はい、始まりました。映画の話したすぎるラジオ第193回になります。
この番組は、大阪で映画トークバーイベント、映画の話したすぎるBARを開催している店長メンバーらによる映画トーク番組です。
私、映画の話したすぎるBAR店長のマリオンです。
大石です。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
はい、山口さんちょっと遅れて参加ということで、一旦ちょっと2人で先に進めておこうかなと思うんですけども。
はいはい。
では、大石さん、近況何かありますか?
そうですね、今週というか、まあ2週間ぐらいあったんですけど、16まで。
で、その間に見てた作品として、花嫁はどこへ?をようやく見まして。
ああ、山口さんがお勧めしてたやつですよね。
ああ、そうですそうですそうです。ちょっとなんか見たいなと思いつつ、なかなか見れる機会がなくてずるずると。
でもここまで何とか映画館でやってくれてたので、ようやく見れたんですけど。
インド映画ですよね。
はい。
詳しい説明はたぶん以前山口さんがされてると思うので、そちらを聞いていただけたらなと思うんですけど。
いやー、なんかほんとちょうどいい映画あったなっていう感じがしましたね。
なんていうか、ほんとにエンタメ性と社会的な側面の両方がマジでちょうどいいというか。
どっちも安心して見られるというか。
それがすごい見てていいなと思いました。
すごく社会性というか、社会的なテーマみたいなのをうまく映画にしてるんだろうなっていうのは話を聞く間に思ってはいたんですけど、やっぱりその通りって感じだったんですね。
全体的にインドのある側面っていうか、女性が結婚っていう中でベールをかぶって顔を見られないようにして、何なら名前もあんまり結婚して向こうの家に着くまでは出してはいけないみたいな。
そんな感じの文化があるらしいんですけど、その文化自体でそれで起こってしまうトラブルっていうのがある意味映画を駆動していくわけですけど。
花嫁さんが。
その文化自体を否定するとかそういうわけではなく、女性が置かれている立場だったり、そういったもの全体をしっかり俯瞰で捉えて、それでも結婚っていう道を選ぶ人だったり、あるいは自分で額をつかんで自立していく人。
その両方をいいよねっていうふうに描いてるあたりが、すごい現代的だなと思って。
若草物語みたいですね。
僕はそれこそ、今年のエンタメだと虎に翼もそんな感じだなって思ってるんですけど。
最近それで聞いてたのが、富永京子さんっていう社会学者で政治運動の研究をされてる方がいて、つい最近その方のポッドキャスト、仕事の合間に行ってポッドキャストを聞いてたりしたんですけど、
その中で、それも確かインドの研究だったかな。
女性の自立ってどういうものなのか、特に家とか場所と自立についての研究の話をされてて、ちょっと映画から話が逸れちゃうんですけど。
その中で有名な、バージニア・ウルフって女性の小説家いらっしゃいますけど、その方が言ってたのは、女性が自立するためには家を持った方がいいっていうふうな有名なエッセイがあって。
ただそれって、経済的な自立を前提としてると。
結構富永さん自身の問いの中にあったのが、果たして経済的に自立してない女性は本当に自立してないのかっていう。
富永さん自身が研究者をやっていく中で、自分のお母さんに生活の身の回りのお世話をしてもらってたことが、時期があると。
研究者としていろいろ点々としていく中で、お母さんについてきてもらったりとか、住む場所みたいなのも結構こちらで決めてしまう。それは自由ではない、自立ではないんじゃないかっていうふうな。
つまり自分は母親を搾取してるんじゃないかっていうことに気がついて。
結構虎の翼関連でその対談とかを毎日新聞とかでされてたんですけど、それもめちゃくちゃ興味深かったんですが。
その中でお母さんがそもそもそんな視点がないっていう話をされるんですよね。
もちろんそれは社会的な立場でその視点を持てないからだっていう意見もあるんだけど、果たして本当にそうかっていうことを問ってるんですよ。
