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はい、始まりました。ポッドキャスト、吉野映画酒場第18回です。
第17回のガルパンの回と続けて撮ってるんで、ちょっと疲れてるってのがあるんですけど、はい、いきたいと思います。
今回はですね、騙し絵の牙の話をしたいかなと思います。
吉田大八監督ですよ。
吉田大八監督といえばね、もう僕の人生の中で最重要作品の一つである、
桐島部活やめるって言う監督ですからね。それは注目中の注目作品でしたよ。
結論としては、そんなにでした。個人的には。
その辺りの話も終了していきたいと思います。
はい、ではですね、いつも通り、映画ドットコムの解説を読ませていただきます。
大泉の声なので知られる作家の塩田敬氏が、大泉をイメージして主人公を当て書きした小説を大泉の主演で描か、
出版業界を舞台に、配管の危機に立たされた雑誌編集省が裏切りや陰謀が渦巻く中、
既視改正のために大胆な奇策に打って出る姿を描く。
神の月、桐島部活やめるってよの吉田大八監督が名画本を撮り、
松岡真由、佐藤小一ら、実力派キャストが共演する出版不況の波に揉まれ大手出版社くんぷー社では、
創業一族社長が急勢し、次期社長の座を巡って権力争いが勃発。
そんな中、専務の東松が進める大改革によって売れない雑誌は次々と配管のピンチに陥る。
カルチャー市トリンティの借り物編集長早美も無理難題を押し付けられて窮地に立たされるが。
はい、えーっとね。
まあまあって感じかな、個人的には。
その、テンポはいいんですよ。テンポはいいし、エンタメしてるなっていうのはいいんですよ。
実際楽しかったですからね。
ただね、なんだろうな、気になったところがいろいろあったりがして、
まずね、ちょっとね、背景の描き方が雑かなっていうところがあって、
まず、この君風社の創業一族の社長が急に亡くなっちゃうんですけど、
そこでワイドショーで、そこから社長の請求から君風社の権力争いが勃発するみたいなのをワイドショーで説明するみたいなシーンがあるんですけど、
ここでね、人が死んだ後に結構割と茶化すような語りをしてて、
そういうワイドショーの語り、無理だろって思ったんですよね。
で、ここで経営人の人間関係みたいなのがワイドショーの中で解説されることで、
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これは映画を見てる方に対する人物紹介でもあるわけなんで、
分かりやすいなっていうのはあるんですけど、ワイドショーの内容にあまりリアリティを感じられなくって、
なんかね、そういうところを丁寧に描くのが吉田大八監督なのかなって僕は思ってたので、
ちょっとね、そのリアリティラインが高いっていうか低いっていうのが多いのかな。
低いかな。ごめんなさい、こういう場合ってどっちだろう。
ちょっとリアリティがない方向のチューニングをされてると思ったんですよね、そこで。
そこはちょっとなんかあんまり吉田大八監督の資質ではないんではないだろうかっていうふうにはちょっと思ったりはしました。
こういうところがね、結構色々気になるところがある映画だったんですよ。
例えば松岡真由演じる高野の実家の本屋が潰れかけの本屋であると。
漫画とか子供がいっぱい立ち読みしてて、結局本買わないっていう展開が書かれてるんですけど、
今は本屋で子供立ち読みしないでしょ。
一人とかだったら別にいいと思うんですけど、結構な人数、めちゃめちゃ小さい本屋の中で立ち読みしてるんですけど、
子供が立ち読みはするけど本は書かないって描くために子供の人数を増やしすぎだと思うんですよ。
そこでちょっとリアリティ損なってるなと思って。
今の子供絶対本屋行く前にスマホとか触ったりゲームやったりすると思うんですよね。
わざわざ本屋行って頑張りしないんじゃないかなと思って。
そこで立ち読みの人数が多いことで何か違和感が生じたりとかあったりとか。
あとね、もうバリバリのネタマネしていきますけど、
池田えらいざが演じてたジョージマ・サキっていうモデル兼作家がストーカーに襲われるってシーンでね、
