1. 大人になりたい旅がしたい
  2. #114【宮崎】薄明かりのプレリ..
2025-08-28 1:45:57

#114【宮崎】薄明かりのプレリュードPart1

薄明かりのプレリュードーーー日なたの海に憧れてーーー1日目


東九州の広大な空を仰ぐ宮崎県。

ダイナミックな自然と温暖な気候、個性的なグルメは“トロピカル”なイメージを発信し続けます。いっぽう、その歴史に目を向ければ、日本の起源にも関わる神秘性が立ちこめ、それを裏づけるような史実の痕跡も残ります。今回は、そうしたミステリアスな山あいの土地から、川を下り、野を拓き、海へと旅立って今日の“日本人”へ繋がった遺伝子の魅力を辿ります。


〜 コーステーマの発表&「聴く餃子」さんについて

〜 ★CM★ PODCAST STAR AWARD

〜 ★旅のはじめに★ 宮崎の土・空・人の魅力

〜 その解説はまるで文学!? 圧巻の世界観を誇るミュージアム 【西都原考古博物館】

〜 お待ちかねの餃子!詳しくは「聴く餃子」さんへ 【たかなべギョーザ】

〜 先進的な教育&福祉を実現した高鍋藩の凄み 【舞鶴公園】

〜 なぜ1人が700体の石仏を彫ったのか!? 【高鍋大師】

〜 九州の歴史を定めた一大決戦の舞台 【高城城跡】

〜 ★歴オタ話★ 島津軍の切り札“釣り野伏”とは何か

〜 大友宗麟の野望と信仰の幽かな痕跡 【妻耶大将軍神社】

〜 荘厳な神話を親しみやすく伝える芸能 【高千穂夜神楽】

〜 山あいならではのお寿司をいただく 【寿司処 竹心】

〜 1日の振り返り


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サマリー

ポッドキャスト第114回では、旅行と食の楽しみを共有する二人が宮崎県の魅力を探求しています。「薄明かりのプレリュード 日向の海に憧れて」というタイトルのもと、高鍋町の餃子文化についても語られています。宮崎県では延岡という第三の都市の文化や独自の県民性が描写され、ヒューガ神話や日本の起源に関する歴史的な価値についても触れられ、考古博物館の魅力が紹介されています。また、高鍋町における地元の餃子文化とその歴史的背景にも言及され、高鍋餃子の名声や江戸時代の島津家の影響についても語られています。 高鍋藩の秋月家の歴史やその教育制度の特異性にも焦点が当てられ、江戸時代の農民教育や子育て支援に貢献した重要な人物が紹介されます。高鍋大師のプロジェクトについては、その背景や目的、信仰や歴史が語られ、高鍋の丘に設立された聖なる空間や古墳群との関連についても詳しく説明されています。このエピソードでは、耳川の戦いを含む宮崎の歴史的な転換点にも焦点が当てられています。耳川の戦いに至る薩摩と大友の軍勢の対立が語られ、大友軍の指揮系統の乱れや内部分裂が影響し、島津が巧妙な戦法で優位に立つ過程が描かれています。 宮崎の歴史的な戦いと文化について掘り下げ、戦国時代における島津と大友の関係を探ります。また、大友家の宗教的変遷がもたらした内部対立についても論じられています。高千歩では、日本神話に深く根ざした高千歩神楽が紹介され、観光地としての魅力が伝えられます。特に有名な神話の一場面も神楽に盛り込まれ、観光客が楽しめる様子が描写されています。宮崎県を舞台に、地元のユニークな食文化や観光スポットも紹介され、竹の子寿司やレタス巻きといった郷土料理や、歴史的遺跡の高鍋城や大友軍の足跡をたどる旅が描かれています。

