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2024-03-11 1:16:16

第157回(2)『アメリカン・フィクション』文学でハッスル、米国をサバイブ

『アメリカン・フィクション』の話をしました。

主人公モンクの自意識と深層心理の話、女性作家シンタラとのスタンスの違いに見えるクリエイターが社会からの要請に応えることへの是非、自意識と現実の折り合いをつけることなどについて話しています。

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00:00
今日のテーマトークは、アメリカン・フィクションです。
はい、ではここから内容に触れる話を入っていこうと思いますので、ネタバレ気にされる方がいらっしゃったら、ぜひ見てから聞いていただけたらと思います。
はい、ではメンバーのおさわりの感想を僕からいかしてもらいます。
はい、僕、ついさっき見終わった感じなんですけども、今年見た映画で一番好きかなと思ってます。
非常に面白かったし、興味深いし、同時に自分に刃が刺さっているぞっていう感覚を非常に強く覚えた作品で、
ちょっと今日喋り方間違えたら自分を刺してるなっていう怖さがちょっとだけあるので、
うまく喋れたらいいかなっていうのがあるんですけど、
あともう一つ本作の僕の好きなところは、社会に対する批評っていうものがある作品なんですけど、
同時に個人の話をしっかり入れ込んでいるところが非常に好きで、
社会のことだけを描いた、こういうテーマとメッセージだけがある話ですとかじゃなくて、
そこに個人がつながっているっていうことをちゃんと描く。
で、それはこの本作が一番上のレイヤーで描こうとしているテーマとは直接的には関係のなさそうに見えるものだけど、
ちゃんとつながっている個人があって家族があって社会があるっていう、
それを言うためにちゃんと個人とか家族を描いてるっていうところが本当に良くて、
単なる偶和になってないというか、そこに個人がいて、
その個人がその社会の問題の中で生きてるっていうことを描いてるのがすごく良かったなぁと思いました。
本当にあのとても良かったです。はい、っていう感じです。
でも前田さんいかがでしょう?
私もすごく面白かったんですけど、
多分私はこの映画の表層的な面白さはキャッチできているんですけど、
本質的な面白さの部分がどこまで理解できているのかなっていうのはちょっと分かってない部分もあったりするので、
今日はちょっと話していろんな考えを深めたいなと思っています。
はい、前田さんいかがでした?
そうですね。見る前のイメージと結構違う映画で、ちょっとそこは驚いたところでしたね。
いわゆる怒りに任せて描いた、黒人の失礼をタイプテキスト説が思わぬ方向で馬鹿売りしちゃってみたいな話で、
皮肉たっぷりのコメディみたいなかと思ったら、
僕が刺さってるのはそこよりも、主人公の今の実人生の話の身の回りに起こっていること?
家族の問題だったりとか、自分の自意識の話だったりとかみたいなところの部分の方がすごく刺さるみたいな映画で、
思ってたのとは違ったんですけど、ただその主人公の個人の話が、僕もめちゃくちゃ刺さっちゃうところがすごく多くないか?みたいなというか、
僕、老後のために何かいろいろしなきゃダメか?みたいな気持ちにすごいさせられたんですけど、
03:05
お金貯めなきゃダメか?みたいな、
そういう人生の切実な、せちがらい部分をまざまざと見せつけられるような映画でもあって、
思わぬところで喰らってしまいました。
大井さんいかがでしたか?
そうですね、なんか皆さんおっしゃってる通りで、パブリックイメージの話がメイン、予告だけ見るとそっちがメインなのかなって思いきや、
実はどちらかというと文句自身の人生の方がメインっていうのは結構面白い構成だなぁなんて思いつつ、
コメディ部分としてその振りと落ちの上手さみたいなのもすごいよく効いてるなって思いましたし、
あとその、なんだろう、パブリックイメージっていうところ、まさにその個人の物語を描くからこそ、
山口さんがおっしゃったようなパブリックイメージのそもそものテーマ自体がすごく際立ってくるんだろうと思うんですけど、
やっぱりそのリアルとのギャップだな、リアルとステレオタイプのギャップなんだろうなってずっと見てて思って、
なんかそれこそ自分が映画を見てたりとか、あるいは物語を摂取したい、
この物語何を期待していくかって時に、そういうところってないのかなっていうのはやっぱどんどん自分の中で自問自答を繰り返したりするし、
なんか過去っていうか、近作も日本で言うならこれはどういうことに当てはまるのかなとかっていうのをちょっと思ったりしながら見てました。
めちゃくちゃ面白い鑑賞体験でした。
はい、ではテーマトークに対してお便りいただいてますので紹介させていただきます。
じゃあ前田さんお願いします。
はい、フリッパーさん。
店長の皆さん、いつも楽しい番組ありがとうございます。
アメリカンフィクション見ました。
一言感想は、私の若草物語の黒人版だったのかなって少し思いました。
あとは思ったことをぶつ切りな感想で。
アメリカ社会における差別とイメージの現状を皮肉った作品は何作か見たけど、その中で一番面白かったかな。
今作はR-18なので、どんだけ目を染めっけたくなる描写があるのかと思いきや、そっち方向でしたかってなりました。
血がドバドバ出る系がR-15に対し、今作がR-18ってところに、頭では理解できるのだが、日本にいる日本人の私には心身まで理解することができないのが残念でした。
類似作品を妻と見ている時、違法人である彼女は自分の立場に置き換えた感想を語ってたことがあったので、今作も一緒に見ていれば違った視点の気づきをもらえたかもです。
また次考えれば映画バーに遊びに行きますね。ではでは。
はい、ありがとうございます。
ありがとうございます。
今作のR-18って、たぶん言葉の表現の問題ですよね。
かな?と思いますけど。
土で書くファックって出ますからね。
ファックってR-18なんや。
いやそう、向こうのテレビ番組とかすぐピーって入りますからね、そういう。
途中なんか本の表紙がモザイクになってたシーンありましたけど。
でも向こうのそういう書籍のランキングとかどうするんですかね。
全部いいってなるんですかね、あれ。
06:01
なんかよく伏せ字になりますよね、Fで伏せ伏せです、Kみたいな。
FぺけぺけKになるのかもしれないですけど。
血は全然出てない、まぁちょっと出るけどっていう感じ。
なんか言葉にR-18があるのって面白いですね。
日本語ではないんじゃないですか。
18歳になったら聞いてもいい言葉ってことですよね。
日本語はたぶん基本的に全部自主規制だからじゃないですか。
面白い、言葉にレーティングされてるのって面白い。
そうですね、まぁそこは文化の違いあるかもしれないですよね。
私のオオカクサ物語っていうのはどういう視点でおっしゃられてるんでしょうね、ちょっと向こう。
個人の物語ってことですかね。
まぁそういうところかな、あれも作家の話ではもちろんありますし、
個人の話っていう部分では確かにそうなんですよね。
ちょっとその辺の話聞いてみたいですね。
是非場にいらしてその辺の話を伺ってみたいなと思いました。
なんとなく思ったのは、グレタガーウィグの私のオオカクサ物語の中でリアルと理想の合間を縫っていくというか、
そこに落とし所をつける話として、最後にオチをつけたじゃないですか。
オオカクサ物語という小説の中の。
それと近いことをもしかしたら、今作もラストにやっていたと解釈できなくはないのかなとも思いましたね。
なるほど。
でも本作のラスト苦いです、これはね。
めちゃくちゃ苦いですけどね。
本当に。
結局全て回収されていくっていう。
個人の物語を負けるっていう社会に。
でもそれはそれでいいんだって認めていくっていうね。
はい、では次のお題でいきましょうか。
はい、タズサさんからです。
孔子であり売れない小説家のモンクが社会のステレオタイプにはまる黒人の作品を出すと思った以上に受けてしまう。
どうしてもこの作品のこの提示のせいでメタ視点で見てしまう自分がいました。
白人が黒人に過釈の念を持ちフィクションによって祝罪されようとしていることもそういうものではないのか。
ロレインが家族として迎え入れようとするゲイのクリフのところも連帯していく黒人という図の感動としても見えてしまう。
