1. 映画の話したすぎるラジオ
  2. 第208回(2)『シンシン SING SI..
2025-04-22 1:02:57

第208回(2)『シンシン SING SING』誰かを演じてこそ見える自分の本質

シンシン SING SING』の話をしました。

演技を通じた更生プログラムにおいて、誰かを演じることでこれまでの自分を演じなくてよくなるからこそ、自分の本質が見えてくるのではないかという話をしています。

■メンバー

・マリオン https://x.com/marion_eigazuke ・オーイシ https://x.com/pteryx_joe

■映画の話したすぎるBAR in 週間マガリ

日時:2025年5月31日(土) 詳細:https://virtualeigabar.com/eiga-bar 場所:『週間マガリ』大阪市北区 天神橋1丁目11-13 2階 https://magari.amebaownd.com

■お便り

https://virtualeigabar.com/contact

■SNSアカウント

X(Twitter):https://twitter.com/virtualeigabar Instagram:https://www.instagram.com/eiga_shitasugi

■番組グッズ販売

https://suzuri.jp/virtualeigabar

The post 第208回(2)『シンシン SING SING』誰かを演じてこそ見える自分の本質 first appeared on 映画の話したすぎるBAR&ラジオ.

Copyright © 2025 映画の話したすぎるBAR&ラジオ All Rights Reserved.

サマリー

映画『シンシン』は、ニューヨークのシンシン刑務所での実話を基にした舞台演劇プログラムを描いており、無実の罪で収監された男ディバイン・ジーとその仲間たちの友情と成長を探ります。彼らは演じることを通じて自らを見つめ直し、真の自分を発見する過程を経験しています。このエピソードでは、役を演じることを通じてどのように自分の本質が表現されるのかについて考察されています。演じることは自己理解を深める手段であり、演技中の心境や役者としての経験がいかに関わるのかが語られています。 『シンシン SING SING』のエピソードでは、演技を通じて自己発見や他者との関係を深める重要性が強調されています。また、演技の背後にある社会的背景や、それに立ち向かう人々の輝きも描かれています。このエピソードでは、舞台演技を通じた自己理解や他者への信頼の重要性について考察され、特に演技が人間の内面に与える影響と、社会全体が受刑者の公正をどのように捉えるべきかというテーマが掘り下げられています。 ポッドキャストでは、映画『シンシン SING SING』を通じて自己の本質を探ることの難しさについて語られ、出演者たちの社会人としての強いペルソナと本音との葛藤にも触れられています。

