めちゃめちゃクオリティ高いというか。 すごいね。 すごいよね。 やっぱ餃子のプロだなって思いました、本当に。
食レポめちゃくちゃ上手くてさ。 すごい勉強になりました。 超食いたくなったよね、あれ。 あれはすごいわ。
あのこういうところを着眼するべきなんだなっていうのもすごく勉強になりましたね。 餃子食べる上で。 まああれ本当になんか尖ったコースだし。
とはいえなんか我々っぽい歴史みたいな話もね、織り込んでくれたりとかして、めちゃめちゃ面白かったです。 面白かったです。
で、その回でもモデルコースをね、紹介してくれてるんですけど、そこが宮崎県高鍋町っていうところなんですね。
正直ちょっと僕は聞くまで知らなかったんですけど、でもなんかそこはもう餃子の聖地だと。 これは有名ですね。
本当だね。 九州の人は大体知ってんじゃないかな。 あ、そうなんですね。
まあそのエピソードの中でも有名店がね、あって、まあ二大巨頭があるみたいなお話をね、されてましたけど。
だからもう本当に餃子の町ということなんですね。 で、それの回の最後で我々にもその宮崎、高鍋町を紹介してほしいみたいなリクエストをいただきました。 まさかの。
ということで今回という形ですね。 そうですね。
まああのね、なかなかこの南九州というもの自体できてなかったっていうのもちょうどあって、 いつやろうかって話はしてたところにね、ああいったリクエストをいただけたということでね、ちょうど良かった部分もありますよね。
でね、これ、俺はるやんに言ってなかったんですけど。 何ですか? 実は私ね、小野寺さんにお会いしてきました。
え? そうなの? 何それ羨ましいんだけど。
お会いした? 直接? え? どうしてですか?
あのですね、6月5日から15日、結構ね長い期間ですけど、これ高円寺で餃子宇宙ステーションっていうイベントをやってたんです。
何それ面白そう。 これは、なんかね、餃子をモチーフにしたいろんなクリエイティブを作ってらっしゃるクリエイターさんが結構いっぱいいるっぽくて。
なので、餃子食べるイベントじゃなくて、餃子モチーフのなんかアイテムとか、そういうグッズを集めたイベントなんですね。
個性的な餃子グッズが高円寺に大集合って。 そうなんですね。 へぇー。
こんなのあるんだ。 あれなんか餃子屋さんっぽいですけどね、なんかね、見た感じ。 なんかね、入り口はのれんがかかってたりするんですけど。
面白いっすね。 本当なんか、いやもうめっちゃ可愛くて全部。 可愛いね、うん。 餃子は餃子王とかキャラクターがいたりね。
すごいなんかそれぞれ本当可愛らしい。 へぇー。 あーはいはいはいはい。 餃子王です。
なるほどなるほど。 とか、餃子の食品サンプルを入れた写真を投稿してるインスタの方とか。
ほんとなんかそれぞれの着眼点で餃子グッズを作ったり発信をしてる方が集まるイベントね。 あーそうですか。
で、その回帰中にこの小野寺さんがね、1日だけ餃子を焼きにいらっしゃってたんですよ。 おーすごい。
っていうのを、まあそれ聞く餃子でもね、告知をされてたんですよ。 それを聞いて、僕は結構行きやすい。 そうですね近いですね。
行こうと思って。 あーいいじゃないですか。 行きました。 えーいいなー。焼いてくれるんですか自ら。 そうそうそう。 えーめっちゃいいじゃないですかそれ。
そうだから小野寺さんが焼いてくれた餃子を私食べまして。 おーいいなー。 どうでした?
えっとね、俺が食べたのは、新生食品の特選生餃子っていうのをいただいて。 うんうん。うわ美味しそうこれ。
大田のお店っておっしゃってたんですよね。 あれれ、そうなんですか? ほんとだ群馬県大田市だ。そうそう。 えー知らなかった。
大田の餃子らしくて、なんでねキャベツとかが、野菜がね、すごい甘みが出てて、すごい美味しくて。 うんうん。
で小野寺さんの焼き方もめちゃめちゃうまくて。 あーちょっと見てみたいね。 焼き目がね、すげーカリッカリになってて。
プロ中のプロやね。 いやほんとよ。 へー食べてみたいなそれは。 超うまくてね。
いやーいいイベントでしたね。 えーいいですね。羨ましいなそれはちょっと。 そうそうそう。
でまぁちょっと初めましてだったけど、ご挨拶、名刺交換なんかしてね。 あ、だから持ってるのね名刺を。 そう、名刺ねいただきまして。 へー。
でね、まぁ我々のオマージュ会の時にも言ってたんですけど、小野寺さんね、国内旅行業務取扱い管理者。 聞きました聞きました。
だからそう旅行にもいろいろ詳しいみたいな。 そっかそっか、だから。 そうなんですよ。
だからなんか、もし音旅でイベントをやる時とかは、その土地の餃子とか。 あーめっちゃいいじゃん。 提供しますよみたいな。 ほんと?
