あの会話の演出、自然な会話の演出によってそれを成し遂げてる気がするんですけど、
本作ってすごいセリフ的なセリフの連続なのに、物語のラインが2本あるっていうのが僕すごい多分飲み込みづらかったポイントなのかなと思って、
そういう筋書きっぽい喋りをするんだったら、最終的に1本にまとまっていく方が飲み込みやすいなって僕の感覚としてはあったんですよね。
うーん、なるほど、まあ確かに今までの今泉作品みたいにこう、会話劇の妙で見せるタイプでは確かにないとは思うんですけど、
まあでもテーマがどこまでも今泉劇屋っぽいっていう感じのところに僕は刺さってるっていう感じだとね、あんまりそこは違和感を感じてはなかったですし、
なんならめちゃくちゃ劇映画的だなとすら思えるというか、今までのちょっとゆるっとした感じももちろん好きなんですけど、
一番なんか映画としてのルックはすごく映画っぽいなって今回思っていて、アンダーカレントに関しては。
まあそれはなんかあの撮影だったりもそうですし、まあ音楽、ハロウィンの音楽も含めてですけど、
なんかそういう全体のルックが本当に劇映画的、すごくガッチリとした映画のなんかちゃんとそういう映画のなんか
体裁を整えているっていう感じがすごくしていて、なんかこれなんか普通になんか、まあちょっとまあ今回見てドライブマイカーとかも思い出すような話ではあったんですけど、
そもそもなんか順番が逆だったらなんか先にアンダーカレントの方が海外に行っててもおかしくないのではっていうぐらいにはなんかすごく映画としてのルックがめちゃくちゃ
ビシッと決まってるなっていうふうに僕は思ってましたね。
で、夫が探偵を雇ってたっていう部分なんですけど、僕これ何の違和感もなく受け入れてたんですよね、あの展開。
僕むちゃくちゃわかるんですよ。自分がいなくなったところで何が起きてるかめっちゃ気になるんです。
えぇ、全然わからへんかった。
ちょっと言い方変えると、例えばその飲み会で自分が席外している間何喋ってるんだろうってめっちゃ気になる人なんですよ。
その例えはちょっとわかりますけど。
だからあの自分がそこに居続けることもできなかったけど、いなくなった後にどうなるかっていうところも気にしちゃってるっていう感じは僕すごいわかって、
じゃあ面と向かって聞けやみたいな部分あると思うんですけど、それはできないんですよね彼は。
でもじゃあ自分が居た場所を捨てて神気一点っていうのもできない。気にはしてる。
でも知ろうとはできない。面と向かって知ろうとすることはできない。
だから人に見させるっていう感覚は僕ちょっとだけわかります、あれ。
僕がわかるというか、そういうロジックが成立するのはあり得るなっていう感覚があります。
あれ、僕だけ?
僕はそのロジックというか、言われてみれば確かにわかるなっていうか、確かにわざわざそこまでせんでもっていうふうに思うんですけど旗から見てると。
けどそれでも気にはなってるけど踏み込めないみたいな感じっていうのは、
そもそも彼夫の悟るっていうのは見方によってはかなりひどい人だなと思うんですけど、
それでもこの人ちょっと悪い人だけど憎めない部分というか、
その繊細な部分にも触れるとこは全然あるなみたいなのは全然思っていたので、
その感じは確かに言われてみればすごくわかるかもなっていう。
僕はあいつの弱さの話をめちゃめちゃしたいんですよ。
あの弱さの話を。
あのクソ雑魚メンタルの、人と向き合えないクソ雑魚メンタルの話をしたいんですけど。
僕生きて帰れるかな、今日。
後に置いとこうかなと。
じゃあ、きまこまえさんありがとうございました。
ありがとうございました。
では、われわれで話を掘り下げていこうと思うんですけれども、
どっから行きましょうか、じゃあ。
いやもう、エディタから行っていいと思います。
え、まじで?
本丸から。
いやむしろ、別ルートですよ。
別ルート?
