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今日のテーマトークは、『ふれる。』です。はい、ではマリオンさん、解説をお願いします。
映画ドットコムから解説を読ませていただきます。あの日見た花の名前を僕たちはまだ知らない。心が叫びたがってるんだ。
空の青さを知る人よ。の青春三部作を手がけた監督、長井達行、脚本家岡田まり、キャラクターデザイン
田中雅吉が再結集し、不思議な生き物、ふれる。の力で心が繋がっている3人の青年の友情を描いたオリジナル長編アニメーション
同じ島で育った幼馴染の小野田明と曽笛涼と猪原優太。20歳になっても親友同士の彼らは、東京の高田の婆で共同生活を始める。
口下手な秋はバーでアルバイト。体育会系の涼は不動産会社の営業職。コンプレックスの大井優太は服飾デザインの専門学校生と個性はバラバラだったが、
島から連れてきた不思議な生き物、ふれるがテレパシーのような謎の力で彼らを結びつけていた。お互いの体に触れるだけで心の声が聞こえてくるため、3人の心はいつも繋がっており、
そんな関係がずっと続くはずだった。しかし、ふれるに隠されたもう一つの力が徐々に明らかになり、3人の友情は大きく揺れ動く。長瀬レンが秋、坂東隆太が涼、
前田健太郎が優太の声をそれぞれ演じ、白石遥、岩見真中、源猿時、須田健二郎が共演。また、青春三部作キャストの
茅野愛、桜井貴博、田村睦美、瀬戸浅見、豊崎焼、岡田美鶴、美奈瀬実里、内山浩輝、岡山詩音が出演する。主題歌は数々のヒット曲を生み出してきた人気音楽ユニット、いわさびが担当。
はい、それでは内容に触れる話を入っていきますので、ネタバレ気にされる方はぜひ見てから聞いていただけたらと思います。
では浅井の感想、マリオンさんいかがでした?
そうですね。劇は良くないと思いますし、そんな風呂敷広げんでもなぁという気はせんでもないんですが、
ですが、描いてる手はめちゃくちゃ好きなんだよなっていうことに尽きるなっていう。
映画としての劇はあんまり良くないんだけど、でも刺さっちゃってるなーっていうのが、そうなんですよね。
すべてのことが分かってたらいいのか、繋がってることでいいのかっていうのはそういうわけでもないし、
繋がってたいと繋がっていたくないのを揺れ動きみたいなのがすっごいわかるなと思って。
そのへんのやりとりとかコミュニケーションとか揺れ動きみたいなのがすごく僕は好きだなと思いましたね。
そしてちゃんと岡田マリ独属の老悪的と言いますか、畜生的と言いますか、みたいなのがしっかりこっちを傷つけてくるっていうね。
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この映画と僕との間でのコミュニケーションの不安みたいなのが、コミュニケーションの映画としてすごいうんうんって思えないみたいなところがありましたね。
もうちょっとうまくやってほしいなとは思いますけど、嫌いにはなれないですね。
あと夜遊びの歌、あんなにまんまなこと言っていい歌あるんだって思いましたけど、
テーマはまんま歌ってるだけやなって、それが一番びっくりしてましたね。
僕が言いたいことは全部夜遊びが言ってるって思ってて。
だから今日どうしようかなって半分思ってたんですけど、僕としてはそんな感じです。
あれですね、Spotifyやったらここで流せるから、もしかしたらしゃべる必要なくなるかもしれないですね。
そうですね。やりたいですね。それではお聞きください。夜遊びでモノトーンみたいなの始まりそうなのやりたいですけど。
確かに夜遊びって物語に対して解釈を歌う人たちだから、まあそうなりますわなっていう。
僕がポエムっぽい感想を書いてると一緒やんって思いましたよ。
一緒やんって思っちゃって、まあいいんですけど。
それが一番笑っちゃいそうになりましたっていうか。
こんなに有弁に説明、これでいいです、僕の言いたいことみたいなことを言ってるのでびっくりしたなっていうのがありました。
はい。大井さんいかがでしたでしょうか。
そうですね。なんかこう、昨年その岡田マリーの現役を飲んだ我々ですけども。
なんか今作はでもなんていうかな、まあ岡田マリーらしさもめちゃくちゃやっぱあるなっていうのは見てて思いましたし。
そうですね。それこそ、そうだなあ、ここまでその内側を開く男友達って自分にいたかなみたいなのをちょっと考えたりもして。
でも、例えば映画の話してる時に結果的にその、だから僕らと映画がフレールなのかもしれないなというか、なんかそういうことも少し思ったりもしましたし。
うーん、あ、そうだなあ、でもなんか男友達もの大ハッピーエンドと、これほぼほぼ連続で見てるので、
なんかこう、男の子同士でそのマウントの取り合いではギリギリない関係性、まあちょっと若干怪しいとこありましたけど、
でもなんかそうなる手前で何とか引き返せる関係性として描けてるのがすごい僕はいいなと思って。
まあある種の願いとか、全然現実社会の男性間のコミュニケーション、それリアリティないよっていう人も全然いるのはわかるし、そういうコミュニティーがあるのもわかるんですけど、
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なんかこのぐらいの感じがなんかスタンダードになってくんないかなっていう願いみたいなのも、まあこんなに内側広く必要もないっちゃないんですけど、
