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今日のテーマトークは、『怪物』です。 じゃあ、大石さん解説お願いできますか。
はい、映画.comより拝借いたします。 『万匹家族』でカンの国際映画祭パルムドールを受賞した小枝裕和監督が、
映画『花束みたいな恋をした』や、テレビドラマ『大豆田とはこと三人の元夫』などで人気の脚本家坂本裕二によるオリジナル脚本で描くヒューマンドラマ。
音楽は、ラストエンペラーで日本初のアカデミー作曲賞を受賞し、2023年3月に他界した作曲家坂本裕一が手掛けた。
大きな湖のある郊外の街、息子を愛するシングルマザー、生徒思いの学校教師、そして無邪気な子供たちが平穏な日常を送っている。
そんなある日、学校で喧嘩が起こる。 それはよくある子供同士の喧嘩のように見えたが、
当人たちの主張は食い違い、それが次第に社会やメディアをも巻き込んだ大事例と発展していく。
そしてある嵐の朝、子供たちは忽然と姿を消してしまう。
怪物とは何か、登場人物それぞれの視点を通した怪物探しの果てに訪れる結末を小枝裕一、坂本裕二、坂本裕一という日本を代表するクリエイターのコラボレーションで描く。
中心となる2人の少年を演じる黒川壮也とヒーラギ・ヨータのほか、安藤桜、長山英太、高畑美月、
角田昭弘、中村志郎、田中裕子ら豪華実力家キャストが揃った。
2023年第76回関の国際映画祭コンペティション部門に出品され脚本賞を受賞。
またLGBTQやクイアを扱った映画を大賞に贈られるクイアパルム賞も受賞している。
それでは内容に触れる話をしていきたいと思いますので、ネタバレ気にされる方がいらっしゃったらぜひ見てから聞いていただけたらと思います。
では沢居の感想を参りなさい。いかがでしたか?
なんか私、沢居の感想いつもムズイなって思ってるんですけど、
なんか一言でちょっと感想を言うのがちょっと難しい作品だなと思ったんですけど、
すごく良かったです。
なんか本当に色々あるんですけど、
まずあの子役のお二人がめちゃくちゃ良くて、
なんか人間ってなんて言うんだろう、
完成された状態から不完全なものになっていくんじゃないかなとすら思いました。
大人になるっていうことが完全なものに近づいていくことじゃなくて、
逆にどんどん不完全になっていくっていうことが大人になるってことなのかなって感じるような。
良いこと言いますね。
はい、沢。
はい、じゃあマリアンさんいかがでしたか?
そうですね。
なんか確かに本当に感想に困るなっていう重たい映画ではあったんですけど、
なんか印象としてはなんかとっても意地悪で残酷な映画のようにも見えたなっていう感じはしましたかね。
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3幕構成でいろんな視点で一つの事柄を描いた映画ではありますけど、
なんかそのいろんなところになんかそっとなんか悪意というかみたいなのがちょろっと入ってたりとかしてて、
なんかそれがすごく辛いんだけど、でもそれはもうもはやなんか当たり前のものみたいな感じになってて、
なんかもうそれが社会全体で許容されてるし、もう誰もそんなこと疑問を持ってないよねみたいな状況だなっていうふうにもちょっと思って、
なんか本当にありのままの社会を描いたらまあそういうふうに見えるみたいな感じの映画で、
まあちょっとなかなか辛かったですね。
ちょっと最後もなんて捉えたらいいんだろうっていうふうに悶々としてしまうような、そんな映画でしたかね。
はい。
はい。
小池さんいかがでしたか?
前回少しこの映画いいんじゃないかって紹介させていただいてはいるんですけど、
まあ確かに感想を一言で言うとめちゃくちゃ難しくて、
なんていうんだろうな、
その、自分がマジョリティ側にいるんだってことを嫌というほど見せつけられた映画だなと思っていて、
そうですね、結構今年自分が映画を見ててテーマ性として共通してるかなって思うのが、
なんか無自覚な加害性を自覚するっていうところかなって思っていて、
で、本作は自分はそういう視点でずっと見てました。
で、なんかやっぱ日常の中でそういうところが自分にないかって言われたらあるし、
多分それを排除することはきっと完璧にはできないんですけど、
それでもなんかなんとかそうじゃない方向に行けないかなっていうのをずっと考えさせられたというか、
いつも考えてるのはそれよりこう深く掘らせられた映画だなっていう感じはしましたね。
はい、僕はですね、
僕も皆さんと同じ感じに思ってしまったんですけど、
この映画を要約したくないなと思ってて、
なので詳しくは後で話を膨らむ中で掘り下げて喋りたいなっていうのがあるんですけど、
なので、まあ掘り下げない部分ですげえなと思ったところは、
これだ広和監督の子役ふっくりアップ力すげえなっていうのを本当に思って、
うん、そうですね。
よくもまあこんな二人を見つけてきたなっていうのを本当に感心させられるというか、
すげえなって思いました。
ちょっとその、あの二人に何か純粋なものを寄せ集めすぎではって思わんでもなかったんですけど、
なんかそれ以外をなんていうか濁ったものにしすぎなのではっていう風には思ったとこはあるっちゃありますっていう感じですかね。
で、今回お便り結構たくさんいただいてます。
なのでお便りから結構話広がるんじゃないかなっていう気もしてるので、
まあ広がるときは広がるって感じで掘り上げていけたらなと思うんですけども、
では前田さん、1つ目お願いできますか。
はい、えっとユネ・クボさん。
店長メンバーさんこんにちは。
いつも毎週楽しみにポッドキャストを聞かせていただいています。
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テーマトークである怪物についての感想を送らせていただきます。
まずはじめに私はクイア当事者です。
この映画について話す上で、自分がクイアであることを切り離して話すことができず、
とても当事者性の高い感想になってしまうことをご了承いただければ幸いです。
また私はクイア当事者ですが、当事者代表ではなくあくまで1人のクイアの感想として受け取っていただけたらと思います。
自身が当事者故に穿った見方をしているかもしれないという自覚はあり、
ポッドキャストを通していろんな目線で改めて映画について考えたいと思います。
また映画で描かれたことが現実と実続きであるため、どうしても映画の中と外の話が混在してしまいますが、その点もご了承ください。
まず制作側は、この映画をLGBTに特化した映画ではない、誰しもが経験する普遍的な葛藤とおっしゃっていますが、
私はあえてこの映画をクイア映画と言いたいと思います。
3部構成が複雑に絡み合ったねじれのある物語だったので、多面的に作品を見るためにも主題をそこにしてほしくない気持ちもよくわかります。
ただ子供のクイアネスについて、そしてクイアネスの周辺にある抑圧を明確に描いていたと思います。
辞任に至るまでの揺らぎを描く上で、あえてクイアネスについて明言することを避けたのも想像できます。
11歳で自身を辞任することはできないだろうと思う方もいるかもしれません。
私が性自認や性的指向を明確に自覚したのも小学生だったこともあり、個人差はありますが決して早いとは思いません。
そして当事者の私としては、揺らぎを経て自身のセクシャリティを確立している当事者が全員とは言いませんが、多くいることを実感しています。
制作者側が誰でも経験する普遍的な葛藤と表現した揺らぎは、性的少数者にとっては馴染み深いものだというのも確かです。
だからこそ、映画のクイアネスについては明言してほしかったという気持ちがあります。
また、映画で描かれた有害な男性性による男らしさの押し付けや、異性愛規範を基本とした普通の家族像を日常的にマイクロアグレッションされている状況が描かれていました。
この国で揺らぎを抱える当事者は、近しい存在を探すことすらできず、自分がおかしいんだと自身の揺らぎを辞任するどころか否定的に受け取ってしまう現実があることは確かだと思います。
この映画は、この今の世界を批判的な目で見て真摯に作られているとは思います。
特に、テレビ画面の中に出てくるミス・トシオの存在は、あれこそまさにメディアが作るパテオッタ協賞そのものだで、ゲイフォビアがどうやって社会にはびこっていくかを真正面から描いていました。
日本映画の中では、けゆな描き方でした。
この映画はとても美しいです。
特にラストシーンは坂本隆一の完璧なスコアとともに、光の中へ走り出す少年たちはとても美しく映ります。
私はあのラストをハッピーエンドと捉えていません。
もっと言えば、死の暗雄と捉え、結局クイアは現実に生きる場所はないのかと絶望すらしてしまいました。
あのラストを希望と捉える人も多いと思いますが、ここからはあのラストを悲劇と捉えて話を進めます。
希望と捉えた方々の感想を否定したい気持ちはありません。
あのラストは大人として社会に対しての責任を問われていると感じます。
シナリオ本では、ある種挑発的とも言える問いかけがありました。
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その子たちが何の横厚もなく安心して生きる場を奪ったのは紛れもなく大人と社会です。
映画の中であの子供たちを取り巻く抑圧は何も解決していません。
それは映画の中も外も同じです。
映画の中でこの白線を出たら地獄ねというセリフがありました。
たとえ誰かが決めた白線をはみ出したとしても地獄なんかじゃない。
大人と社会が子供の未来を地獄なんかにしちゃいけない。
どうかこの美しい映画を美しい映画で終わらせないでほしい。
隣にいるかもしれない透明化されているクイアの存在に思いを馳せてみてほしい。
同事者としてはどうしてもこんな気持ちになってしまいます。
子供たちと未来のために私たちはどう社会にアクションを取っていけるのか。
考え続けたいとこの映画を通して思いました。
ご時事があったらすみません。
長文乱文失礼いたしました。
読んでくださってありがとうございます。
はい米久保さんありがとうございます。
ありがとうございます。
あの当事者の方からお便りいただけるって本当に嬉しくて、
まあそれは我々が多分当事者じゃないと思うんですこの4人。
いわゆるクイアの当事者ではないのかなとは思うんですけども、
そこで欠けている視点みたいなのを埋めていただけるっていう意味でもありがたいですし、
我々が語る番組にお便りいただけているってこと自体がとても嬉しいことだなと思います。
あとあくまで当事者に偏りすぎた語りになってしまうかもしれないっておっしゃられてたんですけど、
当事者としての視点って絶対いるとは思うんですよ。
いやそんな当事者に偏った視点で見てもしょうがないでしょっていう意見もあるかもしれないんですけど、
当事者としての意見がないと絶対にダメなタイプの映画だと思うんですよね。
だしご自身が当事者代表というわけでもないっていうのも言及していただいているので、
本当にすごいしっかりした視点で感想いただけているなっていうところが本当に嬉しいなと思ってます。
すごい熱量あるお互いの寝床を拾おうかなっていうのがちょっとムズいところなんですけど、
悔やんに特化した映画ではないっていう風になっている部分なんですけど、
そこ僕もちょっと引っかかっている部分としてあって、
なんていうかみんなが感情移入できるような映画にするために、
普遍性を持たせようとしている感じっていうのは僕はちょっと引っかかってるんですよね。
だから子供時代の誰しもにあった痛みとして回収できてしまうっていうところで、
まるごと収まるっていう、感情移入できるから感動できるしいい映画って思ってしまうのって結構危険だなって思ってて、
絶対に自分じゃない他者を描いた話であってはいけないのかなっていうのは思うところとしてあるんですよね。
それ多分結構お説教くさい映画になりがちだと思うんですよね。それを明確にすると。
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それを避けたっていうのがもしかしたら意図としてあるのかなとは思ったんですけれども、
ただそこで名言しないことでちょっと踏み込みが甘くなっている部分はあるなとは思いました。
その辺りどう思われます?
