大人になりたい旅がしたい。このポッドキャストでは、旅行と酒が好きな同級生2人が、大人だからこそ知りたい、ちょっとディープな国内旅行のモデルコースを紹介していきます。旅のお供はこの2人。
旅が行きがいいな旅行ガイドブックの編集者、ハリヤです。 ディープな旅がしたいけど、知識がない旅行初心者、内田です。
僕、弟がいるんですけどね。 もちろん、ご存知ですよ。 言うんですけど、この間ね、急に連絡があって、なんだと思って。 何?
水晶園でシロコロ食べれたって来て。 あー、水晶園ね。 ロマンスカー界でね。 そうですそうです。
ロマンスカー界の最後に食べたやつですね。 本祭りですね。 そうそう、あ、そういうのね。
で、シロコロが名物なんだけど、すぐ無くなってしまうと。 そうなんですよ。
店紹介してたんですけど、そこでシロコロ食べれたと。 マジで? 報告がありましてね。 素晴らしい。
4時半過ぎに入店したんだって。 ほわー。 で、注文したら、ちょうどシロコロ売り切れてたらしい。 マジで? そう。
じゃあもう1回だけじゃん、もう1回だけってこと? 4時半に注文してそれ? しかも平日だからね。
そうか、いやすごいなやっぱ。 いや、すごいんだね。 うん、でもすごいんですよ本当に。 いや、なんかちょっとより食べたくなるなぁ。
そうだ、省旅行でもいいから行ってくればいいのに。 そうだよね。
いや、だから本当にすごいよね。 平日の4時半で。 いや、まあそうだと思うよ。 全然不思議ではないあんな感じ。
だから本当に泊まるとかね、なんかそれこそ午後休とかでね、 行かないと食べれないんだよね。 そうですよ、そうですよ。だから後半休なんですよ。
奇遇でね、俺もね、友達に弟がいてさ、 なんかね似たようなのがもらったんだよ。
なんか急にLINE来てさ、なんだったかな? ちょっと待って今自分も見るんですけど。
仲いいんすか? それらへん。 そうそうそう、飲んだことも一緒にあってね。 なるほど。
なんかね、このポートレスト聞いてくれてるんですよ、その人。 えーっとね、お久しぶりです。
水晶萌えんで白コロ食べられました。 俺の弟じゃねえか。
おーい、あーそっか。 くだらない。
茶番にもほど。 しらじらしいわ。
これ面白いのはね、実の兄と僕とでそれぞれ単独LINEをそれぞれ報告してきてくれてるっていうね、個人LINEで。
いやでもなんか普通に、ちょこちょこ聞いてくれてるみたいで、っていうお店とか。 前もね、どこだっけ?なんかどっか行ったって言ってたよね。
あたし美術館さんね。 あっそうそうそう。
スポットを参考にしてくれてるって、それを報告してくれるっていうね。
それぞれにっていう。ありがたいですよ。 でもね、こいつなんだけど仲良くなったよね。
なったなった。 君らは。
まじで小田原、あの時。
小田原もそうね。
あとこれ、この番組でもなんかちょっと変わった気がするけどね。
僕はもともと仲良いんでLINEしてましたけどね。その後もしばらく話してましたし。
そうなんだ。
仲良くしてやってください。
さて、今回は丸を極め星になれ4000万歩のスターゲイザーの2日目ということで。
これ意外と1日目だと回収してないですか?これは。
触れてないです。まさに。全く触れてないです。
これはね、この2日目に出てくるとある歴史上の人物のことだけを指してるんです。
なのでもはやこの旅行、僕が実際かつて1月に行った時もそうだったんですけど。
この人物のことを知りたくてこの旅行に行ってるんです。
っていうぐらいね、僕は今日これから話すこの人のことは歴史をたらんですけれども。
日本の歴史上本当に一番と言ってもいいかもしれないくらいすごい尊敬してる人なんです。
個人的にね、すっごく興味のある人で。
この人のことを話したいなと思って旅行も行ったし、このポットイラストのコースも組んだしという。
というのでね、もう2日目が本番なんです。
じゃあこのコースの本番ですね。
じゃあよろしくお願いします。
前日ですね、千葉県香取市の沢良という駅の近くのホテルにチェックインをして休んでいると。
そういった想定でお話をしています。
この沢良というのは前日はもう夜飲んだだけで終わっちゃったんですけれども、
そもそもそういうわけで水合だったりということで非常に有名な観光地でありますので、
この駅をちゃんと朝から巡れればいいかなというふうに2日目を思っています。
ただですね、水合を巡る前にちょっと郊外のスポットを先に攻めておきたいなというふうに思うんですね。
ということでやや珍しいかもしれないんですけれども、
9時半ぐらいにホテルをチェックアウトしたとして、
9時半から水合沢良観光協会駅前案内所というところが開くんですけれども、
ここでレンタサイクルをしたいと思うんです。
ということは飲めないですけど大丈夫ですか?
