がいいってお前らが見てる。
そう、この映画、マジでこの二人の面がいいんですよ、ずっと。
美しいですよね。
美しい。
映える、本当に。
本当に画面としてそれがパンってアップで映るから、全然それで持つなっていうところだけで、
映画として勇気ある決断をしたなというか。
歌舞伎の動きとか声の出し方とかで歌舞伎をやってますじゃなくて、
この顔、この形でやってるものを歌舞伎でしょっていう風に見せるというか。
それは美しいんだからいいでしょ、わかるでしょみたいな感じで、
押してくる感じが、すげえ力を押されてる感じがあるんですけど、
めちゃくちゃそれはそれでもういいやってなっちゃったというか。
そうなんですよね。
で、やっぱ本作のクライマックスの一つが、山場の一つがソネザキ神獣だと思うんですけど、
やっぱそこでね、このアップの構図とかを結構思い切って使ってきて、
でもそれ歌舞伎じゃないじゃないですか、歌舞伎でアップなんて見れないよね。
そうそうそうそう。
全体見せるよって多分なりますよね、普通はね。
うん。
いやでもやっぱね、映画なんですよね、歌舞伎じゃなくて。
歌舞伎を題材にした映画っていう、そこの割り切りで成立してるなとは思って。
うんうんうん。
で、ちゃんとそこですげえって思えるし、
で、もうその映画で感動してるのか、歌舞伎で感動してるのかわかんなくなって、
まあもうどっちでもいいやってなったんですよね、そこで。
そうそうそうそう。
そうですね。
もうどっちで感動してるかわからないですけど、
けど、ほんと原口さん書いてますけど、歌舞伎めっちゃ見たくなりますよね、でも。
そうなんですよね。
だから、その意味で勝ちですよね、この映画。
うんうん。
どっちで感動してるかわかんないけど、歌舞伎に興味持たせられてるし、
いやもう全然見たくなってるという意味じゃなくて、この映画の勝ちだなっていうか。
うんうん。
っていうのはほんと思いますね。
うんうん。そうなんですよね。
あのー、何が敷居の高さかって、文脈のわからなさだと思うんですよね。
そうなんですよね。
あーそう、ちょっと敷居高いなって思うの、そうですね。
で、それが多少でもわかれば、いくらでも入っていけるようにはなるとは思うんですよね。
うんうん。
本作きっかけで歌舞伎を感激される方も全然出てくるだろうなって思うし、
その意味ではほんとにすごい役割を果たしてる映画なんじゃないかなと思いますね。
うん。
それこそ曽根崎真珠とかから入ってもいいかなって感じになりますもんね。
うん。
そうですね。
多分話こんな感じだろうなーってなんとなく見れてわかったし。
はい。
大体は、曽根崎真珠はまあ大体わかるじゃないですか、何が起こるっていうぐらいは。
大体、そう。
大体だね。
まあ、タイトルがもう言ってるしねっていう。
そうそう、そうですね。そう、わかりやすいってわかりやすい。
うんうん。
はい、では次のお便りいきましょうか。では、大石さんお願いします。
はい、タウルさんからいただきました。
若い頃、京都の南座で反則物の業者で出入りしていたので、
とても懐かしい感じがしましたし、歌舞伎のシーンなど全般に映像には見応えがありました。
でも、ドラマは人物像や関係性が雰囲気いたのみですし、新しさや工夫を感じないものでした。
女性の映画家方にとっては興味はないのだと思いました。
敗役は逆が良かったという声もありますが、最後まで吉沢良が悪魔に魂を売った男には見えなかったです。
あと、直立美希夫や芸能者に親しんでいるせいか、
描き方や近親者も社会も主人公を2人も甘く感じて、
最後のカメラマンである娘の丸く収めようとするセリフに心が離れました。
はい、ありがとうございます。
ありがとうございます。
ありがとうございます。
まさかのタウルさん、南座の出入り業者だったという過去が。
すごい。身近にちょっとあったんですね、歌舞伎がというか。
そうですね。
