1. 映画の話したすぎるラジオ
  2. 第138回(2)『月』我々はもうそ..
2023-10-21 1:08:58

第138回(2)『月』我々はもうその議論の段階にはいない…はず

『月』の話をしました。

本作がモチーフとしている現実の事件に対する意見をふまえながら、本作の描かれ方がテーマに対してこれで良かったのかというところを徹底的に話しています。

■メンバー

・山口 https://twitter.com/awajicinema ・まえだ ・マリオン https://twitter.com/marion_eigazuke ・オーイシ https://twitter.com/pteryx_joe

■映画の話したすぎるBARのお知らせ

日時:2023年10月28日(土)

場所:『週間マガリ』大阪市北区 天神橋1丁目11-13 2階 https://magari.amebaownd.com

詳細:https://virtualeigabar.com/eiga-bar

■12/16(金)横浜イベント2本立て

概要:https://virtualeigabar.com/event1216yokohama

第1部:映画の話したすぎるラジオ公開収録 in ネイキッドロフト横浜 https://virtualeigabar.com/public-recording_in_yokohama 開場 開始 終了予定

第2部:映画の話したすぎるBAR in イベントバーエデン横浜 https://virtualeigabar.com/eigabar_in_yokohama OPEN- CLOSE 

■お便り

https://virtualeigabar.com/contact

※お便りの一部を抜粋してご紹介する場合があります。

■告知用X(Twitter)アカウント

https://twitter.com/virtualeigabar

■番組グッズ販売

https://suzuri.jp/virtualeigabar

■Discordサーバー参加申込

https://virtualeigabar.com/bar_online

The post 第138回(2)『月』我々はもうその議論の段階にはいない…はず first appeared on 映画の話したすぎるBAR&ラジオ.

Copyright © 2025 映画の話したすぎるBAR&ラジオ All Rights Reserved.