映画の概要
今回のテーマ作品は、シンシンです。では、このままあらすじの方、僕の方で読ませていただきます。
米ニューヨークで最も厳重なセキュリティが施されたシンシン刑務所で行われている 習慣者公正プログラムの舞台演劇を題材に、無実の罪で習慣された男と
習慣者たちとの友情を描いた実話を映画化。 主演をラスティン・ワシントンのあの日を作った男で、アカデミー賞にノミエンドされた
コールマン・ドミンゴが務めた。 無実の罪で習慣された男、ディバイン・ジーは刑務所内公正プログラムである
舞台演劇のグループに所属し、習慣者仲間たちと日々演劇に取り込むことで、わずかながらの生きる希望を見出していた。
そんなある日、刑務所で一番の悪人として恐れられている男、通称ディバイン・アイこと クラレンス・マクリンが演劇グループに参加することに。
そんな中で演劇グループは次の行為に向けた新たな演目の準備に取り掛かるが、 主人公ディバイン・ジーを演じたコールマン・ドミンゴは第97回アカデミー賞
主演団優勝にノミネートされ、ラスティン・ワシントンのあの日を作った男に続いて2度目の主演団優勝ノミネートを果たした。
その他のキャストには、新進刑務所の元習慣者で、舞台演劇プログラムの卒業生及び関係者である俳優たちが多数参加している。
監督はザ・ボーダーライン、合衆国国境警備隊などの作品を手掛けてきたグレック・クエダー。
はい、というわけでここからはネタバレありで話していきたいかなと思いますので、まだご覧になられていない方はご注意くださいということで。
では、沢井の感想の方をちょっと言っていきたいかなと思うんですけども、では大井さん感想いかがでしたか?
そうですね、なんか正直予告のあらすじだけ見てると、なんていうかな、結構ディバイン・ジーの物語なのかなっていうイメージを持って
映画見始めたんですけど、映画見てて思ったのは、いやこれはむしろドキュメンタリーだなというか。
なんならなんて言うんでしょうね、ちょっと浜口隆介のハッピーアワー的なと言ってもいいような、
演じるとは何なのかっていう、そういう結構真に迫った哲学を描いている話だなっていう風に自分は思いました。
まさにこの映画って、当事者キャスティングって言い方でいいんですかね、もうね。
まあもう本人みたいな、本人役みたいなのが出てたりするよね。ほぼそう言ってもいいんじゃないかなと思いますけど。
ですよね。まさに彼ら自身が演劇、このプログラムに実際に参加されていた人たちが、本人役としてそのプログラムを演じるというか、プログラムに当たる物語を演じるっていう。
なんかこう二重構造っていうぐらいな、結構なんだろうな、その場の役者が、で役者の中に起こっている、あるいは起こっていたことをもう一度再現してみせる、あるいは演じてみせるみたいな話になっていて。
特にあれですね、ジーとそのバディにだんだんなっていく、そのマクリーン。彼がちょっとね、すごいじゃないですか。
そうですね。
コールマン・ドミンゴと全然タメ晴れるんだがぐらいのレベルまで、徐々にこうなっていくというか。
うん。
本当にその、素人と苦労との間って何なんだろうというか、まあてか演じるって結局何なんだろうっていうところまでいくんですけど、なんかもう、それを経て人間は真に変われるのだろうかみたいなことも考えるし。
途中から弱さを出していく話になっていくじゃないですか。弱さを打ち明けるっていう。で、弱さを打ち明けるための演劇なんだっていう話。
で、しかもそれが、それの口座にも描いてるのはこの映画すごいなと思っていて。
弱さを打ち明けられることは、仲間として強く繋がれることでもあるんだけど、またね、Gが途中、中盤以降落ちるように、人に弱さゆえに人を傷つけることもあるっていう。
なんかその両方を生々しく描いてみせるっていうことにも成功していて、なんかただただ弱さを見せて何かを開示することが良いことだけだよというふうには描いてない。切れ言としては描いてない。
おそらくそれは、実際起こったことのある程度脚本に落とし込んだ部分でもあるんだろうしっていうところも読み取れるし。
なんかそういう意味で、全然多分多くを語ってない映画だと思うんですよ。結構こっちでなんとなくそうなんだろうなって組むところが多い映画なんだけど、
振り返ってみれば振り返ってみるほど、なんか今すごいもの見たんじゃないかっていう。
演じることの意義
そんな興奮を覚えながら劇場を後にした、結構僕は楽しい映画体験だったなって思ってます。
はい。では僕の感想なんですけど、僕もなんというか、思ってた映画と全然違ったんですけど、良い意味ですごい裏切られたなっていう感じでしたね、印象としては。
こういう映画っててっきり、僕は彼らが演技の練習をしてて、彼らの演技を見て、わーってなって終わる、みたいな映画を想像してたんですけど。
分かります分かります。
劇見せないのよねっていうのとかも、彼らがその現劇に向かうまでの過程しか映してなくって、
だからすごいでも劇中、しきりにプロセスこそ重要であるみたいな話、延々と繰り返してたじゃないですか。
そうですね。
だから本当に映画自体もすごいそういう映画だったなっていうふうに思っていて。
でまあその、人として何かその、成長というかその、社会復帰とか後世とかを目指していく中で、
そうやってどうやってやっていくかっていうその、結果じゃなくて過程?
そこに至るまでの過程っていうのを丁寧に描く。そうやって何か変わろうとしているみたいな。
すごいそれがなかなかうまくいかないことも多くある中、それでも何とか、
そのより良い人生だったりとか自分っていうのを手に入れたいというか。
っていう人たちの何かその、何というかその、過程というかその、取り組み方みたいなのを、
すごい丁寧にそこに、そこしか注目してないっていうところがまず、素晴らしいなって僕はすごい思いましたね。
本当に背景とか全くほとんど語られないので。
そうなんですよね。
そう。そこじゃなくてまず、その人がどうだったからどうとか。
その人がじゃあ結果どうなるのかではなくて、
今そこで今自分を変えようとしている構成とか、何かしらこう、
位置からの再生を果たそうとしているという過程そのものがやっぱり素晴らしいことであり、
そこに何かそのいろいろ測れないものっていうのがたくさん詰まってるようなっていうのを、
めちゃくちゃこう感じさせてくれるみたいな。
映画になってて、それ本当重要だなっていうのを改めて見ながら思ったっていうのはすごいありましたね。
そうなんですよね。じゃあもうちょっと若干本編入りながら。
そうですね。このまま入ってもいいかなと思って入っちゃいますけど。
この映画に僕すごい似てるドキュメンタリー映画を見たって話を多分オープニングで少ししてて、
プリツンサークルって映画を見ましたって話をしたと。
そうですね。お話されてましたよね。ちょっと思い出してましたね。やっぱ。
そうなんですよ。
取り組み多分似てるんだろうなっていうなんとなくみたいな。
たぶんアプローチは、なんかより内静的なんですよ。たぶんプリズンサークルの方が。
はいはい。
日本の試みっていうところもあるし、
自分の罪に向き合う、より向き合わざるを得ないところがプリズンサークルの設定上というか、プログラム上あるんですけど。
なんていうか、ちょっとプリズンサークルと似てるな。
思い出したシーン、関連したシーンがあって、プリンサークルでロールプレイをするっていう場面があるんですよね。
で、最初ある人が、物を盗むっていうことを結構、強盗みたいな。強盗じゃないな。
物を盗むことの常習犯で、盗むことに罪性がわからないっていうふうな話をしてる人が出てくるんですよ。
