今日のテーマトークは、バグダッド・カフェです。はい、ではマリオさん、解説お願いできますか。
はい。映画.comより解説を読ませていただきます。 砂漠に佇む錆びれたモーテルに集う人々の交流を描き、
日本では1989年に公開されて、当時のミニシアターブームを象徴する作品となったヒューマンドラマ、
バグダッド・カフェのディレクターズカット版。ドイツから夫と共にアメリカ旅行に来たジャスミンは、
夫婦喧嘩の末に一人で車を降り、モハーベ砂漠にあるモーテル県カフェ、バグダッド・カフェにたどり着く。
バグダッド・カフェには不機嫌な女主人、ブレンダーやヒトクセもフタクセもある人々が集い、いつも気だるいムードが漂っていた。
しかし、ジャスミンの出現により、彼らの心は次第に癒されていく。
1987年製作、1989年に日本で劇場公開されたオリジナル版は91分。
2009年には、未公開シーンの追加や再編集を施した108分のニューディレクターズカット版が公開された。
2024年には、そのディレクターズカット版の本編をパーシー・アドロン監督監修の下、デジタル修復した4Kレストラ版でリバイバル公開。
はい。
はい。では、内容に触れる話、入っていきたいと思いますので、ネタバレ気にされる方がいらっしゃったら、ぜひ見てから聞いていただけたらと思います。
では、アサリの感想、マリオさんからでしたか?
そうですね、不思議な話だなーって。
すんごいアホな感想だったんですけど、バグダットカフェって名前を聞いたことありますけど、どんな話かとか、どんな映画か全く知らないで行ったんですよね。
なので、バグダットカフェってイラクじゃないんだ、みたいな感じなわけですよ。
そのくらいの知識の無さなんですけど、思った以上に不思議な映画というか、ファンタジックだったなと思いました。
登場人物たちが浮世離れしてるとか、不思議な演出が入るとかっていうのがあるからなのかもしれないですけど、
そこにいる人たちの人間臭さみたいなのとかはすごくリアルな感じがしたし、
全く荒唐向けな話とかそういうふうに思ったとかはなく、いい話だなってすごい思って、大人のためのおとぎ話みたいな感じなのかなってすごい思いました。
あと、これは考えすぎなのかそういう映画じゃないかもなと思いつつも、コミュニティ作りの話だったのかなーとかもちょっと思ったりして、
居場所? 自分の居場所みたいなのを何かどこか作る、見つけていくみたいな話っぽいのかなーとかもちょっと考えたりはしましたかね。
僕はこんな感じですかね。
はい。大地さんいかがでしょうか。
そうですね。僕、映画紹介屋さんで来てくれたお客さんのうちの一人がバフダットカフェが一番好きな映画ですっていう方がいらっしゃって、
そこからちょっと気にはなっていたんですけど、僕も初めて今回見たんですけど、
白昼夢っていうか、起きながら見てる夢なのかなみたいな感じの映画で、
まあ真莉愛さんもおっしゃった通り、不思議な変な映画だったなぁとは思います。
でもなんか振り返ってみると、結構要素的にはすごいフェミニズム的な文脈でも語れそうなテーマ性もあったりとか、
あるいはさっきコミュニティ作りって言いましたけど、確かに居場所っていうことを考え直す、それはパートナーシップ含めってことだと思うんですけど、
っていうのはなんか特にヤスミンとブレンダの2人の関係性見てると、ちょっと思う部分ではあったりして、
なんかそれこそ、ある種の肩書き、母だったり妻だったり、そういったものの外側に自分の居場所を作る話のようにも見えるなぁと思って見てはいて、
なんかそういう文脈で、確かパンフレットの月永さんのコラムとかも書かれてありましたので、
なんかそういう感じでちょっと考えてみたら面白いのかなぁなんて思ってます。
はい、僕はですね、僕は見たことあって、多分15年ぶりぐらいに見たんですけど、当時も思ったんですけど、
いい映画ですけど、めちゃくちゃ変な映画だなぁと思いながら見てて、何が変なのかなぁって思ってたんですけど、
本作、なぜがないなって思ったんですね。
なぜこうなるのかとかっていうのがなくって、これがこうなったからこうなるみたいな、
因果の連続性がすっげぇ希薄やなって感じかなって見てたんですよね。
あんまりこれ繋がってるのかなみたいなことがずっと続いていくというか、
その因果の連続性ってストーリーって言い換えれると思うんですけど、だからやっぱストーリーすっげぇ希薄やと思うんですよね。