00:00
今日のテーマトークは、月です。はい、ではまゆたさん、解説をお願いします。
はい、映画ドットコムより船を編むの石井優弥監督が宮沢李絵を主演に向かえ、実際に起きた障害者殺傷事件をモチーフにした
変身王の同名小説を映画化。夫と二人でつつましく暮らす元有名作家の堂島陽子は森の奥深くにある
重度障害者施設で働き始める。そこで彼女は、作家志望の陽子や絵の好きな青年佐藤くんといった同僚たち、そして光の届かない部屋でベッドに
横たわったまま動かないキーちゃんと呼ばれる入所者と出会う。 陽子は自分と青年合併が一緒のキーちゃんのことをどこか他人だと思えず
親身に接するようになるが、その一方で他の職員による入所者への酷い扱いや暴力を目の当たりにする。
そんな理不尽な状況に行き通る佐藤くんは、正義感や使命感を徐々に増幅させていき、 陽子の夫昌平を織田斬上、同僚の佐藤くんを磯村雄と、陽子を三階堂文が演じる。
はい、それではここから内容に触れる話を入っていきたいと思いますので、ネタバレ気にされる方がいらっしゃったら是非見てから聞いていただけたらと思います。
はい、ではあさりの感想を前田さんいかがでした?
はい、そうですね、私結構この作品楽しみにしてて、結構こう期待をして鑑賞したんですけど、
役者さんの演技とかすごく良かったなっていう部分とか、あと演出の光の使い方とかがすごくいいなと思ったりした部分はあったんですけど、
正直この作品を見て、新しい気づきを得たり、なんか価値観が変わったなっていうようなものがなかったので、そこはちょっと残念だったかなっていうのは思ってます。
はい、まりのさんいかがでした?
そうですね、題材が題材だけすごく語るのが難しいなぁとは思ってるんですけど、
やっぱり途中まではすごくこっちにめちゃくちゃ訴えかけてくるというか、あなたはどうなんですかっていうめっちゃ問い詰められてるような感覚にもすごくなるような映画ではあって、
そこが見てる間に自分の中でもどうなのかなっていうのはすごい考えさせられてしまったりとか、
でもそれは絶対違うなって、そこに同調するのも絶対違うなとかっていう、
自分の中でもすごくいろいろな考えがせめぎ合うようなものを引き出してくれるような映画ではあったかなっていうふうには思ってるんですけど、
後半から別の話が2つ始まって、特に溶け合わずに終わってるようにちょっと見えてきてしまうような時があって、
何なんだろうなこれっていうふうにちょっと思っちゃう時がちょっとあって、
なんか描きたいことはわかるけど、なんかそれがうまく描けてたのかはちょっとよくわかんないなこの映画っていうふうにちょっと思いました。
はい、大石さんいかがでしたか。
これ語るのほんと難しいですよね。
メッセージ性というか監督が問いたいところ、ある種その優勢論的な思想というのが日常の中にもあるんじゃないか。
03:04
例えばそれが出生前診断だったりとかっていうところで、
もうちょっと言えば津久井山寄り園事件の犯人が言ってたことっていうのは、
果たして一言なんだろうかってことをおそらく問いたいんだろうなっていうところは思って、
確かにそこに関しては伝わったというか、そこはたぶん間違いなく汲み取れるようには作ってあるなと思ったんですよ。
ただ、あの試験のことを描くっていう題材として描くってなった時に、
本当にこの描き方でよかったのかなっていうのはちょっと自分の中でずっと引っかかっていて、
もちろんそのある程度取材もされてるし、
山寄り園事態で起こっていた問題点みたいなものもこの映画の中に実際反映はされているので、
そういう実力もの的な現実問題をモデルにして作ったところはいいかなと思う反面、
犯人像っていうのがすごくキャラクタリスティックというか、
すごい一面的な気もちょっとしてしまって、
ちょっとそういう感じを自分は感じてしまって、
そこが自分にとってはそう単純に捉えていいのかなっていうのがあったっていうのが感想ですね。
僕はですね、難しいテーマきたなって思ってたんですけど、
どこまでこの作品について体重をかけて話すかっていうのが未だにちょっと掴みかねてて、
わかり間違ったらそういう言い方をすべきではないっていう言い方をしてしまうんじゃないかなっていうのがあって、
結構今おっかなびっくりで喋ってる感じなんですけど、
もう正直に非常に苦手な作品でした。
まず本作の中で描かれている人間感が非常に苦手で、
作中で嘘をつきたくないとか綺麗事じゃない現実みたいな言われ方をよくしてるんですけど、
じゃあここで描かれているのが本当だったり現実だったりするかっていうと、
そうじゃないと思ってて、
漏悪が過ぎる部分があって、逆にこの山売り園の連続殺傷事件の本質からちょっとずれてないかなって気がしたのがありました。
最終的に優先思想的なものを語っていく中で、
いくつかの問題が混同されたまま話が進んで、結果的にちゃんと語れてなくないって思ったんですよ。
ちょっとそこは、もうちょっと正義されたものを僕は見たかったなって思いましたかねっていう感じです。
じゃあ内容をもうちょっと深掘りしていきたいと思うんですけど、
どっからいきますか。
むずっ。
難しいですよね。
それぞれのキャラクターとして、4人主要な人物が登場すると思うんですけど、
06:05
私個人的には、それこそこの映画の問題定義を事件のことをベースにするのであれば、
主人公の宮沢理恵の陽子と佐藤くんの2人だけの掘り下げでよかったんじゃないのって思うところもあって、
結構二階堂ふみと、おだきり嬢は陽子の夫っていうところでまだわかるところはあったんですけど、
二階堂ふみのキャラクターがちょっと難解というか、すごい嫌なやつで前半出てくるじゃないですか。
すごい主張が強くて、彼女の家族のことだったりとか、彼女がどう思ってるかみたいな話がすごい多い割に、
最後の最後で大した役割じゃないなっていうのが、二階堂ふみがぶれた原因、要素として大きいんじゃないかなと思うんですけど。
それはちょっと思いましたね。彼女の役割がすごい飲み込みづらい、まず人間的に好きになれないっていうのがあって、
飲み会の席の発言とか、もうお前さーみたいな。
もう酔っちゃってるんですいませんとか言いますけど、そんなもんじゃないだろっていうこと言いますからね。
才能がない人間が生きていちゃいけない気がするみたいな、本作が1個語ってる、障がいがある人が生きていっていいのかみたいな、犯人の問いかけみたいなものと、
ちょっと比べられるような感じで、才能のあるなし、それって突き詰めると生産性のあるなしみたいな話につなげたいんだと思うんですけど、
ちょっとぶれてる。その才能のあるなしに対する不満とかって、それって社会がどうとこうというより自分の中の話じゃないですか。
それこそ承認欲求の話なんですよ。自分が承認されてないからっていう話。
でも、柔道の障がいがある方の問題と、自分が社会から認められてない気がするみたいなのを並べた問題として描くのは結構飲み込めないものになってたと思いますし、
自分の才能が社会から認められないから事件につながるのとかって、それってヤマゲイエンの事件というよりどっちかというと、教科アニメーションの事件とかの方が近いとは思うんですよ。
なんかね、ずれてると思って。確かに認められてないからその反応として、そういう陰謀論めいた優勢思想にのめり込んでいくっていう側面はあると思うんですけど、
それだったら語りの軸を佐藤くんだけに絞ってもよかったなっていうのは、それは前田さんのおっしゃる通りだなとは思って、語りの軸がちょっと散らばってる感じがしたっていうのはありました。
09:09
なるほどな。僕、実はどっちかっていうと、僕、主人公の夫婦、宮沢理恵と織田桐生の、あの夫婦がちょっとあんまりピンときてなくって、
むしろ僕、二階堂ふみの方を主人公にした方が面白かったんじゃね?ぐらいに思ってたりするんですよね、実は。
そうかも。
実はなんですけど。
確かに。
さっきの今まで言ってきたような、障害者の話と自分の社会に認められてない話が混同してる、そこはずれてるんじゃないかっていうのが、
たぶん現実層、結構ずれてる人が多いからっていうものの情景としてそこが多分描かれてるんかなっていうふうに個人的には思ってて、
ずれてるのはずれてるって言って、それがそのままいってしまうからこそ、なんかああいう事件が起きてしまったりとか、
ちょっと間違ってるようなことを正当化、さも正当化のように言ってしまう人がいたりとかっていうのが現実いるしっていうのが現れたのかなーって思っていて、