例えば自分の自転車を盗られたけど、盗られたから盗ったのであって、そうやって世界は回ってるじゃないかと。
自分の世界とはそういうものだから、盗られた側がそんなふうになることが全然理解ができないみたいなことを言うっていう場面があって。
あそこだったかな。その時はなかったかもしれない。
でも、その中でロールプレイをしてみましょうっていうところで、
人を殺人しちゃった人かもしれないけど、でもその罪を犯した人が、その罪を犯してしまって、傷ついてる人たちを演じる同じ受刑者の人たちと、
役を演じてみながら、自分がなぜ悪かったのかを回想する。
自分は自分として演じていて、目の前には例えば、自分が殺害してしまった人のお父さん、お母さん、親、演じてる人がいたりとか。
その人と対話を、もちろん同じく受刑者同士なんですけどね。
役を演じることで、自分の中の思ってなかったというか、至ってなかったところからポロって言葉が出るみたいな瞬間を映してる場面っていうのがあって。
罪性を感じてなかった人が、なぜ悪いのかみたいなことを、言葉とか論理を超えたところで理解するみたいな。
なるほど。潜在的な感覚で出ちゃってるっていう。気づかされちゃうってことですね。
そうなんです。ただ、そこが、役を演じることでそこにたどり着けるっていうのがやっぱ面白いんですよね、そのプリズンサークルにおいて。
シンシンも、彼らはより自分らしい役っていうふうにはいたってないんだけど、でもどこが自分は重ねてるじゃないですか、その演じる中に。
特にディバイン・アイコとマクリーンは本当にそうじゃないですか。
そうですね。
そこはすごい重ねてしまいながら見たし、たぶん本人もそういうふうな意識を持ちながら演じてたんだろうなっていう。
そうですね。別に自分に向けて発せられたものじゃないんだけど、これ自分のことじゃねって思うみたいなのはあるじゃないですか。
ありますよね。
映画とか我々見てても、音楽聴いててこれ自分のことじゃんみたいなのとちょっと近いかなと思ってて。
何の気なしにたぶんやってたと思うんですよ、演技とかも。演技というか、どんな役やりたいですかってオーディションやってて。
ディバイン・アイコとマクリーンに関しても、笑かすの苦手だからよみたいなところから、リア王か、リア王でしたよね。
ハムレット?
ハムレットか、ハムレットでしたね。重苦しい、笑いなしの重苦しい役の方を選んでっていうわけですけど。
でもそこ、ほんとそんな感じで選んだものがめちゃくちゃ刺さって、めちゃくちゃ自分の今の人生のことを考えて重ねてしまうっていうのはやっぱり、本当にもう偶然だろうし。
だから本当にちょっと、それが上手くいかないときも全然、の方がたくさんあると思うんですけど、そこがぴったり自分のことじゃんって思うことって、そんなないのかもしれないですけど。
でも刺さったときのその1回はめちゃくちゃでかいなってやっぱ思いますかね。
やっぱ思うのは、僕らは例えば映画を見たり音楽を聴いたりするのと、演じたり、あるいは歌だったら歌ってみたりもあるかもしれないですけど、
その身体を通して初めてたどり着ける場所があるんだろうなっていうのは見てて思ったことではあって。
そうですね、確かに。
それこそ多分歌の話は2回ぐらい前の回でジャカーンしてる気がしたんですけど。
そうですね。
でもなんか、シンシンはまさにその役を演じること。
セリフを覚えて言って、さらにそこに演技をつけていくっていう。
その過程で本当に身体的な理解が得られるっていうところって、僕ら役者やったことないからわかんないんですけど。
そうですね。
ちょっと羨ましいんですよね。
演じることの意味
そうですよね。なんか自分への染み込ませ方がやっぱり、僕ら、違うと言い切っていいかわからないですけど、
違うやり方で染み込ませているっていうのはやっぱありますよね。
僕らは映画見て喋ることだったりするかもしれないし、彼らにとってはすごく役を通して演技の中で見つけていったりっていうのがあったりとかっていう。
そうですね。だから、演じてる最中どういうふうな心境になっていくんだろうとか。
てか、演劇において役を演じる時って、まさにそれが自分に当てがけされていてもいなくても、どんな気持ちで演じてるんだろうっていう。
あー。なんかね、完全に切り分けてる人と、結構演じてる以外の世界でも結構そこに近いようなとこに身を置くような人もいるじゃないですか、なかなかには。
そこがある、役が抜けないみたいな。役が抜けないような状況を作る人もやっぱいるし、そこって結構不思議なバランスですよね。
なんか人によってそこは変わるようなと思うんですけど。
そうなんですよ。で、たぶん僕らは喋るっていうのは、別にセリフがあって誰かに縮られてというか、こういうセリフを言ってねって言って喋ってるわけじゃないじゃないですか。
そうですね。
脚本を喋ってるわけじゃないというか。
そこは、だから脚本を任せた時に、言葉を他者に委ねた時に、自分の空いた部分というか空いた理想その部分でどういうふうに変わるんだろうなみたいなことは。
なんか思った。要は、まさに濱口さんのメソッドですけど、セリフをテキストに染み込ませれば、染み込ませたら先には、
逆にそのセリフに集中せずに、セリフの言い方とかその表現に集中せずに、自分の身体が素直にそこに落ちていくような形になるっていうふうによく書かれてるじゃないですか。
そうですね。
で、実際そういうふうな映画を撮られているわけだし。
なんかそれをやった先に、自分の身体がどうなるんだろうっていう。
うーん。なんか別の何かが乗り移るんですかね。そこにみたいな感覚になりそうですけどね。
なんだろう。でも演じる時って、どこか切り替えてるような気もするんだよなぁ。
あーなるほど。
なんかその、なんだろうな。例として話がわかんないですけど、
補助輪なし自転車に乗れるようになってるのも、それに近いような感じするんですよね。
もう、乗れなかった時のことを逆に思い出せないけど、条件反射的になんかなってるみたいな。
なるほど。
ような感覚になってるのかなぁと思ったんですけど。
だから別に切り替わろうとしてなく切り替わってるというか。
そうそうそう。めっちゃそこにキッパリラインが引けるっていうものでもないのかなぁと思って。
もうほぼ無意識感覚みたいになってて。
あーなるほどな。
で、それがある種自分の内面を構成するものにもなってるとも言えるし、なってないとも言えるみたいな。
うんうんうんうん。
っていう感覚なのかなぁっていうのはちょっと話し切れて思いましたけど。
なるほどなるほど。
いやだから、本作すごいどうしてるんだろうって思うのが、さっきのマクリーンはじめ、
G、コルマン・ドミンゴが演じてる役と、一部役者さんがいらっしゃいますけど、
そこ以外ってみんな本人役を本人として演じるわけじゃないですか。
そうですねそうですね。
でも本人役なわけですよね。
はい、役ですね。
そうなんです。それってどのバランスで演じればいいんだろうっていう。
あー、なんか。
てか、演じてるんだろうっていう。
そうですね。
たぶん考えてるんだろうなぁと思うんだけどなぁ。
なんかその、ほぼ本人が本人役やってるっていう意味では、僕あの、
あの、イースト・オッドのあれ思い出しましたけど。
あのパリ行きですよね。
パリ行き。
15時17分パリ行きでした。
はいはいはいはい。
時間の増やすのちょっと忘れちゃったんですけど。
まぁ、あるじゃないですか。
ありますね。
本人が本人、あのその本人が起こったことをまぁ実際にやるみたいな。
うんうんうんうん。
あれとか、もう、なんか見てるこっちはなんかすごい何も考えてなさそうだなって感じで見えたんですけど、正直。
