1. 大人になりたい旅がしたい
  2. #116【宮崎】薄明かりのプレリ..
2025-09-18 1:06:31

#116【宮崎】薄明かりのプレリュードPart3

薄明かりのプレリュードーーー日なたの海に憧れてーーー3日目


東九州の広大な空を仰ぐ宮崎県。

ダイナミックな自然と温暖な気候、個性的なグルメは“トロピカル”なイメージを発信し続けます。いっぽう、その歴史に目を向ければ、日本の起源にも関わる神秘性が立ちこめ、それを裏づけるような史実の痕跡も残ります。今回は、そうしたミステリアスな山あいの土地から、川を下り、野を拓き、海へと旅立って今日の“日本人”へ繋がった遺伝子の魅力を辿ります。


【目次】

〜 最近彼女から怒られまして……

〜 洗練された文化公共建築そして延岡の“顔” 【延岡市駅前複合施設 エンクロス】

〜 なぜ西郷隆盛の足跡がここにあるのか!? 【西郷隆盛宿陣跡資料館】

〜 創業120年を迎える“輝く焼酎” 【佐藤焼酎製造場】

〜 今や全国の味となった辛麺 その創業の味へ 【辛麺本舗 さやか】

〜 港の歴史を物語る希少な木造三階建て 【細島みなと資料館】

〜 ★歴オタ話★ 陸軍少佐迫田鉄五郎の悲劇

〜 “エンジェルロード”の背景に潜む幕末の大事件 【黒田の家臣】

〜 神話のクライマックスを飾る“船出の地” 【美々津】

〜 1日の振り返り

〜 ★旅の終わりに★ “100年後もきっとみんなニコニコしている” 日向に宿る笑顔の遺伝子と希望の海


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⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠音楽:BGMer(⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠http://bgmer.net⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠)

サマリー

このエピソードでは、延岡市に焦点を当てた深い旅の魅力が探求され、地元の文化や特産品が紹介されています。また、延岡市駅前の複合施設エンクロスの機能や特色が詳しく解説されています。西南戦争の終末期における西郷軍の激戦や撤退の様子が語られ、宮崎の延岡での最後の決戦や西郷隆盛が指揮を取った和田越の戦い、その後の追跡劇、そして鹿児島への帰還が描かれています。信岡を訪れ、特産の焼酎や名物料理の辛麺が紹介されています。焼酎の美術館のような醸造所や辛麺発祥の居酒屋の歴史が語られ、地域の魅力が深掘りされています。西南戦争における佐古田哲郷の悲劇的な最期とその影響についても語られ、彼が友人との斬り合いで戦死した後の西郷の心情や佐古田の遺品が保存された資料館の存在が紹介されています。宮崎の神話に基づく歴史的な旅では、神武天皇に関連する場所や出来事が取り上げられ、宮崎の独特な街並みや文化的な要素についても触れられています。日向や高千歩にまつわる神話とその美しさが掘り下げられ、神武天皇やアマテラス大神、さらには宮崎市の明るい文化が語られます。特にヒューガの自然や歴史が日本文化の背景にどのように影響を与えているかが議論されています。