旅の導入
大人になりたい旅がしたい。このポッドキャストでは、旅行とお酒が好きな同級生2人が、大人だからこそ知りたい、ちょっとディープな国内旅行のモデルコースを紹介していきます。旅のお供はこの2人。
旅がいきがいな旅行ガイドブックの編集者、はるやです。 ディープな旅がしたいけど知識がない旅行初心者、内田です。
今回から新しいコースなんですけど、いつもは誤答にどうでもいい話をしているので、今回はコースの紹介のところで話したいところがあるので、もうちょっと早速本編入っちゃおうかなと。
分かりました。そうなんですね。了解しました。じゃあ、コースタイトルを言っていいという感じですか? そうですね。コースのタイトルは何でしょう?
今回ご紹介するコースのタイトルは、「薄明かりのプレリュード 日向の海に憧れて」です。
こんな入りしたからね、とぼけるのもあれなんですけど。 宮崎ですね、今回は。そうです。今回、九州宮崎県のコースになっています。
この日向っていうのがね、キーワードな感じがしますよね。 そうですね。
で、今回はちょっとリクエスト的な部分がありますよね。 5月の26日、菊餃子っていうホットキャスト番組がありまして、
たびたびスターワードの時とかにもね、話題に出させてもらってますけど、一般社団法人焼き餃子協会の代表理事の小野寺力さんっていう方が、餃子ジョッキとしてね、やられてるホットキャスト番組。
餃子を紹介したりとか、餃子に関するゲストを呼んだりとか、焼き方を教えてくれたりとか、いう番組なんですけど、
その番組で、その5月26日に、餃子を食べたい旅がしたいっていうね、会をやってくれたんですよ。 ありがたいですね、これね。
まあもう完全に我々をね、オマージュしてくれて。 で、まあもちろん我々聞きましたけど。 聞きました。
餃子の魅力
めちゃめちゃクオリティ高いというか。 すごいね。 すごいよね。 やっぱ餃子のプロだなって思いました、本当に。
食レポめちゃくちゃ上手くてさ。 すごい勉強になりました。 超食いたくなったよね、あれ。 あれはすごいわ。
あのこういうところを着眼するべきなんだなっていうのもすごく勉強になりましたね。 餃子食べる上で。 まああれ本当になんか尖ったコースだし。
とはいえなんか我々っぽい歴史みたいな話もね、織り込んでくれたりとかして、めちゃめちゃ面白かったです。 面白かったです。
で、その回でもモデルコースをね、紹介してくれてるんですけど、そこが宮崎県高鍋町っていうところなんですね。
正直ちょっと僕は聞くまで知らなかったんですけど、でもなんかそこはもう餃子の聖地だと。 これは有名ですね。
本当だね。 九州の人は大体知ってんじゃないかな。 あ、そうなんですね。
まあそのエピソードの中でも有名店がね、あって、まあ二大巨頭があるみたいなお話をね、されてましたけど。
だからもう本当に餃子の町ということなんですね。 で、それの回の最後で我々にもその宮崎、高鍋町を紹介してほしいみたいなリクエストをいただきました。 まさかの。
ということで今回という形ですね。 そうですね。
まああのね、なかなかこの南九州というもの自体できてなかったっていうのもちょうどあって、 いつやろうかって話はしてたところにね、ああいったリクエストをいただけたということでね、ちょうど良かった部分もありますよね。
でね、これ、俺はるやんに言ってなかったんですけど。 何ですか? 実は私ね、小野寺さんにお会いしてきました。
え? そうなの? 何それ羨ましいんだけど。
お会いした? 直接? え? どうしてですか?
あのですね、6月5日から15日、結構ね長い期間ですけど、これ高円寺で餃子宇宙ステーションっていうイベントをやってたんです。
何それ面白そう。 これは、なんかね、餃子をモチーフにしたいろんなクリエイティブを作ってらっしゃるクリエイターさんが結構いっぱいいるっぽくて。
なので、餃子食べるイベントじゃなくて、餃子モチーフのなんかアイテムとか、そういうグッズを集めたイベントなんですね。
個性的な餃子グッズが高円寺に大集合って。 そうなんですね。 へぇー。
こんなのあるんだ。 あれなんか餃子屋さんっぽいですけどね、なんかね、見た感じ。 なんかね、入り口はのれんがかかってたりするんですけど。
面白いっすね。 本当なんか、いやもうめっちゃ可愛くて全部。 可愛いね、うん。 餃子は餃子王とかキャラクターがいたりね。
すごいなんかそれぞれ本当可愛らしい。 へぇー。 あーはいはいはいはい。 餃子王です。
なるほどなるほど。 とか、餃子の食品サンプルを入れた写真を投稿してるインスタの方とか。
ほんとなんかそれぞれの着眼点で餃子グッズを作ったり発信をしてる方が集まるイベントね。 あーそうですか。
で、その回帰中にこの小野寺さんがね、1日だけ餃子を焼きにいらっしゃってたんですよ。 おーすごい。
っていうのを、まあそれ聞く餃子でもね、告知をされてたんですよ。 それを聞いて、僕は結構行きやすい。 そうですね近いですね。
行こうと思って。 あーいいじゃないですか。 行きました。 えーいいなー。焼いてくれるんですか自ら。 そうそうそう。 えーめっちゃいいじゃないですかそれ。
そうだから小野寺さんが焼いてくれた餃子を私食べまして。 おーいいなー。 どうでした?
えっとね、俺が食べたのは、新生食品の特選生餃子っていうのをいただいて。 うんうん。うわ美味しそうこれ。
大田のお店っておっしゃってたんですよね。 あれれ、そうなんですか? ほんとだ群馬県大田市だ。そうそう。 えー知らなかった。
大田の餃子らしくて、なんでねキャベツとかが、野菜がね、すごい甘みが出てて、すごい美味しくて。 うんうん。
で小野寺さんの焼き方もめちゃめちゃうまくて。 あーちょっと見てみたいね。 焼き目がね、すげーカリッカリになってて。
プロ中のプロやね。 いやほんとよ。 へー食べてみたいなそれは。 超うまくてね。
いやーいいイベントでしたね。 えーいいですね。羨ましいなそれはちょっと。 そうそうそう。
でまぁちょっと初めましてだったけど、ご挨拶、名刺交換なんかしてね。 あ、だから持ってるのね名刺を。 そう、名刺ねいただきまして。 へー。
でね、まぁ我々のオマージュ会の時にも言ってたんですけど、小野寺さんね、国内旅行業務取扱い管理者。 聞きました聞きました。
だからそう旅行にもいろいろ詳しいみたいな。 そっかそっか、だから。 そうなんですよ。
だからなんか、もし音旅でイベントをやる時とかは、その土地の餃子とか。 あーめっちゃいいじゃん。 提供しますよみたいな。 ほんと?
え、それ嬉しいですね。 本当はね、提供じゃないかな、紹介かな。 紹介をね。 しますよみたいな。 もう全然我々の話よりそっちの方が、絶対僕はそのね、
てか僕自身がめちゃめちゃ食べたいですけど、小野寺さんの餃子。 話もいろいろ聞いてみたいね。どこのおすすめ? 宮崎のやつもすごかったもんね。
全然知らなかったあんなたくさん店があるなんて。 そう、なんかお会いして。 あーいいですね。 ちょっとまぁなんか今後ね、何かでご一緒できたらなーって思ったんですけど。
僕自慢じゃないですけど、今のこの旅行関係の会社に入る採用面接で、僕福岡の餃子の話をして採用されてます。 あーそういうの聞いた。
福岡にあるとあるお店が、僕もう子供の時から親に連れてってもらったんですけど、世界で一番美味しい食べ物だと今も信じて疑ってなくて、必ず福岡行ったら行ってるので。
餃子は大好きですよ、本当に。なんでこんなに美味しい食べ物があるんだろうっていうぐらい。 まあね、完全食だしね。 そうなんですよ、素晴らしいですよね。
えーいいな、小野寺さんちょっと俺もお会いしたかった。 本当に。 ちょっとまぁ俺が行こうと思ったのが割と直前だったから。 そうですね、ちょっとタイミングも合わなかったから。 小田原から呼び寄せるのがあれだと思って、あれだったんですけど。
そうなんですよ。 っていうね、まぁいろいろその繋がりがありまして。 で、今回宮崎編。 そうですね。
ということで、今回のねコースの中で高鍋はもちろん回りますよね。 はい、もうそれはリクエストということもあるし、僕もやっぱりね高鍋行ってとある餃子店が好きなんですけど、ここやっぱ紹介したいですね。
ただまぁ高鍋に限らずね、今回は宮崎を巡るっていう感じですかね。 そうですね、宮崎ってすごく縦に長いじゃないですか。
そうだね。 ですので、まぁ今回2泊3日で行くんですけれども、宮崎市から北だけで2泊3日をします。 宮崎市は真ん中ぐらい? そうです、ちょっとこのあたりね宮崎県の話はまた本編に入るときにできたと思うんですけど、なので宮崎県全部を行けるわけじゃないっていうのはね、ちょっとご理解いただきたい。
宮崎県の北半分ぐらい。 北半分だけを2泊3日、ただそれでもねかなり詰め込みが立てる。 なるほど。 で、やっぱ僕もね九州はちょっと特に思い入れも普通というのもあるし、宮崎ほんと好きなので、ちょっとそんなねサラッとはやりたくないというのもちょっとありまして、で今回ね高鍋ということで、高鍋は宮崎市の北なんですね。なので北側を2泊3日ということにします。
じゃあ早速ね、そのリクエストに応える宮崎コースをやっていきましょうか。 はい。 よろしくお願いします。
ということでね、宮崎県というものがこのポッドキャストで初登場になるんですけれども、いかがでしょう?宮崎県のイメージだったりこういった経験だったりというのはどうですか?
行ったことはないかなと。 うんうんうん。 まあでもやっぱイメージはね、いろいろ皆さんもあるんじゃないかなと思いますけど、まあやっぱマンゴーとかね。 そうですね。 キンカンとか。 はいはいはいはい。 あとはチキンナンバンとか。 チキンナンバンね。
だからやっぱ食べ物は結構豊富なイメージはやっぱありますし、あとなんだろうね、野球のキャンプとか。 ああ多いですね。 それぞれの宮崎イメージみたいなのはなんか皆さん持ってらっしゃいそうだなって思うんですね。
そうですね。まあ今まさに本当に言ってくれた通りでね、マンゴーですとかそういったものについてはやっぱりとにかくあったかい場所なんですよね。 南国。 南国です。もう日本の中の南国っていうのがまさに宮崎で、トロピカルな感じだったりっていうのを自然発生的に風土の問題からもそうなるし、そういう演出をね観光としての見せ方としてそのトロピカルアイランド的なところをPRしているっていうのが宮崎県の特色になりますので。
日南海岸って海に向かってモワイ像が立っている風景とかね、そこの周りヤシの木みたいなのがワーってドライブができたりとかっていう南国ってイメージがやっぱりすごく強いんじゃないかなと思いますし、実際その通りだと思います。
だからこそ冬とか春の寒い時期においてもキャンプが、巨人もそうだし、我らがソフトバンクホークスそうですし、カープも日南の方でやってますかねとか結構多いですので、やっぱりそのあたり有名になってるかなと思いますね。
あとね、宮崎の概要をお話しすると、ちょっと地図見てみましょうか。ちょうどさっき話が出たのでね。宮崎県ね、九州の南部東海岸の方に縦にね、ブワーってちょっと傾斜をつけながら海岸線が長い県になっているわけですけども、すごく面積広いんですけど宮崎市、県庁所在地の宮崎市は真ん中からちょっと南くらいにあります。今ね宮崎って書いてあるからですね。
このあたりはね、宮崎平野という平野になっていて、中学校受験の時に促成栽培なんてのをね、学んだ方もいるんじゃないかと。その代表としてね、高知県と宮崎県はやっぱりその日頃から暖かいので、夏野菜が早く摂れる。ただそのまあ篠利を生かして、スーパーとかにね、行くと宮崎産のピーマンですとか、そういったものはね結構並んでいる。ニラとか。
この辺からちょっと餃子の感じが漂ってくるわけなんですけど。というのもね、あの食卓でもおなじみの方もいるんじゃないかと思います。この宮崎県はですね、一つ丸ごとヒューガの国という一つの国でした。日向と書いてヒューガになるわけなんですけれども、その一つの国だったのですが、大きく分けると宮崎市あたりを境にして、北と南で全然文化が違うというのが僕の所感なんですね。
で、宮崎市に次ぐ第二の都市というのが、宮崎市の南西側に行っていただいたところにある宮古の城という街があります。東京都の東区があって城ですね。これはもうほぼ鹿児島にすごく近いところなんですけれども、こっちが宮崎県第二の都市。なのでこれはね、薩摩系の文化なんですね。鹿児島系の文化がすごく強いところ。
延岡と宮崎の文化
一方で第三の都市というのが、宮崎市からずっと海岸線を北に行っていただいたところ、結構いっただとりに延岡という街があります。これは剣北の市場の都市で、宮崎県下では第三の都市。こっちは大分語系の文化が入ってきてるんですね。もう大分にすぐ近いところになります。
という感じで、ざっくり真ん中、南、北というのでバランスよく主要都市が配分されていますが、今回はその中でも宮崎市から北の延岡にも実際泊まりますので、こっちの北側だけで行きたいというふうに思っています。
なるほどね。一つの国ではあるけど、やっぱり長いから一つの文化で語れる感じではないってことね。 そういうことです。っていうのがね、やっぱり広いし、かつここ宮崎、ヒューガの国一国を丸々治めていた大名とかはいなかったんですね。結構バラバラになっていた県であるので、その分薩摩みたいにね、強大な島づけというものがもうガッチリ200何十年もっとか何百年も治めていたとかっていうような江戸期の文化の濃さっていうのはそんなにないんですけれども、
その分ね、また独自の県民性だったり文化が育まれてきた県だと思っていまして、僕個人的な印象だとやっぱり宮崎の方ね、すごく知り合いもいるんですけれども、本当に人が大らかで温かいですね。宮崎の方って本当にそういう印象があります。すごくね、大らかな方々だなっていう。
ちょっと勝手にお名前出しますけど、アテシカのスミレコさんも宮崎なんですよね。 そう、どちらなんでしょうね、宮崎は。 ちょっとそこまでわかんないですけど、スミレコさんのキャラを思い浮かべると、なるほどっていう感じだよね。