別ルートというか、史上ですよ。本丸じゃなくて。
あー、まあまあまあ。
いやでも、私も、本作を結構私はミステリーとして楽しんでたんですよね。
あー、うんうん。
まあ別に、そんなにめちゃくちゃどんでん返しとか落ちとかなくていいんですけど、
まあ、エイタのことはずっと気になってるわけじゃないですか。
で、そこで、まあ例えばさっきあがってた、ある男とかは、
あ、なるほどなるほどっていうような感じだったんですけど、
今回、なんかエイタが、そのなんていうんですか、
誰からも人当たりがよくて優しい、そしてマキヨーコがすごく信頼を置いていた、
そういう人物に全く見えなくて、
だから、エイタの存在によって私はこの映画が破綻したんですよ。
はいはい。
なんじゃそりゃっていう、なんか全然繋がりを感じられないというか、
その今までの、まあマキヨーコ以外の人は、まあこの際どうでもいいとしても、
マキヨーコから見てたエイタって、なんか何だったのって逆に、
マキヨーコがエイタのこと全く見えてなかったとしか思えないような描かれ方だったから、
すごく違和感が個人的にはあって、
なんか何でもありじゃん、そんな、なんていうんだろう、
エイタに対してのこう受け取り方が全くわからなかったですね。
なんか前田さんがおっしゃるの正しい気がして、
多分、あのカナエマキヨーコは見えてなかったんですよ、彼のことがとにかく。
っていうのは多分そうだなと思ってて、だから愛しているんだけど、
彼の一側面しか多分愛せてなかったのかもしれないし、
そこまでしか結局見れなかった、
あるいは関係性を気づけなかったってことでもあると思うんですけど。
そこから離れていくっていうのを繰り返してたんじゃないかなと思って。
ただ、自分がその本当のことを言えない、
人と面と向かってコミュニケーション取れないっていう弱さや怖さをさらけ出せることもできないから、
僕って嘘をつくの上手いんだよねって言っちゃうっていうダサさを僕は感じたんです。
で、あのね嘘をつくの上手くて誰の前でも求められる自分と演じられるんだよねって言ってるときにね、
まとめ二手の時の稲垣五郎を思い出したんですけど、
あいつもね、僕って怒りを覚えないんだよねみたいなこと言ってて、
もうめちゃめちゃ怒っとるよみたいなのがあったんですけど。
ありましたね。
あの、なんていうか、自分ってちょっと欠落してるんだよね願望みたいなのが、
また出てきたぞと思って、
出た、この男の欠落してる人間願望のクソダサさみたいなのがまた出たわと思って、
僕の解釈ですよ。両作とも、あくまで両作とも僕の解釈ですけど、
そういう極端な人間像っていうのは、もちろんそういう人もいるかもしれないけれども、
基本的には言いたいなんですよ、そういうのって。
僕って感情がないんだよねとか、僕って嘘つくのが上手いんだよねとかって言いたいっていうのがあると思うんです。
それはある種の防御としてあって、そうじゃないと自分を守れないかだと思ったんです。
だってお風呂に一緒にいるときも全然しゃべんないじゃないですか。
普段からしゃべんなかったんでしょっていう。
だからその、牧横が望む夫像を演じてたんじゃなくて、
単に望まれない夫像を演じることさえできなかっただけなんでしょって思ったんです。
で、決め手となったのが多分子供作る話になったからだと思って。
それは確かに思いましたよね。
多分そこまで向き合えないなって思ったんだろうなっていう感じの顔してたなっていうのは、
回想からは僕もそこは感じ取ってたので。
でも子供を持つの怖いなっていう本音を晒すこともできないんですよ、彼は。
その弱さをさらけ出せない。
だから君の前では怖くなって逃げちゃったんだ的なことを。
あくまで君が好きだから怖くなったって言い方で逃げるっていう感覚。
僕はね、パリテキサスを思い出しました。
出ましたね。
何回言っとんのって言ってるぐらいですけど、パリテキサスを思い出しました。
なるほど。
なんかその、今の話聞いてて、
私も牧陽子と井浦新川の話と、
なんていうんですか、今回のエイドの話って、
私ももうこの二人って何の関係あんのってめっちゃ思ってたんですよ、普通に。
人の中には複数のストーリーがあるみたいな、そんなことも全然考えられなくて、
なんだこれって思ったんですけど、なんか今思ったら、
きっと、井浦、井浦というか人って、どこかしらに相手を選んでるじゃないですか。
で、例えばですけど、マルチの関与をする人って、そうしやすそうな人っていうのを選んでる、どこかしらで判断してる。
だから井浦は、井浦の嘘が通用する相手を選んでる。
本当のことを見られない人間を選んでる。
で、その牧陽子の井浦の嘘に気づけないというか、
本当の井浦を見ることができないっていう牧陽子を作ってるものとして、
もう一つのストーリーがあるのかなっていうふうに今ちょっと解釈して。
違う?