そこが本作の魅力なのかなぁと思って、ストーリーとかじゃなくって、ただ今そこにある現実というか、
そこにあるものそのものに目を向ける話って言ったらいいんですかね。
なぜとか何とか問い出すと本作全然よくわからなくなるなぁと思って、
もう起きてることをそのまま受け取るのが一番いいのかなっていうふうに僕はちょっと思いながら見てました。
はい、そんな感じででは、お便りいついただいてますので紹介させていただきますよ。
じゃあ、大石さんお願いできますか。
はい、イヤマイさんからいただきました。
こんにちは。いつも楽しくラジオ配信しています。映画好きのリスナーです。
今日はバクダットカフェを見て感じたことをお話ししたくてメールをさせていただきました。
まず、良いところからお話しすると、この映画は何とも言えない空気感が素晴らしいと思います。
広大な砂漠の中にポツンと佇むカフェ、登場人物たちのちょっとずれた個性、
そして主人公ヤスミンが徐々に周囲の人々と心を通わせていく過程が本当に丁寧に描かれているなと感じました。
特に音楽、Calling youがその空気感をさらに引き立てていて、見終わった後もしばらく余韻が残りました。
一方でちょっと引っかかったのは、話の展開が少し曖昧というか、どこか掴みどころがないように感じた点です。
これはきっとこの映画の魅力でもあると思うのですが、
見る人にとっては、もう少しストーリーがはっきりしていてもいいのでは?と思うかもしれません。
私自身も一部の場面では、これは何を意味しているんだろう?と考え込んでしまうことがありました。
とはいえ、全体的にはとても心温まる作品で、見終わった後に優しい気持ちになれる映画だと思います。
これからも素敵な映画をたくさん紹介してください。またメールさせていただきますね。
それでは次回の放送も楽しみにしています。
はい、ありがとうございます。
ありがとうございます。
掴みどころないですよね、本当に。
すごいフワッとしてました。
これは何を意味しているんだろう?みたいなシーンって、
僕、ほぼないんじゃないかなって、本作を見てて思って、
まあ僕、そういう映画の中に意味を見出すの大好きなんで、
まあそれ探しながら見るんですけど、
なんか意味、別にないなーって感じなんですよね。
僕の主観ですけど。
で、唯一意味っぽく描かれてるのって、
ヤスミンがビザが切れて、ビザが切れてるっていうか、
国に帰らないといけなくなるところで、
ずっとくるくるくるくる回ってただけのブーメランが、
そのところだけ貯水塔にぶつかって、カンって言って止まる。
あ、みんなの時間が止まったなっていう、
あそこぐらいしか意味を込めたカットっていうの、
あんまなかった気がしてて、
他のシーンって別に意味とかじゃなくて、
それぞれの人がこういうことしてます以上みたいな感じの映像群に、
僕としては見えたんですけど、
なんかちょっと、あんまりそんなことないよっていうのはあるかもしれないですけど。
イメージ映像みたいなのがたまに挟まるじゃないですか。
画面が青と黄色のセパレートに分かれるみたいなシーン、
だいたいイメージ映像感があると思うんですけど、
貯水塔の掃除してるのは、
カーマーマーガーみたいな掃除してるもんな、みたいなぐらいかなって思ったんですけど、
ドラム缶風呂みたいなところがブワーみたいになってて、
よくわかんないよみたいな。
いやいやいや、どうしたの?みたいな。
え?ってわかってないんですけど、みたいな感じでしたよね。
わかんないからいいやって言って見ちゃいましたけど。
本当に、やすみんの妄想なのか、それとも作り手の妄想なのかもちょっとわかんないですけど、
本当にふと何の脈絡もなく入ってきて、その後それが何も引きずらないというか。
そうなんですよね。
その時にその場面、その人がそれをしてて、
それ以降それが何か意味を持つことがそんなにないんですよね。
なんかだから、掃除されたから怒る、みたいな。
そのぐらいの因果しかなくて。
特になんかね、最初とか例えばね、喧嘩?
うん、夫と喧嘩してっていう。
して別れるじゃないですか、主人公ってやつもね。
あの喧嘩も意味わかんないですもんね、別に特に。
なんで怒ってるのかとか、
夫は夫で何がしたいの?ちょっかいかけたいの?みたいな感じで、
おちょくってくるみたいな感じ?って言ったらいいんですか?
