1. 大人になりたい旅がしたい
  2. #43【山梨】風林火山興亡記Part2
2024-09-05 1:09:23

#43【山梨】風林火山興亡記Part2

“捨身飼虎”の組織論 風林火山興亡記2日目


「風林火山」の旗の下、戦国最強の軍団として名高い武田家。最盛期の当主信玄は戦国時代の英雄の一人として知られ、その政略、軍略は現代の組織論にも多大な影響を及ぼしています。しかし、彼の人生をつぶさに追ったときに窺えるのは、組織のために身も心も捨てざるを得なかった深い苦悩。今回は、その本拠山梨県の史跡を集中して訪ね、“甲斐の虎”が築いた繁栄と終焉を見届けます。


【目次】

〜 今さらながらオリンピックについて

〜 ふわふわマフィンで軽やかな朝食を 【寺崎COFFEE】

〜 ★歴オタ話★ 武田勝頼に迫られたビジョンの転換

〜 勝頼の築いた新たな都と国家構想 【新府城跡】

〜 まろやか麹カレーをあいがけで味わう 【ハチドリヤ】

〜 二十四将の子孫が営む“信玄の隠し湯”へ 【川浦温泉 山県館】

〜 仏像×勝頼×ドラマ×ワイン! 見どころたっぷりの名刹 【大善寺】

〜 ★歴オタ話★武田家最後の1週間 悲哀と裏切りの滅亡へ

〜 武田家終焉の地に勝頼の最期を偲ぶ 【景徳院】

〜 1日の振り返り

〜 ★旅の終わりに★ 滅びてなお受け継がれた“最強の組織論”