すごいですよね。
僕も1回だけ南座行ったことあるんですよ。
歌舞伎ではなくて大衆演芸みたいな感じだったと思うんですけど、行ったことはあって、ちょっと中の雰囲気は思い出しましたね。
南座って名前ではなかったですけどね、劇中だと。
で、タウルさんはちょっと厳しめのご意見なんですけども、
人物を雰囲気頼みというか、もうちょっとドラマの引き子もごもは濃いと思ってました、僕も。
ちょっと思ってました。
元の原作がね、たぶんきっともうめちゃくちゃ長いし、たぶん群蔵劇だと思うんですよ。
群蔵劇って書いてあるな、確か。
で、そこからたぶん2人の関係に絞った映画にして、それでも3時間あってっていう状態なので、
絞っても、それでもなおまだダイジェスト感がしてしまうみたいな。
っていうぐらい、たぶん元の原作濃密で濃いんだろうなと、いうのはそう思いましたね。
そうなんですよね。ちょっとまあ、そこはあるし、女性の描き方はまあ、よく言われますけど。
ちょっとあえてやってるレベルだなぁと思いましたね。
そうなんですよ。その、あえてやってるなっていうのは僕も思って。
歌舞伎の世界で女性の役割がしっかり重要な役割を担ってますっていうのを定調に描くでもなく、逆に露骨にないがしろに描くでもなく、
単にいますで終わってるっていうのは、ちょっと僕は意図的には思って。
なんかその国宝は男の物語なので、女たちについて語ることなどありませんって言ってるかのようじゃないですか。
わざと。でも、それをわざと言ってるように見えるんですよね。
だからまあ、その描き方のあっさりさでもって、そこの国宝と呼ばれる男の、なんというか、そこにあるなんか、
なんか譜の概念というか、そこの和たちに残るすごい和高まりというか、譜の感じっていうのが、
まあ描いてるのかなというか。思うっちゃ、わかるっちゃわかります、そこ。感じではいます。
けど、薄くないですか、みたいな気はした。
まあその、吉澤亮さんが悪魔に魂を売ってるように見えないっていうのは、まあそれもわかるというか、あんまりその可烈さを伴わないんですよね。
そうですね。
そのまあたまにこう喧嘩みたいなことは起こすんですけど、わりと低体温に歌舞伎に精進していくから、なんかその画面からわかりやすい音伝は伝わってこないんですよね。
話の流れの中で怨念があるっていうのはわかるんだけど、なんか一つの画面の中に怨念って書いてるような画面はないなとは思って。
そうですよね。
その土砂回りしてるあたりにその欠片みたいなのは見えるんですけど、それでもまあちょっと淡白に見えるかなとは思って。
まあなんか僕、そこも本作のバランス感覚だなとは思ってるとこがあって、なんかあの根本的なとこであんまり自分が興味ないものに興味ない話だなって思って。
なるほどなるほど。
ギオンの芸妇さんって多分愛人だと思うんですけど、愛人との間の子供の前で芸のために悪魔に魂を売るみたいなこと言うじゃないですか。
あれ、目の前の娘も含めて、その犠牲にしてもいいみたいな覚悟があるようには見えないんですよね。
そうですね。
え、これどういうことみたいになってたあそこ。だってこの娘のことも犠牲にするつもりで言ってるってことですよねって。その低体温でそれ言えるんですかって。
もう根本的に興味ないんだなと思って。だから、その俺は犠牲にするぞ、子供のことさえみたいなのじゃなくて、あ、犠牲にしますねって。
サインしたらいいんすか?みたいな感じに。だからそこが、広い意味でのサイコパスというか、もういいやって思ってる。
まあ芸のためには女子供を見据えないとダメですよねっていうのを平然と言っちゃう感覚のものとして描いてるなって。
それはあの世界全体が歌舞伎のためなら、まあいいでしょうみたいな感じで成り立っているように僕は見えて、女たちも別に私は苦しんでますみたいなのを出さなくて、
いや、当然私は歌舞伎のために犠牲になりますねみたいな。その根っこに抱えているものなんてお首にも出さないから。