難しいですね。
特化した映画っていうのはどういう映画かっていうのもよくわからないんですけど、確実にテーマの中心にはあるというふうに捉えていて、
二人の関係性、ゆらぎっていうところを、名前すぐ忘れちゃうんですけど、
みなととゆりと星川くん。
下の名前何でしたっけ?
ゆりか。
星川くんがちょっとその低い方ですよね。
星川くんは確実に当事者として描かれていたと思うので、
私ちょっと事前にクリアパルム賞を受賞したっていうニュースと、
監督がそれに対してこれは特化した映画じゃないですよってコメントをネットの記事で読んでしまって、
事前にそういう知識が入ってしまったっていうのもあるんですけど、
ただそれを差し入っても、そこが10代の子供の誰しもに訪れるものっていう、
ぼやかし方ではなかったなと思っていて、
確実にそこに対して明言するような設定があったと思っているので、
ユニクロさんのおっしゃってる通り、三部構成になってるっていうところで、
子供パートじゃなくて大人のパートに関してはまた違うテーマ性があるのかなと思うんですけど、
この作品の主題に関しては私はそこはすごい感じますけどね。
うんうん、なるほどね。
ここはそうですね、特化したというか、
テーマとしては絶対LGBTQの話ではあるっていうのは確かで、
それをちょっと引っかかりがちなのは、
やっぱりそれをある種の物語のフックというかネタバレの要素として使っているというか、
宣伝はもうそうせざるを得ないみたいな感じでやっちゃってる部分とかが、
まあちょっと引っかかりもするよねっていう部分は、
ちょっとあるかなっていうのはあるんですけど、
やっぱ僕もクイアパルムを撮ったっていうニュースとかを知った上で、
やっぱこれを見てるので、
この物語が持っているなんかちょっと嫌な部分というか残酷な部分みたいなのとかが、
余計に見えるのかなという気もするし、
何も知らないでこれを見たときにこれに対して、
え、これ何が悪いの?って思う人とかってもしかしているのかなって思うと、
それもまたちょっと安穏たる気持ちにもなったりしそうだなっていうふうに思ったりもして、
ちょっとあまり僕もまとまってはいないんですけど、
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ただ本当になんか、
お母さんのパートと担任のパートの、
なんかもう本当にあのパート本当にありふれた日常でしかないなっていうふうにはちょっと本当に思ってしまって、
なんかその辺が本当になんか、
で、やっぱ宣伝側もまずその域で止まっている感じが同時にするというか、
映画と地続きのリアルもそうだなっていうふうになって、
余計に気持ちが辛くなりそうだなっていうふうには思いましたね。
さっき山口さんが踏み込めてないって表現をされてたと思うんですけど、
結局映画の構造自体が、
まさくまれさんおっしゃってたようにフックとしてそこをネタバレ要素にしちゃっているのは、
多分宣伝側が怖くてそこに踏み込めなかったのかなっていう感じがすごいなんかしてしまって、
なんかその大人たちの怖がりがこの世界作ってるんじゃんっていうのも、
若干僕は感じたりもして、
なんだろうな、この映画自体は映画そのものを最後まで見れば、
そのこのことが主題だってことがわかるようには作られてはいると思うんですけど、
この映画を見ようとする人たちに届くんだろうかというか、
そのことを問題意識持ってる人に果たして正確に届けるような伝え方をしてるんだろうかっていうのはすごい疑問に思ってしまって、
もちろんそうじゃない人たちにこそ届くから意味があるっていうのもわかるんですけど、
でもなんかなんだろうな、正しく届けられてる気もちょっとしないというか、
そこはなんかちょっとねじれてるなーって感じは僕もしてます。
そうですね、これら監督の作品って結構重めの社会問題をエンタメでパッケージするのうめえなっていうふうに思ってるんですけど、
その両輪を合わせ持つことで実現できてることと、
それをすることでこぼれ落ちてるもの常にあるよなって思いながら見てて、
僕が監督の作品見てる範囲だと、例えばそして父になるとか、満適家族とかなんですけど、
やっぱりこのテーマに対してこぼれ落ちてるもの、しかも結構でっかい部分こぼれ落ちてるぞって思う部分はあるんですよね。
それはどう良し悪しとるかなんですけど、
僕的には引っかかる部分もありつつ、作家のスタンスとしてありかなと思ってはいるんですけど、
まあ難しいとこですね、それは。
やりたいこととかもわかるだけにちょっとねっていうところがやっぱどうしても発生する作家ですよね、やっぱり。
ちゃんと届けたい気持ちもわかるし、ちゃんとそこをテーマとして描きたいとか、
もっとこうあってほしいみたいな気持ちとかもすごくわかるんだけど、
それがちゃんと伝え方って難しいなっていうふうにはやっぱどうしてもなってしまうっていうことにはなるんですよね、やっぱね。
本作、ミスと塩の存在がめちゃめちゃキーだなぁと思ってて、
いわゆるメディアの中で見かけるクエアな存在って、テレビのお姉キャラであるとか、そういう人にあたると思うんですけど、
18:02
あの人たちって大抵の場合、いわゆるドラッグクイーンの文脈の中で登場してきているっていうのがあって、
それに対して、ちゃんとそういう人たちをメディアで取り上げてるじゃないかっていう意見もあると思うんですけど、
逆に言うと、その文脈でしか取り上げてないっていう問題があって、
だからこそ、茶化すものにしか一般の人たちには捉えられてないっていう部分があるとは思うんですよね。
それ、他の作品で言うと、例えばクレヨンしんちゃんって昔、オカマキャラってよく出てたと思うんですよ。
最近あまり出なくなったっていう、これしんちゃん見てるわけじゃないから、僕自身が確証もって言ってるわけじゃないんですけど、
出なくなったっていうのはよく言われてて、面白いからいいじゃないかみたいな意見もあるとは思うんですけど、
クレヨンしんちゃんにオカマキャラが出るのって、子供がいわゆるクレヨンしんちゃんっていう最悪の悪ガキがそれをコケにするために登場するわけですよね。
いじるための存在なんですよ。
それは別に、クレヨンしんちゃんはどんな大人でもいじるっちゃいじるんですけど、
ただ一つの表彰としてしか登場できないっていうことで、彼らはそのセクシャリティをいじられるんですよね。
他の大人は別に男であることとか女であることをいじられるわけじゃないけど、
オカマキャラはオカマであることをいじられるっていうのは結構大問題だとは思ってて、
だってそれを引き継ぐのは子供なわけですよ。
子供はそれをいじめに活用するので、それが本作に見事に似合わされてるなっていう。
だってテレビで出てるじゃんっていう。
ミスト集がテレビで出てるんだから、お前もじゃあオカマなのかみたいなふうな転用を絶やすくできるっていう。
これは表現の自由で簡単に共有してはいいものではないと思います。
特に子供向けではねっていうふうに僕は思ってますかね。
また番組がドッキリ番組っていうのがまた余計に、
ドッキリでやってることをそのまま遊びでやるみたいな、それっていじめですよねみたいなこと。
やっぱり境目がわからないままやってしまうみたいなことって往々にしてあるなっていう。
そこも指してきてる描写で、これすごいなっていうふうに、
これにちゃんとフジテレビはお金出してるんだなみたいなふうに思いながら。
それに対して母親がやらせだよっていうところとかね。
でも当人にとってはそうじゃないぞっていうのをしっかり言って、
あの会話とかも本当に短いんですけど、
おそらく坂本優次さんのセリフだ回しだなと思うんですけど、
すごく短い中に本質とられられてる感じがして、
いや苦しいなってなってましたね。
僕お母さんのキャラ造形本当に見事だなと思ってて、
良き母親ではあるんだけれども、
自分が認識できたないものに対する、
なんというか脇の甘さみたいなのがすごいんですよね、あの人。
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まず最初の家事を生やし立てるところとかに見事に表現されてると思うんですけども、
対岸の家事を楽しめる人っていう、
自分のことじゃないからっていう、
あれ見事だなと思って、
でも悪い人じゃないんですよ。
むしろ良い人なんですよ、母親として。
そこがね、むちゃくちゃきついんですよ。
なんでかって言ったら、そういう人が世の中の大半だからですよ。
身内には良き人だけども、
そのサークルから外れた途端に残酷になり得てしまう人っていうのが、
世の中の大半というか、
多分ほぼ全員そうだと思うんですよ、我々含めて。
なんかそれを見せつけられるんですよね。
いやお前対岸の家事楽しんでますよねって。
あんたもね、お前もなみたいなのがね、
それとかあるなって自分もって思っちゃうんですよね。
ちょい外れちゃうんですけど、
のろかよさん、めっちゃ良くなかったですか?