それでその研究、インドのいわゆる貧困独身女性が、あるいはDVから逃げるようなシェルターみたいな形で、国連から与えられているすごいボロ団地みたいなところがあるんですけど、そこに住んでる女性たちの研究を紹介されてて、
その方々は限られた地域の場所の中で塾講師というか家庭教授をやったりとか、クモみたいな感じですね。
あるいはちっちゃなお店を持ったりとか、あるいは2階を増築して人住まわせたりとか。
結構いろいろ自由にやってる感じですね。
だからバージネンウルフが言った場所を持つというか、自分の場所を持つって経済的な自立が必ずしも必要条件じゃないんじゃないかっていうお話をされてたんですよね。
で、その中で自分のお母さんも確かに住む場所、どこに住むかという選択肢は自分によって奪われたかもしれないが、
ただ家の中の本棚だったりとか、あるいは自分の暮らしの中で住める場所っていうものを作ることで自立してたのではないかっていう、
という視点もあるんじゃないかって話をされてて。
だからまさに花嫁はどこへでも、花嫁になりたい人と花嫁になりたくない人って2人が出てくる。
その2人のある意味、その両方を肯定していく話になっていくんですけど、
なんかそれは両方とも自立なんだなっていう。
そうか、なるほどな。経済的なものとある意味、精神的なっていう感じですよね。
精神的な自分の居場所だったりというか、自分を司る何かっていうのを持ち合わせるかどうかっていうのが結構大事っていうことが、
この花嫁はどこでっていう話からも聞いてくるよね、そういうのがっていうのが話かなって思う。
そこは結構部分的というか、僕が勝手に関連づけてるだけでもあるんですけど、
でもなんかそういう、なんていうかな、ここ最近のエンタメの中での女性の描き方っていうところで、
経済的に自立するだけが必ずしもゴールじゃないって描き方されてるのがすごいいいなと思いながら見てはいましたね。
どうしてもどっちかがいい、どっちかが悪いみたいな描かれ方をされちゃう時も結構あると思うんですけど、いろいろ。
そうじゃないよっていうところがすごくいいんだろうなと思って。
今回の花嫁どこでっていう映画とかもだし、おじさんの話しくださったポッドキャストでの話とかもそうなのかなと思って、
ちょっとどちらもすごく気になりましたっていう。
はい、今週はそんな感じです。
ちょうど山口さんが収録に参加されました。お疲れ様です。
お疲れ様です。すいません遅くなって。
いえいえ。
では山口さんの近況いかがですか?
はい、まずおじさんが試写で見てたどうすればよかったかを見てきましてですね、
結構まあおぞましい話だしめちゃくちゃ重い話でもあったんですけど、
この地獄は程度の差こそありふれてるなとは思ったんですね。
そんなに特別なことではないとは思って、
自分から遠いところにある恐ろしい話とかではなく、
全然当事者になり得るっていう、あらゆる意味で当事者になり得るっていう緊張感があるなっていうふうに思いながら見てたんですけど、
お姉さんが統合主張症になって、
お父さんとお母さんがエリートというか、
ものすごく医学の道でしっかりやってきてる方で、
どうしてもその期待をお姉さんに引き続きかけてしまってる状態っていうのが、
ある種の呪いとして働いてるなっていうのがあって、
見ていたら、
お父さんとお母さんに自分たちがやったことの因果応報がなされたような感じに見えんこたない感じにはなるなと僕としては思ったんですね。
それぞれにとって、
お母さんにはお母さんにとっての、
お父さんにはお父さんにとって一番きつい因果の返り方がなされたように見えるなって僕にはちょっと思ったんですよ。
ただその因果応報の物語を求めてしまうのめちゃめちゃ怖いなと思ったんですよね。
お姉さんにやったことが自分たちに返ってきてるなって僕に見えたっていうことが怖いなというか、
だってその物語を求めたからこそお父さんとお母さんはお姉さんにああしてしまったわけで、
