今日のテーマトークは、アメリカン・フィクションです。
はい、ではここから内容に触れる話を入っていこうと思いますので、ネタバレ気にされる方がいらっしゃったら、ぜひ見てから聞いていただけたらと思います。
はい、ではメンバーのおさわりの感想を僕からいかしてもらいます。
はい、僕、ついさっき見終わった感じなんですけども、今年見た映画で一番好きかなと思ってます。
非常に面白かったし、興味深いし、同時に自分に刃が刺さっているぞっていう感覚を非常に強く覚えた作品で、
ちょっと今日喋り方間違えたら自分を刺してるなっていう怖さがちょっとだけあるので、
うまく喋れたらいいかなっていうのがあるんですけど、
あともう一つ本作の僕の好きなところは、社会に対する批評っていうものがある作品なんですけど、
同時に個人の話をしっかり入れ込んでいるところが非常に好きで、
社会のことだけを描いた、こういうテーマとメッセージだけがある話ですとかじゃなくて、
そこに個人がつながっているっていうことをちゃんと描く。
で、それはこの本作が一番上のレイヤーで描こうとしているテーマとは直接的には関係のなさそうに見えるものだけど、
ちゃんとつながっている個人があって家族があって社会があるっていう、
それを言うためにちゃんと個人とか家族を描いてるっていうところが本当に良くて、
単なる偶和になってないというか、そこに個人がいて、
その個人がその社会の問題の中で生きてるっていうことを描いてるのがすごく良かったなぁと思いました。
本当にあのとても良かったです。はい、っていう感じです。
でも前田さんいかがでしょう?
私もすごく面白かったんですけど、
多分私はこの映画の表層的な面白さはキャッチできているんですけど、
本質的な面白さの部分がどこまで理解できているのかなっていうのはちょっと分かってない部分もあったりするので、
今日はちょっと話していろんな考えを深めたいなと思っています。
はい、前田さんいかがでした?
そうですね。見る前のイメージと結構違う映画で、ちょっとそこは驚いたところでしたね。
いわゆる怒りに任せて描いた、黒人の失礼をタイプテキスト説が思わぬ方向で馬鹿売りしちゃってみたいな話で、
皮肉たっぷりのコメディみたいなかと思ったら、
僕が刺さってるのはそこよりも、主人公の今の実人生の話の身の回りに起こっていること?
家族の問題だったりとか、自分の自意識の話だったりとかみたいなところの部分の方がすごく刺さるみたいな映画で、
思ってたのとは違ったんですけど、ただその主人公の個人の話が、僕もめちゃくちゃ刺さっちゃうところがすごく多くないか?みたいなというか、
僕、老後のために何かいろいろしなきゃダメか?みたいな気持ちにすごいさせられたんですけど、
お金貯めなきゃダメか?みたいな、
そういう人生の切実な、せちがらい部分をまざまざと見せつけられるような映画でもあって、
思わぬところで喰らってしまいました。
大井さんいかがでしたか?
そうですね、なんか皆さんおっしゃってる通りで、パブリックイメージの話がメイン、予告だけ見るとそっちがメインなのかなって思いきや、
実はどちらかというと文句自身の人生の方がメインっていうのは結構面白い構成だなぁなんて思いつつ、
コメディ部分としてその振りと落ちの上手さみたいなのもすごいよく効いてるなって思いましたし、
あとその、なんだろう、パブリックイメージっていうところ、まさにその個人の物語を描くからこそ、
山口さんがおっしゃったようなパブリックイメージのそもそものテーマ自体がすごく際立ってくるんだろうと思うんですけど、
やっぱりそのリアルとのギャップだな、リアルとステレオタイプのギャップなんだろうなってずっと見てて思って、
なんかそれこそ自分が映画を見てたりとか、あるいは物語を摂取したい、
この物語何を期待していくかって時に、そういうところってないのかなっていうのはやっぱどんどん自分の中で自問自答を繰り返したりするし、
なんか過去っていうか、近作も日本で言うならこれはどういうことに当てはまるのかなとかっていうのをちょっと思ったりしながら見てました。
めちゃくちゃ面白い鑑賞体験でした。
はい、ではテーマトークに対してお便りいただいてますので紹介させていただきます。
じゃあ前田さんお願いします。
はい、フリッパーさん。
店長の皆さん、いつも楽しい番組ありがとうございます。