ままとも。
私のろかよめっちゃ好きなんですよ。
のろかよって出てきたと思って。
確かにそうなんですよね。
なんか難しいのが、
完璧な人間とか世界とかないじゃないですか。
で、あったとしてもそれをその通りに
全員が生きることはできないし、
私はその仮にそれができたとしても、
それはそれでなんかちょっと嫌だなって思ったりするとこもあるんですよね。
変な言い方をすると。
でもなんか最近すごい、
なんか世の中見てたら、
人間の不幸って半分ぐらいは、
人が人に興味を持ちすぎなんじゃないかなって思うことがあって。
なんやろ、もうちょっとほっといてくれてもいいのになって思うことすごくあって。
あー。
だからすごい理解をするっていうことと、
それが相反するのか成立するのかちょっとわかんないんだけど、
なんか人はもうちょっと人をほっとけないものなのかなって最近思ったりしますね。
どの問題に限らず。
そのことと人に親切にしたり、
相手に何かを求められた時に答えることって、
全然成立するとは思うんですけど。
そうですね。
いや面白いですね。
確かに無自覚な部分ってのはちょっと難しいですね。
どうしても無自覚な部分って誰でも発生するからなーみたいなのは思っちゃうんですけど。
確かに。
いやーもう無自覚、ほんとむずくて。
で、ちょっとこのテンションで話した回が、
ちょうどTAでつい最近あったと思うんですけど、
あの回もね、僕編集するのめちゃめちゃしんどかったんですよ。
僕自分が喋ったことを聞くのがむちゃくちゃしんどくて、
自分こんなこと喋ってたんやーみたいなのを見つめ直すのがめちゃめちゃしんどかったんですよ。
24:03
たぶん今までで一番編集しんどかったんですよね、今回。
あー。
それすごい恐ろしいことだなーと思って。
気づくということって怖いことなんですよ、ほんとに。
気づいてしまったら気づく前には絶対戻らないですからね、そこがね。
あと、ラストなんですけど、ラストどう解釈しました?
私ね、あのね、2人が死んだっていう発想がなくて、
2人が意識を失った状態の中で見てる夢って思ってたんですよ。
だからその死んだってまでは思ってなくて、だからなんか2人が目を覚ました時に、
無理なんですけど、2人にとっていい世界になってたらいいなーっていう感情。
なるほどね。
僕もちょっと近いかなっていうか、
僕は、あれ多分残酷な話だと思ってるので、死んでしまったよなっていうふうには思ってるんですけど、
ただ、最後のシーンは僕も願いのシーンだなと思ったんですけど、
そうあってほしい世界だろうなっていうのが最後に描かれたのかなっていうふうには思ってますかね。
なんか生まれ変わったの?みたいな。いや生まれ変わってないよみたいな話してるじゃないですか。
ちょっとしたやり取りでしたけど、別にそれが生まれ変わる生まれ変わらないじゃなくて、
生まれ変わらずともそういう世界になればいいじゃないかっていう願いはすごく込められてるのかなっていうふうには思ってて、
あのラストは、例えばフロリダプロジェクトとか、テルマ&ルイーズのラストとかでもいいと思うんですけど、
そういう願いというか、こうあってほしい世界の現れというか、
私たちはここにいるけど、まだ君たちはそこにいるのかいという感じですらあるっていうか、
いつまで1幕目2幕目みたいな世界でモモンとしているんだいみたいな、というふうな問いかけというか、願いかなっていうふうには思ってます。
僕もマリオンさんに近くて、僕は初めは、これは彼らは大人の理屈から離れた世界に行くんだなっていう前向きに捉えた、
ですね。ただ、このお便りを読んで、いやでもこれ普通に考えたら、死の犯行として捉える方が自然だなっていうふうに思えてしまうなと思って、
だって台風来て土砂崩れの中に巻き込まれてるって普通に考えたらまあそうなんですよね。
なんかそれはまあそうだなって、そっちの方がなんか現実に近いなっていうふうに思えてしまうなとは思ってましたね。
全体的に3部目って少しこう世界系の匂いがする気が僕はしていて、その2人にとってこの世界は生きづらいからだったら世界が滅びればいいっていう
27:02
感じってすごく世界系、特に天気の子しかり、そういうものに通じる部分があるなぁと僕は思って見ていたんですけど、
そういった意味でラストは、もちろん死の表情っていう意味でも捉えられるし、森山さんみたいに映画的優しい嘘っていう捉え方もできるとは思いつつも、
世界系的に言うんだったら、なんかそうだな、世界側が彼らに答えたっていう形でもあるのかなという気もしていて、
まさに天気の子での雨が降る東京に世界が答えていく、2人の感情に世界が答えていくっていうのと同じように、
くと出していた世界が彼らに向けて開いた瞬間、もちろんそれが嘘なのか、あるいは現実そうじゃないでしょっていうのももちろんそうだと思いつつも、
ただなんか彼ら2人、物語の中での2人にとっては、なんだろうかな、その世界側からの回答なのかなっていうふうに自分は捉えてみてました。
真珠って世界系ですよね。うん、世界系ですね。真珠するということって世界系ですよね。
だから世界がほぐろびるのか、自分たちの側をリセットするのかって、意味がほぼイコールだなと僕はちょっと思ってて。
なんかあの、生まれ変わるっていう話をする中で、ちょっと私記憶力がなさすぎてうる覚えなんですけど、
生まれ変わったら何になるのかなみたいな話の中で、何も変わらないよっていうセリフがあったと思うんですけど、あってます?