今のうちは大丈夫。
どうせ返しますから終わったらすぐに。
ということになるんですね。
なぜレンタサイクルをするかというと、
郊外に行くにあたって今から行く目的地がちょっと距離的に微妙なところで、
歩いて行くには遠いんだけれども、タクシーはちょっともったいないし、
車が今ない状態なのでね。
バスの本数が少ないという、そういった感じなわけです。
ただですね、この辺本当にすごく平地なんですね。
なのでレンタサイクルも全然難しくはありません。
途中でまず朝ごはんを食べに行きたいと思うわけです。
沢良の駅から自転車で6分ほど行ったところにあるのが、
パン工房シュシュさんです。
うまそうだな。
毎日を笑顔にする美味しいパンをということで、
ここはもう一言でキャッチフレーズをつけるならば、
超地域密着型のメーカリーですね。
いいね。
これ沢良の駅から東に行ったところにあるわけなんですけれども、
ロードサイドなんですけれどもね。
本当に車が駐車場に満載という朝から大人気居店です。
なんだけれども、例えば超高級なんとかがあるとかでは決してなくて、
いわゆる普通のパン屋さんに見えてしまうようなんだけれども、
愛される特別な理由があるということなんですね。
このお店のトップ5もううまそうだもん。
1位がね、コクとうま味の牛すじカレーパン。
これ美味しかった。
めっちゃ美味しかったこれ。
これすっごい美味しかった。
牛すじがちゃんと入ってんだよ。
マジで美味かったこれ。
とかね、食パンはもちろん多分地域の方が買われるんでしょうね。
桃ミルクフランス。
贅沢カスタードのクリームパン。
コロッケコッペ。
いいね。
普通なんだけど美味そうなんだな。
そうなんですよ。
だから何か特別なこのお店じゃなくてもないかもしれないけれども、
ただそれぞれのレベルがやっぱり非常に高くて、
愛される理由がよくわかるというものなんですよ。
それはもちろんこのメニューを見てもね、
わかるポイントではあるんですけれども、
まず1つね、独出するものがあるとすれば、
小江戸あんぱん。
やはり沢良というのは昔からもう江戸時代から栄えていた街ですので、
こういう和菓子製造とかもすごい盛んなんです。
そこでですね、この沢良の名店北川商店さんの扱うあんを作った特製あんぱんがあって、
沢良を意識しているためにこの小江戸あんぱんというふうにしていてね。
こういうやっぱり地域のエッセンスもちゃんと取り込んでいらっしゃるわけなんですね。
いいなあ。
そしてね、これはじゃあ逆に観光客向けなのかなってちょっと思うかもしれないんですけど、
僕がびっくりしたのはですね、
サコージャンボコロッケというパンがあって、
これ食べてないんだけどえらく美味しそうだったんですよ。
サコーっていうのは?
これはね、沢良高校のことです。
もう店のすぐ裏手がこの沢良高校という高校があってね、
ここの生徒さんたちがめっちゃ来るわけですね。
なるほどね。
ボリューミーなんだけどすごく安い。
要は学食じゃないけれども、購買部じゃないけれども、
中場そういった機能が果たしているんだろうなというね。
沢良高校さんのことを意識してね。
もちろん学校からも許可を得ているという話だったんですけれども、
そういったジャンボコロッケを、コロッケパンを売って高校生の皆さんがここで召し上がってるという。
みんな朝買いに来るんですね。
なんだけどめっちゃお店オシャレだし、
観光客も普通に思わずこういうドアンパン買いたくなるような感じでね、
すごくいいお店だと思いましたね。
地域の誇りですよね、こういうのがあるっていうのは。
いいね。こういう街のパン屋さんいいね。
そうなんですよ。
そしてね、びっくりしたのがね、
僕その時行ったらもう本当お店超満員だったんですけど、
大体地元の方がその時は多かったんですけど、
皆さんそれでレジでパンを買って帰られた後に、
みんなとあるところに寄っているから、
立ち止まってるからなんだろうと思ったらね、
なんとねコーヒーメーカーがあって、
これね無料でコーヒー飲ませてくれるんですね。
え?
なんで?
サービスなんですよ。
すげーな。
そう、コーヒー無料サービスでね、
コーヒーのテイクアウトをできるんですね。
なんでそんな優しいの?
そうなんですよ。
車で来られる方とか多いから、
禁止するのかわからないんですけど、
これもね、やっぱり皆さん嬉しいですよね。
そういうささやかな気遣いというかあれなんですけれども、
みんなだからパン買ったら当たり前のようにそこに立ち止まって、
コーヒーを入れて、
それでね、皆さん車だったり自転車だったり乗られてっていうね、
やっぱり愛される店って理由があるんだよねってね、
そういうふうに思いました非常に。
なるほど。
いいお店だな。
で、当然ベーカリーなので食べられるのかって話なんですけれども、
駐車場のところとかにベンチもちゃんと置いてあって、
僕は一人だったんですけど、
そこでコーヒー飲みながらパンを食べて、
ゴミはお店の人にね、
お店で捨てて、
でまた自転車でというね、
そういった流れで非常に爽やかな朝でね、
冬だったんだけどなんか温かい気持ちになるような。
いいね。
そんなお店だったですね。