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00:03
大人になりたい旅がしたい。このポッドキャストでは、旅行とお酒が好きな荒沢男性2人が、大人だからこそ知りたい、ちょっとディープな国内旅行のモデル構想を紹介しながらお話をしていきます。
内田です。 晴谷です。
今日、これ収録してるの7月28日ですけど、オリンピックがね、パリオリンピックが、これ今配信がいつになるか、もう終わってるかもしれないけど。 終わってると思うな。
昨日の2時半だったかな?開会式がありましてね、それ見ました?僕。 どこでした?
外でやる開会式、会場じゃない開会式だったんで、パリの街並みがずっと見えてるんですけど、やっぱ絵になるね。 そうだろうね。
かっこいい建物がやっぱり。で最後にエッフェル塔がビッカビカになっててね。 超かっこいい。
エッフェル塔の存在感というか、すごいね。 あーちょっとyoutubeで見ようかなそれ。見たいね。
あと最後の聖火台ね。 あーはいはいはい。
あれがね、気球になってて。 気球の下の人が乗るところが聖火台になってるんですよ。
なんで聖火リレーで持ってくるじゃん。で点火するの。
それがバーって浮かんでって。 今どうなってるかわかんないんだけど、それが浮かんでって、それで開会式が終わる。
なかなかね、見たことない感じ。でなんかその気球モチーフなのも、気球の起源がパリ、フランスらしくて、それをモチーフにしてるみたいな。
なかなかね、面白かったですよ。
で競技もね、始まって。ちょうど昨日の夜、男子バスケがあったんで、僕は見ましたけど、
ドイツ相手に頑張ってくらいついてて、なかなか熱い試合でしたね。
ちょっと今後もいろんな競技、タイミング合えば見ていきたいなみたいな感じですね。
自制の挨拶というかね。 終わっちゃってるけどね、多分ね。
ということで、今回は写真志向の組織論、風鈴火山攻防記の2日目ということですね。
前回の1日目は風鈴火山攻防記の起こりの方、解説してもらったという感じですね。
組織論についてもなんとなくわかった感じ。
この2日目は攻防記の某の方がメインになるという感じですかね。
いかにして竹竹が衰退していったか。
03:04
そんな2日目をよろしくお願いします。
とりあえず歴史の史跡を巡る前に、前日ね、甲府駅の南口のあたりでホテルをとっているという想定でおりました。
このあたりは繁華街になりますので、朝ごはんのスポットもあります。
そのうちの一つがね、カエルの寄り道さんって昨日1軒目に行ったところから、ほんとにすぐ近くなんですけれども、
寺崎コーヒーさんというところで朝ごはんを食べに行きたいと思いますね。
なんか綺麗な、こう城を貴重とした、さっぱりした感じのおしゃれな。
おしゃれですよね。
これがちょうど2階席ですが、ここから甲府の街並みを望めるわけですね。
寺崎コーヒーさんね、山梨県内にある、ここは本店なのかな確かね。
あともう何個か店舗があったはずなんですけれども、ここでモーニングをいただけるわけなんですが、
ただのモーニングではなくてですね、やっぱりここに行ってね、僕がびっくりしたのはマフィン。
これが美味しかったですね。
このトップの写真にも映ってますね。
そうなんですよ。
結構大きそうだね。
そうなんです。
だから、モーニングっていうとトーストにサラダにオムレツにとかっていうのを今までいくつかありましたけど、
そういうわけではなくて、モーニングセットというんじゃなくて、
マフィンとコーヒーかお飲み物を合わせて、それを朝ごはんにしようという感じですね。
どういうマフィンなんですか?
ここでやっぱり出てくるのはフルーツなんですよね。
なるほど。
山梨県のフルーツというのは大変有名ですけれども、もちろんそれだけじゃないんだけどね。
山梨県以外のものはあったと思うんですけれども、そういったフルーツを練り込んだマフィンがいただけてましてね。
これは僕ベリーみたいなのをいただいたんですけれども、それ一つでもね、結構ボリュームもちゃんとあってすごく美味しかったし、
マフィンってあんまり普段食べなかったんだけど、こんな美味しいんだと思いましたね。
そうね。マフィンだけだとパサついたりとかもいうやつもある気がするけど、フルーツもあると食感も楽しくていいですよね。
そうなんですよね。ここは非常にね、ちょっと新しい発見でしたね、これもまた。
本当に夜はすごい繁華街なんだけど、朝はちょっと静かめのところになるので、ゆったりとしたね。
落ち着いた朝食もとれて、すごい空間も素敵なので、長いしちゃうようなところになりますね。
昨日散々酒飲んだけど、ちょっとこう、気取れる感じで。
気取れる感じで、酒だけじゃないんだと。
いいですね。
というのがね、寺崎コーヒーさんでした。
昨日はちょっと歴史オタクの話でね、武田信玄の人生というものを前日は見ていきました。
そしてなぜ武田家というのがすごい組織になっていったのか。
信玄というのが本当に血も涙もないことをして、ひたすら組織を動かすための機械になり要せた。
06:03
彼は自分を捨てるところからが出発点だった。
ただその信玄は死んだ。
その歯車がいなくなったけれども、そこに新しい歯車がはまれば、武田家の組織というのは回るはずだったんですよね。
それになり得たのがですね、武田勝頼という人物。
これも信玄の息子です。
信玄の息子という意味で言うと、前日今川家を滅ぼす時に間接的に殺してしまった息子がいました。
本来ならば彼が継ぐはずだったんですよ、武田家というのは。
けど今川と共に捨て去ってしまったんですよね、その選択肢を。
それでよって後継者になったのがこの勝頼です。
この武田勝頼という人物は日本の歴史上、教科書においては武田家を滅ぼしてしまった党首として、比較的汚名と言うほどではないけれども、そういった人物というふうに刻まれている。
そうなるよね。
ただこの人も決して無能だったわけではなかったと僕は思うんですね。
やってることを見ている。
ただなぜ武田家の歯車にはまらなかったのかっていうのが問題なんです。
前日1日目の話聞いてると、武田家のビジョン自体に限界が来てたのかなっていう想像をしちゃう。
おっしゃる通りです。
つまり僕は極端な話を言うと、これは勝頼だけの問題ではなかったと思うんです。
武田信玄という機械の持っていたビジョン自体にもう限界が来ていた。
ただ信玄はその前に死んでしまったので、その負の遺産を勝頼が継いでしまったと思うんですね。
なるほどね。
いやまあ無理でしょ。
そうなんですよ。
もう広げられない感じもするし。
そう。
なぜじゃあもう広げられないのかっていうことなんですけども、
そのね、ちょっとじゃあグーグル検索で見てもらっていいですか?
戦国代名は西翼図とかって言ってもらっていい?
今我々何を見ているかというと、1573年、これね武田信玄が亡くなった年です。
武田信玄が亡くなった年に日本はどういう西翼図にあったのかっていうのを見ています。
武田家はどこにあるかは?
この戦国バトルヒストリーっていうページの画像を今見てるんですけど、
山梨、長野、静岡の真ん中ら辺を収めているのが武田家ですね。
この画像で言うと紺色のところですね。