なんかそこはやっぱり理想化されているようにも見えるし、その不健全さをわざとやっているようにも僕には見えて。
だからもうどうぞ称えてくださいというか、おかしいでしょこの世界って非明治的に言ってるというか。
なるほど。描かないことで描いてるっていうことですね。まあまあでもわかりますけど。
いや、おっさりたいことは十々ございます本当に。
いや、それこそ僕もちょっとあげようと思ってたんですけど、昭和元禄落語神社ってめちゃくちゃ怨念こもってるじゃないですか。
そうなんですよ。だからあの作品は好きなんですよ。
そう。だから好きだしって思うんだよなって思って、そこにある怨念とか犠牲にしたものってそれも引き受けてけやっていう。
その込みでその高みに登っていただかないとっていうのは思うんですよねっていう。
あっては欲しいですよね。
例えば描きたいものが何だったのかって話ではあるんですけど。
そうですね。でも、今芸能の世界を描いて、かつこんな閉鎖的な世界を、権威に満ちた世界を描いて、そこを完全無視するっていうのはやってないとは思うんですよね。
分かってやっててこのバランスっていう、その上で通ってくださいっていうのだと、もうこれ信じたいなんですよ。
そうですね。
そこにそうですよね。だって全く映画から読み取れなかったから、そこは。
これでもかということで。
このうっすらとした薄気味悪さこそみたいな。
かなってね。
だから、主人公のことは、確かにさっきアレン氏、ビジュアルはいいって話はしましたけど、
とはいえ好きになれるかって言うとやっぱり絶対好きにならないバランスになってるなとは思う。
個人的には思いますし。
あくまでバケモノの話というか。
セッションに近い。じゃあ近い。
そういう側面はすごいやっぱある話ですよね。セッションとか。
あとすごいブラックスワンとか思い出すんですけど、最後の終わり方がサギ娘っていうあたりで、
もう白鳥の湖となんか違いがあるんですかみたいな。
思ったりしたぐらい。
なので、やっぱそういう話としてはすごいやっぱ通じますよね。やっぱり。
カメラマン娘のシーン、ちょっとマジで僕引きましたからね。
許されに行く?みたいな、そこで。
逆に、どなたでしたっけって言ったぐらいの方がまだね。
そこでやっぱ、あそこが一番その呪いというか、犠牲にしてきたものを、
一手に引き受けるチャンスだったと思うんですけど、映画的には。
あ、そっちに行くんだってちょっと思ったかな。思ったりはしましたね、正直。
いや、わかりますよ。
憎いという気持ちと、でもあなたの芸にはもう心底折れてしまうみたいな、
その相反する感情というか、すごいわかりますけど。
わかるけど、あ、そこかーみたいな。っていうのはちょっとありました。
本当にあのシーンだけ出てくるっていうあたりとかも、なんかね、っていう。
いやー、でも、どうかなー。僕、自分が娘だったら絶対許せないと思うんですよ。
いや、まあ、そうそうだと思います。
ね、あの、自分のことと自分の母を捨てた男が、
曽根崎真珠とか演じて、惚れた男のために命を捨てるみたいなことを心を込めてとか、
どの面下げて演じてるんですか?ってなりません?
いや、そうですよね。
どうでもいいと思ってるんでしょ?って。
愛するもの、惚れた相手と一緒に捨てるなんて、未人も思ってないでしょ?
だから捨てて、芸に走ったんでしょ?あなたっていう。
絶対僕だと思いますもん。
いや、思うと思うと思う。それは。
いや、僕ね、すごい見ててその部分思ってたことなんですけど、
曽根崎真珠の訓練してるところでも、もうなんか気持ちが伝わってこーへんみたいなの言ってたじゃないですか。
師匠にね、言われるシーンありましたね。
死に対する恐怖と、惚れた男と死ねる喜びがないまさに感情が伝わってこーへんって、
お前見たんか?って思ってましたもん、僕。
見たことあんのか?って。
見たんか?