そこに意味の連なりみたいなものを求めてしまうこと自体がめちゃめちゃ危険だなと思ったんですね。
現実には物語は付与されてないっていう、
現実に物語を付与しているのはそれぞれの主観によってなんだっていうのを本当に自覚しとかないと、
全然こうなるぞっていうのがあってすごい怖い話だなと思いつつ、
ただすごい救いもあるなと思って、
後半でお姉さんが投薬療法で症状が改善する展開があるんですけど、
そこからお姉さんがピースするようになるんですよね。
あれがむちゃくちゃ良くて、
もうすごい良い歳になってるんですよね。
その治療を始める時点でお姉さん多分50歳とかなってからだと思うんですけど、
結構人生としても取り返しつかなくなってるけど、
すっげえ良い笑顔でピースするんですよねお姉さんが。
すごいんですよあれが。
僕見てて思ったのが人間ってあのピースをしたり、
誰かがあのピースをするのを見たりするために生きてるなと思ったんですよね。
それぐらいあのピースの意味は重たいなって思いました本当に。
すごいですね。
本当にただのピースなんですけどね。
むっちゃ良いなとは思いましたね。
力強さじゃないですけど、
人生魅力みたいなものを勝手に感じちゃってるのもそれぞれの物語なのかもしれないんですが、
でもあれには強さがあるなって思いますよね、姿には。
すごい良いです。
あとはラブアークチュアリーのリマスターを見てきたんですけど、
有名なロマコメじゃないですか、ロマコメといえばぐらいの有名作だと思うんですけど、
あれですよね、ブリジット・ジョーンズの日記の監督が映画を撮ったっていう感じですよね、流れ的には。
違ったっけ?ごめんなさい、あんまり自信がなかった。
わかんない。
アバウトタイムと同じ監督だったのは覚えてるんですけど。
リチャード・カーティスってことですね。
そうです。
リチャード・カーティスちょっと調べましょう、姉ちゃんとね。
いろいろ何か間違えたものがあって言うと、あーってなっちゃうので。
ブリジット・ジョーンズの日記の脚本ですね、やっててっていう感じですね。
よかった。
やってました、すいません。
時期的に今2000年代前半で、コリン・ファースとかリー・アム・ニーソンとかね、
僕たちが今より若い姿で出てるのがいいよねっていうのがあるんですけど、
キイラ・ナイトレイがね、出てるんですけどね、キイラ・ナイトレイむちゃくちゃ可愛いんですよ。
ずるいっすよね。
可愛いし。
すごいんですよね。
やばいぐらい可愛いですよね、キイラ・ナイトレイ。
やばい、ほんとに。
ただ本作で一番可愛いのはヒュー・グラントなんですよ。
このダンスですよね、このダンス。
ヒュー・グラントが飛び道具として使われだしたなっていう感覚を僕はすごい覚えて、
今ってもうヒュー・グラントって飛び道具じゃないですか、今の映画界におけるヒュー・グラントって。
ヒュー・グラント飛び道具。
まあまあそうかなっていう。
だってイギリス首相としてのヒュー・グラントが急に変な踊りするのは可愛すぎて。
すっげえヒュー・グラントになってなかったんですけど、
結構単にコメディーで面白おかしいだけじゃなくて、
人生の下品な部分とか苦い部分もしっかり描いてるなとは思ったんですね。
なんか不倫しようとしているのに対して内緒にしとくとか、
あとデザイン事務所で思ってる相手といい感じになったと思ったら、
精神的に調子悪い弟からの電話がかかってきてみたいなのとか、
人生のままならなさみたいなすごい苦い味わいもする話なんですけど、
最終的にクリスマスに一緒にいる人は自分にとって一番大事な人っていう着地にはなっていくっていうのは、
良さでもありちょっと残酷でもあるなとはちょっと思ったりもして、
一番大事な人に話が収束していくんで、
それは少し残酷さもある話だなと思いながら、
結構苦いなぁと思いながら見てる間ギラギラ笑ってるんですけど、
口の中が苦くなるような瞬間もあったりとか不思議な映画だなぁと思いながら見てました。
みなさん見ている感じですかね?