で、なんか僕、宮沢理恵の話が、これもちろん生産性の話とかも関わると思うんですけど、障害者の話とか関わってくると思うんですけど、
中絶するしないの話があると思うんですけど、これもずれてると思ってて、そこもちょっとずれてて、
なんかその話と障害者が生産性がないから殺していいみたいな話と母体の話とかも含めた選択としての中絶とかの話、また別じゃねっていうふうにちょっと思ってて、
そこもだし、途中からもどんどん自分の危険な思想にのめり込んでいく佐藤くんの話と、宮沢理恵たちの夫婦の話ってもう分離していくんですよね。
ほとんどもう行かないし、自分の小説書いてるとかしてるとかいう話になって、関係ねえじゃんってただなっていくんですよね、見ているこっちが。
確かになんか急に、はーっとか言って急に施設行ったりしますもんね。シフトじゃないときに。
なんか途中からあんまりあの施設に顔出してるような素振りもない感じになんか見えてきてしまって、何なんだろうなこの人っていうふうにちょっと見えてしまうんですよね。
なんかそのあたりでなんかこうちょっとこう、この話ボケて見えるな最後みたいなふうに思えてしまうっていうのがあったりとか、
宮沢理恵の主人公の設定が小説家じゃないですか。東日本大震災を題材にした小説を書いて、
その小説のときに、いわゆる劇中の言葉で言うんだったら奇麗事みたいなことを、自分の実際に取材で見てきたようなことは書かずに奇麗事だけみたいな小説を書いてしまったみたいな話とか言ってたと思うんですけど。
多分あの辺の話を多分ああいう設定にしてるのって、それ多分監督自身の話も入れてるからだと思うんですけど、
12:04
実際のこの障害者の殺害事件をこうやって映画にしてるっていう自分のその自戒とかもそういったのも含めた上でそういう設定とか書いてるんだろうなって思うんですけど、
なんかその話はわざわざ入れなくていいなっていうか。その話はなんかこのテーマに対してちゃんと誠実に描いてそれがわかるのはいいんですけど、
劇中でその話するのはなんかちょっと邪魔だなっていう感じもすごくして、その話もまた別の話だなっていうふうに思ってしまったところなんですけど、
なんかそういうところがちょっとずつちょっとずつずらされたりとか変な話が入ってきたりして、なんかうまくこの話を飲み込めないなっていうふうになってしまったって感じですかね。
そうですね。宮沢李恵の幼子回りの話って、いくつかの問題が混同したまま進んでいく感じは僕もすごく受けて、
出生前診断の話とか、だから生まれる前に障害があるかどうかとかって知りたいみたいな気持ちって、
それって確かにその延長線上には優先思想的な考え方は多分ないことはないんですけど、
でもその社会に対して生産性がない人間は死んだ方がいいっていう発想で物事を判断するっていうことと、
自分が生まれてくる子供が病気だったり障害持ってたらどうしようっていう不安がある親の気持ちっていうのは全然レベルの違う話なんですよ。
そこが何かちょっと近いもの。関係ないことはないですよ。もちろん。ゼロじゃないけど、
同じレベルの話にその宮沢李恵の幼子自身がしちゃってるシーンがあって、終盤の方で。
だからその佐藤くんがそういう優先思想的な思想を一方的にばら撒いてる時に自分を重ねて見ちゃってるシーンがあるじゃないですか。
あれはおかしい。明らかにレベルの違う話をしてるのにそこを混同して、それに対して、
でも私はそれを認めないみたいな感情論みたいなレベルで反論してるから、
ものすごい居心地が悪くって、明確に理屈が通ってないことを言ってるんですよ、彼はあそこで。
それに対して、明確にこうこうだから違うって言い切れずに、
いやでもなんか命って大事だからそれを私は認めたくないみたいなレベルで否定してるのがダメです、それは絶対に。
なんていうか、理屈ではそうなのかもしれないけどみたいなのがちょっとニュアンスに残っちゃう感じがして、
そういうレベルじゃないんですよ。
親が子供の、生まれてくる子供の状態を心配するっていうのと、
障害者を殺すみたいな話が近い問題にされるのは非常におかしいと思います。
15:00
そこはそもそも感情移入する余地なんてないはずなんです、あそこ。
本作の佐藤くんの描き方が、僕は二重になってると思ってて、
彼って実際の植松佐藤容疑者、実際の事件の方の、
彼って自己愛性パーソナリティ障害みたいに言われてたりとか、
あるいは実際に対魔も吸ってたらしいですし、
反社会的組織とか右翼団体とかとちょっとつながりも持ってたぐらいに、
そもそも行動原理が極端なんですよ、彼は。
だから、社会の優生思想はどうとかというよりも、
そもそも彼自身が非常に極端すぎる人間であって、
その極端な人間が起こした事件っていうのがまず一側面としてあって、
それとは別に、社会の中の優生思想的なものが、
彼にそれを刺したんだっていう側面、それはないことはないと思うんですけど、
そこで単に歪んだ自己愛から陰謀論明いた考えで、
障害者を殺すっていう行動をする人間っていう佐藤君っていう存在と同時に、
主人公の陽子であるとか、社会に対して優生思想的な思想ってありますよねって、
あなたの中にもありますよねっていう善が問いかけるような、
ある種のジョーカー的な存在、
ちょっと超越的な犯人像としての側面も同時に描かれてたと僕は感じて、
どっちなんだよと思って、
そういう社会全体の優生思想を具現化した犯人像なのか、
それとも実際の植松佐藤さんがそうであったような極端な人間、
そもそも間違ってる人間、そもそも間違った個人としての犯人なのかっていうのが、
同時にずっとあって、どっちなのか分かんないんですよ。
だから宮沢理恵の陽子も何か混同しちゃってて、
そもそもあいつの言ったこともやってることも全部間違ってるって言うんだったら、
彼のやってること言ってることに、全て完全に論破されないといけないと思うんです。
もしそうじゃなくて、僕たちの中にも優生思想的なものってあるよねってことを投げかけたいんだったら、
ただ極端なだけの異常なだけの犯人像みたいなとこは強調しすぎたら、
あいつが極端なだけだからみたいな他者として見てしまう。
そうすることでちょっと問題意識がぶれちゃうような気がして僕は。
そうじゃなくて、社会の優生思想が彼のような存在を生んだっていう描き方、
本作でもありましたよ。
同僚がああいうことやってるからその影響でそうなっちゃったみたいな描き方もあったけど、
じゃあ現実の上松さとしがそうであったような、
18:01
個人としての極端さの話はある程度オミットして描かないと、
これって上松さとしの話だからなみたいに遠ざけて見てしまうみたいな。
でもそうじゃなくて、あなたの中にもそうやってあるんじゃないですかって問いかけるんだったら、
もっと身近な現として描かないといけなかったんじゃないかなって僕は思ったんですよ。
私も本作で上松さとし、実際の犯人像をめちゃくちゃ想起させる演出を入れたのは意味ないなと思ってて、
それだったら上松さとしの話として描くべきだと思うんですよ。
そうなんです。
やっぱ彼には彼の問題があると思うので、
誰しもがそうなりうるっていうようなものがあったとしても、
でもその一線を越えた彼の理由っていうものをちゃんと解明しないと、
そうやって一つ一つのことをちゃんと解き明かしていかないといけないと思うんで、
この映画の中では上松さとしと思わせる演出は本当にいらなかった。
めちゃくちゃそのまんまなんですよ。
私パンフレットも買って読んだんですけど、
監督としては佐藤君っていうのはどこにでもいる普通の男の子っていう感じで描こうとしたという人はあったらしいんですけど、
やっぱり最後の方で急に対魔水始めたり、急に髪の毛染め始めたり、急に入れ墨入ってたり、
急に上松要素ギュって詰め込んできて、
あそこらへんが私的には流れとしてもいらなかったなと思いますし、
ちょっと精神が不安定になって急にそんなことをしたっていうような程度ではないと思うので、
佐藤君っていう相性も実際に上松が呼ばれてた呼ばれ方でもあるんですよね。
だからそこらへんが私もそれはすごい引っかかるところではあります。
実際に当時上松が、上松呼びしているけど、上松さとしが起こした事件で、
彼の発したメッセージに対して少なくない人が共感できる部分もあるみたいなことは結構表明したわけじゃないですか。
インターネット上で。
だからこの本作で、本作の問いかけってほとんどもう上松の問いかけと一緒というか、そのまんまなんですよね。