要は山梨、長野、静岡東部を収めている。
ここから信玄は西に行きますので、静岡県の西の方もだんだん収め始めるんですけれども、
これまあね厳密には今都道府県で割り切ってるからね、こうなってるけど、
この時既に岐阜県の一部とかも武田家のものだったりします。
とにかくそんな感じだと。
北にいるのが越後、上杉謙信です。
一方で右にピンクでいるのが小田原ですね。
09:01
相模小田原の北条宇島さん。
ここは同盟国でした。
武田信玄は北の上杉を攻めるか西に行くかしかなかったんですね。
そして彼は西に行く道を取った。
徳川をフルボックにして、徳川家康を任したというところで死んだんですね。
今後じゃあどこに武田は広げればいいのか。
つまり武田県っていうのはひたすら土地を取るための企業なんですよ、ここはもう。
どうすればいいんですかねってなった時が勝利の立場なんですね。
無理じゃね?
そうなんですよ、無理じゃねってなったんですよ。
つまり武田信玄っていうのはリアリストなので、なるべく強いところとは争わないんですよ。
確実に勝てる戦しかしないんです、基本は。
だからこそ同盟国であっても弱くなったと見たら切っちゃうんですよ。
そういうことをやり続けてきたわけですよ、武田県っていうのは。
私最初に繰り出していったのも諏訪のちっちゃい国の方から攻めたもんね。
そういうことなんです。それが武田県のやり方だったんですよ。
それでうまくいってたわけなんですけど。
ただ勝利の時になると、小田信長というのが急成長して、いつの間にか近畿地方とか中部とかをほぼほぼ主流に収めている。
すごい広い範囲だもんね、これ。
だから真剣とか勝利の予想を生まれる範囲で、自分よりも巨大な勢力ができてしまったんです。
徳川家康というのは小田信長の同盟者なので、それをボコボコにしたことから、当然小田と喧嘩状態になるわけですよ。
東は北条と仲いいので、とにかく西と戦う。
逆に西の戦には専念できる状態ではあったわけです。
なので勝利に残された選択肢としては、要は真剣のまま踏襲して、小田ととにかく争っていく。
徳川っていうのは弱いから、徳川をとりあえず潰しちゃう。
でも徳川を潰そうとすると、当然小田はそれを妨害してくるので、必然的に小田と争わざるを得ない。
そうするか。
それが厄介なのであれば、東の北条と手を切る。
ただ、とはに北条は北条で、関東一丸をほぼほぼ治めようとしているから、これは絶対戦わないと大戦争になって、これも終わりが見えない。
まして、小田ともまだ戦っているから、東西に敵を持つことにもなる。
これは良くない。
上杉謙信を手を出すと厄介なわけですよ。非常に強い。父親ですら勝てなかったり。
そうか。
というので竹田勝頼は、ここで徳川を小田と争う道、真剣の方針を踏襲するんです。
まあ、無理そうだね。
ただこの時、信長も実は状況的に非常に苦しい状況になったんです。
なぜかというと、信長というのは足利将軍室町幕府を追放しちゃったので、室町幕府に仕えていた人たちからすると敵なんですよ。
この時、信長包囲網なんて俗に言われるんですけれども、竹田と西の毛利を筆頭に反信長勢力というのを結集して、四方八方から信長を攻め寄せようとしてるんです。
12:08
なので竹田も実は信長包囲網の最有力者なので、遠いところには味方がたくさんいるんですよ。
つまり、毛利が例えば西から攻めている、織田信長が西に気を取られているうちに東から攻めれば信長はこっちに来れないみたいな状況も色々あり得たわけなんですね。
毛利は今この中国地方の辺りをね。
もうほぼほぼ全部治めてますよね。
だから毛利と竹田が手を組めれば織田を挟み撃ちにできるということですね。
そういうことです。実際手を組んでるんです。この時にね。
というような状況だったんですね。
うまくやればやり力はあるんじゃないかっていうのが、勝利の話になっていくわけなんです。
でも難そうだね。
そうなんですよ。
敵地を通っていかないと連絡ができない。
そういうことなんですね。
これはなかなか連携も難しそうな気もするね。
当然さ、LINEなんてないですから。
時間だってかかるわけですよ。情報が伝わるのに。
ということで、つまりもう内田が言う通りなんですよ。竹田信玄の土地をとにかく取り抜くやり方っていうのが、もう限界を迎えてたんですよ。間違いなくこの時。
そうだね。だからここで信玄がやったみたいに、もう親父とは経営方針変えますってできればよかったかなって気がするね。
そう。で、勝利というのも僕が思うに彼は決して愚鈍な党史じゃなかった。
当然これをわかってたはずなんですよ。
っていうのが一つそれがわかるポイントというのは、竹田勝頼は本拠地を移すんです。
甲府から別のところに。というのをちょっと見に行きたいと思います。
甲府市内から車を出発させますけれども、車で40分ほど北西側に行ったところに神戸城というお城の跡があるんです。
行政区分で言うと山梨県二良崎市というところにあります。
この名前もね、新しい都というか。
そうそう。本当そういうことです。
ここにしますよっていう感じだね。
神父、つまり甲府に対する新しい府が神父。
つまり竹田勝頼は、もうこの最晩年なんですけども、本当に滅亡する直前なんですけども、この神父城に竹田家の本拠を移すんです。
ここに至るまでに、織田との戦争に色々しくじったりして、結構やばい状況にあった。
ただ、とはいえ別に新元の時に築いた領土というのは失っているわけではないんですよ、全然。
そうか。侵略に失敗しているだけで、別に領地取られているわけではない。
そうなんです。侵略には失敗して増えてはないけど、別に減ってもない。そんなに。
だからまだ竹田家はまだこの先も続くだろうと見越した時に、勝頼のビジョンとしてこの神父城というのを築いた。
じゃあなぜこの神父に拠点を移すことが勝頼のビジョンだったのかっていうことなんですね。
それをGoogleマップでも見てもらいましょう。
甲府がありますよね。
15:00
一方で神父城はどこなんだって話なんですけども、神父って言ってます。
もう駅があるんだね。
ここです。
あんまり離れてはないけど、北西の方に移動したって感じですね。
注目していただきたいのは、周りに何があるかなんですよ。
山だね。
これは一見不思議なことに思えませんか?
甲府の方が盆地になっててね、都っていう感じが治めやすそうな感じがするけど。
当然そうですよね。
神父はね、もう山合いですよね。谷のところというか。
そう。
なぜわざわざこんなところに移したかって話なんですよね。
なんだろうね。守ろうとしてるのかな?
まず一つはそれです。
つまり武田信玄というのは守るという意識すらなかった。
極端な話を言えば。
そうですよね。
武田家というのは、甲府に攻め込まれることは想定してないです全く。
ひたすら他国を取りに来る。
だから他国の前線基地にはすっげえ金とか労力を費やして、とんでもない城を築くんですよ。
けど甲府はすっからかんなんですよ。
お城的には。
なるほどね。
けどいよいよそういうプランが崩れていって、甲府が攻撃にさらされることも考えられる。
まして織田信長が強すぎる。
ってなった時に防衛に適した場所をやっぱり選ぶべきなんじゃないか。
っていう風にして神父に移した。
なるほどね。