いいな、こういうお店やっぱ近くに欲しいよね。
欲しいですね。
やっぱりこのね、
高校の生徒さんたちからすると、
大人になっても思い出すような、
そういった印象が間違いなくあるでしょう。
そうね。
いいな。
というちょっと地域住民の方に混じらせてもらってね、
こういったパン屋さんで朝ごはんをテイクアウトして食べると。
はい。
で、じゃあそもそもこれ何でどこに向かってるんだって話なんですけれども、
これがですね、
パン工房シュシュさんからさらに東へ行きます。
自転車で10分ほど行ったところにあるのが、
カトリ神宮です。
すごく立派というか、
きらびやかな感じがしますね。
カトリ神宮というのはね、
この下大阪の国一宮と言われて、
要は下大阪の国で最も格が高いと言われている、
すごい有名な神社なんです。
で、
まあね、
もう今見てもらってわかる通りなんですけれども、
すごいこの社殿のね、
色合いだったり工芸だったり、
それでいてその境内の林の薄々とした感じだったりっていうね、
でね、ちょっとマニアックな話になるんですが、
例の鹿島神宮の方の竹三日月なんですけれども、
鹿島神宮の神様っていうのは、
実はとある場所に繊維しているっていう伝説があって、
またこれも大移動なんですけれども、
鹿に伴われて、なんと奈良に繊維しているっていう、
奈良に移ってきているっていう伝説があるんですね。
そして奈良へ移って鹿といえば、
鹿須賀大社ですよね。
鹿須賀大社の神様というのは鹿島から移ってきたっていうんです。
鹿と共に。
その途中にあるのが実は小田原なんですよ。
だから小田原に鹿須賀大社の分隣があるんですけれども、
絵の具装工場の中に。
っていう話があるんですよ。
ということで、鹿須賀大社というのは実は何かというと、
あれは藤原氏の神様なんですね。
宇治神なんです。
だからこの鹿島神宮とか鹿鳥神宮っていうのは、
藤原氏からめちゃくちゃ厚く敬われたんですね。
なのでこの鹿鳥神宮も、
藤原氏の宇治神として非常に厚い数形を受けました。
そもそも神宮なんて名乗れるのが、
日本の中でもいくつかしかないっていう時代があったんですけど、
確かその中の3つのうちの1つがこの鹿鳥神宮なんですよ。
鹿鳥神宮、鹿島神宮、伊勢神宮っていうぐらいのレベルなんですよ。
っていう東北のすごい代父的な神様なんです。
ここをやっぱり鹿鳥に来たからには訪れないといけないかなと思うわけですね。
現在の本殿は江戸時代の1700年の造営だそうで、
国の重要文化財に指定されています。
どことなくやっぱり武骨な感じのちょっと男らしい感じの神様で、
神社でシックな黒を基調にしたちょっとシックなデザインなんだけれども、
さっきの緑とか赤の国際色が施されたっていうすごく鮮やかな神社にもなっていますので、
本当に多くの人がここは参拝しに来ます。
駐車場も広いですがその分それだけに混みますね。
なので朝一に行っておきたいんですよ。
なるほど。
この目の覚めるような朱色がすごいですよね。
そうなんですよね。
というねやっぱり下尾山の国に行ったからにはこの鹿鳥神宮には絶対訪れていきたいなと思いますので、
最初に朝10時半くらいで寄らせてもらいました。
ちなみにここも山道がすごいにぎわっていますので、
朝ごはんここで食べるっていう選択肢もあると思います。
お蕎麦とかもありますので。
お土産もいろいろ買えますね。
という鹿鳥神宮でした。
自転車を使う用途というのはとにかくこの神宮に行くことです。
元々行った場所の方に戻っていきます。
自転車で15分ほど西の方に戻っていくわけですね。
沢原の中心市街地に行っていくのが猪尾忠敬記念館です。
猪尾忠敬ね。
4000万歩ってこれか。
そういうことです。
猪尾忠敬という人物なんですけれども、
この人は何をした人っていう風に習いましたか?
日本地図を作った人でしょうか?
そういうことですよね。
踏破して作ったっていうね。
まずやはりこの地図を作った。
大日本沿海地図という地図を作ったということで、
まず教科書。
小学校の教科書にたぶん載ってたんじゃないかな。
載ってたと思うね。
日本の偉人として非常に有名な人ですよ。
なんですけれども、この人ね、この沢原の出身なんですよ。
そうなんね。
なんですけど、教科書だけでは測り知れないすごい人なんですね。
この人、地図を作ったっていうのは有名だと思うんですけど、
何で地図を作ったかって話は知ってますか?
なぜ地図を作ろうと思ったのか。
それは分からんな。
だいぶ年取ってから出発したっていうのはなんとなく知ってんだけど。
それを知ってるの?
そうそうそう。
ちょっと後で話を聞いたんですけど、そうなんですよ。
その前の話は俺は何も分からないわ。
ということでね、改めてこの井上忠敬という人物が何者だったのかっていうのをね、
ちゃんと地図を作るに至るまでの話がすごいんです。
一言で、ちょっと先に結論がインパクトがあるので言ってしまうんですけど、
井上忠敬が地図を作った本当の目的は、地図を作るだけじゃなかったんです。
これは彼が知りたかったのは、地球の大きさを知りたかったんです。
これが本当の目的なんです、彼の。
測量みたいなことをしてたってこと?
