今日のテーマトークは、月です。はい、ではまゆたさん、解説をお願いします。
はい、映画ドットコムより船を編むの石井優弥監督が宮沢李絵を主演に向かえ、実際に起きた障害者殺傷事件をモチーフにした
変身王の同名小説を映画化。夫と二人でつつましく暮らす元有名作家の堂島陽子は森の奥深くにある
重度障害者施設で働き始める。そこで彼女は、作家志望の陽子や絵の好きな青年佐藤くんといった同僚たち、そして光の届かない部屋でベッドに
横たわったまま動かないキーちゃんと呼ばれる入所者と出会う。 陽子は自分と青年合併が一緒のキーちゃんのことをどこか他人だと思えず
親身に接するようになるが、その一方で他の職員による入所者への酷い扱いや暴力を目の当たりにする。
そんな理不尽な状況に行き通る佐藤くんは、正義感や使命感を徐々に増幅させていき、 陽子の夫昌平を織田斬上、同僚の佐藤くんを磯村雄と、陽子を三階堂文が演じる。
はい、それではここから内容に触れる話を入っていきたいと思いますので、ネタバレ気にされる方がいらっしゃったら是非見てから聞いていただけたらと思います。
はい、ではあさりの感想を前田さんいかがでした?
はい、そうですね、私結構この作品楽しみにしてて、結構こう期待をして鑑賞したんですけど、
役者さんの演技とかすごく良かったなっていう部分とか、あと演出の光の使い方とかがすごくいいなと思ったりした部分はあったんですけど、
正直この作品を見て、新しい気づきを得たり、なんか価値観が変わったなっていうようなものがなかったので、そこはちょっと残念だったかなっていうのは思ってます。
はい、まりのさんいかがでした?
そうですね、題材が題材だけすごく語るのが難しいなぁとは思ってるんですけど、
やっぱり途中まではすごくこっちにめちゃくちゃ訴えかけてくるというか、あなたはどうなんですかっていうめっちゃ問い詰められてるような感覚にもすごくなるような映画ではあって、
そこが見てる間に自分の中でもどうなのかなっていうのはすごい考えさせられてしまったりとか、
でもそれは絶対違うなって、そこに同調するのも絶対違うなとかっていう、
自分の中でもすごくいろいろな考えがせめぎ合うようなものを引き出してくれるような映画ではあったかなっていうふうには思ってるんですけど、
後半から別の話が2つ始まって、特に溶け合わずに終わってるようにちょっと見えてきてしまうような時があって、
何なんだろうなこれっていうふうにちょっと思っちゃう時がちょっとあって、
なんか描きたいことはわかるけど、なんかそれがうまく描けてたのかはちょっとよくわかんないなこの映画っていうふうにちょっと思いました。
はい、大石さんいかがでしたか。
これ語るのほんと難しいですよね。
メッセージ性というか監督が問いたいところ、ある種その優勢論的な思想というのが日常の中にもあるんじゃないか。
例えばそれが出生前診断だったりとかっていうところで、
もうちょっと言えば津久井山寄り園事件の犯人が言ってたことっていうのは、
果たして一言なんだろうかってことをおそらく問いたいんだろうなっていうところは思って、
確かにそこに関しては伝わったというか、そこはたぶん間違いなく汲み取れるようには作ってあるなと思ったんですよ。
ただ、あの試験のことを描くっていう題材として描くってなった時に、
本当にこの描き方でよかったのかなっていうのはちょっと自分の中でずっと引っかかっていて、
もちろんそのある程度取材もされてるし、
山寄り園事態で起こっていた問題点みたいなものもこの映画の中に実際反映はされているので、
そういう実力もの的な現実問題をモデルにして作ったところはいいかなと思う反面、
犯人像っていうのがすごくキャラクタリスティックというか、
すごい一面的な気もちょっとしてしまって、
ちょっとそういう感じを自分は感じてしまって、
そこが自分にとってはそう単純に捉えていいのかなっていうのがあったっていうのが感想ですね。
僕はですね、難しいテーマきたなって思ってたんですけど、
どこまでこの作品について体重をかけて話すかっていうのが未だにちょっと掴みかねてて、
