始まりました、映画の話したすぎるラジオ第246回になります。この番組は、大阪で映画トークバーイベント、映画の話したすぎるBARを開催している店長メンバーらによる映画トーク番組です。
私、映画の話したすぎるBAR店長の山口です。
マリオンです。
大石です。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
お願いします。
はい、では、まず近況から入っていこうと思うんですけれども、マリオンさんいかがされていました?
そうですね、今週は映画は1本ちょっと話したいのがあるんですけど、コート・スティーリングですね。
ダーレン・アロノフスキーの新作っていうことですけど、正直あんまダーレン・アロノフスキーっぽくなくない?みたいな感じしてたんですけど。
あんまり、ぽいっちゃぽいけど、どっちかっていうとやっぱりダニーボイルとか、すごいトレインスポッティングとか、そんな風なのを思い出すような感じだったかなというような印象でしたかね。
けど、めっちゃ面白かったですね。
めっちゃ面白いです。見ましたけど、めちゃくちゃ面白い。
めっちゃ面白かったですよね。最後まで何も読めないし、ちゃんと1本筋の通ったテーマじゃないけど、きれいに苦戦も回収していって、しかもなおかつめっちゃ容赦もないみたいな。
すごくちょうどいい映画っていうか、去年見た映画で言うとブラックバック見たときの興奮に近いんですけど。
分かります、分かります。
このぐらいのちょうどいい映画見たら最高みたいな感じですね。
そうなんですよ。すごく面白かったっていう感じでした。
一応話は、主人公はオースティン・バトラー演じる元野球選手を目指してて、プロのスカウトとかも来てて、自分の将来が明るいみたいな青年だったんだけど、ある出来事によってその夢が閉ざされてしまって、今はバーで働いてるみたいな男なんですけど。
ある日、自分の家の隣に住むモヒカン野郎みたいな奴が出てくるんですけど、そいつから俺の猫預かってほしいって。
父親が亡くなったからロンドンに帰らなきゃいけないって言われて、猫預かってくれって言って預かるんですけど、それを機にどうもヤバそうな奴らから狙われるようになってしまうっていう話になって。
この猫に関係するものの中にあるとんでもなく重要なものが隠されててっていう話になるんですけど、それによってロシア系のマフィアからユダヤ系のとんでもない奴らみたいな、あと汚職警官とかいろんな奴らが関わってきちゃうみたいなって感じになってて、それにどんどん彼が巻き込まれていってしまうみたいな話になってて。
ひたすらボコボコにされ続けてるんですよね、劇中。本当になんかかなり危機的状況になるんですけど、それでもなんとか逃げないっていう選択を取れるようになるまでの話みたいな。
逃げないっていう選択をするはするんですけど、劇的に勝つというわけでもない辺りが渋谷大とかね、っていう着地に抑えてる辺りがすごく良かったりとかしますね。
これね、むちゃくちゃいい映画だなと思ってて、ダーレン・アロンスキーが今までやってきた過去に縛られてたり、あるいは何かに依存してたりみたいな主人公像みたいなのを、それをメインテーマではなく、あくまでこのストーリーテリングの駆動力として使ってるバランス。
ただ面白い映画を撮れるんだ、この人っていう感動があるんですよね。いつもと同じことの延長線上でエンタメをやるんだ、この人っていうね、感動がありましたね、本当に。
そうですね、確かに。確かにね、そのちょっと、やっぱそういうとこで節々に作家性というかっぽさはあるんですけど、本当にただ単に面白い映画、ただ単にクライムムービーとして撮ってるみたいな感じがすごくいいなというふうに思いましたし、ちょっと昔、バットマンの監督をやるみたいな話あったんですよね、ダーレン・アロンスキーって確か。
ぴったりやん。
なんかちょっと見たくなったなっていうか、最初聞いた時になんでって思ってたんですけど、結局それの話はなくなっちゃってたんですけど、いつの間にか。なんかこれ見た後だと、良さそうだなみたいな感じするというか、もう本当にボッコボコにされるバットマン見たくないですかみたいな感じ、ちょっとあるなというふうには思いましたね。