そう。
彼が知りたかったのは、地球という我々が生きる天体の大きさを知りたかったんです。
これのために地図を作ったんです。
じゃあ副産物っちゃ副産物なのか。
そういうことなんです。
彼は地図作りが本当の目的じゃなかったんです。
じゃあでもなぜ一体そういった思考に行くのか、
地球の大きさがなぜ気になるのかっていうのが不思議な話なんですよね。
という話をちょっとしていきたいと思います。
まず記念館の話を先にしてしまおうと思います。
そういうわけで井上忠敬さんは、このサワラに生まれたわけではないんですけど、
サワラに養子に入ってきた人で、
このサワラの有名な井上家、前日井上中二郎商店に行きました。
井上家っていうのはすごいサワラの名家なんですね。
ここに養子として入ってきて、
家族を継いで井上家というものを回した、
そもそも商人です。
武士ですらないんですね。
サワラの商人として、
今はサワラの名主とかも勤めた、
サワラのリーダーだったんですね。
そして長い間会社を経営して、
あとはやはり名主でありますので、
サワラって自治都市だったんですよ。
幕府の天皇だったので大名のを収められてなかったんです。
だから商人というのは非常に重要な立場であって、
サワラの人たちのために公共事業とかも、
この人が自ら起こして町の発展に尽くした、
というような前半生で、
これだけでも十分業績として非常に大きなものがあるんです。
ただ彼の人生というのは、
もはや後半生しか教科書に載らなかったって言うんですけれども、
このカドリのサワラの記念館においては、
そもそも井上たらたくがサワラで何をしていたのか、
ということをちゃんと解説をしてくれているわけです。
やはり地元ですから。
そういうところでいくと、
井上家の社長としていろいろ経営をしていたりとか、
この運賀をね、
要は彼らは昔のサワラの運賀でもって、
船に運んで江戸に物資を運ぶっていう、
そういう商社をやってたわけなんですけど、
その運賀をちゃんと成り立たせるために、
掃除をしたり工事をしたりっていうのも、
全部いろいろ奔走したり。
時に幕府から変なイチャモンつけられた時も、
ちゃんと主張をして裁判に出たりとか。
本当に地元の名士として非常に尋問の厚い人だったんです。
それをだいたい50代まではね、
サワラの商人として活躍をしていたっていうのが、
この記念館に行くとよくわかります。
その上でね、
後半の方になってくると、
なぜ彼が地図作りにその時代から始めていったのかっていう、
その接点を解説してくれて、
記念館に行くと、
井上忠敬本人が本当に使っていた器具だったりとか、
残ってるんです全部。
そしてこれね、国宝なんです。
井上忠敬がこの大日本沿海地図の関連資料何千点を国宝です。
すごいんですよこれ。
まあでも偉大だもんな。
だからすごい数の国宝があるんです。
このカトリシで。
そしてそのね、
原本は残念ながらさすがに資料館で見られないんですけど、
この彼が作った地図もちゃんと展示をされていて、
今の日本地図と比べた時の、
もう本当に誰が見てもこれ日本地図だってわかるクオリティ。
ちゃんと担保してくれてるわけなんですね。
教科書で見たやつとか、
もうこれ日本だっていうぐらいの、
多少歪みとか細かい部分とかは多分違うんだろうけど、
でも全体像はもうちゃんと縮尺もだいたいあってんだろうなっていうね。
そういうことなんですね。
これを本当に作ったのはすごいなって思うよね。
やっぱり形として見てすごいですよ。
で、ちょっと話が戻りますけれども、
要は沢原の消化、
沢原でも随一のお金持ちであり、
慰しであり、地位も名誉も存分に手に入れて、
そしてもう50代になって子供もちゃんといたから陰境したというので、
それで一般的な江戸時代の寿命から考えると、
正直いつ亡くなってもおかしくもないですし、
だから悠々自敵で過ごそうと思うのが普通なんですよ。
ところがこの人はね、
陰境をそもそもする理由というのが、
悠々自敵に暮らしたいからじゃなかった。
それがさっき言った地球の話に関わってくるんですけど、
彼はね、歴学というものを学びたいって言って陰境したんですね。
歴学。
歴学とは何かというと、
暦の学です。
カレンダーですよ。
カレンダーというのは、
今でこそ我々当たり前のように掲げていますけれども、
あれは当時時間観念を押し量る上では非常に大切なもので、
それを作るミッションというのはすごく重大な責任が伴うし、
非常に難しかった。
どうやって探り当てていったのかというと、
結局月とか天体の運行を観測して、
これによってその計算式を割り出して、
多分これぐらいの周期で月は動くから、
大体季節もこれに伴って動くんだろうという、
ざっくり言うとそういうことを測っていたんです。
ところが、それは昔古代からずっとやられていたことなんですけれども、
江戸時代の頃になってくると、
どうもそれが今までのやり方じゃ合わないんじゃないかということが言われ始めてきた。
その証となるのが、
とある時に日食と月食というものをうまく観測できなかったという事件が起こったんですね。
この時に起こるだろうと思ってたのに起きなかった。
と逆で起きるはずがないと思っていたのに起きてしまった。
これは古代平安時代とかからそうなんですけど、
日食とか月食っていうのは非常に不吉なものという風に考えられていたんです。
つまり満ち足りているこの太陽のエネルギー、月のエネルギーが疎外されてしまっているっていうものだから、
これは当時からその天体観測者たちが必ず当てなきゃいけないものという重大ミッションだったんです。
これが外れたんですね、ある時。
じゃあもう大問題なわけね。
特に京都の朝廷とかからすると、何か天変地異が起こるんじゃないか。
現日本語学ってそういうことが起こったりするんですよ、やっぱり。
っていうので、今までの歴学じゃダメなんじゃないかということが言われ始めている。
同時にこの時、時代的に言うと18世紀の後半。
ちょうど高田家兵と同じ時代なんです、この人たち。
なので、あの時のことを思い出してほしいんですけど、
西洋の文明というのは徐々に徐々に日本に足音を近づけてきている。
ロシアとの話が高田家兵はありましたけど。
っていうぐらいの時期なんです。
なので西洋の測量法とかをちゃんと学んで、
西洋のやり方をやりながら日本の観測というものをすれば、
ちゃんとした歴学ができるんじゃないか。
そうしなきゃダメなんじゃないかっていうふうに、
この人はそこにふと思い当たったって言うんです。
これは資料館に行くとよくわかるんですが、
普通だったら別に沢良の商人がそんなことしなくていいじゃないですか、はっきり言って。
だけどやっぱりこの猪瀬というのが特殊な家で、
代々この猪田高の、彼は養子ではありますけど、
代々そういう学問を将家とともにしなきゃいけないっていう家訓みたいのがずっと残っていて、
だから田中もやっぱり猪瀬として生まれた以上というのもあるし、
彼が接してきた人たち社会だったり、
彼のパーソナルってもちろんあったでしょうけれども、
こういったものをいろいろ考えて、
自分もやっぱり隠居した後はただのうのうと暮らすんじゃなくて、
新しい学問、世の中の立ちに立つ学問とは何かというのを考えてみたかった、
というのがそもそもあった。
その結果たどり着いたのが、歴学だったんです。
志がすごいわ。
そうなんです。
だから彼は天体観測の道に行ったんですね。
歴学というのは天体観測のやり方なので、
そしてふと思い当たった疑問が、
そもそも地球ってどれぐらい大きいんだ?