わかり間違ったらそういう言い方をすべきではないっていう言い方をしてしまうんじゃないかなっていうのがあって、
結構今おっかなびっくりで喋ってる感じなんですけど、
もう正直に非常に苦手な作品でした。
まず本作の中で描かれている人間感が非常に苦手で、
作中で嘘をつきたくないとか綺麗事じゃない現実みたいな言われ方をよくしてるんですけど、
じゃあここで描かれているのが本当だったり現実だったりするかっていうと、
そうじゃないと思ってて、
漏悪が過ぎる部分があって、逆にこの山売り園の連続殺傷事件の本質からちょっとずれてないかなって気がしたのがありました。
最終的に優先思想的なものを語っていく中で、
いくつかの問題が混同されたまま話が進んで、結果的にちゃんと語れてなくないって思ったんですよ。
ちょっとそこは、もうちょっと正義されたものを僕は見たかったなって思いましたかねっていう感じです。
じゃあ内容をもうちょっと深掘りしていきたいと思うんですけど、
どっからいきますか。
むずっ。
難しいですよね。
それぞれのキャラクターとして、4人主要な人物が登場すると思うんですけど、
実際のこの障害者の殺害事件をこうやって映画にしてるっていう自分のその自戒とかもそういったのも含めた上でそういう設定とか書いてるんだろうなって思うんですけど、
なんかその話はわざわざ入れなくていいなっていうか。その話はなんかこのテーマに対してちゃんと誠実に描いてそれがわかるのはいいんですけど、
劇中でその話するのはなんかちょっと邪魔だなっていう感じもすごくして、その話もまた別の話だなっていうふうに思ってしまったところなんですけど、
なんかそういうところがちょっとずつちょっとずつずらされたりとか変な話が入ってきたりして、なんかうまくこの話を飲み込めないなっていうふうになってしまったって感じですかね。
そうですね。宮沢李恵の幼子回りの話って、いくつかの問題が混同したまま進んでいく感じは僕もすごく受けて、
出生前診断の話とか、だから生まれる前に障害があるかどうかとかって知りたいみたいな気持ちって、
それって確かにその延長線上には優先思想的な考え方は多分ないことはないんですけど、
でもその社会に対して生産性がない人間は死んだ方がいいっていう発想で物事を判断するっていうことと、
自分が生まれてくる子供が病気だったり障害持ってたらどうしようっていう不安がある親の気持ちっていうのは全然レベルの違う話なんですよ。
そこが何かちょっと近いもの。関係ないことはないですよ。もちろん。ゼロじゃないけど、
同じレベルの話にその宮沢李恵の幼子自身がしちゃってるシーンがあって、終盤の方で。
だからその佐藤くんがそういう優先思想的な思想を一方的にばら撒いてる時に自分を重ねて見ちゃってるシーンがあるじゃないですか。
あれはおかしい。明らかにレベルの違う話をしてるのにそこを混同して、それに対して、
でも私はそれを認めないみたいな感情論みたいなレベルで反論してるから、
ものすごい居心地が悪くって、明確に理屈が通ってないことを言ってるんですよ、彼はあそこで。
それに対して、明確にこうこうだから違うって言い切れずに、
いやでもなんか命って大事だからそれを私は認めたくないみたいなレベルで否定してるのがダメです、それは絶対に。
なんていうか、理屈ではそうなのかもしれないけどみたいなのがちょっとニュアンスに残っちゃう感じがして、
そういうレベルじゃないんですよ。
親が子供の、生まれてくる子供の状態を心配するっていうのと、
障害者を殺すみたいな話が近い問題にされるのは非常におかしいと思います。
そこはそもそも感情移入する余地なんてないはずなんです、あそこ。
本作の佐藤くんの描き方が、僕は二重になってると思ってて、
彼って実際の植松佐藤容疑者、実際の事件の方の、
彼って自己愛性パーソナリティ障害みたいに言われてたりとか、
あるいは実際に対魔も吸ってたらしいですし、
反社会的組織とか右翼団体とかとちょっとつながりも持ってたぐらいに、
そもそも行動原理が極端なんですよ、彼は。