傷つけなさがこのぐらい、まあ要は結局それフレールのおかげなんですけど、でもなんかいいんじゃないかなっていうのはすごい見ながら思ったことではありました。
なんである意味そのユートピアとしての男の子関係、映画としてすごいいいなあとは思いましたね。
僕はですね、敵に関してはまあまあまあまあまあみたいな感じではあったんですけど、やっぱりその自分が取ってきたコミュニケーションって何だったんだろうっていうのをすごい考えながら見てたんですよね。
で、見て思ってたことで、そのフレールの力ってまあこのテレパシーがもたらす不安みたいなのって、全部わかり合ってしまうからっていうのがよくあるパターンやと思うんですけど、そうじゃないっていうのがちょっと面白いなと思ってて、むしろそのフィルターがかかるっていうこと自体が、
後々問題になるっていう話やと思うんですけど、それって悪いのかな、悪いことなのかなって思う部分もちょっとあって、これって要はその努力してそれを身につけてたら別にそれは良きコミュニケーションなんじゃないかなとは思って、その過程を経てないから良くなかったよねって言ってるってことやと思うんですよ。
だから多分、偶発的にとかじゃなくて、自分たちの力でそのフレールを手に入れていくことは多分良いことなんじゃないかなと思って、なんかそのフレールは良くない力っていう風な軸で見ると、ちょっとなんかうまく飲み込めない話のような気もして、
フレールとどう出会ってれば良かった、あるいはその自分用のフレールをどう自分の中に作ってたら良かったのかっていうのを自分の人生に当てはめてめっちゃ考えてみてたんですよね。
なんかそういう話になったら良いのかなとは今のところ思ってます。ちょっとまだまとまりきってないんで、流れでって感じですね。ではですね、ちょっと今回お便り頂いてなかったので、このまま我々3人で話を進めていこうかと思うんですけれども、さあ、横から行きましょうかね。
ちょっとすごい今更だったんですけど、フレールっていうキャラクターのデザインが蟻ネズミっていうか、山嵐のジレンマかこれって話だったのを見終わって気づいて、こんなにも直接的なキャラクターが気づくのがだいぶ僕遅かったっていうのがあるんですよね。
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いやー、ちょっと僕そこすごい言いたいことがあるんですけど、フレールのキャラクターデザインのいまいち魅力のなさが本作のちょっと権威力をすごく下げてる気がしてて。
いやー、そうなんだよなー。いや、わかりませんね。
フレールがちゃんとキャラクター全としてるだけで、この映画のルック相当変わると思うんですけど、でも要するに山嵐じゃないですか。山嵐のジレンマじゃないですか。近づきたいのに近づくとみたいな話になるって。
ちょっとそのなんていうか、何のブラートもなさすぎて、しかもその見た目もデフォルメされたハリネズミというか山嵐でしかないから、ちょっとなんかもうちょっとファンタジックなキャラクターになっててくれてもよかったなーっていうのは見てて思ってたんですけど。
そうなんですよね。偶話なのはわかるんだけど、ここまで偶話にするかいっていう。
ちょっと文句になっちゃいますけど、やっぱりフレールの設定がうまく転がせてないが上に油に風呂敷を広げみたいな話になってしまいっていう。この話別にそんな広くないじゃないですか。
この3人と彼らを取り巻く何人かの人間模様だけでいいじゃないですか。この話って。なんか世界を巻き込んだ大事に従っているのは何なのかなっていう。
そんなことしなかったじゃん。今までの3部作って。どうしたのってちょっと思いましたね。
あのフレルの世界に入ってからの展開、だいぶ退屈で。なんか今起きていること何も意味ないぞと見てたんですよね。
いや本当に自分たち3人の中でだけあったなんか超常的な力が世界にこぼれ出して、世界に危機が溢れ出してしまっているっていう感じにしたいのかなっていう風に見えたんですけど。
それってフレルの力とそんなに直接的に関係ない事象になっちゃってるから。
物理的な事象としての問題になってるし、あと考えてることすべて伝わっちゃうっていう、元々フレルが持ってたパワーとは違うところに問題設定がされてたから、
あの力が溢れ出してから、なんか問題にするためにずれたぞってなって。
フィルタリング機能消えたけどみたいな。
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なくなっちゃったねーみたいなね。
でもやりたいことはわかるけどなんかうまくいってないというか、無駄に気を広げすぎてるなーって思っちゃったっていうのはやっぱね、正直思いましたね。
フレルはフレルでそのフィルター機能を身につけざるを得なかった系みたいなのがあっても良かったのかなと思うんですよ。
だからその心が全部直で繋がっちゃったら、いさかいしか生まないからフィルターをつけたけども、
そのフィルターをつけたことで結果的にその繋がった人同士に良からぬことが起きてるなっていうことをフレルも学ぶみたいなことを描く余地もあったと思うんですけど、