私からしたら、あの事件のインパクトをそのまま利用しているだけであって、
この映画ならではの問いかけとか視点っていうものがちょっと薄かったかなっていう。
そこを多分2人の横でカバーしたかったんでしょうけど、っていう感じがしますよね。
そうですね。だからやっぱり上松さとし要素っていうのは省いたほうが良かったとは僕も思って、
21:05
だから何だったら感情輸入しないとダメなんですよ、彼に。
この意図としてはね。
自分がそうなるかもしれないって思わないといけなくて、
本当は絵を描いて生きていきたいけど、そうじゃなくて本当はやりたくないと思っている仕事をしている。
周りは施設の入所者を虐待しているし、正しさって何なんだろう。
この状況に理屈をつけるんだったら、そもそも彼らは生きていない方がいいんだっていう。
だから自分はそれに乗っかるんだっていうのになっていくっていうのって、
これちょっと100%正しいと思っているわけじゃないですけど、構造的にはタクシードライバーに似てるなと思って。
あれだって大統領候補を殺そうとするじゃないですか。
そうなったら世の中が良くなるからっていうことで。
実際それはできなくて、召喚のコンビキみたいなやつを殺してヒーローみたいになるんですけど、
実際にそういう俺が世の中を良くするんだみたいなのをこじらせて、
そういう極端な思想に乗っかったら現実に起こるのはこっちなんだぞみたいな。
でも途中まで自分それに乗っかっちゃったなみたいな、
こっちに指差してくるぐらいの方が僕は良かった気がしたんですね。
そうじゃないと作中の佐藤君の悩みとか痛みみたいなのが、
どこまでいっても上松佐藤のそれでしかない。
感情移入ができないっていう。
でもそれをすると本作のというか、現実が抱えている問題に届いてないと思うんですよ。
あの事件が起きたことだけが問題なんじゃなくて、
社会がそれを許容した。でもそういう件もあるかもねって。
社会が言った。誰かが言ったっていうその状況を咎めないといけないんじゃないの?って思うんですけど、
だとしたらあの犯人像は上松佐藤そのものであってはいけないと思うんです。
いけないし、あれを逆に上松なのかなって思わせることで、
あの映画で描かれている佐藤君のことを上松って思うことも危険だと思うんですよね。
なぜなら違うので。
そこに間違った認識が入ってしまうのも怖いなって思いますし、
私が思うのは問題定義って言いますけど、
あの問いかけって、もちろん自分が自分の中で、
自分にもそういう差別意識とかそういったものないだろうかって自問自答する分にはいいと思うんですけど、
今さらあの事件があって、もう何年も経ちますけど、
今さらあの時の上松の問いかけみたいなものをもう一回問いかける意味ってあるのかなと思ってて、
そこを問い直す段階にはいないと思うんですよ、我々は。
24:02
そこって個人個人でどういう風な感じ方とか疑問とか、
自分の中で折り合いがつけられていない部分が個人の中にあったとしても、
社会としてはそこに対する問いかけの段階じゃない、もっと上の段階に進んでいるべきだと思うんですね。
もう現状を改善していくっていうことしか議論の余地はないと思うんで、
だからそこであの問いかけを入れるっていうのは、私にとっては戻ってないかって思うんですよ。
あの事件に時を戻してないかっていうのがすごいあって、
なんかそれが、私は結構あの事件、すごい印象的というかセンセーショナルな事件だったんで、
あの事件があってからすごいこのテーマについては自分の中でも考えてきたことだったので、
余計に今更もう一回それなんていうのは思っちゃいましたね。
そうですね、確かに。
あの問いかけで、たとえあそこで主人公はあんまり論理的に言い返せなかったという状態になりましたけど、
あれで別に言い返せなくてもあんたのほうが正しいっていうのは決まってるというか、
もう答えが出てる話なんですよね、どう考えたって。
その後に佐藤くんが結局やらかすわけですけど、事件を起こしてしまうわけですけど、
あんなものを起こしてしまった時点であいつの失敗というか間違いなので、
あいつが何を言うとも全部間違いなので、あそこで言い返せなかったからといって、
別にそこで個人の中で悩むことあったとしても、
いやあなた大丈夫ですよって感じなんですよね。
そこ、ちゃんと答え、あなたちゃんと出せてます?みたいなぐらいだと思うんですよね。
だから今更それっていうのも確かにあるし、
あと僕は二階堂ふみをもうちょっと掘ってほしかったなって思ったのは、
彼女結構事件をもう区切りしてしまうじゃないですか。
しかも結構どちらかというと佐藤くんに同調するような振る舞いもするというか、
ちょっと擦れた考え方をしてしまうような立場だったわけですけど、
けど実際に事件を見て、絶対それ違うって彼女的にも本能的にも分かってるわけですよね。
それが答えだと思うので、それをもっと掘っていったほうが、
いややっぱこれは違うんだっていうのを改めて知るというか、
改めてはっきりとメッセージ打ち出すことも絶対できたしっていうのはちょっと思ったりとかしたなっていうのはありますね。
マリオさんのおっしゃること僕もそうだなと思ってて、
多分この絵がクライマックスに事件のシーンを置くことはちょっと違うなと思って、
むしろ冒頭においてそれをどう受け止めてきたかをこそ描くべきなんじゃないかなって思うんですよ。
確かに。
要はその事件に対して、それは僕らがやってきたことの振り返りでもあるし、
あるいは犯人が、結構僕この事件、渡辺一文さんというノンフィクションライターの方が上松死刑囚のことを長年取材してきていて、
27:01
あの犯罪を犯した後にですけど、
彼がどういうふうなものだったのかってことを6年間ぐらいかけて取材してるっていう取材結果みたいなのをちょっと聞いたことがあったんですけど、
やっぱり彼自身のパーソナリティがめちゃくちゃ複雑だっていうことを言っていて、
その複雑なパーソナリティの中で浮かび上がってくるものもあるし、
彼の中での変化もあるっていう話があったんですね。
自分自身が死刑囚っていう形になって生産性がない状態になったけど息繋がれてる状態はどうなんだっていうところとか、
彼自身の中で模索したりっていうのもいろいろ伺ったって話もあって、
事件っていうものを起こるまでっていうのはある意味全員がコーチと言ってもいいわけで、
そこをわざわざもう一度掘り返すんじゃなく、
その後それをどう受け止めたかをこそ多分描いてみるべきだし、
それがフィクションにできることだと思うんですよ。
2階堂ふみのキャラクターが感じていたような、
自分に才能がない、だから自分の存在価値を見出せないっていうところが、
だから他者に対しても価値がないと思ってしまうみたいな繋ぎ方だったら、
もうちょっと違う視点が持てたかなと思うんですけどね。
だから、でもそんなことはないから自分自身の、
もう私価値とかいう言葉嫌いなんですけど人間に対して、
それが間違ってるよっていうベースのところをそっちを問い直すべきだと思いますし、
こういう問題において障害者がどうだっていう、障害者の側じゃなくて、
それこそ事件を起こした側、そっちの方を掘り下げるべきだし、
そういう人たちを我々の社会はどうしていったらいいのかってことこそ議論すべきと思うんですね。
実際上松悟がさっきもおっしゃってましたけど、
本当に結構ちっちゃい時から色々問題になるような行動もあったっていうようなことから、
どんどんちょっとおかしくなっていったっていう部分、
でも反面社会に溶け込んでいた部分もあるっていうような、
そういう人たちに対して社会はどうやって向き合っていったり、
どうやってそれを未然に防ぐかっていうところを、
視点を追わせるところがちょっと逆かなっていうのはすごいもの。
あとなんか僕もパンフレット読んでたんですけど、
そもそも原作ってなんか結構不思議な作りの小説なんだなっていうのを結構書いてたんですけど、
キーちゃんって出てくるじゃないですか。
彼女視点で物語が進むらしいんですよ、どうやら。
それを聞いて、それを映画にするのは確かに難しいと思うので、
キーちゃんではなく別の第三者みたいな、それを宮沢理恵に置いてるわけですけど、
そうしないと確かに映画にするのは難しいと思う反面、
30:02
そこまでお膳立てしないとなんかダメかみたいなというか、
自分と同じ年の同じ誕生日でみたいなとかっていう、
そこまでのお膳立てをしないと他者に想像力が働かないみたいな話にならないのかなっていうのもちょっとなんだかなっていう思いがちょっとあって。