ここは宮崎県出身の有名人っていうとね、最近だと坂井雅人さん、宮崎市のご出身ですし、歌手の畑本宏さんとかもね、日南のご出身です。あとね、今ちょっといろんな話題になっちゃっているところもあるんですけれども、映画ね、カクカクシカジカという映画ありますが、あれの原作者東村明子さん、すごいタラレバ娘とか書いた有名な漫画家さんですけれども、あの方は宮崎のご出身で、
カクカクシカジカはね、ご自身の宮崎でのこの青春時代の回想部でもありますので、自伝なんですよね。なのであの映画ね、僕も見てきたんですけど、あのすっごく宮崎への愛と、その宮崎の人の人となりをね、すごくこううまく描写されてて、
方言とかも本当に宮崎がこういうよねっていう、お父さんがね大森直さんが演じてるんですけど、あの方が僕は一番僕の思う宮崎っぽい人だなと、オーラカでちょっと抜けてて、すぐに喜んじゃう。楽天的で消極的って宮崎の人言いますね。
あんまり自分くらいはないんだけど、すぐ嬉しくなっちゃって、楽天的でっていうね、大森直さんはねお父さん役で、すぐに娘のことをピカソだ、手塚治虫だとか言って喜んじゃうね、のんきなお父さんやってましたけど。
かわいらしい かわいらしいっていう話もね、あれすごく感動しました。あの映画も良かったですね。
っていう感じでね、そういったオーラカでのびやかな県民の方々とその育んだ自然というのが非常に魅力的な県ですので、僕もすごく九州の中でもすごく推しの県ですね。
というわけでね、ちょっと話が長くなってしまったんですけれども、今回はね2泊3日で宮崎市から行くわけですが、シチュエーションとしてはね、僕実は宮崎は基本一人でしか行かないんですけれども、一人で行ってもらっても全然行けますが、お酒もやっぱ飲みたいんですよね。
ヒューガ神話と日本の起源
九州はね。なので、できればやっぱり集団で行ってドライブ交代交代で、宮崎県移動すごいしんどいので結構ね、車があったほうが絶対いいですので、集団で一体いただいたほうがいいかなという気もします。
ただ一方でね、今回ね結構歴史にもかなり触れる部分があります。宮崎の歴史を語る上でね、欠かせないのがね、このヒューガの国というのはね、日本の起源に関わる神話の世界なんですね。
ヒューガ神話っていう、もう日本がなぜできたのかっていうことを古事記だったり日本書記で解説している、その舞台になっているのがヒューガの国です。
なのである意味この日本人の起源、日本の起源というものの迫る手がかりがこのヒューガの国には残されているっていうね、すごく歴史上大切な権利になっていますので、そういった結構歴史だったり神社というものにかなり行きますので、そんなイメージで見てくださるといいかなと思います。
ということでね、コースの方に入っていくわけですが、今回は空路で宮崎に来たという想定でいます。
宮崎はね、宮崎市のちょっと南の方に宮崎空港、宮崎ブーゲンビリア空港っていう面白い名前なんですけど、なんて?ブーゲンビリア空港。これも南国の確か言葉だったと思うんですよね。
という空港がありますので、ここに大体お昼前11時頃に着いていただくというイメージでいます。
福岡とかから来る方はね、車なり鉄道なりで全然行けますので、東京とかの方は空港がいいんじゃないかと思います。
そこで宮崎空港でレンタカーを借りてから北上していきたいと思います。
今回はね、ちょっと宮崎市は飛ばします。
宮崎市はね、また別の宮崎市から南の都の情報面をやるときにちゃんとやりたいと思いますので、今回はもう宮崎市を素通りするということはちょっとご容赦いただきたいと思います。
最初の目的地ですが、空港から車で45分ほど北西の方角に行っていただいたところにあるサイトバル考古博物館に行きたいと思います。
宮崎っぽい名前だね。
そうですね。
かっこいいな。
すごいですよね、これ。
そうか、考古博物館だから今古墳っぽいね。
はい、その通りですね。
そうだわ、小野寺さんも話してたね。
そうですそうです。
このサイトバルって、これ九州出身の人には釈迦にせっぽうですけれども、九州の地名ってね、これサイトバルって普通に言ってますけど、西の都の原っぱと書いてバルと読むんですね。
これは九州の読み方です。
でね、これ宮崎県サイト市、西の都の市と書いてサイト市というところにあるんですけれども、今内田が言ってくれた通り考古博物館となっていまして、
実はね、この考古博物館の周りには古墳群が実際にあるんです。
これね、特別資設サイトバル古墳群という古墳群の中の中核施設として博物館がありまして、
この古墳群に関して言うと、だいたい3世紀から7世紀にかけて作られた古墳群で、58ヘクタールの敷地の中に300を越す古墳が減損している。
そんなにあんの? すごいな。
うん。大小合わせてというと前提になりますけど、そんなに実はあるんですよ。
これね、つまり古墳っていうのはそもそもどういうわけかよりもっているかっていうのはわかりますかね。
まあピラミッド的なね、その場所の遺生者のお墓ですよね。
そういうことになりますね。なので古墳があるということは、それだけ強大な勢力がこの場所に古代いたということになるわけですよね。
実際ね、大阪の堺の大仙古墳なんて有名ですけれども、あれだけのものを作る技術力とその人を動員する力がある古墳がつまりその権力のね、象徴的な部分にもなっていたわけですから、
当時の豪族たちはこぞって古墳を作るのに凝ってね、大きなものを作っていったっていうので、実際このサイトバルにもそれだけのものがいたのは間違いないということになっていますね。
それが密集してるのってすごいね。
そうです。だからやっぱりここにいたのは多分相当長い期間、一つの系統、つまり敵味方取って変わっていたら前の墳壊しちゃえとか、前の土地嫌だから新しい土地行っちゃおうとかってなると思うんだけど、
そうならなかったから多分その300個も今残ってるわけであって、一つの系統の何者かがここに大体400年ぐらいの間、強大な戦力を保持し続けたのは恐らく間違いない。
なるほど、そういうことか。
この辺からだから日本の起源というもののちょっとおぼろげな歴史が見てくるわけです。
ただこの広告博物館については、そういったこのサイトバル古墳群というものがどういったものなのかっていう、広告学的なあくまで実測の調査に基づいて解説をしてくれています。
今すごいページ見てかっこいいねって話が感想として出たと思うんですけれども、そうなんですよこれね、なかなか凝った博物館として入館するとまず真っ暗なんです。
考古博物館の魅力
真っ暗の中に下りの傾斜がついたトンネルみたいのがボーって照らされていて、そこに誘われてこれですね、行くわけなんですね。
この先に行くと展示室があるんですよ。これは当然のことながら古墳自体に穴を入っていくみたいな、そういうイメージなので実際地下に潜っていくんです。
そして実際に展示室に入るとさらにそこから地下空間が広がっているんです。
その廊下を歩いている途中にちょっとその展示室を覗き見れるちょっとしたスペースがあるんですけど、そこの下には実際の古墳の発掘された状態のものがね、上からガラスから見れるようになったりするんですよ。
じゃあちょっとその本当に古墳の中に入って覗き見てるような没入感があるんだ。
そう、まさに没入感というのがぴったりのキーワードだと思いますね。っていうすごくね、ちょっとゾクゾクとするようなね、スリルもあるようなね、そういったすごい凝った博物館になっています。
実際行っていただくと、古墳から出土したものですとか、あるいは当時のね、だいたい弥生時代古墳時代くらいの南九州というものがどういったものなのか。
ここを考えるでやっぱり非常に大きな問題になってくるのは南九州の地質というものですね。
これはやっぱり九州というのは南と北で全く文化が違うものになりますけど、阿蘇山ですとか、あるいは桜島なんていうのがね有名ですが、こういったカツカザンが当時非常に活発な活動をしていて、そのために南九州の土というのはシラス大地なんですね。
土壌がこう火山梅土なんです。だから水はけが良すぎて稲が育たない。当時の技術では。
だから今もそうなんですけど、お米を育てるというよりも畑とか野菜作りとかに適している。 芋とかそういうことだよね。
そうですそうです。芋ね、さつまいもじゃがいもなんていうのはこの辺すごい取れますけど、それがやっぱり必然的な理由になってくる。
だから同じ古墳を持っているね、大阪の方ですとか関東の方にも大きな古墳はありますけど、彼らとは全く生きている条件が違ったということなんです。
その南九州に生まれてきた古代の人々というのが何を営みとしてやっていたのかということをね、解き明かすミュージアムになっているんです。
そしてね、この博物館のすごいところはね、もう一つありまして、これまで紹介してきた博物館とかね、うちだがこれまでに行った博物館いろいろあると思うんですけど、
大体こう解説文っていうのがそれぞれあると思うんですよ。歴史の解説だったり、展示されているその品に対する解説。
普通はその品に対する解説だと何世紀に作られたと思われて、どこから出土した、特徴はどういうところで、形状はこう、そのためにこういったことが推測されるみたいな、学術的にちゃんと書いてあって。
解説だよ。
解説が書いてあるんですけど、この博物館はすごくそこを振り切って面白いことをしていて、文学を書いてあるんですね。
だからデアル調だもんね。
これすごくてね、このパネルその怪しいそのトンネルの中をくぐっていって、ぼーっといろいろ浮かび上がってくるんですけど、そのパネル自体に文字のフォントも大小をつけながら文学が展開されていて、
例えばこれね、とある土偶に関する話、どういう場面かっていうと、他の県とかで出てきた土偶がちょっと写真とか飾られていて、この時の日本のスタンダードはこの土偶というものが作られていて、しかし南九州にだけはこれが存在しないんです。
いわゆる青森の合掌土偶とかやったことありますけど、ああいうのないんですね、九州には全然。それのことを解説している文章なんですけど、ちょっと読みますと、これパネルの解説文ですよ、これ。
いぼうである。人間にとって最も不可思議な存在は人間そのものであったに違いない。体を中小化してもす行為の中に生まれたのが土偶である。
土偶の解説がちょっと書いてあって、そしてすごい大きな文字で、そして南九州には土偶が存在しない。土偶採取の欠如はその意味では温暖で豊かな南九州の気候風土が約束したものなのだ。
本当にこれ柴木太郎さんのエッセイを読んでるんじゃないかっていうような、すごい思い切った文で展示を解説するんですよね。
本当読ませる文章というか。 読ませます。 俺ね、正直ちょっと苦手なのよ。博物館のちっちゃい文字で、本当に解説をされてる文字、文章って読めないのよ。
高鍋町の餃子文化
ちょっとね。 流し読みしちゃう感じがあるんだけど、これはちょっと読みたくなる。 読みたくなる。
このね、そして文章力が僕は本当に好きで、名文ですね本当に。本当に誰がこれ書いたのか、僕今回もすごい調べたんですけど、わかんないんですよ誰が書いたのか。
農学術員の方とかなのか。 うん。で、これをよく許したなと思う。そのかつて企画になった時に。こんなの僕他に知らないですよ。こんな博物館。
確かにこういう文章を書いちゃうと、事実じゃない部分が混じっちゃったりすると、博物館としてはどうなのっていう部分もありそうだから、確かにちょっと許しづらい感じではあるよね。
そう。だからすごい思い切ったね。でも面白い博物館だなと思うんですね。これ非常に。 いいな。威望である。
っていうから始まるんだね。ここから異謀、異なる要望であるという意味。威望であるっていうから始まるっていうのはね、すごい文采だなと思いますし。
面白いな。 これを博物館だっていうのが面白い。 そうだね。
この他にもね、本当に各展示コーナーでそうなっていて、なんとかなのだろうか、そして人は思ったとかね、そういう風にやるんですよ。九州の人間はそしても、そして九州は生まれたとかね。
そういう感じでやって、公文っぽいなって。僕勝手にサイトバル公文なんて思うんですけど、本当にこれは面白いですよ。なのでやっぱりね、世界観の見せ方がすごい素敵なんですよ。
そのトンネルのイメージとしての文章じゃない、感覚としての見せ方もすごい引き込まれますし、そこで言って文章としてもこれを見せるっていうね、これはすごい博物館。これを考えて許した人は本当にすごいと思う。
もしかしたらその考古学でさ、特定の人物とかがあんまり出てこないからやりやすいのかもしれないね。
これはね、本当にそうだと思います。やっぱり井上忠とかだったらなかなかこういけないと思うんですけど。
個人だとね、なんかそのキャラをちょっと変えちゃいかねない。
そうそうそう。あくまでも不特定多数の南九州の日本人という一つの人種に対する解説なんですね。なのでこれができるって言ったら本当にその通りだと思います。
なのでね、ぜひこれね結構時間しっかりとっていただいて、この文章もねすごく楽しんでほしいですね。
でちゃんと解説的な部分もね、しっかりあるから勉強にもなる。
そういうことです。今ね最後写真ありましたけど、博物館の展望ロビーみたいなところ最後に行けるんですけど、そこから見渡すとその宮崎の平野の中に古墳がね、まだ実際にちょっと盛り上がってたくさんあるというその実景も望めますので。
なるほど。
実際地下世界でいろんな魅惑的な解説等を展示品に触れた後に、その今のヒューガの国を見ていただいて、こんなところにこれだけの営みがされていたのかっていう臨場感もね、すごいこの晴れやかな広いヒューガの空の中で見渡すことができます。
抜けがいいな。
宮崎はねこれがいいんですよまた、特にこの宮崎平野、彩都とか宮崎市のあたりはね一面平野なので、これ各々近々でもすごくこの海に向かって最後漫画家になっていくっていう夢を叶えるそのバックグラウンドの絵としてすごい良いんですよね。
面白いな。
というものになって、なのでここで抑えておきたいのは、この宮崎というヒューガの国に何者かの巨大な権力がやっぱりあったのは間違いない。
それを今でも語り継がれているよというので、まず実測の部分から入ったんですけど、これと後で紹介する神話のあたりのどうマッチしていくかっていうのをね、ぜひ皆さんなりにそれぞれの多分解釈あると思うので、考えてもらえればいいのかなと思います。