ただそのそこのコミュニケーションというかフレルの物語を描くにはあまりにフレルがただの獣すぎて、
喋れないだけで自我がある生き物とかじゃなくって普通にただの獣すぎて、
そこも描きがなかったなって見えたんですよね。
もうちょっと人間に近い自我を持った存在になった方が良かったような気もするなぁと思って。
それこそスズメノトジマイの大臣みたいな時ぐらいに良かったよなぁとは思ったりはしたなぁってのはあって。
結局最終的にフレルが暴走しちゃうみたいなというか、
あれをある種のおさまさというか、ある種のコミュニケーションをしっかりとってこなかったという奢りとか怠慢というか、
ちょっと良くなかったものとして、精神の古傷みたいな感じを捉えられるかなと思ってはいて。
それがもうちょっと展開的にうまくいけば、最後はちっちゃくなって秋の下に残ってるじゃないですか。
あそこでちょこっと残ってるっていうのがすごくいいなぁと思ったんですよね。
ああいうちょっと自分のおさまさというか、無知とかそういったもの。
人間関係とコミュニケーションの上での自分の奢りかな、みたいなものが、
傷としてというか、最終的にあそこまでちゃんと最後に残ってるっていうのが、
それもさっきのワールドエンドみたいな話になりますけど、
消せないよねっていうところとして、最後ああやって残ってるのかなって思うと、
僕はああいうのはいいなと思ったんですけど、そこまでの流れがあんまり良くなかったねっていう。
そうですね。
本当に彼ら3人のドラマの描き方のバランス、すごい難しかったのかなっていうのは見てて思ってたんですけど、
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まず子供時代が飛ぶじゃないですか。
クベルトであったから。
急展開で仲良く過ごした青春時代みたいな展開があって、
そこに何のドラマもないから、
あれなんかそれでいいのかってすごいちょっとびっくりしたんですよね。
冒頭のあそこ。
結構あそこがある意味伏線だったんだなっていうか、
結局その和田カバリンになる部分は全部フレルによってフィルターかけられてたっていう。
だから何の摩擦もない青春時代にさせられたっていうのが、
あの展開が早すぎることで、そういう風になってたのかなっていう風には見えたんですけど。
だって中高いとかが全くないじゃないですか。
そうですね。
なかったんでしょうねっていう。
なんかその違和感みたいなのをすごく感じてたんですけど、
それが実はそういう風になってたっていう風にネタバラシ後半でされてっていうのは、
ある種我転が行くなとは思って。
ただそれによって主役3人のことが結構飲み込みにくい3人になってたなと思ってて。
あまりに平然と他者2人と同居できるって結構異様な人間に僕は見えたんですよね。
男さんにシェアハウスするって結構それ自体が大変なことだと思うんですよ。
昔のドラマとかでも男同士同居するものとかってありますけど、
やっぱりそれで圧力が生まれててそこ自体がドラマになるけど、
そこ自体にドラマってないわけじゃないですか、序盤は。
平然と一緒に暮らせてる他者3人って結構異様というか、
何というか自我が弱いなって見えてて。
そこがね、正直僕はあの3人のことあんま好きになれないかったんですよ、序盤。
だってなんかあんまりに個人が気迫やぞと思って。
だってそうなんですけどね、そういう風に映画が出てたから。
だって3人で一緒になれるぐらいその他者としてのフィルターが省かれてたってなるから。
でもそれによってやっぱりね、キャラクターとしてちょっと受け入れにくいものに僕は見えたんですよね。
ちょっとそんなに簡単に他者を受け入れられちゃうなんてっていうのが、
なんかその違和感みたいなの結構最後まで引っ張っちゃったんですよね、僕見てて。
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その共感しにくさみたいなのがちょっと最後まで足枷になったなっていう感覚はありました、見てて。
確かにその異様な仲の良さというか、仲がいいとかでもすらもないんだよな、多分もう。
途中女性2人が住むことを決めますけど、最初はそれこそある種の勘違いから、
ここなら安全だっていう判断をするわけじゃないですか、あの2人って。
とはいえ、それが勘違いだったってわかった後も、でも住み続けるっていう。
あの3人自体に男性性みたいなものが本当にある種、ちょっと肌から見たら虚勢されてるように見えるぐらいには、
それがないゆえに、多分その判断を彼女がしたのかなっていうのは見てると思うんですけど、
その異様さみたいなものはちょっと引っかかると言えば引っかかるところはあって、
ゆえに結局その後それが原因で3人が主に男性性を取り戻すというか、男性的な争いになっていってしまうんですけどね。
あの展開も結構悪強いというか、男性コミュニティに女性が入ってきたことで亀裂が入るって結構きついですよね。
美容によってはちょっとなんというかミソジーに見えかないんですよ。
正直そうやろうなっていうか、シンプルにサークルクラッシャーみたいな見せ方になってるよなっていうのはあって、
そこが何なんだろうな。よくはないんだけど、すごいザラザラしてて傷つくなーって思うんですよね。