僕もこの機会に見直しました。
そうなんですね。
僕はコリン・ファースのエピソードが一番好きなんですけど。
いいですよね。
報道ですけどね。
ラストのレストランの展開とか。
そんな人来るかとかいろいろツッコミどころなんかもあげたら気にないんですけど、
でももうなんか愛おしくて仕方ないというか、
おじさん可愛いなっていう。
いいですよね。
見てるんですけど、だいぶ前に見たんで覚えてなくてやっぱり見てる。
二人は足を切っててすごい怒りました。
クリスマスに見直すのはいいと思います。
見直して思ったのが、
イギリス映画なんでめちゃくちゃアメリカのことバカにしてるなと思って。
めちゃくちゃバカにしてますよね。
あれすげー笑ったんですよね。
ちょっとね、なんかアメリカの女はさーみたいな展開が実現していくのとか、
ちょっとさすがにみたいな。
そうなんすよ。アメリカ首相も下品だし。
イギリスっぽい意地悪さもあるなとは思いつつ、
味わい深い映画だったなと思いました。
あと銀河鉄道39の劇場版がリマスターやってるんで初めて見てきまして、
テレビシリーズとか見たことない人だったんで、
ただもう伝説じゃないですか。銀河鉄道39なんて。
期待して見に行ったんですね。
39ってやっぱお好きな人ほんと好きなんで、
ちょっと喋るの少し怖いんですけど、
もともとが100話以上あるテレビシリーズのアニメなんですけど、
それを2時間程度の映画に圧縮してるというか、
全然違う話になってるっぽいんですけどね。
ただ、もとが100話以上かけていく長い長い旅なわけなんですけど、
2時間になると主人公星野哲郎が、
少年から大人の男に成長するためのイベントをものすごいみっちみちに詰め込んで、
淡々とこなしていくRTAみたいな感じにちょっと見えてしまって。
次の駅については人と会って、その人が何かイベントを与えてくれて、
それをクリアしたら成長するみたいなのが繰り返されるみたいな感じに見えてしまって。
本来旅というものがあったほうがいい時間的な間とかがなくて、
本当に味方となってくれる人、超えるべき敵ってイベントみたいなのがぎゅーっと詰まってるんで、
旅をしてるというか、クエストをこなしていってるようにちょっと見えちゃったというか。
だから、たぶんですけど、元のテレビシリーズのことを知ってたら、
たぶんその圧縮の中にも余白を見出すことができたと思うんですけど、
もうちょっと密度が高すぎて、何か違うものに見えてしまったかなっていう部分があったんですけど、
どちらかというと、この劇場版は僕には銀河鉄道3-9とは何かっていう論評になってるような感じがしたんですよね。
劇中ずっと銀河鉄道とは、宇宙の中で人々が生きて死んでっていう、
その勇気の時を繰り返してきた中を貫いている鉄道として語られ続けるんですけど、
これって限られた時間のメタファーなんですよね。
たぶんそのテーマはもともと絶対あるんですけど、
なんでわざわざ宇宙を旅行する高校手段を機関車の形を模してるのかなんて、
その時間的な意味を与えるためじゃないですか、そこって。
それをより明確に説明しているのがこの劇場版になってるなと思って。
あとメーテルっていうシロインがいますけど、徹底的にファム・ハタールとしての振る舞いをしていくんですね。
だからもう主人公鉄路にとってのお姉さん的な存在というよりも、
2時間の間に謎を散りばめるためのファム・ハタールみたいな感じになってて、
かつそのメーテルが自分で、私は少年の日に見た青春の原影みたいなことを辞書するんですよ。
メタ発言じゃないですか、それって。
すごい有名なセリフなんですけど、この劇場版の。
だから本作自体が、銀河鉄道39とは、そしてメーテルとは何かっていう、
それは限られた時間の中での青春のメタファーであるっていうのを論評してるような作品だなと思って。
だからこそ元のテレビシリーズを見といた方が絶対に味わい深いものに見えたと思うんですけど、
ちょっと一本の映画としては、ちょっと密度が高すぎるものに感じたかなっていうふうに僕は思いました。
やっぱこうテレビシリーズで何週間もかけてその物語に付き合っていくわけじゃないですか、テレビシリーズだと。
その見ていく行為自体が旅になってると思うんですけど、来週はどんな展開かなとか。
それを待ってる間もテレビ、アニメを見ている体験だと思うんです。
それ自体が旅になると思うんですけど、やっぱそれがないというか、