けど、映画として作るってなったら、やっぱりそれの指示はいるじゃないですか、みたいな。
そこが、でもどうなんだろうな、イースト・オッドだから、まぁ普通にやっちゃってとか言って、それを取ってそうな気もするんですけど、わかんないですけど。
今回のシンシンに関しては多分めちゃくちゃその、もうそれこそほんと役を演じるっていう行為をやっぱ普通にやってきた人たちだから、
だからやっぱりちょっとその、その前提でじゃあ自分という役をやってくださいっていうのを多分それぞれが考えてやってそうだな、方向性で作ってるような気はすごいしました。
もう印象ですけど。
そうなんだよな。だから、もちろん演技の上手い下手って正直そのボコじゃないからあまりしっかりは掴み取れないんですけど、
でも自然じゃないですか、少なくとも。
そうですよね、少なくとも。
だから本当だけドキュメンタリーを見てるようだっていう話をしたんですけど、
まぁそこを見えちゃってもおかしくないぐらいの。
そうですね、確かにな。
役者の本質
いや、なんかちょっと僕もなんか演技じゃないですけど、なんか自分の勤めてる会社で、
そのなんか会社のなんか紹介みたいなVTRみたいなのを撮りますみたいな。
はいはいはいはいはい。
あって、でそこでなんかお昼休みの風景みたいな感じで、こう、なんか実際に喋ってみたいな。
普段通りの感じで、お昼休みみんなで集まって喋って、何気ない談笑してみたいなシーンを撮って、
でそこの、ただセリフがちゃんと決まってるみたいな感じではあって、
まぁ一応脚本というか、セリフがこの人この言ってみたいなのが決まってるみたいなものを撮ったことがあるんですけど、
そこで喋ってるときって、やっぱめっちゃ自然じゃないよなみたいなのになるわけですよね。
はいはいはいはいはい。
めっちゃ不自然じゃんみたいな。
やっぱなるっていうのはあって、なんか本当にこれ、そう、あの1回目撮って、別日にやり直しさせられたぐらいには多分ダメだったんだと思うんですけど。
おー不自然だったんですねそれは。
多分ね、そう不自然で、そう。
で確かに言われてみれば、めっちゃ固いなぁみたいな人もいるわけですよ、その中で。
まぁね、うんうんうん。
固いなぁっていうのもいるし、僕はあんま言われなかったんですけど、それは逆になんか。
むしろなんかめっちゃ自然でしたねって、「あ、ほんとっすか?」みたいな、なんかお世辞だったと思うんですけど。
でも人もいるから、やっぱまずそこでこうカメラの前に立って、じゃあ自分を演じてくださいじゃないですけど、
普段通りにやってくださいみたいなのって、多分めちゃくちゃ意識しないとできないっていうのはめちゃくちゃ思いましたし、
でやっぱ、ちょっとセリフも、やっぱちょっと変えた方がいいんですよね、そのとき。
あーなるほどなるほど。
自分の言う感じで言った方がいいなって思って、そう言ったら結構やっぱ自然になるなとか。
あー、はぁはぁはぁはぁはぁ。
と書きっぽく、と書きの意味は変えてない、変えずにちょっと、言い回しだけちょっと言いやすいようにしとると、
まぁなんか通るみたいなとかはあったりとか、いろいろなんか工夫がいるなっていうのをちょっと思ったのを、
ちょっと今話を聞いてて思い出したんですけど。
なるほどな。あれですね、だから、もちろんアンチ、アンチってわけではないけど浜口隆子の逆ですね。テキストを信じるっていうか。
そうですね、それはね。
まぁまぁ、それがいいか悪いかはね、方向性別にあれですけど。
それこそ浜口さんもね、その読み合わせしながら変えていくって言ってましたからね。
そうそう、だから、そうやってそれ用にちゃんと整形し直して、それを体に染み込ませてくださいっていうことだと思うんですけど。
だから結局やっぱり言葉っていうところにある以上飲み込みづらいというか、言ったときで引っかかるものみたいなものは、
たぶん引っかかっちゃうから変えなきゃいけないし、それどう変えるかはその役者側にかかってるっていう。
そうそうそう。だから僕あんまり今回のシンシンを見ててよくわかることではないんですけど、
例えば、鉛とか絶対あるじゃないですか。
ありますね。
その人の生まれとか、変役とかでこういう喋り方になってるみたいなのが、たぶん皆さんあると思うので。
で、たぶんそれどおりに話した方が絶対いいわけですよね。
っていうのをたぶん、きっとたぶんされてるだろうし。
たぶん、もちろん脚本で塗書みたいな感じで、あるんだろうけど、
たぶんそこをどう言い回すかっていうのだけでも、すごい自分らしさっていうのがすごい関わってくるよな、というのは思ったりしますよね。
確かにあのハムレットの演技が最初の幕にめちゃくちゃ不自然なんですよね。
そう、あれ?みたいな感じになりますよね。
まずセリフを覚えるのに必死だし、言えたと思っても全然それじゃあハムレットっぽくないって言って。
お前は王なんだと。この舞台を全てを仕切ってる人間だと思ってこいって言った時に、マクリーンが自分なりにギャングのボスだって思ってみるっていう。
その後の演技めちゃくちゃ、もうまさにハムレットみたいなのになりますよね。
あそこの演技めちゃくちゃすっげーと思いましたけどね。
本質をつかみ取るって、その人なりの人生経験を踏まえてつかみ取るしかなくてっていう。
そうそうですね。それはめちゃくちゃそうだなって思いますね。
だからどう噛み砕く、どう飲み込んでいくかっていう過程なんだなっていうのをその時に思いましたし、
結局それって、それをすることで自分の内側にあったものが初めて見えるっていうことじゃないですか。
うんうんうんうんうん。そうですね。
だから演じるって、一見すると自分じゃない顔をかぶるっぽく見えるんですよ。
そうですね。
それこそこの人演じてるからねみたいな日常会話で言う時って、
その人の本質じゃない部分を見せてるからねっていうような意味合いで言うことの方が多いじゃないですか。
うんうん。はい。そうですね。
ただ、本当の演技というか、役者として演じるっていう役割というかロールを立った時に、逆に自分本人が出てきちゃうというか。
本人の本質みたいなものがそこでこう炙り立たれてくるんだっていう。
で、それを多分自分自身もおそらく予想ができないように出てくるっていうところが多分演技の面白さ。
演劇の面白さなんだなっていうことを、なんかこれを見ててすごい思って。
いやー学生の頃演技部とか入っとけばよかったなーってすげー思いました。
ちょっとそれはなんかわかりますね。もう演技って面白いのかなーみたいな。
こうやってなんか、自分じゃないものになりきってるようでめちゃくちゃ自分も出てきて、
その過程で知らない人のことも想像ができるようになっていくみたいな感覚が、
なんかもう体験としてにすごい豊かっすよねっていう。
演技による自己発見
そうですよね。多分演技以外でこういう体験ってあんまりないじゃないですか。
うん、ないねー。
なんか本当特有のものですよね。
本当にそれはそうですね。別になんか役者になって世紀を立てようというわけゼロなんですけど、
なんか何か演技をしてみたいみたいな気持ちはちょっとなりますよね。
だからなんかなかなか演劇、てか役者を1回やると辞められなくなるぞみたいなのも結構話としては聞くんですけど、
なんかそののめり込んじゃうようなものがあるんだろうなっていうのは、
なんか本作を見ててすごい思ったというか、なんか本当彼らが羨ましかった。
そうなんですよね。いやもう基本ずっと彼らワクワクしてるじゃないですか。
そう、そうなんですよ。
いやーもうこの間の劇めっちゃ、あそこの演技よかったなーみたいな話しながら、