またこの2人のストーカー像のある種のステレオタイプ。
これの浅いこと浅いこと。
いかにも社会不適合な女性に執着したサイコパスみたいな描かれ方してて。
このね、サイコパスって言葉もうかつに使っちゃダメだと思うんですけど、浅い本当に。
そもそもジョージマ・サキって男性受けするタイプのアイドルとかっていうよりは、
女性に人気が出るタイプのファッションニーダーみたいな感じの売り方してたと思うんですよね。
もともとファッションニーダー的な売れ方をしてたから、
自分が自由書きとかを好きっていう趣味をあからさみにできないっていうのを抱えてた人物なのに、
そこでそういうちょっとサイコパス的な。
このサイコパスっていうのをカギカッコ付きで聞いといてくださいね。
ストーカーに襲われてっていう展開。
絶対本層違うだろうって思うんですよね、あそこ。
なんかね、アイドルとかアイドリーしてるタイプの芸能人に対するストーカーだと思うんですよね。
あれはストーカーの像は。
なんか違うなって思うんですよ。
例えばですけど、ここでジョージマ・サキがこの後ストーカーに対して、
自分を殺そうとしているストーカーに対して、
3Dプリターで作った自作の銃で反撃したせいで、
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児童法違反のスキャンダルになって大問題になるって展開があるんですけど、
そこからさらに小泉洋が演じる早見が、
ただそれでもそういう闇を抱えるしかなかったジョージマ・サキをわかってほしいみたいなやり方にちょっと切り替えていく展開になるわけなんですけど、
要はジョージマ・サキは何かを抱えていたキャラクターとして描かれるべきですよね。
で、その何かを抱えていたこととそのストーカーは一致してたらいいと思うんですよ。
例えば元彼がものすごい抑圧的であるとか暴力的であるとか、
あるいは家族、父親がすごい抑圧的な父親でとか、
彼女はある種の自分自身のイメージ、ロールモデルみたいなものに縛られてたから心の内側に銃を持ってたっていうキャラクター像なんだったら、
そのジョージマ・サキをもともと抑圧してた存在がそのストーカーに要素を持たせないといけないと思うんですよ。
だからもっと父親的であるとかヤンキー的なものがジョージマ・サキのストーカーの方が違和感ないなと思ったんですよね。
絶対ああいうタイプのストーカーじゃないと思うもん、ジョージマ・サキにつくのは。
もともと女性人気出るタイプなんだからああいうのじゃないよ絶対。
そこがねやっぱ浅いのにストーカーってこういうキャラクターでしょっていうね浅さ、気になる本当に。
あとねその後ジョージマ・サキの内に抱えていた闇を君はわかるよねっていう風なプロモーションをしていく中で賛否論論で炎上するわけですよ。
炎上というかまあバズるというか炎上というか。
そこでツイッターの画面がポンって出てきたのがいっぱい出てきて画面が埋まるみたいな演出があるんですけど、
ダサいよあれは絶対ダサい絶対。
ディストラクションベイビーズっていう5年前の映画でもダサいなと思ったのにそれを5年後で今やったらダサいよダメだよそれは。
あれはダサい絶対に。
よくない。
もっと描き方あるし今って炎上のやり方なんだろうな。
YouTubeとかを絡めることもできたかなと思うんですけど。
ニコニコの字幕とツイッターが画面埋めるのはよくないよもう。
一時期のニチャンじゃんね。
ツイッターはね短いフレーズで画面を埋めれるから非常に映像的にも演出しやすいっていうのはわかるんですけど、
そのね、ツイッターの扱いやすさ。
悪く言うなら楽さっすよね。
演出の楽さをあいに使っちゃってるのはよくないかなって僕は思いました。
ちょっとあそこ残念だわ。
あとこれはね、キャストの問題になるんですけど、
基本的にこれって陰謀劇というか、憲法術数を張り巡らせ合って騙し合う話なので、
先が読めないというか意外性がある方がいいとは思うんですけど、
豪華キャストすぎて、まだ出てこないあいつ絶対このキーパーソンだろみたいなのがわかるんですよね。