っていうのがまず一つ。
これが通説なんです。
ただ最近の研究によると、どうもそれだけではなかったんじゃないかっていう話が今なってるんですね。
これ何かっていうと、神父の西側に何がありますか?
甲府と明確にひたすら違うポイントがあるんですよ。
川がありますね。
川。
神父城の目の前に川がありますよね。
甲府は竹田神社が通りが先やかたなので、だいぶ川と離れてる。
そうだね。
かつじゃあこの川は一体どこにつながってるのかという話なんですけれども。
駿河湾につながってますね。
これつまり富士川です。
下流の方でいうと。
なるほど。
上流はどこなんだって話なんですけれども。
諏訪湖か。
はい。
つまり竹田家の領国、しなの貝スルガっていうものを縦に貫く川がこの川なんです。
これがどうも勝つようにのプランだったんじゃないかっていうのが最近の研究で言われてることなんです。
どういうことかというと、川っていうのはただ望遠的視してるだけではなくて、経済循環の一個で経済の大動脈だったっていうのはこれまでもいろんな地方でそういったことが見えてきたと思うんですよね。
ありましたね。
最近で言うと出雲の湖2つあって、それの水運で循環が起きてたという話がありましたけど、この富士川もそうだと。
そういうことなんです。
つまり甲府とか品野っていうのは材木とかにはすごい優れていますし、地上の震源は金山開発とかにも着手して、金もかなり持ってるんですよ。
18:00
はいはいはい。
なのでそういった素材を生かして武田家の両国だけで貨幣経済の循環を起こそうとしたんじゃないかって言われてるんです。
つまり武田震源とその家臣たちっていうのは土地だったんですよ。
土地こそが絶対だと思ってたんだけど、だんだんもう日本全体が中世から近世に変わっていく中で、経済っていうのがお金っていうものをメインにだんだんなってくる。
お金を持ってるものこそが強いんじゃないかっていう風に、だんだん世の中の価値も変わり始めていく。
勝頼はそういう世代にいたんですね。
なるほど。
っていう風に思ったんじゃないかと。
そのために防衛省に適していることに加えて、この藤川の水運というのをがっしり掌握して、この新富城を中心に藤川を沿った支配を経済循環を起こしていくっていうことで、
武田家の両民が相手のお年を奪わなくてもお金が儲かる人たちにする経済国家にしようとしたんじゃないかって言われてるんです。
なるほどね。
これが勝頼のプランだったんじゃないかな。
これも良さそうな場所ですね、新富は。
そうなんですね。
この諏訪湖から駿河湾までの大体中間辺りになってますし。
なるほどって感じだね。
もっと言うと、勝頼というのは、実はそもそも武田家を継ぐ予定じゃなかったって話は前にした通りなんですね。
当初は吉信って兄貴がいたのに殺されてしまった。
じゃあどうしたって言うと、実はこれもえげつない話なんだけど、勝頼というのは元々諏訪志郎勝頼っていうのが本名だった。
これどういうことかって言うと、武田信玄はその12世の出発で親父を追っ払った後に諏訪を滅ぼしましたよね。
諏訪っていうのは諏訪神社の官主をやってるぐらいのすごい名家なので、それをただ滅ぼしたっていうのはただの悪者なんですよ。
それはシナノの国衆たちの不満を免くと思って。
えげつないのが自分が殺した妹婿諏訪頼茂という人物なんだけど、これの娘を武田信玄自身が芽取るんです。
血は繋がってない娘なんだけど。
そこの間に生まれたのが勝頼なんですよ。
つまり勝頼はお母さんは諏訪家の出身なんです。
だから武田信玄滅ぼした諏訪家を勝頼によって再興させることで、シナノの国の旗頭としてこの勝頼は兄貴を支えるはずだと。
けど兄貴が殺されてしまったから、この諏訪家の党首であるのにも関わらず武田家の党首も兼任する。
という特殊な事情もあるんです。
なるほど。
だからこの諏訪子っていうのが非常に重要なんです。彼にとっては軸はこっちなんですよ、もはやね。
そうか、だからそれに寄ってったっていうことだね。
多分周りの家臣たちも勝頼の近親たちには長野県出身の人が多かったはずなんですよ。
諏訪家の家臣たちが勝頼の子害の諏訪子なんですよ。
っていうのも多分あったんじゃないかと思うんですね。
なるほどね。
諏訪の方までは行かなかったんだね。一応武田家ではあるからっていうことか。
もうあったと思います。その辺りが難しいところですね。
21:01
確か思いっきり行ってもよかったんじゃないかって言ってもややするけれどもね。
ただ防衛上の問題というのもありました。
なるほどね。
なんで今わざわざ行くかっていうと、あのね、これすごい城なんですよ。
この写真ちょっと一枚目見てみる。これね、今、にらさき観光ナビさんを見てるんですけども。
これ崖ですか?
そう。
すごいな。
これすごいよね。
こんな崖あんだって感じだけど、まず。
信じられない崖ですよね。これが城なんですよ。
すごいな。なんかマジで作った画像みたいだね。
そう。CGみたいでしょ。それこそ本当に。
これそうじゃないんですよね。
こんなとこあんだ。
やっぱその川の丘流がもう長い年月とかで削り散らしたね、この崖。
断崖絶壁ってまさにこのためにあるような。この上に城を作ったんですね。
そう。崖だけだったらあるかって感じなんだけど、その崖の上と下すぐに田んぼとかお家とか、町が普通にあって。
そう。
なんかこの町がさ、分断されたのかなみたいな感じだね。
そういうことなんですよ。
この川沿いの田んぼはおそらくまだ当時は城の敷地内だったと思いますけれども、けどそういうことなんですよ。この川と断崖絶壁に完璧に守られてる。
なるほどね。
まあすごいところですよね。
すごい。この城っていうかここがすごいわ。
そう。もうCGなんじゃないかっていう、本当に嘘なんじゃないかっていうくらい本物なんですよ。
でね、これに加えてさらに先ほど言ったように、竹だけというのは築城術にはめちゃくちゃ優れてる集団なんですね。
築城の専門家みたいなやつがやっぱりいるんですよ、能力者がね。
信玄が育った能力者に。
その人たちが作った公衆流築城術っていうのはめちゃくちゃ防衛機能の工夫が凝らされてますから。
それをドッキングさせた城でね、まあもう未曾有の巨城、そして防衛のスペシャルな城だと。
そうしてたら一方で水利も省略できるっていう経済循環の要になる。
なるほど。
っていうのを気づいたんですね。
だから秩父信玄の時代に下位の国に城は6、7はなかったんですけども、初めて国にすごい城ができたんですね。
それでしかも守りに徹してるっていうのは、確かに政治思想が出てるなって感じするね。
そういう感じしますよ。
これが作られたのが1581年のことなんですね。
ところがですね、この1581年の冬に大棟の形ができて、科父よりも甲府からこっちに寧崎に移るんですけれども、
そのわずか2ヶ月後くらいに織田が攻めてくるんですね。
これが武田家の最後なんですけれども。
さっき言ったように勢力を衰えたとはいえ、別に領地は広いことに変わりないし、使える武士もいっぱいいるんですよ。
24:04
ところがね、裏切りが続出んですね。
へー、そうなんだ。
初めに裏切ったのは紀蘇義政という人物で、岐阜県に接している人たちなんです。