見たことあんのは曽根崎真珠ですよ。見たことあるのは。
そうですね。
で、その本人というか、そういう人を別に見てるわけじゃないじゃないですか。
で、なんやったら、もうそんなんとは相反したパーソナリティなわけですよ。
そうっすよね。
女なんてないがしろにしてゲイに突っ走る男たちの世界なんだから、
その奴らが女を演じて、理想化された女を演じる男性がみたいな、
そのグロさすごいぞって思いながら僕見てたんですけど。
いや、でもまぁ、ちょっとあんまり僕歌舞伎のこと一方的に否定するのよくないから、
カバーみたいなこと言っちゃうんですけど、そのグロさこそ魅力だなとは思って。
その相反するものっていうのが両立しちゃうみたいな。
そこですよね。
それは歌舞伎そのものの魅力でもあるし、なんかその芸術そのものにはそういう側面がやっぱあって、
そこにやっぱ凄みを感じるみたいなのやっぱありますよね。
そもそも歌舞伎って、冒頭でも入りますけど、女性が演じてたのを、
その体制側からの事情によって女性が演じられなくなったから、
仕方なく男性が女性を演じ始めたってとこが起点なわけじゃないですか。
そうですね。
で、そこから、いや男だからこそ女性の真髄を演じられるみたいな、
そこで特殊な進化を経てると思うんですよね。
でもそれって歪だとは思うんです。
だって、禁止されなかった女性が演じてたはずのものだから。
でもそのやむにやまれる事情で男しか演じられなくなったけど、
そこに意味を見出して、その特殊な進化の果てに、
芸の真髄を作り上げてきたのが歌舞伎だとは思うので、
それって絶対グロテスクだとは思うんですよ。
女の真髄は男だから演じられるって、じゃあ女って何なんですかねみたいになるとは思うんですけど、
いやでも、それでもその様式の中に真髄があるんですよっていう、
芸の真髄があるんですよって言われたら、それはそうだとは思う。
その矛盾があるからこそ描けてるものはあるとは思うので、
だからまあなんて言ったらいいのかな、
めっちゃおかしいなってずっと思いながら見てるんですよね。
女のことをないがしろにし続ける奴らが女心を演じて、
素晴らしいってみんなで言ってるっていう不思議だねって思いながら見てるんですけど、
でもなんかがあるんですよね、そこに多分。
何なんですかね、歴史によって積み重ねられてきたものなのか、それとも何なのか。
確かに最初の歌舞伎のあらましみたいなテロップというか、
最初は女性がやっててそれが禁止されての下り、
結構さらっと言ってるけど、うわーって思いましたよね、正直。
そういう成り立ちってふと考えるとすごい、
いやーねーって今の感覚だとやっぱ思っちゃうみたいな。
あくまで今の視点から見てるからなのかもしれないんですけど、それはもちろんね。
当時はそれが正しいと思われたことなのかね。
僕やっぱあそこの字幕が入ることで、やっぱりちゃんとわかってやってるなっていうのは、
なんか認識できたんですけど。
そうですね。
変なんですよ。
変。
変というか矛盾してるんです。
その矛盾が矛盾してるって誰も言わない、最後まで。
ずっとツッコミ待ちなんですよね、こっちの。
怖いなって思うんですよ、芸って。
芸能というか芸術というか。
積み重ねてしまったら、もう積み重ねる前とは違う人間になっちゃうと思うんですよね、そこって。
絶対に。
で、本来の意味とは違ったものになってても、別にそこが矛盾とかではなくて、そういうものとしてそこに存在するんだと思うんですよ。
はいはいはい。
それすごい思ったことあって、ちょっと芸能じゃ、芸だけじゃないなと思って。
研究してた頃って、自分がいた分野がすごい研究進行が少ない分野だったんですけど、ですよ。
朝目の研究者なんですけど。
そこに居続けることって、自分という項を置いてその業界を背負っていくっていうのを渡されていくんですよね、結果的には。