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具体的に言うと、まず中村智也演じる創業者の息子っすよね。
本来なら次期経営者になるべき立場が、
海外に左遷というかちょっと島流しみたいな形になって、権力闘争からちょっと海の外に出されるみたいなのがあるんですけど、
中村智也そこに作ったら絶対に後から出てくるってわかるでしょそれ。
どう考えても大泉を演じる早見のバックにいるのが中村智也っていうのがわかっちゃうんですよね。
だからそこの意外性はあんまりなかったですね。
あと一番でかいのはリリー・フランキーの扱いですよ。
リリー・フランキーキャストの中にいるのに出てこなくて出てこなくて、
最後の方で伝説の小説家、名前忘れちゃったけどとして出てくるんですけど、
いかにもリリー・フランキーの使い方だから、
どう考えてもあの作家が正体を表したときリリー・フランキーで出てくるだろっていうのがわかっちゃうんですよね。
よくなくない?それ。
リリー・フランキーそろそろ使用禁止にすべきだと思います。僕。
飛び道具なんですよねリリー・フランキー。
画面が持ちすぎるしキャラも持つし、でも味付け濃くなりすぎないというか、
話のバランスをどんな話にも割とすんなりリリー・フランキーのまま収まっちゃうんですよね。
全体のバランスは壊さないんですけど、
ただもうリリー・フランキーのままそこにいちゃうから、
引力がすごいんですよ。今回はその引力がどう考えてもあそこに繋がっていくじゃんっていうのが見えちゃうから、
よくなかったんじゃないかなって思って。
もうちょっと残ってるキャストの中であれ誰になるんだみたいなのが想像できない感じ。
あるいは柔道キャラをあえて無名にするのって大事かなと思うんですよね。
最後の最後に鈍然返しに使われるキャラが無名の役者だからこそ意外性が見せられるというか、
話としてはその方が絶対盛り上がると思うんですけど、リリー・フランキー出てきたらそれはもうリリー・フランキーだよ。
そこのパズルのピースに当てはまるのにリリー・フランキーしかいないよってなるの。
えーってそれどうなのかな。
ちょっとそこ疑問の余地ありだと思うなリリー・フランキー使い。
邦賀のリリー・フランキー使いほんとちょっと最高の余地ありだなと思います。
結構なテンションで文句みたいなこと言っちゃったんですけど。
えっとね良かったところですね。
えっとねまずねこれはもう中身が良かったというより心がした問題なんですけど、
おそらく吉田大八局はエンタメ的なものに挑戦しようとしたんだとは思うんですよね。
結構ずっとちょっと文芸寄りみたいな形にずっとなってた監督かなと思ってて。
無難けども悲しみに愛を見せるとか。
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アーマネント・ノバラ。
えっと九氷大佐でキリシマブカス辞めるっていう。
で神の月。
えーっと美しい星だ。
で羊の木ですよね。
結構原作あるものをちょっと観客の解釈に預けるみたいな。
あんまり説明しない作風をずっとやってきた人なのかなっていうふうには個人的には思ってて。
でまたその近作の美しい星も羊の木も結構難解というか分かりにくい映画だったかと思うんですけど、
そこで一気にここで騙し抜きまでめちゃめちゃ分かりやすい話になったんで、
なんかエンタメの方に行こうと目指してるのかなっていうのはちょっと感じて、
そこはね良いなって思うんですよ。
ファンの間で評価されてるちょっと文芸的な作品を作ってる監督が、
より広く知られてほしいみたいなのってあるんですよね。
キリシマブカス辞めるっていうのも、
日本アカデミー賞の作品賞取ってるのにテレビで地上波で放映してないですよね。
あれおかしいなと思うんですけどやっぱりね、
キリシマも分かりやすいけどやっぱテレビで見るには分かりにくいんですよね。
すごい腕のある監督なのに。
直球のエンタメをあまり作ってきてないので、
もっと知られてほしいっていうのもあるし、
本人としてももっと表舞台にというか、
もっともっと前に出ていきたいっていうのがあるんじゃないかなと思って、