しかし冒頭のあのキャンセルカルチャーの部分はターをちょっと思い出したり、ラジオでNワードを使うのはまずい、
あれは黒人自身が使うには抵抗ないのですが白人は禁止用語として生徒が嫌悪しているとも見えましたが。
それと文学賞に関しては昨今の日本の本屋大賞や漫画賞といい、
結局注目をもとから集めているものが自称してしまい、売れるものが売れるという市場原理を加速させているような。
ありがとうございます。
フィクションに祝罪されたいっていうのはめちゃくちゃあると思うし、それが需要として成立しているというか。
09:01
ズバリめっちゃあるじゃないですか。
めっちゃあります。
なんだったら僕らがありがたがってる映画にもめちゃくちゃあるじゃないですか。
そうなんですよね。
こういうのを見て分かった気になって終わるみたいな、そういうのも一緒ですよね。
痛いとこつきますね。
これあれですよね。
例えばフェミニズム映画とかでもあるじゃないですか。
おっしゃる通り。
有害な男性性が反省しないといけないよね。いい映画見たな、以上っていうことをやりがちっていうのは正直ありますよ。
あります、それは。
そこは被害を受けている側とされている側からした時に、
欺瞞的に見えるし、なんだったらそこばっかり触れてくれるんだよっていうのもめちゃくちゃあるとは思います、本当に。
この話、たまにしてますよね、番組でも。
なんかそれこそ映画バーでバービーの話をする女性の方、女性で来られた方とした時に、
男性が言うバービーがいい映画っていうのに対して、女性がいやそれほんまかっていう話になるときに、
これの構造をすごい想像したなっていう。
そうですね、これ本当にこの番組でも何回か喋ってることで、
例えば面の時も話したし、ターンもそれに含んでる気もするし、
テーマに取り上げてないけど、某は恐れているとかもちょっとその側面あるというか、
なんかね、反省してる、不利してる問題みたいなのは含んでるし、
そこをだいぶ本作が茶化してるというか、わりとちゃんと咎めてますよね。
はい、そうですね。
その部分はあんまり笑えないというか、あんまり笑かしきらないなって思ったんですよね、本作。
もっとコメディにできるけど、本当に苦笑いしちゃうくらいのサジ加減のコメディバランスだから、
いやー居心地悪いって思った。
僕が傑作っていった映画も多分ここに当てはまってるのとか余裕であるから。
そうですね。
いやー怖いなって思いましたね、そこは。
ニガーっていう言葉、言っちゃった。
ヘネワードってやつですね、いわゆる。
劇中でも使ってたから別に使っていいと思うんですけど、
当事者は使っても使うのに抵抗がないけど、外部から言われたら問題になるってあるじゃないですか、それって。
それってそれこそが差別なんじゃないかっていう意見もあると同時に、
内側だったら言っていいっていうのも成立してるのは理解はできると思うんですよね。
あれもアフリカ系である主人公のモンクは気にしてないし、
何だったらそれがあるっていうことは世界に対して表明したい人だけど、
12:03
そうじゃない白人の生徒からした時に目も向けたくない。
何だったらなかったことにして欲しい存在として、危機感を覚えちゃうみたいなのがあるのかなとか思ったりとか。
あそこの認識の底ってすごい難しいというか、
片方の視点からだと絶対に着実しないよなってすごい思いながら見てたんですけど、
現実でもあるからあれって。
なんかまた他と同じく、歴史的文脈の中で出てきたというか、文学の中で出てきたっていうことを言っただけで、
ああいう感じの反応されちゃうっていうところが面白おかしくもあり、でも現実問題ありそうだなっていう感じもあり。
まったくあそこは他と同じ構造でしょ。
そうですね、また見たなって感じましたね。
この構造を端的に表すのにすごくいいんでしょうね。
アカデミックな場でそういう差別的な表現、あるいは歴史上で過去に差別的な存在だった人をどう学問の分野で扱うかみたいなのって、
このテーマにズバリと刺さるからやっぱ表現しやすくて、あの場面が使いやすいのかなっていうのはちょっと思いましたかね。
では我々から話し出していきましょうか。
結構喋れること多いからどっから行こうかっていう感じなんですけど、どうしようかな、どっから行こうかな。
じゃあすっごい軽いところから入ろうかなと思うんですけど、本作主演のジェフリライトがめちゃくちゃいいじゃないですか。
いいですね、いいですね。
困り顔が最高なんですよ、この映画ずっと。
嘘って顔をずっとするじゃないですか、基本的には。
まあそうですね、そうね。
んなアホなみたいな顔をし続けるんですけど、彼ってあんまりなんか主演で出てるのを僕見たことがなくて、
でも結構脇役としてはよく見るなっていう、007シリーズのCIAの、
フェリックスライダーね。
そうそうそうそうとか、だからなんか、あ、でも主演でこんなになんか絶妙な表情できる人なんだって思って、
なんかもう彼の表情を見てるだけでずっとちょっと笑えちゃうというか、もちろんその、なんだろう、哀愁含めた笑いなんですけど、
なんかそう、彼めっちゃ良かったなと思って。
劇中でも言われてましたからね、あの、哀れな感じがファニーだっていう。
そうですね、なんかあんまり、まあ僕も確かに、たぶんいっぱい映画で見てる肌なんですけど、脇で輝いてる人っていうイメージとか、
あとウエストワールドとかも結構主役だったりするんですけど、まあそういうイメージがあるんですけど、
なんかあんなにこうちょっとファニーな感じっていうのはあんまり見たことなかったかもしれないなみたいな、あるのかもしれないですけど、見てるけど覚えてないだけかもしれないですけど。
確かにちょっとそれは今回のあの終始困った感じで、頑張ってあのなんかすごい悪そうなようなこういうのやってる時もちょっとおかしかったですけど。
15:07
見てて思ったんですけど、あんなにそのいわゆるそのギャング的な黒人像って演技できるもんなんですかね。
まあ結構英語の発音自体が全然違いますよね。
まあいわゆるその黒人英語っていう、ザがダになったりとか、フがフになったりとか、本作でもその本のタイトルがマイパソロジーをパフォロジーっていういわゆる黒人名前に文字上でもしちゃうっていうのをしてて、
まあなんでしょうね。誇張されてても伝わるってことなんですかね。だからこう大阪の人じゃなくても誇張した関西弁って喋れるじゃないですか。
もうかりまっかなんていう大阪人いないけど、でもそれやっておきゃいいんでしょっていうある種の誇張なんですかね。
まあさすがにそこまでやったら嘘噛んでるけど、なんというかそんなにわかってないからこそそれっぽさで表現できちゃうというか、本当にコント的な黒人ギャング像みたいな存在を演じてたのかなっていう。
まああんまりそこのニュアンスまではわからなかったんで、そこはそんな風に見てた感じですかね。
彼が生き甲斐まかせで書き上げた小説、いわゆるスレオタイプクリシュタっぷりみたいなやつって、まあ確かにそんな詳しいわけじゃないけど、
よくある物語の中の黒人イメージみたいなのでありそうな話だったりとか設定だなみたいなのをすごい感じたりはしましたね。
でなんかああいうのを見て楽しんでんだなお前らみたいな感じの言われてるような気がどうしてもしてしまって苦い顔をしてしまいますよねっていう。
バカ折れしちゃうんだもんなこれがみたいな。という苦悩みたいなのが。
マイパフォロジー、AKAファックを執筆してる時のあのシーンめっちゃ好きなんですけど、あれこういうので良かったっけみたいな。
こういうので良かったっけみたいなのを確認しながら追考しながらやってるシーン。
まああそこコメディチックと同時にむちゃくちゃいいシーンなんですけど、ここは多分後で触れた方がいいだろうなっていうのがあるので、
ちょっとまあそこは後で掘り下げるとして、僕は初めに見てて初めに感じたのが、主人公モンクの一家ってむちゃくちゃ教養あるというか、
子供全員すごく高度な教育を受けてますよね。兄弟は2人医者だし、モンクは文学の道を進んでるわけだからむちゃくちゃ高度な教育を受けてるじゃないですか。
18:00
でも全員経済的にはマウス式ですよね。豊かな人は誰もいない。で、その向かいに住んでるコララインも弁護士だけど、
高専弁護士やってるから絶対儲からないじゃないですか。絶対儲からないから経済的には豊かじゃないはずなんで。