相変わらずそこをお塊だなーって。
あえて書けますよね、それをね。
あえてなのかな。
あの二人があの家にやってきたことで、他者としてのラインが惹かれ始めるよなっていうのは確かにそうなんですよね。
結局勘違いしてましたけど、二人ができてると思ったから、まあいいかなみたいなふうに思って、じゃあ大丈夫だって言ったけど結局違ってってなってから、
キーホルダーじゃないですけど、JMTでどきゃってってあげちゃダメみたいな。線が引かれだすみたいな。
あそこですごくなんか、自分と外が違うみたいなことをようやく彼ら意識しだすみたいな感じになってるのかなーみたいなのは思いましたけどね。
あの三人だけでいると、互いの摩擦がないことですごく感じのいい人間というか、なんかあんまり毒気みたいなのがない男三人には見えるんですけど、
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ちょっと外部と触れるとやっぱりその毒気って出るなーって見て、やっぱバーでの会話で、
でもキスしてたじゃんって言って、その気もないのにキスしたのかよみたいな、しりがるだーみたいなことを言うの、相当ヤバいと思って。
だからあの三人って、いわゆる使い古された言葉あれですけど、ホモソーシャル的にパッとは見えないというか、
だから互いの子がそんなに摩擦を起こさない状態でまとまってるから、すごいあんまり有害さのない三人組に見えるけど、
そこに女性が入ってきた瞬間に、そこにちょっと有害性を帯びちゃうっていうとこが、なんかすごいえげつないなーって見えたし、
あと彼ら、たぶん島にいるとき未成年飲酒とかしてるんですよね。先生が来たときに、島では酒よく飲んでましたよねみたいな話してて、
えっ、君たち18歳で東京に出てきてるから、未成年飲酒してたってことですよねみたいな、結構なホモソーシャルだと思うんですよね、彼らがいた世界自体が。
彼ら同士からその感じが出てないだけで、彼らと外が触れたときの感じは、たぶん結構な悪の強い男性感あったんじゃないかなって見えて、
それの極致ですよね、あのバーのシーン。あれは本当に、今あるんですかね、そういうの。あるのかな、どうなのかな。
ちょっとデフォルメきついですよね、そこのシーン。あるかないかは別にしてもちょっときついシーンだなって感じはしましたよね。
しっかりこっちを傷つけて来てくるよね、岡田真理っていう感じはしましたよね。いたたまれなさというか、ああいうの本当にぶちまけてくる感じは、本当さすがだなって思うんですけど。
あと、ちょっと真の話に行くために細かいツッコミの話したいんですけど、先生が来て触れるっていうのは、それに頼っていると良からぬことが起きるぞっていう、
まあ伏線というか、ちょっと予兆の話が先生をして、先生がいなくなって、その後、女の子のこと好きっていうのをお互いつと会ってなかったっていう話があるじゃないですか、展開。
良からぬことってこれの言葉みたいに思って、コミュニケーションツールを複数使っていることで伝えたつもりになってたみたいな、そういう問題、コミュニケーションの運用上の問題だなみたいなので、ちょっとあそこ、そこだなってちょっと笑っちゃってあそこ。
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なんかそれって別にフレル自体の本質的な問題じゃないじゃないですか。
ごめん、言ったと思ってたみたいな、非常に日常的なコミュニケーションエラーの話やからあそこ、なんかあれみたいになって。
だからフレルは何を判断してフィルタリングしてるのかなって気になっちゃいましたけどね。
なんかフレルのフィルターは何だったんだろうねっていう。
聞きたくないこと聞かないフィルターでもないだろうしなみたいな。
3人だけで関係が成立するようにって思うと、そういう新たな誰かが入ってきそうなものとかは排除したいのかなって。
だから完全にフレルがあの3人を3人のままにさせようとしている存在ってことですもんね。
だから僕、序盤、フレルは箱押しなんやなって思って。
過激派の箱押しで、異性の新規メンバーなんて絶対許さねえって感じなんやなと思って。
すごいフレルめんどくさいオタク説みたいになってきて。
しかもお互いに画を出して摩擦が生まれるような関係性じゃなくて、
ゆるやかなぬるまぬいのような関係性を求めている箱押し。
それを念頭にして作ってたらめちゃくちゃおもろいけどな。
めちゃくちゃ意味こもってるなってなって面白いですけどね。
ちょっと本題的な話にしていきたいんですけど、
フレル自体そんな悪かったのかなっていうのはずっと思ってて。
だってコミュニケーションってそういうことじゃんっていうね。
言いたいこと全部言わないというか、
いいように伝えるっていうのってそれがコミュニケーションなのではっていう風に思ってたので、
フレル自体が全否定されるってことはないとは思ってみてたんですよね。
むしろ彼ら3人の関係性の中では、
いわゆるホモソーシャル的な関係性の作り方のマウンティングとかがあんまりなかったわけじゃないですか。
俺の方が上でさとか、
あるいは女性のことを当て馬にしてお互い繋がるみたいな、
そういうちょっと毒気の強い繋がりとかをせずに、