え、それ嬉しいですね。 本当はね、提供じゃないかな、紹介かな。 紹介をね。 しますよみたいな。 もう全然我々の話よりそっちの方が、絶対僕はそのね、
てか僕自身がめちゃめちゃ食べたいですけど、小野寺さんの餃子。 話もいろいろ聞いてみたいね。どこのおすすめ? 宮崎のやつもすごかったもんね。
全然知らなかったあんなたくさん店があるなんて。 そう、なんかお会いして。 あーいいですね。 ちょっとまぁなんか今後ね、何かでご一緒できたらなーって思ったんですけど。
僕自慢じゃないですけど、今のこの旅行関係の会社に入る採用面接で、僕福岡の餃子の話をして採用されてます。 あーそういうの聞いた。
福岡にあるとあるお店が、僕もう子供の時から親に連れてってもらったんですけど、世界で一番美味しい食べ物だと今も信じて疑ってなくて、必ず福岡行ったら行ってるので。
餃子は大好きですよ、本当に。なんでこんなに美味しい食べ物があるんだろうっていうぐらい。 まあね、完全食だしね。 そうなんですよ、素晴らしいですよね。
えーいいな、小野寺さんちょっと俺もお会いしたかった。 本当に。 ちょっとまぁ俺が行こうと思ったのが割と直前だったから。 そうですね、ちょっとタイミングも合わなかったから。 小田原から呼び寄せるのがあれだと思って、あれだったんですけど。
そうなんですよ。 っていうね、まぁいろいろその繋がりがありまして。 で、今回宮崎編。 そうですね。
ということで、今回のねコースの中で高鍋はもちろん回りますよね。 はい、もうそれはリクエストということもあるし、僕もやっぱりね高鍋行ってとある餃子店が好きなんですけど、ここやっぱ紹介したいですね。
ただまぁ高鍋に限らずね、今回は宮崎を巡るっていう感じですかね。 そうですね、宮崎ってすごく縦に長いじゃないですか。
そうだね。 ですので、まぁ今回2泊3日で行くんですけれども、宮崎市から北だけで2泊3日をします。 宮崎市は真ん中ぐらい? そうです、ちょっとこのあたりね宮崎県の話はまた本編に入るときにできたと思うんですけど、なので宮崎県全部を行けるわけじゃないっていうのはね、ちょっとご理解いただきたい。
宮崎県の北半分ぐらい。 北半分だけを2泊3日、ただそれでもねかなり詰め込みが立てる。 なるほど。 で、やっぱ僕もね九州はちょっと特に思い入れも普通というのもあるし、宮崎ほんと好きなので、ちょっとそんなねサラッとはやりたくないというのもちょっとありまして、で今回ね高鍋ということで、高鍋は宮崎市の北なんですね。なので北側を2泊3日ということにします。
じゃあ早速ね、そのリクエストに応える宮崎コースをやっていきましょうか。 はい。 よろしくお願いします。
ということでね、宮崎県というものがこのポッドキャストで初登場になるんですけれども、いかがでしょう?宮崎県のイメージだったりこういった経験だったりというのはどうですか?
行ったことはないかなと。 うんうんうん。 まあでもやっぱイメージはね、いろいろ皆さんもあるんじゃないかなと思いますけど、まあやっぱマンゴーとかね。 そうですね。 キンカンとか。 はいはいはいはい。 あとはチキンナンバンとか。 チキンナンバンね。
だからやっぱ食べ物は結構豊富なイメージはやっぱありますし、あとなんだろうね、野球のキャンプとか。 ああ多いですね。 それぞれの宮崎イメージみたいなのはなんか皆さん持ってらっしゃいそうだなって思うんですね。
そうですね。まあ今まさに本当に言ってくれた通りでね、マンゴーですとかそういったものについてはやっぱりとにかくあったかい場所なんですよね。 南国。 南国です。もう日本の中の南国っていうのがまさに宮崎で、トロピカルな感じだったりっていうのを自然発生的に風土の問題からもそうなるし、そういう演出をね観光としての見せ方としてそのトロピカルアイランド的なところをPRしているっていうのが宮崎県の特色になりますので。
日南海岸って海に向かってモワイ像が立っている風景とかね、そこの周りヤシの木みたいなのがワーってドライブができたりとかっていう南国ってイメージがやっぱりすごく強いんじゃないかなと思いますし、実際その通りだと思います。
だからこそ冬とか春の寒い時期においてもキャンプが、巨人もそうだし、我らがソフトバンクホークスそうですし、カープも日南の方でやってますかねとか結構多いですので、やっぱりそのあたり有名になってるかなと思いますね。
あとね、宮崎の概要をお話しすると、ちょっと地図見てみましょうか。ちょうどさっき話が出たのでね。宮崎県ね、九州の南部東海岸の方に縦にね、ブワーってちょっと傾斜をつけながら海岸線が長い県になっているわけですけども、すごく面積広いんですけど宮崎市、県庁所在地の宮崎市は真ん中からちょっと南くらいにあります。今ね宮崎って書いてあるからですね。
このあたりはね、宮崎平野という平野になっていて、中学校受験の時に促成栽培なんてのをね、学んだ方もいるんじゃないかと。その代表としてね、高知県と宮崎県はやっぱりその日頃から暖かいので、夏野菜が早く摂れる。ただそのまあ篠利を生かして、スーパーとかにね、行くと宮崎産のピーマンですとか、そういったものはね結構並んでいる。ニラとか。
この辺からちょっと餃子の感じが漂ってくるわけなんですけど。というのもね、あの食卓でもおなじみの方もいるんじゃないかと思います。この宮崎県はですね、一つ丸ごとヒューガの国という一つの国でした。日向と書いてヒューガになるわけなんですけれども、その一つの国だったのですが、大きく分けると宮崎市あたりを境にして、北と南で全然文化が違うというのが僕の所感なんですね。
で、宮崎市に次ぐ第二の都市というのが、宮崎市の南西側に行っていただいたところにある宮古の城という街があります。東京都の東区があって城ですね。これはもうほぼ鹿児島にすごく近いところなんですけれども、こっちが宮崎県第二の都市。なのでこれはね、薩摩系の文化なんですね。鹿児島系の文化がすごく強いところ。
九州はね。なので、できればやっぱり集団で行ってドライブ交代交代で、宮崎県移動すごいしんどいので結構ね、車があったほうが絶対いいですので、集団で一体いただいたほうがいいかなという気もします。
ただ一方でね、今回ね結構歴史にもかなり触れる部分があります。宮崎の歴史を語る上でね、欠かせないのがね、このヒューガの国というのはね、日本の起源に関わる神話の世界なんですね。