で、出てくるそういう黒人の人たち、全員とは言わないけど、主だった人たちは高度な教育を受けてるけど、経済的に裕福な人が出てこないっていうのがなんかすげーなと思って。
だから高度な教育を受けてても、儲かる立場にはみんな行けてないんですよね。儲けれてる人がいないっていうとこが、わざとやってんやろうなと思ったんですけど、そういう話として。
もちろん本人たちがそれをやりたくてやってるっていうのはあるんでしょうけれども、それはそういうふうにやってるのかなっていうふうには見てましたね。
確かにね、経済的に困ったがゆえにあれを書くわけですからね。
でもあの本を書くっていう構造も、結局その劇中に出てくるそういうギャングスター的な黒人像と突き詰めると同じというか、サバイブするために良くないことをやるって一緒じゃんっていう気持ちがあって。
作中のお父さんもこれまでどうしてきたみたいな話をした時にサバイブしてきたみたいなことを言ってて、生き抜くためにやってるだけっていうところが、突き詰めたらもしかしたらちょっと共通してる部分なんじゃないかなっていうふうに僕には見えたんですよね。
確かに、この映画見終わった後に結局、しただかであった方が勝ちだなっていうふうに思ったんですよね。だって仕組みがおかしいんだもんみたいな話だったなって思って、トータル。
どんなに正論言っても、だってこれ仕組みおかしいからどうしようもねえなみたいな。構造がそもそも無理だこれみたいになってたので、いろんなことにおいてですけど。
それだったらもうそこにちょっと唾吐きつつ、しただかにいいとこもらっていきましょうやみたいな感じで終わっていったなっていう感じがすごくしていて。
それはそれですごく生きる哲学として正しいよなみたいな。というふうにすごく見ていて納得は結構したんですよね。
そうですね。本来それをやりたくないけどそれをやるっていうことに関して、主人公のモンクの対比として、シンタラか。女性の作家のシンタラっていう方の本が、ゲットからどうたらっていう本があったと思うんですけど、あそこの対比ってすごい重要だと思うんですよね。
シンタラの方が文学界がどうなっていった方がいいのかっていうビジョンを明確に持ってる人だったと思うんですよ。今って本が売れてないからこそ本を売るっていうことをどうしないといけないかっていうのにすごい自覚的な人だったと思うんですよね。
21:09
だからファッションとかも、黒人女性がアフリカンな衣装を取り入れた服装を着ててみたいな、すごい意識したファッションだったと思うんですよね。
こういう、私はアフリカ系のアイデンティティをしっかり持ってますっていうのをスタイルから表明しているような感じ。あと朗読会で発音もすごいいなまらせて読んでたりとか、モンクからしたらあれを見たらうわーってなる気持ちめちゃくちゃわかるなと思ったんですよ。
こいつさーって思いっきりロールに乗っかってさーみたいな、クリシーに乗っかってさーみたいなのに見えたと思うんですけど、結局モンクもそれのレールに乗っかっていくんですけど、本の章の先行会議の会議してるときのあの話、あの場面すごいエグいシーンやなと思いながら見てて、あそこの2人の意見の対立ってどう見ました?みなさんあそこ。
すげー難しい、あのどう評価するかっていうのはすっげー難しい場面だと思うんですけどあそこってどうご覧になりました?
そうですね、シンテラのほうは私は取材してるって言われたらあなたの文学はどうなんだってモンクが語りかけるわけじゃないですか。これとどう違うんだって言って、でそれに対して私は取材してるっていうふうに言うわけですよね。
もちろん求められたから書いているとも言いつつ、でもそこには取材に基づく事実があるんだって彼女は主張するわけですよね。なんかそこ確かに大事なところではあるんだけど、確かにモンクのマイパフォロジーはそういう取材なしに自分のステレオタイプを増幅して書かせてるもので、なんならそっちのほうがウケちゃってるっていう。
一方で取材によって書かれた本当の現実であるはずのシンテラのほうの文学は、もちろんシンテラ自身は評価されているわけだけど、多分それよりは売れていない。でなんかそれはそうですね、なんだろうな。表現者としてどちらのほうが誠実かっていうことをやっぱり問いかけてるというか、なんか議論してるんだろうなって思って。
あのシーンって基本的にはシンテラの言ってるのことのほうが正しく聞こえるシーンだと思うんですよ。取材しているしそのニーズがあるものに対してそれに答えようとして作ってるっていうのが少なくともモンクが表面上を出しているスタンスよりもはるかに誠実なんですよね。まず嘘はついてない。
でその史上原理にものっとってる。何より自分がそれをやることが正しいと信じてその作品を作ってるっていうところで、はるかに誠実なんですよね。シンテラのほうがモンクより。でもその誠実さ僕むちゃくちゃ怖いなと思ってあそこ。
24:04
でもそれはちょっとわかるかも。なんか取材して書きましたって言って、内容みたいなめちゃくちゃこれ失礼だなみたいな。フィクションとかの小説とかじゃ限らず、新書とかでもそういうのありますけど、取材に基づいて書きましたって言って、なんだこれ、全くこの人たち何も考えてねえじゃねえかみたいな文章書いてる人がさも論断に立ってるみたいなのとか見ると、いやこれ取材とか関係なく失礼だなって思ったことがあって。
別にまあもちろん取材して書きますみたいなのは当然確かに誠実な態度なんですけど、したからってそれがうまくなってるかっていうとまた別の話っていう感じがするので、そこはやっぱり多分山口さんが危ないんじゃねって思ったところはちょっとわかるっていうのは僕はそういうところです。
僕はしんたらの言ってることは基本的に正しいんですけど、責任を外部に置いてると思うんですよ。求められてるからそれに応えてるとか、取材してるからこれは正しいからこれをやっていいっていう、いろんなこれをやっていい、自分はこれをやっていいと信じているっていうのを外部から取り込んでる感じがして、
物作りのスタンスとして正しいんだけど、なんというかその外にあるルールとかモラルに全部のっとったら、じゃあ何やってもいや求められてるし取材してるんでって言っていいことになるんじゃないかなと思って、しかも彼女はそこに対する王道は持ってないと思うんですよ。
信じきってるから。そこが僕めちゃくちゃ怖くて、で文句の方がスタンス絶対一見不誠実なんですよね。やっぱり取材してないしステレオタイプで物語描ききってるし何より自分が作ったものを信じてないから不誠実なんですけど、彼の作った作品自分の内側から出てきてるじゃないですか。そこの誠実さってあるよなって思うし、
ある種のエンタメ的なパッケージをすることで読ませるものになってるわけじゃないですか。世の中の創作物って大部分がそうだとは思うんですよ。自分が本当に言いたいことを真ん中に置いておいてその周りにステレオタイプをデコーティングして一つの料理として仕上げてるけど、
その本当に食べてほしい部分なんてごく一部だけど、でもそれでもこれが自分の料理だって作ってるものが多分世の中の創作物なんじゃないかなと僕は思ってるので、文句のスタンスを否定してしまったら結構な割合の創作物そのものを否定しちゃうことになると思うんですよね。
それ自体は不誠実なのかもしれないですけど、ものづくりってそもそも誠実なのか不誠実なのかを問い続けながらやることだとも思うので、なんかあのシーンの暴力性に僕はちょっとくらっちゃって、だって絶対正しいものシンタラーの言ってることのほうがっていうふうに思ってる。
27:08
なんかあんまりどっちが正しいとかっていうよりも、その話なんか私シンタラーの返しで、あなたの言ってることに答えるとするならそれは私の問題じゃなくて白人の問題だと思うっていうセリフありましたよね。
ありました。
個人としての作家、個人としてのものづくりのスタンスを問うかどうかっていうのはちょっとあんまりどうでもいいって言ったらあれなんですけど、なんかその文句が求めているものってじゃあ何なのっていうところだと思うんですよね。
例えばステレオタイプ、でも実際に本当にそういう人たちも、ちょっと私全く詳しくないので現状に向こうのあれなんですけど、実際にそういう人たちもいますと、例えば。
で、じゃあ仮にシンタラーの本の内容が実際にちゃんと本当にその人たちの声を拾えていたとしたら、じゃあオッケーなのか、なんていうんですかね、そのシンタラーの書いた本の出来であったり、そこのがどうこうっていうよりかは文句としては、何ていうのかな、同じ黒人として、ちょっと言葉よりも難しすぎるんですけど、