お互いのいいところだけを繋がりあってコミュニケーションとれてたわけで、
それ自体すごい健全なことだと思うんですよね。
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むしろ僕男性より女性の方が普通にそのコミュニケーションできる事例多いんじゃないかなって思ってて、
ちょっと何年か前のブックスマートっていう映画で、
女性2人の話だったんですけど、
お互いめっちゃ褒め合うんですよね。
それいいよね、それいいよねって言い合って相互肯定し合うんですけど、
男性ってやっぱり相互否定みたいなとこがあって、
お前その程度かよとか、
ああいうとこあるというか、
お互いちょっとくさし合うことで確かみ合うみたいなのあると思うんですけど、
そういうのじゃないんだって思ったんですよね、ブックスマート見た時。
なんかそれをやってるんじゃないのって思って、フレルが。
フレルがやってくれてるんじゃないのって思いながら見てたんで、
むしろいいことなのではあって、
お互いのいいところだけ見合ってる関係性になってること自体は悪くないんじゃないのとは思ってたので。
でもやっぱり引っかかるのが、
とはいえフレルは必要なのか男性にっていうところはちょっと引っかかるところではあって、
引っかかるって言い方は難しいんですけど、
結局それは男性は正直的には獲得できないって言ってるのとほぼ同義なのではあって気がしたとしちゃうんですけど。
それを頑張って身につけないといけないのかなというふうに見てたんですよね。
だからフレル側に寄りつかれて、それを利用して利用されてるような関係性になってたら不健全なコミュニケーションになっちゃうというか。
自分の中にある思いとか言葉を発した時に何がトゲで何がトゲじゃないのかっていうのをもっと考えないといけないっていう話だと思うんですけど、
そこを楽すんなよっていう。
作中でも明確に楽してたっていうふうな言い方あったと思うんですけど、
だから頑張って身につけないといけないことなんだなっていうふうに見てたんですよね。
頑張って身につけないといけないことというか、別に天然でやれてたらそれはそれでいいんですけど。
傷つくも含めてコミュニケーションやってかなきゃダメじゃんみたいなところはあるというか。
楽しさというか、相手のことを想像しなくても相手のことがわかるみたいな状態だったと思うんですよね。
それがないのが普通じゃないですか。わかるっていうことがほぼないのが普段のコミュニケーションじゃないですかみたいなのをやっぱり描こうとしてるよなと思って。
もちろん想像とかはするんですけど、それでもやっぱりめちゃくちゃ対立したりっていうのがあるよねっていうのはずっと岡田マリーが描いてるよねっていうのはあって。
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そことかは僕はすごくそういうとこ好きだよなーって思っちゃうテーマとして。
それこそ主人公3人に対して女性のキャラクター。別にフレルを返していないけども大体その人が考えてることがわかるっていうキャラクターがいたような気がするんですけど。
そこはすごい男女差としても描かれてるような気はちょっとして。もちろん男性でもそういうようなコミュニケーションになりがちな人っていると思うんですけど。
自然とそこで相手の方を優先してしまうがゆえに力の差というか権力媚というか自分の思っていなかった関係性になってしまうみたいなところとかは逆に多分そうだな。
フレルを返した3人の間ではむしろ起こんなかったコミュニケーションだろうし、でもそうじゃなくてもわかるようなコミュニケーションはあり得るっていうのもちょっと描いてるのかなって気はして。
うまく見えないですけど。
そうですね。見てて本当に自分もめちゃくちゃ人を傷つけてきたし、傷つけられてきてもして、その中でやっぱり傷つけないようにできる限りするっていうやり方は多少は覚えてきてるかなっていうのがあって。
それはもちろん自分の中で身につけたものももちろんあるんですけど、自分の中だけじゃない外付けのモジュールみたいなものを使って棘のないコミュニケーションを取ってるなって思うこともあるんですよね。
例えばそれが僕にとって映画だったりするんですけど、映画の話っていう手で自分の話をしてるんですね、僕は常に。
それを自分の言葉直で始めてもそれは届かなかったりあるいは棘がついてたりするので、一回映画って形を挟んでるんですよ。
だから僕にとって映画はフレルなんですよね。しかも自分で見つけたフレルなんです、僕にとって映画の話は。
それ自体は決して悪いことじゃないんじゃないかなって。そうじゃないと僕にとっての映画っていうものの価値が貶められてしまうからって今もあって。
フレルとどういうふうに付き合えばよかったのかなっていうのを、どうであったらよかったのかなっていうのを見てたんですよね。
本当に圧倒的で超常的な力としてのフレルじゃないにしても、みんなそれぞれフレルを育ってるんじゃないかなって思って見てたんですよね。
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みんなその外付けのモジュールの力を借りてるんじゃないかなって。それは別に甘えでも楽してるわけでもないんじゃないかなって思いながら見てたんですけど。