ヒューガ神話っていう、もう日本がなぜできたのかっていうことを古事記だったり日本書記で解説している、その舞台になっているのがヒューガの国です。
なのである意味この日本人の起源、日本の起源というものの迫る手がかりがこのヒューガの国には残されているっていうね、すごく歴史上大切な権利になっていますので、そういった結構歴史だったり神社というものにかなり行きますので、そんなイメージで見てくださるといいかなと思います。
ということでね、コースの方に入っていくわけですが、今回は空路で宮崎に来たという想定でいます。
宮崎はね、宮崎市のちょっと南の方に宮崎空港、宮崎ブーゲンビリア空港っていう面白い名前なんですけど、なんて?ブーゲンビリア空港。これも南国の確か言葉だったと思うんですよね。
という空港がありますので、ここに大体お昼前11時頃に着いていただくというイメージでいます。
福岡とかから来る方はね、車なり鉄道なりで全然行けますので、東京とかの方は空港がいいんじゃないかと思います。
そこで宮崎空港でレンタカーを借りてから北上していきたいと思います。
今回はね、ちょっと宮崎市は飛ばします。
宮崎市はね、また別の宮崎市から南の都の情報面をやるときにちゃんとやりたいと思いますので、今回はもう宮崎市を素通りするということはちょっとご容赦いただきたいと思います。
最初の目的地ですが、空港から車で45分ほど北西の方角に行っていただいたところにあるサイトバル考古博物館に行きたいと思います。
宮崎っぽい名前だね。
そうですね。
かっこいいな。
すごいですよね、これ。
そうか、考古博物館だから今古墳っぽいね。
はい、その通りですね。
そうだわ、小野寺さんも話してたね。
そうですそうです。
このサイトバルって、これ九州出身の人には釈迦にせっぽうですけれども、九州の地名ってね、これサイトバルって普通に言ってますけど、西の都の原っぱと書いてバルと読むんですね。
これは九州の読み方です。
でね、これ宮崎県サイト市、西の都の市と書いてサイト市というところにあるんですけれども、今内田が言ってくれた通り考古博物館となっていまして、
実はね、この考古博物館の周りには古墳群が実際にあるんです。
これね、特別資設サイトバル古墳群という古墳群の中の中核施設として博物館がありまして、
この古墳群に関して言うと、だいたい3世紀から7世紀にかけて作られた古墳群で、58ヘクタールの敷地の中に300を越す古墳が減損している。
そんなにあんの? すごいな。
うん。大小合わせてというと前提になりますけど、そんなに実はあるんですよ。
これね、つまり古墳っていうのはそもそもどういうわけかよりもっているかっていうのはわかりますかね。
まあピラミッド的なね、その場所の遺生者のお墓ですよね。
そういうことになりますね。なので古墳があるということは、それだけ強大な勢力がこの場所に古代いたということになるわけですよね。
実際ね、大阪の堺の大仙古墳なんて有名ですけれども、あれだけのものを作る技術力とその人を動員する力がある古墳がつまりその権力のね、象徴的な部分にもなっていたわけですから、
当時の豪族たちはこぞって古墳を作るのに凝ってね、大きなものを作っていったっていうので、実際このサイトバルにもそれだけのものがいたのは間違いないということになっていますね。
それが密集してるのってすごいね。
そうです。だからやっぱりここにいたのは多分相当長い期間、一つの系統、つまり敵味方取って変わっていたら前の墳壊しちゃえとか、前の土地嫌だから新しい土地行っちゃおうとかってなると思うんだけど、
そうならなかったから多分その300個も今残ってるわけであって、一つの系統の何者かがここに大体400年ぐらいの間、強大な戦力を保持し続けたのは恐らく間違いない。
なるほど、そういうことか。
この辺からだから日本の起源というもののちょっとおぼろげな歴史が見てくるわけです。
ただこの広告博物館については、そういったこのサイトバル古墳群というものがどういったものなのかっていう、広告学的なあくまで実測の調査に基づいて解説をしてくれています。
今すごいページ見てかっこいいねって話が感想として出たと思うんですけれども、そうなんですよこれね、なかなか凝った博物館として入館するとまず真っ暗なんです。
真っ暗の中に下りの傾斜がついたトンネルみたいのがボーって照らされていて、そこに誘われてこれですね、行くわけなんですね。
この先に行くと展示室があるんですよ。これは当然のことながら古墳自体に穴を入っていくみたいな、そういうイメージなので実際地下に潜っていくんです。
そして実際に展示室に入るとさらにそこから地下空間が広がっているんです。
その廊下を歩いている途中にちょっとその展示室を覗き見れるちょっとしたスペースがあるんですけど、そこの下には実際の古墳の発掘された状態のものがね、上からガラスから見れるようになったりするんですよ。
じゃあちょっとその本当に古墳の中に入って覗き見てるような没入感があるんだ。
そう、まさに没入感というのがぴったりのキーワードだと思いますね。っていうすごくね、ちょっとゾクゾクとするようなね、スリルもあるようなね、そういったすごい凝った博物館になっています。
実際行っていただくと、古墳から出土したものですとか、あるいは当時のね、だいたい弥生時代古墳時代くらいの南九州というものがどういったものなのか。
ここを考えるでやっぱり非常に大きな問題になってくるのは南九州の地質というものですね。
これはやっぱり九州というのは南と北で全く文化が違うものになりますけど、阿蘇山ですとか、あるいは桜島なんていうのがね有名ですが、こういったカツカザンが当時非常に活発な活動をしていて、そのために南九州の土というのはシラス大地なんですね。
土壌がこう火山梅土なんです。だから水はけが良すぎて稲が育たない。当時の技術では。
だから今もそうなんですけど、お米を育てるというよりも畑とか野菜作りとかに適している。 芋とかそういうことだよね。
そうですそうです。芋ね、さつまいもじゃがいもなんていうのはこの辺すごい取れますけど、それがやっぱり必然的な理由になってくる。
だから同じ古墳を持っているね、大阪の方ですとか関東の方にも大きな古墳はありますけど、彼らとは全く生きている条件が違ったということなんです。
その南九州に生まれてきた古代の人々というのが何を営みとしてやっていたのかということをね、解き明かすミュージアムになっているんです。