車のね、運転で後ろのボロボロ例えばの崩しっていうか、あれは何なんすかっていう。
分からないんですよ。何がしたいの?みたいな。
何?何?何?って感じだったので、
あ、これ気にしてダメなやつだって、初手で気づきましてみたいな。
これはもう身を任せれば良いんだなっていう。
あの喧嘩のシーンで初めて気づかせてくれたので、
これちょうど気づけなかったら、ちょっとバグダッドカフェ見ると辛かったかもなって。
これ何で何で?みたいな。多分ずっと言っちゃってたかもっていう。
僕がその何でっていうものを放棄するきっかけになったのは、
僕としてはポットの下りだったんですけど、
なんかポット道路に置いていって、その後ポット拾ってくるじゃないですか。
で、その後拾ってきたポットであることっていうのを、
ジャスミンも特に触れずに、みんなそのポットに入ってたコーヒー飲んでるんですよ。
確かに。それ私のっていう具合ないですね。
で、ドイツのポットだなっていうのは分かるようにはなってるんだけど、
そこに関してもずっとノータッチなんですよね。
何だこのポットは?みたいな。
ブレンダーがずっと機嫌悪いからポットに当たってるみたいな感じになってたりはあるんだけど、
何でポットを置いたのとか、そのポットに撫ですなと触れないのとかも全く説明ないから、
ああ、はい、かしこまりましたみたいな感じにはなるんですよ。
で、しかもそのポットの中のコーヒーをめぐる、濃いだの薄いだのという、
一連の逆なのかコントなのかも分かんない。
コーヒーの味の下りはめちゃくちゃ面白かったですよ。
何だこのまずいやつは?みたいな。
これがいいんだよみたいな。
何じゃこりゃ?って面白い。
あれってドイツのコーヒーがめっちゃ濃いみたいなのっていうのは、
実際の事実に値上がらせてるものなんですかね?
どうなんすかね?
監督一応ドイツ出身、ドイツ人の方なので、
分かんないです。アメリカに行った時に薄いなとか思ったのかもしれないですけど。
まあアメリカンって言っちゃいますけど、
それが一般的なアメリカとドイツのコーヒーの濃さの傾向としてあるものなのかどうか僕よく分かんなくって。
だからあれがどういう意図なのかもうキャッチできないんですよね。
そうなんすよね。
だから単純にあの夫婦、
てかヤスミンが入れるコーヒーっていうのがめちゃくちゃ濃いだけかもしれないっていう。
ただ最後ね、店員さん、コーヒーまでめっちゃ入れるようになってましたからね。
溜まってはいるんですよね、その後ね。
あと、ヤスミンがバグラッドカフェの人たちに好かれていく過程も筋が通ってんだか通ってないかよく分かんないんですよね。
そうですよね。
例えばですけど、ブレンダーの事務所を勝手に掃除したところがあるじゃないですか。
例えば掃除したことでいい結果が生まれるとかっていうのが、
この手の侵入者がその場にいた人たちと仲良くなっていくもののパターンだと思うんですよ。
予定以外のことをされたけどそれがいい結果を生むから、そこから関係性ができていくとかってよくあると思うんですけど、
別にあの事務所綺麗になったことを後々生きてこないんですよね。
まあまあそうですね、なんかね。
むしろ、ヤスミンとブレンダーが仲良くなったきっかけってよく分かんないんだよね、本当に。
子供がいないの下りで、ちょっとヤスミンが傷ついたみたいになって、ブレンダーが謝りに来るみたいなとこから、
割とそこから急に仲良くなってる感じだったと僕は思うんですけど、
なんでってなるというか、今までブレンダーはずーっとヤスミンのことを全く信用してなかったんですけど、
なんかいつの間にか打ち解けてるんですよ。本当にいつの間にかなんですよね。
娘とヤスミンの部屋で仲良くしてるのも、まあ分かるっちゃ分かるか、そこは。
息子とピアノの下りで仲良くなるのも、まあ分かるっちゃ分かるけど、物語の推進力になるほど強い動機じゃないと思うんですよね、どれも。
なんかよく分かんない旅人、モーテルにずっと泊まってる旅人と関係性ができるっていうほど強い動機になるようなものはないんじゃないかなと思って。
なんか仲良くなってるんですよね。ずっとそれの繰り返しだなと思って。
なんとなく仲良くなって、なんとなくお別れしてっていう、まあそれが人生だよって言われたらそうかもしれないんですけど、
映画主役ってなってても、でもなんとなくじゃね?人生みたいな。言われたらなんか結構負にも落ちるみたいな感じの作りなのかもなっていう。
正直マジックセット持ってたとかよく理由もないしね、何がしたかよく分かんないし、まあ盛り上がってたから良かったねって感じですし。
あとこんなヘキチに最後こんなに人来るんだって思いましたけどね。