そしてね、サイトバルコフン群から車で20分ほど北東の方ですね、行っていただくとお待ちかねの高鍋町に入ってまいります。
来た。
彩都から近いです、非常に。そしてね、今回僕はちょっと1軒しか行ったことないんで、ご紹介させていただくのが、高鍋餃子というお店です。
これは菊餃子の中でも紹介されてた。
そうなんです。もうぜひね、これは菊餃子さんをまず聞いていただいて、僕はもうあんなに詳しく解説できないので。
あれ以上の食レポできないな。
もうないです。なのでもう正直飛ばしてもいいと思ってるんですけども。一応ね、菊餃子さんへの導入ということで言っておくと、宮崎県が餃子が有名って話は知ってましたか?
俺知らなかったんだよ。やっぱり宇都宮とか有名なところがあるから、それの印象が強い。あんまり宮崎っていうイメージがなかったですね。
これね、毎年何月かな、秋ぐらいだったかなに、餃子の消費量ランキング、あるいは消費額ランキングっていうのが統計としてちゃんと出て、それを宇都宮、浜松、これも以前紹介しました。
そして宮崎でね、密度萌えで争ってるような状況なんですよ。特に宮崎市なんですけど、宮崎市は確か2021年とか2年ではその日本一の座に輝いているんです。
っていうぐらい宮崎県というのは、特に宮崎市近辺は餃子店が多くて、特に持ち帰り餃子が多いんですけども、実際に餃子を召し上がる方も多い。
僕自身やっぱり九州に育ったというところも考えると、九州というもの自体はやっぱり餃子はみんな食べるんですよね、本当にね。僕は福岡の餃子でもちろん育ちましたけれども、大分にもいいお店ありますし、もちろん宮崎に行っても。
特に東九州側はそれが文化が強いような気がしていて、特にその宮崎なぜいいですかっていうと、やっぱりニラ、キャベツ、そして肉。宮崎産の牛肉豚肉とかよくスーパーにもあると思いますけど、餃子のあんに必要なこの素材というのが非常に生産されてる。これやっぱり大きな条件ですよね。
なるほどね、条件が揃ってんだね。
そしてこの高鍋という街なんですけれども、ちょっとまだ知らなかったって話、実は確かにそんなに人口規模とかは大きくない街なんですけど、実はこのキャベツの生産量は宮崎県下でもトップなんです。だからキャベツの一大産地なんですよ。
なるほど。そりゃ餃子うまいだろ。
ということになるわけですね。もうあとは菊餃子さんの聞いていただければと思うんですけれども、ちょっと本当にお言葉を借りるとね、高鍋は餃子の聖地なわけですけれども、確かに多いんです本当に。
ちっちゃなこれ城下町でんですけど、本当に餃子店ばっかなんですよね。実際高鍋町さんももうそれでPRをすごい売り出してる。
二大教堂なんて菊餃子さんおっしゃってましたけど、高鍋餃子さんと餃子のマータイさんっていったかな。馬に渡ると書いてね。
っていうところが二大教堂っていうふうにレビューされていましたね。実際僕はこの高鍋餃子さんにしか行ったことないんですけど、ここは本当においしいです。
個人的には餃子の好みって本当にいろいろあると思うんですよ。実際宇都宮餃子も浜松餃子も違うじゃないですか、特色が。
ただ僕個人的にはなんですけど、九州の餃子が一般に結構それが近いんだと思うんだけど、野菜多めの方が僕好きなんです個人的に。ここは野菜多めなんですね。
まあでもそれはキャベツがいっぱいあってニラもあってってなったらそれは入れるしかないよね。
入れるしかない。野菜多い餃子ってさっきの近世食品もそうでしたけど、甘味とうま味が出てくるじゃないですか。あと食感。これがやっぱり僕はいいなと思うわけですね。
この高鍋餃子屋さんはね、いろんな焼きも茹でも、あと揚げもあるんだけど。
そうです。
だからいろいろ本当食べ比べができるっていう感じだよね。
その通りです。創業1971年ということでね、もう50年超えの進出になっているわけなんですけれども、本当にでも何というか全然飾らないお店なので地元の人のお店だと思います。本質としては全然。
あと棒餃子もあるんだね。
そう、これがね、僕も食べてみたいんですけど、ここはね、上海棒餃子すごい名物なんですよね。で、エビが入ってるんですよ、こっちには。
なるほど。
なのでね、菊餃子さんこの辺りレビューされてましたけれども、菊餃子さんはね、餃子焼き餃子定食と上海棒餃子3本ならいけるだろうということでね、どっちも食べるっていう満腹コース。
食べちゃいましょうって言ってましたもんね。
そうそうそう。でもいいですよね。
いやでも食べちゃうだろうな。
うん。しかも安いんですよ。
あ、本当だ。
餃子ランチ、餃子を選びいただけます。焼き揚げ推移10個どれかを選んでいただいて、ライス、スープ、サラダ、お漬物、ソフトドリンクで860円という数になってますね。
いやでもいいね。これだけたくさんあって選べて860円だったら全然いいですね。
そうです。で、これはね、僕も本当に飲みたかったんですけど、飲めなかったんですよ。車で一人で行ってたもんですから。
一人だから。
はい。で、あいにく僕はね、ちょっと菊餃子さんと違って高鍋に泊まったことがないので。
あーなるほど。
はい。昼にしか僕行ったことないんですよ、高鍋。
うんうん。
なのでね、ぜひ菊餃子さんを聞いて餃子の旅をこれでしてほしいなと思いますし、僕もまた行きたいなって思いました。
いやーあれ聞くとね、いろいろ巡りたくなるんだよな。
なりますよね。
ね。
全部違って全部うまそうだから。
そうなんですよ。魅惑的ですよね。
ね。
だからまあ、ほんとあとは菊餃子さん聞いてほしいんですけど、とにかくこの高鍋というのがね、それが成立するくらいのすごい街なんです。餃子の聖地だということをね。
宮崎の歴史的背景
そうだから、飲みたいって話だとやっぱ焼酎がね。
そうなんですよ。
宮崎はね。
やっぱこの橘ね、菊餃子さんも言ってましたけど、これなかなかね、東京には見ないんですけどね。
そうだね。
宮崎行くとすごくよくあります。
うんうん。
うん。
いやーこれはそうだな。一人だと厳しいね。
そう。だからね、僕はちょっと是非ね、岡田と一緒にこれ行きたいなと思うんですけれども非常にね。
アッシーとしてね。
アッシーとしてね。餃子送ってあげるから800円でしょ。
いやでもいいな。
うん。やっぱりちょっと集団で行ってほしいですね。
そうね。
なのであとは是非、菊餃子さんをお聞きください。
高鍋餃子さん以外にもね、もう一つの二大巨頭の店ですとか、それ以外にも個性的なね、餃子の店たくさん紹介されてましてね、餃子尽くしのモデルコース一泊二日ね、ご紹介してくださっているので、もうそっちにあとはもうお任せしたいと思います。
はい。
じゃあオトタビポッドでそれは何を言うのかという話なんですけれども、この餃子とマッチとして有名な高鍋なんですが、実はもう一つね、歴史的にもすごい町なんですね。
それをちょっと探りに行きたいと思います。
高鍋餃子さんから車で2分ほど歩いて行ける距離なんですが、舞鶴公園というところに行きましょう。
舞鶴公園、鶴が舞う公園と書くわけなんですけれども、これ一言で言いますと高鍋城の跡です。
ここでちょっと宮崎の江戸時代の話を振り返っておきたいんですけれども、細かなことは省きますが、先ほど言ったようにヒューガの国というのは一つの大名家が治めていたことはありませんでした。
ざっくり言うと島津家とそれ以外なんです。島津というのは鎌倉時代から薩摩、大須につまり今の鹿児島県を治めていて、当然薩摩藩として非常に名高い、西郷、高森とかを排出した絶対に誰もが知る藩だと思うんですけれども、それの大名です。
その始藩というか親戚みたいなのが宮崎県の南には配置されました。
最大の例が宮古城島津家なんですけれども、宮古城は県の南の都市ですね。ここは島津の持ち物だったんです。
宮崎市辺りまでは薩摩の島津家の始藩が入り込んでいて、薩戸原という町がある、これサイトに途中に通るんですけど、ここにも島津の大名がいたので島津一族の持ち分が大体南全般なんですね。
ここも島津文化なんです完全に。ところが宮崎市より北に行くと松阪分立国と言われている地域になります。
松阪分立というのは小さな藩が分けて立つということで、その名の通りです。
加賀藩、薩摩藩、仙台藩、森岡藩のような巨大な藩ではなくて、1万国から5万国程度の小さな藩がぽこぽこそれぞれの町を治めていた。
そしてこの松阪分立国は何が面白いかというと、現代においてもその町ごとのカラーが全く変わるから面白いんです。
それが残っているんだ。 残っています。
高鍋藩の歴史
この一番面白いところは文後の国です。大分県は松阪分立の典型を見ることができて、僕はすごくそれがいい国だと思っている。
そしてその文後の流れをやっぱり組んでいるのはヒューガの北の方なんですね。
ヒューガの国の北の方は延岡藩というのはちょっと一つ出た藩がありますけれども、延岡藩、高鍋藩、そして天寮幕府の持ち物ですね。
っていうのがあったりとか、お茶混ぜ状態になっていた。モザイク国家です。
っていうのの一つがこの高鍋藩なんですね。
じゃあこの高鍋藩というのはどういう藩だったかというと、これを収めていたのは秋月という家でした。
秋月というのは秋の月と書いて秋月というロマンチックなものでして、これは実は地名です。
そしてどこの地名かというと福岡の地名です。
この人たちは元々福岡蓄然の国の豪族です。
朝倉っていうエリアがあるんですけれども、ちょっとつまり福岡から太宰府を経てちょっと山の方に入っていくあたりですね。
大分との県境ぐらいにあるんですけれども、そこに秋月一族の発祥のところがありまして、そのあたりをずっと収めていた大名でした。
戦国時代は信長の野望、僕も福岡地域でいつも秋月でプレイすることもあったんですけれども、弱いんですね。
もうどうしようもなく秋月は。
途中の大友総理っていうとんでもないのが大分から攻めてきちゃったり、鍋島が佐賀から攻めてきたり、もうすぐ負けちゃうの秋月でやってると。
実際そうだったからって。
大友に滲められるし、島津は来るし鍋島はうるさいし、どうにもなんない大名だったんですけど。
その巧みに大当たりをして、どうにかこうにか福岡の小さな地域で生き抜いてきた。
その度に売られたりも結構するお騒がせ大名だったんですよ。
ただなんだかんだ生き残って関ヶ原の戦いの時も最初西軍として石田三成方についちゃって、ダメじゃないですかそうなると。
なんだけれども大垣城って関ヶ原の近くの城に建てこもってて、弱い大名だから留守番させられてたんですよ石田三成に。
とりあえず守っとけ大垣城、俺らは関ヶ原に来てやる、君はもう守ってなさいそこにって言われて。
ポツンって待ってたら、それが幸いにしたんですけど、関ヶ原で石田三成が負けたと。
やべえじゃんってなって、囲まれちゃったんですよボヤボヤした大垣城を東軍に。
どうするってなった時に、何人か九州の弱い大名がそこにいたんですけれども、みんなで語られて。
石田三成の親戚みたいなのが上司いたんだけど、こいつさえいなければ俺らは東軍に許してもらえるんじゃないかって言い始めて。
なんとね、どたんばになって関ヶ原の戦いが終わった直後に、西軍の大垣城を騙して捕まえちゃって東軍に引き渡して、やっぱり僕らは東軍が良かったですっていうことを言い始めて。
それで領地を安堵されたっていうね、お騒がせだいのが。
まあだから小さいなりに上手く立ち回って生き延びてるんだ。
そう、その前にも秀吉に借金を渡してそれで許してもらったりとかっていうね、何かと負けた方に、いつ負けた方についちゃうんですよ。
負けた方につくんだけど、その度にどたんばでいろんなことをしてね、どうにか生き残ったっていう不思議な家で。
なのでなんとも微妙な立場の大名だったんですけれども、結果的にはこのヒューガの国で生き残ることができました。
教育制度の革新
で、そうすると弱くてどうしようもないのかって話なんですけれども、江戸時代に入るとそうじゃなかったんですね。
これきくりお座さんでもちょっとね、紹介されてたんですけれども、高鍋藩のことを話すのにすごい有名なエピソードとして、高鍋で学者ぶるなっていうね、ヒューガのことばせがあるんですね。
これどういう意味だったか覚えてますか?きくりお座さんも話した。
きくり お座さん 勉強熱心な土地なんですよね。
そうですそうです。
きくり お座さん だからそこで学者ぶったようなことを言うと、本物がそこにいるからそんなことすんだよっていう話。
要はダサいお前が恥をかくぞと。
たださ、冷静に考えてほしいんですけど、さすがにさ、僕がナルシストなちょっと勉強できる秀才で鼻にかけてる奴だとして、前から図鶏とかをかぶった偉い先生が歩いてきたら、教授みたいなのが来たらさ、その前でさすがに僕はこれなりにできますよとは言わないと思うんですね。
見るからに学者先生に向かってはやらないよね。
まあやらないですよね。さすがに自分もプライドがあるからね。じゃあなんでそういう言葉が逆に生まれるかということなんですよ。
それっぽい人がいないというか、見た目でわかるような学者先生がいないということか。
そういうことです。じゃあその見た目でわからない学者先生は誰だったのかっていうのがこの高辺藩のすごいところなんですけれども、江戸時代中期から後期ですね。
高辺藩の第7代当主、秋月種重という人物がいました。この人はもう高辺の命君として非常に有名な人なんですけれども、なんで命君と言われるかというと、明倫堂っていう学校を作ったんですね。
明るい倫理の堂と書いてね。これまあよくありがちな名前ではあるんですけれども。ただ藩校、つまり藩が運営する学校というのは全国いろんなところにありましたから、別に学校を作っただけだったらそんな個性はないんですよ。
ただ高辺藩の明倫堂というのはすごい画期的なシステムを取り入れていて、それが高辺で学者ぶるなのが本当の意味なんです。何かというとこれは農民も入学OKだったんです。
身分制度に高齢しなかったの、この学校は。
そうか。だから一般市民に見えるんだけど、ちゃんと勉強をしている。
そう。高辺の農民は違うんです、他の農民とは。
武士と同じような教育レベルを持った知識層が農民だったり町民だったりするのが高辺の町だったんです。