岐阜県というのは織田信長の本拠地であったぐらいの岐阜城なんてありますけど、
そのときは本拠地じゃないんだけど、でもすごい織田家の領地に接している。
要は西の最前線。
これも武田信玄の娘をめどってるんです。
この紀蘇というのもね。
ただもともとは紀蘇氏も別に武田家の家臣じゃなかった。
武田信玄が品野を攻めて、それでやめなく下った。
ただ武田家には強いので従ってた。
けど裏切ったんですね。
なるほど。
その織田がね、勢力伸ばしてきてるっていうのもあるだろうし、
勝つよりになって方針が変わったのも起因してるかもしれないし。
そういうことです。
ちょうど織田と示し合わせて裏切るわけですね、紀蘇義政はね。
それで西の守りがスッカラカンになっちゃって、それで織田が西から攻めてくると。
なるほど。
さらに言うとね、徳川家康もこの時勢力を回復してますもんね。
静岡県の東部を攻め滅ぼそうとして浜松から攻めてくるんですね、静岡市の方に対して。
詳しい事情は後話すんですが、実はこの時小田原の北条も敵になってたんです、既に。
同盟してたのに。
勝よりの奥さんは北条氏政の妹なんですよ。
なのにこの時とある事情があって、同盟関係がなくなってたんですね。
北条はとはいえ良しみはあるので、積極的に攻めては来なかったんだけど、けど助けてはくれないんですよ。
むしろ織田の部長に狙われると北条も嫌だから、ちょっと武田にちょっかい出そうかなくらいの感じで、東ももう安全圏ではない。
っていうので三方から攻められるんです。
とはいえやっぱり武田家には有能な部署も多いしってことだったんだけど、裏切りが続出するんですね。
これも親戚筋であたる静岡州を任せていた穴山売節という人物がすぐに裏切る。
徳川家康が安々と南から入ってくるじゃん。
そうなると西と南があっという間に裏切られたから。
というので毒質、なだれのように裏切り者が出てくるんです。
それで結局神父城にすぐに迫られてしまう。
ていうことでやばくねってなって、勝よりはまだ神父城に移ってから2ヶ月くらいだったんですけど、
自らその神父城を燃やして、織田に使われないように。
わずか2ヶ月で燃やしてしまって、甲府の方、東の方に撤退していくんです。
せっかく守りの城を作ったのに。
せっかく作ったのに。
じゃあもうそんぐらい絶望的だったんだね。
ただ唯一望みがあるとしたら、結局ここを鍵を握るのも法城なんですよね。
法城に近い山梨県の東部を治めていた尾山田という人物が、
27:00
自分の城に匿るからこっちに逃げてきなさい。東ならまだ持つかもしれないから。
なんとかその間に法城と協力を取り付けられれば悪いわっていうことになった。
早めに東に行こうとしたんですね。
なるほど。もったいないな、せっかく作ったのにね。
もったいないですね。
まあでもそうするほかなかったんだろうね。
莫大な労力と手間をお金をかけたんです。
これ自分で焼くっていうのはなかなかね。
忍びないですよね。
団長の思いっていう感じだろうね。
っていう城なんですね。
なるほど。
そのためですね、結論としては神父城は結局攻められなかったんですよ。
自分で燃やしたので。
なるほど。
だから移行がめっちゃ良い城で残ってるんですね。
これはすごい城ですよ、行ってみると。
ちょっとねマニアックなんですけど、
もうその要塞の公衆流っていういろんな角度を動したりとか、
馬出しっていうのをつけたりとかっていろいろあるんだけど、
その築城技術のショールームみたいな感じ。
要は戦いの時代にならなかったためにそれが残ったんですね。
なるほど。
なのでね、特に城郭ファンの方はこの神父城というのは見必見です。
これはすごい。
なるほど。
燃えてても残ってるんだね。
そうそう。もちろん建物はだからないですよ、一切ね。
地形とかが残ってるんですよ。土類とか気づいたね。
地形を加工した後が残ってる。
もちろんその新崎市とか山梨県の方が保存をよくちゃんとしているので残ってるわけですけどね。
なるほどね。
ちなみにこの岩の上でね、眺望も良いのでね、富士山も見えたりしますね。
なるほど。
というのがこの神父城なんですね。
でね、この勝頼のプランというのがね、どうもね、なんでさっき北条といつの間にか喧嘩したかって問題にも起因するんですが、
ちょっとこれ詳しい説明省きますけれども、
当初はもちろん信玄が死んだからといって北条は手を切らず、北条と小田原とはずっと同盟関係だったんですよ。
ところが勝頼がね、ある時北条の一族が絡んでいる後継者争いがちょっと別の国で起こって、
北条は当然勝頼に自分の弟を助けてやってくれと言うんだけど、勝頼はそれを助けに行くんですね、北条との縁があるから。
ところがね、敵方、その助けてくれって言われている人じゃない方、勝頼に献金をするんです。
政治献金じゃないけどね。
なるほど。
賄賂はダンスです。
それがね、とんでもない額の金だった。
勝頼はそれによって撤退しちゃうんですよ。
なるほど。
法務省からしたら嘘だろって。
あいつ金になびいた、見殺しにしたのか俺の弟ってなって喧嘩し始めちゃう。
なるほど。
でも勝頼はなんでじゃあなびいたかっていうと、やっぱりだから思想なんですよ。
まあね、ビジネスというか、その大金をもとに自分の土地をね、潤せられたら、それはそれでいいよね。
30:06
経済国家なんです、彼が目指したのは。
土地国家じゃなくて。
っていうのが勝頼の方針で。
なるほどね。
ただそのために法上とも喧嘩に陥って、滅亡に効くようになってしまった。
そうか。
だから真剣みたいに侵略をどんどんしていくっていうことであれば、コネクションとかね、人情みたいなものは捨て去って、ただ侵略していけば。
侵略していけばよかったかもしれないけど、経済っていう方になるとやっぱりやり取りとかね、人情的なところもかなってくるから向いてなかったのかもね。
そしてある意味勝つよりもリアリストだったんですよね。
はっきり言ってだって義理人情の世界で言えば法上を助けてあげるべきじゃないですか。
その法上から頼まれたらね。
同盟国なんだから。
けど助けなかったんですよ。助かるかというとお金の方になびいちゃったんですよ。
難しいね。
もしかしたらそっちの法上の方を守ってその献金に能を突きつけてたら、自分の領土は守れてたかもしれないしね。
だし小田原とも喧嘩はしなかったでしょう。
そうだよね。
っていうのをね実際に武田家が滅亡した後に書かれたいろんな歴史書で、これが勝つよりの滅亡の原因だってみんなが指摘するところです。
なるほど。
この献金になびいたという。
結果的に滅ぼしたからそう言われてるんだけど、勝つよりとしてはその資金の方が法上との関係性よりも魅力的だったんだと思います。
それは彼の目指している国家に絶対必要なパーツだったんですよ。
その金というのがね。
難しいね。
ちょっと経営判断ミスみたいなところなのかな。
結果論で言うとそうなりますよね。
というのが神父上と勝つよりなんです。
なるほど。
歴史的な移行で言うと一旦この辺で新垣の辺りは終わりにして、また甲府の方に戻って徐々に東京の東の方へ帰っていきます。
帰りながらちょっとまた巡ります。
甲府市内の方に車でまた40分ほど戻りますと、お昼のスポットですね。
ハチドリ屋というカレー屋さんをちょっとご紹介したいと思います。