文章を書く立場にある自分たちが、そうじゃない部分の黒人の姿も見せていくべきじゃないのかっていうところだと思う、主張としては。
ただそれを彼女個人にぶつけても、あの二人の会話が平行線なので、ちょっとそこかなって思っちゃったんですけど、黒人としてアメリカ社会で自分たちが何を書くべきかっていうことを、彼女個人にぶつけるっていうところは、彼女として受け入れがたいものがあるのもすごいわかるなっていう、
どうして自分もあなたの理念にのっとってやらないといけないのっていうところもわかるって言ったあれなんですけど、それは個人の話なのか、個人がやっていくしかないんですけど、社会を変えていくときに個人の賛同を一つずつ得て行って行動するしかないんですけど、
それを個人として求められたときに、自分でもちょっとそんなこと言われても答えられないんですけどってなるのはすごいわかるなって思いましたね。だから、彼女のスタンスがどうとかっていうよりかは、個人と社会って結構大きいものと、ミクロなものとマクロなものの話がどこで折り合いをつけていくのかっていうことがテーマなのかなっていうふうに捉えました。
おだしょー 確か、哀れなる者たちのときだったかな、前田さんがフェミニズム映画と私ってところでおっしゃってたことをすごい思い浮かべるんですけど、前田さん個人としてのと、この映画をどう評価するかっていうのと、女性として評価するかっていうレイヤーが2つあるわけじゃないですか。フェミニズム映画を見たときって。それがそうであらねばならないっていうのがあまりにも強くこっちに来るから苦手っておっしゃってたのを覚えてるんですけど。
30:13
なんかそういう個人の中の属性、例えば俺らでは男性、女性でもそうだし、日本人っていうのもそうかもしれないですけど、そういう属性っていうものを主語にして語るときと、私っていうのを主語にして語るときで、やっぱり何かこうやらなきゃいけないその規範が全然変わっちゃうっていうのが多分難しいところなんじゃないかなって気がして。
だから慎太郎は主語を彼らにしちゃったんだと思うんですよね。彼ら、彼女らにすることで、私ではない、ただ私は言葉を与えるだけだっていうポジションにするっていうアプローチを取ったのかなって気がして。
それに対してモンクはモンクで自分の中の彼らを、主語が彼らではあるんだけど、自分の内側から出た彼らに主語を与えたっていうアプローチの違いなのかなって気もちょっとしつつ。
ただでもどうしても最初、一番最初の冒頭で、黒人文学の中になんで俺の本が置かれているの問題っていうのがありましたけど、結局そこもあるわけですよね。全然黒人のこと扱ってないんだけど、この本っていう。
あれ、シンタラとモンクの作家としてのスタンス的にはむしろ逆ですよね。シンタラは黒人文学、だからこのアメリカという国で黒人っていうものの立場がどういうふうに見られるべきなのか、今この時点ではどう見られるのがベターなのかっていうのを意図して書いてるから、彼女の作品はアメリカン文学っていうジャンルに当てはめようとして書いてる。
モンクはそうじゃなくて、個人の話じゃないですか、本来的には。でもそれを自分という作家が黒人であることだけを理由にして、そのカテゴリー、アフリカン・アメリカン文学っていうカテゴリーされてたんですけど、本来的にはもっと普遍的な、逆にもっとも個人的な文学をやりたいと思ってる人だったのが、
そういうステレオタイプを取り込むことで受け入れられたけど、本来的にはもう個人っていうものを描きたい人。
たぶん個人っていうものを描きたいっていうのに気づいてない可能性ありますけどね、あの人。
彼自身が結構、自意識の、なんていうかな、再模索中というか、10年間作品出てない人なんで。
2人のやりとりの時で、自分めちゃくちゃ空っぽやんっていうことに気付かされるじゃないですか。
相手の書いた本読んでないってあたりの失礼さとかも、ああ、お前みたいなところとか、そういう出っ端の部分の話なんですけど。
やっぱり彼の主張も、前さんとか言ったように、私の問題じゃないよねっていう。
僕もそもそもこれ構造が悪いじゃんみたいな話のことを彼女は言ってたと思うんですけど、それを私に言うのは違うでしょっていう話で。
33:06
そこも自分の正論とか正しさとか、理想みたいなのが、もう全然通用しないじゃんみたいになったときに、
自分は何のために今ここにいるんだみたいな、実存の危機みたいなもの。
それはもうさらっとやってますけど、けどこれもうそんぐらいのやつじゃんっていう。
だからなんかちょっと思い出したのが、イニシェリン島の精霊とかちょっと思い出しちゃいましたけどね。
あれ、もう僕どうなるのこれみたいな、精神的な意味ですけどそれは。
大丈夫かみたいなふうには見えちゃいましたね、見ながら。
そうですね、ちょっとごめんなさい、さっきシンタラのほうが正しく見えるって言い方を僕したんですけど、
多分あの論争をしてるときは、多分正しさがどっちかにあるってことはないとは思うんですけど、
スタンスとしてはやっぱりシンタラが正しく見える。
文句は相手の本読んでないし、取材してないし、でも難しいな。
なんか正しく見えるっていうよりは、言いがかりつけられてる側っていう感じ。
急にその話されてもみたいな。
っていうのはちょっと思いました。
たとえもっと違う、時間をかけてもっと違う伝え方をするべきようなことをいきなり、
その人が作った作品を持ち出して批評する、その批評から入るってところに、結構やっぱりめんくらう部分あると思うんですよね。
確かに結構失礼な導入の入り方したなって思いましたね、話すると。
っていう感じはあったかなっていう。
ただ、もちろん話として、我々ってずっと文句と一緒に進んできてるから、すごく彼の考えだったりに共感する部分も実際は多くて、
だからこそあそこは、物事の本質的な議論ができてないことへの歯がゆさみたいなのがあって、
彼が本当に伝えたいことっていうのも全然伝わってないだろうし、
っていう、ちょっと歯がゆいような場面でしたね。
あそこ、ちゃんと相手の本読んで準備してたら十分なディベートできる場合だと思うんですよ。
あそこの場でやるべきではないんだけど。
しかも、もしかしたら意外とよかったってなるかもしれないですね。
ちゃんと読んだらね。
モックがこういう仮のペルスナーを使って、ギャングスターとしての作家っていうペルスナーを借りて、
この作品を書いたっていうとこまで含めてのムーブメントとして表現されてたら、
たぶんシンタラはそれは許容してたんじゃないかなと思うんですよ。
その作品の外側に批評性を含んでいるから。
36:02
そこまでの準備できてたら、たぶん対等に話をできたと思うし、相互の批評ができたと思うんですよ。
あなたのスタンスって、そういう黒人関わりですっていうロールを尊重することが重きに置かれすぎてますよねっていう言い方も返せたと思うんですけど、
モンク、自分の作品をまず自分が許容できてないから、
そもそも同じリングに立てれるような状態じゃないんですよね。
そうですよね。
実はあれ、俺が書いたんだっていうのを言えないあたりに、やっぱり彼の自意識の強さというか、
わかるんですけど、自分の理念に反して書いて認めたくないって気持ちすごくわかるんですけど、
そこに自意識があるっていうのが、ちょっと痛い感じもわかるし、でもすごくよくわかるなっていう感覚にはやっぱりありましたね。
ちょっとだけ、ちょっと違うかもしれないけど、ゴーストワールドのいいにどうをちょっと思い浮かべちゃいましたもん。
モンクのあの自意識のかたちに。
あと、しんたらは最初モンクが書いた本に対して批判的で、そこの部分の意見ってすごくモンクと一致したわけじゃないですか。
自分が信じてるものとか信じたいものは、それとは違うんだって思いたい気持ちと、
でも、はたから見たらそれ一緒じゃないのって指摘されたときの、あの感じは別のことに置き換えたらちょっとわかるなっていうのもあって、
自分の中では一緒じゃないんですけどっていうのは多分あると思うんですよね。
いや、それありますよね。あの2作って多分、最も薄いレベルでは同じような作品だと思うんですよ。
本当に表面上の描かれてることだけで言ったら、多分似てるんですよね。
でも、絶対違うじゃないですか。
それを一緒くたにされたらむちゃくちゃ嫌でしょうね、それは。
でも、モンクの書いた本に対する批判的な部分が一致してるっていう点で、もっと話ちゃんとしたら気合うのではっていう気持ちとして。