この国のその業界の研究を、だからそれは好きとかどうかとかとはもう別のというか、あれは摂取なんですよ、ある意味。
それをもう選択したら、その自分として生きていかなきゃいけないんだって思った時に、ちょっと無理だなって思っちゃったのが正直あって。
なんかそれにすごい近い感じなのかもなって思うんですよ、ある種の芸を極めていくことって。
歌舞伎役者っていう役割を務めなきゃいけなくなってしまうというか。
それは確かに国宝になるほど美しいものなのかもしれないけど、同時にそれは呪いでもあるというか。
そうですね。本当はああいう、結構テレビで歌舞伎役者のドキュメンタリーとかよくやるじゃないですか。
初めて舞台に立ちます、あとトリガーみたいなのとかやるじゃないですか。
あれ見てると結構キーメイルなんですよね、あれ。
僕もある種、実家の影を継ぐのかみたいな話があった時って、まさにそういう感じだったよって思うし。
僕はそこに行きたくないんだけどなーみたいな。
けどそれが当然のことが決まってもしまっているみたいな感じで、
そこに乗れるなら良いか、乗れないって人もいるだろうなって思ったらすごい気が見えるなって思ってたので。
本当に、二人ともある種、家の家というか、血に呪われた話だなーって思うんですよね。
そうですね。
そういう意味での因果っていうか、悩みみたいなとかはすごい感じて、そこすごい好きなポイントですよね。
横浜流星演じる、しゅんちゃん、しゅんすけ。
一回こう、歌舞伎のその真ん中からは、中心からは一度離れていくじゃないですか。
あのまま話してあげればよかったのに、ちょっと自分がいて。
いや、そう。
あそこ情報量多くて。
そうそうそうそう。
どう考えてもあそこの行間の情報量すごいんですよね。
そうなんですよね。
吉澤龍が気がついたら、彼の元に訪れていて、で復帰することになってるわけですけど。
その間もっとあったろうって思って。
そうっすね。
いやー、だから、まあ、土砂回りしてるって言ってますけど、人気だったんでしょうね。
うんうん。
あのー、なんていうか、マイクロフォーカスの人気だったんでしょうね。
うんうん。
あのー、なんていうか、まあ、ハンヤっていう名乗りですけど。
そのー、本当に土砂回りでも、なんか地方人形とか、多分めっちゃ盛り上がったと思うんですけど。
いやー、待ってましたー、何々やーって、あのー、何々やっていう名前ちょっと忘れちゃったんですけど、劇中の。
盛り上がるんだと思うんですけど。
はいはいはいはい。
それってやっぱり枠組みがあるからじゃないですか。
うんうん。
だからその、実績、土砂回りでも人気があったっていう、下地があるから、すんなり戻ってこれるんだと思うんですけど。
一方でその、企業の土砂回りの辛いこと、辛いこと。
本当ですよねー。
そうですよねー。
もう完全にその、その人そのものの、どういう人がそれを今やってるのかっていうことに左右されてるってことですもんね。
僕、てっきり最初、歌舞伎自体の没落の話なんかだって思ったんですよ。
はいはいはいはいはい。
まあそれ完全に、昭和元禄落語真珠に引っ張られてるからだと思うんですけど。
そうですね。
別にやっぱりそうじゃないということですよね。
歌舞伎ってちょっともはや深刻化されすぎてるっていうか、領域にやっぱりなってるんだなっていう、思ったんですよね。
でもやっぱりその奥にある人柄がね、見えたりするわけですよねっていう。
彼は、駿佑は、戻ってきて幸せだったんだろうかってすっげえ考えちゃうんですよね。
本人満足そうにあそこまでやりきってましたけど、土砂漏れしてた時の幸せだったんじゃない?ってちょっと思って。
まあでも確かにやっぱりその、全く継ぐ気ないって言って別の場所に行って、やっぱり戻ってくる人もいるじゃないですか。