ここがどういうカレー屋さんかというとですね。
麹カレーというカレーなんですね。
つまりルーにただ辛いとかじゃなくて麹の発酵したまろやかさとかちょっとそういった癖を加えたルーを作ってらっしゃるカレー屋さんで、これがランチになっているんです。
すごいまろやかなんですよ。麹のまろやかな味わいでね。
ちょっとタイ風カレーみたいな感じなんです。
オシャレカレーって感じですね。
そうですそうですそうです。
これは合いがけみたいな感じになってるのかな。
合いがけができるんですね。
確か3種もできたんじゃないかと思うんですけど。
その日その日のルーを合いがけができる。
どっちも麹カレーで間違いないわけなんですね。
これが美味しいんですね。非常に。
33:02
こういうカレー俺あんま食ってないかな。
これなんかやっぱ踏み出す一歩が必要ですよね。
ここにね。
ちょっと勇気がいるよね。
なんでじゃあこの踏み出したのか。
僕もねこれあんまり頻繁にこういうの食べるわけではなかったんですけど。
なぜ踏み出したのかっていうと。
実はですね。
昨夜1軒目に行ったカエルの寄り道さんが。
いろんな飲食店のつながりが強くて。
プラットフォーム的になってるって言ってましたよね。
そちらにご紹介いただいたんですね。
なるほどね。
カエルの寄り道さんも発酵食品とか麹ですから。
そのコンセプトも神話性があるというところで。
お互いすごい付き合いが深いらしくて。
教えていただいたという感じで伺ったんです。
なるほどね。
お住み付きがあるとね。
ちょっと気持ち的に行きやすいよね。
交付も別に毎日いるわけじゃないですから。
せっかくお勧めしてもらったら釣りの昼しかないなと思ってですね。
その一歩を後押ししてもらいましたね。
大成果でしたね。
ちなみに結構お酒の写真も出てくると思うんですけど。
これ昼はカレーのランチなんですが。
夜はそういった居酒屋になる。
バルみたいになるそうなんですね。
なので夜にまたこちらに行かれてみると。
僕ちょっと夜行ってないのでわかんないんですけど。
お酒とこの麹とか発酵食品みたいなのがおそらく楽しめるんじゃないかと思いますので。
多分夜のメニューなのかなっていう写真も載ってますね。
なのでこの交付飲みはね。
僕ちょっと夜行きたいんですよねこの店もね。
ちょっと本当に続けたいですね。交付飲みかなり。
魅力的です。交付というのは非常にグルメ。
いいなー。
というランチをね。ちょっと交付で立ち寄りしたいと思います。
これから東の方に戻っていきますのでね。その途中ですね。
で、ハチドリ屋さんから車で40分ほど更に東の方に行ったところに。
川浦温泉山形館というところがあります。
ここで温泉に行くんですね。
うちらがね、以前伊沢温泉に行ったという話もありました通り。
やはり山梨県といえば温泉が素晴らしいところですからね。
富士山があるからね。
そうですね。
県内各種にね、伊沢温泉も含めていろんなところありますけれども。
あえてちょっと選ぶとしたら今回のテーマならここかなと思うんです。
というと武田に関係があるんですか。
山形といって戦国時代が好きな方はまさかと思うんですけども。
武田信玄の戸外の武将で武田24将の人にも数えられている山形正影という猛将ですね。
選ぼうに戦が強かった。
すごい有力な武将がいたんですけど。
この人物の子孫なんです。
山形というのが。
旅館をやってるんですよ。
不思議な繋がりですね。
そうなんです。
信玄の核使用なんて山梨県内にいろいろあるわけなんですけども。
武田信玄って兵士たちの体をいたわるために温泉開発にすごい取り組んだ。
36:05
だからそれもリアリストなんですよね。
手厚いね。
だから政治家としてはすごい有能な人物だった。
福利厚生みたいな。
福利厚生がね。
すごい良い国家だったんですよね。
良いね。
戦った武将たちは傷を負ってもみんないろんな温泉に出向いて当時にいそ死んだと言われてます。
その一つが川浦温泉。
実際に武田信玄からここをちゃんと開発して温泉を掘りなさいっていう命令書が残ってるくらいなんです。
本当に信玄が肝いりで開発した温泉なんですね。
そこに今山形政賀家の子孫が旅館を営んでると。
これ旅館なので基本は宿泊で、僕も実は泊まったことしかないんですね。
着替えたことないんですけど。
なぜ今回あえて選んだかというと、
どうも最近コロナ禍によってやめていた日帰り入浴を再開されたという情報が出てきまして。
なので日帰り温泉を今回推薦させていただきました。
長く休止しておりました日帰り入浴ですが、
2024年6月1日より再開することとなりました。
ということで大浴場、せせらりの流、薬師の流という2つの大浴場が楽しめる日帰り入浴が再開されたということになっております。
いや立派な。
うん。
いやーいいな。
いいですよね。
山に登っていく途中なので結構山奥の方なんですよ。
なので谷合いのすごい渓谷美があってね、それをこのせせらりの流という温泉から眺められるんですね。
いいっすねー。
露天風呂もあるね。
そうなんですよ。
景観がいいよ。
いいですよね。
薬師の湯もね、なんかちょっと違う、お湯自体がちっちゃめになってて、
なんかこれはこれでいい雰囲気というか、ちょっと隠れ家じゃないけど。
そうです、ちょっとこじんまりとしたね。
これはこれでいいな。
これに入れるんですね。
えーいいっすねー。
洗室ももうね、竹田審議が認めたレベルのね、厳選掛け流しでそれを堪能できる。
いいっすねー。
ちょっとね、まあ再開したとおり、メインはここ宿泊の旅館ですから、
ちょっとその時間がね、結構限られています。日帰り入浴帰られるのはね。
そう、11時から14時まで。
14時まで体感しなきゃいけない。
のでちょっとね、このタイミングで行ったほうがいいかなと。
つまり12時からカレーを食べて、それで40分くらいなので、1時過ぎくらいにここに着ければ、
まあ1時間弱はね、楽しめられるかなという感じはしますけれども、
ちょっとね、足りないなという方はもうちょっと早めに行ってもらってもいいかもしれませんね。
確かにまあ、もっと言えば泊まればもっといいんですよね。
なのでまあ余裕があればね、興奮しないぐるめともう一泊ここでするとかっていうのもいいかもしれません。
ちなみにその歴史ファンの方のために言っておくと、山形雅影のね、実際の甲冑とかもね、残っていますね。
この人物ですね。山形雅影。非常に有名な人物です。
39:04
24章の本当に筆頭と言ってもいいでしょう。
本当だ。鎧はあるね。
これ面白いのがね、僕宿泊した時にね、夕食の午前みたいなのを出していただいた時に、
このお椀の下にこう紙みたいな和食の解析がありました。
それかこの山形雅影のね、この絵柄とね、オリジナルでね、持って帰っちゃいましたね。
これはあれかな?宝物館にあった24章の図の一つかな?
そうなんです。その通りです。
これエリン寺の宝物館と実は結構同じ渓谷沿いなので、本来は前日に行ってもよかったんですけど、ちょっと時間の関係でね、この2日目にこのコースで回させてもらいました。
まあでも帰り道の途中だからね。
そういうことです。
これね、ぜひ武田ファンの方はね、こういうこの旅館があるということをね、ぜひに知っていただけるとね、立ち寄りたくなるんじゃないかな?あの山形雅影。