我々の住んでる地球って一体どういうところなんだろう?
ということにふと思い当たった。
そのために歴学もやっぱり学び始めたんですね。
いや、すげえな。
それで測量の旅に出るっていうのが、
そのバイタリティすごいよな。
ただそこは直撃はしないんですよ。
つまりこの後もいろいろ実は話があるんですけれども、
とにかく地球の大きさを自分は知りたいと思った。
でもじゃあ地球の大きさってどうやったら測れるんですか?そもそも。
なんだっけな、なんか方法あるんだよね。
離れた場所で影の長さ測って、その差で何かやるとかがあった気がするな。
もちろんそれも一つですよ。
要は天体との距離を測って逆算の方法ということになりますよね。
ただこの時はいろいろ文明もそれなりに発達していたというのもあるので、
地球の大きさを知る上での一番手っ取り早い方法というのは、
地球をもちろん透過するのは無理なので、
緯度1度を知れば、それをかける360すればできるんじゃないかと思った。
当然そうです。今の我々の数学館からするとそれはできますよね。
っていうのをこの人はやろうとしたんです。
つまり地球を知りたい、そのためには緯度1度がいくらなのかを知りたい。
そのために測量を始めたんです。
っていうプロセスなんですよ実は。
測量をするためには天体観測の技術とか、
力学の技術がどうしても必要だから、
まずはこれを学ばなきゃいけないというふうに思った。
この人は趣味で旅行も結構してた人なので、
旅行先でもアマチュア天体観測者としていろいろやってるんですよ。
お金を持ってたんでめちゃくちゃ。
測量器具をいろいろ買って。
やってたんだけどどうもやっぱりこれでいいのかというので、
やっぱり本当に自分の自由の身になってこれを極めたいと。
というので、江戸に出るんですね。
沢原を息子に任せて。
50何歳の老人が通して。
19歳も年下の、息子みたいなもんですよ。
幕府天文館、高橋義時という人物がいたんですけど、
幕府の役人です。
19歳下のこの役人に頭を下げて、
自分に力学を授けてほしいというふうに弟子入りしたんですね。
ただ義時もびっくりですよ。
私ですか?みたいな話になっちゃうんですけど、
断るわけにもいかないから。
陰境をしたいとかじゃなくて、
本当に力学をこの年になってから極めたい。
私なぜかというといいのが知りたい。
もっというと地球の大きさというものを知りたくなった。
っていう不思議な生徒がやってきたんで、
義時もびっくりして。
でもそこまでいうのであれば。
そして聞いてみたら実はこの人独学でめちゃくちゃ知識がすでにある。
これは?って思って、
私で良ければ私の教授はしますけれどもみたいな。
江戸に住むことになった。
よくやれるなそれ。
そして高橋義時に、
日中は講理を受けていろいろ力学のことを教えてもらいながら、
夜は江戸の市中のとある矢倉みたいなものを持って、
望遠鏡とかで持って、天体の観測をずっと夜それを見て、
その動きを書き留めて。
ひたすらこの力学のことだけにずっとやってたんです。
今までは沢良の大金持ちの商人だった。
ただこの人はとにかくお金はあったので、
何をしたかというと、
江戸の市中を歩き回って、
食料をこうやって食料機器で持って引きずって計測をして、
江戸の市中でなんとか井戸一堂測れないかというふうに考えたんですけど、
今の我々なら分かるんですが、
井戸一堂ってそんな気持ちじゃないじゃないですか。
っていうのは義時はさすがに分かってたので、
いやそんなじゃダメだと。
ちゃんと日本というものを全土を歩いて、
ようやく井戸一堂で測れるくらいですから。
そうだね。
っていうことを言ったんですね。
でも当時の日本っていうのは、
幕府とか諸大名を治めていますから、
旅行とかに能々と行けるような時代でもないんですよ。
ほぼ全部出したんです。
っていうのが始まりなんですね。
これが始めの一歩なんですね。
第二本沿海の秩序を作る。
それ東北まで行って、
実はこの時の事情でもう井戸一堂観測できたんです。
東北まで行ったことによって。
観測方法はいろいろちょっと大変なことになっちゃうんであれなんですけど、
あってとにかくできた。
結果後でその時西洋でも同じように井戸一堂観測した人がいて、
オランダから入ってきた書物で答え合図をしたらほぼ一緒だったんです。
だからやっぱり我々は偉業を成し遂げたということで、
もうできたんですよ。
ただ一方で幕府はこの時猪太高が作った東北の地図を見た時に、
これはすげえってなって、
これは本当にすごい地図ができるってなって、
これは本当に幕府がちゃんとオフィシャルクレジット出そうって言って、
だから続けろと。
全国で御用って旗立てていいから続けろと。
いうんで井戸一堂は全国を荒れて回り始めた。
そして井戸一堂自身も地球というものを考えている上に、
日本っていうのはそもそもこれで良かったんだろうかって。
沢原っていう天皇にいて一つの昇華を営んでいた。
一方で幕府はある諸大名がいるけど、
日本の国って日本の形って一体どういうものなんだろう?