ぴったりっすね。もうずーっとコウモリにうなされてるバットマンとか。
もうずっと陰鬱みたいな。
確かに確かに。
っていうふうにちょっと思ったりしましたね。
あとやっぱキャラクターがね、みんなどれもいいですよね、本当に。
いいですね。
あのモヒカン野郎とか本当にテメェコネ野郎みたいな感じなんですけど、憎めないやつだったりするとか。
あとロッシアマフィアのコンビみたいなやつ、ちっちゃい方、ミクロって言われてたやつ、あいつなんかな嫌な感じするけどすっごい印象残る、もうほんと喧嘩っぱいやいやつが出てくるんですけど、あいつがね、めっちゃ存在感としてはめっちゃ面白かったりとかしましたね。
絵に描いたようなやつしか出てこないんですよね。
そうですね。本当にそう、なかなかあんなモヒカン野郎とか見ないですからね、みたいな。
もうあまりにロンドンのパンクロッカーすぎるキャラが出てくる。
そうそうそうそう。
なんかジャケットもなんて言うんですか、あのこう、ちっちゃいスパイクがダダダダダってついてるみたいな、ジャケットを羽織ってるみたいなとか。
え、いるんだこんなのみたいな、っていう感じ。
あと舞台が90年代のニューヨークっていうのもあるので、ギリアリになってるっていうのもあるんでしょうけどね。
なんかほんと、キャラクターの造形のバランスがほんとアニメでも成り立つぐらいの、こう、要素の濃さというか。
そうですね。いやー、めっちゃ面白かったなーっていう映画でした。
で、ある種没落氏族みたいな家族の話なんですよ、実は。
はい。
で、その家族なんて色々商売は試すんだけど、それが空回りしてダメになっていって、で、おじさんは一回成功するんだけどまたそれもダメになってみたいな。
ほとんど登場人物で幸福になる人がいないみたいな物語なんですよね。
で、そんな世の中の中で、もうめちゃくちゃ貧困の中で、でもまあ主人公高石あかりが演じてるんですけど、すげえ明るくその日常を描いてみせる。
ただその背景にある暗さというか辛さ、この世界の地獄さみたいなものも同時に描いてみせるっていう、結構悲劇として見事なんですよね、このバランス感というか。
で、かつ時代としてはさっき言ったように明治初期を描いているにも関わらず、どう見てもその現代の話に見えてしまうんですよ。
その、ある種現代的な価値観がひっくり返ったり、色々なその価値観の変遷の中でそこについていけない人の物語ってもあるので、
なんかその哀愁みたいなものは全然現代にも通じ得るぞっていうバランスで描かれていて、
で、しかもその朝ドラって、割とこうナレーションベースというか、台詞も多くて分かりやすくてっていう形のバランスで描かれることが多いかなと思うんですけど、
今回のバケバケ、台詞がない時間がめちゃくちゃ多いんですよ。見ていると。
余白が多いというか、15分の中で本当に余白が、余白がほとんどと言っていいようなバランスで描かれている。
なんかその感じで、しかもあの音楽、牛尾圭祐さんなんですけど、その静かな中に牛尾圭祐の音楽が響くんで、まあ美しいんですよね、絵がとにかく。
っていうので、悲しさとコメディというか、おかしさと面白さみたいなものが全部同居して、そこにある。で、そこの中に現代性みたいなものもこう、表ではなくこう、すっとダシのように染みてるみたいなバランスの朝ドラになっていて、ちょっと今、これはすごいぞって思ってハマってるっていう。
へー、なるほど。
その朝ドラで余白を持たせた演出をするって、結構変わってるのかなっていう風に聞いてたんですけど、まあ僕は昔聞いた話だと、朝ドラってお母さんが家事の片手間に見るものだから、だからもう可能な限りセリフで喋る方がいいっていう風に作られてるっていう風に聞いたことがあったんですよ。
そうなんですよ、そのはずなんです。
説明的に作るっていう。
うんうんうんうんうん。
ただこのバケバケは結構挑戦的なレベルでそれを排除してるというか、むしろそこに、なんていうかな、絵で見せるっていうところにどこまで迫れるかってことをずっとやってるので、なんていうんですかね、こんなこと朝ドラでやれるんだっていうのをすごく思うんですよ。
へー。