今回それに挑戦したのかなっていうふうには感じたりはしました。
そこはやっぱり買いたいし、
ただやっぱりねそのエンタメ的なノリ、
描き方がなんかそんなに慣れてないんじゃないかなって思うところはちょこちょこあって、
さっき言った分かりやすくしようとしすぎて、
なんか良くないステレオタイプにハマっちゃってるみたいな演出とかも含めてなんですけど、
テンポもねなんかジャカジャカっていうギターかき鳴らす音楽でテンポ良く話が進むっていうのもね、
なんかテンポはいいけど、
あんまり快楽につながらなかったっていうふうに感じたりはしました。
個人的にはですよ。
テンポが音楽的な快楽につながる展開ってあると思うんですよね。
なんかそこがないなとは思って。
あとは良かったところ、
基本的にこれに出てくるキャラクターたちって本のこと死ぬほど好きなんですよね。
本を作ることであるとか本を売ることが死ぬほど好きなんですよみんな。
ここはね大事なところというか、
権力争いをしてるのにみんなその権力の目的が本を作ること、本を売ることなんですよね。
そこはやっぱり元々の原作にもあった要素なのかなと思いつつ、
吉田大八監督の作家性にかなう部分でもあるのかなっていうと思って、
吉田大八監督の作品ってどれもなんかその分かりやすい社会的成功とは別の生きる目的を人は持ってるみたいなことを描いてるんじゃないかなっていうのを思ってて、
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キリシマ部活辞めるってなんていうのはもうその最大のものですけど、
僕が見てる範囲だとふぬけども悲しみの愛を見せろと、神の月と美しおしと羊抜きなんですけど、
どれもそういうテーマだったと思うんですよね。
悔ひを倒したとパーマネントノバラはちょっと見てないんですけど、
分かりやすい社会的成功とは別に人は人に共感できない自分だけの価値判断基準であるとか信念であるとか、
何かを持ってて、それは理解されないかもしれないけどそれを持って人は生きるみたいな話なんだと思うんですよ。
吉田大八監督が描きたいこと。
で、今回その魂絵の牙においてはみんな本なんですよねそれが。
だからむしろ分かり合えないというかみんな共通してるんですよ。
ただその本っていうものの扱い方が全員違うので戦ってるんですよね。
ただ大前提として全員根っこに本が好きっていうのを持ってると。
それがバチバチにぶつけ合うって話なんで根っこは一緒。
ただそっから先がこれまでの監督のアプローチとは違うタイプの作品だったのかなと思います。
そもそも今までの吉田大八監督の作品だったら本好きなやつ一人しか出てこないみたいな。
主人公だけ本好きで周り本好きなやつ出てこない作動するみたいな話が多かったと思うんですけど。
みんな本好き、みんな本作るの好き、みんな本売るの好き、その上でお前が作る本は違うみたいな。
自分と向き合うというより実物的な部分で商売がたきと戦うみたいな話になるので。
そこはね、今までと黄色が違った部分かなっていうのがあります。
ただそこでうまく処理しきれてなかったのかなっていう風に僕は感じました。
皆さんがそうとは限らないとは思います。僕が感じたっていう限りね。
ただね、元々持ってた吉田大八監督の資質みたいなのがブシブシに見えるところはやっぱあって、
僕すごい好きだなと思ったのは本当にラストのラストのところで松岡真由演じる高野が最後リリフランキー演じる伝説の小説家の連載というか、
作品を自分が始める本屋で売る本に撮ってきて、
大泉洋の出版社での出版の後回しになるみたいな展開があって、
そこでずっとずっと人を騙し続けられていた早見が高野に負ける唯一騙し負けするシーンが来るんですね、そこで早見。
そこでずっと早見ってひょうひょうとしてて、なんて言ってんのかな。
ザひょうひょうキャラみたいな感じ、仕事のできるヒルアンドみたいな感じをめちゃめちゃ前面に出してるキャラなんですけど、
ここで負けたことで持ってるコーヒーを床に叩きつけるんですよね。
なんかひょうひょうとしてて協力主義的というか、面白かったらそれでいいよねみたいなキャラクターなんですよね、そのシーンに来るまでの早見は。