そしてね、この博物館のすごいところはね、もう一つありまして、これまで紹介してきた博物館とかね、うちだがこれまでに行った博物館いろいろあると思うんですけど、
大体こう解説文っていうのがそれぞれあると思うんですよ。歴史の解説だったり、展示されているその品に対する解説。
普通はその品に対する解説だと何世紀に作られたと思われて、どこから出土した、特徴はどういうところで、形状はこう、そのためにこういったことが推測されるみたいな、学術的にちゃんと書いてあって。
解説だよ。
解説が書いてあるんですけど、この博物館はすごくそこを振り切って面白いことをしていて、文学を書いてあるんですね。
だからデアル調だもんね。
これすごくてね、このパネルその怪しいそのトンネルの中をくぐっていって、ぼーっといろいろ浮かび上がってくるんですけど、そのパネル自体に文字のフォントも大小をつけながら文学が展開されていて、
例えばこれね、とある土偶に関する話、どういう場面かっていうと、他の県とかで出てきた土偶がちょっと写真とか飾られていて、この時の日本のスタンダードはこの土偶というものが作られていて、しかし南九州にだけはこれが存在しないんです。
いわゆる青森の合掌土偶とかやったことありますけど、ああいうのないんですね、九州には全然。それのことを解説している文章なんですけど、ちょっと読みますと、これパネルの解説文ですよ、これ。
いぼうである。人間にとって最も不可思議な存在は人間そのものであったに違いない。体を中小化してもす行為の中に生まれたのが土偶である。
土偶の解説がちょっと書いてあって、そしてすごい大きな文字で、そして南九州には土偶が存在しない。土偶採取の欠如はその意味では温暖で豊かな南九州の気候風土が約束したものなのだ。
本当にこれ柴木太郎さんのエッセイを読んでるんじゃないかっていうような、すごい思い切った文で展示を解説するんですよね。
本当読ませる文章というか。 読ませます。 俺ね、正直ちょっと苦手なのよ。博物館のちっちゃい文字で、本当に解説をされてる文字、文章って読めないのよ。
ちょっとね。 流し読みしちゃう感じがあるんだけど、これはちょっと読みたくなる。 読みたくなる。
このね、そして文章力が僕は本当に好きで、名文ですね本当に。本当に誰がこれ書いたのか、僕今回もすごい調べたんですけど、わかんないんですよ誰が書いたのか。
農学術員の方とかなのか。 うん。で、これをよく許したなと思う。そのかつて企画になった時に。こんなの僕他に知らないですよ。こんな博物館。
確かにこういう文章を書いちゃうと、事実じゃない部分が混じっちゃったりすると、博物館としてはどうなのっていう部分もありそうだから、確かにちょっと許しづらい感じではあるよね。
そう。だからすごい思い切ったね。でも面白い博物館だなと思うんですね。これ非常に。 いいな。威望である。
っていうから始まるんだね。ここから異謀、異なる要望であるという意味。威望であるっていうから始まるっていうのはね、すごい文采だなと思いますし。
面白いな。 これを博物館だっていうのが面白い。 そうだね。
この他にもね、本当に各展示コーナーでそうなっていて、なんとかなのだろうか、そして人は思ったとかね、そういう風にやるんですよ。九州の人間はそしても、そして九州は生まれたとかね。
そういう感じでやって、公文っぽいなって。僕勝手にサイトバル公文なんて思うんですけど、本当にこれは面白いですよ。なのでやっぱりね、世界観の見せ方がすごい素敵なんですよ。
そのトンネルのイメージとしての文章じゃない、感覚としての見せ方もすごい引き込まれますし、そこで言って文章としてもこれを見せるっていうね、これはすごい博物館。これを考えて許した人は本当にすごいと思う。
もしかしたらその考古学でさ、特定の人物とかがあんまり出てこないからやりやすいのかもしれないね。
これはね、本当にそうだと思います。やっぱり井上忠とかだったらなかなかこういけないと思うんですけど。
個人だとね、なんかそのキャラをちょっと変えちゃいかねない。
そうそうそう。あくまでも不特定多数の南九州の日本人という一つの人種に対する解説なんですね。なのでこれができるって言ったら本当にその通りだと思います。
なのでね、ぜひこれね結構時間しっかりとっていただいて、この文章もねすごく楽しんでほしいですね。
でちゃんと解説的な部分もね、しっかりあるから勉強にもなる。
そういうことです。今ね最後写真ありましたけど、博物館の展望ロビーみたいなところ最後に行けるんですけど、そこから見渡すとその宮崎の平野の中に古墳がね、まだ実際にちょっと盛り上がってたくさんあるというその実景も望めますので。
なるほど。
実際地下世界でいろんな魅惑的な解説等を展示品に触れた後に、その今のヒューガの国を見ていただいて、こんなところにこれだけの営みがされていたのかっていう臨場感もね、すごいこの晴れやかな広いヒューガの空の中で見渡すことができます。
抜けがいいな。
宮崎はねこれがいいんですよまた、特にこの宮崎平野、彩都とか宮崎市のあたりはね一面平野なので、これ各々近々でもすごくこの海に向かって最後漫画家になっていくっていう夢を叶えるそのバックグラウンドの絵としてすごい良いんですよね。
面白いな。
というものになって、なのでここで抑えておきたいのは、この宮崎というヒューガの国に何者かの巨大な権力がやっぱりあったのは間違いない。
それを今でも語り継がれているよというので、まず実測の部分から入ったんですけど、これと後で紹介する神話のあたりのどうマッチしていくかっていうのをね、ぜひ皆さんなりにそれぞれの多分解釈あると思うので、考えてもらえればいいのかなと思います。
そしてね、サイトバルコフン群から車で20分ほど北東の方ですね、行っていただくとお待ちかねの高鍋町に入ってまいります。
来た。
彩都から近いです、非常に。そしてね、今回僕はちょっと1軒しか行ったことないんで、ご紹介させていただくのが、高鍋餃子というお店です。
これは菊餃子の中でも紹介されてた。
そうなんです。もうぜひね、これは菊餃子さんをまず聞いていただいて、僕はもうあんなに詳しく解説できないので。
あれ以上の食レポできないな。
もうないです。なのでもう正直飛ばしてもいいと思ってるんですけども。一応ね、菊餃子さんへの導入ということで言っておくと、宮崎県が餃子が有名って話は知ってましたか?