じゃあ次どうするよーみたいなのを、なんかすごい危機としてやっぱやってるじゃないですか。
で、やっぱその習慣されてて、まあなかなかそもそも習慣されてその環境もすごい大変ですし、
そもそもちょっと彼らに置かれてるその社会的背景とかっていうのもちょっとあまり、
もうちょっと習慣とか刑務所を使ったある種奴隷構造みたいなのが平気で実ははびこってるみたいなのも、
ちょっと聞いたことあるので、そういったことを考えると、まあ余計ちょっと辛いことではあるんですけど、
その中でも彼らめちゃくちゃ生き生きしてて、なんかもうずっと輝いてたなーっていうふうに思いましたよね。
そうなんですよね。だから、なんていうかな。
これがしっかり、構成っていう言い方が正しいのかっていうのはなんとも言えないんですけど、
でもこのプログラムを通じて事故を見つめ直す、あるいは他者との向き合い方を考えるっていうのは、
確かに遠回りのようで一番近道なことをやってる。
ある意味、彼らって外の世界、要はここに来る前の世界だと、多分何かを演じてた人でもあるわけですよ。
それもさっき言った、自分の本質でない部分を表に出すって形の演技をしてた人たちっていう。
あー、なあ、そうそうかもしれない。そうですね。
だから、このシンシェのプログラムを通じて、彼らは自分の本質を出す側の演技の方にスイッチを切り替えられるようになるっていうことなんだなって思って。
そうですね。だからちょっとその、お互いの弱みを見せ合うみたいな場面っていうのは、めちゃくちゃなんか大事だなーっていうか。
社会的背景の考察
やっぱり、大井さんが特にケアの文脈とかで話されてるようなことが、目の前で本当にスクリーンに広がってるみたいな感じで、
そういう場ってなかなかないよなーってやっぱ思っちゃうので、
本当あの試みも素晴らしいし、そこに集う人たちも本当に素敵な人たちばかりだなっていうふうにすごい思いましたね。
もちろん何かの罪を犯してるわけですけど。
ただ、罪を犯した人は永遠にそのままなのかっていうと、そういうわけではないっていう。
そういうやっぱレッテルバリみたいなのを、やっぱめちゃくちゃちゃんと回避してるじゃないですか。
まずそういう取り組みがあるよっていうのも一環だし、彼らの背景っていうのをほとんど描かないとかっていうとこもそうだし。
あと、これパンフレットって買いました?ちなみに。
パンフレットね、僕ちょっと夜の回だったんで、買えなかったんですよ。
いやなんかすごかったんですけど、パンフレットの。
最初の方に、プロダクションノートの抜粋みたいな感じで、言葉遣いの手引きみたいなのがあって、
まずその使うべき言葉としては、司法制度との関係よりもまずはその人が大事っていう理念のもと、
犯罪者とか、重犯者とか、仮出所者とか、全家持ちとかっていう言葉は使わないみたいなのを徹底してたみたいなのが。
まあまあ確かに出てこなかったですね。
あくまで習慣者とか、有罪となった人とか、習慣されてた人みたいな。
そういったのをいうふうに、お互いのことを言い合うようにしようみたいなことを書いてあったりとかして。
確かにそうだよなっていう。
その人がまずどう立ったかよりも、まず今目の前にそこにいる人のことを考えたら、そういうことがすごく大事だなって思いますし。
で、なんか避けるべき質問みたいなのがあって、何をして刑務所に入ったんですか?とか。
そういう刑期何年でしたか?みたいなのが。そういうのは効かないみたいな。
そこで司法制度と自分とのつながりみたいなので、じゃあこの人はもうダメな人なんだ、みたいなのを回避するというか。
そういうことじゃなくて目の前の人のことを見ようよみたいなのが、すごい徹底されてるみたいなのが、作り方からして書いてて、
開いて1ページ目にそれが書いてるんで、すごいなって思ったんですけど。
なるほどなー。でも確かに言葉の使い方一つで、その人の見え方って全然違うなと思うんですよね。
人々の輝き
そう。そうなんですよね。
なるほどな。
しかも劇中のコールマン・ドミンゴーが演じてた役って、その冤罪で捕まってしまってて、それの最新請求をしてるみたいな人だったじゃないですか。
そうですね。だからGは収監はされてるけど、罪を犯したわけではないっていう。
そうなんですよね。でも現にそういう人たくさんいるんですよね。
今回のその、役者として出てる方々の中にも収監されて、釈放された、そこから何年か後々にその罪、冤罪でした、みたいなのがわかりました。
へー、あーそうなんですね。
それが認定されたとかっていうのかも聞いて、何それって話じゃないですか。
その時間何だったんだよ、みたいな感じにもすごいなりますし。
だから本当に収監されてるから、じゃあこの人はダメな人なんだ、みたいなのかっていうのが、まずちょっと、そういう見方してたら多分一向に良くならないよね、っていう社会そのものが。
っていうのが本当になんか、この映画からより本当に鮮明なメッセージで浮かび上がってくるなーっていうのは本当に思いますね。
そうか、いや、結構そこってむしろ、あんまり描かないなとも思ったんですよね。
もうちょっと、それこそGの無実な罪の内容とか、なぜ無実なのかとかを、はっきり示すのかしらとか思ってたんですよ。
あー、そっかそっか、そうですね、確かに。
でもそこって、描かないじゃないですか。
だから、ともすればGは本当に何かをやったかもしれないし、やってないかもしれないっていうバランスに見える。
あー、なるほどな。
確かに映画だけ見たらそうか。
なんか、そうですね、僕たぶんあれですね、ネットフリックスのドキュメンタリーで、サーティーンスってあるのわかります?
わかんない、サーティーンス。
憲法改正第13条っていう、黒人差別が撤廃された後も、
実は法律の憲法抜け出しを使って、そういった奴隷制度的なものが出来上がってるよね、みたいなのを描いてる話で、
その時そこ、刑務所の話が出てくるんですよね。
そこで、貧困層にいる黒人がどんどん収容所に入れられてしまって、
で、刑務所って基本民間の経営なとこが多いので、
アメリカは特にそうですよね。
そう。で、人が入れば入るほど、刑務所は潤うみたいな、ビジネスの中で動いてるみたいになって、結構おぞましいことになってるとか。
地獄みてな仕組みですよね、あれ本当に。
そうなんですよ。
みたいなのを前提として一回見たことがあったので、
なるほど、そっかそっか。
ちょっとその背景を知った上で見ると、たぶんそんなことかなっていうのをちょっと思ったっていうのはありますね。
なるほどな。だからたぶん、アメリカではそうだよねっていうコンセンサが取れてるからなのか、
一昔前ならたぶんそのことをより注目して描いたような気がするんですよね、たぶん。
そうですね。
ただ今回って、そういうバランスではない、そこはあくまでテイストとしてはあるんだけど、
物語はとはいえ、どう人がその中で、構成というよりも、
自己開示してお互いを自分を含めて癒し合うかというか、っていう過程の方にメインが置かれているような気がして。
だから、そこがテイストとして外側にあることによって、よりたぶん深みは出てるなと思うんですよ。
そんな地獄みたいな状況だからこそ。
そうですね。確かにそれはそうですね。
なるほど、でもそっか。
あんまりその視点なかったんで、だから普通に罪を犯してるのかしらって思って見てたんですけど、
言われてみたら、そっか、その視点しっかりあるなっていう。
そうなんですよね。だから収容所っていうか、あの収監所っていうか刑務所って、
アメリカの場合、有罪じゃない人もいっぱいそこにいたりするので、裁判待ちとか。