いやもうあれ不思議で不思議でしょうがないんですけど、あんな市販のマジックセットでやれるような手品で、あんな拍手喝采の大盛況になるのかなみたいな。
だからまあそこがちょっとファンタジーだなとは思います、それは。
多いけど、それが別に嫌な気持ちになるとかではなく嘘臭いとかいうわけでもないから、そこがやっぱこのバグラッドカフェの魅力なんじゃないかなっていう、そう割り切れないみたいな。
そこが魅力だったりするかなとは思いますね。
だからストーリーをこれに無理矢理つけたらちょっと教訓臭くなっちゃう気もするんですよね、むしろ。
ここから言いたいことはこういうことです、みたいな。
なんかそれを全力で拒否している映画でもあると思うんですよ。
で、まあ余白ってわけ、余白ってほど余白もないんじゃないんですけど、とはいえ意味みたいなものからは結構遠く離れている気はして、
それは確かにこの映画独特のその味わいというか、すごい良いものに見えるし、
それが一番メッセージがあって、それ以外はもう本当になくてもいいというか、映像を楽しんでくれみたいな、それだって映画じゃないかみたいな感じがして。
そうですね、よく物語に余白っていう、あるいは行間とかっていう言い方をするじゃないですか。
描かれてない部分に何かがあるっていうものを表現するときに余白とか行間って言い方すると思うんですけど、
余白と行間の方が割合が多いと、なんか受け取り方が全然変わるというか、もう余白とか行間に見えないんですよね。
本作、やっぱりほとんどが余白でできているから、逆に余白として受け取らないというか、その意味じゃなくなるんですよね、なんか全てが。
ただそこにある空間とか時間になるというか、時間を描いている映画って言われたらそうかもなって、ちょっと自分で言っておいて何かがてんが入った気がするんですけど。
確かに確かに。
だから、なんで仲良くなるとかっていうのも、気白だと思うんですけど、それでいいというか、一箇所でもそれをしっかりやっちゃうと、それ以外の部分がちゃんとできてないじゃんって言い方しちゃうと思うんですよね。
全部の連結が気白で、なんか不連続な感じがするからこそ、瞬間瞬間だけ見てたらいいというか、そこに意味を問わなくていい。
なんで仲良くなったんですかって、いや仲良くなったんだからいいでしょみたいな感じで受け取れるというか、ただそこにいたらいいっていうことを肯定しているようにも見えるんですよね。
そう、だからちょっと思い出したのが、イニシリントの西林の時にもちょっと触れた本なんですけど、遠肌ファイトさんのいるのはつらいよっていうケアの現場についての本をちょっと見てて思い出して。
その本の中って、もちろん遠肌さんのある種学術的なというか、ある種学術諸論でもあるので、そういう臨床心理学の中でのケアの立ち位置みたいなところを触れるシーンもあるんですけど、むしろ半分くらいというか、本の半分くらいが実際に沖縄のケア、デイケアの施設であったことをそのまま書いてるというか。
そこでのケアに通う人たちと遠肌さんとの関わりみたいなものを、結構ルポルター的に書いてるような部分っていうのが半分くらいあるんですよ。で、その部分は本当に因果がないんですよ。
で、まさにケアとはそういうものだっていうふうに本の中で書かれるんですよね。居場所というかケアというか。で、いたらなんか治るんだと。スピリチュアル的なものというよりも、その場にいて、いろんな個性がある人たちと一緒の場所に居続けて、そこの場っていうところに依存できるようになることで、その人っていうのはどんどん回復していくフェーズに入っていくんだっていうふうに言うわけですよ。
なんかバグダッドカフェって、今思うとケアの、ディケアの現場なのかなっていう感じがすごいして。いろんな理由で傷ついたり社会に入れなかった人が一旦社会から遠くの砂漠の中のカフェっていう場所にケアとして毎日通うようになると。で、そうするとなんか社会に戻れるようになっていくみたいな。そういう話なのかなってちょっと思って。
いや、ちょっとわかるなあ、その感覚。本作やっぱり大井さんもさっき言ってたんですけど、因果がない。だからこそ安らぎがあるっていうのはすげーわかるなと思って。やっぱ因果ってしんどいんですよね。こうなったらこうなる。つまりこうしなければこうならないみたいなことがどんどん連結していって、それを遡っていったりしないといけなくなるから、すごいしんどいんですけど。
あんまりそこは通ってこないから楽なんですよね。楽というか安らぐっていうのはあるなとは思って。なんか本当知り合いでも本作すごい好きな人がいたりとか、やっぱりバクダットカフェめっちゃ好きな人って多いと思うんですけど、やっぱりそのストーリーの連続性を求めてこの映画が好きっていう人は多分いないんじゃないかなと思うんですよ。