トリックスター的な面白いことが起きて、みんながびっくりすればそれでいいよね、面白いよね、人生ってそれでいいじゃんみたいなトリックスター的なキャラクターとしてずっと振り回ってるけど、
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でも自分が出し抜かれたり、自分の手柄を横取りされたりするのが嫌っていうのがわかるんですよ、そこで。
だから実際には結構上昇志向というか、一般的な価値観での成功欲みたいなのを持ってるタイプのちょっと脂っこいキャラって言ったらいいんですかね。
ドロッとした脂っこい欲望を持ってるキャラクターなんだっていうのもここで見えるんですよね。
そこで一気にこの早見っていうキャラクターが肉体を得たっていう感じは僕は思いましたね。
そこまでが本当にトリックスター的に振る舞うために存在している、もともと大泉洋さんに当て書きされたキャラクターで、もともとの大泉洋さんのキャラクターもそういうひょうひょうとしたトリックスターみたいなイメージ持ってらっしゃると思うので、
そこに当て書きされているザ・ひょうひょうみたいな感じをずっと演じてきてるけど、そこで一気に脂っこい欲望を見せるんですよね。
そこで一気にリアルになったなと思って、すごい好きだったんですよ。
実際大泉洋さんも水曜どうでしょうとかで何枚振ってきて、バラエティ的なキャラクターでありつつ、俳優としても一定の評価をずっと積み重ねてきた方で、相当常識思考強いっていうのは、これまでの経歴からもわかると思うんですけど、キャラクターにはそこが現れてないですよね。
だからあの負けん気というか野心みたいな部分、脅落的なキャラクターと野心を持っている題名っていうのを合わせて持っているキャラクターってまさに大泉洋さんだと思うんですよ。
そこをちゃんと描いているのすごい良いなと思って。
なんかね、あそこはその人に見せている人物像、口に出している言動と人が根っこに持っていることって違うよね。
これってまさに今まで吉田大八監督がやってきたことだと思うんですよ、このテーマ。
それが最後に最後に出てるなと思ったので、そこはやっぱり好きでしたね。
こういうのを見に来るために吉田大八作品を見てるんだなっていうふうに思ってたと。
ただやっぱりもっともっと大舞台に出ていってほしい監督でもあるので、エンターメンにも挑戦していってほしいなと思いつつ、
こういうちょっと分かりやすくはなりきらない質質みたいなのも残していってもらえたらなと思います。
一ヶ所だけそういうシーンがあるだけでその映画のことをまるっと好きになったりはするじゃないですか。
最後のコーヒー叩くシーンがそれでしたね、元にとっても。
ちょっと全体的なノリとしては合わない部分は正直ありました。
ただそれでもやっぱり嫌いになりきれない、どこか好きな作品でもありますね。
そんな感じですかね。
あと吉田大八監督に関してはやっぱりね、ちょっと桐島部活辞めるっていうような話をしたくなってはしまうんですけど、
桐島部活辞めるっていうのは本当に僕の人生の中でも最重要映画の一つで、今ぐらい映画を見るようになったのって桐島を見たからなんですよね。
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桐島を見て、何かをやろうと思ったんですよね。
それがちょっと別のポッドキャストの回でもお話しさせてもらった地元の映画館で映画女優会をするってことであるとか、
多分この映画ポッドキャストもそうなし、月一でやってる映画バーとかもそうなんですけど、
映画で何かをやろうとするので、生きていこうとしていいんだなって思えたのが桐島部活辞めるっていうのを見たからなんですよ。
これで生きていっていいんだなって感じたのがあの映画を見てなんですよね。
本当にセリフでもあるんですけど、ドラフトを待ってる。
自分が絶対にかからないドラフトを待って素振りをしてるっていう状態。
ドラフトにかかるっていうのが商業的に成功するであるとか有名であるとか、そういうことではないとは思うんですよね。