あっという間に一本の物語を見ていくっていうものと、旅っていうものが少しちょっとなぞらえにくくなってる感覚。
特にもともとテレビシリーズだったものを劇場版にしてるから、
再構成というか全然違う話になってたとしても同じモチーフなので、
やっぱりちょっとテレビシリーズ知っといた方が良かったのかなっていう気がしたっていうのがあったんですけど。
なるほどな。なんか関係あるかわかんないんですけど、話が若干脱線しますが、
電車というか汽車というモチーフと青春って確かにすごいわかるなって気がして。
JRのドンコウって青春18切符って言うじゃないですか。
別に18歳じゃなきゃ買えないとか若い人が安くなるとかってわけじゃなくて、
ただ青春18切符って名前で売られると。一日どこを乗ってもいいっていう。
でも確かにドンコウに乗って遠いところに行くってめっちゃ青春感あったなっていう記憶があるんですよね。
実際自分もそれ使って仙台から福井に行ったりとかしてたんですけど、
なんか一日とか二日かけてただただ道を行くのって、
新幹線で同じ場所に行くのとは全然違う感じがして、
なんとなく映画版は新幹線だったんだろうなって思ったんですよね、話聞いてて。
かもしれないですね。
銀河鉄道39って乗ったら帰れない旅だって説明があるんですけど、
劇中に出てくる駅4つぐらいしかないんですよ。
少ない。
あっという間にゴール着いちゃうんで、
なんかやっぱりその悠久の長さみたいなものがあんまり感じられないんですよね。
テレビシリーズ100何話もあったらもう駅いくつもいくつも辿って行ってるわけじゃないですか。
その各駅停車のようなじっくりと生きていくっていう感じが、
ちょっと映画版だけだと感じにくいっていう感じはしたんですよね。
たぶん望みに乗ったら静岡そのまますどりしますけど、
青春18でどんこり静岡行くとめちゃくちゃ長いんですよね、静岡。
入ってから一日静岡まだ終わってないのかみたいな。
でもあれが結構大事ってことかもしれないですよね。
まさに銀河鉄道999におけるテレビシリーズっていうのがまさに鈍光的な。
あんなエピソードなんか意味あったかわかんないけど、
でも振り返ってみたらそれがあるから成長みたいなものを感じるよねというか。
そういうものなのかなってちょっと話を聞いてて思いました。
そうですね。
テレビシリーズを本当にね、見といた方がやっぱりより身近に感じれたと思うんでね、
鉄道とメーテルのことも。
確かに確かに。
あれだけ身近に寄り添ってきたメーテルが最終どうなるのかみたいなのも、
やっぱりもうそこに始めから向かって物語が進むんで、映画だと。
そうじゃない時間がないんですよね、映画だけだとね。
そっか、結末ありきで見し始めちゃってる感じになっちゃうんですね。
いやー、スリーナに好きな人に怒られなきゃいけないって。
大丈夫じゃないですか?
いや、ちょっと僕はスリーナに見てないんで、何も言えないんですけどこれ以上ね。
はい、そんな感じでした。
はい、じゃあ僕ですかね。
あと映画見てると音楽とかすごいブツ切りだったじゃないですか。ブツって切れるみたいなのが映画の切れ味じゃないですけど、持ち味になってると思うんですけど、
逆にギフトだとすごいシームレスなんですよね、音楽とかは。
とにかく音が重なって重なって切り替わってっていう感じで、ほんとシームレスに続いていって、
本当に途切れがない感じ?もう淡く繋がってるみたいな感じなんだけど、でも逆にその分はっきり映像とか物語のグラデーションみたいなのがくっきり見える体験になってて、
ほんと全然違うじゃんっていうのが面白かったですね。生でしかもライブで見るって感じなので緊張感もすごい高いし、そういった意味でもまた違う感想体験っていう感じで、これは見事だなって思いました。
僕全然わかってなかったんですけど、ギフトと悪は存在しないって、元は同じ映像からできてるってことですか?
そうです。
すみません、知ってる前提感で話してしまったんですけど。
そういえば前その話した気がする。
した気はするんですけど、そもそもちょっと成り立ちが不思議な映画というか作品というか、映画作りますよって作った映画じゃないって感じなんですよね。
なのでそこがこう面白い作り始め方だなっていうのもあるし、全然持ち味も全然違うというか。
でもなんか最近浜口隆介先生このラジオでもちょこちょこ触れてたその1回の偶然性というか、ライブっていうその1回制のものと映像というその何度も何度も繰り返されるものっていう、なんかそのあいのこみたいな感じのパフォーマンスになってますよね。