結構な割合でいるなって思ってるんですよね。
なんかそこに対しては、なんかまあ、あるかなっていうか。
なるほど。
僕はまあ今、嫌だって言って出てきましたけど、戻っていくみたいな人も、それはそれで良いことかなと思う。
なんでやねんっていう、なんか全然理論整然としてないじゃないかって言われても、でもそれが人間かなっていう感覚はすごいあるので。
なんか戻ってきたことに関しては、そうだったんだねみたいな感じだし。
自分が思ってた場所とは違うところに、生き甲斐と喜びをまた幸いなことにまたそこに見つけられたんだねっていうことがまあ良かったことかなとは思います。
なるほど。
あとそれで言うと、やっぱ歌舞伎の世界ってなんていうか、そのリエンのスキャンダルも含めてみたいなとこもあると思うんですよね。
ファンが楽しんでるものとして。
はい。
で、そういう終文みたいなものは含めて楽しんでるとこもあるし、その上で、いろいろあったけど戻ってきたねっていうのも含めて、そういうリバイバルみたいなものとして。
なるほど。
授業できてるみたいなとこも、仲違いしていた親子が復縁して舞台に戻ってきてって、現実でもあったじゃないですか。
そうですね。
すごい、あの人のことかなみたいなのがすぐ容易に浮かぶし、どでかいスキャンダルね、ありましたけどね、それと別のスキャンダルとかね、すごい世界だなって思いますけど。
だから多分もうそういうのコピーになっちゃってる、そのリエンっていう世界の中で、あの血脈の中で。
ただそこでその、その血脈を持たない立場のしんどさがすごいんですよね。
だからその、芸そのものでしかお客さんを喜ばせられないっていうのが、そのなんというか、万が一戦術がないって言ったらいいんですかね。
芸能世界って舞台の上だけが芸というかそのエンターテイメントじゃないというか、舞台以外のそういうもの、修文、いい話も悪い話も含めて全部含めて楽しませてるみたいなとこもあると思うんですよ。
僕はそれがいいこととは全然思ってないですけどね。やっぱそれがないんですよね。
スキャンダルが単なるマイナスにしか働かない立場になってるっていうのが菊王のしんどさだと思って。
あの、菊王が血を飲みたいっていうシーンすごすぎてちょっと。
そうっすよね。あれね。
重たいですよ、あのセリフ。あそこ泣きそうになっちゃいましたもん。
いや確かにあのシーン、いいシーンというか印象に残りますよね。
いや、それこそあのパンフレットに、寺島忍さんのインタビューとか載ってて。
もう李恵の中にいた人じゃないですか。だからこそなんか凄みのあるインタビューが書いてあるんですけど。
なるほどね。
劇中では菊王に大役を任せるみたいなというか、絶対東大切っての名前を持っていくというか彼に引き渡されるみたいなのがありますけど。
絶対ないっすからね、現実みたいな。言い切ってる辺りの怖さですよね。
うわ、すっげー世界だとやっぱ思っちゃいますし。
そりゃ血、欲しいっすよねみたいな風に渇望したくなる気持ちも非常によくわかるみたいな。
すっごい。
外から憧れて入ることを許されない世界。
でもまあそういう何というか代々、家系のものによって引き継がれたスターみたいな、じゃない人ももちろんいるっていうのはあるんですけどね。
それこそ愛之助さんとかね。
そっか。
ラストの話というか、芸能みたいな話にちょっと踏み込みたさがあるんですけど、
ラストでまあ雪を見るじゃないですか。
あれって自分の父親が打ち入りで殺された時の絵のリフレインみたいなものだとは思うんですけど、
同時に神様とつながってる感じのシーンとして描かれてるかなと思って、
途中でなんかずっとあそこから見られてる気がするみたいな話あるじゃないですか。
あれってもうズバリ神様がっていう話だと思うんですよね。