だから、社会の優生思想はどうとかというよりも、
そもそも彼自身が非常に極端すぎる人間であって、
その極端な人間が起こした事件っていうのがまず一側面としてあって、
それとは別に、社会の中の優生思想的なものが、
彼にそれを刺したんだっていう側面、それはないことはないと思うんですけど、
そこで単に歪んだ自己愛から陰謀論明いた考えで、
障害者を殺すっていう行動をする人間っていう佐藤君っていう存在と同時に、
主人公の陽子であるとか、社会に対して優生思想的な思想ってありますよねって、
あなたの中にもありますよねっていう善が問いかけるような、
ある種のジョーカー的な存在、
ちょっと超越的な犯人像としての側面も同時に描かれてたと僕は感じて、
どっちなんだよと思って、
そういう社会全体の優生思想を具現化した犯人像なのか、
それとも実際の植松佐藤さんがそうであったような極端な人間、
そもそも間違ってる人間、そもそも間違った個人としての犯人なのかっていうのが、
同時にずっとあって、どっちなのか分かんないんですよ。
だから宮沢理恵の陽子も何か混同しちゃってて、
そもそもあいつの言ったこともやってることも全部間違ってるって言うんだったら、
彼のやってること言ってることに、全て完全に論破されないといけないと思うんです。
もしそうじゃなくて、僕たちの中にも優生思想的なものってあるよねってことを投げかけたいんだったら、
ただ極端なだけの異常なだけの犯人像みたいなとこは強調しすぎたら、
あいつが極端なだけだからみたいな他者として見てしまう。
そうすることでちょっと問題意識がぶれちゃうような気がして僕は。
そうじゃなくて、社会の優生思想が彼のような存在を生んだっていう描き方、
本作でもありましたよ。
同僚がああいうことやってるからその影響でそうなっちゃったみたいな描き方もあったけど、
じゃあ現実の上松さとしがそうであったような、
個人としての極端さの話はある程度オミットして描かないと、
これって上松さとしの話だからなみたいに遠ざけて見てしまうみたいな。
でもそうじゃなくて、あなたの中にもそうやってあるんじゃないですかって問いかけるんだったら、
もっと身近な現として描かないといけなかったんじゃないかなって僕は思ったんですよ。
私も本作で上松さとし、実際の犯人像をめちゃくちゃ想起させる演出を入れたのは意味ないなと思ってて、
それだったら上松さとしの話として描くべきだと思うんですよ。
そうなんです。
やっぱ彼には彼の問題があると思うので、
誰しもがそうなりうるっていうようなものがあったとしても、
でもその一線を越えた彼の理由っていうものをちゃんと解明しないと、
そうやって一つ一つのことをちゃんと解き明かしていかないといけないと思うんで、
この映画の中では上松さとしと思わせる演出は本当にいらなかった。
めちゃくちゃそのまんまなんですよ。
私パンフレットも買って読んだんですけど、
監督としては佐藤君っていうのはどこにでもいる普通の男の子っていう感じで描こうとしたという人はあったらしいんですけど、
やっぱり最後の方で急に対魔水始めたり、急に髪の毛染め始めたり、急に入れ墨入ってたり、
急に上松要素ギュって詰め込んできて、
あそこらへんが私的には流れとしてもいらなかったなと思いますし、
ちょっと精神が不安定になって急にそんなことをしたっていうような程度ではないと思うので、
佐藤君っていう相性も実際に上松が呼ばれてた呼ばれ方でもあるんですよね。
だからそこらへんが私もそれはすごい引っかかるところではあります。
実際に当時上松が、上松呼びしているけど、上松さとしが起こした事件で、
彼の発したメッセージに対して少なくない人が共感できる部分もあるみたいなことは結構表明したわけじゃないですか。
インターネット上で。
だからこの本作で、本作の問いかけってほとんどもう上松の問いかけと一緒というか、そのまんまなんですよね。
私からしたら、あの事件のインパクトをそのまま利用しているだけであって、
この映画ならではの問いかけとか視点っていうものがちょっと薄かったかなっていう。