逃げてますよね、証言を。
それ結構僕、原作がその思考だみたいな感じの言い方はしないんですけど、
ただ原作が多分できていたアンチテーゼを逆に裏切ってるなと思ったんですよ。
原作のアンチテーゼって多分何かって言ったら、
湯松が言っていた心がないっていうことに対するアンチテーゼだと思うんですよ。
彼女の視点で語るって。
いや、心はあるでしょっていうことだと思うんですよ。
それはある種小説っていう武器があるからできることだと思うんですけど、
結局本作そこに何ていうか、それをまた奪ってるような気がして。
その小説をベースにする意味があんまりない。
そうそう、まさに。
それは小説の要素自体をかなり一番大切な要素をなくしてるんじゃないのって思って、
僕はそこに若干怒りすら感じるんですけど。
いや、そうなんですよ。
僕、映画の方で、小説の方はその作りだったらもうなるほどと思うんですけど、
映画の方でキーちゃん視点のカメラが挟まるのがすっごい欺瞞的だなと思って。
物語の全体の進行上は彼女の意識の存在とかって全然、声は出してましたけど、
彼女の心の存在って描かれないけど、
あそこでカメラがあることで、彼女は見えてるんだよっていう、
彼女には心があるんだよっていうのがカメラによって描かれるんですけど、
視点があるから心があるっていうことになってるのが僕すごい嫌だったんですよ。
だから、本当は見えてるかもしれないよっていう話になるんですけど、
で、実際キーちゃん視点のカメラがあるから実際見えてます。
宮田リエの陽子の言ってることがあってましたとかじゃなくって、
見えてなくても彼女の存在は認められないとダメなんですよ。
そこで、あのカメラの視点が答え合わせのように挟まることで、
どっちの言ってることの方が正しいみたいな論点がそこにずれてるような感じがして、
すごい嫌だったんですよね。
光が見えてようが見えてないが、あの人はキーちゃんは尊重されるべきなんですよ。
あともう一個嫌だったのが、佐藤くんの彼女、耳が聞こえないんですけど、
彼女視点になった時に音消されるじゃないですか。
あの演出めちゃくちゃ嫌いで、
その前に耳が聞こえなくても音のある世界で生きてるんだみたいな話をしてたんですけど、
明確に生きてる世界が違うっていうのを分けられてたんですよ、あそこで。
33:02
そこまで説明せんとダメかと思って、
なんか逆に失礼じゃんって、
ちょっとあの彼女視点になった時に音が聞こえなくなる演出、
ちょっと僕、切れましたね、正直。
ふざけんなと思って。
なんかめっちゃ嫌でした、あれは。
なんか全体的にその、
被害者になってしまう障害者の方々もそうなんですけど、
そこまわりの描写がある種一面的なんですよね、全体的に。
だし結構それがステレオタイプになっていて、
多分その原作が言いたかったのってそこじゃないというか、
そこじゃなくて、
ステレオタイプに見えてるものは多分違うぞっていうことをごと言いたかったはずなのに、
しかも多分おそらくその実際に障害を持たれている方々を、
映画の中でキャストとして取り入れてるっていうところも含めて、
それをやる意味が果たしてあるのかっていう、
逆にステレオタイプをこの映画は助長してませんか?
まさにそれが植松四景集本人の主張そのものだと思うんですけど、
だからなんか全体的に、
結局植松の言いたいことをスピーカー付けて拡張してるだけにも見えるぞっていう。
いやー、そうなんですね。
なんかそこのインパクト、全体よりしてますよね。
そう、そうなんですよ。
その言葉の強さというか、
うってなるような彼の発言のインパクトというか、
その強さだけしかないような感じがすごいするというか。
そうですね、だからなんかすごい挑発という意味では、
うまくいってると思うんですよね、そういう意味では。
我々になんかこう、挑発をしかけてくると。
なんで挑発すんの?
っていう感じに近いと思うんですよ、わざとというか、
だと思っていて。
だからまあ確かに、
やっぱり佐藤くんと主人公の陽子が対面して喋ってるところって、
確かにちょっとこう、なんというか、
ちゃんと僕も論理立ててそこで言い返せるような人でもないだろうな、
ああいう場にいたらって思ったりもしたし、
あそこで何も言い返せなくて何とも言えないものになったり、
そうだなーっていうのとか思ったりもしたんですけど、
まあでもあの挑発、受け取る必要別にないしなっていう。
いやそうなんです、あれはトラップなんですよ。
あそこで議論に乗る必要はないんです、我々は。
全くないんですよね、そうそう。
社会がそのそこの議論に今更乗って、
考え直す必要はなくて、
もうそれ間違ってるしっていうこと決まってるのでっていう。
それを考えることによってどういう結果とか、
どういう未来にしていきたいかっていうことが大事なわけじゃないですか。
うんうん。
そのそこのゴールをちゃんと明確にしてから考えないと、
おかしいことになります、すべてが。
そうだし、あとあの挑発を受けてめっちゃ考え込んでしまうっていう、
まあ僕らとかもとうとうなんですけど、
そういう人ってもうめっちゃ考えた果てにもうそれ違うって思ってるので、
36:02
何を今更というとこもすごく確かにあるなっていう。
うん。
そこで自分に何かこう思うことが自分に対してあるのであれば、
そこを正していけばいいっていう話であって、
自分に思うところがある。
だからあいつの言ってることは一理あるっていうことがおかしい。
うんうん。
それはもう罠。
そうですね。
騙されてる。
そうそうそうそう。
もうさすが。
さすがって。
さすがです。
もうあの前田さん、皆さんお三人ずっと言ってることで、
もう今更それ言ってるのかっていうのがずっとある作品で、
だから障害のある人って生きていていいのとかっていう、
そういうレベルの議論を僕たちはもうしてないんですよ。
そうじゃなくて、
彼らが生きていていいかどうかというレベルの話とは別に、
柔道の障害がある人のサポートってめっちゃ大変ですよねって、
それどうしていったらいいんだろうみたいな、
そういう話をしないといけないんですよ。
うんうん。
それをケアしてる家族の心の問題とか、
経済的な問題とかそこの話をしないといけないのに、
生きていていいのかどうかみたいなことを、
もう一回テーブルの上に上げてるっていうのが、
すごい嫌だなっていうのは、
それは本当にそうだなっていうのがあって、
で本作、小説を書くわけじゃないですか。
うん。
ニャザー・リエの横が。
で、障害のある方々を中心にして、
話を描いていったんだと思うんですけど、
その内容も、いや彼らは人間だみたいな、
いや知っとるわみたいな、
そういうレベルの話じゃねえんだよって思って、
だから僕らはちょうどこの番組でも、
ハンチバックの話をしたじゃないですか。
はい。
だからもうハンチバックを通った後に、
そのレベルの話をされてもって思って、
だからその障害のある人が、
紙の本を読むのってしんどいですよねとかって、
そういうレベルの話をしないといけないんですよ。
うんうんうん。
いやそうだね。
生きるとか死ぬとかじゃなくって、
それを今更、障害者の方も人間だ生きてるんだとかっていうのを、
テーマの軸にした小説を書いて、
だからどうしたと思って、
知っとるわってほんまに。
いやあの、ちょっとね、
7年遅れてますよ、ほんとに。
いやそうですよね、ほんとそう思います、それは。
うん、そうなんだよな。
なんかもっと森の中にある意味とか、
そこら辺をつっつくべきですね。
そう、まさに本作その社会的な要素が、
ほんとに全部オミットされてるじゃないですか。
うんうん。
で、上松がある種そういう極端な優勢思想に入ったタイミングって、
トランプの、トランプが大統領として受かってくるタイミング、
あるいはキュアノンとかってタイミングと結構かぶってくるんですよね。
うん。
で、彼みたいな極端な思想って、
もちろん彼はそこでまあ、行動に移したわけですけど、
日本全国で結構そういうある種陰謀論的なところに、
しっかり乗っかってしまうっていうようなものは、
あったわけじゃないですか、当時も今も。
39:01
うんうん。
で、ある種それは、ある種の多分もう、
時代がもうちょっと進めばきっと、
ある種の心理的な病として多分名前がつくようなものだと思うんですよ、おそらく。
うんうん。
そう、そうですね。
で、そこがおそらく人事じゃないってところだと思うんです、本来の。