でもなんか、わかります。
だからなんか牧陽子が、そうか牧陽子の方がおかしかったのかって、
私の中で今すごい納得感が、おかしかったというか、
井浦がもともとおかしかったことに、あそこまで気づけないっていうほど人を見てなかったってことですね。
それはそうかもね。
見えてなかったし、見ようとしてなかったわけではないとは思うんですけど、
見ようとは思っていたけど、見えてなかったんだなっていうものがたくさんあるよねって話だと思うので、
そこはなんかそうだなっていう。
その理由というか、その彼女を作った、構成してるものとして、
井浦新川の話というかに絡んでくるのかなっていうのをすごい。
私は正直、一緒にいる人のことは、あそこまでわからないことはないっていう自信があります。
それはそうかもね。
それは自信があるって言ったらおかしいけど、
それはでも、分かる部分はあると思うんですよね。
難しいな。この言葉を伝えるのは難しいんですけど、
自分も誰でもじゃないですけど、ずっと一緒にいる人に対して、
私は100%さらけ出してる自信があるし、
相手もそうなんだろうなって感じるからこそ、一緒にずっといるっていうことを感じる人っていると思うんですけど、
だからこそ本当に理解できなかったです。
そこまでの深い関係にある人間が、そんなにも違う人間なことってあるのかなっていう。
違う一面があるぐらいだったら分かるんですけど、
そんなに違う人間なことあるっていうのが、ちょっと分からなかったんですよ、ずっと。
だからこれ、話をややこしくしてるのって、エイターが急にいなくなったからだと思うんですけど、
例えばこれで、1回でも言い争いとか挟まってたら、筋道は通るとは思うんです。
ずっと我慢してたけど、君のことを許容できないんだよね、みたいな言い争い。
ずっと我慢してたけど、みたいになったら、そうなんや、みたいな。
我転は行くと思うんですけど、それもせずにいなくなるから、謎のままっていう。
でも、ちゃんとそこに対して話ししないまま、関係だけはずるずる続いていって、
でも、我慢してたんや、みたいなことに気づかないってことは全然あると思うんです。
その我慢してたんだっていうシグナルを出す代わりにいなくなるから、混乱を呼んでるだけで、
たぶん、マキヨコが見てたエイターも、たぶん本人なんですよ、その感じは。
そのなんとなく自分のことを受け入れてくれてる感じ。
それは単にエイターが言い返さないだけ、受け入れてくれてるのではなく、返せないだけだったのかもしれないけど、
それでも隣にいてくれたっていうので、なんかそこに信頼関係があったような気がしていた、今思いはみたいな。
でも、それって僕成立するんじゃないかなとは思ったんですけど、
逆に僕、そんなに相手のことを知らんとダメって思ってたんです、見てて。
さっき大石さんもおっしゃってましたけど、そんなに相手のことを知らないっていうの嫌ですか?