そこを多分2人の横でカバーしたかったんでしょうけど、っていう感じがしますよね。
そうですね。だからやっぱり上松さとし要素っていうのは省いたほうが良かったとは僕も思って、
だから何だったら感情輸入しないとダメなんですよ、彼に。
この意図としてはね。
自分がそうなるかもしれないって思わないといけなくて、
本当は絵を描いて生きていきたいけど、そうじゃなくて本当はやりたくないと思っている仕事をしている。
周りは施設の入所者を虐待しているし、正しさって何なんだろう。
この状況に理屈をつけるんだったら、そもそも彼らは生きていない方がいいんだっていう。
だから自分はそれに乗っかるんだっていうのになっていくっていうのって、
これちょっと100%正しいと思っているわけじゃないですけど、構造的にはタクシードライバーに似てるなと思って。
あれだって大統領候補を殺そうとするじゃないですか。
そうなったら世の中が良くなるからっていうことで。
実際それはできなくて、召喚のコンビキみたいなやつを殺してヒーローみたいになるんですけど、
実際にそういう俺が世の中を良くするんだみたいなのをこじらせて、
そういう極端な思想に乗っかったら現実に起こるのはこっちなんだぞみたいな。
でも途中まで自分それに乗っかっちゃったなみたいな、
こっちに指差してくるぐらいの方が僕は良かった気がしたんですね。
そうじゃないと作中の佐藤君の悩みとか痛みみたいなのが、
どこまでいっても上松佐藤のそれでしかない。
感情移入ができないっていう。
でもそれをすると本作のというか、現実が抱えている問題に届いてないと思うんですよ。
あの事件が起きたことだけが問題なんじゃなくて、
社会がそれを許容した。でもそういう件もあるかもねって。
社会が言った。誰かが言ったっていうその状況を咎めないといけないんじゃないの?って思うんですけど、
だとしたらあの犯人像は上松佐藤そのものであってはいけないと思うんです。
いけないし、あれを逆に上松なのかなって思わせることで、
あの映画で描かれている佐藤君のことを上松って思うことも危険だと思うんですよね。
なぜなら違うので。
そこに間違った認識が入ってしまうのも怖いなって思いますし、
私が思うのは問題定義って言いますけど、
あの問いかけって、もちろん自分が自分の中で、
自分にもそういう差別意識とかそういったものないだろうかって自問自答する分にはいいと思うんですけど、
今さらあの事件があって、もう何年も経ちますけど、
今さらあの時の上松の問いかけみたいなものをもう一回問いかける意味ってあるのかなと思ってて、
そこを問い直す段階にはいないと思うんですよ、我々は。
そこって個人個人でどういう風な感じ方とか疑問とか、
自分の中で折り合いがつけられていない部分が個人の中にあったとしても、
社会としてはそこに対する問いかけの段階じゃない、もっと上の段階に進んでいるべきだと思うんですね。
もう現状を改善していくっていうことしか議論の余地はないと思うんで、
だからそこであの問いかけを入れるっていうのは、私にとっては戻ってないかって思うんですよ。
あの事件に時を戻してないかっていうのがすごいあって、
なんかそれが、私は結構あの事件、すごい印象的というかセンセーショナルな事件だったんで、
あの事件があってからすごいこのテーマについては自分の中でも考えてきたことだったので、
余計に今更もう一回それなんていうのは思っちゃいましたね。
そうですね、確かに。
あの問いかけで、たとえあそこで主人公はあんまり論理的に言い返せなかったという状態になりましたけど、
あれで別に言い返せなくてもあんたのほうが正しいっていうのは決まってるというか、
もう答えが出てる話なんですよね、どう考えたって。
その後に佐藤くんが結局やらかすわけですけど、事件を起こしてしまうわけですけど、
あんなものを起こしてしまった時点であいつの失敗というか間違いなので、
あいつが何を言うとも全部間違いなので、あそこで言い返せなかったからといって、
別にそこで個人の中で悩むことあったとしても、