ちょうどBSでたまに朝、朝台に見たりするんですけど、その、えーとね、多分僕の記憶に合ってるかわかんないですけど、今BSだと昔の朝ドラが15分やってから今の朝ドラっていう形で流れるんですよね。
で、昔の朝ドラが多分今どんどんあれが流れてるはずなんですけど、もうとにかく分かりやすい筋とナレーションで主人公の感情をこう話すっていう、昔の朝ドラが流れた後にバケバケが流れるんで、音の差がすごいんですよ。
ああ。
ナレーションがすごくこう丁寧に入った朝ドラが一回流れた後に、本当に、本当に何もない朝ドラが流れるんですよ。そういうことを。一切廃してる。
浅谷姉妹が一応ナレーションとして入ってるんですけど、一週間の一番最初と最後で話したらいい方ぐらいな、ほかほとんどナレーション入ってないみたいな感じのバランスで描かれていて、
ああ、今こうなったんだ、朝ドラで見せていいっていう風なバランスで描いて良くなったんだっていうのが、結構見てて面白いなと思っています。
それ、まあ視聴環境の変化も影響してるのかなって気はしたんですけど、まず朝ドラをリアルタイムで見るっていうこと自体もかなり減ってるんじゃないかなって気はするんですよね。
録画しているものを見るとか、配信されているものを見るとかっていう割合がかなり大きくなってきただろうなっていうのが一つあるので、何かの片手間じゃなく見るっていう割合がもしかしたら増えてるのかもしれないなっていうのが一つと、
あと、朝ドラってSNSで実況されてるじゃないですか。で、何だったら解説されるわけですね。あのシーンはこういう意味でとかっていうものが結構解説されるから、作品内でそこを語らなくても外部から補完されるっていう風な側面もあるのかなって気はして、
むしろだったら本編中で語るものは少ない方が、その鑑賞体験としては後から補完される方がむしろ発見の楽しみがあるから面白いものになる可能性もあるかなとかは思ったりとかはして、
その朝ドラを見てる視聴者層の割合がどうなってるかっていうのがわかんないんであくまで仮説ですけど、なんか昔ほどじいちゃん、ばあちゃん、ばあちゃんだけが見てるみたいな感覚もあんまないなとは思うんで。
そうなんすよね。今回のキャスティングというか、主題歌がハンバードハンバードって僕のお日様とかで主題歌やってた人たちがやってるっていうここもまた結構渋いチョイスなんですけど、なんか全体的に結構若い層に向けてる感じというか、今働いてる人たちに向けてる感じがすごいするんですよね、とにかく。
このままならない世の中を、しかも今昨今というかモキメンタリーホラーというか階段ブームも実は来ているじゃないですか。ネット階段から始まるホラーブームというか、何時かわかんないですけど、なんかそういう世相みたいなものもすごく反映しているものにはなっているので、ちょっと隠蔽としているんだけど、でもそこにこう自分の辛さみたいなものを投影できるっていう風な描き方にもなっているし、
それは多分今の若い人ほどむしろそこに刺さる部分があるみたいなバランスに描いている気がするんだよなーっていう気がして、あの虎に翼以降結構一番今好きかもしれないっていうぐらいハマってるドラマですね。
はい、で、後尾圭介つながりなんですけど、これ先週の終わりでマリオンさんから教えていただいて異国日記のアニメが今ちょうどこのクールでやってるんですけど、映画も去年かな。
去年、確かに。 僕はこれ漫画がめちゃくちゃ好きというか人生で多分一番好きな漫画なので、異国日記って。
で、若干アニメのその絵の感じがちょっと受け付けないなと思っていて、で、敬遠してたんですよ。ただ、音楽後尾圭介だという風に聞いて、バケバケちょうど見てるっていうのもあって、音だけでもいいから聞きたいなってなってしまって。
で、ここ最近通勤でオーディブルとして聞いてるんですよね。異国日記。で、もう素晴らしくてですね。完全に今もだから、漫画のあくまで頭の中の縁に浮かべてるものは漫画の絵なんですけど、
とにかく声の演技と、あとそこに流れてくる後尾さんの音楽がまあ素晴らしくて、電車の中でまいわまいわ泣きながら週に一回通勤してるという状況です。
なるほど。漫画を読んでたら音だけでもいけるってことですね。