だから居酒屋とかでちょっと地元の若いあんちゃんとかいるから俺の知識教えてやろうとか言ってると、そいつはお前が思ってるような何も知らない酔っ払いのあんちゃんじゃなくて、学者レベルのあんちゃんだって普通に高辺にはいたっていう。
そういうことか。 そういうことなんです、この本当の意味というのは。
だいぶ当時には珍しいことをするね。 珍しいですね。
似たような例があるとすると、以前土佐の山内家、土佐藩の家老深尾が治めていた佐川という町に名工館というところがあって、そこもやはり途中からなんですけど、当時は深尾家の塾だったのに、それを佐川の町民たちにも開放した。
だから牧野富太郎、酒屋の息子だった富太郎もそこで学ぶことができたっていう。そして佐川は人材の奉公になったっていうのがあるんですけど。
やっぱり当時どうしても文政党の中だと家柄というものがまず第一に来ますから、高等教育を受けられるかどうかというのもそこで決まる部分があった。
だから当然のことながら農民の中にも才能があった人はいるし、頭の良かった人はいるわけで、そういう時に広くこの秋月家、弱い秋月家を耐えていくためには、本当の人材というのを登用しなければならない。
っていうのがこの種茂の思想だった。だからこそ家柄ではなくて本当の才能を見抜くために、まずみんなに教育を施してテストをやって、その上で有用な人物をどんどん圧敵していこうっていう思想の持ち主だった。
町の発展と影響
なんかもうその思想だけで明確な感じするね。 そうなんです。そしてこの人はすごかったのはもう一つ有名な話があるんですけど、
同時に国を飛ばせるため、自分の秋月の領地を飛ばせるためにどうすればいいのかとなった時に、まずはやっぱり農民がちゃんと生きて暮らして豊かな国じゃないといけないと。
以前森岡藩はそれで天命の危機にしくじって大変なことになったって話をしましたけれども、貧しいと言われている農民たちがいかにしたらこの高鍋の街を気に入って、ずっとそこで豊かな工作作業に励んでくれるか。
っていうのが国の根本だとなった時に、農民たちの悩みは何かっていうと、子供が生まれるわけですけれども、その子供を食わせていくための資本力、経済力が残念ながらうちにはないっていう人もいたわけですね。
そうすると子供どうしちゃうかっていうと、まだいいのは他のところへ出しちゃう。村と他の領地、高鍋半寮以外のところに養子に出すとか、あるいは別地奉公に大阪に出しちゃうとか。
もっと悲惨な話で言うと、本当に悲しい出来事なんですけど、その生まれた子を殺してしまうということも実際にあった。
やっぱりそれは非常に良くないと。倫理としても良くないし、別地奉公にしても高鍋から人口が流出しちゃうというのはダメだというので、どうしたらいいと思いますか、こういう時。
補助を出すとかね。 そうなんです。本当にそういうことなんです。
今の子育て支援と全く同じで、高鍋班のこの秋月拓司は、農民に3人目の子供が生まれたら、米2合を1日に支給するみたいなね。
そういう実際のお米をね、班があげてた。それによってちゃんと子供を高鍋で育てなさいっていうことで、そういう子育て支援策を独自にやったんですね。
これ他の班では全然やってないことなんです。 いやもう本当だって今やってることと同じだもんね。
そうなんですよ。 だいぶ先進的だよね。 そうなんです。すごい先進的で、実地に立ったね、現実的な考えの持ち主だったんですね。
いやなんか偉いなって思ったな。 本当ですね。そのおかげでやっぱりね、高鍋という町はそれで栄えて、小さな大名にあることには変わりなかったんですけれども、
その姿を見ていた人たちが、やっぱり有用な人材としてこの後活躍していくんですね。
その代表が誰かというと、秋月種茂の実の弟、部屋住みつまり弟で家族を告げない弟がいたわけなんですけど、
その種茂の弟が後に山形米沢藩、上杉ですこれ例の、上杉に招かれ養子に入って、そこで党首になって、上杉陽山というふうに名乗った既代の命君になります。
これは教科書にも載ってます。江戸時代後期の反省改革というコーナーがいろいろあるんですけれども、その中の成功した例として米沢藩が上がるんです。
それを実質したこの上杉陽山は秋月種茂の実の弟です。なのでやっぱり兄の姿を見ていて高鍋がどんどん栄えていく様子を見ていた、その経験値を米沢に持っていったんです。
だからある意味その米沢の成功も、この秋月高鍋がなかったらそうはならなかったかもしれない。そして陽山は教科書に載ったんです。
そうか、だから高鍋っていうちっちゃい範囲で成功した例を米沢っていう大きなところでも実践して、それがもう日本に代表するような成功例になった。
そういうことです。米沢へ行くと陽山は神として崇められてる。
じゃあやっぱその種子は偉大だね。 偉大ですね。
じゃあズル賢いだけじゃない。
ズル賢くても戦国時代の人たちであって、時代が全然違う。江戸時代の皇帝なのね。というものがいるんです。
すごいな。
実際この高鍋行っていただくと、高鍋城はもう建物何も残ってないんですけど、二ノ丸文教歴史館という資料館がお城の中に建っていまして、これつい最近リニューアルしてきれいなんですけども、
ここにその秋月谷重だったり、その秋月家一族のいろんな歴史が語られています。同時にこの秋月は廃安地区でなくなってしまうわけですけれども、高鍋藩が終わった後明治になってもやっぱりその明倫堂で育った人たちがどういう活躍をしていて、高鍋にどういう人材が生まれたかっていうのを解説していて、
その中には一説には日本で初めて児童福祉施設を作った人もいるんです。岡山の方で有名な人なんですけど、その人もやっぱりその福祉っていうものに対する意識が高鍋藩は違ったと思うんです。
それは子育て支援するぐらいだから意識としてあるんだろうね。
というやっぱりこの小さな小さな城下町なんですけど、昌阪分立国に行くとこういうのが面白いんですよ。何気なく集まりそうな町にこういうすごい人がいるんですよ。
いや面白いね。
という高鍋という町、ぜひ餃子ずっと食べてるときついと思うので、そういった秋月谷重、餃子兄弟とかね、そういった人たちの先見性にもぜひ思いをいたしていただければいいかなと思います。
そしてね、ちょっと今日は先を急ぎます。結構北の方に宮崎の縦長をどんどん行かなきゃいけないので、車を走らせましょう。
マイズル公園から車で15分ほどさらに北行ったところにあるのが高鍋大師です。
これもね、菊餃子さんで言及されてましたね。
マイズル公園から車で15分ほどさらに北行ったところにあるのが高鍋大師です。
これでも確かに写真見ると日本じゃない感じするな。
高鍋大師のプロジェクト
マイズル公園から車で15分ほどさらに北行ったところにあるのが高鍋大師です。
マイズル公園から車で15分ほどさらに北行ったところにあるのが高鍋大師です。
マイズル公園から車で15分ほどさらに北行ったところにあるのが高鍋大師です。
マイズル公園から車で15分ほどさらに北行ったところにあるのが高鍋大師です。
マイズル公園から車で15分ほどさらに北行ったところにあるのが高鍋大師です。
この方がちょうど29、30なんで我々くらいの時に四国88箇所ってあるじゃないですか。
あれを巡ったんですって。
そしたらそれに大変感化されて素晴らしいことだという風になって仏教へ、特に神言密教ですよね。
空海さんのね、への信仰というのを持った。
ところが一方でこの地元に帰ってきてみると南九州は廃物希釈が特に激しかったところなので
仏教神って結構失われてたりするんですよ、この時代。
というのもあったりとかでなかなか帰り見られてない荒れ果てているというのも悲しいんで
こんなことじゃダメだからちゃんと88箇所の素晴らしさをみんなにも知ってほしいし
それを気軽に体験できる場があるべきだということで
大分県文後の国の埼玉というね、本当宮崎の県境なんですけど
ここから腕利きの石の匠たちを招いて
あるいは南の方の清竹っていうところに、これ宮崎県ですね
の石材をあるいは持ってきて、その大工さんと石を持って
そこで四国88箇所の仏さんを実際この山の上にね、建てていこうと
いうところからこのプロジェクトはそもそも始まったんです。
歴史的背景の掘り下げ
ミニチュアみたいなことを。 これそうなんですよ。
意外とねこういうのは結構あって、88箇所になかなか行きたいけど行けない人のために
東京とかでも同じ神社の中で88箇所のミニチュア版があって
それで行くと同じ仏が得られますよっていうのはある文化ではあるんです。
それをこの高鍋でやろうとしたという、最初はそれだけだったんです。
どころがこの人はそれをやっていたんだけれども
後々その大工さんから自らその彫刻の技術というのを教わり
かつ途中から実際に信仰宗の僧侶になって
お坊さんになった上でなんと自ら700体以上の石物を掘り出していったんです。
700、すっご。
じゃあ88箇所をやった上でなんでその後で700も作んなきゃいけなかったのかということなんですけど
これが面白いところでなんとねこの高鍋大使が建っている丘っていうのは
これもやはり古墳なんですね。 丘自体が。
丘の周りに古墳がたくさんあって
これは餅田古墳群っていうまた別の古墳群なんですけれども
その古墳の丘の上にこれが建っている。
なぜかというと古墳というのはそういうわけで
昔の権力者たちの墓なわけなんですけれども
洞窟にあっちゃうんですね。 泥棒がね。
服装品とかで当時の宝石とか貴重なものがどんどんあるわけで
それを盗んじゃう人がいたんですよ結構悪い人が。
実際にこの餅田古墳群もそういった洞窟が相次いで
ただそれはあまりにもそもそも服装品というのは
古墳の被葬者のためにみんなが持ち寄って入れたものだから
それを盗むのだったら言語道断でかわいそうだということで
その人たちの供養をちゃんともう一回しようとその被葬者たちの。
なのでその餅田古墳群たちに埋まっている何者かの供養のためにもって
石物をたくさん古墳に越しられてあげたというのがこの700帯あるゆえんなんです。
すごいね。何も知らない先人に思いを寄せてるんだね。
そうですね。やっぱりこの方のすごい真摯なね
信仰心というかあるいはそういった事前事業というかね
そういったものをやっていった。
裁判年70を越してかららしいんですけれども
やっぱりもうそれだけやってると最初だからもうほんと素人がやってる感じなので
すごく凝った石物ではないかもしれないんだけど
逆にちょっとやっぱりどことなく味のあるね。
ちょっとトーテムチックなものがありましたけれども
こういったものから7メートルを越す巨像。
信仰密教のやっぱり巨像ですね。
っていうのも手掛けていきましたので
実際にこの写真映えもすごいするスポットになっているわけですね。
だからもうほんといわゆる仏さんではないもんね。
そうですそうです。
やっぱりこれもどことなくね
サイトバルの広告博物館に行った後だと
南九州にいたハヤト、これ薩摩の方の人ですけど
とかっていう独自の信仰文化を持っていた人たちのことも
ちょっと意識してるんじゃないかなって思いますね。
これすごい写真綺麗ですけれどもね。
優秀だね。
これ朝日かな東側の。
わかんないけど。
これね丘の上にあって高鍋屋そういうわけでキャベツとかがたくさんできる平野ですから
先にねヒューガナダの海岸線がブワーって見えるんですよ。
なので絶景スポットです。
お昼行っていただくと本当にこのトーテムみたいなね石物越しに
もう青いねヒューガの海がすっごい綺麗に満ち込んできますので
そのだけでも楽しいですね。
この写真もねシルエットが独特で面白い。
そうですよね。
ちょっとなんかロボット感もある感じでね。
へえ。
というスポットになっているのでね。
ぜひ高鍋本当に素晴らしい町ですので
歴史的にも文化的にも絶景という意味でもね
それぞれ回っていただければいいのかなと思います。
そしてねここからちょっと別のパートに入っていきます。
今回はですね歴史も結構大きなテーマになっているというお話をしたんですけれども
実はこのヒューガの国の北部というのは
大きく分けて古代、中世、近代に
それぞれ非常に重要な歴史の転換点の舞台になったところなんです。
それぞれ。
それぞれの時代の。
そのお話をちょっとこの3日間に分けてね話していきたいと思うんです。
戦国時代とか好きな人は知ってると思うんですけれども
今から行くところというのが
高鍋からさらにちょっと北の方に車で20分ほど行っていただく方にある
高錠跡というところです。
高錠というのは高い低いの高い。
高錠という城なんですね。
戦国時代の話になるわけなんですけれども
この高錠というのは何が起こった舞台かというと
1578年、これ天正六年になりますので
これまでの話で言うと
上杉謙信が亡くなった年です。
武田信玄が亡くなって5年後、上杉謙信が亡くなる年
そして武田家が滅亡及び本能寺の辺はこの4年後になります。
この時に耳かわの戦いという
耳はもう体の耳ですね。
耳かわの戦いという超一大決戦の起こった舞台になります。
知らないな。
これは教科書には載ってないと思います。
戦国時代が好きな方は絶対知ってます。
いわば古戦場にあたるんですね。
なので歴史の興味ないよって人は飛ばしてもらってもいいんですけれども
ちょっとこのヒューガの文化を考えるでも
この戦いは非常に大きな意味を持っているので
今回はちゃんと話したいと思います。
耳川の戦い
この高錠というのはどういうところなのかというのを見ると
ちょっと地図で見てみましょうか。
今このGoogleマップで高錠和都を見ているわけなんですけれども
この城のある条件を見てほしいんですね。
そうすると北にも川がありますね。
そして南にも川がありますね。
つまりこれどういう城かというと
この南北の川の間の断崖に立っているんです。
これ同じような話で言うと
カイ・タケダ・カツヨリが築いた神父城なんてのも
すごい川の中に崖に立っていましたけれども
要は攻めにくいんですよね。
北からも南からも攻められても
天然の堀があって要害になっているよという地勢になっているわけで
これがある意味ヒューガの宿命的なところでもあると思っています。
これさっきの秋月の話と近いんですけれども
ヒューガの国っていうのは伊東一族っていう