僕、そこまで嫌じゃないんですけど。
なんか知らないというよりも、なんて言ったらいいのかな?難しいですね。
相手が信じるっていうのは、相手が自分が知らない一面があったとしても、
それも受け入れるっていうことが信じるってことなのかなっていうふうに思ってるんですよ。
その覚悟ができるだけの相手であるっていうことが、信頼だなっていうふうに思っていて、
でもなんか、それに至るには、それなりの自分の中にある積み重ねてきたものが、
それが何かって具体的に説明することができないとは思うんですけど、
あるからその確信に至れてると思うんですけど、
だからなんか、なんていうのかな?難しい。
難しいですね。
ちょっと本当私には理解できない世界線にいる人たちだなと思います。
あの二人が。
あの二人が。でも特に牧陽子がって今もです。
多分本作のあの二人の積み重ね、これまでのを描いたら、
多分バレるから描いてないんじゃないですかね。
その積み重ねがどういうものだったかっていうのを描いちゃうと、
だいたいわかっちゃうというか、
そもそもその人間関係を続けられるぐらいの信頼関係を作るコミュニケーションがあるんだとしたら、
どっかでわかる。この人自分と本当には合ってないなとかって、
多分わかる瞬間来ると思うんですよね。
それを時間かけて描いたら、
あ、そもそもエイターここにいるの無理やと思ってるわみたいなのが見えてきちゃうと思うんです。
だから描いてないんじゃないかなと思って。
もう全部空白のままで置いてる。
ただなんかその信頼関係があったと思ってたところに信頼関係がどうやらなかったのかもしれないみたいな、
そこを抽出してる話だから、
そこに至る信頼関係は本来積み重なったはずの時間っていうものはあえて描いてない。
それはもうあなたの自分のエピソードを代入してくださいって。
今自分の隣にいる人ってこういう時間積み重ねてましたよねみたいな。
でもその人がいなくなったらどうしますみたいな。
いや、わかってなかったみたいな。
その混乱をしてみてくださいみたいな話なのかなと思ったので、
その前田さんが言ってるおかしいっていう部分は、
たぶんおかしくなるようにしてるというか、
ほんまに描いちゃったら余計おかしくなるからだと思うんです、それは。
こうならないってバレちゃうから、そこを描いちゃうと。
なんかまで代入するべき空白として置いてるような感じかなって気がしました。
ただなんか結構、絵的にもさっき井浦新との関係性がエイターとの関係性の対比になってるっていう話がありましたけど、
結構この絵が、牧陽子がその人とどう関わっていくかっていうのを、
絵とか人物配置で表してるなーって思いながら見てたんですよ。
へー。
例えば、最初堀、井浦新演じる堀と牧陽子っていうのが、
最初にちょっと本音らしいものをポロッと漏らすシーンで、
たぶん最初の食卓のシーンだなと思うんですけど、
ウナギ実は苦手なんですっていうところ。
あれは牧陽子は、ずーっと関わってるおばちゃんは彼女のことをウナギが好きだと思ってる。
だけど本当は実は苦手っていう。
で、それを向き合って目を合わせて言えるんですよね堀とは。
だけど、あるタイミングで堀と一緒に貰いに行ったらセントを燃えちゃっててっていうシーンあったじゃないですか。
そこで突然牧陽子は堀さん私のこと好きっていう風にカエルの車で言うシーンがあると思うんですけど、
そのシーンで彼女は堀のこと見てないんですよね。
それを表すように画面は牧陽子を映して、一緒の画面に映さずに堀を映すって感じになるんですよ。
で、その後にその回答を聞くのもセントで男優、女優で別れて別々の空間で目を合わせずに聞くんですよ。
それってずーっと牧陽子が演じてるカナエってキャラクターが、
常にその人と向き合うことを避けてる人なんだなっていうのが見えてくる気がして。
だけど偶然それが向き合った瞬間には、
何かそれに自分の心の内、アンダーカレントというか真相みたいなものも出せるっていうのをすごい絵的に表してる気がして。
だから後半に向けて彼女が人と向き合っていく場面が増えていくなと思って。
例えばエイタと向き合うのもしっかり2人で初めてあれに向き合う。
