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2025-02-16 12:05

03|立花城登頂!石垣が語る歴史の足跡【立花城②】

この番組は、福岡県内だけでも1,000近くあったとされる戦国時代の山城の魅力を、現地探訪を交えて紐解き、熱く語り合う番組です。山城研究は地理学、歴史学、軍事学、地域経済学などいくつもの側面があります。かつて、その地で暮らした人々の息吹をあなたも一緒に感じてみませんかー。

今回は立花山の山頂からお届けします。眼下に広がる福岡市街を望みながら立花城、立花宗茂の歩みに思いを馳せます。

◆出演:堀切凡夫(お城映像クリエーター)、中山紘一郎(しかのすけ/販売部)、横山智徳(MC/メディア戦略局)/ 音声編集:中富一史(販売部)/映像編集:中山 紘一郎(しかのすけ/販売部)/ディレクション:坂本信博(報道センター総合デスク)、梁京燮(販売部)

◆収録日:2025年1月11日

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Summary

このエピソードでは、立花城の登頂を通じて、戦国時代の山城の構造やその歴史が詳しく語られます。特に石垣の技術や立花氏および小林川の時代の特徴に焦点を当て、古代の歴史的背景を堪能します。また、立花城の歴史的な側面と防衛戦略についても掘り下げており、立花、宗重の物語と彼の後の活躍が印象的です。

