1. 大人になりたい旅がしたい
  2. #92【福山】バラ薫る“潮目”の..
2025-03-26 1:23:55

#92【福山】バラ薫る“潮目”のまちへPart2

バラ薫る“潮目”のまちへ 建築そしてオーパーツ2日目


瀬戸内海と山陽道……海陸の大動脈をおさえる要衝として栄えた備後国。その首府福山には、長い歴史という素地に、強烈な個性とセンスが生み出した多くの“名建築”が存在しています。その造形に込められた人々の想いと技術のなかには、さながら“オーパーツ”ともいうべき、時空を超越した魅力を持つものも。福山のシンボルであるバラが一斉に花開く時期に、その神秘を訪ね歩きます。


【目次】

〜 初の海外アーティストライブに行ってきまして……

〜 “岡山食文化圏”を象徴するローカルベーカリー 【キムラヤのパン アイネスフクヤマ店】

〜 “潮目”が象る特異な文化と魅力 鞆の浦とはなにか?

〜 “日東第一形勝”の異名をもつ景勝地 【福禅寺対潮楼】

〜 ノスタルジックな旅情を醸す鞆の浦のシンボル 【常夜燈】

〜 海風を感じながら古民家カフェでランチを 【鞆の浦 a cafe】

〜 伝統のクラフト酒×清新な現代建築 【入江豊三郎本店】

〜 120年見つからなかった“秘密の部屋” 【龍馬の隠れ部屋 桝屋清右衛門宅】

〜 いくつもの奇跡が重なった継承のストーリー 【後山山荘】

〜 ★歴オタ話★ 藤井厚二が目指した“環境工学”そして“オーパーツ”

〜 1日の振り返り

〜 ★旅の終わりに★ “建築”をめぐる数奇な運命と備後福山の敬虔な精神


♪エンディングテーマ:羊文学 hopi


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⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠音楽:BGMer(⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠http://bgmer.net⁠⁠⁠)

サマリー

ポッドキャストでは、福山の魅力を探求する旅のモデルコースが紹介されています。特に、友野浦という歴史ある港町や地元の名物パン屋キムラヤの朝食が取り上げられています。また、建築と自然の調和についても言及されています。 福山市にある友野浦は、潮の流れや歴史的な背景を持つ文化的な港町として栄えてきました。このエピソードでは、江戸時代の歴史と観光名所である福禅寺大長廊や常夜灯の魅力が語られています。 このエピソードでは、香川県の常夜島とその周辺の歴史や美しい風景、地元特産の保命酒について詳しく語られています。特に、常夜島の重要性や美しい建築物としての価値に加え、友野浦のカフェでの食事やドリンクも紹介されています。 このエピソードでは、福山の伝統的な酒蔵、宝明酒がどのように過去から受け継がれてきたか、また坂本龍馬が滞在した場所について触れています。新たにリニューアルされた入江本店の魅力とその歴史的背景、さらには龍馬の隠れ家が語られ、地域の文化的深みが紹介されます。 このエピソードでは、福山市の隠された歴史的スポットである増谷正門のお宅と後山山荘の魅力が紹介されています。隠し部屋の発見を通じて、建物に残る妖魔の生活を感じることができ、後山山荘からは美しい景色が新たな観光地として注目されています。 福山市の後山山荘がリノベーションされ、その独自の建築様式や歴史が語られます。このエピソードでは、藤井浩二という建築家の重要性と古い家屋の価値がどのように認識され再生されていくのかに焦点が当てられています。 このエピソードでは、福山の後山山荘と藤井康二の建築思想について深く掘り下げています。環境工学の先駆者として知られる藤井康二により、後山山荘がどのように形成され、時代を超えて存続しているのかが探られています。 福山の建築文化と歴史がテーマの旅を振り返り、特に後山山荘や友和カフェ、福山に根付く建築家たちの影響について語られています。このエピソードでは、福山の不思議な魅力とその背景に迫ります。