でも一番最初に彼が彼女が子供欲しいって言ったシーンは一緒の方向を見てて向き合っていないみたいな。
そういうすごい人物配置で今主人公とかキャラクターがそれぞれどういう風な人との向き合い方、
関係性を築いてるかっていうのが結構明確に表されてるなぁなんて思いながら自分もちょっと映画見てたんですけど。
そうですね確かにそれはそうですね。
だからユーラ・アルタは初め他者だったから
さらけ出せたというか軽口を言えたっていう感じだけど、
だんだんその仕事を積み重ねて身内になっていくことでさらけ出せなくなっていくというか。
そこまでに自分が軽口以上の感情を示してしまったからこそ向き合えなくなるんだと思うんですけどやっぱりあのボイラーを貰いに行った先が火事になってて
しかもどうやら自分で火付けたかもしれないみたいな。
今まで知ってた誰かと違う、そんなことする人なの?みたいな。
何があったんだろうって想像してしまうことで動揺した中でその自分が出てしまったのをユーラ・アルタに見られたっていう。
そこからもやっぱり肌の内を見られることで他者ではいられなくなって向き合えなくなるみたいなのは多分あったんだろうなって気がします。
だからカナエ自身もすごいサトル・エイタが演じるサトルと近いところはある気がするんですよね、そういう意味では。
弱いところというか自分自身もあまり気づいてない弱いところみたいな部分に誰かに触れられた瞬間にその人と距離を置きたくなってしまうようなキャラクターというか。
だから彼女のことは他の知り合い、要は身内以外は強い人ってみんな言うんですよ、彼女のこと。強い人だと思ってたって。
それは彼女が強いところしか他人に見せてないからなんですよね。
そういう意味で結構鏡写しみたいな人だなと思いながら結構見てたので、ある意味似た者同士だなっていうか最後のその対面のシーンとかは。
だからなんか似た者同士だったねっていうのが確認し合えた瞬間なのかな。
だから探偵を雇うっていうのもある意味鏡写し的な行動を取ってるっていうことなのかなと思ったし。
だから僕は結構彼女のことを描くことで、自ずと里山のことも実は描けてるんじゃないかなって思って見てました。
なるほど。えー難しくないけど。
なるほどね。
面白い。なんかでも私なんかだから結構普通にショックだったのが離婚届送っとくねみたいな。
それはまあ彼女を解放するっていう優しさという面もあるとは思うんですけど、
普通にショックでしたね。
えー悲しいなあってあそこまで来てあえてせっかくでやっと本当のことが聞けたんだからそこからまたスタートしたらいいじゃんと思ったんだけど、
でもきっと本当のことをさらけ出した状態では一緒にいれないっていうのはすごく悲しいですね。
そうやるにはお互い弱すぎるかもしれないです。
なんかようやくさらけ出して話せたけど結局別れるって窓辺にいてもまあそうでしたよねっていう話ですけど。
あーそうよ。
窓辺にいて。
そうでしたね。
めっちゃお互いのこと言いまくって結局まあ離婚するじゃないですかっていうのとまあ一緒ですけどねそれはね。
確かに。なんかただその窓辺にいての時って、そのそれに至る段階が多分あったことが分かるからこの急にいなくなるみたいなのはやっぱりこうすごい。
なんかショッキング。でも確かに2人がそういう目で弱い人間なんだっていうことを考えるとすごくなんかこの作品のこと好きになってきた。
喧嘩しないですもんね。あの状態でも2人。
攻めないからこれ喧嘩する勇気もないなって感じがちょっとあって。
だってもっとバチバチにブチ切れてもいいとこだと思うんですけど、
手探り手探りやからこの子に及んでお呼び越しなんだったらもうそもそも無理やわみたいな。
一番感情出していいタイミングじゃないですか。
もう何あったってあんたに分があるっていう保証された状態でも起これないってもう多分無理ですよ。
だってもうそれは。
マフラー首にかけるときあ、こいついに首しめるんやなって思いましたもん。
優しさだったからびっくりした。
うーん。
ずっと話聞きながら、あの劇中で描かれる弱さというやつに僕はずっと自分ってどうやったっけみたいなのをめっちゃ感じながら見てしまうんですけど、