ただ何か自分の生きている意味が今やってることにつながってると信じられる状態でいい。
それが生きるということだみたいなことを言われた気がしたって感じがしました。
それが僕にとって映画かもしれないなって思ったのがきっかけなんですよ。
あと桐島を見た後、人の感想が見たくて見たくていろいろ調べてたらたどり着いたのが、
ラジオ番組のウィークエンドシャッフルの小田丸さんがシネマハッスラーで桐島部活辞めっていうのの話をしてる回なんですよね。
それがニコニコ動画にアップされてたんですよ。
いけないやつですよこれ。
ダメなやつですけど、初めそういうのあんまりよく分かってなかったんで、
なんかあると思って聞いたらラジオだったんですよね。
あれは本当に名秘評価位ですよ。
あそこでハマって、そっからずっとシネマハッスラー聞いて、ムービーウォッチメン聞いて、
だからそっからめちゃめちゃ映画見る頻度増えましたからね。
僕が今ぐらい映画見るようになったのって、桐島部活辞めるって言うとシネマハッスラーなんですよ。
てか、まあ、あの、
小田丸さんなんですよ。
これは本当にそうなんですよ。
だからもう人生の契機の一つなんですよね、この映画が。
小田丸さんにたどり着く経緯でもあるので、桐島部活辞めるっていうのは。
最重要作品の一つというか、もう最重要作品と言い切っていいかもしれないですね。大切な映画です。
ただ、今見るとやっぱちょっと、今の価値基準では少し古くなってきてるかなっていう思うところもあって、
それがやっぱりそのマイノリティというより、サブカルチャーに代表されるような弱い立場の人間こそが人生の生きる答えを持っていて、
表層的に生きている人間っていうか、社会的に分かりやすい立場を持っている人間はそうではないっていうふうなことを言っている話。
まあ、桐島部活辞めるっていうのは、その学校の中でいわゆるスクールカースの上にいる奴らが実は虚無を抱えてて、
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スクールカースの下にいる奴らが映画であるとか、吹奏楽であるとか野球っていう生きることの意味をつかんでるって話。
だからパッと見成功してる奴より、そうじゃない奴の方が人生をちゃんと捉えてるっていうことを言ってる映画なんですけど、
それももうなんか違うのかなって段階が来てるのかなって思うんですよ。
で、これはおそらくSNSとかの発展にもつながってると思うんですけど、
実はみんなマニアっていうことが暴かれたんじゃないかなと思うんですよね、SNSとかによって。
実はみんなマニアだし、実はみんな特殊だし、それと同時にみんな普通なんですよね。
だからその、そこでサブカルチャーとかに触れて、そこに言い場所を見出してた人間が、
いわゆるマジョリティ的な価値観と自分を比較してこっちの方がいいって思うような話っていうのは、
ちょっともう古いのかなって思うんです、もはや。
そこに俺たちとあいつらっていうある種の分断を生んで、
そこにある種の先民思想で救いを求める時代でもないんじゃないかなってちょっと思ったりはします。
まあキリシマンはそこまで単純化された話ではないですよ、もちろんね。
ただそういう見え方をするような話にはなってるなと思って。
まあルサンチマンですよね。
俺の方があいつらより実は俺の方が恵まれてる。
俺の方が実は隠された才能を持ってる。
隠された本当の人生の生き方を俺は知ってるとあいつらよりもみたいな、
ある種の先民思想に救いを求めてはいけない時代なんじゃないかなと思って。
そこにあるのは俺たちとあいつらとの間に分断で、
そこにはどんどんディスコミュニケーションが生まれていくわけですよ。
そこでその分断から生まれる自知識って本当に危険だなって最近思うんですよね。
ジャンプでやってる漫画で僕のヒーローアカデミアっていう漫画ありますよね。
あれってキャラクターたちが持ってる超能力のことを個性って呼ぶんですよね。
あの漫画を初めて読んだ時もすごい面白い言葉遣いだなと思ったんですけど、
なんでそこ面白いかっていうと、