うんうんうん。
ただ、今作、そこが完全にオミットされている。
うん。
なんで社会というものが完全にオミットされていて、
要はあの施設が社会から切り離されてるってことを描きたい、
要はそういうアサイラム的な場所だってことを描きたいことはわかるんですけど、
だからといって全ての人を社会からオミットして単純化してわかりやすくするのは、
それはあの事件そのものを単純化してわかりやすくしようとしているようにも見えるし。
うんうんうん。
そう、だから途中で精神病院に1回入るじゃないですか。
はい。
で、実際の事件の時もほんと同じ流れで入ってるんですけど、
そこで、そこでというか結局兆候があったわけじゃないですか、彼には。
うんうんうん。
で、周囲の人間が明らかにおかしいこいつはって思っていて病院まで行ったにもかかわらず、
そこで何もできなかったっていうことがすごい問題だと思うんですね。
そうですね。
問題というか、そこにちょっと絶望するべきだというか、
うんうんうん。
今の社会ではそれをそこに気づいても止めるすべがないんだっていうところが、
一番怖いところかなっていうのはありますよね。
うんうん。
その陰謀論って話さっきあって、
上松さと氏自身がちょっとその欲関係者と関係があったりとかっていう話もあって、
僕、生産性って言葉って陰謀論だなって思ったんですよ、今回。
うんうんうんうん。
生産性っていうものが意味がある、価値があるっていうのに乗って、
それをすべての基準にして行動していくって、
もうそれ陰謀論やと思うんですよ。
うんうんうん。
そんな世界ってシンプルじゃないよねっていうことをシンプルにして判断するっていうのが、
うん。
もうそのものだなと思って、でも好きじゃないですか、みんな。
生産性っていう言葉。
まあ、資本主義というか経済の論理だけで言うならそうですからね、合理性というか。
うん。
うん、そうですね。
それはそうなんですけど、ただ、前ここでも話しましたけど、
陰謀論は科学を使うんですよね。
うんうん。
自分たちの正当性に科学的であるっていうことを使うっていう、
それは資本主義の原理がそうだからっていう理屈を使うっていうのが、
もうお前らほんと楽するよねって思っちゃうんですよね、僕は。
あるいは、あれですよね、優生論もダーウィンがそういったわけじゃないんですけど、
社会的なダーウィンリズムっていうので、ある意味科学の思想を使ってるって使ってるわけですよね。
あと、統計も好きですよね。
何も関係もない数値のデータが似てるとか言い出したりとかよくするようなっていうのがありますけど。
うん。
その、生産性っていうのは、仕事するときの何というか、
42:02
無駄減らそうねとかっていう仕事のときだけ言わないといけなくて、
社会に持ち出したら良くないですよ、絶対に。
いや、ちょっとこれ掘り下げると、ちょっと僕の論の甘さが出てきそうやからね。
じゃあ、若干補足する形でですけど、
僕のほうで、別にやってるラジオのほうでもちょっと紹介したことがある本で、
遠端加藤さんって方が書かれてる、
いるのが辛いよっていうケアという場所についての覚え書きという本があって、
この中で結構後半のほうで書かれてるのは、まさにこの事件に繋がるようなケアっていうものの難しさなんですけど、
遠端さんはこの本の中で、一回それこそお話をイニシェリン島の整理のときにちょっと軽くしたんですけど、
ケアとセラピーというものが一応その業界には別の言葉として分けられていて、
セラピーというのは何かを改善、社会復帰とかっていう方向に向けてしていくものであって、
ある意味上に進んでいくというか、ある種生産性みたいなものは求められるものであると。
なのである意味治療であるというふうに言われるんですけど、
一方でケアっていうのはそうじゃないんだっていうふうに書かれてるんですね。
ケアっていうのは基本的に日常のルーティーンを回していく、そこに入れるようになるっていうような状態を示すんだっていうふうに書かれるんですよ。
ただこのタイトルいるのは辛いよって書かれてる通りで、後半そのケアっていうものが含んでるその闇というか難しいところってのもこの遠端さんが書かれてるんですね。
それは何かっていうと、まさにさっき言った経済の論理が出てくる社会からの要請が降りてくることだというふうに書かれてるんですよ。
会計の声って遠畑さんは言われてますけど、
要はそれをやってる意味があるの?だったりとか。
それをやってどのぐらい人が社会に復帰したの?みたいなところ。
実はそれはケアというものの本質とは関係のないもの。
それはセラピー的なものなんだから、実は切り分けられてるはずのものなんですよね。
ただそれが社会側からすると、あるいは実際山寄り園でもそうなんですけど、
行政側からすると結構そういう視点でしか見られないっていうのはケア施設の割と問題だったりするんですよ。
で、ケアラーとしてずっといるっていうのはある種支援者と助け助け合うみたいな関係性になっていくもののはずなんだけど、
そうなった瞬間にアジール、まあこれ居場所って意味ですけど、入れる場所のアジールっていうのはアサイラムに変わるんだっていうふうに書くんですね。
で、このアサイラムって実はアジールとアサイラムって語源が全く同じなんですよ。
もともとドイツ語のアジールを英語化したのがアサイラムなんですよ。
だから実は表裏一体のものなんだっていうふうにこの本の中では書かれていて、
で、まさにその極北にあるのが山寄り園の事件だというふうにこの本の中で綴られてるんです。
そうですね。山寄り園自体も2005年ぐらいに権威から民営化して指定管理になってたっていう、
45:01
より経済の原理っていうのが場所としても取り込まざるを得なくなってたっていう、
それは入所者の待遇もそうでしょうし、職員の疲弊っていうのも間違いなくあったとは思うんです。
どうしても数値の原理、経済の原理、それは生産性っていう言葉に紐を付いていくものが入ってきてしまうっていうのはどうしてもあるとは思うんですけどね。
だからたぶん本来議論するときはそこをどう切り分けるか、
あるいは切り分けたとしてどうケアの施設っていうものを社会的な位置づけをどうするかってことだと思うんですね。
それこそ本当に生産性とか、ある意味成果主義とかにも関わってくると思うんですけど、
それって明日の少女とかにも関わってくる話だと思うんですけど、
ケアの話とはずれますけど、そういったものの犠牲者っていうのが、
やっぱりあまりにもそれに虐げられて苦しい思いをしているみたいなことが多いなっていうのを改めて思いますよね。
明日の少女も性分的な矛盾が個人に降りかかるっていう話でしたからね。
ちょっと1回話の中身に戻ってみたいんですけど、
佐藤君の彼女って耳が聞こえないっていう方として出てきて、
すごい明確な意図を持って置かれている役だと思うんです。
佐藤君が入所者を殺した線引きって、
あなた心がありますかって聞いて返せなかったら殺すっていうロジックだったじゃないですか。
じゃあそれあなた彼女にそれしたら殺すことになりますよねっていう、
もちろん別のコミュニケーションを取れるからそうはならないんだけれども、
単にその線引きだけだったら彼女を殺すことになりますよねっていうのは、
ものすごく意図的に入れられてるなっていうのがあって、
実際に彼が私立に忍び込んで部屋に入って呼びかけようとしてるところで、
次のカットで彼女がベッドで寝てる絵になったりとかっていうのは、
かなり意図的にされてたので、
そこでいかに彼のロジックが歪んでいるか、
そもそも理屈が通ってないっていうことは言われているっていうのがあって、
夫の尾田桐町と二人で喋ってるときに、
お二人のお子さんが死んで、
あいつらが生きてるのなんておかしいですねみたいな言ったときに、
うちの子供も喋れなかったよみたいなのを後から言われて、
彼は返さないんですよね、それに対して。
だから身打ちっていう線は引いてるんです、やっぱり。
彼のロジックの都合の良さみたいなことは、
ようこつには描かれてて、
彼がそもそも間違ってるっていうのは、
言われてるとは思うんですけど、
48:01
それにしてもその段階じゃないっていうのが、
気になっちゃうかなって気がしましたかね。
それ聞いてると、
結構福田村事件の話にも似てるなと思って、
線引きをして、
自分と自分とか自分たちと同じ側の人間なのかどうかを確かめる。
そうじゃないところ、線の外に存在している人間のことは排除してしまう。