俺知らなかったんだよ。やっぱり宇都宮とか有名なところがあるから、それの印象が強い。あんまり宮崎っていうイメージがなかったですね。
これね、毎年何月かな、秋ぐらいだったかなに、餃子の消費量ランキング、あるいは消費額ランキングっていうのが統計としてちゃんと出て、それを宇都宮、浜松、これも以前紹介しました。
そして宮崎でね、密度萌えで争ってるような状況なんですよ。特に宮崎市なんですけど、宮崎市は確か2021年とか2年ではその日本一の座に輝いているんです。
っていうぐらい宮崎県というのは、特に宮崎市近辺は餃子店が多くて、特に持ち帰り餃子が多いんですけども、実際に餃子を召し上がる方も多い。
僕自身やっぱり九州に育ったというところも考えると、九州というもの自体はやっぱり餃子はみんな食べるんですよね、本当にね。僕は福岡の餃子でもちろん育ちましたけれども、大分にもいいお店ありますし、もちろん宮崎に行っても。
特に東九州側はそれが文化が強いような気がしていて、特にその宮崎なぜいいですかっていうと、やっぱりニラ、キャベツ、そして肉。宮崎産の牛肉豚肉とかよくスーパーにもあると思いますけど、餃子のあんに必要なこの素材というのが非常に生産されてる。これやっぱり大きな条件ですよね。
なるほどね、条件が揃ってんだね。
そしてこの高鍋という街なんですけれども、ちょっとまだ知らなかったって話、実は確かにそんなに人口規模とかは大きくない街なんですけど、実はこのキャベツの生産量は宮崎県下でもトップなんです。だからキャベツの一大産地なんですよ。
なるほど。そりゃ餃子うまいだろ。
ということになるわけですね。もうあとは菊餃子さんの聞いていただければと思うんですけれども、ちょっと本当にお言葉を借りるとね、高鍋は餃子の聖地なわけですけれども、確かに多いんです本当に。
ちっちゃなこれ城下町でんですけど、本当に餃子店ばっかなんですよね。実際高鍋町さんももうそれでPRをすごい売り出してる。
二大教堂なんて菊餃子さんおっしゃってましたけど、高鍋餃子さんと餃子のマータイさんっていったかな。馬に渡ると書いてね。
っていうところが二大教堂っていうふうにレビューされていましたね。実際僕はこの高鍋餃子さんにしか行ったことないんですけど、ここは本当においしいです。
個人的には餃子の好みって本当にいろいろあると思うんですよ。実際宇都宮餃子も浜松餃子も違うじゃないですか、特色が。
ただ僕個人的にはなんですけど、九州の餃子が一般に結構それが近いんだと思うんだけど、野菜多めの方が僕好きなんです個人的に。ここは野菜多めなんですね。
まあでもそれはキャベツがいっぱいあってニラもあってってなったらそれは入れるしかないよね。
入れるしかない。野菜多い餃子ってさっきの近世食品もそうでしたけど、甘味とうま味が出てくるじゃないですか。あと食感。これがやっぱり僕はいいなと思うわけですね。
この高鍋餃子屋さんはね、いろんな焼きも茹でも、あと揚げもあるんだけど。
そうです。
だからいろいろ本当食べ比べができるっていう感じだよね。
その通りです。創業1971年ということでね、もう50年超えの進出になっているわけなんですけれども、本当にでも何というか全然飾らないお店なので地元の人のお店だと思います。本質としては全然。
あと棒餃子もあるんだね。
そう、これがね、僕も食べてみたいんですけど、ここはね、上海棒餃子すごい名物なんですよね。で、エビが入ってるんですよ、こっちには。
なるほど。
なのでね、菊餃子さんこの辺りレビューされてましたけれども、菊餃子さんはね、餃子焼き餃子定食と上海棒餃子3本ならいけるだろうということでね、どっちも食べるっていう満腹コース。
食べちゃいましょうって言ってましたもんね。
そうそうそう。でもいいですよね。
いやでも食べちゃうだろうな。
うん。しかも安いんですよ。
あ、本当だ。
餃子ランチ、餃子を選びいただけます。焼き揚げ推移10個どれかを選んでいただいて、ライス、スープ、サラダ、お漬物、ソフトドリンクで860円という数になってますね。
いやでもいいね。これだけたくさんあって選べて860円だったら全然いいですね。
そうです。で、これはね、僕も本当に飲みたかったんですけど、飲めなかったんですよ。車で一人で行ってたもんですから。
一人だから。
はい。で、あいにく僕はね、ちょっと菊餃子さんと違って高鍋に泊まったことがないので。
あーなるほど。
はい。昼にしか僕行ったことないんですよ、高鍋。
うんうん。
なのでね、ぜひ菊餃子さんを聞いて餃子の旅をこれでしてほしいなと思いますし、僕もまた行きたいなって思いました。
いやーあれ聞くとね、いろいろ巡りたくなるんだよな。
なりますよね。
ね。
全部違って全部うまそうだから。
そうなんですよ。魅惑的ですよね。
ね。
だからまあ、ほんとあとは菊餃子さん聞いてほしいんですけど、とにかくこの高鍋というのがね、それが成立するくらいのすごい街なんです。餃子の聖地だということをね。
この一番面白いところは文後の国です。大分県は松阪分立の典型を見ることができて、僕はすごくそれがいい国だと思っている。
そしてその文後の流れをやっぱり組んでいるのはヒューガの北の方なんですね。
ヒューガの国の北の方は延岡藩というのはちょっと一つ出た藩がありますけれども、延岡藩、高鍋藩、そして天寮幕府の持ち物ですね。
っていうのがあったりとか、お茶混ぜ状態になっていた。モザイク国家です。
っていうのの一つがこの高鍋藩なんですね。
じゃあこの高鍋藩というのはどういう藩だったかというと、これを収めていたのは秋月という家でした。
秋月というのは秋の月と書いて秋月というロマンチックなものでして、これは実は地名です。
そしてどこの地名かというと福岡の地名です。
この人たちは元々福岡蓄然の国の豪族です。
朝倉っていうエリアがあるんですけれども、ちょっとつまり福岡から太宰府を経てちょっと山の方に入っていくあたりですね。
大分との県境ぐらいにあるんですけれども、そこに秋月一族の発祥のところがありまして、そのあたりをずっと収めていた大名でした。
戦国時代は信長の野望、僕も福岡地域でいつも秋月でプレイすることもあったんですけれども、弱いんですね。
もうどうしようもなく秋月は。
途中の大友総理っていうとんでもないのが大分から攻めてきちゃったり、鍋島が佐賀から攻めてきたり、もうすぐ負けちゃうの秋月でやってると。
実際そうだったからって。
大友に滲められるし、島津は来るし鍋島はうるさいし、どうにもなんない大名だったんですけど。
その巧みに大当たりをして、どうにかこうにか福岡の小さな地域で生き抜いてきた。
その度に売られたりも結構するお騒がせ大名だったんですよ。