これ武田信玄ですね、絶対知ってますこの人。
ちなみにね、この山形雅影とかっていう武田24章の人たちというのは、ちょっと話が前後しちゃうんですけど、
勝頼はね、信玄だと継いだ後に小田と戦う道を選びましたよね。
武田信玄が死んで約2年後に長島の戦いというのを起こすんです。
これ歴史の教科書に載っているはずです。
まあ有名なところで言うと、
小田信玄が鉄砲を大量に使ってね、三段打ちみたいなことでね、
守りに徹してひたすら鉄砲で撃って竹田をね、打ち破った。
初めてそのね、大まかししたという偽りがある。
それもどうもちょっと最近は違うんじゃないかって言われたりしてますけどね。
そんなの聞いた気がするな。
まあドラマとかでも必ずよく出てくる場面ですね。
絵はね、教科書で見た覚えあるな。
そうでしょうね。
それのね、山形正影はその戦いで死んでしまうんですね。
山形だけじゃなくて、
ババアミノノカミ、ナイトーシューリーとかね、
もういわゆる竹田二十四将、きらぼしのような超有能な部長みたいなのは、
この戦いですごく死ぬんですよ。
勝頼の周りにそういった人材がやや不足していたっていうのも事実だと思います。
それがね。
そうか、それで守りきれないっていうところもあったのかね。
ただ一方でまあこれも本当にね、
いろんな勝頼の話っていろいろあるんですけど、
まあ勝頼って結果的に滅ぼしましたから、家を。
だからバカな人だというふうに描かれがちだったんですね。
当初はね。
だから信玄は偉くて立派で最強だった。
勝頼はそれを一代で滅ぼしたバカだというふうに描かれがちで、
よくね、考えが浅いとかで描かれちゃうんですよ。
その最大の例が、長城の戦いの時に、
山形とかババアミノノカミは、
やめようと。
これ撤退した方がいい。
戦わない方がいいっていうのを信玄したにも関わらず、
あいつら臆病者だって笑って、勝頼がバカにしたせいで、
ブチ切れて戦で死んでしまったと。
で、勝頼はそれで有能な武将の言うことを聞かなかったから、
42:00
自分で身を滅ぼしたんだみたいなのが描かれちゃうんですけれども、
まあどうもさすがにそうじゃないような気もしているというところですね。
なるほどね。
まあちょっと時代と状況が、
刑法心とちょっとうまく勝ち合わなかったという感じなのかな。
本質はそうだと思います。
長城の戦いで負けたのも事実で、
山形雅樹がそこで死んだのも事実なので、
もちろんうまくいったわけではないと思うんですけど、
長城の戦いって1575年なんですね。
信玄の戦いが73年。
信玄が死んだ2月に長城の戦いが起こる。
けど武田家が滅びるのは1582年の3月なんです。
つまり7年間それからあるんですよ。
なので長城の戦いで滅んだって勘違いしてる人結構いるかもしれないんですけど、
それなりにちゃんとうまくやってたってことね。
ってことですね。
それでただその上でなぜ滅んだのかというのはさっきの言った通りです。
ここから徐々に東京に戻っていくわけなんですが、
ここからのルートというのがですね、
実は武田勝頼が神父城を自ら燃やして、
東へ落ち延びていったルートと同じ道をたどります。
あえて。
そのために行くところがですね、
山形館さんから車で25分ほど南東の方かな、
行ったところにある大禅寺というお寺です。
これはね、俺行ったことあるな。
はい。
なぜ行ってましたか。
これは前回言った伊沢温泉に一人で行ったところなんですけど、
ワインデラーですよね。
そうです、そうです。
このお寺でワインを作っているのかな。
で、買えるんですよね、そのワインが。
っていうので行きましたね。
買いましたか。
買ったと思う。
本当に。
確か買った。
それはやっぱりワイン目的でも行ったというか。
そうだね、そういうお寺ないじゃん。
ないですよ。
マジと思って行った。
不思議ですよね。
ワインを作っているお寺があるの。
そうなんですよ。
おっしゃる通りでね、これもワインデラとして最近有名になっている。
御住職が自らワインを作ってらっしゃるんですね。
やっぱそうだよね。
実際に内田が言った通り、このお寺に行くと自家醸造のワインを買うことができます。
味わうこともできます。
飲めるよね。
飲みましたか。
その場では飲まなかった気がするけど、
でも瓶で買って帰りました。
あとブドウジュースもここで売っててね。
お酒飲めない方とかはブドウジュースもここでいただけたり買えたりとかしますね。
このお寺がある勝沼地域というのがね、もう本当にブドウ畑の本場ですから。
本当すごいよね。
あの周りマジでずっとブドウ畑なんだよね。
すごい景観ですよ。
本当にブドウだらけ。
本当に。
なのでもうそのブドウに囲まれたお寺なのでワインも作っているという。
歴史的な話で言うと、実は竹田勝頼は神父城を燃やして東へ落ち延びていって、
45:05
幸福もさらに過ぎて、東の今でいう大月の方に逃げていくんですけれども、
その途中にここに寄って止まっているんです。
なんでそのことがわかるかというと、
この大禅寺にはその時竹田一族から出た天さんがここにいてですね。
その人が親戚なので勝頼と面会して、
その勝頼のことを国名に描写した記録を残したんです。
死ぬ1週間前の勝頼の姿なんです。
それが理系二期という天さんだったんですけど、
その記録が竹田家の滅亡に関する一級資料として非常に有名なものになっています。
あとはこの大禅寺というもの自体はそもそも竹田家の親戚がここに入るくらいの優秀あるお寺ですね。
文化財のところを見てもらうとですね、
この本堂とその中に収められている仏像が重要文化財だったり国庫だったりという、
本当に優れた作例を保存していらっしゃいます。
これが本殿の中に確かあったかな。
そうですそうです。
見ましたかねそれを。
見ました見ました。
本殿の中に入って、
正面にこの十二神章仏像。
竜像か。
竜像。
あと日光月光菩薩竜像。
学光なんだこれ。
十二体とあとプラス二体の仏像がずらっと並んでいてね。
そうだね。
結構ね壮観というか。
壮観ですね。
京都とか奈良にはこういうのがありますけど、
なかなかこの地域では珍しいと思います。
ここまでの作例が関東、東北で残っているというのはね。
非常に文化財的にも貴重ですごいお寺ですね。
これ俺、内田もしかしたら別の理由で何か行ったんじゃないかなって実は思ってたんですけど。
わかるもう。
逃げ恥ですね。
そうなんですよ。
そうなんです。
これはね、行くまでは知らなかったというか。
とりあえず温泉行こうって言って、
伊沢温泉の旅館に予約取って行ったんですよ。
その夜に明日予定どうしようかなと思って調べてたら、
逃げ恥のロケ地があるなと思って、
じゃあ行こうかなと。
ワインデラだしと思って行ったんだわ。
そうなんですよね。
逃げ恥のね、序盤だったと思うんですけど、
ドライブにみんなで行くシーンがあるんですよね。
行きましたね。
それなんですよ。
そうだね。
その寺なんですよ。
実際にもちろんここでロケもしてたそうですし、
ここで平政さんがまさに今我々が申し上げた仏像をゆっくり鑑賞していて、
平政さんってああいう方なので、
それをすごく真剣に見ていたときに、