ちょっとうる覚え。うる覚えですね。あった気がします。
なんか何も変わらないよって言った時に、良かったって言うんですよ。
私あのセリフすごい好きで、2人はある意味生まれ変わって何か違うものになりたいって思ってもおかしくないぐらい、現実が嫌だなっていう気持ちがあったと思うんですけど、
それでも何も変わらないっていう、だからお互いがお互いであるっていうこと、何かが変わってもっと違う、もっと良いことになることよりも、
変わらないこと、お互いが変わらないことが良いって肯定しているようなニュアンスを受けて、あのセリフがすごい好きで、だからこそ世界が変わらないといけないんだなって思いましたし、
だから生まれ変わるって話ずっとダラダラ話してて、すごい取り留めのない話で、すごい可愛らしくて面白いなって思いながら聞いたんですけど、最後のその良かったっていう一言がめちゃくちゃ刺さりました。
良いところを拾いますね。あとちょっとラストね、解釈の幅あると思うんですよ。良いエンドとも悲しいエンドとも取れると思うんですけど、
僕その解釈の余地があるエンドってちょっとずるいなって思うところがあって、なんか結論は出すべきなのではっていう気がしてるんですよ。
30:02
特にちょっとこうがあるあるじゃないですか、社会問題に対して。
何気にかけて終わる感じはね、両方問わずあるかなって思いますけど。
僕はエンディングの後の映画が終わってからの後に解釈の幅があるのってめちゃめちゃありやなと思ってるんです。
例えばね、ロッキーでね、ロッキーは最後の人生最高の瞬間を迎える詫びじゃないですか、俺は最後まで戦ったんだって言って、
でもあの後ロッキーってダネ野郎に戻っちゃう可能性って全然あると思うんですよ、ロッキー1の範囲だとね。
でもその余白って僕ありだと思うんですけど、例えば最後にね、ロッキーが生きているのか死んでいるのかわかんないみたいになると、
それは物語としてのパワーは強いと思うけど、ちょっとずるいなっていう。だってこっちに任せてるじゃんっていう。
特に社会問題を描いたものに関しては何らかの結論を出すべきなのではっていう。社会によって主人公たちが死んでしまうんだとしたらそう描くべきだし、
生きたんだったら、いやそれでも僕たちは生きていくんだっていう結論を見せて、それでも世界は変わんないかもねみたいな、その余白はあってもいいと思うんですけど、
結局エンディングの解釈に幅があると見てる側がダメージがないように解釈できちゃうなって思って。
社会問題に関しては見てる側を刺し殺すぐらいのつもりの結論を一旦は出してもいいんじゃないかなって気はするんです。
主人公たちが死んだんだったら、その主人公たちは殺したのはお前たちかもしれないですよっていうふうなふうに刺してもいいんじゃないかなって思うんですけど、
その逃げ道はあるじゃないですか。彼らは死んでないですって思えちゃうっていうのは。
そうですね、余地があるんじゃろうな。
頑張って僕は、あのラストに理想ある種の願いは、僕は受け取りましたけど、やっぱりそれを受け取らない人はいるだろうしなみたいなのを考えると、
確かにそこでちゃんとドンと出してくれるっていうことで、彼らのことをちゃんと描き切ったとも言えるっていうふうなのが、
やっぱりまだ少ない方にもすると思うので、まだね、もっとそれはやっていくべきだなっていうところは確かにありますね。
ちょっと次のお便り行きましょうか。 米久保さんありがとうございました。
ありがとうございました。
はい、じゃあマリオさん次のお便りいいですか。
はい、1Bさん。
はじめまして、1Bと申します。普段より映画の話ししたすぎるラジオを楽しませていただいています。
本作ですが、前半は様々なミスる色に引っかかり、そして少し複雑な気持ちになりつつも後半にそれぞれの描写の答え合わせがされ、
登場人物の印象が前後半でガラリと入れ替わる内容に非常に魅了されました。
家族、友人、社会、恋愛などの人間関係に振り回される登場人物たちに思いを馳せることのできる映画でした。
今回も店長メンバーの方々の感想考察楽しみにしています。長文乱文失礼いたしました。
33:02
1Bさんありがとうございました。
なんか最近こういう映画の話したばっかりだなっていう。
そうなんですよね。
この3幕構成の映画って、ラジオ的に言うんだったら最後の決闘裁判とかもあったじゃないですか。
そういうのとかもありましたけど、それともちょっと今回違う感じがするのは、
視点が変わるけど、意外と成功性が取れてるかどうかはあんまりよくわかんない感じがするというか。
そうなんですよ。
先生の印象って結構、最初にお母さんのパートを見た後に、先生の印象なんか良くないなみたいな感じで、
見た後に先生のパートをやるんですけど、あれ?あの時のやってた行動何やった?みたいなのは特に説明されないみたいなのとか結構あるじゃないですか。
校長室で謝るくだりとかの、あまりにもちょっとどうかと思う失礼な感じの途中で飴を舐め出すとかのくだりはあれ何やった?みたいなのとかが、結局語られ直すこととかは特にないみたいなのとか。
なんか結構不思議なところの疑問が結構残るような感じの作りになってるのは、意図的かな?みたいなふうに思いながら見てたんですけど。
一部目と二部目が違いすぎて、最後の決闘裁判とかは、ほとんど同じことをする中でちょっと違う部分があるぐらいだったんですけど、
全然違うじゃんっていうのが、片方の視点に立った時にこれぐらい見え方が違うっていうのを逸脱してるぐらいの違いに見えたので、ちょっと難しかったのと、
校長先生の捉え方が一番難しくて、あの人何なんだよっていうのが、すごい良いシーンもあったと思うんですけど、
ただあの先生、校長先生の逆の捉え方もちょっと私のときは難しかったです。
僕は本作の怪物がいるとしたら校長先生だなと思ってて、あくまで僕がそう見えたっていうだけなんですけど、
校長先生は学校の教師のことも保護者のこともどうでもいいと思ってて、生徒のことだけしか考えてないように見えたんですよ。
そのために学校を守りたいって思いがある。そのために保護者のことをないがしりにしようが、教師が犠牲になろうが、どっちでもいいと思ってそうだなって思って、
みなとと音楽室で接するときが、あまりにいい先生すぎて、それ以外の部分のあまりに欠落している感が、この人、人格がバラバラやぞって思ったんですよね。
いや、そうなんです。
保護者とか先生に対するところはまだいいんですけど、自分のお孫さんを引いてしまったみたいな話とか、あとスーパーで子供に足を引っ掛けてるみたいなところとかが、本当にどう捉えていいかわからなくて、難しかったです。
36:09
あれ、子供を隠すのめちゃめちゃ飲み込みづらいというか。
それはそうっすよね。
子供嫌いなのって思っちゃいますよね。
なんなんでしょうね。生徒は好きなんだけど、子供は嫌いなのかな。
逆に言うと、あの年になってもまだ子供なんでしょうね。おそらくってちょっと思っていて。
なるほど。校長先生自体が。
校長先生自体が。
自分の心の中のその純粋無垢、あるいは少しの凶暴性、子供的な凶暴性みたいなものを保っているからこそ、子供の気持ちはわかるときもあるし、
でも、だからこそ大人たちに求められる、大人としての振る舞いを求められるときには、そうは振る舞えないっていう人なのかなって気がして。
だから、本当に子供っぽいような対応をするじゃないですか。母親に対して。
子供がダダコネてるというか、不適切されてるときみたいな。
それはもう、彼女自身がそういう人だとしか言えないなあっていう。
この映画を見て終わった後だと、もちろん見てる最中はめちゃくちゃ腹が立つし、なんだよこいつってなるんですけど、
そこ自体を否定して、彼女はそこは押さないって言ったとしても、何も解決しない気がちょっとしてきて。
もうそういう人だなあっていうふうにしか僕は捉えられなかったですね、あの人。
だからこそ逆に、あの乖離性が人間、まあこれは言い過ぎなのかもしれないですけど、作劇としては上手くないと思いつつ、でもこういう人いるなあってちょっと思ったりもしました。
確かにね。平行性なんて取れてないですよね、人間。
まあね、これで校長先生の視点の話で見るみたいなシーンがあればまた別なんでしょうけど、一応ないじゃないですか。
あるっちゃあるけど、面会所のシーンとかは多分そういう部分はあるんですけど、
けど基本的にはやっぱり外の目から見た校長先生の話というか、見え方しか基本的には描かれてないから、
本当にあの人に関しては本当に外から見た印象でしか何も語れることがない人っていう意味では、
なんかまあこの映画らしいなっていう設定を作ってるんちゃ作ってるのかなというふうには思いましたね。
にしてはでもちょっと発言が怖いんだよ。
お前が学校を守るんだよって言ってる時の、なんて怖い言い方するんだって思いましたけど、びっくりしましたけどね。
校長の存在が一番この映画の味付け濃いとこがある。
田中裕子さんがね。
他は筋道立ってる気がするけど、校長だけはどうしても筋道立たんとこがあるなっていう感じは覚えますかね。
でも一番いいセリフ言ってましたよね。
しょうもないしょうもないですかとかもね。
そう、忘れたけど、誰、みんなが、誰、難しい。
39:01
あれですよね、なんかちょっと威厄ですけど、誰もが手に入られるものを幸せって言うからっていう話のやつですよね。
そう、あれね、めっちゃ幸せの基準として素敵って思いました。
あのセリフ、しんずいすぎてちょっと怖いな。
そういう人があの人っていうのは。
一番本当にわかんない人でしたね。
それやっぱり外から見てるからっていう、この映画のそのものだなって言ったんですけど。
はい、では1Bさんありがとうございました。
ありがとうございました。
はい、では次のお便り、大石さんお願いできますか。
はい、とききさんからいただきました。
船長メンバーの皆さんこんにちは。先日は東京開催お疲れ様です。
そして関東へに来てくださり本当にありがとうございました。
私も伺わせていただきましたが、皆さんに会えてとても嬉しかったし、あの空間が夢のようでした。
緊張と興奮でうまくお話ができなかったのが悔しいですが、
個人的にはタウルさんと30年代のミュージカルについて話せたのが最高でした。
また参加できる日を楽しみにしております。
さて今回のトークテーマ、怪物についてですが、やっぱり音楽が素晴らしかったですね。
私は旦那さんと見に行ったのですが、ラストの解釈が別れてびっくりでした。
私は彼らは現実世界ではなくなってしまったと思っていたのですが、
彼の最初の感想が誰も死ななくてよかったねだったのです。