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西日本新聞Podcast
西日本新聞戦国山城Podcast
この番組は、福岡県内だけでも1000近くあったとされる、戦国時代の山城の魅力を、現地田んぼを交え、ひもとき熱く語り合う番組です。
山城の研究は、地理学、歴史学、軍事学、地域経済学など、いくつもの側面があります。
かつてその地で暮らした人々の勇気を、あなたも一緒に感じてみませんか。
どうもこんにちは。西日本新聞の横山智則です。
お城映像クリエイターの堀木恒夫です。
こんにちは。西日本新聞の中山鹿之助です。
鹿之助になったね。
登山の始まりと石垣の観察
ということで、無事山頂まで着きました。
大体1時間ぐらいですね。
登山口登り始めて、最初10分ぐらいアスファルトのところを歩いて、駐車場に出てからですね。
アスファルトから登山道に入るところに一応登山道の入り口があって、小屋みたいな、田舎のバス停みたいな雰囲気のところがあって、そこから山道が始まります。
歩いて15分ぐらいのところで1回分岐点がありまして、そこから石垣って看板がある方に向かって僕らは歩きましたと。
ちょっと急でしたよね。
そうですね、急でしたね。
普通の登山ルートで比較的なだらかな道と石垣跡。
こちらが中西山城の移行がたくさん見れるところのルートと2つに分かれていました。
急でしたけど、そこから10分ぐらいですね。
10分ぐらい歩いたら1つ目の石垣。
1つ目っていうのはその後いくつも出てくるんですけど、1つ目の石垣があったんですけど、きれいというかちゃんとしてましたよね。
そうですね。しっかりきれいな状態で石垣が残ってまして。
自分もそんなにまだ全国山中は行けてないんですけど、いわゆる西楼山とこちらの山と向こうの松尾山と結ぶ尾根を拡張する1つのしっかりとした平坦地を確保するための両脇に石垣を築いているというのはあまり例が見られない素晴らしいところが残っています。
珍しいんですね。
珍しいですね。
尾根という言い方を一応しましたけど、尾根って山の三角の尾根とか峰とかいう言い方が台形になっているんですね。
平らな建物を建てたり陣を引いたりするために平らにしているということですね。
おそらくだと思います。
歴史的背景と立花氏の移住
ちなみにあれはいつの時代に築かれたもの?
おそらく小林川さんの時代と考えられています。
小林川さんの時代というのは立花家の後の時代。
ちょうど今看板の前に1587年に立花氏がその前で島津との戦いをなんとかしのぎきって
秀吉が九州を平定した後にこの場所は立花氏ではなくて小林川孝景が地区全国の地区全国の大名となって移ってくるわけなんですけど
その時に立花山城を改修をします。
そしてこのあるとおりなじま城をやがてここから見える。
なじま城に移っていった後でここはやがて廃城になっていくんですが
素晴らしい技術が残っている。
だからあれだけこういわゆる立派な石垣を作ったけど
1年ぐらいで引っ越しちゃったということなんですね。
そうですね。
石をいろいろ組んだ石の一部とかなじま城だったり福岡城に使われたんじゃないかとも
言われている一説なんですが
そういった形で本当にわずかな時代はあったんですが
素晴らしい移行が中世のいわゆるこのデコボコの山城という土の城と石の城が合体して
ハイブリッドな形で残っているというのも非常に珍しいのではないかなと思います。
そういうことなんですね。
で、こう登っていくとですね
石垣もそれだけで1回で終わりかと思ったら
5分歩けば石垣、5分歩けば石垣のような格好で
その後もいくつもあって
それこそ鹿之助が言ったけど
これはまた違う時代じゃないの?みたいな石垣もあったよね。
そうですね。石垣の加工具合だったりとか
サイズが一個一個違うので
ひょっとしたら最初の尾根にあったものとは別の時代なんじゃないかなと
感じ取られて良かったですね。
最初に立派だねって言ったのは
確かに立派に残っているという立派もあるけど
作った時から丁寧に作られたような石垣だったんですよ。
その後鹿之助が言われるのは
どっちかというと古いしボロいし雑なんだよね。
その変な言い方で。
いわゆる野面積みって言われる。
野面積み。
だから時代も違えば
いわゆる築いた人ももちろん違うんじゃないかってことで。
なんともわからない
あくまで自分のイメージというか
あれですけど
中世の山城の土の城だった時は
戦うためだけに使った山城なんですけど
小早川氏が移ってから
おそらく建物だったり
若干反生活みたいな
できる意味では車をしっかり確保する
面積を確保する必要があったので
そういう造成も含めた石垣の
改修をしたんじゃないかなと思います。
当然防衛というよりかは
しっかりいろんな倉庫だったり
いろんなものを作るためのものだったんじゃないかなと思います。
そういうことなんですね。
景観と築城の技術
それこそ山城からの景色は
めちゃくちゃ綺麗でして
現代の風景がもちろん見えていくわけですけども
言ったら高架の一番いいとこですよね。
地下の島が見えて
向こうにこの島が浮いてて
アイランドシティは
もういくつも高層マンションが建ってて
で、先の方これ天津とか赤田駅まで見えてますよね?
見えますね。
すごいですけどペイペイドームも見えますね。
見えますね。
ちょうど光が射しているところ
光が射しているところペイペイドーム
那島城っていうのもいわゆるここからちょうど
雑魚というとふもとのあたりが那島城に近いですから