っていうのが別の時期で気になり始めて、
地図を作ること自体に彼自身の人生の生きる意味を見出し始めたんです。
なので55歳くらいから17年およそかけて、
日本のありとあらゆるところを老大なんですよ。
大老人なんですけど、ひたすらストイックに歩いて続けた。
ずっと海岸線をひたすら歩いて、
歩いてそれを地図にまとめることで、
それをピンポイントで指すんですね。
これはやり方記念回帰は分かるんですけど、
要はかくかくかくっていう測量を10mとか分かんないけども、
海岸線まっすぐになるところまでバーっと上下みたいなのをガーッと引いて、
で、いくらです?傾斜はいくらです?って分度器みたいなのを測り始めて、
次、じゃあちょっと要は身行きの方は想像してくださいよ。
ちょっと出っ張ってるところがある。
だったらその出っ張ってるところにまた今度測量し直して、
ガーッと上下みたいなのを引いて、
それで1歩2歩3歩ってその特殊な訓練を受けた、
寸分たがわぬメートル数で歩ける人たちを、
1、2、3、3歩半ですぐみたいなのって、
はい3歩半、じゃあ3歩半だからってやって、
こうやってずっとやっていくの。
っていう途方なんですよ。
すげーなー。
地道にずっとやったんですね。
九州もリトムも全部やったんですよ。
っていうのでやったのがこの地図なんですね。
すげーなー。
今日ちょっとサワラのこの記念館で買ってきた図録を持ってきたんですけど。
いやー。
興味持ってくれてよかったね。
だってそのさ、当初の目的はもう途中で果たしてるわけじゃん。
その後もやってくれてよかったね。
この地図ね、今イノーズ見てもらってますけど、
我々が思う日本地図ってこうじゃないですか。
けどそれまでの日本地図と一つ大きな違いがあること分かりますか?
これ意外とちょっとない視点かもしれない。
今の現代人の関係だとちょっと思い浮かばないかもしれないんだけど。
なんだろう。
ちょっとこれ難しいかな、さすがに。
もうなんかパッと見ではなんか変なところはなさそうな気がするけど。
今の小学生とかが白磁とか見るじゃないですか。
今の我々にあってこのイノーズにないものってなんだと思います?
中がないのか?
そう。
内陸がないのか?
そうなんです。
彼はね徹底した実証主義者なんです。
科学者なんですよ。
要は地図ってそれまで芸術の分野で絵通しで描かれることはあったんですけど、
これは彼は科学的な地図を作ったんですね。
実測してるから。
だから自分の見ない知らないものは描かなかったんです、すべて。
なるほどね。
彼は海岸線にしか行ってないんです。
だから中のことは何も描かなかったんです。
だからこれねイノーズ実際近年間見てみると思うんですけど、
実測せずみたいな漢文が書かれたとこがあって、海岸線にも。
これは自分が行ってないところは行ってないって書いてるんです、正直。
そのまま書き出したんですよ、しかもそれを正直に。
だから想像も一切含ませなかった。
すべて自分が見て自分が歩いたものしか表現しなかったんです。
それしか正しいと思わなかった。
すごいわ。
誠実な科学者だ。
そう。
そしてもう一つがポイントがさっきの白術は逆にこっちなんですけど、
境がないのわかりますかね?
そうだね。今でいう県境とかはないね。
そうなんです。これが画期的だったんです。
つまりイノータだったかというのは、
当時は武蔵の国、相模の国、今ですら神奈川県、東京都ってあるじゃないですか。
これをすべて描かなかったんです、イノータ。
これはもちろんいろんな理由があると思うけれども、
それは彼がもうその領域を出してたんですね。
関係ないもんね。
つまり彼が見てたのは日本っていう国であり、地球という天体だったんですよ。
これを見ているときにもう県境とかじゃなかった。
日本の形とは何かというものをただひたすらに追い求めた結果これになったんです。
すごいわ。
それ17年?
そうなんです。
くじけるな。
すごいわ。
これにすべての労力を注ぎ込んだんですね。
だから今でもこのイノータというのは途中から幕府の公共事業になったので、
全国諸般にイノータが来たらちゃんと手助けをしろとか邪魔とか絶対にすんなっていう命令が全国に。
なので実は僕の住んでる小田原ももちろん来ましたし、
小田原の小さな街道沿いにイノータ宿泊所跡っていう石碑がちっちゃく建ってたりして、
これ今全国にいろいろあるんですよ。
やっぱりこの不思議な老人とその友連たちっていうのは何をやってるんだって言ったらこの不思議な途方もない事業をやってるっていうスケールの大きさと不思議な人たちのこの熱情にみんな注目をしたみたいで、
今でも全国、この人全国行ってるわけなんですけど、いろんなところにイノータ宿泊所跡っていう石碑実はめっちゃ建ってるんですよ。
湯河原にそれがあるんですね。今でもね。
ちっちゃな小林の中なんだけど。
すごいわ。
ただね、ちょっとオチとしてはなんですけれども、残念ながら井上忠敬自身はこの地図の完成を見ることはなかったんです。
そうなの?