それはそう思います。
なんかその辺も、2人の関係性の面白さだったり、
あとやっぱりモンクの恋人も言ってましたけど、あの本が普通に面白いっていう。
なんかそれは、そこがね、なんていうのかな、この話の一番肝な部分だと思うんですけど、
単純に別に、黒人の多様性がどうとかっていうことじゃなくて、
普通に一般の人が読んで面白かったっていう。
そこだと思うんですよね、売れちゃった理由が。
で、そこになんかいろんなものをくっつけてるのって、本人であったり、出版社であったり、周りであって、
39:02
いや、普通に読んだら普通におもろいんやけど、みたいな。
なんかね、普通に面白いものが売れただけっていう可能性もすごくあるなと思ってて、
そこが不幸の始まりだったのかなっていう。
そう、だからあの、モンクが作家自識みたいなのを取り除いて、
仲間や客層で作品を作ったら、面白いっていう、その力があったっていうのが面白いなと思って、
あの執筆シーンで表現されてた映像のやりとりとか、正直文学的じゃないですか。
父殺しをしてるわけですよ、あそこ。
その親の代からの引きずかれた呪いっていうものを父殺しをすることで乗り越えてるシーンじゃないですか。
あれ、場面違ったらシェイクスペアみたいに見えると思いますよ、本当に。
いや、そうですね。
めちゃくちゃ文学的だなと思ったから、
いや、そのやりたいと思ってたんじゃんと思って、
その枷を外したら描けるのに、今までやれなかったんだねっていうふうに僕は思っちゃって。
でもさ、逆に言ったら、彼が一番大切にしてる彼の自意識を捨てなきゃいけなかったってことなんですか、売れるためには。
うん、そうです。
でもそれを受け入れられないっていうのもすごくわかるというか、
だってそこを捨てたら、もうそれ俺じゃないからっていうメンタルはめちゃくちゃ身に覚えがあるメンタルだなっていう。
そうなんです、だからマジで中年の危機とか実存の危機なわけなんですけどって思ってましたし、
いや、ちょっとこれ食らうよなみたいなというか、
あとなんというかこう、ある種自分の描いた理想というかフィクションが負けるっていうか、
やっぱ現実には勝てねえんだっていうふうにも言われてるような感じもすごくしてしまって、
そこがちょっとシニカルな部分みたいな要素として出てきますけど、
なんかそういったのを含めて結構見終わった後にじわじわと効いてくるな、この嫌な感じ。
もうボディーブローみたいな感じで効いてくるのほんと嫌なんだけどみたいなふうにはすごく思って、
見終わった後にじっくり考えだすと本当になんかすごい落ち込みそうになるんですけどみたいな。
いや、自分の文学的才能が発揮されるために自意識を捨てないといけなかったっていうのはだいぶきついことだと思うんですけど、
ただ本当にやりたかったことは自意識の上にはなかったってことなんじゃないかなと僕は思ったんですよね。
だから本作の画面外に常にある家族っていう呪いがずっとあると思うんですよ。
なんか一見仲いい兄弟だし母ともいい関係あるけど、
父親っていう既に不在になっている存在がどうもこの家にむちゃくちゃでっかいおもしとして存在してて、
それのせいでなんかむっちゃこじれてるなっていうのがちょっとずつ見えてくるじゃないですか。
42:02
あれ?お父さん不倫してたの?とか、
お兄さんもお父さんとの関係でむっちゃ家に寄りつかなくなってるしとかで、
その家族が非常に厄介なことになっているっていうのがだんだん見えてくると思うんですよね、本作って。
僕はやっぱ本作のすごくいいところはやっぱり一つの家族の終焉を描いている物語としてすごくいいなと思って、
初め仲いいなって思ってたのがどんどん海が出ていくって、
一人一人いなくなっていって、
表面上家族が崩壊していくんだけどむしろ再生していくっていうところがすごく良かったんですよね。
お手伝いさんの方が結婚することになって、
それがきっかけになって家族が一緒にいられるきっかけになったりとかっていうところ。
その中にやっぱり僕はあの家族は一回壊れないといけなかったっていうのが話としてすごい好きなんですけど、
その中の家族は壊れるべきだったって一つの証明としてやっぱり文句が書いた作品が父殺しであるっていうのはすごい大きいと思うんですよ。
だから仲がいけそうになって書いて結果的に生まれた物語が父殺しっていうのはすごいでかいじゃないですか。
またあの物語の中の主人公ってもう俺がカスなのはお前が父はお前がカスだからだみたいなことを言って殺すわけですよね。
で、お父さんはもうすでに亡くなっててどうやら自殺ですよね。あれ話の流れを追う限りだと。
この家で昔男性が自殺したっていう話をこれライトしてたからお父さんどうも自殺したらしいと。
多分文句はお父さんにむちゃくちゃ似てるんだと思うんですよね。
気象が相当気象が荒いかなりの劇場化であろうし、
あとめちゃめちゃ他人を見下してたんだろうなっていうのもなんとなく推察される。
ただその人がなんかむちゃくちゃ悩んでたのか何かがあってどうやら自殺したらしいと。
で、家族の中で文句だけは父はに気に入られてた。
で、兄弟は父親との仲が悪かったみたいな。
でも本当にそれって父親との関係って良好だったんですかねっていう。
結局文句自身は父親の意思っていう道じゃなくて母親側の文学っていう道に行ってるじゃないですか一人だけあの家族の中で。
文学もそれは母親側からのものだからやっぱ父親に反発してる感じがあると思うんですよ。
でもなんかそこをきっちり見つめてこなかったんじゃないかなと思うんですよね。
作中でも別に父親憎しって言語化してないから。
でも作った物語は父殺しなわけですよね。
で、あの劇中での父親役の人を殺す時に目を背けてるんですけどその父親から。
でも同時に文句側を見てるんですよね。
45:01
俺はお前だってお前の代わりに父親を殺すって言ってやってるように見えるんですよあそこ。
いやお前それやりたかったんやんって本当にやりたいこと自意識でやれてなかったけど本当は父を殺したかったんじゃないのって思って。
むしろ一番自意識入ってるのではっていう可能性もあります。
あの作品にそう聞くとなんか彼の自分が把握しない部分の自意識。
それは面白いわどう考えても。
自意識ってなんなんでしょうね。
自意識ってなんなんですかね。
自覚してないのとは自意識なのかっていう。
自覚してないというか自覚を意図的にしてないパターンもあるじゃないですか。
自覚をというかそれに対して考えないで置いておき続けてるものっていうのもあると思うんですよね。
厳密には自覚はしてるんだけどそれについてあえて触れたくないなって
もう隅っこに追いやったままにしてるものっていうのもあるかなと思ってて。
それも自意識と呼べるとは思います。
なくならないんだもん隅っこに置いといても。
自意識にも多分何階層かあるんでしょうね。
最も表面上に自覚しながら存在してるものと
確かに嫌だ。
自覚しないようにしてるものとか無自覚なものとかも。
だから自分の中では違う姿をしてる自意識ってあると思うんです。
なんか見える自意識はだいぶ殺してきたと思うんですけど
置いたままにしてるやつのことちょっと思い出しかけてしまったこの話してて。
眠れる獅子を起こしてしまった。
やっぱ置いといてるってことは触れたくないことじゃないですか。
そういうものってずっと残っちゃうとそれがもうなんか錆びついてっちゃないですけど
そこにずっととらわれてしまうよなみたいなのは。
しかも僕なんか気づいてるかわかんないしなみたいな。
人から言われて気づくことって多くないですか。
自意識の話ってやっぱり。
もちろん自分で自覚してる部分もあるんですけど。
人から言われたくねー。
人から言われたときマジでうーってなるよなっていう。
まさにその自意識の中でも特に真相真理の話だと思うんですけど
これって多分言葉ができて初めて言葉がそこで自分の中でそこって見てなかったし見てこなかったのかもしれないんですけど
言葉とか自分の中のキャラクターみたいなものを作れたときに初めて向けるっていうのはあると思うんですよ。
確かに。
だから例えば文句の場合だったら
いわゆるステレオタイプの黒人のあるいはゲットの人たちの言葉を借りることで
もしかしたらそこに行き着いちゃったのかもしれないっていう。
なるほど。
それめっちゃ面白いしすごいあると思うし
48:02
そのいい意味じゃなくて
だからその言葉を与えたら終わりって感じがする。
終わりなんすか?