いやあなた大丈夫ですよって感じなんですよね。
そこ、ちゃんと答え、あなたちゃんと出せてます?みたいなぐらいだと思うんですよね。
だから今更それっていうのも確かにあるし、
あと僕は二階堂ふみをもうちょっと掘ってほしかったなって思ったのは、
彼女結構事件をもう区切りしてしまうじゃないですか。
しかも結構どちらかというと佐藤くんに同調するような振る舞いもするというか、
ちょっと擦れた考え方をしてしまうような立場だったわけですけど、
けど実際に事件を見て、絶対それ違うって彼女的にも本能的にも分かってるわけですよね。
それが答えだと思うので、それをもっと掘っていったほうが、
いややっぱこれは違うんだっていうのを改めて知るというか、
改めてはっきりとメッセージ打ち出すことも絶対できたしっていうのはちょっと思ったりとかしたなっていうのはありますね。
マリオさんのおっしゃること僕もそうだなと思ってて、
多分この絵がクライマックスに事件のシーンを置くことはちょっと違うなと思って、
むしろ冒頭においてそれをどう受け止めてきたかをこそ描くべきなんじゃないかなって思うんですよ。
確かに。
要はその事件に対して、それは僕らがやってきたことの振り返りでもあるし、
あるいは犯人が、結構僕この事件、渡辺一文さんというノンフィクションライターの方が上松死刑囚のことを長年取材してきていて、
あの犯罪を犯した後にですけど、
彼がどういうふうなものだったのかってことを6年間ぐらいかけて取材してるっていう取材結果みたいなのをちょっと聞いたことがあったんですけど、
やっぱり彼自身のパーソナリティがめちゃくちゃ複雑だっていうことを言っていて、
その複雑なパーソナリティの中で浮かび上がってくるものもあるし、
彼の中での変化もあるっていう話があったんですね。
自分自身が死刑囚っていう形になって生産性がない状態になったけど息繋がれてる状態はどうなんだっていうところとか、
彼自身の中で模索したりっていうのもいろいろ伺ったって話もあって、
事件っていうものを起こるまでっていうのはある意味全員がコーチと言ってもいいわけで、
そこをわざわざもう一度掘り返すんじゃなく、
その後それをどう受け止めたかをこそ多分描いてみるべきだし、
それがフィクションにできることだと思うんですよ。
2階堂ふみのキャラクターが感じていたような、
自分に才能がない、だから自分の存在価値を見出せないっていうところが、
だから他者に対しても価値がないと思ってしまうみたいな繋ぎ方だったら、
もうちょっと違う視点が持てたかなと思うんですけどね。
だから、でもそんなことはないから自分自身の、
もう私価値とかいう言葉嫌いなんですけど人間に対して、
それが間違ってるよっていうベースのところをそっちを問い直すべきだと思いますし、
こういう問題において障害者がどうだっていう、障害者の側じゃなくて、
それこそ事件を起こした側、そっちの方を掘り下げるべきだし、
そういう人たちを我々の社会はどうしていったらいいのかってことこそ議論すべきと思うんですね。
実際上松悟がさっきもおっしゃってましたけど、
本当に結構ちっちゃい時から色々問題になるような行動もあったっていうようなことから、
どんどんちょっとおかしくなっていったっていう部分、
でも反面社会に溶け込んでいた部分もあるっていうような、
そういう人たちに対して社会はどうやって向き合っていったり、
どうやってそれを未然に防ぐかっていうところを、
視点を追わせるところがちょっと逆かなっていうのはすごいもの。
あとなんか僕もパンフレット読んでたんですけど、
そもそも原作ってなんか結構不思議な作りの小説なんだなっていうのを結構書いてたんですけど、
キーちゃんって出てくるじゃないですか。
彼女視点で物語が進むらしいんですよ、どうやら。
それを聞いて、それを映画にするのは確かに難しいと思うので、
キーちゃんではなく別の第三者みたいな、それを宮沢理恵に置いてるわけですけど、
そうしないと確かに映画にするのは難しいと思う反面、
そこまでお膳立てしないとなんかダメかみたいなというか、