アメリカンフィクション見ました。
一言感想は、私の若草物語の黒人版だったのかなって少し思いました。
あとは思ったことをぶつ切りな感想で。
アメリカ社会における差別とイメージの現状を皮肉った作品は何作か見たけど、その中で一番面白かったかな。
今作はR-18なので、どんだけ目を染めっけたくなる描写があるのかと思いきや、そっち方向でしたかってなりました。
血がドバドバ出る系がR-15に対し、今作がR-18ってところに、頭では理解できるのだが、日本にいる日本人の私には心身まで理解することができないのが残念でした。
類似作品を妻と見ている時、違法人である彼女は自分の立場に置き換えた感想を語ってたことがあったので、今作も一緒に見ていれば違った視点の気づきをもらえたかもです。
また次考えれば映画バーに遊びに行きますね。ではでは。
はい、ありがとうございます。
ありがとうございます。
今作のR-18って、たぶん言葉の表現の問題ですよね。
かな?と思いますけど。
土で書くファックって出ますからね。
ファックってR-18なんや。
いやそう、向こうのテレビ番組とかすぐピーって入りますからね、そういう。
途中なんか本の表紙がモザイクになってたシーンありましたけど。
でも向こうのそういう書籍のランキングとかどうするんですかね。
全部いいってなるんですかね、あれ。
なんかよく伏せ字になりますよね、Fで伏せ伏せです、Kみたいな。
FぺけぺけKになるのかもしれないですけど。
血は全然出てない、まぁちょっと出るけどっていう感じ。
なんか言葉にR-18があるのって面白いですね。
日本語ではないんじゃないですか。
18歳になったら聞いてもいい言葉ってことですよね。
日本語はたぶん基本的に全部自主規制だからじゃないですか。
面白い、言葉にレーティングされてるのって面白い。
そうですね、まぁそこは文化の違いあるかもしれないですよね。
私のオオカクサ物語っていうのはどういう視点でおっしゃられてるんでしょうね、ちょっと向こう。
個人の物語ってことですかね。
まぁそういうところかな、あれも作家の話ではもちろんありますし、
個人の話っていう部分では確かにそうなんですよね。
ちょっとその辺の話聞いてみたいですね。
是非場にいらしてその辺の話を伺ってみたいなと思いました。
なんとなく思ったのは、グレタガーウィグの私のオオカクサ物語の中でリアルと理想の合間を縫っていくというか、
そこに落とし所をつける話として、最後にオチをつけたじゃないですか。
オオカクサ物語という小説の中の。
それと近いことをもしかしたら、今作もラストにやっていたと解釈できなくはないのかなとも思いましたね。
なるほど。
でも本作のラスト苦いです、これはね。
めちゃくちゃ苦いですけどね。
本当に。
結局全て回収されていくっていう。
個人の物語を負けるっていう社会に。
でもそれはそれでいいんだって認めていくっていうね。
はい、では次のお題でいきましょうか。
はい、タズサさんからです。
孔子であり売れない小説家のモンクが社会のステレオタイプにはまる黒人の作品を出すと思った以上に受けてしまう。
どうしてもこの作品のこの提示のせいでメタ視点で見てしまう自分がいました。
白人が黒人に過釈の念を持ちフィクションによって祝罪されようとしていることもそういうものではないのか。
ロレインが家族として迎え入れようとするゲイのクリフのところも連帯していく黒人という図の感動としても見えてしまう。
しかし冒頭のあのキャンセルカルチャーの部分はターをちょっと思い出したり、ラジオでNワードを使うのはまずい、
あれは黒人自身が使うには抵抗ないのですが白人は禁止用語として生徒が嫌悪しているとも見えましたが。
それと文学賞に関しては昨今の日本の本屋大賞や漫画賞といい、
結局注目をもとから集めているものが自称してしまい、売れるものが売れるという市場原理を加速させているような。
ありがとうございます。
フィクションに祝罪されたいっていうのはめちゃくちゃあると思うし、それが需要として成立しているというか。
ズバリめっちゃあるじゃないですか。
めっちゃあります。
なんだったら僕らがありがたがってる映画にもめちゃくちゃあるじゃないですか。
そうなんですよね。
こういうのを見て分かった気になって終わるみたいな、そういうのも一緒ですよね。
痛いとこつきますね。