旅の始まりと文化の紹介
大人になりたい旅がしたい。このポッドキャストでは、旅行とお酒が好きな同級生2人が、大人だからこそ知りたい、ちょっとディープな国内旅行のモデルコースを紹介していきます。旅のお供はこの2人。
旅外着替えな旅行ガイドブックの編集者、はるやです。 ディープな旅がしたいけど知識がない旅行初心者、じたです。
この間、僕の彼女に怒られまして。 またですか?
いや、またって別に。俺そんな怒られてないけど。いや、怒られたっていうのはちょっとあれだけど、ちょっと注意をおけまして。
何ですか? 地球の実なんてものはねえっていう。
違います。あります。それはね、彼女にちゃんと言った方がいい。ありますから。知らないだけでしょ。
一般語彙じゃないよっていうので言われたのよ。確かにと思って。
これ俺らの中では普通に言ってる言葉だったから、何の違和感もなく普通に流してたんですけど、そんな言葉は確かにないわと思って。
辞書には載ってませんね、確かにね。
我々どのくらいですか?5、6年くらい言ってますよ、もう。
僕が会社の後輩か考えたんですよ、地球のことは。
そうだよ、だから当社の中の言葉なんです、これ。社内用語です。
そういうことか。
そうです。それを僕が馬鹿みたいに当たり前のようにずっと高校のオーディエンスにも使ってたので、みんな地球飲みて何ですかって教えをこいに来たから、仕方なく教えたけど。
いやいやいや、だいぶ強制的に浸透させた感はあったけど。
でもいい言葉なんですよね。
要は外飲みというかね。
でもね、明確に違うのは、コロナの時みたいにもう店やってないから仕方なく飲むとかじゃなくて、地球のその自然を感じながら、あえて外を選んで、あえてちゃんと狙い澄まして外の良さを体感しながら飲むというのが地球飲みなんです。
地球っていうのはだいぶ大げさに言ってはいるけど、その土地の空気感とか景色、風とかそういうものを感じながら飲む。
そういうことです。そうそうそう、そうなんですよ。
だから屋台ですね、結局ね。僕はやっぱり福岡の屋台をイメージした感じはありませんね。
後輩が作った言葉ですけど。
いやそうそう、だからそこはね、俺は理解してるんだけど、聞いてる方はなんじゃそりゃって話を。
確かに、さっきも延岡で当たり前の夜は地球、川で行けますかとか言ってた。
そうだね、だからやっぱ川沿いとかになると風が抜けて気持ちいいですから、そういうのを地球の海と我々は言うって。
そういうことです。
ぜひね、皆さんが知っていただけるといいかなと。
使っていただけると。
使ってもらってね。
ここも当たり前のように使うので。
もちろんもちろん使います。
なので覚えてもらえるといいかなというところですね。
エンクロスの魅力
さて、今回は薄明かりのプレリュード、日向の海に憧れての3日目、最終日ですね。
はい。
前日はね、延岡を1日、午後か、巡って延岡に泊まっているというところからスタートですね。
じゃあ今回は延岡をちょっと巡って、空港の方に戻っていくという3日目ですね。
結構ね、延岡から空港かかりますから時間で。
1日目も結構ね。
そうですそうです。
なのでちょっと計画的に時間も考えながら行った方がいいかなと思います。
じゃあこの3日目、最終日、よろしくお願いします。
そういうわけで延岡の朝の目覚めは鐘の音で始まります。
そうね。
僕は思うに8時の鐘で起こされるのがちょうどいいかなと思います。
そうすると朝少し身近を整えてシャワーなど浴びて、9時頃に宿をチェックアウトするのがいいかなという感じです。
ここから車を使ってもいいですし、東北で歩ける距離でもあるのでそこはお任せしますけれども、
駐車場とかがあんまり少なかった気がするので東北がいいかもしれません。
東北15分ほどで延岡駅に行ってください。
なぜ延岡駅に行くかというと、
ここにですね、延岡市駅前複合施設エンクロスというものがあります。
駅前の商業施設みたいな感じなのかな。
でも綺麗だな。
そうなんですよ。
統一感がすごいあるね。
これがやっぱり延岡の延岡たるゆえというか、これも公共施設です。
そうなのね。
延岡市の施設ですこれ。
まあすごいですよこの街は本当に。
すごいな。
やっぱり駅前の商業施設ってやっぱりすごい雑多な感じになるところが多いじゃないですか。
いろんなお店が入ってバイバイする感じが多いんだけど。
これはすごいな。
これが公共がやってるからこそっていう感じなのかな。
でもその公共もなんかその真面目でお堅いとかじゃなくて。
全然。
まずはこの建築の内部を見てほしいんですけど、すごいですよね。
これもやっぱり開放感があるよね。
そう。やっぱりヒューガの国だゆえんですよ。
日が暖かいの。
サンサンと差し込んでヒューガの中を注ぐ。
だから明るいんですよね全体的にヒューガって。
いいな明るくて温かい感じですよね。
本当にカフェみたいな感じですよね。
このエンクロスについてはですね、延岡駅直結の施設です。
もうこのまま延岡駅にも行けるような場所なんですけれども、
これどういうものかというと、エンクロスのエンというのは、
人々の御縁の縁と延岡の延という字、延長の縁ですよね。
これをかけたやつなんですけど、
延岡の縁と延岡の縁という字で、
延岡市民がいろんな方々の縁がクロス、交わるという意味を込めているそうです。
という公共施設ですね。
中に何があるかというと、まず一つの機能としては図書館です。
図書館なんだけれども、これは貸し出しとかじゃなくて、増書なんです全部。
つまりこの中で読み取ることができるようになっているんです。
駅にみんな本を読みに来て、遊びに来てというような、
そこで市民が集まる場合にオノズとなっていくというものですね。
というのが、図書館なんです。
そうですね。
そうですね。
そうですね。
そうですね。
そうですね。
そうですね。
そうですね。
はい。
それだけじゃなくて、
信岡の観光案内所みたいな、
情報発信のためのブースみたいのもこの中にあります。
そこでも信岡の特産品も売っていますし、
信岡の市民のワークショップの方々が作ったようなガイドブックとかも
信岡オリジナルの本とかも売っていて、
これもすごい出来なんですよ。
びっくりしました。
そうですね。
すごい出来るんですよ。
すごい出来るので、
ちょっとここでちょっとお話いただこうかなと思いますよ。
述べ丘オリジナルの本とかも売っていて これもすごい出来なんですよ
びっくりしました 僕これ結構マシトイロに影響を受けてるんですけど
述べ丘のディープガイドっていう本
ぐらいねそれをちゃんと売っててもしているんですね
お土産ショップとしても我々は行けるし
市民の方は図書館とか勉強スペースとして行けるし
そもそも述べ丘で決まる
そしてカフェも入っていて
スタバが入ってるんですね
で、それでスタバを買ってそれでこの本を読みながら
ここでいただけるんですよ
なるほどね ですから
今回あえてスタバと書いてないんですけど
スタバを想定してます
このエンクロスに行って
ここで朝食もいただけるという認識で来ていますので
なるほどね
じゃあちょっと朝スタバ飲みながら
ゆったりと過ごすっていう感じ そうそう
そしてこの述べ丘の公共に対するやっぱ力の入れよう
そしてその力が入れてるんだけど
センスがとにかく良くて明るい
とにかくっていうね
まざまざとやっぱ朝も体感してほしい
これ外観もぜひねちょっと見ていただきたくて
夜も綺麗なのよ
述べ丘って言っても一体になっていますので
ほんと美術館みたいなんですよね
ほんとだ
てかこれ液写もすごいね
そう液写も綺麗
だからほんとに一体となって
すっごいオシャレだな
オシャレですよ
爽やかな街だよ述べ丘って本当に素晴らしいよ
私この地上から見ると空がすごい広いんだよね
これはヒューガーのやっぱ強みですね
いいね
だからとことん日向なんですよこの国はね
めっちゃ行きたくなってるもん
これお子さんが遊べる滑り台とかも中にあったりしますから
お母さん方ここでお子さん遊ばせながらね
後ろには市民のイベントとかワークショップもあるし
これ伝え所店も入ってるんですね
ですから本も買えますというわけで
という本当に文化複合してて
これが駅っていう街の顔になってるっていうのが
やっぱ述べ丘の意気込みだと思うんですよ
こういう街なんですよっていうのは最初にやっぱり分かるよね
駅着いた人がもうすぐ分かるわけだね
これはただもんじゃないってことがすぐ分かると思います
なのでぜひもし今回車免許持ってないとかで電車移動の方がいたら
このエンクロスにまず述べ丘で最初に着くっていう
その体験は僕はしたことがないので
それもぜひ体感してもらえていいんじゃないかという気がします
それはそれでやってみたい
やってみたいですね