そうですね、そういう感じだなって思いました。
やっぱり悪は存在しないという、映画という形で見るとどうしても演者が話してる言葉とかに結構注目しちゃうじゃないですか。
やっぱり声がない分、映像に目がよく行くんですよね。
映画として見てた時も気づいてはいたけど、水蒸気とか煙のモチーフって結構頻繁に出てきてたじゃないですか。
はいはいはいはい。
うどん湯が入れる時のとか、なんかすごい霧というか、みたいなところとか。
なんかそういったものがより目が行くようになってたりとかするし、あと全然映画で使ってないカットも普通に入ってきたりとかするし、でもフレッシュだしっていう。
びっくりしたんですけど、悪は存在しない、一番目を引くシーンと言っても過言ではないと思うんですけど、
ド頭の木を下から見る、見てずっとそれが続くみたいなシーンあるじゃないですか。
ギフトにもあるんですけど、全然最初にもないし、すごい途中とかにあるんですけど、しかも明らかに多分撮ってる時間帯が違うものを使ってると思いました、多分。
映画で見た時ってすごい天気悪い時の寒い時に撮った映像っぽく見えるじゃないですか。
でもなんかギフトでそのシーン見ると、多分別の時間帯に撮ってて、多分なんとなく冬の3時とか4時ぐらい、まだちょっと日が出てるなみたいな感じ。
木の色がまだ茶色が見えるみたいな感じが光に照らされて茶色っぽく見えるみたいな。
時間帯に撮った時の映像っぽくなってて、多分撮ってる時間帯が違うなっていう映画と同じ構造のシーンだけどみたいな感じになってて。
本当になんか全然違うみたいな。そこがやっぱ面白いなって思いました。
聞いててすっげえ興味深いなと思ったんですけど、ライブ感みたいなもの、だから一回生みたいなものが表現されてると同時に、
そのギフトと悪は存在しないっていう、元が同じにあるけど違う映画になるって、それって編集によってなされてるさじゃないですか、それって。
編集ってライブ生とか一回生みたいなものとめちゃめちゃ相反するものやと思うんですよね。
ものすごい後からコントロールするものというか、なんかその相反するものをめちゃめちゃ全部意図的に使いこなしてるんだなっていうのがすっげえよくわかるというか。
なんかどこまでコントロールできてるんだろうっていうのがちょっと怖く感じちゃいますね。聞いてて。
どこまで計算づくというか、考えあってっていうのがやっぱりちょっと恐ろしいというか、どこまでやれてるんだろうこの浜口龍介という人はっていうのがちょっと気になっちゃうというか。
そのセリフが字幕になって映像だけが際立つみたいなことをおっしゃってたじゃないですか。
そのレイヤーでも成立するように映画を作ってるってちょっと怖くないですか。
レイヤー変えても別の映画が作れるように映画を作ってるってちょっとやばいですよね。
そうですね。ちょっとやばいですね。
ギフトには、我々でも悪の存在しないの話したときに盛り上がったシーンあったと思うんですけど、いろいろ。
高橋がいかにダメなやつかとか言って話売りというか、車中での会話とかの話があったじゃないですか。
車中の会話とかマジでバッサリほぼないですからね。
まあまあそうっすよね。
ないです。
なんかそんな気はしました。
高橋の面白ポイントみたいな面白シーン、ことごとくギフトにはないんで。
あーそうなんだ。
それすげーなって思いました。
だから本当に味わいが全然違います。
意味合い変わりますね、それ確かに。
すごいなっていうか。
いろんな調理をしても楽しめるだけの面白さが担保できる。
度量の深さをすでに脚本に練り込んであるみたいな感じなのかもしれないですし。
編集、まあでも編集だからな。脚本って言うわけじゃないですね。
ちょっとこの人の映画作りはやっぱりすごいなっていう。
ちょっと怖いんですけど、悪は存在しないを見て、
例えばその自然と人間の関係がみたいな見方はできたわけじゃないですか。
それらも全部剥奪できちゃうというか、
この映画はこういう意味で作られてるんだみたいなものも実は全然そうじゃないっていうのが
簡単に再構築できちゃうっていうのが、
映画を見てそれをこうやって喋ったりしてる方に
実は携わって全く渡されてないのかなっていう感じで。
ちょっと怖いですね。
そうですね。
でも確かあれですよね。
リフトの編集されてるのって浜口さんじゃなかったんじゃなかったでしたっけ?