もしかしたらその方たちもなんで好きなんですかって言われたら説明できないんじゃないかなって気がするんですよ。で、なんで好きなんですかってこうこうこうっていう説明できるということもまた因果じゃないですか。それをしたくないからこの映画が好きっていう風な言い方ができるんじゃないかなと思って。
言語化しなくていいからバクダットカフェが好きっていう。なんで好きかって聞かれてもそれを答えたくないし答える必要がないっていうところが好きみたいな感じってあるんじゃないかなって。
なんかすごい納得してしまったわ。あとやっぱりなんかそのなんのしがらみもない居場所みたいなのがやっぱみんな欲してるんだろうなっていうこのバクダットカフェが好きとかなんかこういろんな人に受け入れられてるのってそういうところもすごいたくさんあるんじゃないかなって思ったんですよねやっぱり。
あとやっぱりおっしゃられてたように因果とか強くないからやっぱりあのすんごいフラッと入ってくるしまじ唐突でフラッと出てくるじゃないですかタトゥー掘りの女の人とかもう長く居すぎたみたいな感じでまじで唐突で出てくるじゃないですか。
でもなんかああいうのがすごい本当に安らぎなったりするだろうしそういった場所とかつながりがなかなかないからそういうものへの憧れとしてやっぱりこういう映画が受け入れられてるみたいなのはあるのかも。
だからデビーがいなくなるのってすごいケアの現場でそこから回復していなくなっていく人だったりあるいはケアラー側が辛くなって辞めていくのだったりってすごい近い感じがするんですよめちゃくちゃ。
もうその場所に依存することではそこを自分の中の何かを充足できなくなった人というか。
それはある意味回復でもあるっていう。それでまた因果の世界に戻っていけるというか。
なんかそういう人のように見えたんですよね。だから多分思い出したのかもしれないんですけど。
なるほどなー。
こういう居場所作るのって実際大変だよなーって。こういうバグだったかというよりファンタジックで世界だったら精一するけど実際そういうのはやっぱ難しいんだろうなっていうことも同時に思ったんですが。
あれですか、バイクライダーズとかを連想しながらですか。
あ、連想した。連想しました、はい。
やっぱあそこいう自分にとっての自分とはこういうものですっていうところを象徴するような場所みたいなのがやっぱみんなない。
ないからそういうのをみんな欲しててっていうのはみんないつ時代になってもそういうのはあるんじゃないかなっていう。
今自分に生きてる世界っていうのがやっぱりちょっと自分とは違うみたいな。ある種の世間とのずれ、マイノリティ制みたいなところ。
けどなんかそういったところを受け入れてくれるようなどこか場所みたいなのを欲してるっていうのはバグだったかというよりすごい思いましたし。
バイクライダーズっぽさもちょっと思い出しましたけど。
いやーむちゃくちゃ難しいですよね。
まず目的を持って組織を作るということがこのコミュニティのあり方と相性が悪いと思うんですよ。
そうですね。
だからおいさんが前言ってたのかな。ケアとキュアの違いみたいなこと言ってましたっけ。
ケアとセラピーですね。
だから日常に疲れたことに対して癒されることを目的に集ったら多分このコミュニティは成立しないみたいなことになるんじゃないかなと思うんですよ。
それこそアジエルがアサイラムに変わっていくって多分東派さんの本の中では書いてあった。
だからヤスミンもバグだったカフェを目指してきたわけじゃなくて、そこに理想郷があるから来たんだじゃなくて、
偶然辿り着いてなんかそこは良かったから居ついた、だから入れてるんであって、
バグだったカフェがそれを目的した場所として作られてたら多分居つかなかったと思うんですよね。
だから目的がないからこそ居られるっていう感じはあるんだろうなって考えると、
その場所を作るってめっちゃ難しいことだなって。
でも例えばですけど、街で本当になんかめちゃくちゃ美味しいとかじゃなくて、ただやってる居酒屋ってあるじゃないですか。
ああいうのってちょっとそういう社会の中での逃げ場というかアジエル的な部分もあるのかなって気はしてたんですけど。
というか僕思ってたんですけど、週刊曲がりってすげえそんな場所だよなって思うんですけど。
いつもね、我々が映画バーやらせてもらってる場所ですけど、あそこって本当に毎日偶然の塊みたいな感じじゃないですか、あそこって。
映画バーにしか来ないお客さんもいるし、全く知らないお客さんといっぱい会うみたいな場所が本当に担保されてるみたいなとこだなって思うんですけど、週刊曲がりって。