それなりの大名がいたんですけれども
これは九州全体で見るとまだ全然勢力の弱かった大名なんです。
ヒューガの国というのは北の文後
南の大隅薩摩から
強大な二つに囲まれてたっていう状況になっているので
常にその二つから狙われているような状況になっていた。
結構厳しいね。
厳しいですね。
なのでこの高城の地勢というのは
北からも南からも対抗できるようにいっている
ある意味象徴的な気もするわけです。
対抗してね。
実際今ここ行っていただくと
この崖の上まで車行けますので
行っていただくとその上から
この周りの原っぱ、川の状態だったりを見ることができますので
その当時の人がなぜここに城を築いたのかというのがよくよくわかると思います。
ぜひこれ見てほしいのはやっぱりその高城のあたりも古墳があるんですね。
あるね横に。
だからやっぱり同じことを前の人も考えたんだと思います。
なるほどね。
昔は縄文時代とか海がもっと高かったですから
平野はずんど海に沈んでいっちゃってるわけですよね。
そういう中でこういった小高いところだけが地面に現れていたのでここに古墳を作ったと。
いうわけですね。
そして
耳川の戦いの話をちょっとするわけなんですけれども
耳川の戦いは起こったのは1578年の冬です。
これは誰と誰が戦ったものかというと
文後の国大分県の大名大友宗林という人
これは教科書に絶対あるという人です。
と薩摩の国の守護大名島津義久
この2つが戦った戦いです。
なるほど。
宮崎駿河の家は関わってないというか
ただ間にいたから戦場にされちゃった。
そういうことです。
はっきり言うと。
これなんでこんなことが起こっちゃったかということなんですけれども
その当時の九州はどういう状況だったかというと
この大友宗林というのはすごい人だったんですよ。
いろんな意味で。
何かというと
大友家というのは
代々文後の国大分県南部の守護大名島としてずっとある名族でして
今の大分市の辺りを本拠地にしていました。
宗林はその後薄木っていうちょっと南の町に行ったりするんですけど
いずれしろ文後の国です。
文後の国の一国の大名島だったにも関わらず
その後どんどんどんどん周りの小さな豪族を打ち果たしたり
従わせたりしていって勢力を拡大して
文後、武前、これは小倉の方ですね。
蓄前、福岡、秋月がいたところです。
蓄後、久留米。
秘前、佐賀の方ですね。
そして秘後、熊本の方。
要は宮崎、鹿児島以外の九州の大部分をこの大友家が治めていたんです。
そんなすごいんだ。
そう、もう九州の覇者ですね。
なんでこんなことやってたかっていうと
大友総理というのはこの時もう相当の年だったんですけど
キリシタン大名としてこの人乗ってるんですね。歴史の教科書に。
フランシスコ・ザビエルとかと会って
かなり早い時期に会って
キリスト教の布教をいち早く認めた人だったんです。
だから南蛮防衛機とか
大分の港には当時からどんどんどんどん南蛮船が入ってきて
そこで大砲とか鉄砲とかすごい最新兵器をどんどん持ってきてたんです。
だからそういう意味でもすごい経済力も資本力も
そして軍事力も非常に強い人だった。
これで九州の敗北した側という人物。
なるほどね。
ただ北部九州ですね。
大友家のほぼほぼ持ち物だったんですけど
南はそうじゃなかった。
南の薩摩には島津家がいたわけなんですけど
これは内紛とかもゴタゴタしてて全然最初は大きくなかったんだけれども
島津義久という若手のすごい英雄が出てきて
薩摩と大友の軍勢の対立
兄弟がすごい仲良い兄弟で力差のめっぽう強い兄弟が何人かいて
その兄弟みんなで力を合わせて徐々に薩摩から北上しようとしてたんですね。
そうすると大友と必然的にぶつかるわけです。
そのぶつかる場所はヒューガになるわけですよね。
そもそもは大友の方が圧倒的に優位なので
ヒューガの国の伊東一族というのはいたんですけど
その人たちは大友と縁石を結んでいました。
つまり大友の親戚だったんです。
大友の親戚なので実質ほぼほぼ大友の支配力が及んでいたんですね。
ところが伊東一族は大友の軍事力をバックに島津と戦うんですね。
ところが島津は弱かったはずなのに
非常に俗人的な力で強かった戦い。
伊東が圧倒的に身読みだったにも関わらず負けたんです。島津に。
伊東どうなりますかと言うと南から攻めて来られるので
そしたらどこ行くかと言うと当然文豪の大友に助けを求めます。
伊東は結局宮崎を追い出されて大分に行くんですね。
大友総理に一見して何とかしてくださいと。
ヒューガが取られてしまうので
大友の指揮系統の乱れ
マジで島津をやっつけてくださいっていう風に言って
そしたら仕方ないなってことで
大友総理には3万とも4万とも言われるっていう台風を
文豪あるいは飛行あるいは地区を要は北部九州から独属と集め始めて
それを一気にヒューガに向かってたんです。
でもそれで一気に島津を頼り上げて
九州全土お前は自分のものにしたかったんだと思うんです。
っていうものが出てきたんです。
伊東たちもみんな喜んで
伊東もそもそもヒューガにずっと長くいた人たちだから
あの大友が本気を出してくれたと。
みんな伊東の残党たちを立ち上がれっつって
島津に続々と無法を起こさせて島津に対してね。
ヒューガの国だから伊東新派の生き残りみたいな
どんどんどんどんゲリラ戦を展開していって
島津はそれをどうにかしなきゃいけない中で
大友総理の本体が大分から攻めてくるという状況になって
もう誰もがこれは島津は終わりだと思っていたんですよ。
実際に大友はこの高城というところに
島津のその兄弟の一人がいたんですけれども
これを北から攻めてきて
この城をさっさと取っちゃおうとしたんですね。
ところがそういうわけで島津は島津で
非常に武将としての力が強かった。
ので大友が国崩しって
武装の大砲を仕掛けたりもしてるんですけど
なかなかどうにかこうにか
瀕死の状態でずっと持ちこたえてる。
この高城の島津というのは。
で大友はそれで仕方ないから
この北側の川のあたりに陣を張って
そこで降着状態に陥った。
で降着状態に陥っても
いずれはこの高城落ちてしまう運命にあったんですけれども
ここで問題になったのは
大友家はあまりにも巨大勢力すぎて
僧侶自らはもうね
軍事の指揮を取ってなかったんですこの時。
この時後で話すんですけど
僧侶はこの戦場に来てなくて
延岡の方にずっといて
そこでね別のちょっと問われ作業をやってたんですね。
だからもうこの辺は家臣に任せきりだった。
まあでかすぎてもう。
現場のやつらに任せてたよと。
俺にはもっとやることがあるんだと。
っていうことをやってたら
巨大勢力の常なんですけれども
内奮を起こすんですね。
その戦の舞台の中で。
要は島津人数は多くないとはいえ
強いから
ここで軽はずみにやっちゃうと痛い目を見る。
いくら大友が強くて大砲を持ってると言っても。
っていう人と
いやいや島津なんて鷹が知れてるからみたいな。
もううちらの大友の力を持ってしたら
そんなの関係ないから。
はっさとむしろ切り開いちゃって
島津の援軍がどんどん集まってくる前に
あいつをぶっ潰しましょうっていう派に別れちゃった。
で、大友僧侶がいれば
その時にお前こうしろっていう風に
命令を下してそれで終わりだったはずなんだけど
僧侶がいないんですね。
なので代理の人みたいなのがいたんだけれども
代理の人は
家臣の一人でもあるので
明確な仕組みではないから
どうしようどうしようみたいな。
中間管理職みたいなものが総大将になっちゃったんですよ。
ああそうか。だから
決断しづらい部分もあるし
それで決断出したところで
従ってくれるかどうかもわからないから。
そういう状況。
かつとある事情によってこの時大友は
家中で揉め事が多かった。
巨大勢力な分なんだけど
とある理由によって
とんでもない仲が悪かったんです。
大友の家中っていうのはめちゃくちゃ。
どうしたかと言うと
島津はその今日ついたんですね。
つまり圧倒的に大友の
大友の大群がいたんですけれども
この下の南の方から
薩摩川から来るので南の方から
尾丸川というのを渡って高城を助けようとする。
耳川の戦いの展開
でも大友の軍勢がひしめいてるわけなんですけれども
どうしたかと言うと
島津は少ない人数で
多い勢力を打ちのめす
っていう戦いをずっとやってきた人なんで
作戦に非常に優れてるんです。
これで次の武装って有名な戦法があるんですけれども
要は島津の一軍の
ちっちゃな部隊が
この川を渡って大友にちょっかいを仕掛ける。
大友にちょっかいを仕掛けて
島津も島津で鉄砲たくさん持ってますから
バンバカバンバカ打ち鳴らして
派手にやって
それで大友が気づくと当然大友が
その島津に襲いかけてきますよね。
そしたらすぐにこの川が逃げちゃうんです。
もう一回南に引き下がっちゃう。
そうしたら大友は怒って追ってくるわけですね。
そしたら
この尾丸川って川の茂みに
大量の鉄砲隊とかを隠してあるんです島津は。
なので
そのちっちゃな部隊だと思って追ってきた
大友の軍勢を
挟み撃ちにこの川から奇襲するんです。
ていうことを島津は
いろんなところでやるんですこれ同じようなことを。
なるほどね。
ちょっと突いておびき寄せて
投げから襲うみたいな。
それはなぜ
できたかっていうと大友は数万人の
大軍だったんだけれども
戦慎重派と積極派に分かれてた。
慎重派だったんですよ
その中間管理職の大将みたいなの。
どっちかずっと。でも積極派だから
不満を持ってたフラストレーションが溜まってた。
そういう時にわけわかんない島津のちっちゃな
馬鹿みたいな部隊が起こってきたから
これ俺らが勝手にやっちゃおうと。やったらもう
さすがにうちの大将も引き摺り込めるから。
規制事実先に作っちゃいましょうこれで。
島津に攻撃を仕掛けて。
なんでお前勝手な命令してるんだって言われたら
いやあっちから行ってきたんです。っていう風に
行っちゃえばいいやって言ったんですよ。その積極派の部将が。
そうか。だからおびき寄せやすい
状態にあったんだね。
そう。内部分裂をしてるっていうのをわかってたと思うんですよ。
だからその積極派の部将が
むしろこれいいチャンスだと。
大友全員を戦に引き摺り込めるチャンスだ
って思ってさっそうと
川を渡って行っちゃったんですね。
そしたらいつの間にか包囲されてて
めっちゃ島津がいると。
でその積極派の一部しか出てこなかったから
大友の大軍の中でも
一部の部将しか出てきてないので
それを見てみると実は島津と
大して兵力変わんない。
だからむしろ島津の奇襲の方が
効いてそこで大友のすごい猛将が
何人かいたんですけどそれはみんな死んじゃったんですよ。
でそうなってみると
大友は慌てだすんですよ。
いよいよこれどうなってんの。
なんで戦起こってるのそもそも。誰だよこれ勝手に攻撃仕掛けたの。
で大混乱になってるときに
ピンスだと思ってた高城からも島津が
撃って出て
後ろからも襲ってくる。
そして大友がもうわけわかんない混乱してる中に
島津の本体も川を本当に渡ってくる。
ていうのでこの
高城の城下の川を挟んだ原っぱで
大激戦が起こったと
言いつつ激戦というか
ほぼ大友は大混乱で
何が何かよくわかんないまま島津にやられてる。
ていうのでみんな逃げ始めるんです。
でどんどん
どんどん北の方へ逃げていった結果
この耳川の戦い
ていうのが有名な名称なんですけど
耳川というのはここには実は
なくてどこにあるかって言うと
これ地図どんどん北へ行って上がってもらっていいですか
どんどんどんどんもっと
乗って行ってください。
全然北だ。
そう。
めっちゃ遠いじゃん。
車で行くと1時間くらいかかります。
耳川の戦いていうのがあまりにも有名な
名称なんだけど
戦闘が起こった現場はこの鷹城なので
車で1時間くらい南なんです。
これどうしてわかりますか。
追ってったの。
そう。
島津はねやっぱすごいんですよ。
一瞬の機を逃さずに
大友が差を乱して逃げていく。
特に大群だとさみんなが逃げてるから逃げちゃおう
よくわかんないけど。
大群だからこそ逆によもろかったんです。
そもそも仲悪いし大友の仲だと。
ていうのでみんな大分に帰ろうとするので
逃げていって逃げていってっていうのを
島津はもうこれ潜在地区の
攻撃だからってずっと追っかけていったんです。
執念すごいね。
すごい距離だよこれ。
すごい距離だよ。
皆さん地図見てくださいね。
鷹城から耳川までどれくらい
距離があるか。思ってる以上に遠いですよ。
これ日本の歴史の戦いを
見てもこんなのほとんどないです。
そして逃げていった大友勢が
立ち往生してるところに島津が襲いかかってさらに。
見たら耳川
結構川幅が
広いから渡るの大変ですもんね。
そこでさらに
大友の新潮派だった
有名な軍師とかもいたんですけど
それもみんな死んじゃったんです。
耳川渡れなかったんですね。
そのダメージがあまりにも大きいから
耳川の戦いとして後世に伝わったんですけど
主戦場だからこの2つに
分かれてるんです。
ただ鷹城攻防戦に
大友が失敗したのがそもそもの原因なので
こっちで実は耳川の戦いは
実際起こってるっていうのは
ぜひ押さえておいてください。
すげーな。
キングダムみたいだね。
そうそうそう。ああいう本当に感じありますね。
なんかその配置とかで
上手いこと戦略ねって
不利な状況なのに勝つっていう
揃えっぽいね。
これぜひねいずれ鹿児島の機会話すとき
あったらねこの島津のやっぱり独自の
戦法なのでなぜそんなことができて
これをいろんどこでやって関ヶ原でもこれをやって
島津はもう敵
遠くに囲まれてもう終わりだってときに
突然徳川家康の前を素通りして
鉄砲を打ちかけて帰っていく
っていうことをやって
っていうことを不思議な人たちなんですけど
そういう特殊な人種なんです。
うまいんだね。
なのでねこの鷹城に話を戻すと
耳川の戦い
戦場って今書いてますけど
その上にね創林堡
供養塔ってありますよね。
これはつまり大友創林
創林はいなかったんですけど
大友勢の供養塔ってことです。
島津側の
これを建てたんですけれども
戦国時代の島津と大友
島津はその戦が終わった後にこの地を
手にしたので大友勢があまりにも
ここで多く死んだのでそれと
もちろん自分たちの島津の犠牲になった