ただなんだかんだ生き残って関ヶ原の戦いの時も最初西軍として石田三成方についちゃって、ダメじゃないですかそうなると。
なんだけれども大垣城って関ヶ原の近くの城に建てこもってて、弱い大名だから留守番させられてたんですよ石田三成に。
とりあえず守っとけ大垣城、俺らは関ヶ原に来てやる、君はもう守ってなさいそこにって言われて。
ポツンって待ってたら、それが幸いにしたんですけど、関ヶ原で石田三成が負けたと。
やべえじゃんってなって、囲まれちゃったんですよボヤボヤした大垣城を東軍に。
どうするってなった時に、何人か九州の弱い大名がそこにいたんですけれども、みんなで語られて。
石田三成の親戚みたいなのが上司いたんだけど、こいつさえいなければ俺らは東軍に許してもらえるんじゃないかって言い始めて。
なんとね、どたんばになって関ヶ原の戦いが終わった直後に、西軍の大垣城を騙して捕まえちゃって東軍に引き渡して、やっぱり僕らは東軍が良かったですっていうことを言い始めて。
それで領地を安堵されたっていうね、お騒がせだいのが。
まあだから小さいなりに上手く立ち回って生き延びてるんだ。
そう、その前にも秀吉に借金を渡してそれで許してもらったりとかっていうね、何かと負けた方に、いつ負けた方についちゃうんですよ。
負けた方につくんだけど、その度にどたんばでいろんなことをしてね、どうにか生き残ったっていう不思議な家で。
なのでなんとも微妙な立場の大名だったんですけれども、結果的にはこのヒューガの国で生き残ることができました。
で、そうすると弱くてどうしようもないのかって話なんですけれども、江戸時代に入るとそうじゃなかったんですね。
これきくりお座さんでもちょっとね、紹介されてたんですけれども、高鍋藩のことを話すのにすごい有名なエピソードとして、高鍋で学者ぶるなっていうね、ヒューガのことばせがあるんですね。
これどういう意味だったか覚えてますか?きくりお座さんも話した。
きくり お座さん 勉強熱心な土地なんですよね。
そうですそうです。
きくり お座さん だからそこで学者ぶったようなことを言うと、本物がそこにいるからそんなことすんだよっていう話。
要はダサいお前が恥をかくぞと。
たださ、冷静に考えてほしいんですけど、さすがにさ、僕がナルシストなちょっと勉強できる秀才で鼻にかけてる奴だとして、前から図鶏とかをかぶった偉い先生が歩いてきたら、教授みたいなのが来たらさ、その前でさすがに僕はこれなりにできますよとは言わないと思うんですね。
見るからに学者先生に向かってはやらないよね。
まあやらないですよね。さすがに自分もプライドがあるからね。じゃあなんでそういう言葉が逆に生まれるかということなんですよ。
それっぽい人がいないというか、見た目でわかるような学者先生がいないということか。
そういうことです。じゃあその見た目でわからない学者先生は誰だったのかっていうのがこの高辺藩のすごいところなんですけれども、江戸時代中期から後期ですね。
高辺藩の第7代当主、秋月種重という人物がいました。この人はもう高辺の命君として非常に有名な人なんですけれども、なんで命君と言われるかというと、明倫堂っていう学校を作ったんですね。
明るい倫理の堂と書いてね。これまあよくありがちな名前ではあるんですけれども。ただ藩校、つまり藩が運営する学校というのは全国いろんなところにありましたから、別に学校を作っただけだったらそんな個性はないんですよ。
ただ高辺藩の明倫堂というのはすごい画期的なシステムを取り入れていて、それが高辺で学者ぶるなのが本当の意味なんです。何かというとこれは農民も入学OKだったんです。
身分制度に高齢しなかったの、この学校は。
そうか。だから一般市民に見えるんだけど、ちゃんと勉強をしている。
そう。高辺の農民は違うんです、他の農民とは。
武士と同じような教育レベルを持った知識層が農民だったり町民だったりするのが高辺の町だったんです。
だから居酒屋とかでちょっと地元の若いあんちゃんとかいるから俺の知識教えてやろうとか言ってると、そいつはお前が思ってるような何も知らない酔っ払いのあんちゃんじゃなくて、学者レベルのあんちゃんだって普通に高辺にはいたっていう。
そういうことか。 そういうことなんです、この本当の意味というのは。
だいぶ当時には珍しいことをするね。 珍しいですね。
似たような例があるとすると、以前土佐の山内家、土佐藩の家老深尾が治めていた佐川という町に名工館というところがあって、そこもやはり途中からなんですけど、当時は深尾家の塾だったのに、それを佐川の町民たちにも開放した。
だから牧野富太郎、酒屋の息子だった富太郎もそこで学ぶことができたっていう。そして佐川は人材の奉公になったっていうのがあるんですけど。
やっぱり当時どうしても文政党の中だと家柄というものがまず第一に来ますから、高等教育を受けられるかどうかというのもそこで決まる部分があった。
だから当然のことながら農民の中にも才能があった人はいるし、頭の良かった人はいるわけで、そういう時に広くこの秋月家、弱い秋月家を耐えていくためには、本当の人材というのを登用しなければならない。
っていうのがこの種茂の思想だった。だからこそ家柄ではなくて本当の才能を見抜くために、まずみんなに教育を施してテストをやって、その上で有用な人物をどんどん圧敵していこうっていう思想の持ち主だった。
なんかもうその思想だけで明確な感じするね。 そうなんです。そしてこの人はすごかったのはもう一つ有名な話があるんですけど、
同時に国を飛ばせるため、自分の秋月の領地を飛ばせるためにどうすればいいのかとなった時に、まずはやっぱり農民がちゃんと生きて暮らして豊かな国じゃないといけないと。
以前森岡藩はそれで天命の危機にしくじって大変なことになったって話をしましたけれども、貧しいと言われている農民たちがいかにしたらこの高鍋の街を気に入って、ずっとそこで豊かな工作作業に励んでくれるか。
っていうのが国の根本だとなった時に、農民たちの悩みは何かっていうと、子供が生まれるわけですけれども、その子供を食わせていくための資本力、経済力が残念ながらうちにはないっていう人もいたわけですね。
そうすると子供どうしちゃうかっていうと、まだいいのは他のところへ出しちゃう。村と他の領地、高鍋半寮以外のところに養子に出すとか、あるいは別地奉公に大阪に出しちゃうとか。
もっと悲惨な話で言うと、本当に悲しい出来事なんですけど、その生まれた子を殺してしまうということも実際にあった。
やっぱりそれは非常に良くないと。倫理としても良くないし、別地奉公にしても高鍋から人口が流出しちゃうというのはダメだというので、どうしたらいいと思いますか、こういう時。