ぜひ皆さんの解釈も聞かせてください。これからも心より応援しております。
はい、ありがとうございます。
ありがとうございます。
ラストの解釈は、これ映画を見慣れてれば見慣れてるほど、死のメタファーだなって思っちゃうと思うんですけど。
そういうもんなんですかね、やっぱり。
でも素直に見たら、彼ら生きてるってなるのがオーソドックスだと思うんですよ。
だって画面として生きてるんだから生きてるじゃんっていうのが、それはそうだわっていうのがあって、
ちょっとメタファーとか普段から言い過ぎてるから、ちょっとね、固釈になりがちっていうので、
生きてるって描いてるんだから生きてるよねっていうのは、それはそれでめちゃめちゃ正しい言い方だなと思って。
でもぱっくり別れる解釈をやっぱりしてるのが面白いですよね。
面白いですね。
あと音楽についてもね、ちょっと触れてましたけど、
音楽が、坂本隆一の音楽がどれも良すぎなんですがっていうのがちょっとびっくりしたんですけど、
今回の映画のために作られた曲っていうのは2曲しかないんですけど、実は。
元はなんか別の自分のスタジオアルバムからの引っ張ってきたものとかを使ってると思うんですけど、
それにしたとしても、この映画のために作られたようなテーマにしか思えないくらいぴったりハマってるので、
ちょっとびっくりしちゃいましたね。
美しすぎる。
ラストとか本当に旋律が美しすぎてちょっともう、
凶悪みたいなこという風な印象を受けるくらい、本当に美しかったですね。
42:04
はい、キキさんありがとうございました。
ありがとうございました。
はい、次のお便り、けんけんぴんぴんさん。
皆さんこんにちは。いつも楽しく拝聴しています。
僕が今作を見た感想は、20歳の若僧で教師でもなければもちろん子供もいない僕なのに、
どうしても今作での出来事を単人の手やフィクションのように受けていることはできず、
僕らが生きる現実世界から地続きの出来事のように感じました。
そのように感じた理由は、登場人物がお互いがお互いを切り取り、切り取られているからだと思います。
作中何回も行われていましたよね。
最もよく合わせたシーンが堀先生と女子生徒の会話だと思います。
星川くんの父親も、第一幕第二幕と暴力的な父親の面が切り取られていましたが、
第三幕の後半、暴風雨の中で倒れ込んでいましたが、
もしかしたら星川くんを探していたのかもしれませんし、
同じシーンで新聞配達所で大人に混じり作業していた赤い服の男の子は、
星川くんをいじめっ子の主反覚の男の子のようにも見えました。
僕らも日頃のコミュニケーションの中で彼らと同じように、
相手から切り取り、相手に切り取られを繰り返していて、
その度に傷ついたり悲しんだりしていますが、
そんな誰もが経験している普遍的なことが高いリアリティを持って描かれていたので、
他人ごとやフィクションのようには受け取ることができなかったのです。
ただ、ここまで書いておいて何なんですが、
この作品で最も重要だと思うのはこんなことではなく、
麦野くんと星川くんの関係性の変化を彼らが逃げざるを得なかった普通を求める現実世界の残酷さだと思います。
仲の良い友人からほんの一歩だけ踏み込んだ関係になっていく過程が美しくて、
それでいて儚いもののように感じました。
戦後を仕切っていたあの作は僕は普通かそうではないかを仕切る世界の作だと解釈しました。
だからラストで、嵐が去った後には戦後には作はなくなっていたのではないでしょうか。
彼が逃げることなく大声で愛を叫ぶことのできる世界をどうしたら作ることができるんだろうと今もずっと考えています。
最後に怪物は誰だったのかという疑問ですが、
僕は人間そのものが怪物だったのではないかと思います。
相変わらずのは読みにくくて気持ちの悪い長文指定しました。
映画の発車過ぎラジオを楽しみにしています。
はい、ありがとうございます。
ありがとうございます。
あの、たぶんなんですけど、
新聞配達のところに出てきた少年は、
あれは間違いなく主犯覚の男の子ですよね、と思ってたんですけど。
あれはそうですよね。
あれ、しれっとやるのはいいなと思いました。
むしろその方が残酷なんですよね。
家ではお手伝いするいい息子っていう方が、
この話は残酷なんですよね。
彼が悪人であるよりは。
100%悪い人なんてなかなかいないですもんね。
大体いいやつですからね、人間って。
よくあろうとしますよね、どうしたって。
あとは、港と星川君の関係なんですけど、
45:00
結構、終盤というか終盤ぐらいまで
友情に見えんこともないなとは思ってたんですよね。
彼ら本当に仲のいいのはお互いしかいないんだから、
それは距離近いよなとは思ってたんですけど、
1カ所、これ恋だなって思ったとこがあって、
歯医者になった電車の中で、
怪物誰だ遊びをしてるとこなんですけど、
僕あれ思わないと思うんですよ、あれ。
あの遊び、小学5年生がやるには
幼すぎるなと思ったんですよ。
僕が自分が小学5年生の時だったら、
とりあえずスーパーハメコン持って
出直してくれるかみたいに思ってたんですよ。
でも、だから恋だなと思って、
友情って一緒に楽しいことを探しに行く関係だなと思うんですけど、
恋って楽しくなくても、
お互いのことを知れたら嬉しいっていう関係だなと思って、
めちゃめちゃお互いのことを知るコミュニケーションじゃないですか、あれって。
ゲームじゃなくてコミュニケーションなんですよね。
で、辛いことがあっても感じないようにするっていうので、
それは星川君ですかみたいなので、
渾身のコミュニケーションを取るじゃないですか、そこで。
僕をその痛みの側に連れて行ってくれっていう宣言だなと思って、
それをするのはやっぱ僕は恋愛だなって思ったんです。
楽しくなくても、
あなたのことを知れるのが嬉しいっていうのがそういうことなのかなって思って。
小枝監督の作品ってやっぱ基本会話劇というか、
人との会話を通じて色んなことが浮かび上がるみたいな映画が多いので、
そこはやっぱ彼らしいなと思いますよね。
そこに坂本裕二脚本の会話の妙とかもありますし、
あのゲームのシーンで、
怠け者の下りの時とかちょっとゾワッとしましたけど、
ちょっとあまりにもそのセリフは残酷すぎるのではみたいなぐらいちょっと、
星川君って言うなよ、そんなことわかっててもみたいな、
怖いってっていう。
あそこね、やりすぎなんです。
そんなコミュニケーション普通取らないから、
めっちゃフィクション的な飛躍だと思うんですけど、
まあ僕はありかなっていうか、
答え合わせになってるなと思って、
星川君のそこまでのケロッとしてるさって、
いじめられっ子が我慢してるかそういうレベルじゃないんですよね。
我慢してるんじゃなくて何も感じてない振る舞いをするので、
ある種の答え合わせとしてあそこがあるのは、
なんというか、あんまりそこを読み取らないというか、
あ、星川君っていじめられても大丈夫なんで良かったって思ってしまうような人がこの映画見てたとしても、
あ、やっぱり良くなかったんだって思うっていう視点のシーンになってて、
で、それは説明的なぐらいの方がありだなってちょっと思ったんですよね。
48:00
だってそうじゃないと結構伝わんないなと思うんですよっていう。
ちょっと別の作品出してて申し訳ないかもしれんですけど、
坂本裕二さん脚本でドラマでマザーって作品があって、
足田マナちゃんがほぼデビューに近い形で出た作品なんですけど、
本当5歳の足田マナちゃんがめちゃくちゃ大人びていて気持ちが悪いんですよ。
で、本作の星川君からも似たものを感じていて、
おそらく坂本裕二さんの作品に出てくるこういう大人びた子供って、
なんていうか、すべからく酷い環境で育っているっていう。
で、マザーにおける足田マナちゃんも実際に親に虐待をされていて、
で、結局それを見て、先生である鈴木花美が彼女を誘拐しちゃうって話になってくるんですけど、
なんか、最近結構ご都合主義的にこんな大人びている子供はいないよっていう、
アニメーションも含めてそういう子供の描く表彰って結構映画の中でよく見るようになったなって思うんですけど、
それって結構世界の方というか、そんな子供いないよじゃなくて、
実際そうでしか生存戦略としてそうなっちゃう子供はいるのかもなっていうのを、
本作見ててよりそれを現実味帯びて感じたっていうのはちょっとありますね。
大人って思っているよりも子供から進化しないから、
今の自分から逆算した時に子供ってもっとバカなのでは?って思っちゃいがちな部分はあるかもなって思う。
その速度で成長してたら本来もっとちゃんとしてるとこに到達してるはずの出来てない自分から逆算した時に、
子供の時のことって結構忘れてることも多いから、きっと自分たちが小学生の時もそれなりにというかなんかいろんなことを考えていきたいと思うんですけど、
そこからのなんか伸びしろがなさすぎて、そんなイメージを持ってしまうかもしれない。
そうですね。ありがとうございました。
ありがとうございます。
最後のお便りですね。前田さんお願いします。
ハチさん、お疲れ様です。いつも皆さんのお話を興味深く、注意深く聞かせてもらってます。
テーマ作品の怪物について、映画監督コレーナ・ヒロカズのフィルムグラフィーとして万引き家族後の外部に刺激を求めに行った3作目という位置づけです。
この3作、前半は新しい風が入り込んでいるのですが、中盤以降は運動性を次第に排除していくカメラと決定的なセリフによってクライマックスを味付け、
しかし、欧州サハの映画監督ほどはっきりとしたステートメントは残さず、子供の美しさに大部分を固くするという、
惚れだぶしといえる手癖に修練していくのが良くも悪くもという感じで見ています。
この新しさと変わらなさは怪物でも健在で、1幕目のカッとおしげもなくパッパと変えていくテンポ感など、それが上手くいっている面もあるのですが、アウトなところは徹底的にアウトでした。
映画の核に幼少期のクイアネスを扱っていながら、あのてんます図書さんはないです。
51:02
セクシュアリティには揺らぎがある、それはその通りです。
しかし、揺らぎがあるとは成長とともに変わっていくその時々の感情の変容をありのままに受け入れる、その童貞を認めるための言葉であり、
同性の男の子が好き、でもいずれ変わるかもしれないから同性愛とは言わないよ、という今の心と存在をはがらかす方弁ではないはずです。
その意味では、同じ11歳のセクシュアリティを眼差しで表現し、クイアネスに対して誠実かっこそう見えるしそう作っただったアフターサンとは、作品の到達点としても運命の差だったと思います。