人たちもここにまとめてねこれを
供養してあげるっていう塔がねあってね
ここ戦国時代の秘文が
残ってんですけどそこにはね
あの非常に面白い名文
として知られている文が刻まれていて
日本は東と西に分かれるが
東と西というのもどこから
見たら東と西かなんて分からない
つまり我々島津は西の端に
いるわけだけど島津にとっても東は
あるし西もあるわけですよ。で
東と西が人間が勝手に作り出したものならば
南と北だって実際そうだ
だから南と北の
区別をつけずにここで皆さんが
魂が安らかになってほしいっていう
っていうねすごい名文が戦国武将が
書いてるんですけど島津型の
この高城の城主で守っていた武将がね
それを書いたっていうね
戦国時代の名文として知られるものが
ここに現存してます
頭いいんだな
島津の人たちはそういう人たちなんですよ
なのでこの
創林堀にはそういった供養とか残ってる
これも原っぱと書いてあるですね
へえ
面白いな
なのでこの辺りから
薩摩系の文化と文後系の文化の
境界になってくるんですよ
実際ぶつかり合った場所だからね
そうそう
必然的な知性にあってて実際
食文化ですとか方言とかも
文後系の延岡系の北方の文化と
都の城系の文化って全然違うんで
今回は文後大友勢のいた方の
文化だけしか触れられない
へえ
なるほどね
うん
というねこれちょっと戦国時代のかなりマニアックな
話ですけど今のその
宮崎県の文化の違いとかにもね
結果的にはこの戦いの
もし大友が勝ってたらそもそも
島津は滅んでたかもしれないので
九州はすべて大友のものになったかもしれない
そしたらそもそもね
全然また違った風になっちゃったと思うんですよ
ヒューガーの国がね
大友国家になってたかもしれない
いたしたら九州全部がそうなってたかもね
可能性は全然あると思うんですよ
その大手をかけていたぐらいの人ではあった
ちなみにその後ね
大友はやっぱ衰退していってしまって
結局は島津が文後へ逆に攻め入ろうとして
ただその時に
豊臣秀吉が大友と結託して
九州征伐をして
島津は負けて大友は過労死で
文後だけは保つことができた
っていうのが後の話になる
大友家の宗教戦争
さっきから何か匂わせてるんですけど
大友というのは何で
巨大国家で九州征伐に
大手をかけてたのに仲が悪かったのか
ということなんです
これがね実は大きな問題になってくるんですけれども
そのちょっと理由を
ちょっと探りに行きたいと思います
高城の後からですね
車で1時間ほど
やはり北の方に耳川の方に行くんです
行きますと
妻谷大正軍神社
というものがあります
行政句名で言うと
さらっと実はこれ延岡市にもう入ってます
かつ延岡市の中心市街地を
素通りして延岡市の
ちょっと北の郊外にまでもう行ってます
延岡の中心市街地は翌日
しっかり行くので一回飛ばします
でこれはね
観光ガイドブックに一切載ってない
ただの本当の街の神社なんだけど
なんでここを訪れるかっていうと
これこそが大友僧麟
本寺の跡地なんですね
つまりちょっと毎回地図
見てほしいんですけど
高城でその激戦が起こっているのが
僧麟はどこにいたのかって話なんですけど
なんとねその耳川をさらに超えて
延岡どこにあるかわかりますか
そう
そんなところにいたんですね
横川がこれか
高城はもっとずっと
南ですからね
ここだよね
つまり大友軍というのは延岡から
高城の方までこの長い道にね
バラバラバラバラいたんです
これがだから負ける原因も一つになってるわけですけど
なるほどね
なんで僧麟も延岡なんかでずっと
タムロしてたのかって話なんですけど
彼はねこれは本当に
大友僧麟っていうのは難しい人物で
もう明君か安君かきっぱい評価は分かるんですけど
政治的経済的には
九州制覇に大手をかけたぐらいの
実力の持ち主ですから
間違いなく優れた武将であったんですけど
彼には非常に大きな欠点があった
それは何かっていうと
キリスト教に入れ込みすぎたんです
ああ
でもなんか
そこまでの弱点なのかなっていう気はするけど
そうなんです
むしろキリスタンと仲良くすることによって
南蛮戦貿易大砲を手に入れてっていう
もちろんメリットも大きかった
でそこでとどめておけばある意味良かったんだけど
僧麟は本当に
キリスト教の信仰を持った
別にそれは悪いことじゃないんですけど
それを極端にやろうとして
大友の国家というものを
本当のキリスト教国家にしようとしたんです
ところが大友というのは
そもそも別にキリスタンでも
なかった人たちもたくさんいるわけで
獣神たちにむしろ神とか仏を
信仰してる人たちもいっぱいいたんです
そもそも大友僧麟なんて言ってるのは
これ仏教の名前でして
僧麟は本当は義重って言うんですけど
1560年代一度出家してるんです
お盆産になってるんですよ僧麟
それで僧麟って言ってる
その後にやっぱりキリスタンになります
って言ったんです
これはおのずと大問題になるのは
なんとなくわかるんじゃないかと
まあまあ個人でやるのはいいけど
でもこれだけ大国の
長が宗教を変えて
しかもそれを浸透させようとすると
反発はでかいだろう
そうなんです
僧麟とともに出家した有力武将たちも
いっぱいいたんですよ
だから大友家のこの時期の武将には
お坊さんの名前の人が結構多いんです
彼らからしてみたら僧麟が
出家するって言うから自分も出家したのに
やっぱりキリスタンになりますとかは?みたいな
ってなって
でもキリスタンはやっぱり素晴らしい
キリスト教はすごいなってことをみんなに解いて回る若手の武将もいっぱいいる
そういう奴らがなおさら老心だと
言うんですね
いわばこの大友家長において
宗教戦争が起こったんです
ちょっとなんか思わぬところだと
そう
こんなのはなかなか大友だけなんですよここまでなって
場所柄もあるだろうしね
大きい大国だし
実際文豪府内今の大分市には
本当にキリスタンたちの先頭者たちの
教会とかもたくさん建ったりしていて
本当にそういうのになってる
ただ大友のやっぱり本拠地ですね
それをやるとうるさいんですよ
その反対派たちが
っていうんでどっか
本当のキリスト教国家を作れるところはないのかと
自分の理想とするキリスタンの
平泉みたいなもんですよ
あれを自分もキリスト教のために作りたい
そこに本当のキリスト教の
理想の国家を作りたい
そしたら南の伊東が逃げてきて
あそこがらあけになってるらしいじゃないか
っていうんで
とりあえずその手がかりに
延岡あたりに風光明媚な
土地があるからそこに
キリスト教の国を作ろうって思って
総理は
戦は家臣に任せておいて
そこに本当にキリスト教国家の
建設を始めたんです
それがこの延岡なんです
でもだいぶ入れ込んでるね
だいぶ入れ込んでる
これは非常に悲しい話でもあるんですけど
当時ルイス・フロイスって
これ歴史の中に載ってる戦況誌ですね
絶対載ってますこの人
が総理に対処してるんですやっぱり
戦況誌たちもみんな
国家の建設に見に来るんですね
それは自分の宗教だからね
だから総理は英雄だって書かれてるんですよ
その反対派の奥さん
総理は奥さんは神仏の派だったんですよ
夫婦も仲悪い
ベタベタなんですよ
その夫婦の奥さんのことは
みんな戦場で悪魔って書いてるんです
イザベルっていう悪魔の女神のことを
あだらに使って
あのイザベルがまた英雄である
総理にうるさく言ってる
それに加担している老神英威は
あれは機大の独舌か魔術師だとか
っていろいろ書いてあるんですけど
総理の英雄で
彼こそが世界を救う
って書いていて
延岡にその国家を作ると
総理にも徹底しているので
どうしたかと言うと
ヒューガの国に受け継がれていた
お寺とか神社とかを
根こそぎ破壊していくんです
この時に
もうちょっとねうまくやれればね
そう
文語ではできなかったなとさすがに
本国では だけど人の土地でもやってもいいかなと
なるほどね
どうせしかも今 焼け野原になっちゃってる島
っていうんで
ヒューガの国の北部の実は
自社仏閣の資料とかは
大友総理のキリスト教問題の時に
資料はほとんど失われたんです
だから実は記録がほとんど残ってません
この辺の地域っていうのは
そこで
自社とか破壊して
その財物とかを逆に教会の建設とかに
使っちゃって
本当に建てたんですよ
ってやっててようやく完成するな
って思ってたらなんか
部下たちが南からめっちゃ逃げてくるんだけど
なにこれみたいな
シマウスが耳かわまで来てるみたいな
あわてて文語に帰った
総理も
結局このキリスト教国家は幻のまま終わったんです
なるほどね
なんかその
大国だからこその問題になったんだろうな
っていう気がするね
あとはこの時代
たぶんこれが鎌倉時代でこんなのなかったんです
これが入ってきた外来文化と古かな文化の対立
それは大友総理って
俗人的な一人の英雄であり
安君でもあったかもしれない
この人によって起こってるっていう
もうこの条件でしか起こり得ない宗教戦争
みたいなのが大友の価値で起こってた
実際
無鹿の由来
ちょっと見ていただきたいのが
この爪谷大将軍神社があるのが
どこかというと
延岡市無鹿っていうところなんです
無鹿
ここ無い鹿って書いて無鹿って書いてあるんです
これ不思議な名前じゃないですか
これはなんか
無鹿とかと
なんか近い感じするな
無鹿ってどういう意味ですか
音楽ですよね
そういうことです
これは諸説ありなんだけど結構有力な説として
ラテン語の音楽からつけられたっていう
大友総理がその理想郷として
この無鹿って名前つけたっていうんです
まあそうだろうなって感じはするよね
日本語っぽくないもん
明らかに語感がおかしいですよね
そういうところなんです
総理もそもそも若い時に
文豪に訪れた先頭者の
ヨーロッパ音楽を聴いて感銘を受けた
っていうんです結構
高千歩と日本神話
芸術家でもあったんですよ総理って
だからそういう感性がやっぱりなんかあったんだと思います
それで聞いたことのない
オルガンとかの音楽を聞いて
それに何かを見出したらしい
だからその音楽ってのは彼にとって非常に大きな存在だったんだと思うんです
で無鹿って
勝手に地名をつけちゃって
ここにキリスト教国を作ろうとした
そこに本陣を置いて
だから戦をしに来たんじゃなくて
彼はキリスト教の建設をしに来たんですね
いろんなものを
っていうのが残ってるんです
なので実際ここ行くと
もうそんな何も残ってないんですよ
総理の遺跡は残ってないんですけど
このまず高城からの距離感
異常な戦線の長さなんですよ
大友軍の当時
この異常性って何で起こってたかっつうと
目的の違う人たちがいっぱいうらうらいたから
あー
へー
だから前線の武将たちも
軍師とかお坊さんだったので
モチベーションが非常になかったとも言われてます
まあそりゃね
これで大友のために勝ってもどうせキリスト教国家を作るから
うちの殿様は
だったら勝っても意味なくねっていう風になって
あんまりやる気がなかったとも言われて
はーそうか
まあやっぱり今以上にね
宗教っていうのは結構
大事なというか
政治的な問題
そうですね
っていうのがあったっていうので
ちょっとなので
飛ばしてもいいぐらいのスポットなんですけど
ぜひ宗林が本陣に行ったっていうのは
高城に行ってから行くと
距離感とそして風光明媚な土地だから
っていうのが一つの理由だったと言うんですが
実際ここはね北側っていう川が流れていて
それが旧金沢に注ぐところなんですね
はいはいはい
なんでこの河口のあたりにね
どういう国を夢見ていたのかっていうのも
あるんじゃないかと思います
なんかね一個ぐらいその教会とかが
残ってたらね面白かったけどね
うんうん
はいというねちょっと
マニアックなんですけどねやっぱりこのヒューガでしか
起こりえなかった歴史の痕跡というものが
ここにあるわけです
というわけで一回耳川の話はこれで終わりにしたいと思います
神楽の魅力
そしてねもうこれで多分夕方になっていますので
ホテルへ向かいたいと思います
爪谷大正軍神社
つまり延岡から来るまで
50分ほど西の方に行きます
山の中に入っていくんですね
そして今日目指すのは
高千歩です
7時頃に
高千歩の中心部のホテルに
チェックインすることを目指してください
高千歩というのは
町としては小さい規模なんですけれども
高千歩神社に代表されるような
観光地でもあります
その中心部である三大っていう地区には
それだけのホテルはあります
が多くはないので
必ず前もって余裕を持って
調べてもらえるといいかなというふうに思いますが
三大近辺のホテルに
行ってください
三大のホテルにチェックインをしましたら
この後ちょっと実は大きなイベントが
あるんですというのは
この高千歩というのは
実は日本神話
古代の神話ですね
の舞台として非常に有名なところになっていて
神々が
宿っていた町だというふうなんで
今名高いところになっているわけです
なのでこの高千歩オリジナルの文化が
すごく含まれているんですね
それの象徴になるのが
四神楽です
これね高千歩神楽といって
伝統的な神楽で
文化としてすごい大切に保存されているものになるんですけど
これ何かっていうと
翌日詳しく話すんですが
高千歩に
代々伝わっている神話を
テーマにした神楽を
奉納するんですが
通常であればこの高千歩町の中の
各集落の公民館とかで
秋の11月から
年を超えて2月くらいまでに
三発的に奉納される神楽なんです
築くごとに
なんですけれども
非常にこの神楽自体も魅力があるということで
高千歩の町自体が
これを観光客の方向けに
上演をしようと
その集落のために行っているものとは別に
それを
この高千歩町の中心である
神楽伝ってところがあるんですけれども
そのお堂の中で
毎日夜8時から
人数を絞って
この神楽を観ることができるんです
毎日やってるんだ
ということで
実際見てみようと思います
台本に戻っていただいて
youtubeのリンクを貼ってありますので
どうでしたか
神楽と言いつつ
ストーリーとかもありそうだったし
見てて
わかりやすそうな気がしたね
そうですね
その通りです
高千歩神楽というのは
日本神話をモチーフにしているという話はしましたけれども
神楽って日本に
いろんなところにあるわけなんですけど
高千歩神楽の