あれも狙って作れる場所じゃないじゃないですか。だからなんかすごくちょっと思い出したんですよね。今回ちょっと思ったとき。
確かにちょっと曲がりっぽいのかもしれない。
いやちょっと実は僕もちょっと思ってたんですよそれ。
ああやっぱそうですか。
ただその週刊曲がりは日替わりバーっていう形で、毎日毎日テーマがある店としてやってて、もちろんそれぞれのテーマが目的となってお客さんが来る形になってるんですけど、週刊曲がりっていう店に向上的に流れてる何かみたいなものは多分それに近いんですよね。
週刊曲がりの常連さん、だからどのイベントの日かっていうことに限らずに店に来てる人は何か週刊曲がりに居続けてる人たちなんですよ。
確かに。だからおじいちゃんみたいな感じですよね。
そうですそうです。で、実際にバグだったカフェにいる人たちぐらい変な人が多いんですよ。
そうなんですよね。週刊曲がり本当にそういう面白い人がたくさんいるんですよね。
僕もなんか結構最近、ここ1、2年ぐらいで映画バー以外の週刊曲がりの、特に何のテーマも決まってない通常映画とかに行ったりとかしたりするときたまにあるんですけど、
なんかそういうときって普段全く映画バーやってるときとは合わないけど、曲がりにはよく来てるみたいな人だったりとか、そういった人の話を聞くと面白いですよね、本当に。
この人何言ってんやろみたいなとか、この人何の仕事してんのみたいな、初めて聞くんだけどみたいな人とか。
いろんな人の人生がそこにあるなぁみたいなのが感じられるし、そこが本当にバグだったカフェ感があるっていう。
やばい、こんなぴったりなネタありますか?
確かにな。
すごいですよ、これは。週刊曲がりはバグだったカフェだったっていう。
なるほどなぁ。じゃあ我々はあそこで手品をやってる日みたいな感じなんですね。
そうですよね。
手品やってミュージカルやって。
確かその時もしてたかもしれないですけど。
だから本当に狙いすましてできるものではないし絶対必要なんだけど、だけどあること自体に意味がない因果がないからこそそこを保つ理由がないっていう。
保たせる理由がない。外部的な理由が全くないからすごい難しいって言ってたんですよね。
その部分ね、僕バグダットカフェ見ててすっごい怖い部分があって、手品で盛り上がっちゃったじゃないですか。
あれ手品のネタをインフレさせないといけなくなってしまうんじゃないかっていう怖さがあるなって僕見てたんですけど。
お客さんみんな盛り上がってるじゃないですか。
飽きられないように次はこういうネタ仕込まないとっていう風になっていったらバグダットカフェの雰囲気感壊れるんじゃないかって見てて怖くて。
だからなんかすごい怖いんですよね、あのラストめっちゃ盛り上がってるじゃないですか。
バグダットカフェの手品最高だぜみたいな言ってるけど、次来た時前と同じネタかみたいになったら、
ヤスリンとブレンダー2人で次のネタ必死で考えてもう飽きられないように手品のネタを仕込んで仕込んでってなったら、
なんか新しい自転車創業が始まってしまって、そうなったらあの空間は壊れるわけですよね。
なんかちょっと怖いんですよ、だからあの盛り上がってるシーン。
終わりが見えちゃうってあるんですよ、あそこ。
あの居場所のすごく幸せだった時で終わっちゃうからこそ怖いっていうところなんですよね。
やっぱりあの山岸さん、ザバイクライダーズを見るべきだ。
最後までやりますんで。コメディの最後の結末までやりますんでみたいなところがあるので、ぜひ見ていただきたいなって今思いましたね。
だからおじいちゃんが結婚しようっていう風に言うのもちょっと怖さがあって、
結局それってある意味そこに出たり入ったりできた存在だり、
ヤスリンがそこに縛られるってことでもあると思うんですよね。
ヤスリンがいなくなったらたぶん爆発カフェが潰れちゃうからっていう形になってしまったら、
それは本当に居場所がコミュニティになっちゃうというか、
それって本当にケアの現場という視点で取った時にはいいことなのかなっていうのは確かに疑問としてはあって、
まさにそのそこにその2人がいることに意味が出ちゃう。
すでにたぶんラストは意味が出てるんですけど。
そうなんですよね、なんかラスト一気に意味が繋がっていくじゃないですか。
急に地に足突き出すから、結婚したらアメリカにいられるよ、爆発カフェにいられるよっていう着地を見せるっていう意味の着地があるっていうのが、
それって終わりますよっていうことの予兆でもあると思うんで、
この安らいだ時間もこの安らげる場所もいつかなくなりますよっていう宣言みたいなものに見えかねないなって。