なのでこちらでぜひ建築を見ながら
スタバで朝食べていただいて
そしてぜひ述べ丘ディープガイド買っていただくとすごい良いと思います
1000円ぐらいで買えますのでというご紹介になりました
歴史と観光スポットの探索
述べ丘の中心市街地はここで一回おさらばになりまして
ちょっと郊外少し見ていきましょう
述べ丘駅から車で15分ほど北の方
これムシカを途中通ります
行ったところにあるのが
西郷高森宿陣跡資料館です
やっぱ西郷高森って言うと鹿児島かなって思うけど
これはちょっともう今回あえて詳しく言わないかもしれないんですけど
いつか以前の川中島みたいな形で
西南戦争の回も一度やってもいいかなって個人的には思ってるんですけれども
僕大学3年生の秋に10日ぐらいかけて南九州一周したことがあって
その時西南戦争のひたすら実績を巡ってたんですね
それでもいろいろやっぱり西南戦争のことを調べてたんですけど
というのもやっぱり僕福岡で生まれていろいろ歴史興味持つ中で
いろんなちょっと理由があってやっぱり福岡にもすごい西南戦争って大きな影響を与えてる
九州一年行くとまだ未だにそんな話がたくさん残ってるんですよ
特に宮崎は多いんですけど
なので詳しくはもう言いませんが
これなんでこんなものがここにあるかっていうと
西南戦争っていうのをちょっと地図見てもらうとですね
起こったのは1877年の初頭です
2月に鹿児島に何十年に一度という大雪の日に
鹿児島から西郷隆盛軍は出陣しました
鹿児島市ですよねから出てきて
北の方に行ってそもそも東京に陳情に行くとかっていう命令を立てて
西郷軍は出てますから東京一を目指してる手になってるんですね
ところが政府軍はそんな物騒な人を通すわけにいかないので
熊本で迎え撃ちます
なので西郷軍は鹿児島から熊本へ行って
熊本城攻防戦が始まります
熊本城攻防戦ですごい長く戦った中で
熊本の北にある田原坂っていうところで激戦が行われて
ここで政府軍東京から来た政府軍と激戦になって
西郷軍は負けて徐々に撤退を始めます
そっからが長いんですね
これ3月なんですよ田原坂の戦いって
77年のね
そっから西郷隆盛軍は9月24日に鹿児島に亡くなってるんですけども
半年間はこの南九州を転々とするんですね
最初は熊本県南の方にある人吉というところに立てこもって
ここを要塞化して政府軍を迎え撃つ
ただここでも負ける
そうすると政府軍は熊本に最初入ってきますから
福岡から熊本に来たんですね
西九州を最初に攻めてきてるんですよ
ってなると西がだんだん危なくなってきたらどこ行くんですか
西南戦争の激戦
ずっと東側に行くんですね
人吉の次は宮古の城に行きます
宮古の城というのはヒューガの国宮崎県南部の最大都市です
ここは島津県の力が強いところなんで
そもそも西郷軍同城的なんですね
っていうので宮古の城に立てこもりました
ここも危うくなってくると
さらに東側に逃げて宮崎市に行きます
今の宮崎市です
宮崎市でいろいろやるんですけどそこも危なくなってくる
そうすると政府軍はそれを西郷を追っかけてるような形になるので
熊本からどんどん南の方行ったり東の方行ったりで追っかけてるんですよ
そうすると意外と政府軍がいない穴になっていたのが
このヒューガの国の北部になってたんです
文戸の方は文戸の方で西郷軍の別増隊がこの時いて結構前線してて
政府は苦戦してたんです大分で
なので大分方面は実は西郷軍のまだ結構力が強かったので
ともう一つ理由は
西郷軍が一番期待した同志っていうのは誰だったかっていうと
薩長土肥の中で
肥前の佐賀は佐賀の乱っていうものを起こしてて鎮壓されてるので
薩長土肥の肥はもうだめだと
けど同じく政府に不満を持っている最大勢力はどこかって言うと
土佐なんですね
土佐だったら宮崎と近いんです
海を隔てるとそれを狙っていたっていうのもあると思います
なので東九州っていうのが結構最後の拠り所になったんです
ということで激戦の場所になったのが
延岡なんですね
なるほどね
なので状況としてはもう1877年8月なので
西南戦争のもう最末期です
西郷軍はもうほとんど人数がどんどん減ってて
もう負けはほぼ確定だったんですけれども
それでも結構やっぱ薩摩武士の凄さとね
政府に対するいろんな気持ちもあって
かつ政府もやっぱ薩摩出身の人も多いんです
そのとき城下
だからどことなきゃやっぱり最後に刃を向けてるっていうことが
なんかこう良心の過剰もいろいろあったと思う
こういうところが西南戦争の密なんですけど
とにかく延岡で最後戦うんですね
延岡で戦ったこの和田越の戦い
和田越というのは延岡の中心市街地から
この西郷軍のその宿陣跡に途中にあるトンネルです
当時は峠でした
この峠を境にして北に西郷軍南に政府軍がいて
ここで西郷隆盛は西南戦争において
最初で最後自分で指揮を取って戦いをしました
西郷ってのもね意外と西南戦争始まってから
和田越の決戦
大将として祀り上げられてるんだけれども
自分では戦闘の指揮はほぼ取らなかったんですね
そうなんだ
常に西郷軍の中心にはいるんだけど
あんまり姿を見せない
ある意味侵客化されたような形になっちゃってるんですが
西郷隆盛自らが指揮を取ったのは
この和田越の戦いが最初で最後と言っていいでしょう
ここで政府に最後の決戦を挑んで
大激戦になりますここで
確かにこれは武士館の近くなんですね
ちょっとその戦場を見に行きましょうか
西南戦争和田越決戦大和軍
ここが和田越です
ちなみに武士館は南東方面にすぐありますよね
ここね
なので大友総理にと西郷を囲まれ
九州区の北側沿いでそれぞれ運命の分かれ道を遂げた
この不思議な場所の縁を持って
遠藤俊作さんという作家が
武士館っていう小説を書きました
なぜこの二人が運命の分かれ道を
この延岡で迎えたのかっていうのを
たどっていく小説です
なのでこの和田越の戦いは起こったんですけれども
結局最後のこの戦いでも西郷軍は負けてしまって
いよいよもう追い詰められた
それで南から西風運が来てますから北へ逃げたんですね
北へ行っていただくと
もう和田越から車で本当に数分の距離に
この西郷高森祝陣屋と修行館がありますよね
駅でいうと北延岡が和田越の辺りで
朱雅永井が永井村というのがこの本陣の跡になります
ここに押し込められるような形で
山上に逃げたんですけれども
ここをもう最後の場所になったんですね
ここでもういよいよもうダメだから
殺軍つまり西郷軍はここで解散をする
だからもう軍隊としては一旦全て解除して
もう命を流れたい人も絶対攻めないから
おとなしくここに残って西風軍に投降しなさいと
投降したものは殺さないから西風軍
だけど西郷とかその幹部たちはもうここまで来た以上どうにもならないので
自分たちはとある場所に行くと
ただもう残りたい人は残りなさいって言って
最後の子供とかもここに最後残って
その人は後に京都の市長までになるんですけど
っていう軍としての最後の戦いがあった場所です
この資料館には今写真見てもらうと
会議をしている人形が再現されてるんですよ
これはその和田越えの戦いに負けて
これからどうするのかもうここで死ぬのか
西風軍に投降するのかあるいはっていうところを
みんなで激乱を交わしている場面を再現したものです
実際にこの場所で起こってこの席順だったと伝わってます
この始末の丸十字の旗の前にいるのが西郷隆盛ですね
殺軍の旗ですね次は
立ち上がって話しているのは西南戦争の実質的な指揮官だった
桐野俊明という陸軍の軍人です
その隣に腕を組んでいるのは村田新八
この辺もだから一人通りの人間ドラマがあって
これはちょっとぜひいつかやれたらと思ってはいるんですけど
かなりディープですけどね
ただとにかくこの幹部たちと最後は激乱を交わして
西風軍に対して降伏をしたいものはしろっていうふうに言って
軍を解散した場所がここなんです
鹿児島への帰還
実際この資料館にはそういうわけで
西南戦争と延岡の人たちの関わり
そして西郷軍の遺品とかもたくさん残っています
なのですごくマニアックな資料館になるんですけれども
やっぱり歴史好きの方西南戦争が好きな方とか
調べたいと思っている方は
絶対ここは訪れなきゃいけないスポットの一つですね
これでいわば西南戦争というのが一つ
ターニングポイントを迎えたんですが
それで西郷たちはどこへ行ったのかっていうことなんですね
その時の状況ちょっと地図戻ると
さっき言ったように南から政府軍が攻めてきて
延岡ももう占領されてます全て
北の大分の方の別動体もいよいよヤバいってなってて
本体が負けちゃってるからどうにもならないって言って
もう撤退し始めてるんです
つまり西郷軍が行き着く場所は
もうこの延岡の小さな村の中しかないはずなんですね
誰もがそう思ってた
この時政府官の総指揮官の山形有とも