なるほどな、そっかそっか。
なので、一概に悪いことをした人みたいな括り方をしてしまうと、
こぼれるものが実はあるみたいなのは、ちょっとあるっていうのがあったので、
それのことをちょっと思い浮かべては見てたっていうのは、僕の中でありますね、シンシンのことを。
なるほどな、それはちょっと見逃したとこかもしれないです。
でもまあ、その背景っていうのを知らなかったとしても、確かにそもそもやっぱり、
彼らが何をしてきたのかみたいなのって、別にめっちゃそんな深く描いてるわけではないので。
だから本当に大石さんのおっしゃる通り、自己開示どれだけして、そこからお互い繋いでいられるのかっていう部分の話として、
それが何というか、自分の中にある何かを取り戻そうとしている人たちの必死さというか、輝きみたいなのが、
めちゃくちゃ意識を向けた映画になってるっていうのは、そりゃそれでそうだなというふうに思います。
うーん、そうっすね。
いや、まず、当たり前ですけど、ジオンって言ったドミンゴの演技はまあ。
いや、そうっすよね。いや、本物じゃんって感じしましたよね。
いやすごいんですよね。今回その役者として、プロパーの役者として言ってる人って、コルバン・ドミンゴムだし、
あと演劇プログラムの先生もそうじゃないですか。コール・ベイシーじゃないですか。
もう、まんまサウンド・オブ・メタルみたいな時と、ほぼなんか風化が同じですが、みたいな説得力がありましたけど。
なんなんですかね、あの凄みというか、溶け込み方。ちょっと、あれはすごいなって思いましたね。
そうなんすよね。まあ、しかもまあ、それこそ本当に、マクリンとか、当事者キャスティングの人たちが畳張るぐらいというか、
しっかり並ぶような演技をしてることももちろんすごいんですけど、それにさらに被さるように物語の深みを出してるっていうか。
そうっすよね。すごいですよね。
特にやっぱちょっと、大江さんもね、お話されてましたけど、
自分の弱いところをめちゃくちゃもう、ダメな形でぶちまけちゃうシーンあるじゃないですか。
すごく苦しかったっすね、あそこね。
あそこね、ちょっと辛かったっすね、あれは本当に。
あれ、確かに当事者の人には絶対に、やらされたらあまりにも酷すぎるというか。
めちゃくちゃハードというか、カロリー高い役だと思うんですよね、あそこ。
そうですね。高いし、高いし、彼が置かれた状況とかも、
思うと、なんかそうしてぶちまけたくなってしまう気持ちもすごくわかるというか。
舞台演技の意義
うまくいかないことって全く関係なく連なるよなっていう。
そう、もう、全てが無意味に思えてくるみたいな。
本当にやっぱ舞台演技のプログラムで、
これが何のためになるんだよ、みたいなふうに言われがちというか。
で、多分、やってる本人たちも、これ何のためなのかわかんないみたいなものは多分あると思うんですよね。
まあ、そうっすよね。だけ、自分を自己解釈で、あるいは自分の中で内閉的に見つめるという意味での演技はいいんだけど、
結局それがお客さんに届けるためのものってなったときに。
何なんの?みたいなというか、別にね、お薬飲んで風邪が治りました、みたいなことにはならないわけじゃないですか。
ならないですね。
けど、そのプロセスがすごくやっぱ大切なことでは絶対あるのを確かではあって、みたいな。
それやっぱ信じられるかっていうと、やっぱそこの責め気合いは多分めちゃくちゃあるよなぁと思って。
だから、ほんとやっぱあの辺の場面見ながら、よく映画とかで見る男子会とかのセラピーとか、ああいうのとかも、
社会の残酷さ
ある種、何のためになるんだろう?みたいな気持ちになっちゃって、
挫折しちゃうみたいな人もたくさんの場ではいるだろうなぁとかも思ったりもするし、
なんか本当に人間って、いとも簡単にこう折れちゃうよなっていうのもすごい思いましたね、あれは。
そうなんですよね。でも、ある意味、傷つけられるほど信頼してるってことでもあるのかな。
まあすごく良い方にとれば、ですけどね。
まあそうですね。
あれで誰も拾ってくれなかったら本当に終わっちゃうと思うんですけど。
そうですね、もう知らねーよって言って、阻むんじゃないですけど、なんか被られるだけになっちゃうと思うんですけど。
まあやっぱそれだけやっぱ彼は信頼感を積み上げてきたと思うので、
あのプログラムに命というか情熱を注いできてるっていうのも、みんな知ってるからこそだと思うんですけどね、もちろんね。
だからあれっすね、もうだからマクリーンの方が仮釈放を取ったぜっていうタイミングと被るじゃないですか。
まあそこね、辛いなーっていうか。
あの窓のシーンちょっと見てらんなくて。
そうっすよねー、ほんとねー。
もう本当にもう、辛かったなあれは、本当に。
その手前までジーがね、その窓の外に手伸ばしてるんですよね。
そう、やっぱね、それは出たいじゃないですか。
そう、もちろんこの演劇にはすごく情熱も尽くしてるし、仲間のこともすごい多分信頼してる人だと思うんですけど、
とはいえやっぱり外に出たいっていう気持ちもあってっていう中で、
しかもここまで用意したのにっていう背景もあるんだろうなっていうのもしっかり描きつつ。
そうなんですよね。すごい分厚い封筒返されるじゃないですか。
しかも何か数分間の面接の後にね。
そう、何かもうあれってもう本当にいろんなその書類とか書いたも全部ああやって返されるわけなので、
もうちょっとあれ、辛いですよね。
最初何だろうって思ったんですけど、あの封筒って思って。
あ、今まで積み上げてお願いしますって言ってきたも全部ああやって返してくるんだあいつらって思って。
そうですよね。だから言ってましたもんね、マクリンに。
いや手紙は書くんだよって言って、何回も何回も手紙は書くんだよって言ったものがあそこにボンって返ってきてるわけですからね。
そう、お前のそれ意味なかったよみたいな。
っていう突きつけられる瞬間というか。
そうですよね、本当にもう何も縋れてるようで縋れてないものに我々が縋っているみたいなことじゃないですか、やっぱり。
そこがもうなんというか、そこがもうふとした瞬間にポキっと折れちゃうみたいなのは、もうちょっと辛かったですね、あれは。
本当に社会の残酷さを。
ある意味この映画、言い方難しいけど優しい映画って呼ばれる映画の一部だと思うんですよ。
とはいえしっかり残酷さもそこで見せてくるやんと思って。もちろん刑務所だしそうなんだけどさっていう。
そうですね。
そこがやっぱこの映画のバランス取りの上手さというか、しっかり苦いところも出すぞっていう。
それはもちろんこの題材を扱うからには誠実にそこまで取り組むけどもっていう感じだと思うんですけどね。
そうですね。
いやーでも本当にちょっと、でもこういったプログラムってでも、あんまりでも行われてないっぽいじゃないですか、どうやら。
日本ではまだまだ全然。
っていうことですし、なんかアメリカでも3箇所ぐらいとかって聞いたので。
演劇、そっか。なんかアメリカって割と、演劇のプログラムはわかんないの。台湾のプログラムはよくある。
っていうのも、プリズンサークルの時に話を聞いたんですけど。
はいはいはい。そうなのか。
あー、てかちなみにあれですよ、パンフレットそれこそプリズンサークルの監督さんのコラムがありますよ。
あー、坂上香織監督の。
そうですよね。
はいはいはい。まあそうですよね。
ありますよ。なんかそれが確か、アメリカの元習慣者と一緒にシンシンを見た話みたいな。
おおー、なるほど。
っていうのは書いてあって、ああそうなんだと思いながら見てましたけど。面白かったです。