そして小枝監督に限らずインタビューなので、固有の関係や物語でなく普遍的なものを描いた、などという作り手の多いことには違和感というか、はっきりと癖劇です。
そもそも普遍性は、時代や場所の異なる固有の物語がたくさん作られることで、相対して浮かび上がってくるものだと思っているので、間違っても固有の表情をぼかすことで宿るものではないです。
セクシュアリティは使ったものではないですが、近作の方画をレイン出すと、こちらみ子を見た時にも似たような思いをいただきました。
あの作品も、誰もがあみ子、あみ子だったとでも言いたげな普遍しぶさが社会において大事な表情をぼかしているようで非常に和感がありました。
毎度毎度冗長で失礼いたしました。本当に申し訳ございません。
はい、ありがとうございます。
ありがとうございます。
はじさんは相変わらず作品の痛いところをビシバシついていきますね。
それとおいしい。
全部的を言っていると思います。
痛すぎるっていう、さすがですよね。
欧州サフの映画監督を送るって、例えばケンロージ監督とかおっしゃられているイメージですかね、多分。
結局、結論を美しいものに逃すっていうのは結構いつもかなっていうのは、そんな気はしているっていうので、
言い切らない、問題提起にしきらないっていうのは確かにあると思います、本当に。
でもあそこは正直、お説教されるの嫌いな人が大半なんで、僕はこのスタンスありかと思ってるんですけど。
日本に合ってるんでしょうね、きっと。
難しい。
日本人的なんでしょうね、良くも悪くも。
最後の感覚みたいなのが違うというか、ちょっとさっきフロリダープロジェクトとラストに似てるなみたいな話ちょっとしたと思うんですけど、
怪物を見終わった後に得る感覚とフロリダープロジェクトを見た後の感覚ってちょっと違うんですよね。
扱っててもちょっとずれてるかもしれないけど、
けど感覚としてはやっぱり怪物の方がいろんな面を見た果てにあれがあるので、
あれでもちょっとお説教っぽい感じはするというか、あれでもね。
フロリダープロジェクトはそんな感じはあくまでそのままやった果てにあれがあるみたいな感じがすごくあるので、
なんかそういう違いとかはやっぱあるよなっていうのはあって、なんか不思議だなというふうに思いますけど。
感情移入できないものは飲み込めないっていうのが多分そういうもんだなとは思うので、
54:03
テクニックとしてはありかなと思ううちは思うんですよね。
やっぱさめに感情移入するのは無理じゃないですか。
前回の話。
だからやっぱそのサメをサメとして純粋に描いて、じゃあサメ大切にしようってなるのはなかなか難しいけど、
サメに心があったらサメ大切にしようって思えるとか、
サメが自分たちと何か共有している文脈を持ってたらサメ大切にしようって思えるっていうのは多分そういうものなのかなっていう。
それが誰しもの幼少期の記憶みたいなところで最大公約数を設定しているっていうのは確信的にあっているのかなっていうのを言いますかね。
さちさんのお便りの中でアフターサンとの比較でっていう話をされてますけど、
確かにアフターサンの作品自体にある強みってどこまでもパーソナルな話だってことだと僕は思っているんですよ。
あのアフターサンの中にある親子の関係性はどう考えても普遍的なものなんかではない。
あの二人にしかないものを描いているってその強みがあると思うんですよ。
一方で怪物はどうかって言えば確かに誰のことでもあるというか我々を巻き込むっていう意味ではそこは成功してるんですけど、
その反面すごく個人の話、あるいは当事者の話になってるかっていうのはそこはやっぱりちょっと違うかなっていう気はしていて、
もちろんそのバランスとしてそこがいいのはわかるんだけど、
なんか普遍的なものじゃなくてもっと個人的なものを見てくれっていう気持ちも確かにわかるなぁとは思います。
それはそうか。
そうですね。よく考えたらフロリダプロジェクトのパーソナルな話でしたね。
そうそう、めちゃめちゃパーソナル。
すごくなんか大石さんがすごく綺麗にまとめてくださって気づきましたけど。
こちらアミコをこの作品の比較対象として並列して語るのはすごくありだなと思って、
こちらアミコもアミコがいわゆる発達障害的なものっていうのは表情としては描かれてるけど名言は全くされないんですよね。
それは本作よりももっとぼかされてたなと思って、そこがどうかなみたいな話はこの番組でもオープニングトークのどっかでしたことがあった。
オープニングトークじゃないわ。
ノックの時にしたのかな。
これすっげえ面白いなと思ったんですけど、
映画のこちらアミコってめちゃめちゃ幼少の自分っていうのを重ねて見やすい作品だと思うんですけど、
小説のこちらアミコって重ねようがないんですよね。
小説のこちらアミコって主観なんですよ。アミコの主観なんでどう思ってたのかって描かれるんですけど、
すごい不思議だなと思って。主観として描かれるとむしろアミコの他者性みたいなのが際立つなと思って。
映画の方が感情輸入できるんですよね。不思議だなと思って。
57:02
一人称の方が感情輸入できないんですよ。三人称の方が感情輸入できるんですよ。不思議だなって思うんですよね。
自分それと似たことを寝ても覚めてもの原作を読んだ時に感じましたかね。
寝ても覚めてもって主人公の女性の完全な主観で描かれるんですけど、
彼女からはもう東でにしか見えてないんですよ、彼氏のことが。
そう描くんだけど周りからはそんなことないって言うんですけど、全然僕らにもそれを許してくれないんですよね。
だから多分そうじゃないんだろうなって思いつつ、まさに信頼できない語り手的な感じではあるんですけど、
でもなんか主観でそのぐらい偏ってるじゃんって言われるとそうだなと思うし、
あと結局それは彼女の話でしかないのですごくパーソナルなんですよね。
面白いなぁ。
寝ても覚めてもって原作そういう感じなんですね。
あれ原作もめちゃくちゃ面白いです。僕大好きなんですけど。
いや確かに主観だったら確かに似てるかどうかわかんねぇなっていう小説だと。
映画だと本人がちゃんと出て似てるなってわかりますけど。
そういう作りなんですよ。
じゃあ八さんありがとうございます。いつもいつも鋭いお便りをずばっと言ってくれて本当にありがとうございます。
ありがとうございます。
ちょっと僕、借りてるスペースの期限と終電が近いので一回外れて、もう一回入り直しますんで一回出ます。
そうですね、お便り全部読み終わったわけなんですけど、これで。
もう結構いろいろお便りの間で結構喋ったような気はするんですけど、何か喋り足りないこととかこれ触れておきたいなみたいなこととかってあったりしますか。
なんか今作で一番振り幅大きかったのってエイターかなと思うんですけど。
全く触れてなかったですねこれまで。
そう、エイター一番かわいそうですよね。
まあちょっといろいろ理不尽な目に合う人だなっていうふうには思いますね。
坂本勇次の作品においてエイターってだいたい勘違いされる人なんですよ。
そうですね。
そんなよく出てくるんですね。
めちゃくちゃ常連さんです。
有名なのは最高の離婚っていうドラマ、あれで理屈っぽい男をやってたんですけど、
いつもああいう役というか、貴重面でちょっと世界からひねくれた目線を持っていて、ただそのせいで浮いてるみたいな。
今作も完全にそれに当てはまっていて。
今作はでもすごくそのパートで語りたいのは高畑光が絶妙だったなあっていうことをすごく。
あの高畑光の大変そうだから帰るねみたいな感じ。
1:00:00
ちょっと笑っちゃうくらいコントみたいにも見えるけど、ああいう感じにいそうだなっていうのがめっちゃリアルで、あそこはちょっとすごかったですね。
なんか自分が加害者というか彼を傷つける側にも回りたくないし、でも彼側にもいたくないっていう。
だからサラッと抜ける時の彼を引き止める彼をもう無理やり口づけてじゃあね出てくっていう。
あれもうゾクッとしましたよね。
もうなんか一言も別れるとは言ってないけど、もう絶対今後会う気ないなみたいな感じでビンビン出てるのがすごいなっていうか。
また連絡するから絶対連絡しないやつだみたいな。
その連絡する目は連絡しないやつみたいなのがすげえわかりやすい。
まさにあれも一種の加害性なんですけど、そうなんですよね。
誰かを傷つける立場に行くんだけど、人は傷つけたくないっていうのをなんかすごい見事に表していて。
なんかそのエイターの役というか、役のキャラクターでスペックだけで言ったら、スペックって言い方おかしいかもしれないですけど、
男性で異性愛者で学校の先生しててとかって、すごいこうマジョリティ側の人間じゃないですか。
スペックだけで言うと。
でもちょっとずれてるというか、そのコミュニティにおいて完全に溶け込めでないというか、
なんか私そういう、それをマイノリティとは読まないかもしれないけど、そういう人たちの生きづらさっていうか、そういうのって結構大きいと思うんですよね。
たった一人でもいいからそれを理解してくれるというか、
理解っていう言い方は私ちょっと難しいなと思うんですけど、それでもそばにいるような、お互いのことを受け入れてそばにいる人がいたらいいなと思うんですけど、
なかなか現実的にはそれも難しかったりする場合もあると思うんで、
今回高畑美月はほんまに一番残酷かなと思いましたし、
それが私結構この社会のいびちさの一つでもあるなって思うんですよね。
戻ってきました。
おかえりなさい。
高畑美月の話、なるほど。
エイタ表はどんな感じなんですか。割と普通とか、いい人とか悪い人とか。
今話したのは、私が、エイタはすごくマジョリティ側のスペックを持ってるけど、すごく浮いた存在じゃないですか、コミュニティにおいて。
そういう人と社会の折り合いみたいなところも、
単純にマイノリティっていう文脈で別に語れないけど、
そういう人の救いのなさというのはあるなと思ってて、
そして、そういう人は自分で何とかするしかないよねっていうのも結構強いと思うんですよね。
1:03:03
本当に人との出会いというか、それが運。
自分によって結構左右されちゃうのかなっていうのはあって。
彼の妙に男らしさを押し付けてくる感じって、何が由来なのかなっていうのはすごい考えながら見てたんですよ。
私もあれ結構違和感があって、あのタイプそんな言うかなみたいな。
だから、僕2つ可能性があるかなと思ってて、全然そういうタイプじゃないけど、教師やるにあたってそういうのをわざわざやろうとしてるのか、
あるいは文化系のマッチョっていう可能性もあるかなと思って。
文化系のマッチョってどんなやつ?