これあれですよね。
例えばフェミニズム映画とかでもあるじゃないですか。
おっしゃる通り。
有害な男性性が反省しないといけないよね。いい映画見たな、以上っていうことをやりがちっていうのは正直ありますよ。
あります、それは。
そこは被害を受けている側とされている側からした時に、
欺瞞的に見えるし、なんだったらそこばっかり触れてくれるんだよっていうのもめちゃくちゃあるとは思います、本当に。
この話、たまにしてますよね、番組でも。
なんかそれこそ映画バーでバービーの話をする女性の方、女性で来られた方とした時に、
男性が言うバービーがいい映画っていうのに対して、女性がいやそれほんまかっていう話になるときに、
これの構造をすごい想像したなっていう。
そうですね、これ本当にこの番組でも何回か喋ってることで、
例えば面の時も話したし、ターンもそれに含んでる気もするし、
テーマに取り上げてないけど、某は恐れているとかもちょっとその側面あるというか、
なんかね、反省してる、不利してる問題みたいなのは含んでるし、
そこをだいぶ本作が茶化してるというか、わりとちゃんと咎めてますよね。
はい、そうですね。
その部分はあんまり笑えないというか、あんまり笑かしきらないなって思ったんですよね、本作。
もっとコメディにできるけど、本当に苦笑いしちゃうくらいのサジ加減のコメディバランスだから、
いやー居心地悪いって思った。
僕が傑作っていった映画も多分ここに当てはまってるのとか余裕であるから。
そうですね。
いやー怖いなって思いましたね、そこは。
ニガーっていう言葉、言っちゃった。
ヘネワードってやつですね、いわゆる。
劇中でも使ってたから別に使っていいと思うんですけど、
当事者は使っても使うのに抵抗がないけど、外部から言われたら問題になるってあるじゃないですか、それって。
それってそれこそが差別なんじゃないかっていう意見もあると同時に、
内側だったら言っていいっていうのも成立してるのは理解はできると思うんですよね。
あれもアフリカ系である主人公のモンクは気にしてないし、
何だったらそれがあるっていうことは世界に対して表明したい人だけど、
そこも自分の正論とか正しさとか、理想みたいなのが、もう全然通用しないじゃんみたいになったときに、
自分は何のために今ここにいるんだみたいな、実存の危機みたいなもの。
それはもうさらっとやってますけど、けどこれもうそんぐらいのやつじゃんっていう。
だからなんかちょっと思い出したのが、イニシェリン島の精霊とかちょっと思い出しちゃいましたけどね。
あれ、もう僕どうなるのこれみたいな、精神的な意味ですけどそれは。
大丈夫かみたいなふうには見えちゃいましたね、見ながら。
そうですね、ちょっとごめんなさい、さっきシンタラのほうが正しく見えるって言い方を僕したんですけど、
多分あの論争をしてるときは、多分正しさがどっちかにあるってことはないとは思うんですけど、
スタンスとしてはやっぱりシンタラが正しく見える。
文句は相手の本読んでないし、取材してないし、でも難しいな。
なんか正しく見えるっていうよりは、言いがかりつけられてる側っていう感じ。
急にその話されてもみたいな。
っていうのはちょっと思いました。
たとえもっと違う、時間をかけてもっと違う伝え方をするべきようなことをいきなり、
その人が作った作品を持ち出して批評する、その批評から入るってところに、結構やっぱりめんくらう部分あると思うんですよね。
確かに結構失礼な導入の入り方したなって思いましたね、話すると。
っていう感じはあったかなっていう。
ただ、もちろん話として、我々ってずっと文句と一緒に進んできてるから、すごく彼の考えだったりに共感する部分も実際は多くて、
だからこそあそこは、物事の本質的な議論ができてないことへの歯がゆさみたいなのがあって、
彼が本当に伝えたいことっていうのも全然伝わってないだろうし、
っていう、ちょっと歯がゆいような場面でしたね。
あそこ、ちゃんと相手の本読んで準備してたら十分なディベートできる場合だと思うんですよ。
あそこの場でやるべきではないんだけど。
しかも、もしかしたら意外とよかったってなるかもしれないですね。
ちゃんと読んだらね。
モックがこういう仮のペルスナーを使って、ギャングスターとしての作家っていうペルスナーを借りて、