バラ香る町の旅のスタート
大人になりたい旅がしたい。このポッドキャストでは、旅行とお酒が好きな同級生2人が、大人だからこそ知りたい、ちょっとディープな国内旅行のモデルコースを紹介していきます。
旅のお供はこの2人。旅が生き甲斐ない旅行ガイドブックの編集者、はるやです。
ディープな旅がしたいけど知識がない旅行初心者、うちだです。
はい、ほんとね、この収録の数日前なんですけど、とあるライブに行ってきまして、あのね、グリーンデー、アメリカのね、スリーピースバンドですけど、グリーンデーのライブに行ってきたんですよ。
俺初めて海外アーティストのライブに行ってきたんですけど、やっぱちょっと不安じゃん。
めっちゃ楽しかった。
えー、不安だ。
超かっこよかったしね。
超よかったです。
不安も払拭されるような。
不安も全然全然。ただ楽しい。
あの、Kアリーナ横浜っていうね、最近できたやつでやったんですけど、会場も良かったんですよね。
あーそう。
なんかね、横割りとかって結構ね縦に長い感じなんですよね。
まあちょっとステージの作り方によると思うんですけど、多いのは長方形の建物の短辺、短い辺のところにステージがあって席があるのが多分オーソドックスだと思うんで、結構ね、後ろの方だと本当に遠い感じなんだけど、
Kアリーナは結構ステージに対して扇形に席がある感じで、だからめっちゃ広いんだけど、あんまり遠く感じない。
で、なんかちゃんと音も上の方だったんだけど、音もちゃんと聞こえてたし、いい会場でしたね。
超楽しかったわ。
よくチケット取れたね。
そうね。まあそれなりのお値段はしてたんですけど。
なんか前、2020年に来日予定だったんですよ。
あー、そっか。
で、俺それ当たってたの。
へー。
で、行く予定だったんですけど、ちょっとコロナでね、やっぱ来れなくなっちゃって。
中止になって、それ以来というかね。
なるほど、念願かなって。
そう。
いや、行けてよかったな。
えー、今回はバラカオル白目の町園、建築そして大パーツの2日目、最終日となりますね。
広島県の東の方のリンゴの国府である福山を巡ってるわけですが、前日はね、建築がやっぱりお城から始まり、不思議な建築がたくさんあって。
まあやっぱ新庄寺の工程が印象的だったけど、今回は建築もありつつ、大パーツっていうね、ちょっと今までにない感じの、ちょっとオカルトチックなね。
まあちょっとね。
感じのテーマですけど、それが今回2日目。
キムラヤの朝食
そうですね。もちろんね、スタンダードの建築でするんですけどね。
じゃあ早速、よろしくお願いします。
はい。
前日ですね、福山駅近くのホテル、どこかに泊まっているという想定でお話をしていますので、そのホテルをチェックアウトするところから始めたいと思います。
9時頃にホテルをチェックアウトしたとしましょう。
その前にの想定でおりますので、市街地に朝ごはんを食べに行きたいと思います。
ホテルからだいたい5本があれば着くんじゃないかなと思うんですけれども、木村屋のパン、アイネス福山店です。
この木村屋のパンってご存知ですかね?
いや、わかんないかな。
カタカナなんですよね。
そうですそうです、木村屋がカタカナですね。
わかんないな。
これは岡山、広島の下、たぶん知らない人いないと思います。
っていうね、岡山県を中心にしたローカルチェーンなんですね。
なのであんまり東京の人は確かに知らないかもしれないんですけれども、向こうに行ったらすごくたくさん見えるようなところになりまして、
昨日から申し上げているところなんですけれども、福山というのは広島県福山市ではあるんですけれども、文化圏的には岡山の文化に近いんですね。
そもそもビンゴの国というものも、今の岡山市のあたりがビゼンの国、今の倉敷市のあたりがビッチューの国っていう風にして、
もともとはキビの国っていう古代の大きな国でいうと、ビゼン、ビッチュー、ビンゴで一つのグループだったんですよ。
なのでどっちかというと岡山とのつながりが非常に強い地域になっているのがこの福山のあたりなんです。
なのでこういったローカルチェーンとかも岡山系のものがすごい流入してるっていうのがこの福山の特色なんですね。
このキムラヤのパンね、僕岡山でも食べたしここでも食べたんですけど、おいしいんですよね、非常に。
いろいろあるんですけど、今回は朝ごはん用とでいきますので、トーストセットですとか、あるいはレーズントースト、サンドウィッチなんてのはありますけれども、
お飲み物とサラダとかが一緒についたお得なセットで頼んでいただければいいんじゃないかなと思うんですけれども、
キムラヤさんはやっぱりね、創作パンのキムラヤさんですよね。
特に有名なので言うとですね、バナナクリームロールですね。
キムラヤといえばこれという人も多いんじゃないかなと思うんですけれども、このバナナクリームロールなんかめっちゃうまいんですよこれ。
単純にそのバナナ風味のクリームがサンドされているコッペパンみたいな、コッペパンじゃないかもうちょい柔らかいかなっていう感じなんですけれども、なんかこれすごいおいしいんだよね。
僕好きなんですよすごくこれ。結構この辺行くと朝買っちゃうんですけど。
このロールパンというのを非常に多く手掛けられているということで、地元密着のローカルチェーンなんですね。
ほんといろんな種類あるね。いちごクリームもあるし。バナチョコロール。
うまそうだなバナチョコロール。なんかラインナップだけで見るとクレープみたいなね。
マーガリン、コーヒー、チョコレート、ティナンツ、ブルーベリー、いちごジャム、他にもね。
こんなにいっぱい作ってるんだね。
こういう本当に子供さんも喜ぶようなお惣菜パン、菓子パンみたいなものが非常にこのキムラヤさんの得意とされているもので、このバナナクリームロールはもうキムラヤさんの出世作といって関わらないんじゃないかなと聞いておりますけれども。
バナナクリーム売ってるよ。
そうなんですよ。だからご自宅でこれをヨーグルトにかけてでもできるかも。バナナヨーグルトでもあるかもしれないしね。
もちろんバナナクリームロールだけじゃなくて、いわゆる普通のスタンダードなパンもたくさんありますけれども、
やっぱりちょっとリーズナブルでふわっと甘いね。ちょっとあざいうれしいような優しいパンが持ち味がこのキムラヤさんかなと思いますので。
本店は岡山です。
キムラヤさんね、店舗によっては普通にいわゆるベーカリーとして販売だけをするお店というのもあるらしい。
それがむしろ多いらしいんですけれども、このアイネス福山店さんはね、これカフェ併設なんですね。
イートインができるということになりますので、モーニングメニューを頼んでいただいてもいいですし、ご自身でそれとは追加してバナナクリームロールとかを買ってカフェの中でいただくとかそういったこともできるというので、
ちょっとその岡山文化圏にはなりますのでね。広島の人暮らしたら岡山じゃないかと思うかもしれないんですけれども。
やはり朝ご飯としては一つおすすめのポイントになっているなと思って。
僕も福山行った時、3回朝過ごしたうちに2回ここに来ましたね。
そんな思い出がありふたりします。
モーニングは本当にオーソドックスな感じですね。
でも安いんですよね。
ここは朝早くから開いていますので、9時なら全然問題なく入れるかなという気がしますね。
ちなみにこれ木村屋さんは1919年創業という100年越しなので超新鮮です。
いやまあそんだけ残ってるんだったらそれは美味しいですよね。
やっぱり愛されるだけの理由と進化をずっと遂げていらっしゃるというね。
岡山の人からしたらまずは木村屋というのは皆さんご存知のはずです。
という地域の文化に朝ご飯でちゃんと触れていただこうと思うわけですね。
友野浦の歴史と文化
そしてですね、今回2日目なんですけれども、
前日が福山の中心市街地の城下町をわりと散策しましたので、
ちょっと郊外の観光スポットを訪れたいと思います。
福山は今では広島県下第2の経済都市として非常に発展しておりますが、
観光地として見た時も一つすごい有名なスポットがあるんですね。
それが友野浦です。
友野浦というのは福山の市街地から南へ車で30分ほど行ったところにある瀬戸内海の港です。
この港が観光地なんですね。
ということでちょっとそこに行ってみたいと思うわけですが、
今回は公共交通機関を使っておりますのでバスで移動したいと思います。
木村屋のバンアイネス福山店さんから福山駅まで5分ほどで戻ります。
そこから昨日も使いましたけれども、
友鉄バス、この友というのはそもそも友野浦の友ですね。
友鉄バスというもので32分ほど南の方にバスに乗っていただくと、
10時32分に友港というバス停に着くはずです。
この友港というところで降りてください。
最初にちょっとまずこの友野浦というものがどういうところだったのかということをお話しできたらと思うんですが、
これ一文字で友という地名です。
最初読めなかったんだよな。
川の辺に平と書くわけなんですけれども。
なかなかこれは友野浦で調べてもらうしかないかなという。
友というずっと昔から流れている港になっているわけなんですけれども、
古くは万葉集の時代とかからずっと栄えてきた非常に歴史ある瀬戸内海でも有数の港町です。
なんでこの友野浦っていうのがそんなに栄えたかっていうことなんですけれども、
その秘密がこれ自然現象によるものなんですね。
ここじゃなきゃいけない理由があったんですよ。
それがねこれいきなりタイトルの伏線回収なんですけれども、
薔薇香る潮目の町へとあるんですが、
この潮目というのがねキリワードになるんです。
要はその潮と潮がぶつかるところだよね。
そうですそうです。
瀬戸内海においてこの東と西からそれぞれ海流が流れてくるわけなんですけども、
これがちょうどぶつかるのが友野浦の大漢ですね。
潮目はよく漁場として最高だみたいな話が聞きますけどね。
そうなんですよ。
もともと今言ってくれた漁場はおそらく三陸海岸とかのあたりの
親潮と黒潮がぶつかるみたいな話だと思うんですけれども、
実はこの友に、要は瀬戸内海においては、
潮目というのは漁場である以上にもっと重要な役割があったんですね。
これはつまり瀬戸内海という海自体の役割に直結してるんですけど、
以前からたびたびこの高谷貨幣の話ですとか、
その前にも北米船の話とかあったと思うんですけど、
要は江戸時代までって、
この瀬戸内海っていうのが日本の経済の大動脈だったんですよね。
なのであらゆる物資がこの瀬戸内海を生き返っていたっていう時代があったわけですよ。
長らく日本には。
そこにおいてこの潮目が果たす役割って何だかわかりますか?
物流もそこに集まってくるってことだよね。
そういうことです。
具体的に言うと、瀬戸内海ももちろん海ですので、
潮の流れというのがいろいろ変わるわけなんですけれども、
月の満ち欠けによって看板の差がもちろん出ますよね。
そうなった時に、例えば満潮になった時には、
九州側の方の潮目が強くなって、
西からの潮流が強くなる時が例えばあったりする。
これは例えばの話です。
逆に別の満潮の時あるいは寒潮の時とかになると、
西の勢いが弱くなって、
東の金水道の方からの帰りが強くなったりする。
当時の船っていうのはもちろん電気とかもありませんから、
みんな手こりで漕いだりとか、
砲破ってどうにかしてたっていう時代なので、
海流っていうのが要はエスカレーターみたいなもんですよ。
エスカレーター逆走するばかりいないじゃないですか。
要はエスカレーターがちゃんとそっちに流れている時に、
船を動かしましょうっていうのは当然の理屈になるわけなんですよ。
それがだから九州方面から来る人にとっては、
西からの勢いが強いうちに、
友まで行っちゃうんですね。