これ小田原のあの人ですけれども
もうそう思ってたんですが
この8月のある日を境に西郷軍は
この延岡から姿を消しました
投降した部屋残ってるのに
西郷その人と幹部の姿はそこにはなかった
じゃあどこへ行ったのかっていうことなんですけれども
この西側に可愛い竹と書いて
榎の竹っていう山があるんですね
この西も何も緑になってるだけじゃないですか
つまり道すらないような状況なんですけれども
この九州の本当に高い険しい峰を
道なき道を西郷たちは登っていったんです
そして政府軍はだからここに来るなんて思ってもないから
投降するか辞任するかと思ってたんですけれども
二分けでいなかった
どこ行ったのってなったら山登って行っちゃったんです
ではーってなってどこ行くんだってなったら
西郷はこの後1ヶ月ほどかけて
この山の中を踏破していって
その峠道みたいな獣道みたいのをひたすら歩いていって
南へ南へ下っていく
そしてヒューガの奥のシーバ村とかこの辺をどんどん行くんですね
どこへ向かっていたのか南西の方にどんどん行ってください
そうすると見えてきたのがエビノがありますね
エビノはヒューガ薩摩の国境のところです
さらに南へ行っていただくと
桐島を越えた先にあるのが金港湾
つまりこれが鹿児島です
つまり西郷たちはふるさとに急に帰ってきたんです
この九州の山の中を1ヶ月間ぐらい歩いて
ある時急に油断していた政府軍の強襲で
鹿児島を襲って鹿児島の城山というところに立てこもりました
自分たちは死ぬならば最後は桜島の下で死にたいということで
9月になって立てこもって政府軍もその心情をある意味指したのもあったでしょう
それに攻撃を最後仕掛けて最後高森は9月24日に
この鹿児島の城山で辞任した
そして西南戦争が終わったんですね
ていうなので本当に最末期の最後の心情だったりとかっていうものを
延岡に残してあるんですね即席がね
最後はこの時延岡のこの宿陣所のあたり帰りを終えて
自分は鹿児島へ帰れるかわかんないけど帰ってみる
軍隊としてはもう解散するってなった時に
日本で唯一だったんですね陸軍大将という位にあったのはね
その時政府から剥奪されてるんですけど
陸軍大将の服をずっと着てたんですが
これをその庭先で燃やしたと
そして西郷さんって上野の西郷さん同僧犬連れてますけれども
あの犬実在した犬ですね
あの犬実在した犬もここで話したんですね
ずっと連れてきてたんですけど
やっぱ耳からの戦いとかと比べると
本当に150年前ですからせいぜいね結構生々しいんですよ
九州に残ってる西南戦争の話って一個一個の話がね
ていうのでそういった最後その人の面影も本当に忍べるような
貴重な場所になっています
なんかそれはそれでまたやりたいねじゃあ
超ディープだけどね
なるほどじゃあその西郷君の
だから負けを決めた心に決めた場所ってことね
そうだから西郷を覚悟して
もうあとはどう死ぬかってどこだけなんですね
そしてそのどう死ぬかと定めた後に
江の丈突破っていうその西側の山にのじ登っていった
その道も残ってるんですよ
だから資料館を見た後にその道を見学することもできます
本当にここを行ったのかっていうようなね
本当に闇の中に誘われていくような峠道なんですけど
確かにこれは政府軍も行くと思ってなかったかもしれない
というものがあって
なので西南戦争の大きなターニングポイントが延岡なんですね
ちょっと延岡は次がもう観光地としては最後になってくるんで
言っておきたいんですけれども
この西郷高森宿陣跡資料館から近く
車で15分ほど行ったところに佐藤焼酎製造場があります
また急に歴史を見たら酒飲まなきゃいけないのかと
これもすごいんですよ
えーなんかすごいね
なんか博物館みたいな建物があるよね
中庭がコケ庭みたいになってるんだね
これ本当美術館なんじゃないかって思うと思います普通に見たら
えーと工場なわけだよね
えーすごいな
工場兼ミュージアムです
だからこっちはミュージアムをかなり意識してる
この佐藤焼酎さんなんですけれども
こちらは西南戦争が終わった後
1905年なので明治の時代に創業して
なのでちょうど今年で120年になってるはずです
建築を代表する焼酎メーカーの一つなんですけれども
スローガンが輝く焼酎ということで
品質を輝かせるっていうのをさっきホームページにもあったと思うんですけれども
それを求めてすごい大体の投資の方が試行錯誤を繰り返しながら
丁寧に丁寧に作っていった
結構これは東京とかであんまり見ないかもしれない
結構九州の焼酎ですね
で本当に近くにある川
これも神話の舞台でもある川なんですけれども
これの聖なる伏流水を使い
信岡の焼酎
あと信岡さんの大森を使って
やっぱり森焼酎をメインに生産されている
代表名柄で言うと銀の水
あるいは天の黒銀なんてのが有名なんですけれども
意外とやっぱり東京には見ないかな
結構小規模ではあるので
かなり限定で上流されていることが多いと思います
ただすごく美味しいですやっぱりこれ
結構ね僕やっぱこれ店で見つけると嬉しくなっちゃいますね
さっき言った創業100年を記念して作られた社屋なんですけれども
2005年にできてるはずなんですが
本当に美術館みたいなすごい洗練された建築で
この長方形になっている部分工場で
半円になっているところがこれがミュージアムになっているんですね
ミュージアムでもありますしここショップでもあります
からここに行って焼酎を実際に購入いただく
これなかなか希少な焼酎がありますから
焼酎好きな方行った方が多いと思う
そのねだってあんまり出回らないんだったら
ぜひここで買いたいよね
買いたいですね
私そのやっぱ苔庭みたいなのを歩いてるだけでも
本当ブルータスとかに出てきそうな建築としてもすごいんです
こういうところがやっぱ信岡これは民間ですけど
かなりなんかすごいなって思いますね
建築とかのデザインのセンスというか
なんかいちいちかっこいいね
そうおーってなるものが多いんですよいちいちね
なのでここもねやっぱりね車で行くの非常に残念な倒し事あるんですけども
まあね車で行った方は家でのお楽しみにね
最終日ですからお土産買うのにもそんなに抵抗ないと思いますので
これちょっとねなかなかすごいことなので行ってほしいなと思うよね
焼酎醸造症でした
辛麺の歴史と特徴
そしてねお昼ご飯を食べに行きたいわけなんですが
宮崎のグルメとしてちょっと初日聞いたのに出てこなかったんですけれども
信岡発祥の非常に有名なグルメがあるんですね
これ東京にも結構あります
えーなんだろうな
まあねもう言っちゃいますけれども
辛麺っていうのご存知ですか
あるねチャルメラとかでも出てるもんね
あれはね信岡が発祥なんです
あーそうなんだ
辛い麺と書いて辛麺なんですけれども
あーそうか
宮崎にもどこにもあるし
本当全国的にいろいろあるんですけど
それは発祥は信岡の小さな居酒屋さんでした
でね今東京とかにある辛麺のお店は
おそらく増本さんというお店になると思うんですね
あの酒の増の増に元気の源なんですけども
このお店がもう実質イコールで結ばれると思います
ところがね増本さんも増本さんで信岡の老舗なんですけれども
実はその創業者一家がやってるのは増本さんじゃなくて
次の目的地なんですけれども
佐藤焼酎さんから車で15分ほど
信岡市街のに戻っていただいて
辛麺本舗さやかさんに行きたいと思います
はいすごい凝ったサイトだ
すごいですね味の源流ここにあり
これ凝ってんなこのサイトすげーなちょっとこれ
徐々に辛明かされていくってすごいですねこれ
これねー
あーようやく完成に近づいた
これまた食欲を誘いますね
うわーうまそうだな
食べたことありますか辛麺
どうだったかなある気がするけど
わかんないチャルメラとかかもしれない
お店でちゃんとっていうのはもしかしたらないかもしれないけど
辛麺ね本当にそのままのとおり辛いんですけど
どういう麺かというと
今ね調理の雰囲気が出てましたけれども
やはりねニンニクですまず
ニンニクと韓国の唐辛子
これ本格的な唐辛子のスープにして
そこに肉とニラ
ニラねこれが大事なんですね
それでこんにゃくの麺でいただくというね
あそうなんだ
小麦麺じゃないですこれは
つるつるのしこしこのこんにゃく麺でいただくんですね
あー中華麺だと思ってた
はいそれはたぶん担々麺になってる
なるほどね
なのでそこがね特色です
なので辛いんだけれども
とろっとしてるんだけれども
麺はねすごいつるっとしてるっていうね
不思議な振り合わせなんですね
でこれがねどういうことかというと
このね増本さんと鞘賀さんの関係なんですけれども
もともとはその増本っていう
小料理屋が延岡の市街にあって
それの裏メニューとしてお客さんのリクエストのうちに
出してたのがこの辛麺だったそうなんです