この作品を書いたっていうとこまで含めてのムーブメントとして表現されてたら、
たぶんシンタラはそれは許容してたんじゃないかなと思うんですよ。
その作品の外側に批評性を含んでいるから。
いや、普通に読んだら普通におもろいんやけど、みたいな。
なんかね、普通に面白いものが売れただけっていう可能性もすごくあるなと思ってて、
そこが不幸の始まりだったのかなっていう。
そう、だからあの、モンクが作家自識みたいなのを取り除いて、
仲間や客層で作品を作ったら、面白いっていう、その力があったっていうのが面白いなと思って、
あの執筆シーンで表現されてた映像のやりとりとか、正直文学的じゃないですか。
父殺しをしてるわけですよ、あそこ。
その親の代からの引きずかれた呪いっていうものを父殺しをすることで乗り越えてるシーンじゃないですか。
あれ、場面違ったらシェイクスペアみたいに見えると思いますよ、本当に。
いや、そうですね。
めちゃくちゃ文学的だなと思ったから、
いや、そのやりたいと思ってたんじゃんと思って、
その枷を外したら描けるのに、今までやれなかったんだねっていうふうに僕は思っちゃって。
でもさ、逆に言ったら、彼が一番大切にしてる彼の自意識を捨てなきゃいけなかったってことなんですか、売れるためには。
うん、そうです。
でもそれを受け入れられないっていうのもすごくわかるというか、
だってそこを捨てたら、もうそれ俺じゃないからっていうメンタルはめちゃくちゃ身に覚えがあるメンタルだなっていう。
そうなんです、だからマジで中年の危機とか実存の危機なわけなんですけどって思ってましたし、
いや、ちょっとこれ食らうよなみたいなというか、
あとなんというかこう、ある種自分の描いた理想というかフィクションが負けるっていうか、
やっぱ現実には勝てねえんだっていうふうにも言われてるような感じもすごくしてしまって、
そこがちょっとシニカルな部分みたいな要素として出てきますけど、
なんかそういったのを含めて結構見終わった後にじわじわと効いてくるな、この嫌な感じ。
もうボディーブローみたいな感じで効いてくるのほんと嫌なんだけどみたいなふうにはすごく思って、
見終わった後にじっくり考えだすと本当になんかすごい落ち込みそうになるんですけどみたいな。
いや、自分の文学的才能が発揮されるために自意識を捨てないといけなかったっていうのはだいぶきついことだと思うんですけど、
ただ本当にやりたかったことは自意識の上にはなかったってことなんじゃないかなと僕は思ったんですよね。
だから本作の画面外に常にある家族っていう呪いがずっとあると思うんですよ。
なんか一見仲いい兄弟だし母ともいい関係あるけど、
父親っていう既に不在になっている存在がどうもこの家にむちゃくちゃでっかいおもしとして存在してて、
それのせいでなんかむっちゃこじれてるなっていうのがちょっとずつ見えてくるじゃないですか。
だから埋めないで、私の余白は。
そうですね。
自分の中の余白どうしたいか問題は一旦置いとくとして
余白を埋めるかどうかとは別に
見たくないものを見ないようにしてるっていうのはまた別だと思うんです。
で、この文句の中の父親に対する感情って
その余白とかというよりは見ないようにしてきたこと
原稿化を避けてきたこと
それをすると自分がダメージを食らうって分かってることだからしなかったことっていうのがあると思うんです。
で、それは周りも気づいてない。
少なくとも兄弟はあなただけ父親と仲良かったからっていう風に見られてるっていうのが
彼の苦しみとして多分あったと思うんですよ。
それを嫌々作った、嫌々というかやけくそで作った作品の中にだけそれが現れた。
自分でもきちんと自覚しないまま、指に任せるままに作ったものが
ステレオタイプに乗っとるっていうレールの上に乗ることで出てきたっていうところだと思うんです。
彼はあれを書き上げた時点でもすごい自覚してなかったんじゃないかなと思うんですよね。
俺って父親殺ししたかったんだみたいなのがなかったんじゃないかなと思うんですよ。
そこが僕は面白いというか
自覚しないまま自意識って出るんだなと思ってそこは。
あと本作面白いなと思うのが、そういう自分の内面に気づくのって物語の後半なんじゃないかなと思うんですよ。
自分の本当の内面が現れて作品を作るってクライマックスに持ってきそうじゃないですか。