だからこそ彼らも全否定されないというか、フレルも全否定されないというか。
確かになんか、外付けのモジュールっていうのが確かに言い減ってる。上がってるなって感じがしますね。
逆にでも僕、映画っていうものは、確かに僕も人とのコミュニケーションを取ってる部分ってあったりしてると思うんですけど、
一方で、そういうのがないと僕何もしゃべれない人なのかなとも思っちゃう、自分がいて。
そういう悩みが今作にも描かれてたよなとすごい思ったんですよね。
そこでやっぱり劇中で、本音で話せてないということに対する愕然とした思いになるみたいな展開ってそういうことかなと思っていて。
それがやっぱりできないっていうこと、それができてなかったから、人とは会い入れることができてなかったんだって思ってしまうみたいな思い込みというか、不安みたいなのってあるよなって思ったので、
すごくそれも僕フレルという映画の中からすごい感じられて、僕そこはすごい好きなポイントでしたね。
なんか自分にとってのフレルっていうところをちょっと掘り下げてみると、ちょっとフレルではあるかわかんないですけど、言葉って結局外から仕入れるしかないじゃないですか。
本質的に内側から出てくる言葉だけで本当に純粋に語れるかって言ったら多分それは不可能で、あの人ああいうふうに表現してたからいいなって思って、それをある種釈用して使っていくじゃないですか。
自分の言葉とかを振り返った時に、それがどこがどこからかって参照元がなんとなく頭の中で思いかけてる時に、これって自分は自分の言葉を喋れてるんだろうかっていう疑問が常にあったりはして、
それはすごい、あの女代々ではフレルっていうその念力的なツールというふうに扱われてましたけど、言葉自体がそもそもそういうものというか、与えられてるというか受け取ったものであって、
それで本来の本当のオリジナルな言葉というか感情みたいなものってどこまで表現できてる、それがどこまで伝わってるのかってめちゃくちゃわからないよなっていう。
なるほど。
そういうふうに考えることはありますね。
面白いですね。そのフレルを言語まで遡らせて捉えるっていうの面白いですね。
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いやでもそれすごい大事な感覚だなと思って、言語をありきのものとして捉えすぎると、不健全になるよなっていうのはすごい思うことが多くて、
与えられたものではあるんですけど、常に自分の中で、あるいはその現在進行形の人間関係とか社会の中で再開発し続けないといけないものでもあるよなと思ってはいて、
与えられたもので、それだけで全部いけるみたいになってはいけないというか、なると危険だなって感覚すごいあるんですよね。
特に最近すごくそう思うことは多くて、既存の言葉を借りすぎることへの危険というか、
特に、例えばインターネットミーム的なものって、すごい文脈を帯びて、すごい圧縮言語だと思うんですよ。これだけでめっちゃこんだけ語れるみたいなのがあるんですけど、
だんだんそれを使いすぎることで、10文字ぐらいしか喋ってないのに、1000文字ぐらい人とコミュニケーション取れた気になれるみたいなのがめっちゃ多いと思うんですけど、
そうすることで、その10文字しか喋れないというか、その10文字の外の世界に行けなくなるよなっていうのはすごい見てて思うんですよね。
だから、この10文字は1000文字が圧縮されてるんだぞっていうのを意識しながら、新しい1000文字も探しとかないといけないなって思ってて、
ちょっとさっきのフレルは外付けのモジュールだっていうのを借りると、フレルをOSとして扱ってはいけないっていう感覚なんですよね。
フレルはOSじゃなくて、あくまで外付けの端末でしかないと。そこを軸にしすぎると、なんというかうまく言えないけど危険だなと思ってて、なんですよね。
だからちょうどハッピーエンドでちょっとこの映画にも通じるっていう話を少ししたのも結構そこもあって、さっきちょっと話しましたけど、コート・ユータっていう主人公のうちのユータは音楽で多分、
音楽とかアートで多分何か自分の感情を一番直接表現できるような特徴人物として描かれていて、だからこそコートと仲違いしていくというか、徐々に距離を置いていくんですけど、
人それぞれに別にそのコミュニケーションツールがあって良くて、でもみんながみんな同じフレルを持ってるっていう前提で生きてると、急にある瞬間であれ違うってなるというか、
なんかそこをまさにそのOSっていう、OSよりもただのモジュールだっていうふうに認識でいないと、何かを見逃すというか、なんかそれはすごい本作を見てても感じたところではあって、
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あの3人の中では完全にOSとしても動いていたフレルだと思うんですけど、少なくとも外部から来た2人にとって見たらそれはただのモジュールでしかなくて。
自分の中のそれ、おそらく言葉もそうだし、あるいは別の表現方法もそうかもしれないなっていう。
そうですね。
それこそ、映画紹介屋さんをこの前やって思ったのは、皆さん映画の感想を言葉にできるのすごいですねっておっしゃられるんですよ。