でそれがあまりにも美味しい
で評判になって
増本っていう辛麺屋にその後移行したんですね
その居酒屋増本だったのが
だけどその送料者の方がいたんですけれども
その後ちょっといろんな事情があって
経営は一回終わって
増本はお店なくなっちゃったんだけれども
それをただその延岡のその会社が買い取って
増本という名前をちゃんと残したまま
チェーンとしてフランチャイズとか展開していった
それが今我々が知っている増本さんなんです
でじゃあもともとあった増本の送料者の方が
大和さんって話なんですけれども
増本の送料者の方はご老齢になってしまった
だけどその娘さんが改めてその父母の本当の
その直伝の味っていうのを
延岡の一軒家のお店としてやっていくっていうことで
この鞘買ってお店を作った
なのでここは味の源流っていうのは
本当のその送料者の方の娘さんがやってるお店なんです
だけどその長規模経営にあえてやってるところもあるので
延岡に行かないと食べられないカラメルなんです
そこが増本さんとはちょっと違うところ
でも増本さんもやっぱ美味しいので
本当に食べ比べしていったらどっちも美味しいんですけれども
やっぱりこのニラが効いてるのは僕は好きです
そうね
そしてやっぱりこれご飯との相性がいいわけですよ
いや美味そう
卵とじみたいな感じになってるのが美味しいですよね
辛さも選べますので
僕もそんなに辛いの得意なわけではないので
そこはもう本当にお好みに応じていけるというのもいいはずですね
いろいろメニューがあんだね
トマトカラメルも大人気そうです
ちなみにね増本さん自体は
延岡の増本さん本当の本店
延岡の黒部屋さんとかの近くにあるんですよ
ワーサンが一番近いかな
ワーサンのほんとすぐ目の前ぐらいにあるんですけど
そこは深夜3時ぐらいまでやってるんで
実はね僕も締めで行ってるんですね
だけどさやかさんを昼に想定してたから
前日のように紹介しなかったっていう感じなので
実は延岡の夜増本さんに行けば締めで最後食べれます
っていうのも一つ付け加えたことなんですね
連続でもいいよっていう方がね
いれば食べ比べをしたい
締めでもね
でもさやかさんは延岡にしかないお店なので
こっちはちょっと今回優先したいなと思うんですね
ということで延岡は一旦ここで切り上げて
そろそろやっぱり空港に戻っていきましょう
ということでですね
細島港資料館
車で35分ほど南下していただいたところ
これ延岡市を終わりにして
休賀市というところに行っています
にあるのが細島港資料館です
これは趣のある建物ですね
三階建ての箱状の小民家なわけなんですけども
これが大正時代の建物で
非常に珍しい木造三階建ての旅館だったということで
特徴的な建物になっています
なんでこれがあるのかっていうことなんですけれども
これは細島という町の成り立ちに関係しています
細島はまずどこかを地図で見ましょうか
これね細島っていうのは
休賀市のちょっと半島みたいになってるところの
おつけ根にあたる港でして
本当に古くから栄えた港になっています
特に松阪分立国の話がここでも出てくるんですけれども
細島は当初延岡半領だったそうなんですが
ある時にいろんなことがあって
天領になってしまったんですね
つまり幕府の御抱えの土地になったんです
幕府というのは九州諸藩に対して漏れなく
参勤交代を命じています
九州の諸藩はだいたい瀬戸内海に
この港から乗り出していくんですけれども
その時にはちゃんと幕府のちゃんとした港を使いなさいと
勝手に出ていくんじゃなくてっていうことを定めたので
九州の休賀の国の大名たちは
この細島天領で細島に泊まって
ここから船出して瀬戸内海に乗り出していって同盟出した
のでこの細島はその大名たちが必ず訪れるというので
一気に活性化した港になっています
そしてこの港資料館は
三羽さんという人がここにいたんですけれども
ここの野郷が高鍋屋なんですね
ってことはつまり高鍋藩
秋月家の野郷がここにあてられていた
そういう歴史を持っています
なので今でもね
これ小鳥島は今でも港としてすごい栄えていて
結構工業的な色合いも今は強いんですけれども
あの物資の集散所ですなのでね
当時はここを産金交代でみんな行ってたので
古い港町の風情もしっかり残っている観光地になっています
でねこの高鍋屋さんなんですけれども
まあそういうわけで秋月家がね使っていたということで
非常にやっぱり格式ある衣装建築が残っています
資料館になっていますので中へ行っていただくと
その高鍋藩との関わりだったりとか
細島の歴史ですとか
実際秋月の殿様が来た時に
どういうおもてなしをしていたかっていうようなね
美術品とかそういったものも再現されていて
あの当時の江戸時代の文化というのを
よくね知られる場所になっているわけです
ただですね
今回に話をする中で
一つ大事なポイントになってくるのが
この建物を今我々が見ているのは本館なんですけれども
中の壺庭みたいなものを挟んでね
離れがあるんですねこの先に
この離れにはちょっと別の内容の展示がしてあるんです
それが何かというと陸軍少佐
佐古田鉄五郎という人物の展示が多いんです
これ何者かということなんですけどね
絶対知らないと思いますこれは
僕もここに来るまで知らなかったです
これはね僕がその西南戦争の関して巡ってた時にここにあって
非常にちょっと印象的だった場所なんですけれども
陸軍少佐佐古田鉄五郎というのは
佐古田さんという名字でちょっと伺える通り
これは鹿児島の方です
佐古田さんって鹿児島多いんですね非常に
最後高森軍は殺軍って言いますけれども
鹿児島の人なんじゃないかと思うんだけれども
政府軍の総大将は現地代山形有朋なんですけれども
その大ボスは大久保敏道なんですね
つまり政府の大久保殺軍の西郷という
実質この二人これ幼馴染なんですよこの二人は
そして大久保は以前金沢加賀藩氏によって
いずれ暗殺される話をしようとしましたけど
そういう政府のリーダー首相みたいなもんです
なので薩摩の人たち
この幼馴染二人に育てられた古文たちも
真っ暗になったんです
西郷軍殺軍として政府に戦う人と
大久保敏道についていて政府で戦う人
真っ二つになったんですよ
これが薩摩の悲劇だったんです
リーダーが幼馴染同士なんですよ
同じ町に生まれた
すごいなこんなみたいだな
そうこれは非常に
これだから悲しいことでもあるんですけど
親友でもり幼馴染だったのに
最後日本を二分する戦いをしてしまった
そして二人とも非合の最後を遂げたんですね
で同じようなことがやっぱり起きていて
戦争の悲劇
この佐古田哲郷は何でここにあるかっていうと
これは政府軍の陸軍に勤めてる人なので
政府軍の薩摩出身者なんです
でこの政府軍は東京から来ましたので
細島の港に瀬戸内川をたって船をつけて
こっから延岡を攻めようとしたんです
で佐古田哲郷もその部隊に入って
西郷軍は和田越えで破って
お前はここにいろって言われた場所があったんです
それが江戸丈だったんですね
江戸丈って覚えてますかね
さっきの宿陣跡か
で別れて解散して
西郷が登ってった山でね
そこにたまたまそこを見張ってろって言われたのが
佐古田哲郷だったんです
けど見張ってろなんて言ってたのは
要はそこに来ないと思ってたんですよ
政府軍山形の方たちに
だから小規模な人でとりあえず
まあ囲んでおく
見張り番程度でせいぜいいろって言ったのが
実際だったと思うんですが
まあ毎日来たら守っとけよみたいな
すぐ知らせろと
であと上から覗いてろと
あいつら変な動きしないか
っていうので佐古田哲郷その命令を受けて
江の滝に行ったんです
そしたら8月のある晩だったんですけれども
明け方だったと言うんですが
なんかうごめく人たちがいると思ったら
目の前にかつて自分が
もうクラクを共にした幼馴染
変身十郎太の顔が現れた
変身十郎太というのは薩摩軍の幹部です
ただ佐古田哲郷の幼馴染
でこの佐古田哲郷自身も
西郷隆文に膝に乗っけてもらったってぐらいのね
兄貴分として慕っていたような人だったんです
それが運悪く鉢合わせてしまったんですね
そして佐古田哲郷はその一瞬
何を考えたのかもうわからないですけれども
かつての兄貴としたった西郷
そして親友だった変身十郎太が目の前に現れた
ここで殺してしまうと
当然できたと思うんですけど
一瞬のためにためらいがあった
変身十郎太は一方で薩摩軍の戦法を務めてて
もう死ぬ覚悟なんですね
といったところで相手が佐古田哲郷っていうのを
見た瞬間にためらいなく
もうお前そこどけみたいなことを言って
佐古田哲郷を斬った
そこで親友同士の斬り合いが起こって
佐古田哲郷はそこで戦死したんですね
死んじゃうのか
そこで佐古田哲郷は死んで
西郷はそのとき西郷が本当に何を思ったのか