そうなんです。もはやオーディブルとして、しかも異国日記はすごいそこが何ていうかなセリフがいいというか、セリフで見せる、何ていうかな言葉の使い方でこうぐっとくるような作品でもあるので、そこに声がつくことのすごさみたいなものを今結構体感してます。
なんか漫画だと結構情報量がたくさん結構ギュッとあるようなコマが結構あるんですけど、そこを読み取りきれてなかったりするところが、逆にその声優さんのセリフの読み方とかそういうところで、あ、そうかこういう意味だったかっていうふうに再解釈できていたりとか、なんかそういうのがすごい今新鮮で。
漫画自体も今実は読み返してたりはするんですけど、一巻から。でもなんか、アニメって今こういうふうにも楽しめるんだなっていうふうな楽しみをちょっと今味わってますっていう、そんな感じです。
強烈にバーンって出るというより、なんかぬるっと出てきて、ぬるっと殺されるんですよ。なんかその映画すごい面白くて、レザーフェイス自体の可愛げっていうと違うんですけど、無垢さというか、あいつスネオみたいなやつで自分一人だと結構テンパってるんですけど、
自分より強いやつがいると一緒に人をいじめてくるんですよね。なんかその内面の幼稚さみたいなものがレザーフェイスの中に見えて、それもちょっと面白いなと思いながら見てたんですけど、
なんかこの家族っていう自分たちのルールが通用しない社会の単位があるっていうのが、この1970年代に出てきたっていうのが、なんかちょっと面白いなかなとかも考えてたんですけど、それ以前ってパルプフィクション的な冒険小説とかだと、自分たちがいる文明の外部に行ったら、例えば人食い人種がいましたみたいな、それに襲われましたみたいな、
自分たちじゃないものは自分たちの文明の外部にいるっていうものを見つける、それに恐怖してた側面ってあったと思うんですよ。あるいはドラキュラとかになったら、西欧から見た東欧に対する差別意識とか恐怖感みたいな、未知のものに対する恐怖みたいなものだったと思うんですけど、一応これってアメリカの中の話だし、あの家族って一応アメリカの経済のルールで動いてるんですよね。
だからお金儲けのこと考えてるんですよ、あいつら。なんかその距離感みたいなのすげえ面白いなと思って、なんか全く自分たちが知らないルールでもないんですよね。お金儲けのこと考えてるし、いや電気代消ちねえといけないから電気消せねえとなとか言いながらその傍らで人殺してたりするんですよ。
でもその自分たちがわかるルールと同時に自分たちが全くわからないルールで動いてる。でそれが当然のものとして共存している奴らが自分たちの社会の片隅にいるっていうそこの恐怖っていうのが、それ以前のホラーというか恐怖を描いたものとはちょっとこの時代だから生まれてきたものなのかなって、社会が複雑化したからこその恐怖なんじゃないかなって思って。
いやまああのとにかくね面白かったんですよ。悪魔の生きにえ。あとねとにかく短いのがいいんです。本当に。
実は僕も見に行ったんですけど、今回の上映で。で僕初めて見たんですよ。初めて見てあ、短いじゃんって思ったんですけど、なんか長く感じるぐらい嫌な時間が続くなって思いましたし、あの見終わった後すんごいなんか頭が痛くなるというか。
っていうぐらいにはなんかなんて言うんですかね、人の嫌な部分というか、愉快に感じる部分をなんか的確に押されてるなっていう感じがすごいしましたね。もうひたすら嫌ななんかみたいな曲が流れ、もうひたすら叫びまくり。
で訳のわからん動きで、しかもめっちゃ早いデカブツのチェンスを持った男がどんどんやってくるみたいな、もう訳がわからなすぎて怖すぎるんですよねっていう。なんですかあの食卓はみたいな。きっしょみたいな。すんごいなっていう。人のなんかそういう嫌な部分を逆撫でするのに特化しているっていう風に思って、ちょっとねビビり散らかしましたっていう感じでした。
いろんな種類のキモい男が出てくるじゃないですか。
本当に、何言ってるか全然わかんないじゃないですか、あのヒッチハイクで運ぶ男、まああいつも実はっていうやつでしたけど、1ミリも何言いたいかわかんないし、怖いんだけどみたいな、触れたくねえみたいな感じでしたし。