確かに、私のお客さんも最後に書きますからねみたいな。
それがむしろ序盤から中盤に転換するところで、むしろ前半で出てくるわけですよ。
主人公の本音が、しかもそれを誰も本音と気づかないまま出てきてっていう。
そこから家族の崩壊と再生が始まるっていうのは、ただプロット上は別に意味はないんですよね。
それがきっかけであるのは単に流れがそうなってるだけなんですけど、
ただあそこで彼は父親殺しを発露させてそこから家族が崩壊していくっていうのが面白いなと思って。
あとその父親との関係を自覚するのって、本当の最後の最後でお母さんと話しするところですよね。
どっちかというと。
そうですね。確かに。
だから自覚するのはどっちかというとそっち側。
もし自分の内面に気づく瞬間があるとしたら多分そっちなんですけど、
でもそれってもうこのアメリカンフィクションっていう話の全体の中では脇じゃないですか。
家族とのやりとりって。
本来的には本章をいつだって書いた作品を書いたっていうことがメインプロットなんだけど、
サブにある家族との関係の方が実は自分の本心に気づく方の流れにあるっていう、
入り組んでる感じが面白いなと思ったんですよね。
確かに。結局見終わってみるとわかりやすい筋って結構予告で出てた以上のことはあんまりなくて、
本当にクソ小説書いたはずなのに売れちゃったっていう、本当にそれだけじゃないですか。
それ以上のプロットってあんまりないんですよね。
本当にコントというかオチがわかってるコントみたいなものを見てるみたいな。
その微細なところにめちゃくちゃ面白さはあるんですけど、コメディとしての。
ただやっぱり劇映画としてのプロットでどっちかって言ったらやっぱり後半になってきたりするの。
後半というか家族の物語の方に。
やっぱ見るとなるんだなっていうのは、期待してなかったところに驚きがあるっていう意味でもこの雑魚面白いところでもありますし、
確かに山口さんがおっしゃったようにそこを自意識だというか、彼自身の成長とはちょっと違う気もするけど、
でもある種の折り合いをつけるって話って考えると、すごい筋通ってるんだなって思ってきて。
だからステレオタイプに対するアンチテーゼとしての物語っていうのは表層にありながら、
とはいえそもそもフィクションってなんだ。物語って何のためにあるんだっていう話にも実はなってるっていう。
大衆のための物語と作家にとっての物語っていう。
なんかこの2つの講座は確かに面白いところだなと思いますね。
そうですね、なんか話の流れが実は2個あるから。
作品ルートと家族ルートがあって、実はそれらってあんまり相互には影響し合ってないんですよね。
一見するとあんま関係なくない?この話って。見えるとこはちょっとありますよね、やっぱり。
見えるんだけど実はちょっと切っても切り離せないようなところで繋がってるみたいな。
ちょっとじっくり考えると分かるんですよね。
でもその予告から見えない家族ルートのプロットこそが本作を豊かにしてるなとは思って、
メインルートのアメリカのエンタメ業界批評、あるいはアメリカの政治そのものの批評部分だけやってたとしたら、
多分本作の中で批判されてるものと同じことをしてたと思うんですよね。
結局そのステレオタイプに対するカウンターを1個だけあってもそれってほぼ乗っかってるだけというか、
カウンターを1個だけあってもそれはほぼ乗っかってるのと近いと思うんですよ。
ステレオタイプを裏返しただけというか話のノリとして。
ただそのやっぱ本作僕本当に好きな部分としてやっぱりその一番上のレイヤーにある社会的な問題に対する批評性とかの下に、
家族の話とか個人の話が紐づいてるからこそ単にステレオタイプを裏返しただけじゃなくて、
その裏返した中に個人とか家族とかいろんなものが入ってるっていうのが見えるところに複雑さがあって、
その複雑さこそが単なるカウンターで終わらない本作の良さだなとは思ったんですよね。
カウンターで終わってたら本作を批判しているスタンスと同じだから。
あと本作小説っていうのも一つポイントだなと思ってて、
私にとっては映画もそうなんですけど、映画とか小説ってメディアではないじゃないですかギリ。
そうですね、メディアではないかな。
メディア的な側面もあると思うんですけど、よりこう作品。
いわゆる芸術性と商業性の話みたいな感じですか?ちょっと違うんですか?