井上忠敬というのは大日本沿海地図を完成させたっていう風に間違われてたことがあるんですけど、彼自身は残念ながら完成できなかったんですね。
そうなんだ。
彼自身は日本の測量を投下して、測量は全部終えて、その後地図をプロットしていって繋げ合わせる授業の途中で亡くなってしまったんです。
なるほど。
ただその死は公表されなかった。
なぜか。
これは高橋義人という人物、かかったお師匠さん、実はこれはイノータ忠敬が死ぬ前にさらに亡くなっちゃってるんです。
ということでね、ここでぜひランチをいただいてね、
ちょっと朝今日早かったのでね、
お客も空いてらっしゃるんじゃないかと思うので、
たっぷり食べていただいていいのかなというふうに思います。
ただまだ自転車がありますので、今日はここまで飲めません。
ただやっぱり帰りしたいのでですね、
自転車もこれ駅のすぐ近くですので、
丸僧キッチンさんから2分ほど自転車で、
自転車を借りた観光案内所まで戻ります。
そこで自転車を返却しましょう。
観光案内所さんでコインロッカーありましたので、
ここに荷物は元々預けておけばいいんじゃないかなと思いますね。
そこから徒歩1分で沢良の駅に戻ります。
徐々に戻っていくわけですけれども、
沢良駅からJRの成田線で10分ほど西に行ってみましょう。
そこにあるのが下宇佐神崎という駅です。
神の崎、先は長崎の崎ですけれども、
都会で神崎と呼びます。
ここがですね、最後の目的地になるわけなんですけれども、
発光文化といえばここはね、
そういうの好きな人は絶対知らない人いないです。
この神崎、発光の里としてね。
ちっちゃな町なんだけど、
何万人という人がこの発光文化の元に来るっていうすごい町なんですね。
神崎町というすごい小さな町です。
なんでこんなになってるかっていうことなんですけど、
やはりここも酒蔵が多いんですね。
ちょっと駅から離れてはいるんですが、
下宇佐神崎の駅から徒歩17分ほど行っていただいたところに、
鍋屋玄吾絵文っていうね酒蔵があります。
これ鍋棚さんっていうね、
鍋の店と書いて鍋棚株式会社さんっていう会社なんですけれども、
こちらのお店はですね、
陣油あるいは不動っていうね日本酒を作っていらっしゃる酒蔵さんで、
日本料理きくやさん、先日行きましたけれども、
そこでもこのお酒飲みたりしますね。
やっぱり下宇佐一円にすごい輸通している良いお酒です。
ここがね、飲めるんですね。
カウンターがあるわ。
しかもいいバーみたいな感じじゃないですか。
立ち飲みバーなんですけど、ここで飲めるんですね。
すげえなあ。
このカウンターの上の瓶すごいね。
すごいね。所狭しと並ぶ瓶。
だから買いしたわけね。
そうです。これは飲まなきゃね。
ということでね、まず一つ目の酒蔵さんはこの鍋棚さんです。
ここね、すごく観光施設として大きな施設になっていますので、
非常にゆっくりと見て回るし、飲むこともできます。
ちなみに余談なんですけど、
このさ、上に神優の布団が吊り下がってるじゃないですか。
これね、なんとね、64章のボリュームを模した巨大な一生瓶蝶珍という。
蝶珍かこれ。
64章分の瓶の蝶珍だと。
そんなわざわざ測らなくてもいいのにね。
これがランドマークとして我々を迎えてくれるわけなんですね。
本当だ、蝶珍だわ。線がね、入ってますね。
普通のライトかと思った。
そうなんですよ。
これがね、我々を迎えてくれて所狭所なんだ。
お酒を見ながら味わって購入もできると。
もう旅の最後なのでね、ある程度重さも気にならないと思いますから、
ぜひね、まずここで1個目の酒蔵として立ち寄っていただきたいと思うわけですね。
1個目?
はい。
衝撃の徒歩5分。
次に1回言うのがね、寺田本家。
これも酒蔵。
前日も言ってるじゃん。
飯沼本家さんね、前日も言ってましたけどね。
行き過ぎじゃない?
いや、これ志望差はすごいんですよ。
ただね、この寺田本家さんは全国的にその道の人の間では有名なね、
八甲文化の第一人者です。
現在の八甲技術のプロフェッショナル中のプロフェッショナル。
でね、超独自労政の日本酒を作ってるんですね。
これどういうことかっていうと、
もともとこの辺で酒造りが盛んだったという前提はもちろんあるんですけれども、
どうもね、先代の御当主さんが、
ずいぶん大きな病気になられてしまった時に、
やっぱりその時にいろいろ今までの酒造りのこととかを考えていると、
どうしても経済性ですとか資本の問題ですとか、
商品のコンセプトがうんぬんかんぬんっていうふうに変にかけ混ぜすぎてて、
なんかちょっと自分の道を見失っている。
この酒の道を見失っているような気分になったそうなんですね。
っていう時に体調不良になってしまった時にふと思い当たった。
っていう時に人間の本来のこの酒の役割だったり、
酒は百薬の蝶なんて言いますけれども、
そういった役割って何なんだろうかっていうことを真剣にある時に立ち止まって考えた時に、
それは自然由来の発酵こそがその役割だったんじゃないかっていうふうに思い当たったそうなんです。
つまり酒って本来は自然発酵でそもそも作られてたわけじゃないですか、昔はね。
それが本来の酒の役割であったから、
それがみんなが人間を求めていたっていうのはそういうことなんじゃないかというふうに思って、
この自然発酵の発酵だけで作る酒というものを極めたんですね。
これが寺田本家の本心になったんです。
ちょっとこの代表名がある五人娘とか見てみましょうか。
自然酒造りなんですね。
これが今申し上げたところなんですけれども、
まず無農薬米、つまり醸造するだけじゃなくて、
酒米自体から一切その人の手が加わってないものっていうものをそっからなんですよ。
ゼロからまず作り始めたんです。
っていうところから始まって、山肺仕込みですよね。
昔ながらのこの酒造りの方法に立ち返ったと。
手でやってね。手のひら仕込みなんて書いてありますけれども、
本当に人間も自然の一部だというわけなので、
ひたすらそれだけの酒造りの原点に立ち返ったんですね。
そして無露化で作っているって徹底した自然由来のお酒っていうもので、
近年のナチュラル思考とかにもそこが相まって、
ちょっとやっぱり寺田本家のお酒はどこで作ってるのかどう作ってるのかって、