っていうのはもうわからないんですけれども
幼い時は散々可愛がった佐古田の
死体がそこにあったんです
そしてそれを見ながら鹿児島へ帰って
人間に闇を鹿児島へ帰っていったんですけれども
そういった悲劇の
もう一人の主人公がいるんですね
やっぱりそれは当時政府軍の中にあっても
特に西郷と心理的にも
これまでのキャリアとしても親しい人だったんです
佐古田哲郷っていうので
多分みんなそれをすごい悲しんだ
運悪くそこにいてしまったがために
鉢合わせて殺されてしまった
っていうことで
みんなが細島に死んじゃった人たちを
遺体を収容して
そこに佐古田哲郷の話を
ちゃんと残してあげようと思ったみたいで
この資料館の別邸に
佐古田哲郷の遺品とか写真とかを
全部保存してあるんです
なのでここに行かないと
なかなか知らない人物だと思うんですけど
そんな悲劇が起こったのは西南戦争だったんですね
記憶の保存
いやーすごいドラマチックなんだな
戦争ドラマチックなんていうのはあれだけど
それも本当にそれぞれにストーリーがあって
戦わなきゃいけなくなってしまった
一人一人が友達だったんですよ
違ういろんな年代のね
それが敵味方に別れざるを得なかったっていうのは
西南戦争の悲劇なんですね
そしてこの前やっぱり佐古田哲郷を以下
彼が指揮していた部隊も
やっぱり多く被害を受けて
殺されてしまったんですね
実は九州にいろいろ行っていると
薩摩郡ですね
西郷型の墓地っていうのは
結構よく目立つんですけど
実はね西郷型墓地っていうのもたくさんあります
九州の人はみんな殺郡に味方するんじゃないかって
思うと思うんですけど
この佐古田哲郷のように
西郷型についた人たちもたくさんいたんですね
実際それ各町に延岡でも起こってます
延岡でも都の城でも西郷型についた人はいるんです
ちゃんとっていうので
各町にちゃんと西郷型の墓地もあるんですね
この細島の港には
この佐古田哲郷がそういう悲劇を
遺体になって帰ってきてしまったので
黒田の家臣の物語
ちょっと地図見ていただくとね
高鍋屋の近くここに西南戦争
細島官軍墓地というものがあります
ここに佐古田哲郷は今眠っています
これもうね海を港を見下す小高い丘になってね
ちょうど海を見下ろす格好でね
整然とその官軍墓地が並んでいます
というのもね今回はちょっと目的地は含んでいませんけれども
僕は実際ちょっとここでね
佐古田哲郷の話を聞いてから行く気になりましたね
お墓も出てきましたけど
海の本当に見下ろす景色の良いところでした
本当にこの地図各地見ててるんですけど
本当にその墓地とか戦争の跡地とか
いうのがすごいいっぱい地図上にも残ってるんですよね
そうなんですよ
というものになってるんですね
なのでここでやっぱり3日目はのテーマとしては
この西南戦争のターニングポイントっていう
ちょっと本格的には触れませんけど
やっぱりこういう悲しい出来事が多く起こって
九州の地に未だに語り継がれてるっていう
その一端をこのヒューガっていう
やっぱり南北の境なんですよ
どうしてもここは戦場になりがちだったんですね
っていうところで感じ取っていただければ
と思いますね
そしてねもうこれはちょっとおまけ程度なんですけれども
細島港資料館から車を5分ほど
岬の方にドライブするとですね
不思議な名前の観光地があります
これね黒田の河心っていう観光地の名前なんです
河心どういうこと
こんなの見たことないと思う
黒田の河心ってちゃんと観光地として
宮崎観光ノブにも載ってるんです
これ何なのかってことなんですけど
これがまた結構九州のリアルな感じなんですよ
これどういうことかというと
黒田というのはそういうわけで福岡藩です
福岡藩黒田家なんですけれども
市藩がいくつかあって
その一つが秋月藩なんです
秋月というのは高辺藩主の秋月が
そもそもいた秋月は黒田のものになって
そこの秋月には親戚を置いといたんですね
黒田は
でその黒田家の河心にあるので変わりないので
その人が西南戦争よりずっと前
幕末の頃に薩摩藩が上落する機会があって
そこにこの薩摩藩の軍勢はきっと幕府を変えてくれる
尊王攘夷してくれるって信じた尊王攘夷派の志士が
全然どんどん群がってきちゃったんですよ
ところが党の薩摩藩の島津ひさみつというリーダーは
その機会がなかったんですね
勝手に呼んでもない人たちが
物騒なのが集まってきちゃって
どうするのこいつらってなって
お前なんとかしろよって部下に言って
仕方なく部下はこの物騒な人たちを
俺たちは尊王攘夷する気ありませんから
島津は尊王しませんって後々するんだけど
ことを言って
寺田屋っていう京都の不死身の旅館で
打ち歯揉めをして切り合いになって
それでなんとか引っ捉えるんですね
その不穏分子をね
ところがそういうことを幕府でこんなことやってると
物騒極まりないじゃん島津なんて
そもそも危ないし存在として
世紀が払いぐらいの色々あったから
っていうんで幕府に警戒されるからやばいって言って
島津はどうしたか
薩摩藩どうしたかっていうと
その引っ捉えた薩摩藩内の自分たちの家臣は
それはもうお前ら極に繋いどけ
鹿児島に繋いどけって言って
自分の藩の人だからいいんだけど
黒田藩の人とかどうすんのってなんだ
一応他藩の人間だし
けどこんなの生かしておくべきならいかないし
どうするって言って
とりあえず鹿児島に送り返そう
だけどひそひそひそって言って
密かにその戦中で殺した
誰にも見られないところで殺したって言うんですね
そしてその瀬戸内海辺りで殺したらしいんですけれども
その遺体が流れ着いたのが細島だったそうなんです
だから実はこの港の入り口に小さな島になってて
ここに被害の災禍を遂げた黒田藩氏の遺体が流れ着いたって言うんですね
それを土地の人たちが憐れんでお墓を建ててあげた
だから元々は小島っていう名もなきただの小さな島だったらしいんですけれども
これはいつしか幕末のかわいそうな災禍を遂げた志士たちのことを思って
地元の人たちが黒田の家臣って通称していたものが
そのまま観光地の名前になったっていうところなんです
これがやっぱり九州の人の人情の細やかさと
やっぱりそんなことを思わせる部分もあるんですけど
ただこれそもそもなんですが
これ見てもらうと分かる通りエンジェルロード的にめっちゃ綺麗なんですよこの島
そうねこれ多分ある時期だけ渡れるみたいな感じでね
その通りです
看板の差によって艦長の時はここに道が繋がって島に渡ることができるんです
黒田の家臣の墓はその島の中にあるわけです
ただ万長の時は海に隠されて見えないっていうね
結構ここねそもそも絶景スポットとしても綺麗なんですね
ヒューガナダを望むこういったエンジェルロードみたいに映え写真も撮れますし
っていうね観光地としてなので看板の差がいいタイミングならば
ここにぜひ行っていただきたい
そして歴史のちょっと不思議なエピソードも兼ねてね
行ってもらえるといいかなと思うんですが
僕は実は万長の時にしか行けてなくて
その対岸の黒田の家臣福岡っていうのもあって行きたかったんですけども
ただねこの万長だったら万長だったで
本当にエメラルドグリーンの綺麗なアネタイの感じの海でね
すっごいここ長いしちゃったんですよ
海でぼーっとしちゃって
佐古田哲郷のことをいろいろ思い出して
なので継承地として皆さん楽しんでいただけるという場所になっている
ただそのバックにはね
そういう悲しい歴史があったりとか
ちょっといろいろと考えることがありそうな場所ではあるね
そうですね
はいというものが細島というよりはこういうね
不思議な歴史が行き勝った場所になっているというのをね
ぜひ覚えておいていただけるといいかなと思います
そして最後の目的地になります
黒田の家臣から車で20分ほどさらに南へ行ったところにあるのが
美密という町です
美密というのはね美しい繰り返しで美味の辻
辻というのは港という意味ですね
で美密と読むんですね
で美味って言うと何か聞いたことありませんか
耳川
はいちょっと場所を見てみましょう
はいそういうことです
耳川の河口に開けた港だから美密なんですね
つまりようやく南に戻ってき始めてるんです
でここもねやっぱり江戸時代からすごい栄えたところで
ここは高鍋藩の持ち物でした
で高鍋藩の貿易港として栄えたところですね
なので主要な産品とかをここで売り買いして
高鍋藩の経済をね潤した商人たちがいた町になってて
ここはね幸いこの江戸時代から大正時代くらいの建物が
不思議な街並みの魅力
本当にそのまま残っていますね
なんか独特な作りの気がするな
そうなんですよ
2階の宿がね引っ込んでるんだよね
はいそうなんですね
これ面白いところでやっぱりその潮風の話だったりとか
あと雨風を避けるとか
江戸時代の建物から徐々に増築していったみたいな不思議なところもあって