っていうのがすごい大事なポイントになってる。
けど友まで行っちゃうと、
そこで海流が変わってくるから、
それを一旦やり過ごす。
なので西から入った人たちは、
友まで来たら、
友の港に一回入って、
ここでまた潮の目が変わるのを待つ。
東も同様です。
友の浦の独自の文化
東が強いうちに東から来て、
東が弱くなったら一回待っちゃう。
みたいなそういったことをやってたんですね。
桐生中みたいな感じだ。
そうなんです。
これが地球の運行上の問題だと思うんですけれども、
偶然この友の起き上げで、
この潮目の変換点っていうのが、
瀬戸内海に生じるんですね。
そのため友の浦というのは、
単なる港ではなくて、
潮待ちの港、
あるいは風待ちの港っていうふうに言われたんです。
なんかおしゃれな名前ですね。
おしゃれなんですよね。
そうなんです。
つまりみんなが潮の流れを乗ってきて、
休憩所にする。
みんなここに集まっていくんですよ。
みんなここで南北化して、
また潮が変わっていくと、
それこそ高谷河平のように北前触れで、
北海道の方に乗り出していくっていう航路を取ったりとかっていう、
そういう中継地になったんです。
なるほどね。
それは人も物も集まってくるね。
そういうことです。
それでやっぱり独自の文化が栄えたりとか、
みんなこの友の浦を消化するかによって、
軍事上の問題もやっぱり起こってくる。
だから古くから争いの場にもなって、
友をどう消化するかっていうのが、
この瀬戸内海の要は制する上で大事な問題だったんですね。
というのが友なんですね。
福禅寺大長廊の絶景
これが福山市なんです今ね。
なのでビンゴの国というのは、
この瀬戸内海の経済、政治を考える上で、
天皇山というかね、
ここはどっちに傾くかによって、
西国の政治を大きく転換していくっていう場面は、
歴史上何度も起こっていることなんですね。
ここでもやっぱ福山の土地的な重要性が出てくるね。
そういうことなんです。
だから幕府も友は手放したくなかったんでしょうね。
そういうわけで友子、今の友野浦ですね。
ニオは古くからそういうわけで文明、文化が栄えて、
ずっと日本の歴史とともに歩んできたわけなんですけれども、
幸いですね、この辺は災害だったり戦争だったり、
近代においてはあんまり巻き込まれることがなく、
江戸時代の街並みがまだまま残ってるんですよ。
だからそもそもすごくロケーションとしてもノスタルジックで、
映画のロケ地だったりもあったりしますし、
有名なところで言うと、
宮崎駿監督は「崖の上のポニョ」という映画、
我々中学生の時くらいですかね。
やりましたよね、音楽もね。
やったね。
あれの構想を練るために友野浦に長期滞在して、
友を舞台にした物語を描いたっていうふうなことが。
ポニョも港町が舞台ですからね。
そうです、あれ友が舞台なんです。
モデルになってると言われています。
小さい宮崎さんはここにいらっしゃったそうですけど。
っていうくらいやっぱり、
昔の風情を残しながら、
そしてそこに行き渡った多くの人生のストーリーを宿しているっていう、
特別な港町なんです。
やっぱり昔のその風情を楽しみたい方は、
観光地としても非常に有名な場所になっているので、
おそらく福山市で観光地で一番有名なのは間違いなくここだと、
いうふうに思います。
早速ですね、この友野浦を回ってみたいわけですが、
本当に小さな港なので、
全然歩いてすべて行けます。
バスを降りてからはすべて徒歩移動というふうに考えてください。
ということで友子のバス停を降りました。
そっからですね、徒歩5分ほどのところ、
ちょっと山を登るんですけれども、
福山寺大長廊というところです。
これお寺か。
そうなんです。
すごい眺めがいいですよ。
これがもうほんと瀬戸内海を眺めている形になるわけですね。
そうです。
いわゆる額縁状というかね。
お寺の中に張り出したお堂なんですけれども、
それが舞台みたいになって、
小高い丘の上に立ってて、
それをちょっと心にくくね、
柱とかで額縁みたいにくりって、
それを通してみると、
島が絵のように海と島が見えるという絶景スポットなんですね。
大長廊ってそういうことか。
ここで潮を見てたわけだ。
おっしゃる通りです。
なるほど。
なので要は休憩地点なわけなんですよ。
ここで明日行けるかみたいなのも見たりもしてただろうしね。
そうですね。
これいいですよね、この景色ね。
いいな。
なんかね、だんだんやっぱり瀬戸内海の景色っていうのが分かってきた感じがする。
この島の感じがね、やっぱ。
そうですね、多島日がね。
この向かいにあるのは潜水島っていう非常に有名な島なんですけれども、
やっぱり島なんですよね。
この青と緑と、そして空のまた青とっていうね、
グラデーション非常に綺麗ですよね。
そしてね、今見ている写真の額縁の上を見ていただきたいんですけれども、
ここに何かね、描くわけかっていうのは分かりますかね。
日東第一、何これ、形、勝って書いてあるけど。
これね、日東第一継承という風になります。
はいはいはい。
今ね、右から読んでいるというのはつまり時代が古いわけですよね。
これね、どういうことかっていうと、
実はね、この瀬戸内海を航行したとある人がこれを残していったんですけれども、
何者だったかというのは、
江戸時代に航行した朝鮮通信使という人たちを覚えていますかね。
なんかあったね。
すぐ教科書にはあったんじゃないか。
あったあった。
つまりね、江戸時代に日本は鎖国をしていたということになっているわけですが、
中国であり、オランダであり、
そしてこの朝鮮も含めて微妙に窓口が開いていて、
攻撃はしていたんですよね。
細いながらもね。
で、その朝鮮通信使に関しては、
大体将軍が代わることとかに朝鮮の方から日本へいらっしゃってね、
それで江戸城に登って挨拶をするというお使いをしている方々がこの朝鮮通信使、朝鮮の人々ですね。
そうか、朝鮮から来てる人が。
そうそう、朝鮮から来てる人々のことですね。
っていうのが、航路でいうと要は福岡の方から入ってくるわけですよ。朝鮮ですからね。
で、関門海峡を通じて瀬戸川区を東へ行くんですね。
そして大阪に入っていくわけなんですけど、つまりここに寄るんですね。
あー、そうかそうか。
さっき言ってた潮の流れもあるわけだから、
ここで行けるかどうかを生きらめるわけだね。
なので必ずこの朝鮮通信使たちの宿所みたいなのにね、
この福禅寺のあたりが当てられてた。
富野浦が当てられてたということなんですね。
そして彼らはね、ここにやってきて、
いわば半ば旅行なんですけれども、来るわけですよね。
そして日本のこの風景、瀬戸内海の風景。
朝鮮半島って宇宙見がありませんから。
そうかそうか。
日本オリジナルなんですよ、この宇宙見瀬戸内海っていうのはね。
っていうのを見て、これは素晴らしい景色だと。
穏やかで美しくて、素晴らしい港町だっていうのに感動した方がいらっしゃって、
そして日東第一景勝っていうのは、
つまり日本における最も優れた景勝地だっていう風に評して、
掛け軸を掛けていったっていうんですね。
じゃあその人にとってはここが一番日本一美しい景色なんだね。
そういうことなんです。
っていうことを読んでいったんですね。
そして掛け軸掛けた。
綺麗だもんね。
掛け軸、額だね。額を掛けていったんです。
そういう人もいるだろうなってくらいの景色ですよ、これは。
そうですよね。
これ見ての通りね、風と星が良くてね。
海からの涼やかな風が入ってくるんですよ。
何にもさえぎないずに。
これにね、5月にいることを想像してみてほしいんですよ。
なるほど。
それは気持ちいいわ。
これほんと気持ちいいですよ。
いつまででもいられちゃう。
こういうベランダ持ちたいもんな。
そうですよね。
理想の住まい的なね。
建築じゃないけれどもね。
そう思うじゃないですか。
今ね、いい伏線張ってくれました。
そうなんですよ。
やっぱり友はね、もちろん港町として攻撃の場所ではありましたけれども、
当然のことながら江戸時代が下っていってさ、
電力とかが発達してくると、
そもそも潮町とか風町とかって必要もなくなってくるわけですよ。
そもそも電車が走っちゃったりとか。
じゃあその友のうらは役割を失ってしまったのか、
錆びれていってしまったのかというと、
もちろん一面においてはそうだと思います。
だけれどもやっぱりこの継承、
観光というところに新しい魅力を生み出していく。
っていうのがこの友の歴史なんですね。
それのある意味きっかけともなり得たのが、
江戸時代の話ですけど、
この日東第一継承と称された伏線寺大長廊。
ぜひここは友のうらの象徴的なスポットですので、
行っていただきたいなと思うわけですね。
常夜灯の歴史と風情
いいね。
しかも午前中でしょこれ。
そうです。
いいね。
そこからまた徒歩5分ほど。
これちょっと丘の上にありましたので、
丘を下って港の方に行っていきますと、
もう一つ友のうらの象徴的なスポットがあります。
それがですね、常夜灯なんですね。
いやこれいい写真ですね。
これいい写真ですね。
これいい写真ですね非常に。
すごいな。
これね、常夜灯友のうらでね、
画像検索して一番最初に出てきたやつなんですけど、
超いい写真だなこれ。
ね。
空がね、マーブル状になってんすよ。
青空と夕日の赤い色でね。
綺麗だなこれ。
そうなんです。
福山観光コンペッション協会さんのね、
ページですかね。
いやいい写真だわ。
これいいですよねノスタルジックでね。
あとはよりこうちょっとね、
時間を下ったもので言うと。
日がもっと暮れてね。
もう日没寸前の夜空が上がってる中に、
この常夜灯ですのでね。
この石造りの塔の中にひっそりとこう明かりが灯って、
それが友のうらの港を照らしているというね。
非常にノスタルジックで、
なんかちょっと寂しさも思えるようなね。
港町の風情っていうのが現れていますよね。
なるほど。
この常夜灯なんですけれども、
1859年ということでね、
江戸時代です。
ペリーが来て横浜が開港された年ですね、
この1859年というのは。
そのレベルの話なんで、
要は150年以上前の話だよって言うんですけれども、
ここで作られた常夜灯というのがまだ残ってるんですね。
特に江戸時代の建物です、今のは。
そもそも常夜灯というのは、
いわば灯台の役割を果たしていますから、
港のとったんにあって、
ここが友のうらですよってことを示して、
だからあんまり近づきすぎると建物当たっちゃうかもしれないし、
逆に言えば目印に高校すれば、
瀬戸内海のその距離も測れますよねっていう、
そういった灯台の役割を果たしていた。
なので昔は必需品だったわけですけれども、
当然電力だったりを普及したり、
もっと船舶の規模が大きくなってきたら、
技術が進歩したらこれはいらなくなるはずなんですけど、
友のうらにおいてはこれは残ってるんですね。
ネット時代のままにね。
用途で言えば別にいらないんだけど、
残ってるってことですね。
そういうことです。
そして今もこの明かりを照らし続けているっていうね、
そういうものなんですね。
これ今写真で見てもらうとね、
すごい風情があるねって話だったんですけど、
そもそもめちゃくちゃ大きくて、
常夜島の魅力
海の方に伝わっている岐部なので、
我々が見えないところもあるわけですけれども、
そこまで合わせると、
なんと高さは11メートル。
減損する上野島の中で日本最大級と、
いうことになっていますね。
写真だとね、
そこまで大きい感じしてなかったけど、
でも大きいか。
船の管理がそこに見えますけれども。
確かに。
よく見ると大きいわこれ。
そうなんです。
これが港のシンボルとしてずっとあるんですね。
