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マルクス経済主義の主本論の優渕主観は妥当性があるなあという話をしていました。
男女平等の流れはもちろんあるわけですよね。
これもやっぱり物の面から精神が規定されているなあと思うわけですよね。
男女平等というのは当然ですね。
元来そうあるべきでしょう、そうでしょうというふうに思えるわけですけど。
逆に、なんで今まで男尊女卑だったんだということを考えると、やっぱり物の面で精神が規定されていたんだなあというふうに思います。
例えば、昔だと肉体労働が主なわけで、力ある男は働いて、役割分担ですよね。
じゃあ奥さんは家で家事するかみたいな感じですね。
そこに役割分担というのが成立しやすいと。
なので社会的には男が働いた方がいいよねみたいな感じになるだろうし、
あとですね、前もちらっと話した、一人が働いて何人が養えるかというのもあって、
一人男が働いてれば昔は結構たくさん人間を養えたということがあったので、
家という単位でですね、世帯主の男と彼が養っている家という単位で社会というのが構成し得たって感じなわけですよね。
で、なんだけど産業が行動化していくと肉体労働が減ると。
あと一人が働いて養える人数というのが減っていくと。
これもやっぱり物の面の変化というのがあると。
こういうふうに物の面が変化していくと、家単位の社会というのが崩壊するし、役割分担というのも崩壊すると。
でなると男女両方働いていくと、しかも産業が行動化していくとサービス産業になっていくので、仕事面において男女の差というのがなくなるわけですよね。
でなると物の面においてそのように変わっていっているのに、男尊女卑という考え方とか概念しかないともちろん居心地が悪くなるので、これ平等じゃなきゃおかしいでしょというふうになっていったということですよね。
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昔の人がバリバリ男尊女卑でそれを遅れていて間違っている。
元来男女平等でしょというふうに言いたくなるわけですけど、やっぱりその時はその時で物の面からそれが決められていた。
それが逆に言うと居心地があるし良かったわけですよね。
で今はですね、男女というのは間違いなく平等だよねというふうに思えるのは物の面からそう思える状況になっていると。
逆に今でも男尊女卑的な感覚があるとしたら物の面をちゃんと感知できていなかったりとか、居心地、自分の居心地というものに対してちょっと鈍感なんじゃないかみたいな。
やっぱりその二つをですね、物の面をちゃんと見て自分の居心地というのに敏感であるということは結構大事なんじゃないかなというふうに思いましたね。
という感じでですね、唯物主観化についてはそんな感じなんですけど、もう一つのですね、マルクス経済学の大きい特徴である、もう一つじゃないんですかね、あと二つ三つがあるんですけど、
労働価値説ですね。この労働価値説についてその岩井さんがですね、経済学の宇宙という本で書いている話がちょっと面白かったんで、ちょっとその話をですね、また自分が覚えるためにですね、ちょっと軽くかいつまんで解説するんですけど、
まず岩井さんがですね、本当に頭良い人ってこんなんなんやなと思ったんですけど、高校生の時かな、資本論を読んでですね、すごいな、緻密な論理ですごい書かれてるなと思ったらしいんですけど、
労働価値説っていうその命題を見て、これは他のことは客観的科学的なふうに書かれてるんだけど、この労働価値説については、これはマルクスが労働に価値があって欲しいと思ってるだけだよねって思って興味を失ったらしいんですよね。
それをですね、こういう難しい本、理解するのも精一杯みたいな、できないみたいな難しい本を読むだけでなくですね、そこに入っているある種の少し、そこに隠れている作者のちょっとしたミスじゃないですけど、そういうものをですね、感じ取ってですね、
読んでいられるっていうのが本当にすごい頭の人はすごいなって思ったんですけど、
そのマルクスは、人間一人が生きていくのに必要な生産物っていうのの層は全部足したものっていうのと、人間がこれまで生み出してきた生産物の間に歴史的にずっと開きがあると。
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つまり人間が生み出してきた生産物の方が人間が生きていくために必要な生産物よりずっと多いと。
で、多くてそこに差があるということは、そこの本当にもっともっといろんな理屈があるんですけど、そこに差があるということは、その差を生み出しているのは労働であって、だからその労働に価値があるんだみたいな、ちょっと今のだいぶ違う説明な気がしますけど、