要は物事を知ってる方が偉いっていう、知識量が筋肉とイコールになってるような発想をするタイプっていう感じです。
いや、でも文化系のマッチョ、自分が負けるフィールドで戦うことはないと思うから、その価値観を持ち込まない気がするな。
その価値観で戦ったら負けません、彼。
でも多分なんですけど、彼って間違い見つけるの、それを指摘するの好きじゃないですか。
だから少なからずそういう部分もあるんだと思うんです。
僕の方が正しい方を知ってるっていうのは、常に持ってるタイプでもあるんだろうなと思っていて、
そういう意味ではマチズモはあるかもしれないですよね、文化系的な。
彼、多分女は感情の生き物とかいうタイプだと思いますよ。
文化系のマチズモっていいとこゼロですね、じゃあ。
どうだろう。
お母さんのセリフもそうなんですけど、そんな深い意味ないんだろうなと思うんですよ。
自分が言われて育ってきたことを言ってるだけっていうか、
特に想定してないだけであって、そんないろんなことを。
本当に全く深い意味なく言ってるからこそ、見てる我々にとっても身につまられるというか、
言っちゃってないかな、こういうことみたいな。
そこが本当につらかったっていう感じなんですよね、ずっと見ていて。
もう誰もそこに疑問持ってないというか、向こうがそういう人だった、知らないとかでもありますけど、
でもそういったものがいろんなのがいっぱい溢れてて、
無自覚な加害性っていうワードも出ましたけど、
そういうことでやっぱり社会って、そういった個人がいっぱい集まってその社会ができてるから、
そういう社会になるよねっていうのがありありとそのまま描かれてるから、
1:06:00
なかなか本当に1幕目と2幕目はちょっと本当に見ていてつらくなってしまうっていうのは、
ずっと見ながら思ってました。
僕の勝手な解釈なんですけど、山口さんが言った、最初に言った、
彼の男らしさを出している要因の2つって言ってましたけど、
あれ多分彼の中に両方あるものだなって僕は思っていて、
こうしたの方はさっき触れましたけど、多分前者の方も、
多分彼ってコミュニケーション基本的には苦手なタイプの人だと思うんですよ。
僕自身もちょっとそういうところがあるからわかるんですけど、
コミュニケーションが苦手な人ってどうするかって言ったら、
他人の言動をコピーしていくしかないんですよ。
基本的に。
で、他人の男たちの言葉をコピーしていったら、
ああいう振る舞いになっていったんだとしたら、
彼自身には多分自覚がないんだけど、
でも社会の中で彼なりに適応していく形でそうなった、
それが再生産につながっちゃったっていうことなのかなって思っていて、
だとしたら罪深いのどっちなんだろうっていうのをすごい考えさせられるし、
彼自身も確かに被害者でもあるっていう。
それだとおそらく僕ら自身、
僕らだって被害者であるし加害者でもあるってことだと思うんですけど、
多分コミュニケーションの正解って周りからどんどん受け取っていくじゃないですか、
生まれてから。
でも周りがもしそういう待ち相撲的なコミュニケーションをする環境だったら、
当たり前のように待ち相撲してしまいますよね、多分。
何も考えてなかったら。
だからそこから脱却するってどうすりゃいいんだろうなっていうのは、
すごい彼を見てて考えました、僕は。
でもその中で適応できてる風に見えなかったので、
適応できてなくても吸収しちゃうんだなと思って。
でもそうだと思うよ。
なんとか真似というか吸収していかないと生きていけないところはあると思うので、
多分何かしら妄想すぎないと多分、
社会からつま弾きにされてしまうっていうとはやっぱあるからかなと思うんですけど。
細かいとこなんですけど、お母さんの描写の中でも好きなところが、
学校にクレームに入れに行くときに、
いちいち車を駐車する描写があるとこなんですけど、
あれ怒った瞬間に校長室のシーンから始まっても、
まあいけるっちゃいけると思うんですよ。
でもそうじゃなくて、いちいち車を止めるシーン入れるんですよね。
あれ結構不思議な描写だと思うんですけど、
怒りってね、意図的に出力するものだと思ってるところがあって、
息子から報告聞いて怒ったとしても、
ストーンだと実際に学校行くまでって時間も距離もあるじゃないですか。
そこまでその怒りって持続させることって難しいから、
一回収めて、もう一回取り出すんですよね。
あれって怒りたいから怒ってるんですよ、校長室のシーンって。
そこが感情の不可解さというか、すっごい好きなシーンなんですけど。
僕もちょっと心当たりあるんでね。
1:09:01
よーし怒るぞーみたいなときあるから、
ああーって思うときがあって。
確かに怒りってちょっと忘れちゃったりしますもんね。
そうなんですよね。
時間経っちゃうとシュンってなっちゃうというか、
落ち着いちゃう、クールダウンしちゃうみたいなのはありますけどね。
校長室に乗り込んでいろいろ怒ったりするときの、
お母さんの距離の詰め方は怖いなって思いましたけど、
結構身体的な距離近いなって思いませんでした?