何なんでしょうね。全然言葉にできないんですけど、
人のこと分かんないと思ってるけどでも自分もよく分かんないしなみたいなのがずっとあって、
それを結構この映画でぐざっと当てられたような気持ちしてしまうっていうのがすごく僕はあってだから、
分かんねえなって話されてて、そうだなみたいなっていうふうにずっと思いながら話を聞いてて、
僕はちょっと何も言えなかったんですけど、何なんでしょうねみたいな。
最後、マリオの最後が好きだっておっしゃったじゃないですか、最後も全然よく分からなくて、
よく分からなかったんですけど、どういうところが好きなんですか、最後の。
僕、まあそうですね、結局まあなんかいろんなことが分かんなかったなっていうのが分かる話だと思うんですけど、
そばにいた人のことも分かんなかったし、自分のことすらもよく分かってなかったねっていう話だと思うんですよ、あれって。
自分が抱えていたものを多分、まあすごいトラウマになるような事件があったわけですけど、彼女には。
それは多分、めちゃくちゃ蓋をしまくって強い私になってきたんだと思うんですけど、
それが、自分って本当はそうだったんだ、みたいなのが分かるみたいな話になっていて、
そういういろんなことが当然分かんないっていう前提の下でちょっと分かったかもしれないみたいな瞬間だなって僕は思ったんですよね、あそこで。
もちろん分かったからといって、それがそこでエイターとバキヨコみたいに喋ってでも分かれるみたいなこともあると思うんですけど、
けどそれでも何かあそこに何か分かり合えたかもしれないみたいなちょっと余白があるみたいなのがすごく僕は好きなところなんですよね。
ようやくなんかちょっとお互いのことをちょっと打ち明けられたというか、
それでまあもちろんそこでそのままいてもいいし、いなくなってもいいし、みたいなのがどっちでもとってもいいし、
なんかその余白みたいなのがすごく僕はすごくいいなと思ったっていう感じですかね。
あのラスト、良い方にも悪い方にも撮れるなって思いながら見てたんですけど、
バキヨコが犬を散歩していってその後ろにイロアタがついてきてるっていうのは一緒の方向に歩いていってるようにも見えるし、
もうついてこないでってしてるようにも見えたんですよね。
だからバキヨコの過去を知って、それについて寄り添おうじゃないけれども、
過去に対してフォローしようとしてやってきたわけだと思うんですけど、
それって今のバキヨコ、バキヨコばっかりと役名言った方がいいですよね。
今のカナエになる以前の子供時代のトラウマの事件以前の存在でもあるから、
今の他者と向き合い切れないカナエになる前のカナエを知ってる存在でもあるからこそ一緒にいられるかもしれないし、
むしろ本当にそれを知ってる人が来たら余計無理みたいなことになってもおかしくないと思うんですよ。
あそこはどっちもあるなっていうか、いわゆるオープンエンドだとは思うんですけど、
そこでどう捉えるかで自分自身の他者に対する感覚で分かれるんじゃないかなって気もして、
えー!やばい、どう捉えるかに追い続けてないぞ。
例えば僕は、あれは一緒にいるのは無理やなと思って。
僕の感覚ですけど、やっぱちょっと気持ち悪いなっていう。
なるほどなるほど。
それちょっと分かりますよね。一方的に自分のことを知っている人だったんだっていう。
パワーバランスが均等じゃないし、結局突き詰めた自分が救われたいっていうのを
はじめに出さないから言ったらいいんですよ。
それでもしかしたら拒絶されるかもしれないですよ。
たぼかいのおっちゃんが言ってましたけどね。
言って、それで受け入れられるかどうか。この時のあの子の兄ですって。
言って受け入れられるかどうか分からないけど、それを隠してたわけだから、
そこに対する信頼ってないとは思うんです。自分が救われたかっただけでしょって。
急に厳しくなった。
でもそれって英太がやってたことでもあるんですよ。
自分だけが一方的に知る立場であろうとしたっていう。
そうですね。
自分をさらけ出すことは怖いからできないけれども、ただ相手のことを知りたい。
それは相手のためでもなんでもなく自分が救われたいからですよ。