っていうところで言うと、
結構テーマとして共通するところはあるかもしれないです。
福田村事件って結構集団支援の話だなって私は思ったんですけど、
自分の中にある線の引き方、
身内じゃないっていうところで、
いう感覚の話もちょっとあるのかなっていう。
本質的に全然話と直接は関係ないんですけど、
身水踏むじゃないですか。
思った、私も。
身水使われがちって。
身水、心のないものとして殺されがち問題。
殺し問題。
いや、私ね、虫、
Twitterで虫の死体を夏になったらちょっとあげるっていう活動をしてるんですけどね、
虫の死体ってね、
センシティブにひっかからないんですよ、ギリギリ。
これが、鳩とか猫だったら絶対ひっかかると思うんですよ。
やっぱそこをもう人間の線引きの一つだなっていうのをすごい感じてて、
虫っていうのは、ギリギリ、
命として認識しているけれども、
残酷に感じないというか、
共感性を覚えない、
共感性を覚えない命みたいな、
そのギリギリのラインにいるのが虫なんですよ、私にとって。
だから虫の死体、
だからっていうのはちょっとおかしいんですけど、
なんかすごいそれをあげてるときにすごい思うことがあって。
なるほど。
確かにあれ、
特にあれ写真あげてるって、
凍結したとかされたりとかされたことないんですもんね、別にね。
ない。凍結されてもやるやつってヤバいでしょ。
そうですね。そこまでやってたらもうちょっとヤバいかもしれない。
そんな強い意志あんねんっていう。
強い意志を感じるなっていう感じですけど。
ミミズふむのって今年、
イノセンツとかの時も話したじゃないですか。
はい、はい。
でもやっぱりミミズって心を感じないから、
主人公もふむんですよね、ミミズは。
主人公がふむのか、ミミズは。
でも悪くなっていく彼は猫を殺すっていうので、
差が描かれてたんですけど、
その差か、みたいな。
その差か、みたいな。
ミミズは殺してよかったのか、みたいな。
しかも用意しやすいんでしょうね、映画的に。
映画の道具的に。
映画の道具的に、確かにね。
51:03
心とかっていうものって、
突き詰めると共感だなって今聞いてて思って、
それは身内っていうのも共感できるから身内なわけじゃないですか。
そうですね。
だから自分の彼女とか、
同僚の亡くなった子供のこととか、
特別扱いする。
それは共感できるから。
でも自分がアクション投げてのリアクションしない人は、
共感できないから人じゃないというか、
殺していいっていうことになるっていうのって、
割と結構本質的な部分な気がして、
それはサメでもこの番組で話したんですけど、
そうですね。確かに確かに。
サメは共感できないから殺していい。
イルカは共感できるから殺さないっていう、
大切にされるっていう。
確かにその話した。
ずっと話してる部分、この番組が。
なんか面白い、今年のテーマですよね。
確かに今ここまで、
いろんな最近話した映画の話が、
ここまでポンポンと繋がってくるのが、
面白いなというか。
学戦回収してきますね。
これヨタ話ですけど、
ミミズほど生産性のある生き物って、
そうそうないと思うんですよ。
そうですよ。
なんでなんで。
土というものの、
栄養を生み出しているのは彼らなんです。
そうそう。
植物の落ち葉とかを分解して、
栄養のある土に変えているのは、
彼らなんですよ。
生産という意味では、
サイクルの超重要な部分になってるので、
その意味でも、
あいつはとことん間違ってるっていう。
生態系の土台になってますからね、ミミズは。
もちろん食べられるっていう意味で、
その飼食・捕食の結構、
一番土台っていうのもありますし、
それこそ土を作るっていう意味では、
あれですからね、
ダーウィンが一番最初に研究したのはミミズの研究ですからね。
へー。
だからあの、
サト君は無知であるっていうのは、
あの、描かれてはいるんですけど、
うんうん。
その無知さっていうのは、
あの描き方をするんだったら、
彼は無知だっていうのはもっと指摘すべき。
お前は物を知らないからそこに至ってるんだぞっていうのは指摘すべき。
その疑問をできるほど、
お前は物を知らないっていうぐらいに
突きつけないとダメだとは思って。
うん。
そうですね。
なんか、私なんかその、
私はあんまり想像力の足りない
人間なんですけど、
やっぱりそういう問題に打ち勝てるのって、
人間の想像力だなって思うんですよね。
うんうん。
さっきの共感の話とかもそうですけど、
別に自分と何か共通することがあるから、
共感できるっていう部分と、
でもそうじゃないものに対して、
うん。
想像力を活用できるわけじゃないですか。
うんうん。
だからなんか、
人間にもっと想像力があったらなっていつも思うんですよ。
うん。
そうですね。
結局その想像力みたいなところとか、
54:01
そもそもあいつが言ってることは本当に、
そもそもいろんなこと、
物も何も知識もない状態で
その考えに至ってるんだろっていうところ、
無知を指摘するとかっていう部分に、
時間を当てずに、
挑発に時間を当ててしまったことっていうのがやっぱり
ダメだったんだなーっていうのを
改めて思ったのと、
ここまでいろいろ言った果てに
なんかその、宮沢理恵の
役が小説家で、
表現者として何かそういう
なかなか触れにくいようなテーマで
何か作品を作るみたいなところに、
監督自身も絶対そこを自分に
当てはめて描いてると思うんですけど、
うん。
なんかそういう、作家のプライドというか
なんかその自己言及みたいなのが
もはやなんかいらねーって
余計に思うっていう。
まあいらないなとは漠然とは
思っていたんですけど、改めて
それもお前のエゴだし、
いらねーっていう
関係ないっていう、改めてちょっと思いましたね。
うん。
本作の最終の答え、
あのー、憎いと不味の
陽子が主人公になるべきだったみたいな
話、割と最初の方でちょっと
してましたけど、そこも
関わってくるかなって気はするんですけどね。
だから、クリエイトできる
人だから、この事件
に対して咀嚼して出力できる
とか、才能があるから
この事件を解釈
できるとかっていう風になったら
絶対ダメだと思うんですよ。
うんうんうん。
ダメだし、その
表現者とか、
クリエイトするっていうものの定義も
すごいガバガバっていうか、
なんか結構
小屋の映画に出てくると、みんな誰かに
認められたいみたいなのがすごい感じるんですけど、
何かを表現したり
クリエイトしたり
想像したりすることって、別に誰かに
認められたりとか、賞を
取ったりとか、そういうことと全く
別の軸で動いてる
ものじゃないですか。
その中で、人に認められたいとか
賞を取りたいとかっていうのはまたちょっと
別軸である話であって、
表現することっていうことの根本的な
ことに対する定義が
それもちょっとイラッとします。
わかる。
本当になんか
自分はそのこと考えてますよ
アピールでしかないなっていう、結局ね
ここまで喋ってきて
この映画に対して思ったことなんですけどそれは
なんか
そもそもなんか
その域で止まっているのが本当に良くないなっていう
なんか
そういう意味では一番佐藤くんが
私はすごいそういう意味で表現者として
自然だなと思ったんですけど
紙芝居作ったりとか
人の家に来て
あんなでかい映画とか
なんかそういうことを別に
何かの目的というよりか
自分の中の日常をもっと
良くしたいとか楽しくしたいっていう
モチベーションでそういうことができる
っていうのはすごい素敵だなと思いましたし
なんか
逆に彼のキャラクターのその特性も
なんかもうちょっとこう
生かしてくれたら良かったのにな
っていうのも思って
なんかね、その
57:01
4人ともクリエイターまたはクリエイター
いいじゃないですか
そこになんかこの話の意味を
求めるのもめちゃくちゃ嫌で
そのなんかクリエイター
のことを上に上げ
すぎやろっていう
その趣味であり
仕事じゃないですか
間違っても絶対に他の
職業より偉いとかっていうのはない
ですよそれは
でもなんか本作がそのクリエイター
自意識にひも付いてるのも
いくらなんでもちょっと
エゴが強すぎると思って
なんかあの
創作のネタのために
障害者施設で働いてること
みたいなのもちょっと
なんか是非みたいなのもセリフで
あったじゃないですか
それは良いのよそれは
そういう話
そこが悪いとかじゃなくて
いやあの
結局人生って
全部ネタというか
いやちょっとごめんなさい
いいことが出ないんですけど