やっぱりこれはブランドとしてすごい。
今でもやっぱり非常に有名なお酒ですね。
唯一無二のブランドなんです。寺田本家はね。
そしてもう一つ見てみるとカトリーというものがありますけれども、
これね午前中に行きましたがカトリー神宮ありましたよね。
カトリー神宮のお幹としてね、
代々奉納しているのがこのカトリーというお酒になるわけです。
やっぱりこの下関大崎に受け継がれてきた醸造文化というのに由来した、
この土地の神様にやっぱり捧げるべきものだと。
つまり微生物を使って発酵させることでね、
人の手とか加工物を一切加えないっていう徹底してるんですね。
だから僕もちょっと日本酒好きの先輩がいるんですけど、
寺田本家の日本酒は日本酒というよりは寺田本家の日本酒だって言ってました。
やっぱり非常に味も独特で、正直好みは分かれると思うんです。
かなり分かれると思う。
好きな人ははまるけど、なんかうーんっていう人もいるとは思う正直。
だけれどもこの独自路線を極めた結果の唯一のブランディングということでね、
この寺田本家が成り立っている。
気になるなあ。どう違うんだろうって思うねやっぱ。
そうなんですよ。
やっぱりね厳守っぽいんだよね常に。
厳守ってあるじゃないですかたまに。
ああいう感じでちょっと香りも独特。
やっぱ厳守的なんだと思います。
人間で言えばね。
そうね。
っていうやっぱりでも発酵文化っていう文化圏にも第一人種、日本でも第一人種なので、
すごいやっぱりここに求めてみんな来るんですね。
なのでね、この酒蔵に行けばもちろんね直番所はあるんですけれども、
このカフェウフフっていうのを見てもらうとね、
やっぱりだからオランダにも、
このシーボルトが持ち帰ったイノーズとかもあるわけで、
オランダの方はやっぱりその日本の歴史も詳しくご存知ですから、
天文学者、同じ学者として、
このイノー・タダタカがやったことっていうのは、
やっぱり世界レベルのことなんですよ。
っていうのにリスペクトを表して、
自分が見つけたその小惑星に、
イノー・タダタカっていう名前をつけた。
彼が本当に星になったんです、もう。
いい話だ。
それこそね、タイガとかアサトラとかわかんないけど。
なりそうな話だね。
そしてね、もう一つ言うと、
この丸を極め星になれっていう風に書いてますけど、
これは当然ご存知の通りね、
札幌ビールさんのね、
丸くなるな、星になれ。
パロディーしたものなんですけれども、
この札幌ビールさんのCMでね、
使われているのが、ロストマンですよね。
バンプバチキン。
そうなんだっけ。
箱根エチデンの時のスペシャルムービー、
必ずバンプじゃないですか、札幌ビールさん。
何年か前のやつまでロストマンが使われてるんですよね。
そういういろんな関係性を持ってね、
このコースは考えさせてもらったという次第で。
やるね。
やっぱりイノー・タダタカのことはね、
コースとしてね、今回は取り上げましたけど、
やっぱりね、この人の、
僕ね、ウィキペディアの見て泣いたの初めてですよ。
イノー・タダタカのウィキペディアめっちゃ長いですよ。
前半戦後半戦に分かれてるんだけど、
すごいし、やっぱりこういう日本人がいたっていうのは、
本当にすごいと思うんだよね。
で、よくイノー・タダタカがすごいってさ、
やっぱり50何歳からさ、やり始めて。
で、70いくつまで即両しばっていう、
セカンドライフみたいなところでもすごいって言われるんですけど、
僕はやっぱりね、イノー・タダタカのこと最初はそう思ってたんですけど、
そうじゃないんじゃないかって最近実は思ってて、
っていうのは、
イノー・タダタカの人生とか残した手紙とかっていうのすごく、
僕一時期は本当にずっと調べてたことがあるんですけど、
っていうのを見てるとね、
僕は50何歳になったからこれがね、
成し遂げられたって逆のことを思うようになってきたんです、最近。
っていうのは、タダタカってね、
すっごいストイックなのよ。
性格はすっごい厳しくて。
弟子たちにも容赦ない過問とかすんだよね。
めちゃくちゃなんだよ、結構。
超怖い教師なんだよね。
その一方で、高橋義時っていう19歳したんですよ。
自分の息子みたいなやつには、
頭を下げてその墓の最後も守りがしたいとかって言って、
亡くなるわけなんだけど、
なんでこういう人生観が生まれるんだろうかっていろいろ考えると、
やっぱり僕が、我々29とかですけど、
その人生観に立った時とはやっぱり、
違う次元が見えちゃったような気がしていて、
彼はやっぱり50何歳まで一つの人生を生き残したようなぐらいになってて、
要は地位も名誉も手に入れたし、経済力も手に入れたし、
っていうことだったんだけれども、
その上でやるからこそ、
余計なプライドとかがなくて、
ひたすらその学級心というものだけに誠実に生きていられた。
だから、今若いってやっぱりどうしても、
地位、名誉、なんだかなんだか欲望がいろいろ出るじゃないですか。
だけど彼らもそれを一回脱ぎ去った、下脱した後の人生なんですよね。
だからこそ、高橋推し時にずっと使えたし、
そして逆に言うと、
その精神的な心のゆとりとか、精神の成熟っていうのは、
他の人とは引き劣らないぐらい成熟していた上なんだけれども、
自分の人生に残された時間というのが、
やはり他の人と比べると少ないと思ったんだと。
だからこそ、余計なプライドとかじゃなくて、
ただひたすら地球とは何なのかってことを調べるためだけに、
自分の人生と歩みを止めなかったっていうのが、
やっぱりすごいと思うんですよね。
それやっぱりだから、この50何歳になったからこそ、
実は逆なんじゃないかなって最近思うようになったんですよ。
そう言われればそうかもしれないな。
だし、実際に前半生で得たお金があってできたことでもあったし。
もちろんそれもそうなんですよ。
なるほどね。
というね、地球というものをひたすらに考えて、
いつの間にかその一周分を歩いていたっていう、奇跡の日本人の話です。
すごいな。
頭が下がりますね。
はい。
なるほど。
ということで、次回は雑談会。
ということで、今回はこの辺で。
ありがとうございました。
ありがとうございました。