最近すごくネットとかでいろんな今までぼんやりしてたような概念がすごく言語化されていって
それがいいこともある反面やっぱりそれでなんか今まで気づいてなかったものに気づいてしまうというか
みたいなことも結構あるなと思ってて。
自分がコントロールできない言葉というか
なんか言葉って自分がちゃんと習得して自分の意思でコントロールして使うようにしてるのに
そうだないとこにいきなりポンって出てきて入ってきて
勝手にもうその居座ってたものに名前がもうついちゃうみたいな
めっちゃ嫌なんですけど
しかもアンインストール不可。
一度そこに名詞がついた瞬間にとですね。
そう、認識してしまったら終わりっていう。
そこに名前がつくことでほっとすることも
それなんか前も話したことありますけど
名前がつくことでほっとする反面もありますけど
ついたらついたでマジであれ?
自分にあった余白がどんどん埋まっていく感じすごく嫌だなみたいな気持ちになります。
なる。
だから。
僕全然その感覚実はなくて
むしろ余白埋まってくの楽しい側なんですけど
嫌だ、余白いる。
僕も余白埋まるの楽しい。
あ、ですよね。
いや、なんか埋めるの好きなんですけど
でも残しときたいんだよなみたいな気持ちもすごいある。
そうそう、それを自分で選びたい。
だって一回埋められたらのけられへんのよ、余白を。
そこちょっと認識違うかもしれないな。
余白ってなくならないから
絶対なくならないんですよ、余白って。
だから埋め続けるっていうことをできるんですよ。
埋めてもまだ先に余白があって
どこまで行っても埋め続けることができると思うんです。
自分の中の余白って。
多分それはテトリスみたいにちゃんと消していけたらやと思う。
もう積み上がっていって積んでるもん、もうだいぶ。
あ、もう積む積むって思ってるもん。
これ以上ブロック落ちてきたら積んじゃうよって。
だからもう支出したい、この余白は。
余白は無限大っていう価格はあんまりない感じがしているのかなって。
もちろん余白多分無限に作れるとは思うんですけど
その可能性とか無限大なものって
やっぱり年を取ることにどんどんそれってなくなっていくもんじゃねっていう感じが
僕はすごいしてしまって。
それやったら今ある余白を守っていたいっていう感じって
すごいあれですよね、なんか。
現状にとどまりたいよく、ただ漏れって感じがすごいしてしまって
なんかすごいうって今なりましたけど、自分で言っていて。
埋めるにしてもさ、何で埋めるかは自分で選びたいやん。
いいもので埋めたいからさ、こっちも。
51:01
だから埋めないで、私の余白は。
そうですね。
自分の中の余白どうしたいか問題は一旦置いとくとして
余白を埋めるかどうかとは別に
見たくないものを見ないようにしてるっていうのはまた別だと思うんです。
で、この文句の中の父親に対する感情って
その余白とかというよりは見ないようにしてきたこと
原稿化を避けてきたこと
それをすると自分がダメージを食らうって分かってることだからしなかったことっていうのがあると思うんです。
で、それは周りも気づいてない。
少なくとも兄弟はあなただけ父親と仲良かったからっていう風に見られてるっていうのが
彼の苦しみとして多分あったと思うんですよ。
それを嫌々作った、嫌々というかやけくそで作った作品の中にだけそれが現れた。
自分でもきちんと自覚しないまま、指に任せるままに作ったものが
ステレオタイプに乗っとるっていうレールの上に乗ることで出てきたっていうところだと思うんです。
彼はあれを書き上げた時点でもすごい自覚してなかったんじゃないかなと思うんですよね。
俺って父親殺ししたかったんだみたいなのがなかったんじゃないかなと思うんですよ。
そこが僕は面白いというか
自覚しないまま自意識って出るんだなと思ってそこは。
あと本作面白いなと思うのが、そういう自分の内面に気づくのって物語の後半なんじゃないかなと思うんですよ。
自分の本当の内面が現れて作品を作るってクライマックスに持ってきそうじゃないですか。
確かに、私のお客さんも最後に書きますからねみたいな。
それがむしろ序盤から中盤に転換するところで、むしろ前半で出てくるわけですよ。
主人公の本音が、しかもそれを誰も本音と気づかないまま出てきてっていう。
そこから家族の崩壊と再生が始まるっていうのは、ただプロット上は別に意味はないんですよね。
それがきっかけであるのは単に流れがそうなってるだけなんですけど、
ただあそこで彼は父親殺しを発露させてそこから家族が崩壊していくっていうのが面白いなと思って。
あとその父親との関係を自覚するのって、本当の最後の最後でお母さんと話しするところですよね。
どっちかというと。
そうですね。確かに。
だから自覚するのはどっちかというとそっち側。
もし自分の内面に気づく瞬間があるとしたら多分そっちなんですけど、
でもそれってもうこのアメリカンフィクションっていう話の全体の中では脇じゃないですか。
家族とのやりとりって。
本来的には本章をいつだって書いた作品を書いたっていうことがメインプロットなんだけど、
54:03
サブにある家族との関係の方が実は自分の本心に気づく方の流れにあるっていう、
入り組んでる感じが面白いなと思ったんですよね。
確かに。結局見終わってみるとわかりやすい筋って結構予告で出てた以上のことはあんまりなくて、
本当にクソ小説書いたはずなのに売れちゃったっていう、本当にそれだけじゃないですか。
それ以上のプロットってあんまりないんですよね。
本当にコントというかオチがわかってるコントみたいなものを見てるみたいな。
その微細なところにめちゃくちゃ面白さはあるんですけど、コメディとしての。
ただやっぱり劇映画としてのプロットでどっちかって言ったらやっぱり後半になってきたりするの。
後半というか家族の物語の方に。
やっぱ見るとなるんだなっていうのは、期待してなかったところに驚きがあるっていう意味でもこの雑魚面白いところでもありますし、
確かに山口さんがおっしゃったようにそこを自意識だというか、彼自身の成長とはちょっと違う気もするけど、
でもある種の折り合いをつけるって話って考えると、すごい筋通ってるんだなって思ってきて。
だからステレオタイプに対するアンチテーゼとしての物語っていうのは表層にありながら、
とはいえそもそもフィクションってなんだ。物語って何のためにあるんだっていう話にも実はなってるっていう。
大衆のための物語と作家にとっての物語っていう。
なんかこの2つの講座は確かに面白いところだなと思いますね。
そうですね、なんか話の流れが実は2個あるから。
作品ルートと家族ルートがあって、実はそれらってあんまり相互には影響し合ってないんですよね。
一見するとあんま関係なくない?この話って。見えるとこはちょっとありますよね、やっぱり。
見えるんだけど実はちょっと切っても切り離せないようなところで繋がってるみたいな。
ちょっとじっくり考えると分かるんですよね。
でもその予告から見えない家族ルートのプロットこそが本作を豊かにしてるなとは思って、
メインルートのアメリカのエンタメ業界批評、あるいはアメリカの政治そのものの批評部分だけやってたとしたら、
多分本作の中で批判されてるものと同じことをしてたと思うんですよね。
結局そのステレオタイプに対するカウンターを1個だけあってもそれってほぼ乗っかってるだけというか、
カウンターを1個だけあってもそれはほぼ乗っかってるのと近いと思うんですよ。
ステレオタイプを裏返しただけというか話のノリとして。
ただそのやっぱ本作僕本当に好きな部分としてやっぱりその一番上のレイヤーにある社会的な問題に対する批評性とかの下に、
家族の話とか個人の話が紐づいてるからこそ単にステレオタイプを裏返しただけじゃなくて、
57:04
その裏返した中に個人とか家族とかいろんなものが入ってるっていうのが見えるところに複雑さがあって、
その複雑さこそが単なるカウンターで終わらない本作の良さだなとは思ったんですよね。
カウンターで終わってたら本作を批判しているスタンスと同じだから。
あと本作小説っていうのも一つポイントだなと思ってて、
私にとっては映画もそうなんですけど、映画とか小説ってメディアではないじゃないですかギリ。
そうですね、メディアではないかな。
メディア的な側面もあると思うんですけど、よりこう作品。
いわゆる芸術性と商業性の話みたいな感じですか?ちょっと違うんですか?