自分と同じ年の同じ誕生日でみたいなとかっていう、
そこまでのお膳立てをしないと他者に想像力が働かないみたいな話にならないのかなっていうのもちょっとなんだかなっていう思いがちょっとあって。
逃げてますよね、証言を。
それ結構僕、原作がその思考だみたいな感じの言い方はしないんですけど、
ただ原作が多分できていたアンチテーゼを逆に裏切ってるなと思ったんですよ。
原作のアンチテーゼって多分何かって言ったら、
湯松が言っていた心がないっていうことに対するアンチテーゼだと思うんですよ。
彼女の視点で語るって。
いや、心はあるでしょっていうことだと思うんですよ。
それはある種小説っていう武器があるからできることだと思うんですけど、
結局本作そこに何ていうか、それをまた奪ってるような気がして。
その小説をベースにする意味があんまりない。
そうそう、まさに。
それは小説の要素自体をかなり一番大切な要素をなくしてるんじゃないのって思って、
僕はそこに若干怒りすら感じるんですけど。
いや、そうなんですよ。
僕、映画の方で、小説の方はその作りだったらもうなるほどと思うんですけど、
映画の方でキーちゃん視点のカメラが挟まるのがすっごい欺瞞的だなと思って。
物語の全体の進行上は彼女の意識の存在とかって全然、声は出してましたけど、
彼女の心の存在って描かれないけど、
あそこでカメラがあることで、彼女は見えてるんだよっていう、
彼女には心があるんだよっていうのがカメラによって描かれるんですけど、
視点があるから心があるっていうことになってるのが僕すごい嫌だったんですよ。
だから、本当は見えてるかもしれないよっていう話になるんですけど、
で、実際キーちゃん視点のカメラがあるから実際見えてます。
宮田リエの陽子の言ってることがあってましたとかじゃなくって、
見えてなくても彼女の存在は認められないとダメなんですよ。
そこで、あのカメラの視点が答え合わせのように挟まることで、
どっちの言ってることの方が正しいみたいな論点がそこにずれてるような感じがして、
すごい嫌だったんですよね。
光が見えてようが見えてないが、あの人はキーちゃんは尊重されるべきなんですよ。
あともう一個嫌だったのが、佐藤くんの彼女、耳が聞こえないんですけど、
彼女視点になった時に音消されるじゃないですか。
あの演出めちゃくちゃ嫌いで、
その前に耳が聞こえなくても音のある世界で生きてるんだみたいな話をしてたんですけど、
明確に生きてる世界が違うっていうのを分けられてたんですよ、あそこで。
そこまで説明せんとダメかと思って、
なんか逆に失礼じゃんって、
ちょっとあの彼女視点になった時に音が聞こえなくなる演出、
ちょっと僕、切れましたね、正直。
ふざけんなと思って。
なんかめっちゃ嫌でした、あれは。
なんか全体的にその、
被害者になってしまう障害者の方々もそうなんですけど、
そこまわりの描写がある種一面的なんですよね、全体的に。
だし結構それがステレオタイプになっていて、
多分その原作が言いたかったのってそこじゃないというか、
そこじゃなくて、
ステレオタイプに見えてるものは多分違うぞっていうことをごと言いたかったはずなのに、
しかも多分おそらくその実際に障害を持たれている方々を、
映画の中でキャストとして取り入れてるっていうところも含めて、
それをやる意味が果たしてあるのかっていう、
逆にステレオタイプをこの映画は助長してませんか?
まさにそれが植松四景集本人の主張そのものだと思うんですけど、
だからなんか全体的に、
結局植松の言いたいことをスピーカー付けて拡張してるだけにも見えるぞっていう。
いやー、そうなんですね。
なんかそこのインパクト、全体よりしてますよね。
そう、そうなんですよ。
その言葉の強さというか、
うってなるような彼の発言のインパクトというか、
その強さだけしかないような感じがすごいするというか。
そうですね、だからなんかすごい挑発という意味では、
うまくいってると思うんですよね、そういう意味では。
我々になんかこう、挑発をしかけてくると。
なんで挑発すんの?