自分の過去が自分の背中におひらのようについてきているから、
でもそれを振り払うこともできないから、ちょっとだけ傍観者になるっていう。
そのずるさ弱さみたいなものを男二人共持ってて。
じゃあそれをやった英太の後に彼と一緒にいれるかと言われると、
僕はちょっと無理かなと思うんですけど、逆にだからこそやり直せるかもしれないんですけどね。
同じ属性の人がもう一度来たんだとしたら。
それが別に夫婦とかカップルとかではないかもしれないけれども、職場の同僚として
もう一度違うタイプの信頼関係を築く、人間関係を築くことはできるかもしれないですけど、
僕は無理かなって思いました。
傍観されてたのは許せんなと思って。
僕はあれですね、そういうことは多分逆の解釈をしているのは、
そう取りたいからだと思うんです、僕の場合は。
僕も多分大石さんと一緒なんですけど、その見方というか。
やっぱりある種堀は、このキャラクター、特にサトルとカナエと堀って、
3人の中では初めて自ら本音を出した人なんですよね。
嘘、偽りを泣くというか、あるいはペルソナを剥がして。
それができて、カナエはカナエで、それをある種弱さを堀の前でさらけ出すということをしているじゃないですか。
なので、お互いの弱さを知り合う世界において唯一の2人ではあるというところは間違いなくて、
僕は、いまいつめ作品って基本的には正しくなさを描く人だと僕は思っているんですよ、ずっと。
正しくない人の正しくない行動原理を、でも正しくないとは言わずに描く人だと思うんですよ。
だからそれこそ兄弟愛だとか、あるいはちょっともう狂気的な愛みたいなものを描くわけですけど、
これも多分世間的に言ったら堀とカナエの関係って絶対正しくないんですよ。
そんなやつすぐに離れればいいじゃんなんですよ、と考えたって。
でも、いまいつめさんであれば、いまいつめ作品、多分僕が求めているものは、
その正しくなさを受け入れて生きていくってことを決めた人を見たいんですよ。
人間は正しくなくていいっていうのを見たい。
だから僕は結構それに対しては前者というか、彼らが関係を続けていくっていうラストとして受け取ってます。
なるほど。
言っていい?
いまいつめ作品の視点から言うと、私から見るいまいつめ作品って、
例えば本音を打ち明けられる人とか、弱さをさらけ出せる人と、好きになる相手は違うっていうことを描いてるなっていつも思うんですね。
そう考えた私はあのラストは、カナエが拒絶してるとまではわからないけど、
カナエの後ろを歩く彼は過去の人間でしかないっていう感じはすごい受けました。カナエにとって。
本当はそこが交わればいいっていうところが交わらない。それがいまいつめ作品だなって私はいつも思います。
本音を打ち明けることができる人と好きになる人は違うって話だと思うんですけど、
確かになっていうのは、僕もあの二人が夫婦になるとか恋人になるっていう見方はしていなくて、
けど信頼できる人にはなったんだろうなっていうふうには僕は思っていて、
それが僕は本音をさらけ出せる人になったっていう話だと思っていて、
恋じゃないけどそういう人がいるっていうのが僕はいまいつめ作品の好きなところでもあるので、
街の上での夜の話をするみたいな話がやっぱ好きなので、
そういうのもあってやっぱあれはやっぱり二人は何かしら何か続いていくんだろうなっていうこれからも。
少し交わる風に生きることになるんだろうなっていう風に僕はやっぱどうしても見てしまうというか。
僕は今までの作品よりも本音をさらけ出すっていうことを史上の価値には置いてないように見えました。
今までみたいにはそうじゃないと思って、隠すとこは隠さないといけないというか、
嘘をつくじゃないけれども嘘をついてでも関係を続けようとするっていうのはそれはそれで僕信頼関係だと思うんです。
でもそれをできない人たちの話というか、本音をさらけ出したら別にそれでうまくいくってわけでもないっていうのが、
なんか今までよりも残酷には見えて、別にそれが嫌とかではないんですけど、
むしろ今までよりもちょっと幅が広い気はしてます。射程が広いというか。