で、あのあれですよね。語尾じゃない方のお客様は神様です。
そうですね。真の意味でのね。
南ハローが言った方の意味のやつですけど。
だから捧げるものとしての芸能っていう話をしてて。
で、それでこの自分たちの世俗よりも上の領域につながる、
つながりたい、いつかつながれるかな、だからやってるみたいなのが、
本作の根底にあるっていうのがなんとなくわかるんですけど、
あのラストとそこに至るまでの流れで。
そこに対する疑いを僕はすごい持っていてですね。
ここで出したいのがさっきも言ったんですけど、さらば我が愛覇王別姫なんですけど。
はいはいはい。
覇王別姫は中国の秦の時代から、
共産党が中華人民共和国を立ち上げてっていう時代の間に、
その強撃ですね。
をやってる2人の男性。で、1人は女方なんですよね。
の話なんですけど。
まあ彼らの事情が時代に振り回されるんですよ。
秦の時代はえんやえんやともてはやされたのか、時代が移り変わったら、
まああんまり興味もたれなくなるし。
かと思ったら今度はその日本軍が入ってきた日本軍の接待として、
単なる接待の手段として使われるみたいな。
あったと思ったら今度はその中華人民共和国の時代になったら、
豪奢な演劇は資本主義的だってことでめっちゃ嫌われるんですよね。
はいはいはい。
どんどんその時代の中での芸能の位置が振り回されていくし、
その中で主役2人のその役者2人の人生も翻弄されていくっていうので、
でもそれでも俺たちって演劇しかないよねっていう。
だからその芸能が社会とか人生の下にあるというか内側にあると思ったんですよね。僕それ見て。
はいはいはい。なるほど。
簡単に覆されるもの揺らぐものとしてあって、それでも自分の人生は狂撃なんだって言ってやるっていう。
そこにかすかな芯みたいなものがある話だと思うんですけど、
やっぱり本作の中での歌舞伎の捉え方ってどっちかというと世俗よりも上にあって、
霊的な領域と繋がってて、そして絶対に揺るがない美っていうものがあるものとして描かれてると思うんですよ。
もしかしたらそういうものはあるかもしれないんです。僕は知らないだけで。
でもちょっと僕はそれを疑いたいなっていう。
そういうのって簡単に権威とかと紐づいてあんまり面白くない感じになるなって思ってるんで。
なんかそういうのは疑いたいなと思ってるんですよ。
いやそうじゃないかもねって。美しさとか正しさとかって簡単に揺らぐかもね。
でもね俺これやるんですよねっていうのが見たいなって思うから。
なんかその世界の側にその美とか生き様を肯定されたくないっていう物語にそれをあんまり描いてほしくないと思ってるんですよ。
だから権威の側に国宝と称してほしくないわけですよね。
そう、権威になってほしくないの。権威づけられてない美の話が見たいなっていう。
めっちゃ権威の話になるじゃないですか。
やっぱ僕はある種の滅びの美学じゃないですけど、滅びゆく中でそれでも残していかなければならないものというか。
もうすごい風が吹けば亡くなってしまうかもしれない文化にこそそこを守ってほしいみたいな感じがやっぱり乗るのって。
やっぱりちょっとそれは昭和元六落語真珠の方がそこは強いよなぁと言ったりはしたんですよ。
それこそね、昭和元六落語真珠って落語と真珠しようとする男の話ですからね。
そう、そうなんですよね。
死神を中で演目として演じますけど、落語の死神になろうとした男の話なんですよね。
いやそうなんですよね、そこがまた。
という男に対してちょっと救いの手じゃないと。
のが、まああいつかねみたいなというか、いろいろまだそういうキャラクターが出てきたりとかするっていうあたりの複雑さとかも込みで。
である種、そこにいろいろ破滅なもの、犠牲とか怨念とかも込みでそこも描いてるっていうので、やっぱ好きだったなというか思い出しちゃう。