なるほどね
この不思議な街並みを生まれたと言われています
でその辺りもねこの街並みの中に資料館がありますので
そこに行っていただくとそういった歴史もわかるし
実際この不思議な2階の窓からね海を望むこともできるわけです
なんかちょっと独特な古い街並みではあるんだけど
ちょっとその建物の雰囲気が微妙になんか独特な感じがあるね
そうですね
だからちょっといろいろね伝統的な街並みとか好きな方の中ではね
ここは結構個性的で人気があるんじゃないかなと思いますし
街歩きしていて実際楽しいですし
僕はちょっと時間の関係で行けなかったんですけど
結構あの和風のねお菓子とかを出してくださるカフェとかもあったりしますので
まああの飛行機の時間にもよりますが
夕方余裕があればねちょっと一息ついていただく
というのもいいんじゃないかなと思います
ただねなんでここをじゃあ最後の目的地にしたかというと
神話の旅立ち
これがね実はね神話のラストシーンを飾るところになるんですね
ラストシーンというのはちょっと語弊があるんですが
ヒューガ神話ヒューガを舞台にした神話のラストシーンなんです
ということでねちょっと久しぶりにあの家系図を
前日の内容を振り返っていただくと
アマテラス王民神が弟であるスサノオの乱暴に悩んで
タカチコの岩戸に引っ込んじゃって
それをまあいろんな策略でもってヤオヨロズの神が何とか出てきてもらって
夜の中平和になった
そして出雲にいた大国主の御事に頼み込んで国を譲ってもらって
そのためにアシャランナカツクニというこの地上世界は
アマテラスの孫であるニニギの御事というのが継承した
そしてニニギの御事はこの花咲夜姫という絶世の美人を妻にして
世の中を徐々に非支配をファミリーで広げていって
だんだん勢力を拡大していった
そしてそのニニギの御事の暇子に当たるんですけれども
ニニギの御事の子供が山幸彦
その下にもう一人いてそのさらに下なので暇子ですね
に当たるのが神武天皇です
これは神の武士の天皇と書いて神武天皇
日本における最初の天皇として神話で語られている位置です
ここでようやく来るんですね
神武天皇というのはニニギの御事以下三代が
だんだんヒューガを中心に勢力を拡大していって
もうある程度追尾できてる
そしたらいよいよ日本全体っていうのはどういうところなのか
そして自分たちがそこを治めていくにはどうするって言って
ヒューガを出て海へ旅立とうっていう風に言って
神武統制っていう東へ征服するっていうことですね
大和っていう美しい国があるらしいから
そこへ旅立ってみようそこへ冒険をしてみようって言って
乗り出して行ったのがこの秘密の浜なんですね
そしてヒューガを離れた神武天皇は
それから瀬戸内の方へ行って大和へ入って行って
そこへヤタガラスとかっていうものと出会って
道案内をしてもらって大和へたどり着くんです
奈良ですつまり
そしてそこで皇室っていう天皇を建てて行ったっていう
神話のストーリーになっていく
なのでその旅立ちのシーンがこの秘密なんですね
俺は神話をそんな詳しく知らなかったから
天皇の始まりが宮崎だと思ってなかった
そうなんですよ
意外な感じだわ
だからやっぱヒューガは歴史上特別な国なんです
日本の始まりというものを知ってる国なんです
ここはねあくまでも神話なんですけど
なのでこの秘密には神社があるんですけれども
そこに不思議な石碑が建っています
その石碑が何かというとですね
日本海軍発祥の地っていう石碑が建ってるんです
これはだからえ?って思うかもしんないけど
これはねなかなか戦時中とかの
ちょっと難しいところにもあるんですけれども
戦時中とか特に日本の式紅葉
日本というのは非常に歴史が古くてね
勢力を持つにふさわしい国なんだっていうことを
教育していたわけですよね彼女はね
だからこの神武天皇とかヒューガの神話っていうのも
そういうものに利用されてしまって
神武天皇ってのはもう本当に神様の神様みたいな
後期2600年なんていうのを記念して
ゼロ戦っていうのが作られたって話はありますけれども
あれは神武天皇の即位から考えて2600年なんです
だから日本の起源っていうものはここだっていうふうになって
だから今の大あるこのね
連合艦隊帝国海軍っていうものは
そもそも天皇のね由緒あるものだからっていうんで
当時のその時代背景をあった上で
日本海軍発祥の地
つまり神武天皇が旅立ちのための船をね
初めてヒューガを出て船を乗り出した場所
そこに着きしたかった人たちが
この日本海軍の最初の人たちだっていうふうに
言ったって言うんですね
そういう歴史的な背景があって
ここが神話の最後のヒューガ神話の最後のクライマックスになっています
歴史の重み
なるほどね
いや意外だったな
なのでそういう不思議な日が経って
なんでこれこんなところにあんのって
いかに海軍発祥って思うかもしれないんだけど
それはあくまで神話上の海軍の発祥の地なんですね
というなのでね
今回の裏テーマというか
ところとしては高地方に始まったね
山のところから幾代も経てね
だんだんいろんな試練とか苦悩を乗り越えていった先に
人間くさい営みをいろいろした先に
最後はヒューガを出て旅立っていくまでの話を
この剣北で辿ったという形になっています
というところでね
秘密の街並みも本当にゆっくり眺めたら
結構時間かかると思います
さらにただここまでヒューガ神にいまして
結構まだ北側なんですよ
なのでここからまず飛行機の時間を考えていただいて
車で1時間かかると見た方がいいです
空港まで
なのでだいたい4時過ぎにはもう出ていただいて
車で1時間ぐらいかけて宮崎空港に戻り
17時半頃の東京へ行く最後の便とかにね
乗っていただくといいんじゃないかなと思って
この旅を閉じたいと思います
それでは3日目を振り返っていきましょう
前日は延岡の宿に泊まっているということなので
朝だいたい9時頃チェックアウトします
そこから一旦車を置いておいて
15分ほど延岡市駅前複合施設エンクロスですね
ここはもうこの延岡の公共寝堂
センスが集結したような施設ですね
図書館のように本を読むことができて
カフェもありますので
そこで朝ごはんを食べながら
ゆったりと朝の時間を過ごすと
旅行雑誌もありますので
そちらも注目ということですね
そこから来るまで15分ほど
西郷高森宿陣跡資料館
ここは西郷軍が負けの覚悟を決めた
最後の地ということですね
ここで西郷軍がどういう話をしたのかなとか
なんかそういうことに思いを馳せて
そして榎田県に向かっていく道も見えるということなので
この最後の姿を想像するのが面白いかもしれませんね
そしてその先に佐古田鉄五郎がいたんです
やっぱりドラマ性がすごくて
そこから来るまで15分ほど
佐藤焼酎製造場ですね
また急にお酒が出てきますけれども
まずこの建物がすごいですよ
スタイリッシュな建物で
そして中庭の子犬庭もございますので
資料館的にも楽しめるし
そんなに出回っていないような
焼酎のメーカーもございますので
お土産としてこちらで買っていくのがいいかなと思います
そこから来るまで15分ほど
お昼ご飯ですね
辛麺本舗さやかさんですね
辛麺の発祥の舛添の娘さんがやっているお店と
本当に元祖の味を受け継いでいるお店ということなので
ここで名物の辛麺をいただきます
そこから来るまで35分ほど
細島港資料館
ここもちょっと建物がまず印象的ですけれども
高鍋屋ということで
1日目に巡った高鍋の宿ということですね
ここに佐藤哲吾朗の資料を置いている別館もあるということなので
やっぱりあの道を見た後にこの佐藤哲吾朗の資料とかを見ると
より悲しい思いにもなるかもしれませんけど
その西南戦争のドラマ性をね
感じることができると思いますね
そこから来るまで5分ほど黒田の家臣っていうね
これは相性っていう感じですかね
でも多分元々本当に名もなき島だ
小島っていうのがあるらしいんですけど
なのでもうその相性がもうそのままになっちゃった
黒田の家臣のグッターがここに流れ着いたということで
こういう名前になってるわけですけども
すごく場所としては綺麗な場所になっているので
映写も撮れるかなと思いますが
そこにある悲しい歴史も忘れてはいけないかなという気もしますね
そこから来るまで20分ほど
秘密の街並み
耳川の過去にある港ということで
この街並みがねすごく独特でありつつ
綺麗なね街並みがありますので
街歩きをしつつ
この旧河神話の最後の
この神武天皇が旅立っていった地ということなので
この旅の終わりでもありますので
この神話をもう一度振り返りつつ
この街並みを歩いていくと
そこから来るまで60分ほど
結構離れてますので
時間は十分気をつけていただきたいと思いますが
宮崎空港に着きまして