っていう感じに近いと思うんですよ、わざとというか、
だと思っていて。
だからまあ確かに、
やっぱり佐藤くんと主人公の陽子が対面して喋ってるところって、
確かにちょっとこう、なんというか、
ちゃんと僕も論理立ててそこで言い返せるような人でもないだろうな、
ああいう場にいたらって思ったりもしたし、
あそこで何も言い返せなくて何とも言えないものになったり、
そうだなーっていうのとか思ったりもしたんですけど、
まあでもあの挑発、受け取る必要別にないしなっていう。
いやそうなんです、あれはトラップなんですよ。
あそこで議論に乗る必要はないんです、我々は。
全くないんですよね、そうそう。
社会がそのそこの議論に今更乗って、
考え直す必要はなくて、
もうそれ間違ってるしっていうこと決まってるのでっていう。
それを考えることによってどういう結果とか、
どういう未来にしていきたいかっていうことが大事なわけじゃないですか。
うんうん。
そのそこのゴールをちゃんと明確にしてから考えないと、
おかしいことになります、すべてが。
そうだし、あとあの挑発を受けてめっちゃ考え込んでしまうっていう、
まあ僕らとかもとうとうなんですけど、
そういう人ってもうめっちゃ考えた果てにもうそれ違うって思ってるので、
うんうん。
で、ある種それは、ある種の多分もう、
時代がもうちょっと進めばきっと、
ある種の心理的な病として多分名前がつくようなものだと思うんですよ、おそらく。
うんうん。
そう、そうですね。
で、そこがおそらく人事じゃないってところだと思うんです、本来の。
うんうんうん。
ただ、今作、そこが完全にオミットされている。
うん。
なんで社会というものが完全にオミットされていて、
要はあの施設が社会から切り離されてるってことを描きたい、
要はそういうアサイラム的な場所だってことを描きたいことはわかるんですけど、
だからといって全ての人を社会からオミットして単純化してわかりやすくするのは、
それはあの事件そのものを単純化してわかりやすくしようとしているようにも見えるし。
うんうんうん。
そう、だから途中で精神病院に1回入るじゃないですか。
はい。
で、実際の事件の時もほんと同じ流れで入ってるんですけど、
そこで、そこでというか結局兆候があったわけじゃないですか、彼には。
うんうんうん。
で、周囲の人間が明らかにおかしいこいつはって思っていて病院まで行ったにもかかわらず、
そこで何もできなかったっていうことがすごい問題だと思うんですね。
そうですね。
問題というか、そこにちょっと絶望するべきだというか、
うんうんうん。
今の社会ではそれをそこに気づいても止めるすべがないんだっていうところが、
一番怖いところかなっていうのはありますよね。
うんうん。
その陰謀論って話さっきあって、
上松さと氏自身がちょっとその欲関係者と関係があったりとかっていう話もあって、
僕、生産性って言葉って陰謀論だなって思ったんですよ、今回。
うんうんうんうん。
生産性っていうものが意味がある、価値があるっていうのに乗って、
それをすべての基準にして行動していくって、
もうそれ陰謀論やと思うんですよ。
うんうんうん。
そんな世界ってシンプルじゃないよねっていうことをシンプルにして判断するっていうのが、
うん。
もうそのものだなと思って、でも好きじゃないですか、みんな。
生産性っていう言葉。
まあ、資本主義というか経済の論理だけで言うならそうですからね、合理性というか。
うん。
うん、そうですね。
それはそうなんですけど、ただ、前ここでも話しましたけど、
陰謀論は科学を使うんですよね。
うんうん。
自分たちの正当性に科学的であるっていうことを使うっていう、
それは資本主義の原理がそうだからっていう理屈を使うっていうのが、
もうお前らほんと楽するよねって思っちゃうんですよね、僕は。
あるいは、あれですよね、優生論もダーウィンがそういったわけじゃないんですけど、
社会的なダーウィンリズムっていうので、ある意味科学の思想を使ってるって使ってるわけですよね。
あと、統計も好きですよね。
何も関係もない数値のデータが似てるとか言い出したりとかよくするようなっていうのがありますけど。
うん。
その、生産性っていうのは、仕事するときの何というか、
無駄減らそうねとかっていう仕事のときだけ言わないといけなくて、
社会に持ち出したら良くないですよ、絶対に。
いや、ちょっとこれ掘り下げると、ちょっと僕の論の甘さが出てきそうやからね。
じゃあ、若干補足する形でですけど、
僕のほうで、別にやってるラジオのほうでもちょっと紹介したことがある本で、
遠端加藤さんって方が書かれてる、
いるのが辛いよっていうケアという場所についての覚え書きという本があって、
この中で結構後半のほうで書かれてるのは、まさにこの事件に繋がるようなケアっていうものの難しさなんですけど、