ざっくり言うと、物に何で価値があるの?それは人の労働を経ているからだと。労働が価値を生んでいるんだみたいな、そういう考え方なわけですよね。
で、そうやって労働者が価値を生んでいるので、その価値というのは労働者が本来的にはもらうべき、本当これはイデオロギー的な考え方ですけど、もらうべきなんだけど、資本家の下で働いているので、その価値というのは資本家のものになると。
その資本家がそれに対して賃金を当然払うわけですけど、それが生活水準ギリギリぐらいの低めに抑えたいと当然。
それは利潤幅を大きく持ちたいので抑えたいから、それぐらいしか払わないと。
この労働者が生んだ価値と最低限の水準の賃金の間の利益を資本家が吸い取る、つまり搾取することによって利益が生まれているんだと。
だからそこから共産主義的な考え方というのに繋がっていくわけですよね。
搾取によって企業の利益が生まれているというような感じですよね。
その手前には価値は労働が生んでいるという考え方があるわけですけど、
岩井さんがそれに対してなんで最低賃金しか労働者は受け取れないのかということを疑問視するわけですよね。
それに対してその後の論理展開がすごく面白かったんですけど、
アーサー・ルイスという経済学者の人がいるらしくて、この人が労働力の無制限供給と経済発展という論文を書いたと。
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これは発展途上国の経済学としてすごい古典になっているらしいんですけど、
これは面白いなと思いまして、発展途上国では農村において、
農村の共同体の中で例えば井戸を掘って、水汲んできてみたいな、
共同体の中でお互いを助け合う仕事をやりながら水準ギリギリの生活をしている人が無数にいると。
無数にいて、村のお手伝いみたいなことをしながらギリギリ食ってるみたいな人たちが無数にいると。
そのような人は仕事さえあれば、いつでも農村を離れる準備があると。
でなると都市で工場ができます。
でなったら、何かどこどこで工場?って言ったら、
じゃあ俺ちょっとこの村離れて行ってくる、ピューって行くわけですよね。
それが農村に無数にいるので、都市にいる工場の持ち主である資本家は全然最低限賃金で、
やらしてください、やらしてくださいって農村からどんどん来ちゃうわけですよね。
だから全然賃金をあげる必要はないと。
だから賃金が上がらないんですよね、発展途上国において。
農村が抱える過剰人口みたいなのが都市の工場に無制限に流れ込むっていうのが、
発展途上国に共通している特徴らしいんですよね。
話が戻ると、マルクスは価値がどうやって生まれるのかみたいな話を考えているときに、
労働力が価値を持つという結論に達しているわけですけど、
その前の段階というか、もっともっと原始的な、
マルクスの言葉で言うと、ノアの洪水以前ではみたいな、
分別の意味を込めてそういう言い方をしているわけですけど、
サイが理順を生んでいた、価値を生んでいたというわけですよね。
何かというと、昔の古代のメソポタミアとか、
そんな文明とかでもそういう貿易の跡は見られるらしいんですけど、
あるAという地点とそこから砂漠を挟んだBという地点がありますと、
Aという地点では黒曜石が採れます。
Bの人はわざわざ砂漠をわーっと渡っていって、
自分のところでは採れない黒曜石というのを、
本当は黒曜石に掘り出すのに1個100円しかかかっていないんだけど、
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200円で払いますと。
それを持って帰りますみたいな。
ここで別に労働とか生産とかは行われていないんですけど、
AにあるものがBにないという差が単純に価値を生んでいると。
ないから価値があるみたいな感じですね。
昔はそうだったんだけど、今の資本主義社会においては、
労働が価値を生んでいるよねみたいな、そういうロジックだったわけですけど、
岩井さんは今も差異が理順を生み出しているよね。
それが基本原理だよね。価値を生み出すということを言っているわけですよね。
さっきのルイスの発展途上国の例を挙げて、
さっきの発展途上国の例だと、どこに差異があるかというと、
労働生産性と実質賃金率の差と言っているんですけど、
これはつまり、結局農村から都市部に行って工場で働いているという時点で、
ある程度の生産性はもちろんあるわけですよね。
なんだけど彼らは、仕事なく村の手伝いだけやっているよりは、
都市部で仕事に就きたいというのがあるので、
どんな賃金でも働くというところなので、
生産性の割に賃金が低くてもいいわけですよね。
だからそこに差異がある。