いやー、そうだから国内、だからアメリカですら、例えば演劇とかその、よりこうなんていうかな、派生的なプログラムはあまりなく、
まあたぶん自己内政的なプログラムの方がよりメインで扱われてるんでしょうけど、それが日本国になるとよりないっていう。
っていうことですもんね。
で、だから、それで、なんていうかな、片思い世界のあの犯罪者描写になるわけですよ。
だから、まあ元犯罪者というか。
そうですね。そこもやっぱほんと、良くないよなーっていう描写の一つでしたけど、その片思い世界においても。
なんかやっぱりその、刑務所入って、なんか、はいそれまでよみたいな感じになってしまってるのはほんとにあんま良くないよなーっていうか。
とりあえずね、なんか刑務所の中で仕事というか手に職をつけるみたいなことまではなんか、できますけど、なんか、
中でいろいろ物作ったりとか、携わってとかってありますけど、それだけで本当に公正って果たされるのかな、公正というか、
なるのかなーみたいなのとかはちょっと考えさせられますよね。
だからまあ、前回もちょっと話したけど坂本雄二割とそういう描写描きがちなんですけど。
ただそれって、現実問題日本の刑務所というか、受刑者の皆様に対して行われることっていうところに、
そもそも公正っていう意図があまりにも少なすぎるっていうことなんじゃないのっていう気もちょっとしてて。
そうですね、ちょっとそれは本当に、ちょっと今回の新シーンを見ながらはちょっとそれは思いましたね、やっぱり。
だからやっぱりそこは、なんていうかな、公正とは何なのかってことをもっと考えた方がいい。
で、難しいのは、つまりそこにプログラムを作るって、今回もそれこそ支援者の前で演じるっていうシーンが。
ありましたね。
ありましたけど。
ありましたね。
日本の場合それが公的に行われてることがメインだったりするっていうところもあって、
税金をそこに注ぐっていうすごい反発がやっぱり来るんですよね。
そうですね、そこめちゃくちゃありますよね。
で、そこの社会としてどう受け入れていくかっていうのは、
なんか僕らがもう考えなきゃいけない問題なのかなっていうのは、
すごい、本作見ても思いません?プリズムサークルを見た時にすごい考えたことではあって。
それはもともと、そもそも人間は公正し得るっていう可能性を信じれるかどうかなんだろうなっていう。
そうですね。
変わる可能性
だから片思い世界でもやってる人はぜひ新シーンも見てくださいっていう。
まさかの連続してこう、見てくださいみたいになるとは思わなかったんですけど。
でもちょっとやっぱ新シーンを見てちょっと公正というか、みたいなのかはめちゃくちゃ考えたくはなりますよね、本当に。
それってもう、もっと大きく言えば人間は変われるのかっていう問いでもある。
そこをなんか、初めから信じないっていうのはちょっと残酷じゃないかなみたいな。
全員が全員変われるわけではないかもしれないけど、一気に全員が変われませんに傾いちゃうのはどうかなみたいな。
そうなんですよ。
っていうふうな気持ちにはすごいなりますけどね。
本当、悪人も悪人ゆえの理由があるよみたいなことは、
ここ最近、邦画とかアニメーションでもだいぶ描かれるようにはなりましたし、
それがだからいいのかって話でもちょっとあるんですけど。
そうですね。
ただ、それを描いた上で、その悪とされてしまう人というか、
社会にとって何か悪いと言われてることをしてしまった人が変わり得る。
あるいはそれは人間すべて、そもそも生涯的に持ってるものじゃなくて、
いつの時代でも変わっていけるっていうことをどのぐらい信じられるのかっていうことで。
最近はというか、ここ最近の風潮はよりそれが変わらないよねっていう感じになってきてるような気がちょっとしていて。
その空気感僕もわかりますね。
自分もちょっと思っちゃうことありますね。自分自身の何か悪い癖というか。
やっちゃったなって時に、いやでももう変わるのは無理だしなって思ってる自分もちょっといる。
変わることのしんどさを、しんどさというか、その変化をしないでおこう、そっちの方が楽だからみたいな。
そういうふうに、ちょっと過剰に生きすぎてるかもなって本作を見てる人も思って、自分自身の心的にも。
社会のその空気感的にも。
なんかもっと人の過剰性というか、変わり得る可能性みたいなものを信じてもいいのかもしれないなっていうのを結構素直に見てて思いましたね。
そうですね、ほんとそうですね。
意外と自分で自分に化してるだけかもなっていう。
そうですね、なんかそれはあるかもな。
ちょっとどこか諦めちゃってるじゃないですけど、そういうのはちょっとやっぱり自分の中にも全くないというわけではもちろんないので。
けどやっぱちょっと信じれるような自分でもありたいよなっていうのはやっぱりありますよね。
社会もそうあってほしいなって思いますし。
で、それを多分達成するためにはまさに本作であったように弱さを開示でき、自分で開示して自分で辞任してっていうことをしないと多分。
できないんですよね。
できないですよ。それがしんどいんですけどね。
ねー、そうねー。
やっぱどこかこう、自分の中でこう、自分の感情とか思いとかを外に伝えられてるかみたいな自信ってあんま別っぽくないので。
だからこそああいう弱音を見せ合うみたいな場とかを映画とかで見ると本当にやっぱちょっと印象につこり残るというか、
本当に素敵なことだなってやっぱ思うっていうのはすごいやっぱありますよね。
どうすればできるようになると思います。
そうですね。
いやまあ、ここでもうち、なんか出してるうちは出してるっていうのもあるんですけど。
映画という媒体をこううまく使ってというか。
そうそうそう。
使って出してはいるんですけど。
自己の本質を探る
自分のそういう不安とかをこの映画から同じこと感じましたみたいなのを出してはいるんですけどね。
それがこうじゃあ、なんでしょうね。
なんかでも全部出せばいいってもんじゃないからなーっていうのはやっぱあるんじゃないですか。
わかりますわかります。もちろん彼らも全部出してるわけでもないし。
そうそうそう。なんかそこのなんだろうな、線引けなさというか。
出してるんだけどなんか出せてないような気もするみたいなのを多分ずっと不安として抱えながら多分生きていくものなんだろうなと思うんですけど。
そこが難しいよなーと思って。
そうなんだよなー。
いや結局その弱さを出そうとしたら弱さを出す演技をしてるっていう時ってめちゃくちゃあるじゃないですか。
例えばですけど、会社の研修とかでそういうことをやってみましょうみたいな時ってあれ演じてるじゃないですか。
もう会社のそれは絶対演じますね。
絶対演じるじゃないですか。
絶対演じますね。
でもまあやってることとしては多分そういうことだと思うんですよ。
まあやりたいこととしてはそうですよね。
そう。会社側の意図としてはそうというか。
だから会社の場でやるかっていうと絶対やりたくないじゃないですかっていう。
会社の場では結局仮面かぶっちゃばかりが自分の多分限界なんですよね、今。
そう。絶対出さないですねみたいな気持ちでありますね、その場だと。
もちろんそこにいる人たちは全員信頼してないとかそういうわけじゃないんですけど、
まさにそのペルソナというか文人というか、社会人としての自分であろうとしちゃう圧が強すぎて。
あーそうそうそうですね。
あるいは自分のそこで身をさらけ出せるほどプライドが許さないというかそれを。
なあそうですね。プライドもあるなあとか。
本当にビジネスパーソンとして的なところはめちゃくちゃありますよね。
そう、それってどうね。