そしてまたこのフォルムというか造形も非常に綺麗で、
優れた建築物なんですね、これ自体はね。
そうだね。
かっこいいもんな。
かっこいいですよね、今から見てもね。
これは確かに無くなるとすごい悲しい感じするね。
そうですね。
なのでこれが代々守り継がれてきたものなわけですね。
これでよく見ていただくとね、
海上安全とかをやっぱり願った、
祈りの文言がここに書かれているわけなんですよ。
つまりやっぱりこれからさっきの新少女の話もそうですけど、
やっぱり海というのは非常に怖いものでもありましたから、
海上安全を願って、
そういった祈りのね、
信仰としてもこれは機能したものになっていて、
ちょっとネタバレをしてしまうんですけれども、
よくよくこのね、常夜島に近づいて見てみると、
そこに描かれて誰の神様にこれを祈ってるのかっていうと、
コトヒラ宮なんですね。
なるほどね。
じゃあやっぱり、
本当に瀬戸内海の一番大きい存在なんだな。
そういうことですね。
香川の時でね、やりましたけれど、
あれは昔から海の道標として機能していたコトヒラっていうね、
象津山という山自体が道標、海標だったということになって、
あれは四国川ですけど、
いわばそれの同じような役割を果たしていたのは、
この常夜島でもあるわけです。
彼らはやっぱりコトヒラというね、
もう本当にずっと昔から海上安全を守り続けてきた、
瀬戸内海の神様というものをリスペクトして、
この常夜島にも江戸時代の人たちが刻んでいったと。
コンピラ山の操れる海と。
ということで今でもね、
その当時の人々の思いと信仰がここに宿っているわけです。
これもちろん入場料とかあるわけでもありません。
本当に普通に一種の建造物ですので、
写真がやっぱ映えるんですよ、上手く撮るとね。
そうだね。
夕方がいいんだろうな。
やっぱ常夜島が灯ってからの方がいいね。
そうですよね。
ちょっと物悲しげな感じでね。
やっぱ海だからね、
他に高いものがあんまりないのがやっぱりいいよね。
空の中にそびえ立っている感じがありますね。
ということでね、
今回はちょっとお昼頃に行ってしまうんですけれども、
ぜひね、夕方まで友能来ということも全然できますから、
ちょっと時期とかタイミング、天気によっては、
こういったノスタルジックな写真を撮れるスポットとしてね、
注目をしていただけるといいんじゃないかなと思いますね。
ということで常夜島でした。
友野原カフェの紹介
でね、このまますぐお昼を食べに行きたいと思います。
実はね、常夜島のもはや初向かいなので、
1分もかかんない10歩ぐらいなんですけれども、
のところにあるね、
トボアカフェさんをご紹介したいと思います。
写真に常夜島が映ってますから。
あ、もう隣だね。
隣です。
一杯のコーヒーと波の音の聞こえる静かな裏ということでね、
この友の裏というものを非常にコンセプチュアルにしたね、
カフェになるわけですね。
今回洋食です。
パスタとかね、サンドイッチとかがありますね。
やはりね、魚介のパスタ、これ美味しかったんですよね。
ほんとだ。
このね、ページに書いてあるパスタのメニュー全部魚介ですね。
そうなんです。
やっぱり地元で採れた、友の裏タイ有名なんですけど、
タイですとか、あるいはサワラですとか、
あるいはタコとかね、この辺はよく採れますけれども、
それをオイリーに和えたりとか、
あるいはやっぱりこの瀬戸内の柑橘だったりトマトだったりっていうね、
イタリアのどっかフードを思わせるようなね、
素材が揃いますから。
なるほど。
これを和えたパスタのランチメニューは非常にいいですね。
いいね。
これを海沿いで食べるのは気持ちいいだろうな。
そうなんですよ。
はあ。
ましてこれもね、古民家であって、
さっきの城谷島と似たようなものになりますから、
風通しもすごく良くてね。
その静かな港町のさざ波を見ながら、
このパスタをね、味わえる。
そしてね、今回ランチメニューとしてね、
イートインでいただいているわけなんですけれども、
これ実はね、テイクアウトもできて、
なんかお店に小窓みたいのがついてて、
そこがこうドリンクを出すみたいな感じになっているわけなんですよ。
なので、友野原ってすごい飲食店いっぱいありますから、
いくらでも候補あるんですけど、
別のところで食べちゃったよっていう人は、
この城谷島を見に来るついでに、
この友野原カフェさんではテイクアウトでね、
飲み物をいただくでもいいかもしれません。
なんかね、令和ソーダとかね。
ね。
瀬戸内レモンドリンク。
はい。
レモネード、レモンスカッシュ、レモンスムージー。
うん。
とかね。
うん。
ありますね。
はい。
特にね、このレモンの話をするとね、
大見島って書いてありますけれども、
大きな3つの島と書いて大見島。
はいはい。
これはね、厳密に言うと愛媛県の島なんですね。
はぁ。
うん。
愛媛県の今治市から広島県の尾道市にかけて、
島並海道っていうものが通っているんですけれども、
これの中心になる島が大見島です。
はぁ。
なのでやっぱりこの島並海道だったりね、
ビンゴ地方の柑橘類というものを使った、
オリジナルドリンクを作っていらっしゃって、
それを気軽にね、
テイクアウトができるというところでもね、
注目したいですね。
うんうん。
で、このね、カップ見ていただくと、
常夜島が描かれてますね。
そうだね。
うん。
あぁ。
他もね、普通にエスプレッソメニューとかね、
うんうん。
コーヒーとかもありますね。
うん。
そしてね、
アルコールどうつまみもあるわけなんですけれどもね、
あるのかぁ。
困りますね。
はぁ。
ところがですね、
はい。
ちょっとアルコールね、待っていただいてもいいかなと。
ビールとかワイン飲んでいただいてもいいですけど、
はぁ。
何これ、
保命酒?
はい。
命を保つ酒って書いてあるんですけど。
しかもショットって書いてある。
ふふふふ。
もちろんね、
これだけで終わらせるつもりはないわけです。
はぁ。
今からこの蔵元にね、
行きたいと思うわけなんですけれども。
ちょっと手の間違いじゃないか。
ふふふふ。
はい。
まぁなので、
ともかくトモカフェさんとしては、
そういうわけでね、
鳩場の目の前で、
常夜島の目の前で、
こういったランチをね、
はい。
地産地消のランチをいただけるということと、
テイクアウトもできるので、
街歩きの休憩にも使えるよということなわけですね。
うんうんうん。
特産品保命酒の説明
で、
まぁ今ね、
匂わせた、
お酒のことなんですけれども。
はいはいはい。
友野原といえばね、
一つね、大名酒ともなり得るものがあるんですね。
ほうほう。
これがですね、
保命酒です。
保命酒か。
はい。
はぁはぁはぁ。
ということで、
友亜カフェさんから、
10分ほど、
ちょっと港から内陸の方に戻っていただくと、
はい。
入江豊三郎本店さんがあります。
うん。
これが蔵本なんですか?
そういうことになりますね。
保命酒とはまず何かということになるわけなんですけれども、
これ聞いたことありますかね、保命酒。
いやぁ、わかんねぇなぁ。
うん。
陽命酒しか知らないよ、これは。
あぁ。
陽命酒はわかります。
あれはね、
CMとかでもやってますよね、これね。
はいはいはい。
なんかこう、漢方とかが入ってる、
うん。
まぁなんか、体温めたりとか、
うんうんうん。
いうお酒ですよね。
保命酒もそれに極めて近いものです。
あぁ、なるほどね。
つまり、漢方とか、
そういった薬効があるリキュールなんですね。
あぁ。
うん。
で、これがね、
友野浦の特産品なんです、ずっと昔から。
あぁ。
はい。
いやぁ、でも他で見たことないもんね。
そうですよね。
保つ命の酒と書いて保命酒なんですけれども、
友野浦にはね、
今現在4つの酒蔵が確かあるという風に聞いていまして、
そのうちの1つがこの入江豊三郎、
友江印の入江豊三郎という家紋があるわけですけど、
ほぉー。
というものになるわけです。
で、ここでじゃあまず、
保命酒は何かということをちょっとお話ししておきたいというわけなんですけれども、
保命酒というのは、
これね、とある人が発明したものなんですね。
うーん。
で、それは何かというと、
大阪出身の商人中村さんという人がいたそうなんですけれども、
この方がやはり大阪商人で、
当然友野浦にも縁が瀬戸内の高校でありますから、
友に移ってきたことがあったと。
で、そこで大阪の方で手に入れた知識でもって、
オリジナルリキュールみたいなのを作ったそうなんですよ。
まさにクラフト酒ですね。
そうするとそれがね、
大流行りして、
ただおいしいだけじゃなくて、
ちゃんとその薬効があって、
本当に保命酒的なね、
命を保つじゃないですけれども、
人間の健康促進、
血流促進とかにも効果があるということが認められて、
めっちゃ流行ったそうなんです。
へぇー。
で、ある意味は中村さんの家業でしたので、
江戸時代の間はこの中村さんがね、
独占企業みたいな形で、
一家総伝みたいな形で、
ずっとこの保命酒というのを受け継いでいた。
で、さっき言ったように友野浦にみんな寄るんですよ。
船の人たちがね。
ですから、
友野浦土産といえば保命酒ということで、
みんな買っていくんですね、
このリキュールをね。
はぁー。
じゃあもうみんな買って、
ばら撒いてくれるんだ。
そうそうそう。
やっぱ友野浦のようはもう象徴になっていくので、
あ、友に行ってきたんだねっていう話のためになってるでしょうか。
それぐらいのやっぱり知名度を誇るね、
お土産になっていったそうなんですよ。
はいはい。
で、もちろんただ実際お土産という以上に
薬行がある本当に良いお酒でしたので、
これは非常にやっぱりブランドとしても価値が高いものだとみなされて、
有名なところで言うと、
幕末にね、
アメリカのペリーさんが来るわけなんですけれども、
ペリーが裏返って、
まあいろいろ条約とかなんだかってやってるわけですが、
その時にね、
レセプションパーティーみたいなのが開かれたんですって、
アークスが主催する。
そこに食前酒として、
宝明酒の歴史
日本の食前酒出されたのが、
この宝明酒なんですよ。
つまりもしかしたらだけど、
ペリーが最初に味わった日本の酒が宝明酒だったのかもしれない。
いやーなんか普通考えちゃうよね、
日本酒出しそうなもんだけど。
これはね、
どういう意味とかだったのか僕もわからないんですけど、
もしかしたらちょっと西洋の人にも受ける
っぽさがあるなと思ったのかもしれません。
なるほどね。
日本酒いきなり出すとね、
その知ってるお酒とギャップが高いかもしれないから。
なるほど。
ペリーが初めてそれを日本のお酒として飲んだかわからないけれども、
ペリー艦隊に出されたのは間違いない事実なんですね。
っていうぐらいやっぱりバクフとしても、
このトモの宝明酒というのは非常に重きを置いていたお酒なわけなんですね。
ところがね、
中村さんはそういうわけで、
トモが栄えていただいちゃうよかったんですけれども、
ちょっとその物流の関係とかでトモが廃れていってしまうと、
ちょっと色々あって廃料してしまった。
じゃあどうすんだ宝明酒ってなった時に、
新しく中村さんの技術とかを受け継ぐ酒蔵さんが参入してきて、
それが今のトモの裏の酒蔵になってきたそうなんですね。
明治中頃に中村屋さんはなくなってしまったそうなんですけれども、
この入江さんという方が参入してきて、
入江本店の魅力
今この宝明酒を受け継ぐ一つの酒蔵になっている。
じゃあこの入江さんというのは何者だったのかというと、
実は台本に見慣れた文字があるんじゃないかと思うんですけれども、
なんとね、
四惑水群の子孫なんですね。
覚えてますかね?四惑水群。