そうですね。
編集してる人は確か違ってて、
しかも脚本もあんまり出してなかったらしいですよね。
映像を出したものだけで何かしてるのかな。
ちょっと作り方は忘れちゃったんですけど、
でも全然全然違うんだよなっていう。
編集してる人が違うからそれはちょっと編集した人によって
意味合いとか物語の感じ方も変わるみたいなところなのかもしれないですけど。
悪は存在しないでもうダブルデックリジェクトされた山崎さん。
山崎あずささんかな?が確か編集で立ち上がられてて。
リフトの方はほぼ山崎さん一人で編集されてて、
浜口さんは編集はノーダッチっていう。
映画に作り手の意図とかを解釈することがバカバカしくなるなってちょっと思って。
まさに最後悪は存在しないって最後そういう形で終わる映画でもありますしね。
はぁーってなって終わって帰ってくださいみたいなことですよね。
全部手のひらの上じゃないですか。
僕ら今まで何の話をしてきたんでしょうね。
映画の話してますけどみたいな。
何だったんだ今まで僕らが話してきたことはみたいな感じです。
何もないよっていう。
そんなことを作り手なんも考えてないですよみたいなことが平然と行われてるっていうのは
ちょっと僕怖いですね。
映画を見るっていうこと自体が。
時として何かロジックを超えるのかもしれないですよねそこは本当に。
ちょっとそういう意味でも2つセットで見ていただくというのはすごい面白い体験だと僕は思いますんで。
しかもリフトの方何回もやってくれるようなものではないので。
一応今度悪は存在しないのでブルーレイが出るときに映像としてつくみたいですけど。
あ、そうなんですね。
なのでリフトを鑑賞することはできますけど。
でもやっぱり生演奏でというか。
やっぱりそれで見れるっていうのはすごい良いよなとは思うんですよね。
しかも終わったあとサインとかも書いていただけて。
へー。
しばしえいこさん。
もうめっちゃしどろもどろな感じでめっちゃ好きですって言いましたけど。
こういうときにスラスラと言えるようになりたいなってすでに言ってたんですけどこういう場面のときに。
あとちょっと長くなっちゃうんですけどもう1本話したいのがあって。
スーパーハッピーフォーエバー見ました。
ベスト入れるじゃんっていう。
ネタバレみたいな。
ネタバレしちゃいますけど。
やっぱり青井さんがグラディエーターの回のオープニングのときにお話されてたのであんまり詳しくは説明とかしませんけど。
やっぱりなんかこういろんなものがいとも簡単になくなってしまうっていう定観とか。
その諸行無常な感じっていうのが映画に通廷してる空気というかムードとしてやっぱあって。
そこがやっぱり自分にグサグサくるっていうのがあって。
ロボットドリームとかの話でもちょっと近いものがありますけど。
なくなってしまうというか、別れがすぐそばにあるみたいな。
だからこそなんてことない記憶だったりとか、出来事が本当に愛おしいとか、尊いっていうふうに思えるみたいなのがやっぱり素晴らしいなと思いまして。
確かにアフターさんっぽいっていう話してたんですけど。
特に映画のカラーがアフターさんっぽいってなって思ったんですよね。
どっちも海が綺麗な場所っていうのもちょっとあるんですけど。
たぶんこれ、スーパーハッピーフォーエヴァはあれですかね、伊豆?とかですよね。
静岡ですよね、たぶん。
静岡の海が綺麗っていうのはあんま僕実感として思ったことがあんまりないんですけど。
知らないだけなんで、本当は綺麗だよっていう意見があったら本当それはすいませんって感じなんですけど。
僕が知らないだけなんで。
静岡に海が綺麗なイメージがなかったので。
でもスーパーハッピーフォーエヴァで見る静岡の海ってすごい綺麗なんですよね。
太陽の光に照らされた時の色がすごい綺麗で。
本当にアフターさんの時のパーコイズブルーに近いようなカラー、空の色と混ざって。
そういうふうに見えて、色のトーンがすごいアフターさんっぽい。
プラスその記憶とかの話だから余計に結びついちゃうなっていうのがすごくありました。
映画見終わった時にトークイベントもあって。
監督のトークイベントもあって。
質問の中でやっぱりアフターさんの名前があがって、やっぱり似てますよねみたいなというか。
なんか意識してるんですかみたいなっていう話があった時に面白かったんですけど。
スーパーハッピーフォーフェバーの脚本シナリオができたぞってタイミングぐらいでアフターさんが公開されたらしいんです。
なのでその後にアフターさんを見た人が、「え?似てるよ?」って言われて、「え?」ってなって。
どうしようみたいになって。
これ見てないですっていうのが恥ずかしいなって思ったので見たっていう。
知らないでやってるよみたいなこと言うのは恥ずかしいなって。
でも違うものかなというふうに。
僕も確かに似てるけど違うものかなみたいな。
というふうにはちょっと思ったので。
確かにそうだなっていうふうにはちょっと思いましたね。