でもあれだいぶ絶望的状況じゃないですか。
気持ち的にはわかるんですけど、
あそこまで急に言葉で詰めるとかじゃなくて、
身体的にもぐっと距離を近づけてくる感じは、
この人も怖いみたいなふうには思ってたんですよね。
すいません、僕が詰まっちゃったんで外れます。
ではお疲れ様でした。
お疲れ様です。
殴ってないけど、それに近いぐらいの距離感で顔近づけてくるとか、
ちょっと怖いなみたいなふうには思いましたね。
でもある意味、言い方あるかもしれないけど、
寒涼的対応というか、僕らの生活の中にもというか、
テレビを見ていれば見覚えあるじゃないですか、ああいうの。
だから彼女のというか、安藤さくらのその怒りのドライブに
一緒に乗っかっちゃう自分もいたんですよね。
申し訳ないけどちょっと気持ちよくなっちゃうんですよ。
こっちに正義があるぞって。
で、それが2幕目、3幕目でまともなのかだらしてないんですけど。
あれはある意味ドライブがかかるっていう意味ですごいグッとさせられるというか、
なんかやっぱり勢いづくシーンではあったなと思いますね。
寒涼的な対応みたいなのね、よくありますけど、
いくらなんでもちょっとコントみたいな誇張入りすぎてて、
ちょっと笑いそうにはなったんですけど。
確かに。
立ってこう、申し訳ありませんでしたって言って、
ちょっと違うみたいなところで安藤さくらがジタバタしてるところは、
コントの始まりぐらいでこんなのあるよなみたいなふうにちょっと思っちゃいましたし。
東京テロさんの角田さんがいるのもあるし。
そうですね。
ちょうど去年公開されたドキュメンタリー映画で、
ミナマタマンダラっていう原和夫監督のミナマタ病を扱った映画なんですけど、
本当にあの映画の中でも寒涼的な対応って非常にたくさん描かれるんですけど、
ミナマタマンダラ見てればそうなんですけど、ひどいんですけど笑っちゃうんですよね、あれ。
もう話が通じなさすぎるっていう、
なんかもう諦めとアイロンに込めた笑いしかできなくなって出てこなくなっちゃうっていう感じは、
ミナマタマンダラ僕はすごい思い出しました。
今いろんな社会の中でいろんなことがある中で、
なんかこう自分が当事者でもなくてよくわからない問題、
1:12:01
わかってるかわかってないかもわからないじゃないですか。
自分なりに知識を仕入れたとしても、それがどこまで正しいものかとか、
どこからが人を傷つけることなのかとかがわからない状態の中で、
作品作りの姿勢の部分にも関わってくるとは思うんですけど、
どう触れていいかわからないっていうのは結構大きいと思うんですよね。
なんか社会の中の本音みたいな。
大多数の人が別に人のことをもちろん傷つけたくないし、
っていう気持ちがあると思うんですけど、
だからこそどうしたらいいかわからないみたいな、
それについて触れたり語ったりすることをかけようみたいな、
心理って結構あると思ってて、
それがなんかこう、日本得意なのか海外がどうとかはよくわからないんですけど、
それに対して、
社会の中で身を任せてただ生きてるみたいなところは正直自分にはあるかなって思ってる。
それに関しては今作いろいろな反応があるなって思うんですよね。
例えば官僚的な対応というか、
とりあえず謝るとか、なあなあでするとか、
あとは自分はそうじゃないですって嘘をつくとかも、
今作結構テーマ的にもあるなと思うんですけど、
そういったのを社会の捉え方としても、
今の社会のありをそのまま映画の中に封じ込められてるなっていうふうにすごくそれは思って、
そういったところもやっぱりターっぽいなっていうふうに思ったんですけど。
確かに空気感みたいなものを含めてすごい今っていう感じもする。
もちろん今としては古すぎるって表現もあると思うんですけど、
そうですね、それはちょっと思いました。
でもまあとはいえやっぱりこの周辺5年間ぐらいの感じを全部集めましたって言われたらちょっとわかる気もするというか。
そうですね。
たぶんこの映画、既にこの段階で古いっていうのはある意味希望だなと思っていて、
たとしたらこれが古いんだったら世界はもうちょっと良くなってるし、
彼ら2人のための世界になっているはずだと僕らは思ってるってことだと思うんで、
それはある意味良いことなんだろうなむしろって思うんですけど、
この作品についていろいろもちろん意見もあるし、
特に今月ってプライド月間って言って結構LGBTQのクイアに関する発信が多い月間でもあるんですけど、
そういう意味でクイアの方々が今回完全にある種悲劇的に終わってしまうじゃないですか、
そうじゃない作品ももっと生まれてほしいなっていう願いもどっかにあって、
こういう作品ばかり出すとやっぱりそれは当時の方が言っててなるほどって思ったんですけど、
私たちってそういう存在なんだ社会にとってっていうことの方がやっぱりこうメッセージで捉えられちゃう。
それを再自覚させられてしまうっていうのはやっぱり彼らにとってはある意味ある種のマイクロアグレッションでもあるっていうのはお話されてて。
わかるかもしれない。なんか男女の話とかでも、
1:15:03
私は人間ってもちろん加害性もあって被害者になりうるんですけど、
どっちも辛いじゃないですか。
明確に被害を受けたなって感じてないようなことでも自分が、
社会の価値観の変化によってそれは被害だよねっていう風に言われることも結構あるんじゃないかなと思ってて、
そうなった時に女性がある面において社会的に弱者性があって被害者だみたいなのをあんまり強く言われたらちょっとしんどい時があって、
確かにそういう側面もあったり、そういう思いの人もいるのはわかるんですけど、
それをすごい出されるのが、自分って何かの被害者なんだなとか、
加害者なんだなって思うことがすごいしんどいんですよね。
人間をその二択に分けちゃうのをやめてほしいなって思うときはちょっと正直あって。
私はこうやって口に出して人と話さないと、自分の考えが例えば間違ってるのかなとか、
社会に対して自分がこう思ってるんだなっていうのを気づきにくい部分もあるので、
だからさっきちょっと触れづらいことはあるって言いましたけど、
やっぱり人と話すことでしか前に進まないのかなって思うことも結構あるんで。
いや、そうですよね。
対話しかないけど対話も大変ですからね、みたいなところも結構序盤のとこにあったじゃないですか。
理解しようとしすぎて逆にみたいな話ってあるから、
ある意味シュラの道ではあるんだろうけど、
でも絶対必須だよねっていうのはよく思うように思います。
理解ってマイノリティ側がマジョリティ側に対して説明しなきゃいけない構図になるから絶対。
それがきついと思うんですよね、全てにおいて。
しょうがない側面ももちろんあると思うんですけど。
まだ均等じゃないっていう状態で、どうしても差があるっていう状態が変えなきゃいけないので、
必然的にそうなっちゃうっていう中なんでね。
でもやっていくしかないことだし。
それこそ今年公開の映画でヌイグリムと喋る人が優しいっていう映画がありましたけど、
その映画の中でのセリフで結構印象的なものが、
優しすぎると歌詞弱くなるよっていう風に言ってくる主人公に対して、
いやいや打ってくる方が悪いんじゃんっていう風にセリフがあるんですけど、
まさに悪いのはそっちなんですけどね。
だから悪いじゃんって、もちろん言ってくことが大事だしそれでしかないんですけど、
でもなかなかそれを多分全員に理解してもらうっていうのは多分難しいのかもしれないし、
すごい考えるって言葉で逃げちゃうのもあれなんですけど、
考えるしかないな、考え続けるしかないなと思いますね。
ピリオド打たないってことが僕は大事だと個人的には思ってます。
映画としてもいろんな表彰をこれからもどんどん続けていかなきゃいけないなっていうことも
この作を踏まえて改めて思うことですよね。
1:18:01
これをある意味の普遍的な何かっていう、
インタビューとかもたびたび出てきますけど普遍的ってワードが、
そこで絡めとっちゃうのも良くないしみたいなところで、
そこは本当にちょっといろいろ考えさせられますよね。
簡単に言うんですけど考えさせられるっていうのは。
あと悲しいのが全然変わるんですけど、
映像的にめっちゃ今回すげえって思ったんですけど、
2幕目で堀先生が土砂崩れの現場に行って、
それをカワイイって探してるときに、
中から見たシーンが出てくるじゃないですか。
泥を必死にかき分けてでもそれが見えなくてみたいなのを、
列車の中から見てるみたいな。
あそこのシーン、ちょっと痺れませんでした?僕だけですかね。
あれ僕もそうなんですよ。
映像としてこんなもの、しかもあれが、
要は見ようとするんだけど見えないっていうテーマ性そのものを表彰してるじゃないですか。
メタファーと言ってもいいかもしれないけど。
あれはある意味、脚本の外側の話で、
実際あれ結構アドリブであのシーンができたらしいんですけど、現場で。
あのシーン本当にすごい良かったんですよね。
雨でうしゃーって土で結局隠れちゃっていくみたいなのが、
テーマとしてもバッチリだし、
扉開けるシーン、開けてみんなオーイって言ってるシーンの切迫した感じも含めて、
あの一連の流れは本当に見事だなって思って、
あんまりこれが監督の映画で絵的にオーってなるみたいなって、
そんなめっちゃあるかっていうとそんなないか。
ある時もあるんですけど、3度目の殺人とかあった気がするんですけど。
今回なんか文句なしにそのシーンだけめちゃくちゃ印象に残ってて。
分かります、分かります。
これが見るだけでもこの映画すごいなっていうふうにはちょっと思ってました。
そうなんですよね。今作撮影もめちゃくちゃお見事で、
名前がちょっと撮影監督の方は覚えてないですけど、
近藤竜人さんで。
そうです、そうです、そうです。
まべき家族からずっと組まれてる方ですけど、
その空気を映すというか、
そういうものがすごくやっぱりお上手な方だなと思って。
霧島部活辞めるっていうある男とかやってる人なんですね。
そうなんです。
そりゃいいなっていうね。
素晴らしかったですね、この作も。
あのシーンは本当に今年の映画を振り返る中でベストシーンとかになるんじゃないかなって個人的に思ってます。
たぶん自分のバビロン作ったらそのシーン入れますよね。
入れますね。
バビロンの最後のあれ。
アフターサンダーのテレビのシーンとあの辺は入れるみたいな感じですかね。
入れますね。
そろそろ閉じましょうかね。
結構喋りましたよね。
ちょっとお便りの中でいっぱい喋りましたしね。
いろいろこうどうまとめていいんやこれ最後みたいな感じですけど、
本当にいろんな視点でどうなんだろうこれっていうのをすごく考えることをやめてはいけないなっていうのを改めて思うような映画だったのには間違いないかなっていうふうに思うので。
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すげー映画でしたね。
これまとめていいですか。
僕はまとめ方うまくないので。
それでは怪物の話をここで終わっておきたいなと思います。
それではお知らせになります。
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それでは映画の話したすぎるラジオ第121回怪物の話をここで終わりたいと思います。
それではまたお会いしましょう。さよなら。