補助を出すとかね。 そうなんです。本当にそういうことなんです。
今の子育て支援と全く同じで、高鍋班のこの秋月拓司は、農民に3人目の子供が生まれたら、米2合を1日に支給するみたいなね。
そういう実際のお米をね、班があげてた。それによってちゃんと子供を高鍋で育てなさいっていうことで、そういう子育て支援策を独自にやったんですね。
これ他の班では全然やってないことなんです。 いやもう本当だって今やってることと同じだもんね。
そうなんですよ。 だいぶ先進的だよね。 そうなんです。すごい先進的で、実地に立ったね、現実的な考えの持ち主だったんですね。
いやなんか偉いなって思ったな。 本当ですね。そのおかげでやっぱりね、高鍋という町はそれで栄えて、小さな大名にあることには変わりなかったんですけれども、
その姿を見ていた人たちが、やっぱり有用な人材としてこの後活躍していくんですね。
その代表が誰かというと、秋月種茂の実の弟、部屋住みつまり弟で家族を告げない弟がいたわけなんですけど、
その種茂の弟が後に山形米沢藩、上杉ですこれ例の、上杉に招かれ養子に入って、そこで党首になって、上杉陽山というふうに名乗った既代の命君になります。
これは教科書にも載ってます。江戸時代後期の反省改革というコーナーがいろいろあるんですけれども、その中の成功した例として米沢藩が上がるんです。
それを実質したこの上杉陽山は秋月種茂の実の弟です。なのでやっぱり兄の姿を見ていて高鍋がどんどん栄えていく様子を見ていた、その経験値を米沢に持っていったんです。
だからある意味その米沢の成功も、この秋月高鍋がなかったらそうはならなかったかもしれない。そして陽山は教科書に載ったんです。
そうか、だから高鍋っていうちっちゃい範囲で成功した例を米沢っていう大きなところでも実践して、それがもう日本に代表するような成功例になった。
そういうことです。米沢へ行くと陽山は神として崇められてる。
じゃあやっぱその種子は偉大だね。 偉大ですね。
じゃあズル賢いだけじゃない。
ズル賢くても戦国時代の人たちであって、時代が全然違う。江戸時代の皇帝なのね。というものがいるんです。
すごいな。
実際この高鍋行っていただくと、高鍋城はもう建物何も残ってないんですけど、二ノ丸文教歴史館という資料館がお城の中に建っていまして、これつい最近リニューアルしてきれいなんですけども、
ここにその秋月谷重だったり、その秋月家一族のいろんな歴史が語られています。同時にこの秋月は廃安地区でなくなってしまうわけですけれども、高鍋藩が終わった後明治になってもやっぱりその明倫堂で育った人たちがどういう活躍をしていて、高鍋にどういう人材が生まれたかっていうのを解説していて、
その中には一説には日本で初めて児童福祉施設を作った人もいるんです。岡山の方で有名な人なんですけど、その人もやっぱりその福祉っていうものに対する意識が高鍋藩は違ったと思うんです。
それは子育て支援するぐらいだから意識としてあるんだろうね。
というやっぱりこの小さな小さな城下町なんですけど、昌阪分立国に行くとこういうのが面白いんですよ。何気なく集まりそうな町にこういうすごい人がいるんですよ。
いや面白いね。
という高鍋という町、ぜひ餃子ずっと食べてるときついと思うので、そういった秋月谷重、餃子兄弟とかね、そういった人たちの先見性にもぜひ思いをいたしていただければいいかなと思います。
そしてね、ちょっと今日は先を急ぎます。結構北の方に宮崎の縦長をどんどん行かなきゃいけないので、車を走らせましょう。
マイズル公園から車で15分ほどさらに北行ったところにあるのが高鍋大師です。
これもね、菊餃子さんで言及されてましたね。
マイズル公園から車で15分ほどさらに北行ったところにあるのが高鍋大師です。
これでも確かに写真見ると日本じゃない感じするな。
ミニチュアみたいなことを。 これそうなんですよ。
意外とねこういうのは結構あって、88箇所になかなか行きたいけど行けない人のために
東京とかでも同じ神社の中で88箇所のミニチュア版があって
それで行くと同じ仏が得られますよっていうのはある文化ではあるんです。
それをこの高鍋でやろうとしたという、最初はそれだけだったんです。
どころがこの人はそれをやっていたんだけれども
後々その大工さんから自らその彫刻の技術というのを教わり
かつ途中から実際に信仰宗の僧侶になって
お坊さんになった上でなんと自ら700体以上の石物を掘り出していったんです。
700、すっご。
じゃあ88箇所をやった上でなんでその後で700も作んなきゃいけなかったのかということなんですけど
これが面白いところでなんとねこの高鍋大使が建っている丘っていうのは
これもやはり古墳なんですね。 丘自体が。
丘の周りに古墳がたくさんあって
これは餅田古墳群っていうまた別の古墳群なんですけれども
その古墳の丘の上にこれが建っている。
なぜかというと古墳というのはそういうわけで
昔の権力者たちの墓なわけなんですけれども
洞窟にあっちゃうんですね。 泥棒がね。
服装品とかで当時の宝石とか貴重なものがどんどんあるわけで
それを盗んじゃう人がいたんですよ結構悪い人が。
実際にこの餅田古墳群もそういった洞窟が相次いで
ただそれはあまりにもそもそも服装品というのは
古墳の被葬者のためにみんなが持ち寄って入れたものだから
それを盗むのだったら言語道断でかわいそうだということで
その人たちの供養をちゃんともう一回しようとその被葬者たちの。
なのでその餅田古墳群たちに埋まっている何者かの供養のためにもって
石物をたくさん古墳に越しられてあげたというのがこの700帯あるゆえんなんです。
すごいね。何も知らない先人に思いを寄せてるんだね。
そうですね。やっぱりこの方のすごい真摯なね
信仰心というかあるいはそういった事前事業というかね
そういったものをやっていった。
裁判年70を越してかららしいんですけれども
やっぱりもうそれだけやってると最初だからもうほんと素人がやってる感じなので
すごく凝った石物ではないかもしれないんだけど
逆にちょっとやっぱりどことなく味のあるね。
ちょっとトーテムチックなものがありましたけれども
こういったものから7メートルを越す巨像。
信仰密教のやっぱり巨像ですね。
っていうのも手掛けていきましたので
実際にこの写真映えもすごいするスポットになっているわけですね。
だからもうほんといわゆる仏さんではないもんね。
そうですそうです。
やっぱりこれもどことなくね
サイトバルの広告博物館に行った後だと
南九州にいたハヤト、これ薩摩の方の人ですけど
とかっていう独自の信仰文化を持っていた人たちのことも
ちょっと意識してるんじゃないかなって思いますね。