そこからご自宅へというところで
この旅が終了ということですね
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そして感想をつぶやく際は
ぜひハッシュタグ
おとたびポッドキャストをつけて投稿していただけると
大変励みになります
よろしくお願いします
そして我々のマイマップ年表もございますので
ご参考によろしくお願いします
はい、よろしくお願いします
もう歴史が盛りだくさんな感じが
そうですね
本当にいろんな転換点がこの宮崎で起きたんだなっていうのは
よくよくわかりますよね
朽霊が北部ですね
宝札、宝、文豪、札、札馬、大友島津と政府、西郷というのは
常に常にここが戦場になったんですよね
なんか本当に神話からこの西南戦争というところまでが
結構メインだったかなと思うんですけど
すごいもう長い間いろんな出来事があって
その中でもやっぱ延岡とか
あとは高辺でもそうだった気がするけど
こう、故郷心というか地域のためにっていう思いを
宮崎の自然と背景
橋橋で感じられるスポットが結構あったなって気がしますね
そうですね
そして常に空は広いんですね
そうね
ずっと写真とかいっぱい見てきてるけど
ずっと空が開けてるんですよね
そうなんですよ
ヒューガというのは日向と書いてヒューガなわけですけど
本当に纏えた表現だなと
高千歩とかはやっぱり山があいで
またちょっと全然違うカラーなんですけど
それでもやっぱり空は広いですね
いやーなんか本当
だから最初からずっと言ってたけど
長藩分立ってことで
もう本当にそれぞれの土地のカラーが
こう巡っていくとやっぱり違いが分かって面白いのかなっていう気がしますね
あとはちょっと例によってタイトルの改修というか
というところもあるんですけれども
今回薄明のプレリウド
日向の海に憧れてというふうになったわけなんですけれども
今回やっぱりテーマとしてはまずはね
神話の舞台をとにかく巡る高千歩というのを特にもう唯一無二の場所ですから
置いていたわけです
この薄明のプレリウドという意味については
薄明というのはアマテラス大神神がね
その光を差し込んだその瞬間なのかなというところ
暗い闇の世界から光を差して
世の中を平和にまた戻っていくっていう
そんなイメージもちょっとしてはいました
プレリウドっていうのは前荘曲なわけですけれども
それが日本の起源のその前の話というところにもなってくるので
その闇が深かった世界
高千歩の舞台にしていろんなものが
だんだんだんだん明るく開けていって
今の日本へなっていくっていう物語の始まりだったわけですよね
そういったものがやっぱりヒューガという国の
この高千歩というところの凄さだなと思うのと同時に
ちょっとその地図を見ていただくとですね
結局のところ今回巡ったところって
高千歩が山の中にあるわけですけれども
そっから徐々にね
神話の旅路
高千歩でいろいろ岩と籠ったりしていたが
天尊ニニギノミコトが降臨して
だんだんこの高千歩峡とかみたいに水がね
山なかなか厳しいシラスの火山灰土を削り取っていって
だんだんだんだんその水生命の水というのを流して
土地を人を豊かにしていく
そういった流路にこの神話というのが重なっている気もするんですね
それがやっぱり日本の一つの文化の背景としてやっぱりあったものなのかな
古代のね誰が作ったかは知りませんけれども
この神話というものを伝えたかった一つのやっぱり
なんか感じる部分ではあるんですね
そして最後ね
この五ヶ瀬川の上流でいろいろ高千歩あったわけですけれども
平野にね延岡の方の平野にたどり着いたそのニニギノミコトの子孫たち
アマテラスの子孫たちはやがてさらに広い世界
海を目指していってミミツから船で落ちていく
この山から川を下って最後平野へ着いて海へ最後旅立っていくっていう
この一連の流路っていうのがやっぱりこのヒューガのね
何かを物語っている気がするんです
同時にやっぱり高辺大師さんもそうでしたし
最後に細島の港のあたりもそうなんですけど
とにかくヒューガはねこの海岸線の綺麗さが半端じゃないんですよ
どこから見てもこの海が非常に開けていて
この先に何か大きな希望が待っているような
本当にそういう明るい海の日差しとね
波がね立っているっていうのが本当に宮崎っていうところのね
あの素晴らしい景色の共通点だなと思うんですね
だからああいう高千歩の山深いのももちろん素敵なんですけど
そっからだんだんその希望がまさに開けていくような
そういう明るい展開っていうのが宮崎の宮崎たるゆえんな気がしていて
なのでまあちょっとその日向の海っていうのは憧れてっていうのは
だんだんその山から海へ下っていった神話の物語の話
というのをちょっとイメージして最後海へ食べ合っていくっていう
そういうところですね
やっぱりこの東向きだから朝日が見えるっていうのもなんかそういうありそうな気がするね
そうだと思います
やっぱ日のいずるところだったわけですよ結局ね
なんか面白い土地柄だなってすごい感じたな
あとまあこれ日向の海に憧れてってね
気づいた人は気づいたかもしれないんですけど
スピッツのこれ曲のねアロディーですね
日向の窓に憧れてっていう曲がありますけれども
まあ今ちょっと面白い土地柄だなって話あったと思うんですけど
これね興味深いちょっとニュースを見つけまして
この宮崎の県民性ちょっと最初に話しましたけど
僕はそのカクカクシカシカとかで描写されてるのがすごく典型的だなって思うんですけど
大らかで楽天的ででもちょっと引っ込み値案で
っていう伸びやかなね本当に伸びやかで晴れやかな宮崎の方々の
僕本当に宮崎の人好きなんですけどそういった方についてね
宮崎市出身の坂井雅人さんが今年ね今年の1月ですね
宮崎市市政100周年を記念して帰省されて宮崎市で記念講演をされた
で宮崎の学生の皆さんが100年後の宮崎についていろんな発表をした
それについて坂井雅人さんがその後のゲストトークみたいな形でね
高校時代の恩師と対談をしたっていうのが今年あったそうなんです
でそこについて坂井さんがねこんなコメントを残してるんですね
でまあ100年後の宮崎について話し合った後の話
100年後の宮崎がとてもいいもんだという前提でみんなお話しされているのがいいじゃないと思ったんですよね
100年後もきっとみんなニコニコしているに違いないというあの根拠のないあの感じが僕はすごく宮崎だなと思います
笑顔が消えることはないだろうって結構僕も信じてるし
ここにいらっしゃる皆さんもなんとなくこの部分に違和感を感じなかったということは感じていらっしゃると思うんですよね
っていうのをねこの満面の笑みのね坂井さんまた笑顔が素敵なわけですけれども
語ってるんですねまあ坂井さんの思う宮崎らしさっていうのはね
僕はこの100年後もきっとみんなニコニコしているに違いないというあの根拠のない感じっていうのがね
僕はなんかこれは本当にそうだなって感じる部分があります
なるほどね
なのでこのダブルメーニングなんですけど僕自身がこういう宮崎に憧れてるんですよ
なので神武天皇とか神話を世界を描いた人も山からあの土を流して海へ旅立っていくその海を目指してね
海に憧れていった物語を描いたですし坂井雅人さんも言ってますけれども
この宮崎の明るさ楽天さっていうのは僕はやっぱりすごく素敵なことだと思うし
なんかそのね神話の世界だからもう全然わかんないんで何も根拠がないんですよそれこそ
ですけれどももしこの神武天皇のね統制に従ったヒューガのイニシエのヒューガの人々
こういう人たちが今の日本人のDNAにね何かしら流れているんであれば
それがみんなこのね100年後もきっとみんなニコニコしてるに違いないっていう希望があるね
そういったものだっていうそういったエッセンスがあるっていうことはそれ自体が何か一つの憧れである希望であるなっていう
宮崎の未来への憧れ
日本人にとっての何か一つの憧れの極点みたいなものがこのヒューガの国っていう何かなんじゃないかなっていう気がするんですね
うーん そうね
いやなんかやっぱその神話の源流がねそのヒューガにあるとするんだったら
自分たちにもそういう気持ちがあるというかそういうふうに前を向いていきたいなっていう気になるね
確かにちょっと憧れはあるなぁ話聞いててもなんかそんなのはちょっとわかったわ
こういう宮崎みたいな平和な世界がねあればねっていうそういった憧れなのかもしれませんね
はい
ちょっと時間切れになってしまいましたね 飲みたかったな
次回は雑談会ということで今回はこの辺でありがとうございました ありがとうございました
01:06:31

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