なんかちょっと違うんですけど、
確かに聞いたことあるな。
なんていうのかな、たぶんみなさんのほうが文句側だと思うんですよ。
っていうのが、私にとって例えば映画って娯楽なんですよね、完全な。
娯楽以上でも以下でもないんですよね。
だから、映画の中では私は倫理観とか、正しいこととかいいこととかはいらないって言ったらあれなんですけど、
ですよね、私にとっては。娯楽なんで。
でも、きっとその人によって小説や映画も社会、当たり前なんですけど社会だし、社会を変えるツールであるっていう側面もあるから、
そこの捉え方にも結構よるのかなっていうのは思いますね。
作品っていうものに何を求めるのか。
そうですね、なんだろうな。
ドキュメンタリーとかになってくるとちょっと違うとは思うんですけど、また映画に、求めるものは一つじゃなくてももちろんいいんですけどね、それは。
まあね、もちろんそうなんです。
いいようにつまみ食いして生きてると思ってるんですけど、そういう正しさを求める時もあるし、
いやもう全然正しくないことばかり起きるみたいなものにめちゃくちゃ楽しいと思う時だってあるし、
どっちかじゃないかなっていう感じはするんですけど。
確かに前田さんが完全に娯楽だって割り切って見てるのであれば、自分は確かにそこだけではないところも見てるところはあると思います、確かに。
確かに完全に娯楽と思って見てるわけではないなって感じはしますね。
それをちょっとメディアってさっきおっしゃってたので聞いたことあるのが、広告業界だったかな、確か広告業界だった気がするっては、本屋まではメディアらしいんですよ。
だけど本はメディアとは言わないって。
本に関してはある種作品とか芸術の枠に入るんだけど、それが立ち並んでいる場所っていうのはメディアとしてっていう話だったかな。
多分メディアってここで多分マスメディアって言った方がいいのかもしれないんですけどね。
そうですね、単なる媒体というよりも。
例えば今回アメリカンフィクションが配信されたのはAmazonプライムですけど、Amazonプライム自体はメディアとして言っていいかもしれないけど、
その中の一個一個は完全にそれをエンタメが並んでるものというよりかはもう少し奥深いものもあるし、そうじゃないものもあるしみたいな、そういういろんな幅広さがあるものなのかなって気はします。
情報を操作できるってことですよね。
確かにそうですね。
その売り方とか、どういう作品を集めて売るかとか、どういう風に売るかとか。
マーケティングが絡んでくるところって感じですよね。
そうそうそう、そういうことですね。
だからおそらくマンクにとっては最初に書いた自分なりのマイパポロジーAKAファクはどちらかと言えば作品よりもエンタメとして書いてる。
で、エンタメばかりが評価されるから自分の作品は評価されないって思ってたぶんずっと不服に思ってたと思うんですけど、
じゃあエンタメの役割って何だろうってところなのかなって気がして、さっき山口さんも言ったようにエンタメの中にはマンクの本心が隠れてたりもするわけじゃないですか。
で、前田さんが先ほど娯楽っておっしゃったエンタメの中にもたまに、僕もエンタメを見ようと思ったのに作品を見て買えることとかもあるんですよね。
むしろちょっとそれを期待してるところまであったりするっていう。
そうですね。作品とエンタメを完全に切り分けるはずはちょっと怖いかなっていうのと、作品とメディアを切り分けるのも僕ちょっと怖いかなとは思って、
本作でも結局売り方はむちゃくちゃ重要なわけじゃないですか。
例えばどういう作家作ってるかっていうのは本作の価値にめちゃめちゃ寄与してるわけですよね。
本当はインテリの黒人がギャングスターを装って書いてるっていうことがバレるより、
真面目なギャングスターが書いた作品であるっていうことの方が作品自体も面白く読めると思うんですよ。
そういう広告宣伝段階であるとか、あるいはそういう作品の周辺情報ですよね。
そういうものが作品の一部ではないのかって言われたら結構切り分けるの難しいなとは思うし、
それはそうですね。
さっきの本屋までがメディアで本からが作品っていう発想も、いや本屋の売り方も作品だよなとは思うし、
最終的なエンドポイントだけが作品で、そこに至るまでは単なる手段でしかないって言われきりは、
ちょっと僕は危険な発想にも思えるんですよね、そこは。
どっちかというと、映画とか小説をメディアじゃないって言った意図としては、見なくてもいいし選べるっていう。