本島で活躍した。
船乗りであり、船大工であり、みたいな方たちですよね。
そうですね。
水群は戦国時代の話ですけれども、
本島、我々行きましたよね。
本島を一帯の四惑諸島というところにいた海の民たちが、
四惑の人たちで。
彼らが日本を代表する総戦技術のプロで、
韓林丸の後悔に大きな影響を及ぼしたという話は、
以前言った通りです。
その人たちの一人が、
この猿城から共に移住してきたんです。
つまり先ほどの城野島にことひらの名前が刻まれていたことでもわかる通り、
やっぱり瀬戸内海の中国側、四国側っていうのは、
非常に文化圏としても強い結びつきを持っているんです。
そうだね。密接だなっていうのは感じるね。
感じますよね。
なので、このイリエト・ヨサブロ本店は明治からのお店になるわけですけれども、
四惑から移ってきて、
独自の豊名所を作っていらっしゃって、
ブランドとしても確立しているものになるわけですね。
なるほど。
そういうわけで、豊名所というもの自体は、
今共に酒蔵としてはたしか4つだったと思うんですけど、
いくつかあるわけなんですが、
なぜその中でもこのイリエさんを選んだのか、
今回ご紹介させていただくのかという話なんですが、
これが建築なんですね。
友の町の中に、
このイリエト・ヨサブロさんの本店があるわけなんですけれども、
これが昔ながらの建物ではあるんですが、
令和3年なので、
数年前にリニューアルオープンをしたばかりのお店なんですね。
僕行ったの3年前なので、
これ本当にリニューアルした直後に行ったんですよ。
外観から見ると、
友の町並みに調和した、
昔ながらの屋並みなわけなんですけれども、
中へ行って、
ショップがあって、
豊名所をいろいろ置いてあるわけなんですけれども、
その先にスタイリッシュの中際とかが、
アートスペースが置かれていたりして、
壺庭みたいなのがめっちゃ綺麗なんですよ。
これはわざわざ作ったのかな?
そうなんです。
やっぱりリニューアルオープンをするということで、
もちろん福山以外のお客様もたくさんいらっしゃるということで、
この新しいアートスペースみたいなのを新設したというのが、
この友の入江徴泳三郎さんなんですね。
このこじんまり感がいいね。
そうですよね。
なんか良いサイズ感というかね。
そうなんですよ。
このベンチ座りたいな。
これで座れるんですね。
いいな。
ちなみに向こうはお手洗いになってますので、
途中にね、僕もお手洗いに行こうと思わなかったら、
これ気づかなかったかもしれない。
行こうと思ったらつぼ庭が現れて、
そのつぼ庭を通った先がね、
そういう風になってます。
非常にこれ素敵ですよね。
いいな。
なので実際ね、
こちら今回のコースでは、
ほうめいしゅというものを購入ぜひいただきたいなと、
思うわけなんですね。
お土産としてね。
なんですけれども、
同時にこのギャラリーとか、
ギャラリーには昔から入江さんたちが紡いできた、
ほうめいしゅのパッケージだったり、
歴史資料みたいなのをバーッと展示してあるので、
この現代建築のすごい優れた設計の中で、
こういったものを楽しめるというので、
今回のテーマであえて一つ選ぶのであれば、
やっぱりこの入江さんに行ってほしいなと、
思うわけですね。
ほうめいしゅ自体もちょっと飲んでみたいしね。
龍馬の隠れ部屋
そうですよね。
なかなかやっぱり、
普段見ることがあんまり少ないかもしれませんね。
俺も見たことないもん。
でもやっぱり友といえば、
ほうめいしゅというのはね、
大名詞ですので、
やっぱりこれはぜひね、
立ち寄っていただければいいかなというふうに思いますね。
命保ってほしいもんな。
そうですよ。
大事ですね。
お酒でこんなに命保ってあるのいいですもんね。
そしてね、
ちょっとその近くにもう一つね、
歴史的に寄ってみたいスペースがあるので、
訪れたいと思いますが、
入江豊三郎本店さんから徒歩3分ほど、
本当にこれも同じ街の中にあります。
龍馬の隠れ部屋、
増谷正門宅です。
龍馬の隠れ部屋があるの?
非常に気になるキャッチフレーズですよね。
これはですね、増谷正門さんというのは、
やはり江戸時代から代々続いていた、
友野浦の商人の家なんですね。
なので外観を見てもらうと、
瓦のね、すごいがっしりとしたね、
昔ながらの商家という感じですけれども。
立派ですよ。
立派ですよね。
まあ昔ながらの商家のわけなんですけれども、
なぜこれが龍馬の隠れ部屋なんか言われてるのか、
ということなわけですね。
龍馬というのは当然のことながら、
土佐藩の志士坂本龍馬さんのことになるわけなので、
幕末の非常に有名なヒーローなわけですけれども、
この昔は実は友野浦に滞在したことがあるんですね。
これはなぜ滞在したのかというと、
イロハマル事件という事件に巻き込まれたんですね。
これは龍馬が好きな方は必ず知ってるんですが、
坂本龍馬が亡くなる、
本当に数ヶ月前の出来事なんですけれども、
龍馬ってその時、薩長同盟を成し遂げて、
自分で海運業者というのを長崎で、
神山社長というのを起こして、
いろいろ船で商売していたわけなんですけれども、
ある時この海で、
イロハマルという船を操っていましたら、
運悪く奇襲犯、
これ五三家の和歌山ですね。
奇襲犯のでかい船とぶつかっちゃって、
イロハマルというのが沈没しちゃったんですよ。
要は海難事故です。
大きいです。
というので、大問題になるんですね、これが。
龍馬はしかも、彼の言い分としては、
明らかに奇襲犯がおかしい。
要はスピード違反、海上法に違反していると。
それで無茶な航海をしていたから、
こっちはちっちゃい船で頑張ったのに、
それを避けることができない奇襲犯が悪いと。
でも奇襲犯としては、
天下の五三家の持ち船が、
よく分かんない土佐のスローリングを持ってる船なんかに、
文句をつけるやつじゃないと思って、
喧嘩になるんですね。
その談判をする場所になったのが、
やはり東西の潮目である、
富野にあったんです。
ちなみに談判したのは、福前寺大長老です。
さっき行きましたよね。
その時に談判のために、
奇襲の役人が東から来て、
龍馬は長崎とかから西から来るわけなんですけども、
共に集まって、ここで会議をされた。
裁判です、要は。
その時に滞在したのが、
このマス屋さんだったって言うんですね。
ホテルにしたんですね。
これもともとはな?
あ、そうか。
大事件じゃないですか。
大事件です。
結果的には龍馬が焦燥するんですけど。
っていうことがあったんですね。
なんで別にそういう経緯なのに、
隠れ部屋みたいなね、
大量なものが付いてるのかっていうね。
普通に堂々と泊まってればいいもんね。
そうなんです。
ところがですね、
後から我々が知ってる歴史を話してしまえば、
坂本龍馬というのは、その後直後に、
数ヶ月後に京都で暗殺されるわけなんですね。
もうすでにこの時、幕府とか、
そういった色々な人から命を狙われていた。
ましてイロハマル事件みたいな奇襲犯を
相手に喧嘩し始めたりすると、
なおさら命つけられるわけなんですよね。
ということでね、なんと龍馬はね、
この時、偽名を使って、
身を隠しながら、
ひっそりこの松屋に潜んでいた、
という伝説が語り継がれてた。
松屋のその当時の店主だけは、
その秘密を知ってたはずなんですけど、
どうもあれは坂本龍馬だったらしい、
っていうことが、
ひっそりとこの家の中で伝わってたけど、
誰もその存在を明かさなかったんですって。
守ったんですよね。
なるほど。
松屋は当時の。
勘づいてはいるけど。
角があったんですよ、龍馬のこと。
龍馬は正体知ってたはずですよ。
はずなんだけど、
ここに書いてある通りね、
名前を伏せて宿泊していた龍馬。
埼谷梅太郎というね、
龍馬の有名な偽名があるんですけれども、
これ有名なんです。
埼谷っていうのは、
もともとの実家の矢古なんですね。
ということでね、
これの偽名でもってね、
龍馬であることを伏せてね、
ここに宿泊していたそうなんです。
松屋はそれを知って、
おそらく知っていたんですけど、
これを隠まってた。
っていうことなんですね。
なるほど。
ただその隠まい方も、
生半可なもんじゃなかったんですよ。
目指したら、
奇襲犯に見えつけられたら、
この人たちも危ないですよ、
松屋自体も。
何隠まってんだって。
そんな変な不思議なやつをね、
っていうことになるので、
松屋にはどうも、
龍馬を隠していた秘密の部屋があったっていう、
噂が流れてた。
だけど誰もその存在知らなかった。
江戸時代、
その当時の当主だけがその話を知ってて、
それをわらないまま亡くなったんですって。
だからあくまでも誰も知らない幻の部屋が、
どっかにあるっていう噂があるけど、
そしてそこにいたのが坂本龍馬だったって、
なんとなく聞いてるけど、
って思っていたらなんですけど、
なんとね、
1989年、
龍馬が滞在した、
122年後に、
この松屋の工事をしていたら、
隠し部屋がね、
家の中から見つかったんですね。
本当にあったんです。
なんでそんなに見つからなかったんだろう。
そうなの。
隠された秘密の発見
これがね、不思議な話でしょ。
程度をいくとわかるんです。
なぜこれが見つからなかったのか。
とんでもないとこなんですよ。
中二階みたいな謎のフロアがね、
秘密に隠されてた。
部屋とかじゃなかったのよ。
秘密のフロアがね、
この間に埋め込まれてた。
へー。
あーなるほどね。
階段を閉めちゃったら、
まさかそこにフロアが落ちてるなんて。
誰も気づかなかったんです。
へー。
本当の隠し部屋だったんです。
なるほど。
でも確かにな。
フロアの中に人部屋があるとかよりも、
実は気づきにくいかもね。
そうそう。
意外とこうやって壁を塗って、
どこにトイレがあっちにあるのかやってるんじゃなくて、
そもそも自分が立ってる下に、
秘密のフロアがあった。
誰もこれに120年間気づかなかったんですって。
はー。
平成になってからですよ。
俺だけが気づいたのって。
そっかそっか。
そうだね。
いやー。
それは隠せるね。
うん。
だから妖魔が止まった、
その当時のまま残ってたんです。
うんうん。
見つかってないからね。
誰もそれ以上使わなかったから。
結局。
っていうのが見つかって、
おーいーってなって、
これはさすがにちゃんとちょっと、
どうにかした方がいいんじゃないかってことになって、
約20年間、
時を経てね、
2011年から、
この隠し部屋が公開される状態になったと。
やっぱりだいぶ老朽化してたので、
うまくちょっと修復とかをして、
しかも変な入りづらいところにあえてあるわけなので、
どうにかこうにかやって、
今は我々はね、
この妖魔の隠し部屋に本当に入れるんですよ。
へー。
うーん。
見てみたいなそれね。
うん。
本当にね、
行ってみると、
まず天井が低くて、
うん。
でね、こう段端子みたいなの通って、
こうやって行くんですよ本当に。
今の我々もね。
はいはい。
だから階段でフラフラとかじゃなくて、
上りながら行った先にあって、
うん。
天井が低くて石壁みたいになってて、
うん。
で、その中に畳敷で、
真ん中にちっちゃな布机が置かれていて、
うん。
そこにね、
手紙がね、
まあ当時のレプリカなんですけど、
うん。
妖魔これ手紙を書いてるんです。
ほうほう。
それを再現してるということで、
その妖魔が実際に使っただろう布机の規模と、
その手紙が本当にそのまま置かれてるんですよ。
うーん。
だから本当に妖魔その人がそこで座っていたっていうのが、
もうありなりと見えてくる。
はあ。
で、薄暗い部屋でね。
うん。
だけども、外にはねちゃんと換気もついてて、
うん。
友のねこの町をね、
ちゃんと小窓を開けると実は密かに見えたりもする。