いいんですよ本当にもう、何かがわかるっていうところまで何も語られないから映画の中で。理解がリーチする前に映画終わるんで。
バスサーって終わりますからね、終わったーってなりました。
本当に良かったなと思いまして、あとはプロジェクトヘイルメアリーの話をもう一回したいんですよ。
お、読み終わりましたか。
読み終わったんですけど、とにかく良かったんですけど、まずね、ライアンゴズリングすぎるんですよね、主人公が。
わかるー。
そうなんだ。
わかるー。
何かやってることとか言動を見てたら、これライアンゴズリングすぎるぞと思いながら見てて。
そう、脳内で実写化されますよね。
そうなんです。本当にもう今までいろんな映画で見てきたライアンゴズリングに当て書きされたかのような行動を撮ってるんですよね、主人公が。
もうぴったりやなと思って、キャスティング。
もうそれだけで、もうちょっとこの映画みたいに見る価値があるなと思ってるんですけど、
あと終盤で結構出てくる重要なファクターなんですけど、本作ってずっと科学、自然科学ですよね。
物理とか生物学とか化学、あるいはそっから転じて工学とか、そういう要素によって問題解決されていくんですけど、
終盤のあるところで、この主人公とは別に、このプロジェクトヘイルメアリー動かしたある人物から語られるその人の行動原理があるんですけど、
その人は自然科学ではなくて、人文科学によって動いてる人っていうのがわかるんですよね。
で、本作、アンディ・ウィアーさんの作品って基本的にその自然科学に対する圧倒的な信法と信頼によって作られてるんですけど、
本作の後半で、その人文科学に対する重要さみたいなものを解く流れがあって、僕結構これすごいなと思ったんですよね。
本作、主人公って、このプロジェクトヘイルメアリー世界で最も呪われた存在とも言えるんですけど、同時に最も恵まれた存在でもあって、
なぜかというと彼は、科学にだけ奉仕し続けたら問題解決できる役割を持ってるんですよ、物語の中で。
それってある意味、最もシンプルな役割であって、世界はもっと複雑で、もっとその複雑さを調整しないと、このプロジェクトヘイルメアリーっていう大いなるプロジェクトは達成できないんですよね。
それを達成すべく動いてるもう一人、非常に重要な人物がいるんですけど、その人はその人文地によって動いてるんですけど、
それはむちゃくちゃしんどいことなんですよ。主人公が与えられたミッションのしんどさとは全く別のしんどさを抱えていて、
で、進行は劇中ものすごいタスク、ものすごいミッションをこなしていくんですけど、科学のことだけを考え続ければそれはできるんですけど、
主人公が見ていない、物語に描かれていない部分で、あの世界ってすさまじい規制が現れてるんですよね。
その規制を支えているのは、その人文地に奉仕しているもう一人の人物がそれらをすべて調整して実行していってるんですよ。
で、自然科学は問題解決はできるんですけど、じゃあ我々は何を目指すべきかっていう目標設計はできないんですよね。
そうなんですよ。
それをやってる人物が実はこの作品の裏にはいるし、あるいはこの世界に実際にいて、自分たちがやってることの陰にそういうことをしている人がいるんじゃないかっていうことを描いてるんですよね。
すごいんですよ。
で、その分を別に主人公は見ないんですよね。
だから読者だけがそのことの意義をわかっているっていう風な作りになってて、いやこれね、すごいですよ。描いてることのリーチが。
そうなんですよね。
なんていうか、そのサイエンス、だから総合してサイエンスって言葉でまとめられるかなと思うんですけど、なんていうかこう、知性主義をこんなに信じる物語があっていいんだっていうか。
なんか、人間であること、これはちょっとそちら側に寄りすぎた意見かもしれないですけど、人間であることの大事さというか知的生命体であることのって言い方をたぶんした方がいい気がするんですけど、この物語においては。
知的生命体であることの意義みたいなものがすごく詰まってる作品だなと思ったので。
なんかすごい、あくまで自然科学を自分はやってきた人間ですけど、すごい読んでて救われる気持ちがしたんですよ。とにかく。