海側の緑の森林公園ってないですか?
そこが那島城
ちょうど緑がありますね。
立花山城といいますか
この一帯のすごいのは
南西側になるんですかね
ずっと三日月山と
さらに向こうの列の城の小江山という山脈が見えるんですけど
ここにもたくさん城跡
いわゆる車だったり
空掘りだったりという跡がたくさん残っていまして
この全体立花山と含めて
立花山城塞群といわれるのはこの三つの
那島城の総称とされています
でも岡田さんの本とかにもあるんですけど
岡田さんじゃなくて
岡田翔さんは現在
九州国立博物館に所属されていて
今駅実名研大学の準教授になっているんですけど
実際三日月山にしても城の小江山にしても
どこの勢力がどういう風にしてたのかという
詳細はまだ全然今から
不明なこととはありますが
素晴らしいことが残っていまして
特に立花山からは尾根でつながっているんですよね
山登りでも柔走コースです
気軽に楽しめる柔走コースになっています
柔走コースの途中にも
うね状空掘り群という難しい用語なんですけど
縦掘りといって縦に空掘りを掘ったりとか
障害物ですかね
敵の心
どうぞ
信之助さん
縦掘りとは
築前の国の城の特徴
全国で2番目くらいですかね
山の斜面を三角に切ってですね
ここから
なんて説明すればいいんですかね
諸説あるので一概にどう使われたっていう
使い方がわからないんですけど
いわゆる平坦面を
斜面をずっと100人登ってきたら
100人どっからでも全部倒さなきゃいけないんですけど
縦掘りを作ってしまえばそこからしか登ってこないので
敵兵のルートが限定されて
上から逆に
立花城の防衛戦略
戦いやすい
ここだけ矢を浴びせればいいみたいな感じで
なっちゃうっていうのに
使われていたんじゃないかとは言われてはいるんですけど
場所によっては本当にこれ作る必要あったんかみたいなものがあって
ちょっとわからないところもあるわけですね
縦っていうのは
頂上から縦に掘ってるんですよね
そうです
掘りってわからないけど
大阪城の掘りっていうと
水が入って池みたいになって
城を囲むように掘りってあるから
仮にこれを横とするならば
縦掘りっていうのは
山頂から
いわゆる麓に向かって縦に掘るわけですよね
穴を
妙に詳しいでしょ
高崎山に縦掘りがあったんですよ
大分の
素晴らしいのあります
で、登った時に
しっかり看板に書いてました
で、縦掘りを掘ると
その掘りからどうしても上がってくるんですよね
兵隊さんたち下から
ダロープ
あそこも大智ですかね
大智です
高崎山ですね
大智さんの技術の結晶で
素晴らしい山頂ですね
そうそうそう
そういうことかと思いながら
あそこは立派な縦掘りが残ってるんですか
そうですね、あそこも素晴らしいです
あそこも石積みが結構あるんですね
という縦掘りの話ですね
そうですね
そういった障害物が
しっかり三日月山と立花の間に作られていて
おそらくですけど
三日月山がどっちの陣だったかわからないですけど
攻めてきた時の
何らかそういう防衛をしていたんじゃないかとも
考える感じですね
立花、宗重がここを収めていて
やがて小林川氏が移ってきたということで
宗重の活躍と歴史
山川のほうに立花さんが移って
その後関原の戦いがあった時に
さまざまな東軍が有利ってのも知ってはいたんですけど
いろんな秀吉との関係もあったりとかして
西軍に宗重がついて
関原って敗れて
開撃になってしまった
その後に
宗吉が面白いのは
陣脈がさまざまあって
伊達正宗がこっちに来いよということで
言ってくれて
確かに白石だったと思うんですけど
あちらのほうに移って
白石、坂の白石
東北の宮城の
伊達ですか
伊達です、伊達さんなんです
そこで移って
そこでしばらく過ごします
さまざまいろんな
宗吉で苦難の時代が続くんですが
やがて徳川家からも信頼を勝ち取って
確かにいえみつの至難役というか
いわゆる首相の先生とか
そういうのも
立場にもなって
いえみつの時代で
宗吉よく頑張ったからということで
なんと柳川に帰り咲くんです
柳川の漁師として
珍しいケースってことでしょ
いわゆる西軍という敗北した将で
また大明治で帰り咲いたっていうのは
多分おそらく宗吉だけという
確か伝えきれた話では
柳川の藩というか
宗吉が帰ってくるということで
漁民が国境までみんな押し寄せて
大歓迎をしたという
そこから柳川の立場なしが続いてきました
立場なしの歴史って面白いですね
面白いですね、本当に
だから豊臣に就く形で島津と戦いました
そこは勝ちました
その流れがあって西軍に就きました
言ったら徳川とは反目です
徳川が勝っちゃいました
でもそこからのらりくらり
サラリー万力が強かったんですよね
実際ちょっと余談ですけど
島津が宗吉の父親である上雲が
岩屋城で撃たれる
撃たれて
結果的に秀吉の併定されるんですけど
西軍で負けた時に
島津が敵中突破をして
なんとか境まで来るんです
宗吉の船と同じになっちゃうんです
宗吉からしたら親の仇なんですけど
だけどもういいじゃないかって言って
宗吉が島津を一緒に乗せて帰って
島津は逆に修正恩があるというか
そういう面白いエピソードがいっぱいあるんですけど
侵客者でもあったんですね
ということで
寒いから下段しましょうかね
ということで一旦ここまでです
ここまで聞いていただきありがとうございました
よかったらいいね、フォローよろしくお願いします
それではありがとうございました
12:05

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