その差異があるから、都市部の工場はその差異によって利益を生むことができて、
大きくなることができるわけですよね。
マルクスは労働が価値を生んでいるのだというところで、
どうも人間の労働に神秘的な力があるんじゃないかと考えていたらしいんですけど、
そういうことじゃなくて、単純にやっぱり差異だよと。
その差異が価値を生むという基本原理というのは、
ずっと変わらない、どの時代も変わらない基本原理だというふうに岩井さんは考えている。
マルクスの労働が価値を生むのだという考え方は、
国が発展途上国の時に起こる差異が一見労働が価値を生んでいるように見えるというような感じなんですよね。
結局、農村に人がいっぱい滞留していて、
どんな安賃金でもいいから都市に出て働くという発展途上な状態を抜けていくと、
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労働価値説という状況じゃなくなっていくわけですよね。
例えば日本だったら、昔は青森から集団就職で10日集団就職で出て安賃金で働くみたいなことがあったわけですけど、
ああいうことが成立する状況というのは、ある種発展途上な段階であると。
わーっと工業が盛り上がっていって、農村から人がどんどん来るという段階を越えて、
ついに農村からの人は架空によって枯渇し、
都市も労働力、安く賃金払っても働かせてくださいという労働力が、
ついに農村からこれ以上出なくなって枯渇しましたとなったら、
もう労働価値説というのはモデルとしては通用しないと。
つまり差異が生まれなくなっているわけですから、給料を上げてくれよという反対の話になるので生まれなくなると。
つまり労働者が生んでいる生産性というのと、それによって企業が払わなきゃいけないお金、賃金として払わなきゃいけないお金というのが限りなく近くなっていくわけですよね。
近くなっていくと。
そうなると差異が少なくなっていくので、企業としては利潤がすごく少なくなっていく。
どうしよう、どうしようとなったときに何をしなきゃいけないかというのがイノベーションなんですよね。革新というやつですよね。
つまり労働力と賃金との間の差というので、発展途上を越えるときは利益を埋めていた。
けどそれは必ず宿命として経済が発展していく段階の中で農村の人口の枯渇によって一致していくと。
そしたら利益を埋めなくなる。そしたら利益を埋めるのは何かと言ったらイノベーションしかないと言っているんですよね。
いわゆるどんどん物を作ればいいと。農村からガンガン人が勝手に来るからそれに安い賃金を払っておいてどんどん物を作ればいいというので成立している社会というのが産業資本主義と呼んでいるんですけど。
その段階を越えて新しさというのを生んでいかないと二次元が減られないというのをポスト産業資本主義というふうに岩井さんは呼んでいるんですよね。
もちろん日本も1960年代くらいにはポスト産業資本主義に入り、アメリカとかヨーロッパは1950年代には入り。
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韓国、シンガポール、台湾や香港などは90年代にそっち側に移行していったわけですよね。
つまりもう農村に人はいないと。なので新しさしか価値がないと。
各企業が新しさという差をつけることによって新しさのみが価値を生み出していくという状況に入っていったと。
これも面白いですよね。だから唯物詩館の話に戻ると、
例えば自分らしくあるみたいなことって今すごく大事だってみんな思ってると思うんですよね。
なんで自分らしくある?自分らしくあるって言い方もちょっとあれですけど。
自分らしくあるっていうことがなんで大事かってみんな思ってるかというと、
自分らしくあるっていうことが一番オリジナルなので、
そこに人との違いとか、何か新しさを生み出せるとしたらそこにしかないんですよね。
自分が何か力を発揮できるような、自分らしさを発揮できるようなものにしか
基本的には新しさというのは宿らないはずで、
今は新しさというのが生まれないと価値というのが生まれない、
つまり理順が生まれないという世界線にもう5,60年くらい入っていると、日本とかは。
なのでそういうふうに自分らしさというのをたっ飛ぶような精神性というのが生まれてきている。
つまり物の面から精神が規定されているわけですよね。
逆に農村からどんどん人がワーって来て、いいから働かしてくださいという時に、
自分らしさみたいなことって超価値なかったと思うんですよね。
そういうのも面白いなと思いました。
マルクス経済学のことを勉強して知ったからといってどうというわけではないんですけど、
単純に面白いなと思って読んでいます。
本日は以上です。ありがとうございました。