いや分かりますよ
クリエイティブの前世みたいな話を
この人が生きるとか
死ぬっていう
レベルの話に巻き込むのはやめろ
それって本当にクリエイターのこと
神だと思ってることやるぞ
って思うんです
いくらなんでもひどいそれは
拷問すぎる
本当に
分かってる
どんどん嫌になってきた
その
いわゆるカッコつきのクリエイター
なんかじゃなくたって
人生に何かを残していくし
別にそれが認められるとか関係なしなんですよ
そう関係ない
関係ないですね
創作とかじゃなくても
この事件のことを
問うことはできるし
問わないといけないんです
そのレベルに着地させんなよ
本当に
もう
って思いました
あの
はい
結構あれですね世間の評価とは裏腹な
ラジオになってしまいます
もうちょっとなんかこう
褒めるとこ
褒めるとこというかあるかなってちょっと
話す前に思ったんですけど
僕ちょっとぐらいはあるんかなって
思ってたんですけど
このテーマについて話したことで
なんかその実際の事件を
ベースにした映画って
結構あると思うんですよね
それが特に
日本のほうが
だとやっぱりよりその
事件自体が身近だったり
記憶にあるものだったりするから
結構その度に
実際の事件をベースにした
映画ってなんていうのかな
正解はないんですけどどこまで
エンタメ要素にするべきなのかとか
結構そういうことを
考えることもあったので
エンタメに振ってる場合だったら許されること
社会派に振ってる場合だったら許されないこと
とかっていうのもあると思うんですけど
1:00:01
結構それを考える上でも
面白い作品だなっていうのも
あります結構喋ってみて
なんかいろんな考え
喋るとこう
気づきがあってすごい楽しかった
本当にそうですね本当に僕も喋ってみて
漠然とはなんかこれちょっと
違和感あるなぁみたいなことは
こうあって喋ってみて
こうやってこう皆さんと喋ってみることで
なんかそこがちゃんとなんかより
鮮明にもなったし
さらにちょっと違和感だなぁみたいなところにも
気づけたしみたいなところがたくさんあって
本当にうん
喋ってる分にはすごい良かったですけどね
これテーマに決まったとき
めっちゃ大変なことになったな
って思ったんです
山入り園の事件が起きたの
僕の一人目の子どもが
一人目の子どもが生まれた直後やったんですよ
めっちゃ覚えてて
うちの子どももね結構いろいろあるんです
何がとは言わないんですけど
いろいろあるんですよ
こいつ線引き寄ったな
って思って
ものすごい憤りを
覚えてたんですあの時
あいつのやったことテロなんですよね
社会に不安を
ばらまいたんですよ
誰かが生きていていい人と
生きていなくていい人の線を
引いてるんだなっていうのを
顕大化させたんですよ
それが許せなくてねあの当時
もうねやでやで
ニュース見てるのが
でもみんな線引きたがるんだな
っていうのも同時に分かって
常にみんな自分が内側に
入る線を引くじゃないですか
そうですね
引きたがるというか
自分の中にある後ろ目立たの
肯定をしたいのかなっていう
のも
私もすごいあの事件の時は
それこそこうまんまと
乗せられてそれに
問いかけに対して真っ向から結構考えて
ちょっとなんかしばらく
苦しかったんですけど
いやこれ罠だって気づいたからは
全然違う
視点でものを考えられる罠だったんですけど
そうですね
今日お話しして
ほぼ褒めてなかったと思うんですけど
それで良かったなと思いました
我々は
そのレベルにいないっていうことを
話して確認できたっていうのは
良かったなと思って
ちょっとだけ世の中が
良くなってるのかなってちょっとだけ
思えるかなと思って
それは本作が正直
評価されない方がいいなって
僕は思っちゃったんです
もうその関係じゃないよっていう
2、3遅れてますよっていう
ぐらいの作品に着地してくれた方が
僕はいいなって
思っちゃったんですよね
でももし
まだ本作が評価されるのだとしたら
それはそれで意味があるとは思って
そうですね
もう一回語り直そうっていう
そうですね
事件のこと
例えばあまり記憶にない人とか
1:03:01
知らない世代の人とか
結構
こういうテーマを語ること自体が
流れてるところもあると思うので
そういう意味では
考えるきっかけっていうものがなかった
人もいるかもしれないじゃないですか
だからこれを機にっていうことに
関しては意味があるのかなとは思う
ですかね
なんかいい話できた
気がします
良かった
久しぶりに参加するのに
月ってちょっと私が言い出しちゃったとこあったんで
なんか
久しぶりに話するのにまた重いテーマ
なんでしまったと思って
ちょっとビビってたんですけど
楽しかった
話して良かったです
自分もちょっと前に進めた気がします
ありがとうございました
こんなところにしておきましょうか
はい
じゃあ月のお話は終わっておこうかなと思います
次回どうしましょう
まねさん次回どうですか
いけそうです
次回は大丈夫です
次回ね
面白そうな作品は
また公開されるんですけど
前回も言いましたもんね
マーティンスコセッション多分見ない
うちは取り上げないと
キラーズオブザフロワン
頑張ったら僕見れるんです
頑張ったら
頑張れない
206分という
時間があるので
見た人の感想を言ったら
体感あっという間らしいんですけど
実際の時間は206分
かかりますので
皆さんのご都合にあります
というとこはやっぱりどうしてもやっぱり
そこは
新作じゃないんですけど
ぜひ語らなくてもいいから
見てほしいのが皆さんに
リバイバルである悪い子バビ
っていうのがあるんですけど
あれはぜひ
私も見たことないんですけど
35年間ずっと
引きこもってたというか
閉じ込められてた男の人が
初めて外の世界に出るっていう
知らないです
ぜひ
多分シネリーブルでしか
大阪ではやってないから
見づらいかもしれないけど
ぜひ皆さんの意見も聞いてみたいな
という作品
これはちょっと
この時間は無理かな
何時で出れますか
1日1回
昼の1時55分の回だけです
絶妙
絶妙に生きにくい
ですね
気になる作品ではあるんですよね
ぜひ
もし見れるチャンスがあれば
初めて知ったんですけど
ちょっと見てみたい
新作で言ったら
アンダークリエイターは
ありかなとは思っているのと
僕やっぱ
候補に残しておきたかったのが
1:06:01
アンダーカレントなんですけど
いまいず
メディキュア作品は
この番組的には熱いんじゃないかな
っていう風には思ってます
アンダーカレントまだまだやってますかね
やってますね
確かに語りたい
作品ではありますねアンダーカレント
確かに語ってみたいな
アンダーカレントでもいいですよね
行きますアンダーカレント
行きましょうか
じゃあアンダーカレント行っちゃいましょうか
はい
行きましょう
楽しみになってきた
皆さんも見てるんでしたっけ
僕まだです
僕は見てます
街の上では
この番組
ちょっとエンジンがかかりだしたタイミングやったと思うんですが
あそこが
分水嶺だったんじゃないかなって思ってて
ちょっとね
変な話をしだしたんですあそこから
変な話をしだした
作品じゃない話を
しだしたんですあのあたりから
何でしたっけ年始ぐらいに
窓辺にいて
窓辺にいてもね結構楽しかったですね
いや面白かったですあれ
楽しかったですからね
次今回どんな話になるんやろっていうのはね
期待してます
ではお知らせになります
10月の映画のハンシュタスギルバーを
開催予定です
場所は大阪の南森町週刊廻り
10月28日土曜日
19時オープン
23時クローズとなっております
あと映画のハンシュタスギルバーの
第2回関東開催が決定しました
場所はイベントバーエデン横浜
日付は12月16日
土曜日
18時オープン23時クローズとなっております
さらにこの日は初の公開収録を
開催予定です
場所はネイキットロフト横浜
12時開場
12時半開始
15時半ごろ終了予定となっております
またこの番組ではお便りを募集中です
番組全体や次回テーマへの
感想などご自由にお送りください
バーの最新情報次回テーマは
Xツイッターにて告知しておりますので
ぜひフォローをお願いいたします
お便りの受付先
Xアカウント番組グッズや
ソフトサーバー参加などのご案内を
番組説明文に記載しておりますので
ご確認くださいませ
それでは映画の話した次裏情
第138回
月の回を終わりたいと思います
それではまたお会いしましょう
さよなら
01:08:58

コメント

スクロール