へー。
っていうね、
まあ隠し部屋ではまさにっていう感じのところなんですよ。
へー。
だからその普通に商人たちが、
このマスヤさんたちがいる営みのすぐ上にね、
密かにこの妖魔隠れしてたんですよ。
はあ。
うん。がね、残ってるんですねこれがね。
へー。
いや小窓あんのになんで見つかんないんだろうな。
そういうことなんですよね。
不思議だね。
まあもちろん滞在した期間は短かったので、
うん。
っていうことなんでしょうけど、
うん。
まあ逆にもそこまでして隠まってあげたかったっていうこともあるのかもしれない。
うんうん。
マスヤとしてはね。
うんうん。
あるいはもっと想像をたくましいようにするならば、
今は妖魔って言ってますけど、
そもそも妖魔のためにこれ作った部屋じゃないと思うんですね。
うん。
そんな一長一短にできるもんじゃないんですよ。
うん。
だからあるいはマスヤは、
もう兼ねてからこういったことをもう、
はあ。
してた。
なるほど。
妖魔と絶対こういった友っていう、
いわゆる怪しい攻撃が行われた場所でもあるんですよ。
ある意味で言うとね。
うんうん。
で、今幕末のこういう不穏な情勢だからっていうんで、
もしかしたら妖魔以前にこういうこの部屋を利用していた人っていうのは、
もっとビッグネームが実はいっぱいいるんじゃないかっていう。
ああなるほどね。
そんな想像すらできるような気もしますね。
うんうんうん。
うん。
へえ。
うん。
いやあなんかちょっと面白いミステリーがある感じですね。
ミステリーですね。
うん。
というのがね、
実物が今も残っているという非常に貴重です。
もう妖魔が暗殺された部屋は京都に残っていませんから。
ああ。
もうほぼここだけだと思います。
ほぼちゃんと残っているので。
へえ。
へえ。
ただ残念ながら妖魔はここに泊まった数ヶ月後にね、
殺されてしまった。
うんうん。
本当に最後の裁判年のね、即席ですね。
うんうん。
うん。
というのがね、
歴史的な見どころとしての増谷正門さんのお家なんですけれども、
オシャレなセレクトショップ
はい。
実はね、この増谷さんは今もう消化ではなくて、
うん。
建物は増谷さんのものなんですけれども、
うん。
その1階にね、セレクトショップがあるんですね。
ほう。
瀬戸内小物と暮らしの雑貨、増谷ということでね。
うん。
増谷さんの1階は今ね、新しいセレクトショップで、
非常にね、オシャレなね、瀬戸内ビンゴのね、雑貨を扱っているお店になっています。
へえ。
うん。
なんか可愛らしいものがいっぱいありますね。
うん。
特にね、ビンゴの国ってね、昔から製衣料が盛んだった町ですので、
うん。
やっぱりこのユクリカってオリジナルブランドらしいんですけれども、
福山市や友野浦をモチーフに作るオリジナル雑貨、手ぬぐい。
うん。
っていう風にありますが、
この繊維を使った手ぬぐいだったりハンカチだったりっていうものが非常に多く置いてあって、
しかも良質なね、地元産のものになっているので、
これ僕実際ハンカチ買い合わせていただきましたね、確かにね。
へえ。
とかっていうすごい小さな可愛らしいアイテムがね、たくさんあってね、
すごいオシャレなんですよ、ここ。
へえ。
この裏を抜けていくと龍馬の部屋があるっていうね、
なんか不思議な場所になるんですよね。
そうだね。
同じ建物の中です、もちろん。
はあ。
いや、いいですよね。
これお土産とかにいいね。
そう。
なので今回はね、
イベントユーザブロスさんで訪問券を買って、
かつそれからすぐここに行って、
こちらで友野浦のビンゴのお土産買っていただきたいなと。
ショッピングスポットとしてのご紹介にもなっているので、
ぜひね、せっかく行ったからにはね、
龍馬のね、隠し部屋にも行ってもらいたいんですけれども、
まずお土産スポットとしても、
まず非常に優れたお店になっていますので、
その観点でも楽しめるはずです。
うん。
ということでね、
松屋正門拓さんのご紹介だったと。
はい。
後山山荘の魅力
そして次はね、
この一泊二日の最後のスポットになります。
はいはい。
松屋正門さんからやはり10分ほど、
ちょっと場所で言うとね、
今まで行ってない港の西側の方までね、
回ることに、
今まで東側の方にずっといたんですけれども、
なるんですけれども、
ここがね、最後大物で、
この一泊二日のね、
一番のメイン。
はいはい。
そして今回のテーマのね、
骨格なんですけれども、
後山山荘というね、
ものをご紹介したいと思います。
これはね、
なかなか知られてないと思う。
うーん。
後山山荘というのは、
前後の5に、
マウンテンの山に、
山荘、
これも山ですけれどもね、
と書いて、
後山山荘というね、
お宅なんですね。
うーん。
これがこのね、
友野浦というものと、
ビンゴというものの、
そして大パーツを考えるのに、
非常に大きな問題を持っているスポットになっていて、
ほう。
これを見るために、
僕ビンゴ行ったんですね。
へー。
一年にほんと、
5、6日しか公開されないんです。
ほうほうほう。
ただこれはね、
すごいし、
なんかね、
いろんなことを考えさせられる、
ここまで一つの建築で、
資産を受けることって、
なかなかない気がする。
へー。
っていうふうに、
不思議な家なんです、
これ。
へー。
ということで、
まあちょっとまず、
なんというかというね、
ことを話さなきゃいけないんですけれども、
うーん。
まあ後山山荘というわけで、
ちょっと画像検索をしてもらいましょうかね。
まずどういう魅力を持っているのか、
見てもらった方がいい気がします。
うーん。
うん。
ここもなんか、
瀬戸内海を一望できる感じの、
うん。
眺望ですね。
まあ特にこのね、
友野浦っていう港をね、
一望できる角度にあるんですね。
ああ、そうだね。
はいはいはい。
なので、
で、
高台の上にあるんですよ。
うん。
なので港をね、
こう見ながらゆっくりね、
腰掛けてね、
この主要風に吹かれながらというね、
お宅なんですね。
うん。
これはこれで、
大長廊か。
はいはいはい。
とはまたちょっと違う景色だよね。
うん、
そうですね。
うん。
もちろんどちらも景勝地として優れたものには
なりますけれども、
うん。
ちょっとやっぱり角度とかが違ったね、
そうだね。
見えるようなものになりますよね。
うんうん。
で、
ここになんかちょっとデザイン性のある旅館みたいな感じもね、
おかれするよ。
うん。
和モダンって感じだね。
まさに、
ぴったりですよね。
ね。
うん。
周りのね、
この外壁とか、
障子とかを見てもらうと、
うん。
これは和風建築だと思うんですよ、
はいはい。
どう見ても。
だけれども、
その中を見てもらうと、
うん。
ソファーだったりとか、
うん。
あるいはこのシャンデリアとかを見てもらうと、
後山山荘の魅力
どことなく洋風の思いもありますよね。
うんうん。
けれども、
それがこうすごく一体化していて、
無理のない感じで収まっているのが見てとれるんじゃないかなと思いますね。
そうだね。
おしゃれだなあ。
おしゃれですよね。
そしてね、
ぜひ見ていただきたいのがね、
これなんです。
これいいなあ。
うん。
俺がさっき言ってたのはこれか。
そういうことです。
あのね、
まあベランダじゃないんだけど、
うん。
ちょっと出っ張ったね。
うん。
あのよく旅館のさ、
うん。
窓際に、
はいはい。
フィスバーがあってさ、
はいはいはい。
ちょっとあの、
ちっちゃいスペースみたいな感じ。
ありますね。
あれの大きい、
うん。
そういうことです。
そういうことです。
うん。
そしてここに一個ね、
ゆらゆら揺れる椅子がね、
うん。
あって、
その先に友の夜景がね、
はあ。
広がっていますよね。
贅沢な空間だこれは。
うん。
というね、
うん。
まあ一見旅館なのか、
あるいはまあ、
すごいデザインへと、
芸能人のお家なのかみたいな感じのね、
うん。
ものになるんですけれども、
うん。
一体これが何なのかと、
なぜここまで僕がこういうのかっていうことなんですけれども、
うん。
そしてなぜこれはね、
ねえ、
ねえ、
ねえ、
なぜ一体、
これはね、
計画が長い。
ねえ、
計算のために、
ねえ、
妨害されるのかっていうことなんです。
ああ、
そうなんですね。
これはね、
非常に不思議な運命を辿ったね、
建築なんですけれども、
うん。
実は、
今こうやって我々が見れている、
この後山山荘というのは、
うん。
近年リノベーションされた姿なんです。
ああ、
はいはいはい。
で、
なので今すごく見てもらうと、
旅館とかでもありそうだねってぐらい、
うん。
現代的なセンスも、
感じられるものになってると思うんですが、
あとの姿なんですね
もともとはこれは昭和の初めに建てられた
つまりだいたい今から80年前90年前頃に
建てられたと言われているコミカなんです
なぜこういうふうにして生まれ変わって
今公開されているのかということなんですけれども
黒金屋の歴史
実はこの話は後山三相さんのページに
後山三相再生物語というコラムがあるので
それを見てもらえればと思うんですけど
ちょっと今日は端折って話しますけれども
2009年頃だと言われているんですけれども
福山市ご出身のとある証券会社の役員さんだったと思うんですが
あくまで個人の方が一般の方の名前は存じは出ません
がお母様が福山に出したとなくなられたりとか
あるいはもうそろそろ自分ももうキャリアをね
考え引退してという感じにお年寄りになってきた時に
やっぱり地元との繋がりがだんだん薄れていくっていうのは
このままで良いのかっていうことをやっぱり思われたそうなんですね
つまり東京は東京でもちろんいいんだけれども
やっぱり自分は福山っていうものとの繋がりとかを
ちゃんと保っておくべきなんじゃないかっていう
心境の変化があったそうで
福山に家を持てないかっていうことを模索していたそうです
これは何のうちに普通にそうか
途中とか物件とかを色々探していたんですって
そしたらとあるウェブサイトだと聞いてるんですけれども
友野浦の港を一望する山の上に
不思議な土地が何故か売りに出されている
何だこれってふうにふと見つけて
一体どういうところなんだろうと思って
福山に帰られた時に実際見に行ったんです現場
案内が全然よくわかんない土地だったと思う
そこに行ってみたら出てきたのがこれだったって言うんですね
もう瓦礫もあんのか
てか瓦礫ですこれ
本当だ普通に木の枝とかかと思ってたけど
崩れてるんだ
そこに行った時にミカノンは山の中なんですけど
何者かが作った家が崩れてしまっている
一体この崩れた家は何なんだ
そしてなぜこの土地を売りに出されているんだ
非常に奇妙な土地だった
だけどこの家の裏手を崩れた家の裏を回ってみたら
さっきの友野浦の風景が一望できるめちゃくちゃいいところ
ここに自分の家を建てたい
壊れた家はよくわかんないけどあるけど
とりあえずちゃんと土地買って
自分のセカンドを建てたいなと思われたそうなんですね
で損壊してるうちに
この崩れた家は一体何だったんだろう
っていう瓦礫に何でなってるのか
何者なんだこれっていうふうに色々調べていくと
どうもこの土地は福山にかつて存在した
黒金屋っていう商家の持ち物だったってことが
なんとなくわかってきた
黒金屋っていうのは何だろうかっていう話になるわけですけども
それからさらにこの土地を色々調べていたら
ある一区画だけ崩れずに残っていたんですね
家がその当時の家がそれがこれだったんです
これさっきのベランダじゃないけど
なんつーのあれ一望できる小部屋というか
そうなんですこれだけが残っていたんですって