結局個性を持ってるっていうことは超能力であるということっていうことを言いたいわけですよ。
そこにあるのは個性的であるということはスーパーマンであるということであって、
個性がないということは凡人だっていうことをあの言葉遣いは暗に意味しているわけなんですよ。
そこにはやっぱりちょっと面白い言葉遣いだなと思いつつ不健全だなと思ったんですよね。
なんかその個性的でなければならないっていう呪いですよそれはもはや。
それはやっぱりそのSNSの登場でみんな何かのマニアでありみんな何かの地点では凡人なんですよね。
そこで何者かになりたい何者かになりたい個性的になりたい力を得たいっていう思い自意識ってやべえと思うんですよ本当に。
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その周りも傷つけるし自分も傷つけるもんだと思って、
その潜壁に救いを求めてはいけないんじゃないかなって最近よく思うんですよね。
そこにあるのは自分と誰かっていうのを無数に繰り返すことをしていかなければならんじゃないかなと思って。
俺とそれ以外のすべての二項対立ではないし俺たちとあいつらっていう二項対立でもないんですよ。
自分と誰か自分と具体的な誰か自分とそれとは別のもう一人の誰かっていうのを無数に繰り返していくことに向き合わないといけないんじゃないかなって思ったりはして、
キリシマ部活辞めるっていうのは表層的に見ちゃうと単なるマイノリティのルサンジマンを慰めるための話に見えないこともないかなとは思ったりはして、
でもねやっぱそれでいいと思うんですよ。もはやキリシマ部活辞めるって言って9年前の映画なんですよね。
もう本当に見た時はこんな完璧な映画はないなと思ったけど、
今見るともっともっとそのいろいろ前に進んでいくための過程だったなと思うんですよね。
あれが完成ではないんですよね。過程なんですよ。
だからきっともし世の中の価値観がアップデートされていくのであれば、キリシマ部活辞めるっていつか本当に古い映画になる日が来るんですよね。
それはそうなった方がいいんですよ。それが世の中が前に進むってことだと思うので、
いつか僕もキリシマ部活辞めるって言うから本当に素な続きが来るのかな?では思ったりしつつ。
キリシマはよくできてる映画なんですよね。
こういうルサンチマンを慰めつつ、
いやマイノリティもジョリティもみんな悩みがあるよねっていう多様性を受け入れる視点もありつつ、
その多様性を受け入れる視点があることでちゃんとそっちに目配せしてるから、
ルサンチマンを慰める方向で見てもいいよねっていう自分に対する逃げ場を作るっていう風になってて、
そこはすごい上手いんですよ。ただ悪い見方はできるっていう感じかな。
キリシマ部活辞めるっていうのに関して本当に思ってることいっぱいある映画なんで、
いつかもう一回見返して喋ってみてもいいかなと思ったりします。
ただ結論としては今回言ったことがある種の結論になりますね。
キリシマもキリシマがゴールではない、キリシマもまた過程であるというのが僕にとっての今のキリシマです。
なんか騙しへの牙の話から始まってなんかめちゃめちゃそれたな。
はい、以上です。
ではお知らせになります。
これまでもやらせてもらってた大阪の南森町で開催してた映画の話した次はまた開催します。
次が4月の24日土曜日の17時から21時開催予定です。
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また皆さんで映画の話できるような場にできたらと思います。
感染対策しっかりしてお待ちしております。
営業時間に関してはもしかしたら変更になるかもしれないのと、
あるいはもしかしたら万が一感染状況によっては中止になる可能性もあるので、
そのあたりはこのポッドキャストからリンクで進める僕のブログの方で最新のお知らせを一度見ていただけたらなと思います。
はい、って感じですかね。
では、ポッドキャスト吉野映画酒場第18回だましえの牙と吉田大八監督と桐島部活キャンペーンの話に最終的になっちゃいましたね。
終わりたいと思います。
それではまたお会いしましょう。さよなら。