言葉にできる方がむしろ解像度を落としてないっていう気がちょっと僕は知っていて。
そうですよね。言語化の罠ってやつですね。
言葉に落として分かった気になることで、本来映画の中にはもっといろんな情報があったわけじゃないですか。
それをある種一面化して一次元化して分かった気になってるだけなんじゃないのっていう気が自分の中にずっとあって。
むしろ言葉にならずに、でもよかった、しか残さない人のほうがむしろ豊かなんじゃねえかって気が僕はちょっとしてるんですよ。
言葉に僕らがするのって、それを使って誰かとつながりたいからしてるよなって思って。
それすごく今回の映画でも思ったなってのはありますね。
発せる間言葉によってずれてしまうことも多々あるけど。
つながりたいから僕ら言葉を喋るしみたいな。
っていうのはやっぱあるなって思って。
うまく言えなくなっちゃった。何て言おうとしたか忘れちゃった。
本当にタイムリーなんですけど、映画紹介屋さんの直後にこの映画の話をしてるのは結構なタイムリーなことだなとは改めてちょっと思って。
映画紹介屋さんで映画を人にレコメントしてる時もそうでしたし、終わってから打ち上げしてる時の話とかでもそういう話してたと思うんですけど、
いかに普段僕たちが映画っていう言語に甘えてるのかっていうのは本当に思わされて。
普段自分たちが会えない人と映画の話をする時にどれだけ言葉を新たに繰り出さないといけないか。
そして普段どれだけ既存のその映画を使った会話に甘んじてたかっていうのをむちゃくちゃ身に染みて分かされたっていうのがあって。
本当にちょっとあの時は人生レベルで得るものがあったんですよ。映画紹介屋さん。
なんとか自分が言語だと思ってたことは言語じゃなかったんだっていうのに、再認識したっていう。
だから映画の話をしてるっていう時に例えばね、めちゃくちゃ悪い事例を出しますけど、実写デビュー漫画ねみたいなギャーとかって言ってるのってめちゃくちゃ良くないことなんですよ。
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お馴染みのみたいな感じで言うのって。その界隈でしか通じないよねみたいな。
例えばですけど、実写デビュー漫の話をする時にどこまで、例えばその会話に実写デビュー漫を好きな人まで含めた射程で会話できるとかっていうのがコミュニケーションになってくると思うんですけど。
まずこの場には実写デビュー漫をあざわらっていう土壌があるっていうのを前提としてみたいな感じで会話を始めてしまったら、やっぱりそれはあかんフレルの使い方をしてることになると思うんですよね。
そうじゃなくて、そこには実写デビュー漫を好きだった人がいるかもしれないとか、あるいはあのシーン良かったねって話したいと思ってるかもしれないとか、あるいは自分がその会話をしようとするとかっていう、そういう射程を含めないといけなくって、そうなると言語自体の情報量が全然変わってくると思うんですよね。
だから言語の圧縮の仕方が全然変わってくると思うんです。
で、その圧縮されない分は、その都度めちゃくちゃ心身に負荷をかけながら言葉を繋がないといけないよなって思ってて、
そこの楽すると、やっぱり人を傷つけるし、人に傷つけられるなっていう、どっちもしたくないんですよ。
傷つけたくないし、傷つけられたくないから、そこの努力ってせんとダメなんだろうなっていうのを思ったんですよね、っていう感じですね。
だから、主人公以外の3人って家の外側って結構苦労するじゃないですか。
それとやっぱり、わかりやすくコミュニケーションツールのOSであるフレルがいない環境での生活っていうのが、やっぱり彼らは鍛えられてないからだと思うんですけど、
結局僕ら映画好きな人たちもそういう部分があるわけですよね。
まあまあまあ、あるよなーって、自分のこと思ってもあるよなーって思っちゃうもんなーっていう。
なんか職場で突然何話していいかわかんなくなるみたいな、全然自分のこととしてあるんですけど。
はい、そうっすよね。僕、普段職場とかであんま喋らん人と思われてるんですよね。
そうなんですね。
家族にも、家族にもあんま喋らん人と思われてるんです。
だから、映画に頼りすぎてるんです、僕ほんと。
あー、なるほど。
いやでも、それは僕もあんま変わんないかなーっていうけど、そんな僕を無邪気な職場で話す方法かっていうと、そうでもないよなーっていう、やっぱり。
やっぱ常々ね、映画以外の話題がなさすぎ問題みたいな直面をしているっていうのはやっぱあって、
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そういうとこからコミュニケーション甘えてるのかなーというか、感じちゃうなーっていう、はい。
だから本作、結構好きなバランスの終わり方なんですよね。
ちょっとずつ無垢さを失ってというか、その無垢さが人工的なものだったっていうのがやっぱり本作のちょっと不健全なとこだったと思うので、
そこから旅立つというか、少し離れて、でも別に触れるそのものを全否定しないっていう。
ただ、個別の人間に別れたから一緒には住まなくなるとかっていうのは、少し遅れてきた育ちみたいなバランスとしては結構好きというか、