崩れずに他はもうほぼほぼこういう瓦礫の状態になって
廃墟みたいになってたんだけど
なぜかここだけが家の元気を整えていた
これ一体どういう家だったんだこれっていうのに
むしろそっちに最初は全部壊して
新築するつもりだったそうなんですよ
でも何だろうこれっていうふうに
よくよく調べていたら
この黒金屋っていうものなんですけども
富士池っていうのが実業化としてやってた
これ福山の名所だったんですね
明治時代とか代々すごい家だったんですけど
そこから一人の建築家を
廃出しているってことがわかったんです
それが藤井浩二さんという建築家で
これ昭和時代の戦前に活躍した
京大にいて竹中公務店に勤めて
日本の住宅建築のすごい革新的な設計者っていう
すごい優れた設計者だった
ただあいにく50歳前後に亡くなってしまわれて
あまりその業績というのが
今のすごい東京に立ったみたいなのじゃなくて
あくまで住宅設計のプロだった
この藤井浩二さんのことを調べていたらどうも
藤井浩二さんは京都に最後お住まいになって
京都でずっと過ごしたんですけれども
その京都の大山崎に
長築拠っていうこの人たちの物が残っていて
それの設計を見てみたら
え、これほぼ同じじゃんっていうことがわかった
この3ルームっていうんですけれども
3ルーム
日向ボックスするための要は
ちょっとしたロビーみたいな感じですよね
いい部屋だな
これほぼ一緒じゃんこれってなって
じゃあこれもしかして藤井浩二が建てたものなんじゃないかと
けど誰もそれを周りにいてもわからないし
記録も残ってない
けどもしかしたら藤井浩二のお兄さんが
要は黒金の当初だったので
この年の持ち主だったので
全然可能性はあり得る
ということで気になって
そういった学会に調査を依頼したんですね
取り壊す前に
そしたらその学会の人たちもびっくりした
まさかこんなところに藤井浩二の建物が残っていたなんて
っていうぐらい貴重な作例だったんですよ
これはもう間違いなくその特徴といい
広報といい藤井浩二が設計したものだろうと
いうのがね突然わかったんです
プロジェクトの展開
それが誰にも人知れず朽ちていく運命にあったのに
この3ルームだけが残っていた
それがこの藤井浩二が作った何よりの証拠だったんですね
よく気づいたね
その人もすごいよ
よく壊す前に気づいたと思う
俺絶対気づかないもん
もう壊してると思うからね
それをできない何かしらのオーラがあったんでしょうね
謎の途中にこの朽ちていった
でなぜか朽ちていってない一角だけ残ってた
確かにもうこんな三面ガラス張りの部屋だから
確かに印象には残るけど
よくそれでたどり着いたね
ていうことでね
この藤井浩二の非常に日本の建築士的にも
すごく大事な建物だったことがね
取り壊される寸前でわかったんです
いやーすごいわ
じゃあどうしようかってなるわけです逆に言うと
そうだよね
そうだって新築するつもりだったのに
でこれでじゃあどうしようかなってなって
その当初購入したサラリーマンの方は
自分のセカンダラさんを持つつもりでしたから
福山はやっぱり地元との繋がりを
そもそも大切にしたいと思われて
この土地を購入に至ったわけなので
福山の方にやっぱりこれを依頼しようと思ったんです
建築をそもそも自分の家を新築をね
藤井浩二うんぬんじゃなくて
それは前田圭介さんっていうね
これすごい若手の機鋭のね
福山のご出身の建築家の方なんですけども
この方に依頼をして
自分の新築の家を建ててほしいこの土地に
なんか前の家残ってるんだけど
とりあえず壊して
新築にしてほしいんだと思ってると
話をしたんですね
やっぱりただ
よく話を聞いてその後藤井浩二だってことが分かったら
前田さんにその話をしたら
いやもう前田さんからしたら
藤井浩二の建物を壊すなんてことをしたら
もう自分はこの業界にいられなくなる
それだけのおかしなアレルギーなんだって
いうまぁ実際そう思う
まあそうだろうね
ということで前田さんがこれをびっくりして
まさか自分が生きてるうちに
その郷土の大先輩に
この藤井浩二の
ということで
これは何としても残すべきだと
とはいえ
じゃあこの買っちゃった人はどうなるのって話じゃないですか
自分の家をさ建てたかったはずなのに
というので前田さんはここで
この後山産総再生プロジェクトっていうのを考えて
藤井浩二の設計というのを最大限残しながら
今のこのクライアントさんのもちろんね
ために新しい家を
リノベーションして建てるっていう方針に変えたんです
はぁ〜
うん
まあそうだよね
落とし所としてはそこだよね
そうなんです
ただそれは並大抵のことではなかった
まあでもね
朽ちてるぐらいの建物だからね
そう
まずこれがどういう建物だったのかっていう調査を
この瓦礫の山からまず始めるところからなんですよ
案に変にのけちゃったら
実は貴重な部材が残ってたってこともあるから
調査を始めて
その上にただもちろん
クライアントとしてはどうなっちゃってるのか
ってことになりますから
ただクライアントやっぱりすごくなって
僕思うのが
やっぱその物価値分かったんですね
前田さんとか学会の話してるうちに
後山三荘の目的と建築
これは自分がどうこうしてるものじゃもうない
ましてやっぱり福山という土地に生まれて
福山とのつなぎを大切にしたいと思ったら
自分がこれを手に入れてしまったっていうことに
なんか非常の運命をやっぱり覚えたらしくて
前田さんにやっぱり最後に託した
なるほど
この後の話たくさんこの記録残ってるんで
ぜひ後山三荘のホームページを見てほしいんですけれども
うよ曲折があって
やっぱり費用が膨大になっちゃって
でもそれ払うのはクライアントですから
さすがにこれは無理だよみたいな
うちはなっちゃう
ってなった時に前田さんは
藤井康二のエッセンスっていうのを
要所要所だけ抜き出して
あとは自分が得意としていた現代建築の手法
そしてビンゴというこの土地
瀬戸内の土地に生きる建物とは
どういったものであると
瀬戸内の気候に馴染むのかっていうのは
彼はスペシャリストなんで
それをエッセンスを注ぎ込んだ
現代人が暮らす上での藤井康二の建物っていう
日本に一つしかないものを作ったんです
それがこの後山山荘になった
だからああいう作りになってるんです
ちょっとはモダンみたいなのはそういうことか
そうだから藤井康二が作った基礎とエッセンスをもとに
内観は現代になってるっていうものがこの後山山荘
当然のことながらこれあくまでもそのクライアントの持ち主
今でもそうなんですよ
個人住宅なんですだから
観光地ではないんですこれ
だから年に何回かだけ個人のクライアントさんのご好意で
さすがにでもこれは自分のものだけにしておくのはダメだと
やっぱりこれだけのもの
なのでプライベートな家なんだけれども
年に何回かだけ土日に公開をする
もちろん用事前予約で
借りられた人数の方だけをお招きする
っていうのが後山山荘なんですよ
いやできた方だなぁそういう人ね
藤井 いややっぱりいろんな人がすごいよね
そうだねみんなすごいよ
藤井 そのクライアントがまず壊さなかったってことですか
前田さんがそれをやっぱり成し遂げたってことですね
藤井康二の建築思想
そして学科の人たちが良くするに最初にまず気づいて保存を訴えたから
っていうそういう奇跡の物語がね
この後山山荘に詰まってるんです
だからこれガイドブックに載ってないと思います
載せちゃうと逆に壊れちゃうよね
藤井 建築雑誌とかにはやっぱり建築のものとして載ってるんですけど
横ガイドブックとはないはずですからと思います
だしそもそも行っていつも見るもんじゃないんで
そうだね
藤井 でさっきからちょっと言ってるところなんですけど
なぜこのサンルームは
瓦礫の中にあって残っていたのかっていう
っていう部分もあると思うんですよ
これはあくまでちょっと推測でもある
のであんまり本気にはしないでほしいんだけど
藤井 康二という人の業績を考えた時に
これ非常に重の意味を持ってるんですね
藤井 康二っていうのは
もちろん住宅設計のプロとして有名な人なんですけど
環境工学っていうものの先駆者として知られてる人なんです
これ何かっていうと
一般的な建物の建築設計というだけじゃなくて
自然の中地球環境の中において
日本の建物とはどういうふうに
存続していくべきなのかっていう
環境条件の中で最も適合する家とは何かっていうことを
研究し続ける人なんです
そのために実はこの人は50年の短い生涯だったんですけれども
自分の家を実験住宅として
何度も何度も同じ土地に建て直してる
長築町ポッドキャストを聞くの町ですよね
竹の町は巨竹の町なんですけど
というのは大山崎に今残ってる
京都ですね残ってるんですけど
これもその実験住宅の第5段階とかなんですよ
同じ土地に長築町ABCDEみたいなのが要は更新されてって
常に自分が思う理想の住まい地球の中の環境建築とは何かってことを
自分のプライベートの空間で追求し続けた
建て直すことで研究し続けてたんです
その結果彼が生み出したのが
日本の蒸し暑い湿度の多い高温多湿のものの中で
要は部材とかもどんどん朽ちていきやすいっていう不利な条件だと
日本を西洋とかと比べると
ただその中で風通しをこういうふうに工夫したら
木の持ちが良くなるとか
そこに住まう人たちの環境としても風通しが良くなるとか
あるいは日に対する傾斜はこういうあるべきで
日差しはこういうふうに作るべきでっていうのを
常々ずっと研究し続けてそれを提唱した先駆者なんです
これは当時まだ戦前ですよ
1920年代30年代の話はあんまりいないんですよ
だけれども今この日本世界的に地球温暖化とか
高温多湿のいろんな問題が起こってるじゃないですか
災害は広島は災害が多いですから非常に
その中にあってこのサンルームだけが残っていたっていうのは
僕はこれ偶然じゃないと思うんです
なるほどね
つまりその100年前ぐらいから考えられていた
後山三荘の歴史と重要性
日本の環境との調和っていうものを本当に実現したら
建物はそこに命が宿ってきて
それは100年経ってもここだけが存続していた意味だと思うんですね
つまり時代を超えてそれは
富士工事が死んだとっくの後なんですけど
福山においてそれが証明されたと僕は思っています
なるほど
それを大パーツと言ってるわけですか
そういうことです
つまり昭和戦前の頃
日本が戦争に向かおうという非常に暗い時代だった時
その時に遥か先の日本のこの地球環境ってものとかと
人間の生活は何かっていうことを考えて
そこの接点をその時代に見出すことをした人がいた
彼はその生活を知らなかったと思います
だけれども実現して実現して実験して
繰り返って彼が亡くなった後
何十年か経って人知れずもう朽ちる運命だった
ここにこの彼の存在を示すサンルームだけが残ってた
っていうのが後山三相の物語なんです
ちょっと運命的だな
運命的ですね
これが僕の考える建築のその先の世界なんですね
つまり彼の時代性っていうのは
その時代には本来なかなか生まれなかったであろう
現代人に通じる何かを既に持っていた
それを鋭く監督して
ビンゴ友の浦の地にそれを実現してたんですね
それを今の人たちがこの価値を見出したんです
なるほど
ちょっとオープンアーツっていうとね
やっぱミステリアスな感じがあるけど
それよりもうちょっとこうなんていうんだろう
下地があって裏付けがあってちゃんと作られて
それが身を結ぶというか
しっかり形として残ったっていうことだね
そういうことなんです
というのが後山三相というもので
これトム・ウーランが普通に載ってないです
本当に限定的なので公開されてる日が
じゃあいつ生きるんだということなんですけれども
後山三相さんのホームページを見ていただきたいんですが