なんかちょっと違うんですけど、
確かに聞いたことあるな。
なんていうのかな、たぶんみなさんのほうが文句側だと思うんですよ。
っていうのが、私にとって例えば映画って娯楽なんですよね、完全な。
娯楽以上でも以下でもないんですよね。
だから、映画の中では私は倫理観とか、正しいこととかいいこととかはいらないって言ったらあれなんですけど、
ですよね、私にとっては。娯楽なんで。
でも、きっとその人によって小説や映画も社会、当たり前なんですけど社会だし、社会を変えるツールであるっていう側面もあるから、
そこの捉え方にも結構よるのかなっていうのは思いますね。
作品っていうものに何を求めるのか。
そうですね、なんだろうな。
ドキュメンタリーとかになってくるとちょっと違うとは思うんですけど、また映画に、求めるものは一つじゃなくてももちろんいいんですけどね、それは。
まあね、もちろんそうなんです。
いいようにつまみ食いして生きてると思ってるんですけど、そういう正しさを求める時もあるし、
いやもう全然正しくないことばかり起きるみたいなものにめちゃくちゃ楽しいと思う時だってあるし、
どっちかじゃないかなっていう感じはするんですけど。
確かに前田さんが完全に娯楽だって割り切って見てるのであれば、自分は確かにそこだけではないところも見てるところはあると思います、確かに。
確かに完全に娯楽と思って見てるわけではないなって感じはしますね。
それをちょっとメディアってさっきおっしゃってたので聞いたことあるのが、広告業界だったかな、確か広告業界だった気がするっては、本屋まではメディアらしいんですよ。
だけど本はメディアとは言わないって。
本に関してはある種作品とか芸術の枠に入るんだけど、それが立ち並んでいる場所っていうのはメディアとしてっていう話だったかな。
多分メディアってここで多分マスメディアって言った方がいいのかもしれないんですけどね。
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そうですね、単なる媒体というよりも。
例えば今回アメリカンフィクションが配信されたのはAmazonプライムですけど、Amazonプライム自体はメディアとして言っていいかもしれないけど、
その中の一個一個は完全にそれをエンタメが並んでるものというよりかはもう少し奥深いものもあるし、そうじゃないものもあるしみたいな、そういういろんな幅広さがあるものなのかなって気はします。
情報を操作できるってことですよね。
確かにそうですね。
その売り方とか、どういう作品を集めて売るかとか、どういう風に売るかとか。
マーケティングが絡んでくるところって感じですよね。
そうそうそう、そういうことですね。
だからおそらくマンクにとっては最初に書いた自分なりのマイパポロジーAKAファクはどちらかと言えば作品よりもエンタメとして書いてる。
で、エンタメばかりが評価されるから自分の作品は評価されないって思ってたぶんずっと不服に思ってたと思うんですけど、
じゃあエンタメの役割って何だろうってところなのかなって気がして、さっき山口さんも言ったようにエンタメの中にはマンクの本心が隠れてたりもするわけじゃないですか。
で、前田さんが先ほど娯楽っておっしゃったエンタメの中にもたまに、僕もエンタメを見ようと思ったのに作品を見て買えることとかもあるんですよね。
むしろちょっとそれを期待してるところまであったりするっていう。
そうですね。作品とエンタメを完全に切り分けるはずはちょっと怖いかなっていうのと、作品とメディアを切り分けるのも僕ちょっと怖いかなとは思って、
本作でも結局売り方はむちゃくちゃ重要なわけじゃないですか。
例えばどういう作家作ってるかっていうのは本作の価値にめちゃめちゃ寄与してるわけですよね。
本当はインテリの黒人がギャングスターを装って書いてるっていうことがバレるより、
真面目なギャングスターが書いた作品であるっていうことの方が作品自体も面白く読めると思うんですよ。
そういう広告宣伝段階であるとか、あるいはそういう作品の周辺情報ですよね。
そういうものが作品の一部ではないのかって言われたら結構切り分けるの難しいなとは思うし、
それはそうですね。
さっきの本屋までがメディアで本からが作品っていう発想も、いや本屋の売り方も作品だよなとは思うし、
最終的なエンドポイントだけが作品で、そこに至るまでは単なる手段でしかないって言われきりは、
ちょっと僕は危険な発想にも思えるんですよね、そこは。
どっちかというと、映画とか小説をメディアじゃないって言った意図としては、見なくてもいいし選べるっていう。
1:03:04
もちろんテレビとかSNSもそうではあるんですけど、よりちょっと一方的に入ってきちゃうところが多いので、
でも映画とか小説とかって趣味じゃないですか、言ったら。
趣味の分野で、自分でそれを見るかどうかを、そこから選んでると思うので、そういう意味でマスメディアとは違うっていう位置づけなんですね。
めっちゃ当たり前なこと言ってしまってるけど。
いや、正確に言うんですね。
だからこそ娯楽であるっていう、私にとって。
選べるものだから好きなものを選びたい、てか選べると。
好きなもの、そうですね、だからっていうちょっと接続詞はおかしかったですけど。
そうですね、その作品とそうじゃないものの切り分けの話、言ってましたけど、
その切り分けを誰よりも強く意識しているのが文句っちゃ文句なんですよね、やっぱり本作で言うと。
だからその切り分けに過度にとらわれているのが文句なのかなっていうのを考えるとそうですね。
なんか逆だと思ってて。
そうですか?
そう、ちょっと話が難しくなっちゃったんですけど、
どっちかというと文句って、自分が書くものでの社会的な位置づけをすごく意識しているんじゃないかなっていう。
ちゃいます?