割とそこは嫌いじゃないバランスだったんですけど。
正しく傷つくことを覚えたみたいな終わり方なんかなーと、やっぱすごい思ったんですよね。最後の別れというか、あえて育っていく感じっていうのは。
そう考えると、自分たちのフレルはどう小さくしていったらいいんだろうっていう。
飼いならすことができたら馬鹿でかくてもいいんじゃないですか。
なるほど、なるほど。
それはちょっとあるなっていうか、本作だとすごい傷つけっていうか、本音を晒してでもいいから言葉で喋って傷つけみたいなところあるじゃないですか。
それも真事だと思うんですけど、そうじゃなくても良いって言ってダメですかっていうのはやっぱり。
割とあの結論コミュニケーションマッチョですからね。
言いたいことは言えよって。できるかっていう。そこがやっぱり、基本本音とか欲望だだ漏れな脚本を書く岡田マリンならではですけど、
そこに一種の憧れというか、コミュニケーションの本質みたいなのを垣間見ることもできるし、けどやっぱちょっと違うしみたいなところもあって、
そこの揺れ動きを毎回彼女の作品から感じてるってところがあって、だから僕好きなんだろうなって思うんですよね。
コミュニケーションについて考えるというか、コミュニケーションの本質とは何かって答えないですけど、いろんなところに触れるじゃないですか、自分の考え方が。
曖昧な関係性を求めていくのがいいのかもしれないし、
ありのままさら口切らして言うことが、そうして分かり合うってことがいいのかもしれないし。
それがどっちかに触れることが出たり触れなかったりするのが人間のコミュニケーションかなって思ってるので、
そういうのを毎回確かめさせてくれるっていうのはやっぱり、今回もそういう映画だったなっていうのは思いますけどね。
48:06
結果的に今、3人で話して試行実験みたいな感じになってますからね。
話さないとたぶんここまでいかなかったです。
いや、いかなかったです。
一人で見てたら、たぶんシンプルに何というか、なんかあんましみたいな感じになってしまってもおかしくはないよなとは思う。
話せたからやっぱすごく考えてしまうことというか、すごくたくさんあって本当に良かったなとやっぱ思いましたね。
あと、やっぱちょっとその大人が着地すぎるなっていう気持ちもちょっとあって、
やっぱ去年のアリスとテレスの幻工場がもう劇薬中の劇薬だったと思うんですよ。
あれを求めるのはさすがにコクだなと思ったんですよ。
なんと僕はハワブルを下げてみてますから、そこは。
すごいのラインは違うと思って見てましたけど。
いや本当すごいと思うんですけど、
アリスとテレスの幻工場に関しては、君はフレルのいない世界に行けばいいじゃないか、
私たちはフレルのいる世界に残るって言ってぶった斬るから、大人になることを否定するっていうのを堂々とやってのけるんで、
それはそれでだなと思うんですよね。
マリオさんがオープニングで言ってたワールドエンドとかとも通ずると思うんですけど、
大人になれないまま最後まで行っていいじゃんっていうのは、それはそれでだなと思って。
そうだなって僕も思うからこそ、僕はアリスとテレスをベスト10の2位ぐらいに持っていくわけですし。
彼らの未熟な部分、幼さっていうのが今回、登場人物みんな20歳とかちょっと大人目。
だからこそ今までのコミュニケーションの不安とかドロドロした感じっていうのが、ある種の幼さみたいにも見えるところがあって。
それもすごく僕は見てる人にもしかしたらイライラするものかなと思うんですけど、
破壊指数は高いかもしれないが、その幼さを僕はNOとは言いたくないし、思いがすごくあるから、この映画のことをあんまり出来は良くないと言いましたけど、
決して嫌いとは言えない映画ですよね、僕の中で。
自分にとってのフレルフを見つけれたっていう意味では、結構貴重な映画体験だったなと思ってます。
あとそれをどうするかは各個人の宿題ですよね。
小さくするか、でっかいまま飼いならすか、あるいはフレルの世界に行くかですよね。
もうちょっとね、空を見やりちゃいましたね。
51:06
はい、じゃあそんな感じでフレルの話は終わっておこうかなと思います。
ではお知らせになります。
映画の話したすぎるバー次回は10月19日土曜日開催予定です。
場所は大阪南森町週刊曲がり19時オープン23時クローズです。
また大阪震災橋で第3木曜日に山口が店長をする映画の話したすぎるバー震災橋も営業中です。
今回はちょっと臨時で日程が変わりまして10月31日の木曜日開催となります。
場所は震災橋駅徒歩6分バー雨村シェルター内19時オープン23時クローズです。
さらに週刊曲がり11周年イベント夜は短し100物語ホテルにマリオンさんとオイさんも参加します。
10月26日土曜日開催場所は京都九条にあるホテルC京都16時オープン22時クローズです。
さらにさらにこの番組ではお便り募集しております。
番組全体や次回お便り募集テーマトークテーマ作品へ向けてご自由にお送りくださいませ。
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各ご案内は番組説明文をご確認くださいませ。
それでは映画の話したセリラジオ第184回フレルの回を終わりたいと思います。
それではまたお会いしましょう。さよなら。