まあそれがあればあるほど、さっき言ったように社会も生きづらくなっていくわけですけど。
そうなんですよね。本当はそういう場でも言えるっていうのが本当はいいんだろうけど。
でもね、できないじゃない。俺もできないって言っちゃダメなんだろうな。
そうなんですよね。
でもできないじゃないすか。
できないじゃないすかって言っちゃうんだよね。
思っちゃうんですよそうやって。
なんか防御態勢に入っちゃうんですよそこの段階。
だからほんとに一番最初のマクリーンの態度みたいな感じになっちゃうんすよ
なっちゃうなっちゃう まあそうなんだよな
まあ そうね
会社のそういう場面以外でどこか何かその自分のことをもっとオープンにできるみたいな場が
みんなそれぞれにあるとかならまだそれはいいのかなと思うんだけど
なんかそういうののなんかそういうのが一個一個積み重なってそれが大きくなれば良いなっていうか
まあそうですね まあそれがまとまるとってかなり難しいことですけど
そうてかまさにそれやっちゃうとその 心の旅リアルペインのベンジーみたいになっちゃうんでやりすぎちゃうからね
そうするとしんどいっていう そうなんだよな
いやまあそうそうそうね
なんかでもすごくなんか自分の言いたいことを言ってくれてるポッドキャストとかあるじゃないですか
ありますよはいはいはい なんかそういうのがもっと大きくなればいいのかみたいなのを思うときは
確かにね
分かるこの感覚みたいなのを聞いてそれがもっと全員がそうだみたいなコンセンサスがもっと取れるようになればいいのにみたいなのはすごい思いますけど
みんな本音ではこう思ってるよねのコンセンサスがなんとなくこう 取れててでもまあまじさま社会人なんで今はロールを演じてますよ
今までも含めてこう そうそうそうロールは演じるんだけどその本音というかもうちょっとこの辺
なんかいやーって思ってることとかがこう みんなの共通として取れてるみたいなのがまあまあそこ限界かなっていうか
いやだからすごい気になってたのが彼らってその シンシンの刑務所を出た時に
出た世界でどうしていくんだろうって 思ったりもして
どうやって生きていくんだろうって思ったりもしてそれこそ本当に現在進行形で彼らが多分 向き合い合っていることなんだろうなって思うんですけど
そうですねそれはぜひパンフレット買っていただいたほうがいいなるほどなるほど 今こういうことやってますとか書いてたりするので
それこそだってここの演劇の場って 社会っては多分開示できないレベルで開示をする場所かなっていう気がしてまぁそれは僕らで
言うとそれこそこのラジオであったりとか 友達との会話であったりとかがまさにその場所を足り得るのかもしれないですけどね
なんかそれでもやっぱそれがあることを知ってるって言うだけでまぁ 社会に戻っていけるっていうことはあるかもしれないな
社会に戻るための理解
うーんそうですね まあさっきもちょっと言ったように本当に会社社会人としてのペルソナと本音がさらけする別が
別々にあるみたいな状態なのかなーっていうのはやっぱ思いますけどね
すごい途中から真摯の話しすぎたからよくわかんなくなっちゃいましたけど まあでもすごい通ずることを話していたような気がするんですけど
いやでも本当不思議な感じだったな いやそうなんですだから不思議な映画というかめちゃくちゃ感動するとかではないんですけど
ない? うんそうですね感動
素直に感動作みたいになったらちょっと違う 意味で感動しているっていう感じはすごいしましたけどね そうなんですよなんか
すげーもんは見たなっていう感じというか 本当のものが映ってるって言い方をすればいいのかな
確かにそれはめちゃくちゃ本物感というかは間違いなくそこにあったなって思いますし
私なんて言うんでしょうね そのさっきプロセスって最初にマリオさん忘れてましたけど
人が変わっていく姿というか 変わってきたものを多分もう一度演じてくれてると思うんですけど
そうですね なんかその過程がどうあるのかっていうのを本当につぶさに見せてくれる
こんな映画なかなかないわっていう ないと思います本当変わったバランスのというか
実験的と言ってもいいぐらいの 作品ですよね
これは今年結構印象に残る映画になる一本になるわっていうふうは思いましたけどね
そうですねこれ見れてよかったなっていう感じですね本当に
めっちゃ楽しい映画だよって進めるわけではないですけどでも見たらいいよとは言いたいというか
そうですね そんな感じですよね
泣けるよーとか感動作だよーみたいなのじゃないけど めちゃくちゃいろいろ考えて感動してほしいみたいな
なんですよね本当に 最後の終わり方とかもいいじゃないですか
窓越しの二つの塔が立っているところとかも 二人のことじゃんみたいな感じすごいしましたし
気が利いてますやんっていうそういうところでもねみたいな
そこもなんかいいというか意外と映画的演出もしっかりあったりしてね
スースーしてるんすよね そうそう
やっぱなんかね本当その窓を見るシーンとかもだし やっぱこう隙間から何か見るみたいなしね
隣で喋ってた人が亡くなってみたいな話とかも ちょっとかなり来るものありましたけど
しかもちょうどそのGが仮出所というか 釈放されるタイミングで隣に新しく人が入ってるっていうね
あーそうそうそうそう
あそこもチラッと映るんですけど おほーってなるじゃないですか
ねーなんかね
そうなんですよねもうちょっといろいろ思うとこありですよね 言葉にするのが難しいんですけど
そういうのあんまり語りすぎずにサラッと見てるからこの映画
そうなんですよねそこがやっぱなんかいい映画だなーっていうふうに思いますけど
いや本当 いい映画を見たなって感じですマジで
ねー本当ですね
じゃあちょっとそろそろ締めましょうか
こんな感じですかねはい
はいなんかもう喋っときたいとか他ない誘うであれば
大丈夫だと思いますはい
大丈夫そうですかね
あとパワフレットの話何回か出しましたけどパワフレットおすすめです
あの映画を見てなくても明日には投稿しないので買いに行きますわ
あーもうぜひ買っていただいた方がいいかなっていうのと あとあのネットフリックスのその僕が言ったドキュメンタリーおすすめですね
確かに確かにそれをちょっと見てみたいですね
ちょっとまたこの彼らが置かれてる背景みたいなのを描いてる話だと思うので
あとなんとまたこれネットフリックス入ってない方もね見れるんですよね実はyoutubeでね
そう実はあのブラックライブスマダーの問題がめちゃくちゃ紛失した時に
ネットフリックス側がもうyoutube全部上げてて
まあそれともめちゃくちゃ関係する話なんですけどね
憲法の話が
なのであのそれあの普通にyoutubeでネットフリックス入ってない人も見れるっていう感じのもんなので
字幕もついてるし
いやもうぜひぜひですねそれは
それもねちょっと見てもらったらいいんじゃないかなというふうに思いますね
見ますはい
じゃあそんな感じですかね
はいではシンシンの話はここまでにしたいかなというふうに思います
はいではお知らせになります
映画の話したすぎれば次回開催日は決まり次第お知らせいたします
場所は大阪の南森町週刊ばかり19時オープン23時クローズです
またこの番組ではお便りを募集しています
番組全体やトークテーマ作品へ向けてご自由にお送りくださいませ
バーの最新情報次回テーマはxおよびインスタグラムにて告知しております
各区ご案内は番組説明文をご確認くださいませ
それでは映画の話したすぎラジオ第208回シンシンの回を終わりたいと思います
それではまたお会いしましょうさよなら
01:02:57

コメント

スクロール