私の認識めっちゃ間違ってる。
なんかステレオタイプなものを作りたくないっていうところには単なる作家性がどうっていう話じゃなくて、
社会的な意味合いとしての、なんていうんですかね、をって思ってたんですけど。
いや、僕ちょっと認識ちゃいますね。
僕だいぶその認識違ってて、文句は自分の作品を社会の中に置きたくないと思っている人だと捉えてました。
ああ、なるほどね。
僕もそっちですね。
社会の中に置くと、その社会から見た解釈をされるけど、その解釈をされたくない。
ああ、はいはいはい。
なるほどね。
だから分かりやすく造下の塔にこもってたタイプの学者的なタイプですよね、彼ね。
ああ、そういうこと。
だからこそ社会にすごく意識してるんですよ。
その社会の中に自分の作品を取り込まれたくないからこそ、社会っていうものに対してすごく意識してるから、
そういう黒人っていうステレオタイプ、あるいはそういうクリシェみたいなもの、あるいはその商業的なものに強い反発心を持ってる、寄附感を持ってる。
それはそっち側に飲み込まれたくないからだと思うんです。
じゃあ売れないですね。
売れないですね。
売れないですね。
売れないですね。
売れないですね。
売れないですねっていう。
ちょっと話、そろそろ締めにかかろうと思うんですけど、
ラストですね、僕ラストの話はしときたくて、
1:06:02
小説作りの話をしてきた果てに最終的に映画作りの話になってる。
はいはいはい。
あそこで別に今までの話は全部映画でしたってなるんじゃなくて、
そういう小説作りの話もあった上で映画作りをしてるっていう話になってて、
ということは彼はそういう商業主義を許容したっていうのがわかるんですよね、あそこで。
もうパックっていう小説はそのまま彼とは離れたものとして販売されてて、
それをもうおそらく映画化してて、それとは別に次の映画のアイディアを今売ってる段階っていう。
彼はそういうステレオタイプに乗って何かをやるっていうことを飲み下したっていうのがなんとなくわかるラストになってるかなと思って、
すごいすごいイラストやなと思ったんですけど、
個人の自意識あるいは作家性あるいは信念が社会に負けるというか、
その中で生きていくしかないっていう風になるっていうのがめちゃくちゃリターだし、
リターだけどポジティブだなと思って。
あそこでほんとに、あ、したたかに生きてやるぜっていう意志めちゃくちゃ感じて、やるじゃんって思ったっていうのはやっぱありましたね。
映画のラストゴリゴリのステレオタイプに飲み込まれてるんですけど。
すごいしかもだいぶしょうもない方のオチのつけ方したなっていう、最高やなって思いましたけど。
ピストルなわけないやろっていう。
そんなわけないやろって落ち着けるんですけど、あれでもお金稼げるのでOKですみたいな感じになるので、
確かにこうある意味現実に負けたみたいに見えるかもしれないですけど、いやしたたかですよっていうところですよね。
境地はあるからっていうところ。
あれ僕ラスト音楽がすごくいいなと思ってて、劇中ずっとモダンジャズなんですよ、流れてるのが。
これっていわゆる一般的なスタンダードジャズじゃなくて、今らしいおそらくジャズの最先端、彼らが聴きうる音楽だと思うんですよね、生活の中で。
でもラストで流れてくるのが彼派なんですよ。
モダンジャズのスタンダード中のスタンダードがラストのラストで出てくるんですよ。
それってもう音楽の中でもここまでモダンジャズやってきたけど、最後はもう分かってますよね、お決まりのこれで落ちますよっていう音楽的ラストにもなってて。
ちょっと唸っちゃって、あれ。
唸って。
画面もコテコテでしたからね。
そう。
天を仰いで、蜂の巣状態で天を仰ぐって、何回見たかなみたいな。
しかもあそこも展開的には通じて合っているのか合っていないのかよく分からないじゃないですか。
1:09:05
合ってないやろって思いましたけど。
けどええやろみたいになってるからな。
あれよね、そういうの。
とりあえず説明しましたって、警察に追われてますっていうことを一応挟んだから、最後打ち殺してはいいよねぐらいの雑な展開でしょ、あれ。
警官に黒人が打ち殺されるっていうゴリゴリのステレオタイプに回収されていくんだけど、それでも今日を生きるかみたいな。
それでお母さんがいい、老人ホーム入れたならそれでいいやっていう。
確かに、一番いいことや。
いや、話ずれるんですけど、親の介護問題について結構マジで考えてしまって、この映画の。
さっき冒頭でも大石さんが言ってたのかな。みんな学歴は高いけど、職もちゃんと人についてるけど、別に裕福じゃない。
黒人に限って問題じゃないけど、これもうみんなそうじゃんみたいなっていうか、中流階級みんなそんなもんじゃない?みたいなふうにちょっと思ってるところがあって。
僕は今関西いますけど、僕実家は福岡で、妹は実家に住んでるんですけど、もしこの状態で親がそういう施設入らなきゃいけないかもしれないってなったときに、妹とかにどうしても介護の基準が置いてしまうじゃないですか、今住んでる状況だと。
っていうのとか、めちゃくちゃ自分事じゃないな、これ自分のあり得る未来の話なんじゃないの?みたいなふうにめちゃくちゃ思ってしまって。
まんまですやん。
そうなんですよ。だからこれ結構一番人生で起こりうる世知辛い部分、まざまざと見せつけられて、本当にすごいそこで一番くらってましたからね。
親の介護問題に一番くらってるっていう。
全ての価値観のベースからお金は外せないですからね。
結局お金ねえなっていう話が根底にあるというか、いろいろ家族も離婚してお金がないとか、そういうのとかで、老後に向けてのお金とか今マジでなくねえかみたいな気持ちになって、
だからみんなニーサとかイデコとかやってんの?みたいな話ですか?
なんで投資せなあかんねえみたいな、うさんくせえ流れやなって思ってて、ちょっと嫌いしてたんですけど、やらないかんくねえか、これみたいなふうなのをめちゃくちゃ考えてしまって。
この映画の本質ではないのかもしれないですけど、めちゃくちゃそんなところでくらってました。
ある意味本質だと思いますよ。我々はリアルを生きてるんだっていう。だから老後のことも考えないといけないし、金も稼がないといけないっていう、
泥臭いまでのリアルがあるからこそ、金を稼がないといけないっていう。
1:12:03
たとえ構造がおかしいとかっていう部分はあってもやっぱりそうしなきゃいけないよね、みたいな。
いや見たくねえっていう、いや見たくねえっていう気持ちにさせられたけどっていう感じでしたね。
刺さっちゃったわーって。
でもそのサバイブするっていうことだけを中止としていくと、じゃあ今日生きるためにドラッグ売る人だってこの世界にはいるってことになっちゃうから、
またこう社会問題にも戻ってきちゃう難しさがあるなと思ったんですよね、あそこで。
すげえ今日しゃべってて、結構自分に刃刺さってるなっていうからしゃべってましたね。
怖い、怖いっすわ、今回は。
みんななんかでも自分に刃刺すの好きっすよね。
好きではない。刺さるだけ。
いや私全然そんなこと考えないですもんね、映画見てるとき。刺したることしか考えたことないですよ。
それはそういう映画なのでは?
作品に対して刺したるわっていう気持ちしかないです。
まあ終わりましょうか。
はい、ではアメリカンフィクションの話はこのあたりで終わっておこうと思います。
次回、ドックマンぐらいかな?
次回?
ゴールドボーイ、ドックマン、そうですね。
ゴールドボーイな。
ちょっと不安なんだよな。
いやこれはもう不安じゃないんだよ。
不安じゃないんですか?
わくわくなんだよ。
これがわくわくなんですか?
これがわくわくなんだよ。
カネコシュースケという絶妙な。
絶妙なラインだよな。
リュックベッソンかカネコシュースケかっていう。
大作になっていいのかわからない。あまりピンときてない。
強いモチベーションがないのであれば旧作行ってもいいかなと思うんですけど、口先女2。
口先女2行く?
引いてきた線路をようやく。
ガンダムでもいいですけど。
一週間でガンダムはちょっと待ってください。
ちょっとそれは無理かな。
もし来週月曜日とかアカデミー賞発表があるので。
まるおさんが一番多忙な時期でした。
口先女2にしようよ。
いやいいですよ。口先女2行きましょう。
行っちゃいますか?
行っちゃいますか?
いいんですか?
止めとかなくていいんですか?
やるんですね。
ちょっとここまでだいぶ積み上げてきたから一回そろそろ。
表面張力ですから。
引き伸ばすような作品じゃないから。
逆にね。
溜めとくような作品じゃないから。
じゃあ口先女2行きましょう。
やったー。
ではお知らせになります。
1:15:03
映画なししたすぎるバー次回は3月30日土曜日開催予定です。
場所は大阪の南森町週刊回り19時オープン、23時クローズです。
そして映画なししたすぎるバー次回東京開催は5月25日土曜日の予定です。
場所はバーイベント園にっぽり18時オープン、23時クローズです。
あとちょっと映画の話でもオープンもよろしくお願いします。
またこの番組ではお便りを募集しております。
番組全体は次回テーマに向けてご自由にお送りくださいませ。
バーの最新情報、番組次回テーマはXにて告知しております。
各ご案内は番組説明文をご確認くださいませ。
それでは映画なししたすぎるラジオ第157回アメリカンエフェクションの回を終わりたいと思います。
それではまたお会いしましょう。さよなら。
01:16:16

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