これすごい写真綺麗ですけれどもね。
優秀だね。
これ朝日かな東側の。
わかんないけど。
これね丘の上にあって高鍋屋そういうわけでキャベツとかがたくさんできる平野ですから
先にねヒューガナダの海岸線がブワーって見えるんですよ。
なので絶景スポットです。
お昼行っていただくと本当にこのトーテムみたいなね石物越しに
もう青いねヒューガの海がすっごい綺麗に満ち込んできますので
そのだけでも楽しいですね。
この写真もねシルエットが独特で面白い。
そうですよね。
ちょっとなんかロボット感もある感じでね。
へえ。
というスポットになっているのでね。
ぜひ高鍋本当に素晴らしい町ですので
歴史的にも文化的にも絶景という意味でもね
それぞれ回っていただければいいのかなと思います。
そしてねここからちょっと別のパートに入っていきます。
今回はですね歴史も結構大きなテーマになっているというお話をしたんですけれども
実はこのヒューガの国の北部というのは
大きく分けて古代、中世、近代に
それぞれ非常に重要な歴史の転換点の舞台になったところなんです。
それぞれ。
それぞれの時代の。
そのお話をちょっとこの3日間に分けてね話していきたいと思うんです。
戦国時代とか好きな人は知ってると思うんですけれども
今から行くところというのが
高鍋からさらにちょっと北の方に車で20分ほど行っていただく方にある
高錠跡というところです。
高錠というのは高い低いの高い。
高錠という城なんですね。
戦国時代の話になるわけなんですけれども
この高錠というのは何が起こった舞台かというと
1578年、これ天正六年になりますので
これまでの話で言うと
上杉謙信が亡くなった年です。
武田信玄が亡くなって5年後、上杉謙信が亡くなる年
そして武田家が滅亡及び本能寺の辺はこの4年後になります。
この時に耳かわの戦いという
耳はもう体の耳ですね。
耳かわの戦いという超一大決戦の起こった舞台になります。
知らないな。
これは教科書には載ってないと思います。
戦国時代が好きな方は絶対知ってます。
いわば古戦場にあたるんですね。
なので歴史の興味ないよって人は飛ばしてもらってもいいんですけれども
ちょっとこのヒューガの文化を考えるでも
この戦いは非常に大きな意味を持っているので
今回はちゃんと話したいと思います。
この高錠というのはどういうところなのかというのを見ると
ちょっと地図で見てみましょうか。
今このGoogleマップで高錠和都を見ているわけなんですけれども
この城のある条件を見てほしいんですね。
そうすると北にも川がありますね。
そして南にも川がありますね。
つまりこれどういう城かというと
この南北の川の間の断崖に立っているんです。
これ同じような話で言うと
カイ・タケダ・カツヨリが築いた神父城なんてのも
すごい川の中に崖に立っていましたけれども
要は攻めにくいんですよね。
北からも南からも攻められても
天然の堀があって要害になっているよという地勢になっているわけで
これがある意味ヒューガの宿命的なところでもあると思っています。
これさっきの秋月の話と近いんですけれども
ヒューガの国っていうのは伊東一族っていう
それなりの大名がいたんですけれども
これは九州全体で見るとまだ全然勢力の弱かった大名なんです。
ヒューガの国というのは北の文後
南の大隅薩摩から
強大な二つに囲まれてたっていう状況になっているので
常にその二つから狙われているような状況になっていた。
結構厳しいね。
厳しいですね。
なのでこの高城の地勢というのは
北からも南からも対抗できるようにいっている
ある意味象徴的な気もするわけです。
対抗してね。
実際今ここ行っていただくと
この崖の上まで車行けますので
行っていただくとその上から
この周りの原っぱ、川の状態だったりを見ることができますので
その当時の人がなぜここに城を築いたのかというのがよくよくわかると思います。
ぜひこれ見てほしいのはやっぱりその高城のあたりも古墳があるんですね。
あるね横に。
だからやっぱり同じことを前の人も考えたんだと思います。
なるほどね。
昔は縄文時代とか海がもっと高かったですから
平野はずんど海に沈んでいっちゃってるわけですよね。
そういう中でこういった小高いところだけが地面に現れていたのでここに古墳を作ったと。
いうわけですね。
そして
耳川の戦いの話をちょっとするわけなんですけれども
耳川の戦いは起こったのは1578年の冬です。
これは誰と誰が戦ったものかというと
文後の国大分県の大名大友宗林という人
これは教科書に絶対あるという人です。
と薩摩の国の守護大名島津義久
この2つが戦った戦いです。
なるほど。
宮崎駿河の家は関わってないというか
ただ間にいたから戦場にされちゃった。
そういうことです。
はっきり言うと。
これなんでこんなことが起こっちゃったかということなんですけれども
その当時の九州はどういう状況だったかというと
この大友宗林というのはすごい人だったんですよ。
いろんな意味で。
何かというと
大友家というのは
代々文後の国大分県南部の守護大名島としてずっとある名族でして
今の大分市の辺りを本拠地にしていました。
宗林はその後薄木っていうちょっと南の町に行ったりするんですけど
いずれしろ文後の国です。
文後の国の一国の大名島だったにも関わらず
その後どんどんどんどん周りの小さな豪族を打ち果たしたり
従わせたりしていって勢力を拡大して
文後、武前、これは小倉の方ですね。
蓄前、福岡、秋月がいたところです。
蓄後、久留米。
秘前、佐賀の方ですね。
そして秘後、熊本の方。
要は宮崎、鹿児島以外の九州の大部分をこの大友家が治めていたんです。
そんなすごいんだ。
そう、もう九州の覇者ですね。
なんでこんなことやってたかっていうと
大友総理というのはこの時もう相当の年だったんですけど
キリシタン大名としてこの人乗ってるんですね。歴史の教科書に。
フランシスコ・ザビエルとかと会って
かなり早い時期に会って
キリスト教の布教をいち早く認めた人だったんです。
だから南蛮防衛機とか
大分の港には当時からどんどんどんどん南蛮船が入ってきて
そこで大砲とか鉄砲とかすごい最新兵器をどんどん持ってきてたんです。
だからそういう意味でもすごい経済力も資本力も
そして軍事力も非常に強い人だった。
これで九州の敗北した側という人物。
なるほどね。
ただ北部九州ですね。
大友家のほぼほぼ持ち物だったんですけど
南はそうじゃなかった。
南の薩摩には島津家がいたわけなんですけど
これは内紛とかもゴタゴタしてて全然最初は大きくなかったんだけれども
島津義久という若手のすごい英雄が出てきて