2025年ですよ
これあくまでね
のスケジュール書いてありますが
3月9日の日曜日
4月13日日曜日
そして5月11日の日曜日
6月8日の日曜日
そして夏場は公開せず
最後12月7日の日曜日
2025年はこの5日だけです
公開されるのは
僕はおととしの5月に行ったんですけど
ともない感動と運命の不思議を覚えて
これはねちょっともうなんというかね
非常に不思議な感覚ね覚えましたね
でやっぱり今回バラの時期ということで
自分がその実体験なんですけど
5月11日がねベストなんじゃないかと思うわけです
なるほど
申し込みフォームもね
第1規模から第3規模まで出すんですね
やっぱそれだけ殺到するんだろうね
もちろん人数制限もありますからね
けどね実際に見てみたらすごいゆっくり見られるんですよ
だから失礼な話まだね
意外と知られてないと思います
3年前はまだ
ちょっとなんか知ってほしいんだけど
あんまり広まってほしくないっていう
なんか不思議な気持ちがね
実際行ってみるとね
その後山産総を作ったね苦労話
もっとすごい苦労話いっぱいあるんですよ
この修復前の間とか
前田さんがどれだけの苦労されたのか
田梨とかも
あとこの実際行くと本当に人数絞ってますから
スタッフの方
このクライアントのご親族の方がね
もう個人のもちろんだから本当に
ご本人いなかったんですけど
そのご親族の方に説明してもらって
どういう思いでこの福山に帰って来ると思ったかとかっていう
そういった話もしてくださいましたので
なんかこの歴史の不思議と面白さだなっていう
この1個の建築においても
それだけのものが感じられるんですね
なのでねぜひこれは見てみてほしいです
この後山産総というものはね
複雑な心境だけど
この少なくとも
この建物が辿った不思議な物語っていうのは
ぜひ多くの人に知っていただきたいなって思うんです
ストーリーだけでも知ってもらいたいね
散々前日に不思議な建物を見たからさ
最初このページで建物見て
そんなに変な建物ではないなって思っちゃったんだけど
いやでもそのバックボーンは相当たるものがありますね
そうですね
ということでね
これが建築旅の趣味で
余談ですけどこの前田圭介さんね
実はさっきの入江豊三郎本店のリノベーションを担当された方でもあります
前田圭介さんの建築を実は2回見てるんですね
そういった共通性も一緒の日に言っていただくとね
分かることがあるかもしれません
すごく素敵な建築です
ということになっております
なのでねもう後山産総2時半に入る想定で
1時間以上いる想定にしてます
でももったいないですやっぱりいないとね
そっからですね山を降りていただいて徒歩10分
ここで友港のバス停に戻ります
そこで駅と同じですね
友鉄バス福山駅行きの友鉄バスに32分ほど乗っていただくと
15時48分に出たバスが16時20分に着く想定でおりますので
16時20分福山駅に到着したら
あとは新幹線などで各々ね
キロについていただければいいかなと思います
それでは2日目を振り返っていきましょう
福山駅近くのねどこかお好きなホテルを
朝9時頃チェックアウトしまして
そこから徒歩5分ほど木村屋のパン
アイネス福山店ですね
岡山を中心としたパンのチェーン店ですね
そこのイートインができるお店になってますので
そこでモーニングをいただくと
バナナクリームロールがねおすすめということで
まあそれちょっと気になるんでね食べたいですね
そこから徒歩5分ほど福山駅のバス停から
友鉄バスに乗りまして
32分ほど友子のバス停に着きます
そこから徒歩5分ほど福禅寺大長廊ですね
もう本当に綺麗な眺望が望める建物ということで
ここで瀬戸内の海をごじっくり眺めるということですね
そこから徒歩5分ほど長野島ですね
まあ本当はね夕方とかに見れるといいんですけどね
まあでもこの友のシンボルという感じの
福山の食と名産品
1859年に作られてそれが今でも残っているという
日本最大級の長野島ですので
ここで広いですからね
青空とかと写真が撮れるといいかもしれないですね
まああとはその後山山荘から友子を駅バス停の途中に
これあるので夕方にもう一回寄ってもいいかもしれませんね
なるほどね
そこから徒歩1分
まあもう1分もかかんないかもしれないですね
友和カフェさんですね
ここでランチをいただきます
瀬戸内のね魚介を使ったパスタとか
ピザだったりとかいうのをランチにいただきます
あとは瀬戸内のレモンとかをね
使ったドリンクなど飲めますので
まあそれはドリンクはね
テイクアウトもできるということなので
どこか他でランチ食べて
ドリンクはここでみたいなこともできますね
そこから徒歩10分ほど
入江豊三郎本店さんですね
この友の名産である
ほうめい酒の倉本さんの一つということで
ちょっとねほうめい酒どういうものなのか
すごい気になるので
まあここでちょっとお土産としてね
買っていくのもいいかもしれませんね
そこから徒歩3分ほど
龍馬の隠れ部屋
増谷精英門宅ですね
ここは龍馬のイロハマル事件の断判の時に
後山山荘の魅力
龍馬が宿泊していたんじゃないかと
いう伝説があり
でそれを匿っていた隠れ部屋が
100年以上経って見つかったという
なんかなんともミステリーな建物ですね
でそこの1階に今はセレクトショップがあると
いうことなので
ここでねお土産を何か
素敵な可愛らしい雑貨がたくさん置いてありますので
お土産に何か買うといいかもしれませんね
そこから徒歩10分ほど
後山山荘ですね
ちょっとこれ一言でまとめられないね
すごいこう右右曲折あって
この福山に残っている
この建築の文化というのが
今でも残しているというふうに
言えばいいんですかね
受け継がれているというか感じですね
でこれが年に5日ほどしか見学ができない
ということなので
今回のコースでは
この5月11日を是非めがけて
ちょっと予約が取れるかどうか
っていうところもありますけどね
是非めがけて行っていただけるといいかなと思います
調子もすごく綺麗ですよね
そして徒歩10分ほど
友港のバス停に戻りまして
そこから友鉄バスで
32分ほど福山駅に戻ります
そしてそこからご自宅へということで
このコースが終了ということです
この番組ではお便りを募集しています
番組の感想質問リクエスト
旅の情報普通他など何でも結構です
番組概要欄に記載している
お便りフォームのURLから投稿お願いします
また各プラットフォームのフォロー・レビュー・コメント
それから我々の関連SNSアカウントのフォローなど
よろしくお願いいたします
そして感想つぶやく際は
是非ハッシュタグおとたびポッドキャストをつけて
投稿していただけると大変励みになります
よろしくお願いします
確かに建物を巡っている感じはやっぱりありますね
確かにちょこちょこミステリーっぽい感じの要素もありましたね
今までにない不思議な感覚ですね
やっぱり福山っていう町に
なぜこれだけのものが集まっているのか
非常に不思議なところが正直ある
僕もあまり理由がわからないんですけど
一つ言えるのはこの藤井康二さんっていう
後山産総を当職設計した環境方角を満たした人もそうだし
これをリノベーションした前田圭介さん
これはうちの今ご存知の大活躍されてる建築家さんですけど
あと藤井康二さんが兄弟で支持した
武田さんっていう有名な教授もいるんですけれども
先生の特にこの人も福山の人でね
福山の人って建築が多いんですよ
すごいなぜか知らないの
なぜか建築家がすごい人を生み出してるんだよね
福山の町はね
すごい多いんですよ福山生まれの人って
じゃあこの後山産総は
やっぱりその福山の建築のDNAみたいなのが
受け継がれて生まれたんだね
そういうことだと思いますね
やっぱりそれは城下町としての歴史だったり
あるいは瀬戸内で船をね
芝居の大工も同じなんですけど
やっぱりものを作る
木をためてものを作るとかっていうことの文化だったり
そういった日常というのが身近だったのか
なんかいろいろ想像できるんですけどね
少なくともでもそこにこう
やっぱり人々が福山とか海というものに対する
非常に経験が重い
神聖寺もね
かまともとは海難事故で亡くなられた人のために作っていたものですので
福山の不思議な文化
それを元に瞑想体験とか
禅というものの精神を深めていく
それのフックに建築があるっていう
そしてその後山産総を辿った数奇な運命もそうなんですけれども
やっぱりこのビンゴの人たちが
海とかその世の中に対して
すごくこういろんな感情を持っていたものっていうのを
一つ消化していく場っていうふうに
こういった建築とかアートってものが
今のビンゴにおいてはこれがね現れている
そこにその建築家たちのDNAっていうのもなんか垣間見えるようなね
そんな気配りいたしますよね
いやこれがその一つの市内で
全部市内ですよ
集まってんのはすごい密度が高いですね
高いです
なので福山はねすごい街です
それで中心地がまじで都会なんで
伸び山超面白いんですよ持って実はいろいろ
なのでね割とこれ岡田とか小野とかね
割と僕らの旅行これいつか行ってもいいのかなって思ってましたね
だしやっぱ岡田は特にね
そうだよね
建築が出身ですからね
面白い街だもん
でそうあのね前回のね前々回か
高谷貨幣の淡路島の時に続いてなんですけど
ちょっと今回もね一つエンディングテーマをね
ご用意しておりますので
ちょっと聞いていただけると
この旅のイメージが膨らむんじゃないかなと思いまして
ということでねお聞きいただいたのは
羊文学さんのホピというね
HOPIでホピというね曲でした
非常にゆったりとしたこの歌詞が少ない雰囲気を感じる感じの曲ですよね
そうですねすごい素敵というかね
でその中にもやっぱ船とか海を分けて行けるっていうね
まぁちょっとこう船乗りを感じるような歌詞もありますね
やっぱりこのまあやはり友の浦をねかなり意識した
風を待つ君は朝を行く船はっていう話もあったりはするんですけど
僕がこの後山山荘に行った時友に訪れた時は
あいにくね霧がかかってたんですよね
5月だったんだけど霧雨みたいな感じかな
後山山荘とか大長浪もああいう感じではなくて
もうね雲と霞の中にあるような感じでね
非常になんか不思議な幻想的なね日に訪れて
晴れを期待してたのであれって最初思ってたんだけど
それはそれでやっぱりねすごくこういいし
かつ特にやっぱり最後に僕も後山山荘行ったんですけど
その後山山荘のサンルームでそのいろんな話を聞いて
藤井浩二さんの話とかいろいろ聞いてたら
その歴史の不思議さ運命の数奇なところだったりとかっていうのが
その霧の中にこうだんだん溶け合っていくようなイメージがあって
すごくやっぱりそれはそれで趣深いし印象的な日になったんですよね
だからこの羊文学さんのねこの
なんかすごい淡い感じのね不思議なちょっと曲なんですけれども
そうね、なんていうのこの声も楽器の一部というか
なんていうのこう根前的に痛いとなって進んでいく感じがありますよね
っていうのがね非常にその時の僕のね
友の浦の情景と心境にはマッチしてるなというふうに思ってね
その不思議な日だったんですよね
とにかく全般的に晴れやかというよりはね
そんなところでねこの羊文学さんのホピーを選ばせていただきました
なるほど
だから是非ねこの後山さんその辿ったね
不思議な歴史というものをね思い出しながら聞いていただけると
ちょっといろいろ心を遠いところへ持っていくような
そんな感じになるんじゃないかなと
いやいいですね
その状況をなんか追体験した感じがするわ今
ということで次回は雑談会ということで
今回はこの辺でありがとうございました
01:23:55

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