人間関係について本当にいろいろ考えたんですよ、本音作を見てて。
どこまで他人と共有したいですかって思って。
基本的に人といるって何かを共有することだと思うんですけど、種類ってあると思うんです。何を共有するかって。
例えば職場の人って目標を共有してると思うんです。仕事って。
例えば家族って家族も目標を共有してる関係ではあると思うんですけど家庭を維持するっていう。
あと同時に時間を共有するっていうのもあると思うんです。家族としてあるということ自体が意味を持つみたいな。
それは例えば友人関係でもそうだと思うんですよ。
友人関係は多分時間を共有することが最大の目的というか目的を共有する必要がない集団っていい感じかなと思って。
じゃあそこで本音とか弱さってどこまで共有されないといけないのかなって思ったんですよ、見てて。
結構弱さをさらけ出してほしいみたいなのもあるじゃないですか、そういうのって。
でも僕逆に全部さらけ出さない人好きなんですよね。
相手の友達とか職場の人とか知り合いとかだったらそんなにさらけ出す人ってないと思うんですけど、
自分のパートナーとか一緒にいる人に関して言えば、私はネガティブな部分を共有できる人。
楽しいこととか嬉しい感情ももちろん共有したいけど、そういうことって誰とでもって言ったらあれですけど、
楽しい時間って誰とでも共有できると思うんですね、ある程度気が合う人であれば。
でも自分の中の弱い部分というかネガティブなもの、感情とか悪いところとかでもそうですけど考えとか、
それを共有できる人じゃないと別に一緒にいる意味がないです、私にとっては別に。
それだったらいらない。
それを共有できない人と一緒に、その人パートナーとして一緒にずっといるっていう必要がない。
僕ネガティブなものの共有ってその課題の解決のために共有できたらいいっていう感覚があって。
めちゃくちゃポジティブ。
職場の人やん、それ。
職場の人。
だからそこはパートナーっていう部分においても全然違うわけでしょ、ここで。
確かに確かに。
僕は時間を共有できたら別にネガティブな奥底を共有できなくてもいいんですよ。
ネガティブなものはそれを解決するために共有したい、問題をシェアしたいっていうのがあって、
このギャップって埋めるのむちゃくちゃ大変ですよね、多分。
問題がない場合もある。
単純に自分の中の悪いというか、こういう部分、自分の嫌な部分も受け入れてくれる存在であってほしいとか、
受け入れるというか、それを知ってもらうだけでもいいんですけど。
それ考え方の違いかもしれないですけど、その人の弱さとか悪い部分を出すっていうのは、
それを抱えているしんどさを解決するために共有してもらうのがいいなって感覚なんですよ。
その言い方であればそうかもしれないですね。
言い方の違いか。
でも、だからといってそれを改善しようみたいなのはないです。
改善しようのために言ってるわけじゃない。
それはもうそのままでいいよぐらいな感じってことですよね、別に。
自分でもわかってるけどこういうこととか、どうしても浮上できないときとかにそばに、
時間共有するだけでもいいんですけど、そばにいてほしいとかっていう。
なるほど。
大切な人に求めるところって、相手のそういう部分も自分が背負いたいなって思うし、相手が望むのであれば。
今ずれたなっていうのがわかりました。
僕、その人の弱さを共有してそれを一緒に持っておくっていうのもそうなんですけど、
それを分解して再構築したいんですよ。
いらん。
そして、新しい言葉にして出力したい。
めっちゃおもろいですね。
全然違いますね。
語り直したいんです、一緒に。
その弱さとか悪さとか正しくなさを共有して、ただ一緒に持っておくんじゃなくて、
作り直そうねって言って、新しい言葉を生み出したいんです、僕。
そこまでやるのが僕の目的。
でも、こういうふうに言ってたら、え?って思うけど、
そういうこと自然にしてるかもしれないですね。
別に意識して一つの会話とか、何か打ち明けることを意識してしてるわけじゃないけど、
一緒に時間過ごしたり会話する中で、山口さんが言ったようなことを自然としてもらってたりしてるのかなっていうふうには思うかもしれない。