遠端さんはこの本の中で、一回それこそお話をイニシェリン島の整理のときにちょっと軽くしたんですけど、
ケアとセラピーというものが一応その業界には別の言葉として分けられていて、
セラピーというのは何かを改善、社会復帰とかっていう方向に向けてしていくものであって、
ある意味上に進んでいくというか、ある種生産性みたいなものは求められるものであると。
なのである意味治療であるというふうに言われるんですけど、
一方でケアっていうのはそうじゃないんだっていうふうに書かれてるんですね。
ケアっていうのは基本的に日常のルーティーンを回していく、そこに入れるようになるっていうような状態を示すんだっていうふうに書かれるんですよ。
ただこのタイトルいるのは辛いよって書かれてる通りで、後半そのケアっていうものが含んでるその闇というか難しいところってのもこの遠端さんが書かれてるんですね。
それは何かっていうと、まさにさっき言った経済の論理が出てくる社会からの要請が降りてくることだというふうに書かれてるんですよ。
会計の声って遠畑さんは言われてますけど、
要はそれをやってる意味があるの?だったりとか。
それをやってどのぐらい人が社会に復帰したの?みたいなところ。
実はそれはケアというものの本質とは関係のないもの。
それはセラピー的なものなんだから、実は切り分けられてるはずのものなんですよね。
ただそれが社会側からすると、あるいは実際山寄り園でもそうなんですけど、
行政側からすると結構そういう視点でしか見られないっていうのはケア施設の割と問題だったりするんですよ。
で、ケアラーとしてずっといるっていうのはある種支援者と助け助け合うみたいな関係性になっていくもののはずなんだけど、
そうなった瞬間にアジール、まあこれ居場所って意味ですけど、入れる場所のアジールっていうのはアサイラムに変わるんだっていうふうに書くんですね。
で、このアサイラムって実はアジールとアサイラムって語源が全く同じなんですよ。
もともとドイツ語のアジールを英語化したのがアサイラムなんですよ。
だから実は表裏一体のものなんだっていうふうにこの本の中では書かれていて、
で、まさにその極北にあるのが山寄り園の事件だというふうにこの本の中で綴られてるんです。
そうですね。山寄り園自体も2005年ぐらいに権威から民営化して指定管理になってたっていう、
より経済の原理っていうのが場所としても取り込まざるを得なくなってたっていう、
それは入所者の待遇もそうでしょうし、職員の疲弊っていうのも間違いなくあったとは思うんです。
どうしても数値の原理、経済の原理、それは生産性っていう言葉に紐を付いていくものが入ってきてしまうっていうのはどうしてもあるとは思うんですけどね。
だからたぶん本来議論するときはそこをどう切り分けるか、
あるいは切り分けたとしてどうケアの施設っていうものを社会的な位置づけをどうするかってことだと思うんですね。
それこそ本当に生産性とか、ある意味成果主義とかにも関わってくると思うんですけど、
それって明日の少女とかにも関わってくる話だと思うんですけど、
ケアの話とはずれますけど、そういったものの犠牲者っていうのが、
やっぱりあまりにもそれに虐げられて苦しい思いをしているみたいなことが多いなっていうのを改めて思いますよね。
明日の少女も性分的な矛盾が個人に降りかかるっていう話でしたからね。
ちょっと1回話の中身に戻ってみたいんですけど、
佐藤君の彼女って耳が聞こえないっていう方として出てきて、
すごい明確な意図を持って置かれている役だと思うんです。
佐藤君が入所者を殺した線引きって、
あなた心がありますかって聞いて返せなかったら殺すっていうロジックだったじゃないですか。
じゃあそれあなた彼女にそれしたら殺すことになりますよねっていう、
もちろん別のコミュニケーションを取れるからそうはならないんだけれども、
単にその線引きだけだったら彼女を殺すことになりますよねっていうのは、
ものすごく意図的に入れられてるなっていうのがあって、
実際に彼が私立に忍び込んで部屋に入って呼びかけようとしてるところで、
次のカットで彼女がベッドで寝てる絵になったりとかっていうのは、
かなり意図的にされてたので、
そこでいかに彼のロジックが歪んでいるか、
そもそも理屈が通ってないっていうことは言われているっていうのがあって、
夫の尾田桐町と二人で喋ってるときに、
お二人のお子さんが死んで、
あいつらが生きてるのなんておかしいですねみたいな言ったときに、
うちの子供も喋れなかったよみたいなのを後から言われて、
彼は返さないんですよね、それに対して。
だから身打ちっていう線は引いてるんです、やっぱり。
彼のロジックの都合の良さみたいなことは、
ようこつには描かれてて、
彼がそもそも間違ってるっていうのは、
言われてるとは思うんですけど、