僕が思う特徴としては
すごく親しみやすいんですよ
高千歩神楽って
実はプログラムは33個ある
33番
本当に集落でやる時は
夜通しぶっ続けてるんですよ
もう祭礼なので
徹夜してやるんです
ところがこの高千歩神楽の
観光客向けの
プログラムにおいては
特に有名なストーリーというのを
抽出して大体1時間くらいで上映してください
特に有名なのは
今見てもらった場面で
男の人が
岩みたいなものを
持ち出して中に鏡が置いてあった岩を
どうにかこうにかしてた
場面があると思うんですけど
これなんだかわかりますかね
そんなわかるようなものなのか
日本神話の
一つの名場面なんですけど
天寺大神が
岩に隠れてしまった時に
それを何とか出そうとしてっていうような
天の岩と神話っていうのがあるんですけど
それの場面だったら
なるほどね
この話はちょっと翌日詳しく話します
っていうのと
途中からオカメみたいなのが出てきたと思うんですけど
この二人何してましたかね
なんか酒を飲ましてた
そうまるで我々のような
それで天宮みたいなのが
ひっくり返っちゃったりしましたけれども
なんかねすごい神話の
おごそかなテーマを実際にやる
っていうもの、後半
最初の方の場面のものと
夫婦の営み、人間一般の生活
つまりお酒飲んで
仲良くして時には喧嘩をして
ちょっと時々そういった
非常に夫婦の営み的なところも
再現されたりしてるっていう
非常に貴族な、いい意味で
貧な人間の
おかしさみたいなものを
このカグラで表現されてるっていうのが
面白いところなんですよ
なんかちょっと歌舞伎とか
狂言とかそういう雰囲気もある感じ
そうそうそうそっちの方もあるんですよ
なのでなんかこう
結構ね観光客向けに
やってるっていうのも大きいと思いますけど
ファンサービスとかも結構ありまして
途中からこの二人が
舞台から客席の方に降りてきて
それで触らせたり
客に触ったりみたいな
そういうライブ感もあって
海外の観光客の方もすごい喜んで
自分たちも
参加させてもらってるような
そういった面白いプログラムになっているんですね
なぜこのカグラができたのかっていうのは
ちょっと翌日に持ち越したいと思うんですけれども
とにかく大事なこととしましては
その集落ごとのやつも見ることができるんです
11月以降2月までの間だったら
日にち合わせて
決まった日ってことね 決まった日
それはあくまで観光客のためにやってるわけではなくて
集落のサイレンとしてやってるので
やっぱりあんまり公開も
ちゃんとはしてなかったりするところもあるらしい
だしやっぱりそれを邪魔したり
というのは良くないことですから
しかも夜通しやるという感じなので
このね高島神社のね
ものについては毎晩8時からやるんですけれども
250席のうち
200席については
インターネット予約
上演する30日前から
当日の17時までインターネットの
予約フォームで予約ができる
そして当日受付
神楽伝にて当日の
引き換え券みたいのがある
それで合わせて250席
僕としてはやはり
いくら毎晩やってるとはいってもこれ満席になりますので
必ずインターネット予約をお勧めします
神楽の実演と予約
そうね
予約をしたら19時になる
頃だったかな
と並び始めます神社
なので僕としてはホテルに
19時までにはチェックインをしていただいて
そっから高島神社までだいたい
密台の中心部から5分から10分くらいで
歩いていけますので早めに
19時過ぎたら早々に神社行っちゃってください
夜の神社はもちろん
おごそかでいい雰囲気があるんですけれども
まずは神楽伝に行って
そこで並び始める
並び始めるのが早いと前の方に
座れるんですね
席は決まってないのか
席は決まってないですので
19時くらいからみんな並び始めますので
なるべく早く行って並んでもらって
8時から神楽の実際の講演の時に
いい席にねぜひ座ってもらえればいいかなと
結構後ろまで来るんですよ
250もあるからね
そうあの人たち演じてる人たちも
降りてくるんですよ
結構一周くらいするので後ろでも楽しめはするんですけど
やっぱりちょっとなるべく前の方が
面白いかなとは思います
はい
結構途中から笑いも起きたりするような
セリフは一切ないんですけど
ちょっとなんか神楽の
一般的なやっぱ前の
イメージがあるから
それとは全然違って面白そうだね
劇みたいな感じですね
じゃあ今
見ていただいたこの高朝神楽というのが
どういう神話に基づいて
なぜこんなことをやっているのか
っていうのはちょっとね時間もあれなので
翌日の朝行くね
神社に関係つけてちょっと話したいと思いますので
ちょっと次週また聞いていただければと思います
最後になりますが
夜ご飯はまだ食べていません
先に夜ご飯食べてもいいんですけど
せっかくならね
僕終電とか大嫌いなので
お尻を決められたくないんですよ
なので神楽の後にね
僕が飲むのが個人的にはオススメです
そうね神楽の前だと結構
時間がね 厳しいですね
詰まっちゃってるね
なのでね高地方神社から
12分ほど遠いところにあるのが
寿司どころ竹神さんです
竹の心と書いて
竹神と読むそうなんですけれども
お寿司をね
宮崎の食文化
食べに行きたいと思うんです
しかもこんな夜遅くにね
かつちょっと意外だと思うんですけれども
高地方ってどういうところにあるかって
地図見てもらうとね
結構内陸だったよね
ここでお寿司食べるのかと
結構山の方なんですよね
もう完全山の方でもう少しで行けば
そうです
じゃあなんでここであえてお寿司を食べるんだってことなんですけど
ここはね山だからこその
お寿司も食べられるのが面白いところなんです
これ何かというと
竹神と竹の心
なわけなんですけれども
一番の名物お寿司は竹の子寿司
なんですね
竹の子寿司
これは要はもういわゆる山菜の竹の子を
ちょっと味付けをして
それに酢飯をやったっていういわゆる田舎寿司の
一種になっていて
日曜日とかでもそういった山のお寿司がね
出たりもするんですけど
そういう山菜のお寿司が食べられたりするんです
へえ
それはちょっと
それはそれで食べてみたい
あとはもちろんね
お魚のメニューもたくさん大量にありますから
メインは普通のお寿司なんですけれども
そういった竹の子寿司があったり
宮崎県のお寿司って
何か一つ知ってませんか有名なメニュー
ええなんだ
宮崎発祥なんですけど実はあのメニューって
あのねレタス巻き
ええわかんないわ
はい
これ発祥はね宮崎市内のお店で売られているので
このたかちほどは関係ないんですけれども
宮崎のオリジナルメニューということでね
これは海苔巻きなんですけれども
海苔巻きの中に
味付けをしてあるのかな
レタスとエビを
巻いたものなんですね
はあはあはあ
これなぜかというと
やっぱり野菜レタスがよく取れるんですよね
ということでね
この郷土を活かした
オリジナル創作寿司っていうのが評判を呼んで
宮崎から全国行って
今海天寿司シェインとか必ずあると思います
これもねやっぱり
竹芯さんでもいただくことができます
なるほどね
あとはたかちほどって
有名な牛のブランドがあるんですけれども
それの肉寿司とかね
へえ
もありますのでお魚めにもすごくおいしいんで
全然いいんですけれどもそういうちょっと
たかちこならではの山のお寿司っていうのもね
ぜひこれ食べていただけるとね
地域性がやっぱり感じられるんじゃないかな
と思うんですね
ちょっと俺は知らなかった
うんうん
サラダ巻きなんてのたまにありますけど
あれに近いイメージですレタス巻きについては
へえ
ここもねすごく飾らない感じでね
本当にカウンターと
少し座敷のある小さなお店なんですけど
地元の方も多くいらっしゃっていて
すごく対象もね
観光客にも慣れてるし
地元の方ともつないでくださるしみたいな感じで
すごい楽しい人々を過ごせます
がそういうわけで
たかちょかぐら来てみんな一斉に
解散ってなると夜食べに行こうってなる人多いんですね
見たいの町というのは
たかちょの中心部ですね
見たいというところは
居酒屋も結構あれにはあるんですけど
やっぱりぼやぼやしていると難民になる可能性が
結構あり得る場所です
入れなくなっちゃうね
なので個人的なおすすめは
たかちょかぐらさんでもいいし
他のお店でもいいんですけど
やっぱりたかちょかぐらが終わる時間に合わせて
予約をした方が個人的にいいと思います
幸いかぐらはだいたい1時間で決まっていますので
ちょっと遅めの時間になりますけど
そうするとより安心して
飲むことができるんじゃないかなと思いますので
9時過ぎとか
そうです ぐらいに予約をした
あとかぐら終わりに行きますといったら
だいたいわかると思うので
っていうのが個人的なおすすめですが
たけしんさんは特にね
おすすめですよなと思ったので
今回ご紹介をさせていただきました
こちらで飲んだら相当な時間になっていると思いますので
ちょうど5分ほどで
チェックインをしたホテルに帰っていただいて
1日目は終わりにしたいと思います
はい
それでは1日目を
振り返っていきましょう
まずスタートは宮崎空港ですね
11時ごろスタートです
そこでレンタカーを借りまして
まず車で45分ほど
サイトバル高校博物館ですね
高校博物館ですので
古墳とか
土偶はないんでね
古墳にあるものとかね
そういう展示を
詩的な解説文でね
楽しむことができるということなので
まずこの土地のね
基礎というか
をまず学ぶということですね
そこから来るまで
20分ほど
高鍋餃子ですね
こちらは器具餃子でもね
紹介されてましたが
キャベツやニラの甘み
旨味を感じられる高鍋鳥を代表するね
餃子のお店の一つ
ということなので
ここでいろんな種類の餃子がありますので
お好きなものを
食べていただくと
そこから車で2分ほど
舞鶴公園
こちらは高鍋鳥の
城跡ということですね
今は石垣とかが
残っている公園ということですね
この種茂がね
手腕を振った
高鍋城の跡を
散策するという感じですね
歴史化にもね
その将来のね
そこから来るまで15分ほど
高鍋大使ですね
本当に独特な雰囲気を持った
700体以上の
石物群ということなので
景色もね
すごく綺麗ということなので
景色とその石物を
同時に楽しむと
そこから来るまで
20分ほど高城跡ですね
大激戦となった
耳川の戦いの
主戦場の一つと
いうことで
ここでどういう戦いがあったのかというのを
実際の現地でね
感じることができると
ぜひねやっぱり実演知識を持っていくといかないと
全然違うと思います
南北に川があって
南外でということを
知っていくとね
臨場感が出るのかなと思いますね
かつそのまあ
今回飛ばしましたけど
ソウルリンバルクヨウ島以外にも
本当にシロア島のね
平和部の方に降りていくと
大友勢の誰々の人種はとかいろいろ残っているので
歴史に本当に戦国時代に興味がある人は
ここだけで相当時間を使った方がいいと思いますね
なるほどね
その戦いの意向がね
そこここにある
そこから来るまで60分ほど
だからこの大友軍が
逃げていったのを
追っていく感じになるわけですね
そういうことです
ツマヤ大将軍神社ですね
大友総理がここに
キリスト教の都市を作ろうとした
という本陣が
あった跡地
の神社ですね
なのでそのキリスト教の
雰囲気というのは
今は感じられないということですけども
ここから大友総理は
キリスト教の町を作ろうとしたんだな
というのをね感じると
このムシカというね
地名からもちょっと感じられるかな
と思いますね
そこから来るまで50分ほど
高千歩町の
中心部みたいの
辺りのホテルにチェックインします
そこから徒歩
10分ほど高千歩神社に
向かいましてそこで
ヨカグラを見ます
これはまあね予約をしておいた方が
確実に見れるということ
なので
ヨカグラ自体は
20時からスタートではあるんですが
いい座席で見たいという方は
なるべく早めに
19時から並ぶことができます
ということなので
その時間を目がけて
行っていただければと思います
日本神話をなぞられた
カグラを見ることができると
そこから
徒歩12分ほど
竹心さんですね
港ではないのに寿司ということで
山の方だからこその
この土地だからこその
お寿司を食べることができると
魚介のお寿司も美味しいということなので
そうですね
ぜひ予約をして
確実にご飯に
ありつけるようにしていただければと
思いますね
そこから徒歩5分ほどでホテルに
戻りまして1日目が終了と
いうことですね
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結構移動しましたね
そうです今回は相当
宮崎県の空港から高地方まで
なので相当
移動しています
非常にやっぱり南北の平野をガーッと
行くので気持ちいい道が多いです
宮崎というのは非常にね
ただ延岳から高地方に行く山道は結構
全然ちゃんと整備されてて
しっかりしてますけど
海岸線終わるとはちょっと違うので
かつ夕方にねこれ行きますので
ちょっとそこだけ注意してもらったほうがいいかなと
そうだねだからちょっと
まあ移動が多いし
あと夜に四日暮らしがね
時間が決まっているものがあるから
ちょっと時間は気にしておいた方が
いいかもしれないね
なので戦国時代とかあんま興味なければ
ビミカーの戦いを巡る一連の出席は
飛ばしてもらってもいいのかなという気がしています
まあでもなんかそのね
オトム軍が
逃げた道のりを実際車で移動すると
こんなに追ってったのかというのは
結構体感としてね
できるかもね
いやなんか面白いな
なんか古墳時代から江戸までみたいな
そういう
時間の幅も結構あるし
場所としても幅があるし
なんかすごい宮崎を体感してるな
という感じがしますよね
じゃあ次回は
神話のところにこう迫っていく
という感じですかね
神話の話たかちほうの中にあるものを
見ながら行って
剣北の都市である延岡に
夜は行きたいと思います
ということで
旅の準備
次回もお楽しみにということで
今回はこの辺でありがとうございました
ありがとうございました
01:45:57

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