国語を見てて思い出しちゃう、それは。
だからすごい言い方あるんですけど、落語真珠に似てるけど落語真珠には届いてないなって思っちゃう自分がちょっとやっぱいて。
まあ届いてないというか、僕はそっちの方が好きだなですね。
そうですね、僕はそっちの方が好きの方が近いですね。
いや僕もそうだと思います。
やっぱりそのドラマってここに人間がいるなっていうことなんだろうなと思うんですけど、本作はちょっとその主人公があまりにも人間離れしすぎている。
それは罠とかっていう意味ではなくて、行動原理が人間離れすぎているというか。
せいでやっぱりそこのドロドロみたいなものはもう描かなくて良くなる。
でもなんかやっぱり僕らはその人の奥にある人間を見たい。
そういう作品の方が好きだから。
そうですね。
あとなんかちょっと思ってたのが、そもそもなんですけど、
特にここ何作家のリ・サン・イルの作品って、文字通り真珠する話多いと思うんですよ。
悪人とか、怒りもそうだし、それもラジオでやったルローの月とかもすごいそういう話だと思うんですけど。
確かに確かに。
でもそこってめちゃくちゃやっぱり、ある種許されないものも含む中での真珠の話というか、
でもそこにしかないものがあるみたいなものを描いていることが多かったと思うんですよね。
結構今回はさっぱりしてるなって思っちゃった理由の一つかなと思ったんですけど。
やっぱ娘には許されるって欲しくなかったですよ僕は。
そこのちょっと飲み下せなさというか、国宝にはなったがっていう部分はもうちょっと引き受けて欲しかったなっていう気持ちですよね。
ちょっともう神側の存在になっちゃってると思うんですよね。
世俗のことへの執着とかが薄れてる感じするし、そこに至るためにみんなやってる感じにもちょっと見えちゃうなとは思って。
なんでしょうね、あのラストもね、結局あ、俺って父親の死ともう一回向き合いたかっただけなんだみたいにもなってないじゃないですか。
市民経営のラストみたいにはなってないじゃないですか。これほどの大きいことをやった男も結局こだわってたのこれだったんですねみたいな。
そういう点が、あ、偉大な人物も所詮人でしかなかったんですねとかじゃなくて、もうなんか霊的フィールドに繋がっちゃってる感じするから。
なんかあのシーンも見せ方によっては、もっとあ、やはり人でしたねみたいな感じにもできるシーンだと思うんですね。
市民経営とかソーシャルネットワークみたいに、偉大な人物の初期衝動というかスタート地点は非常に個人的な、世俗的な体験に根差していますっていう。
そういうある種治るみたいなのもそんなに嫌なと思って、ただひたすら神の領域に至ろうとした男が神の領域を見ましたっていう話に終わってるのは、
なんか、そこまで好きなタイプの着地ではないかなっていう。
で、それを芸能に預けてるのも、僕はクエスチョンマークをつけてて、
いやその、一般の仕事だと神の領域に至れないですか?みたいなのはちょっと思ってるから、一時産業でこれやったらダメですかね?みたいな。
ダメなんですよ。だから、一時産業とかそういうサービス業とかで、サービス業でめっちゃサービス残業して、
最終のことを内容が白にしましたなんて許されないじゃないですか。
でもなんか芸能だとやっても許されますよね。
だから、なんかその、みんなの中の神が仮的になりたいとか、神の領域に至りたいみたいな、そういう思いを芸能に預けちゃってるなって思って。
それをやってる限り芸能人は人にはなれないですよね。
そうっすね。
日々の仕事で頑張って、国宝に目指す方がいいんじゃないかなって僕は思ってます。
そうですね。人間国宝にテレビ出ました?みたいな。
関西ローカルだからわかっちゃわないですけど、出ましたぐらいでいいんですよねっていう。