いやでもまあ、とはいえ場所ってそういうものなのかもしれないですけどね。
そう、そう。形あるものすべてなくなるって言いますよ。
スーパーハッピーフォーイバーの時も言いましたけど、場所もそうだよってことかなっていう。
だからあの後はきっと映画の中にあったような因果の外側にあるような世界はきっともうない、なくなっちゃうわけですよね。
どちらかというと手品を見せて、何なら売上とかお客さんの客足が伸びてっていうビジネスの世界に入っていくわけですよ、爆発カフェ自体が。
ってなってくると、でも多分奇跡的というか、映画だからいいのは、僕らはもう一回映画を最初から再生すればそこにまた戻れるわけですよね。
だからケアの現場で最後セラピーになっていくっていう、因果の外側から因果に戻っていくっていう爆発カフェの経緯を経て、僕らはまた因果の世界に帰れるっていうのはあるのかなと思って。
結局観客は社会に戻らなきゃいけないわけじゃないですか。
そういう時に、やっぱ完全にケアの現場っていうか因果の外側だけでお見せられて、そこに来たって帰っちゃうとそれぞれ危ないのかもしれないんですよ、現代社会においては。
だからお客さんを責めてでも、一緒に因果の世界にちょっと戻って、しっかり社会にまた働きねるというか、普通の世界の中に生きてもらうっていう、一時の安らぎとしての爆発カフェなのかもしれないなと思いますね。
なるほど。僕の捉え方は少し違うかもしれないんですけど、映画のラストで、あの時間の終わりが匂わされる。だから意味のある関係性になっていくことで、終わりが匂わされることで、そこで映画が終わるじゃないですか。
なんか終わりが匂わされる方が余韻が残るなっていう感じがあるなと思って。あのままだらっとしたまま爆発カフェの場が続いていきます終わりだったら、何も残らない感じがするなと思って。最後にピリオダが撃たれることで全体が閉まってる感じがするなって思って。
それをすることで、あの映画が終わった後も余韻が続くっていう感じがある。物語が終わろうとする瞬間に映画も終わることで、むしろこう映画自体が続いていく感じを残すなっていう風な感覚なのです。
あれがただあのまま終わりも匂わせないまま、だらだらした爆発カフェが続いたまま映画だけが終わったら、なんかあんまりしまわないまま、うんさん虫をしちゃうような感じがするんですけど。なんて言ったらいいのかな。魚を生け占めするみたいな感じって言ったらいいですかね。
なんかすごい雇いが出てきて、ちょっとびっくりしましたけど。なるほど、でも確かにそうですよね。一個最後に落としどころというか締めのところが入るっていうのは、物語なのかはあれだとしても、一つ区切りをつけて、それ故に続いてる気がするっていうのはなんかわかる気はして。
日常モノのアニメとかも多分ケア的な文脈におけるかなと思うんですけど。日常モノのアニメでも、やっぱり一個それらしい山場はあるじゃないですか、最終回とか。もちろんそれが大きな山場っていうか、何かすごく因果があって意味がある山場ってわけじゃないんですよ。でもその山はしっかり登って降りるっていう。そこに意味があるっていうのは、もしかしたら確かにあるかもなっていう。
日曜系アニメは絶対卒業式っていう終わりが近いかなっていう。なるほどね。そこに向かっていく話やからなっていうのもそうなんですけどね。
日曜系アニメっていうワードが出たことで、僕の中でピンときたものがあったんですけど、K-ONなんですけど、K-ONって映画版で最後みんな卒業するんですけど、その本当のラストじゃなくて、テレビシリーズの方のエピソードのエンディングなんですけど、エンディングの歌あるじゃないですか、K-ONの。
で、K-ONって本編中はもうダラダラダラダラした、もう締まりのない部活動の話なんですけど、エンディングは彼女らの放課後ティータイムっていう部活動のバンドがプロとして成功して、で、そのプロとして歌を歌ってるような感じの映像と歌になってるんですよね。
で、そこで演じてる彼女たちの感じってものすごい大人になってるって言ったら聞こえがいいんですけど、結構ね、目が死んでるんですよ。目が死んでるというか、高校時代にダラダラしてた感じじゃなくて、大人になってしまってる感じがするんですよね。
K-ONのエンディングの歌のところの映像の放課後ティータイムのメンバーたちって、僕あれがすっげークールだなと思ってたんですけど、その彼女たちのダラダラとした時間はいつか終わりますっていうのを毎回エピソードラストにエンディングテーマっていう形で差し込んできてたんですよ。
なるほどー。はいはいはいはい。
あれが僕でいうところの生け締めだと思って。
はいはいはい。なるほどね。
その終わった後っていうものを意図的に匂わせることで、むしろそれまでの時間っていうものの鮮度が保たれる感じがする。鮮度が保たれるって言い方はよくないんですけど、むしろその時間っていうものが続いてる感じがするんですよね。
うんうんうんうん。
いや僕それを思い出しました。日常アニメって言われて、軽温のあるやんと思って。
日常系アニメって確かにずっと終わりを匂わされてるからこそ、このどうでもいいぬるたい時間がめちゃくちゃ最高みたいなとこはあるよなっていう。
だからそうか、マクダットカフェの最後の手品シーンはエンディングだったんですね。
軽温のエンディングです。
なるほど。
あと手品のシーンは。
はいはいはい、なんかすごい納得しました。
軽温のエンディングであり卒業式ですみたいなね。
なるほどね。確かにだからこそ何回も見たくなるというか、やっぱ開庫して戻ってみたくもなる気がするというか。
何回も見るほど好きな映画だったり、記憶に刻まれるほど好きな映画になる理由はそこにあるのかもしれないですよね。
ちゃんと終わりを本編中で済ませてるからこそ戻ることができるっていう。
それがなくなるとサザエさんになっちゃうんで。
あー確かに確かに。
サザエさんになったらもはや鮮度もないじゃないですか。そこに生きてる時間があるって感じがしなくて。
もはや抜け出せない時刻ですよね。永遠とループしてるみたいな。
確かに。
終わりはどこだよみたいな。
本当にエンドレスサマーじゃないですけど。
確かに。サザエさんは日常系ではないなっていうことを改めて思いました。
終わるからこそ日常であり、ケアであるっていう。
なるほどな。だからバグダッドカフェがサザエさんではなくて慶応になっているっていうのは、
たぶんバグダッドカフェっていう作品の魅力なのかもしれないなっていう。
どんなたとえ方やねん。
でもなんか僕ららしいたとえと結末を迎えたなって感じですけどねっていう。
結局たとえるのそこかーいって感じがする。我々っぽいなって思いましたけど。
ね、週刊まがりに触れつつ。
今日あれですね、週刊まがりの宣伝だったのかなって。
正直自分らに引き寄せて話せるかすごい不安だったんですけど見終わった後。
不安でしたよ。しゃべることないよって思ってましたもん。
どうしよう、不思議だったですしか言うことないぞって思ってましたよ最初。
一番引き寄せられるとしゃべることができて、なんとかなったなっていう。
そもそも我々とめちゃくちゃ相性悪いというか、言語化してはいけないものを描いてる話やと思うんで。
野暮なんですよね。
我々めちゃめちゃ野暮天ですよ。
そんなこと言わんでもね、分かっとるわってか説明すんなよみたいなことですもんね。
まあまあそう言われたらそうですって感じですけど。
そういうことしたくないから見る映画なのに。
このラジオはバクダッドカフェ好きな人よりもバクダッドカフェあんまり分からなかったなって人ほど聞いてほしい。
確かに良い補助線、我々慣れたのではないか?なったのか?分からないな?みたいな感じですけど。
逆に本来的にバクダッドカフェが好きだった人には何を言っとるんだとは感じられないとは思うんですよ。
すいません野暮で。
そうじゃね?ってなるかもしれないし、そうかもしらんけどそれを言っちゃ惜しめないってこともある。
そうだよね。
いやでもしょうがないですよ。言語家大好き人間3人ですからね。
そうやって生きてきましたからね、我々はね。
こういう聞き方しか分からないんですっていう。
いやーまあこんな感じですかね。
もうここでクライマックスでいいです。
ここでピリオンと生け占めしましょうここで。
もうここでいいですって。
これ以上ダラダラついたらソナダラさんになっちゃうから。
いいです。
今日が通常回ラストなんですよね、2024年。
次はもう年間ベスト回しか残ってないから。
いい終わりなんじゃないですか。
確かに。
次生け占め頑張ってますからね、年間ベスト発表っていうね。
先に締めだけやっときましたみたいな。
はい、じゃあまあそんな感じでバグダッドカフェの話は終わっていこうかと思います。
次のお知らせになります。
映画の話したすぎるバー名古屋開催が決定しました。
場所はイベントバーエデン名古屋。
1時は1月18日土曜日18時オープン22時クローズです。
またこの番組ではお便りを募集しております。
番組全体やトークテーマ作品に向けてご注意にお送りくださいませ。
バーの最新情報、次回テーマはXおよびインスタグラムにて告知しております。
ご案内は番組説明文をご確認くださいませ。
それでは映画の話したすぎるラジオ第193回バグダッドカフェの回を終わりたいと思います。
それではまたお会いしましょう。さよなら。