みくりちゃんがそれに寄り添って、
それで心を通じ合わせるみたいないいシーンなんですよね。
48:02
しみじみとしっくり。
そうそうそうそう。
あのシーンですね。
それが大禅寺なんですね。
結構いろんなコンテンツがここにあふれてるんですよ。
仏像はもちろんすごい。
竹田勝頼の最後の記録が残っているような感じのものもあるし、
ワインも飲めるし、
逃げ恥のファンの方はたまんないしというね。
いろんな多彩な魅力を持ってらっしゃいますね。
門のところもすごくいい景色があるしね。
すごいですね。
階段で上がっていって門があって、
ぐるると本殿があるんですけど、
俺は本殿側から見た階段のところが結構印象的で、
木が両端から生い茂っているんですよね。
すごい緑が綺麗で結構印象的ですね。
そうですよね。
景観としても色々雰囲気としてもいいですよね。
あと門のところから一望できるんですよね。
結構高いところにあるんで、
街並みを見下ろせて綺麗ですよね。
ちょうど方角でいうと、
西の甲府方面を望めたはずなんですね。
西と南が山の間が狭くなっていくところに、
ちょうどこの大禅寺があります。
その街道がまさに武田勝頼が、
甲府方面から落ち伸びてきた道なんですね。
まさにその通りですね。
結構見どころあるなっていう感じがしますよ。
結構滞在時間長くなると思います。
思っているより長くいっちゃうね。
見どころが本当に多いのでね。
お庭もね、いいですよね。
あれもまた逃げ端のためにあるんですよね。
あそこも結構しっとり。
ワインとかブドウジュースいただきながら、
庭を見るのが結構いいですよね。
今回はドライブでね、
一人旅だったらブドウジュースで我慢していただいて、
ワインはお家で。
もし何人かできるであればね、
ワインも召し上がれるか。
カツヨリの話に戻しますと、
この理系2級にはね、
カツヨリの本当に死ぬ直前の姿が書かれています。
1週間前って言ってたね。
約1週間前です。
だからもうね、
本当にその記録というのは、
読んでると悲しくなる記録で。
たった2ヶ月ぐらい前までは、
一帯を収めている超巨大大名だったのに、
軍事力もすごいあったのに、
今や友を募るのはもう何十人もいない。
みんな裏切って、離散してしまって、
家臣がいなくなって、
っていう状態でここに来るんです。
あの竹だけが、
あの震源が10年前に来つつ、
あの帝国がなぜ10年でこんなことになってしまった。
この2ヶ月間のあまりにも大きな落差、
っていうのが非常なことだというふうに思うわけですね。
なるほど。
本人も憔悴してるだろうね。
その様が描かれてます。
それにとどめを刺す知らせをここで受けるんですね。
というのが、
51:01
そもそもなぜ勝頼は東に行ったかって理由を覚えてますか?
神父城を守れないと。
そうそうそう。
ということで、甲府の方に行ってるよね。
そこからさらに行ってるってこと?
そうそう。
要は誰かに誘われたって話はさっきしませんでしたかね?
あれしたっけ?
そう、さらっと流したんだけど。
あのね、岩戸の城っていうところを目指したんですよ。
これなぜかっていうと、
この軍内っていうこのエリアの東の方、軍内って言うんですけど、
この辺を治めていた尾山田信繁という人物がいて、
この人物が誘ってきたんです。
つまり西はもう危ないから、向こうから攻めてきてるでしょ。
で、東に逃げてこいと。
岩戸の城っていうのはね、さっきの神父城を上回るくらいとんでもない段階で絶壁。
これびっくりするんですよ。
ちょっとこの話はまた起きますけど。
ここに逃げてくれば守れるかもしれないし、
かつ何より宛てにしたのは小田原宝城なんですよ。
なるほど。
宝城は日和見をしてるんですよね、この時に。
味方ではないのは確かなんだけど。
で、尾山田というのは武田信虎の時代からずっと宝城との間でね、
折衝を続けてきた人物なんですね。
相模の国に面してますから。
だから宝城と裏工作をできるんじゃないかって多分思ったと思うんです。
なるほどね。
秘化に勝ちより小田原に逃がせるんじゃないかっていうふうに思ったと思うんです。
勝ちよりも多分それを宛てにした部分はあったと思うんです。
それを目指してちょっと位置関係を改めて見ておくと、
大禅寺はどこかっていうとここなんですよ。
はいはいはい。
岩戸の城はさっき言ったここ。
うんうんうん。
甲府はこの辺ですよね。
はいはいはい。
だからここ甲府からだんだん東に行って岩戸のを目指しているんですね、今ね。
その途中に大禅寺に寄ったわけです。
うんうんうん。
ところがですね、ここでまさかの知らせがあった。
はい。
何かと言うと、分かりますか?
何、まあ何となく騒雑かもしれないけど。
まあなんかそこで悪い知らせって言うと、宝城は味方しませんよと。
うんうん。
もっとひどい。
もっとひどい?
だからその誘ったやつが裏切った。
そう。
この尾山田信繋がね、どたん場で裏切ったんですよ。
おおー。
うん。
あのね、勝頼の実際の航路を解説すると、大禅寺を出発するんですね、李経に別れを告げた後にね。
それでね、東に行って中央道にもね、笹子トンネルって言うとこありますけれども、あの辺なんですよ。
はいはいはい。
この笹子峠っていうところをね、越えると郡内に入って尾山田寮に入るんです。
うんうんうん。
で、ここをだから岩戸の目指して山を登っていったわけです。
はいはい。
ところが、この笹子峠に行ったら、そこがなぜか封鎖されてたんですね。
おおー。
そう。
なるほど。
うん。
ああー、じゃあまあ、もともと逃がすつもりはなかったんだ。
うん、これはね、もう分かんない。
っていうのは尾山田もこの後すぐ滅亡するので、分かんないんですが。
ああ、なるほどね。
逃がすつもりがなかったのか、どたん場になって怖くなったのか、あるいは宝城が裏から手を回したのか。
迷惑ごとに巻き込むなと。
うんうんうん。
だから、ここで勝頼を滅ぼしておけば、もう尾山田はうちで引き取るから、相模の国に小田原へ引き取るから、とにかく迷惑ごとに巻き込まないでくれと。
54:03
もう竹田絶対滅亡するし。
で、分かんない。この辺は分かんないんです、真相は。
うんうんうん。
まあ、なのでドラマによってもいろんな解釈をされてね。
はいはいはい。
真田丸とかは、最初は根が付きだったんだけど、どたん場で怖くなったっていう臆病な武将を温水陽一さんが演じてました。
ああ、いいな。
いい配役だ。
いい配役でね、またね。
へえ。
なので、東へ行くたびにわざわざ新風情も燃やしてきたのに、裏切られたからいよいよ行き場所がなくなったんですね。
はいはいはい。
で、どうしたかっていうと、もうでも西の方も尾田軍が攻めてきてるので。
そうだよね。
ぶっかけてきてるので。
戻れないもんね。
どうにもなんないんですよ。
ということで最後の目的地なんですね。
われわれの旅も最後の目的地になるんですけれども。
はい。
大禅寺から来るまで10分ほど北東に行ったところに、慶徳院というお寺があります。
ここが武田家終焉の地です。
はあ。
具体的に言うと、武田家終焉の地というのは、終焉の地に徳川家康がお寺を建ててあげたんですね。
今はお寺になってるんだけど。
はいはい。
勝頼はどういうふうに最後の日を迎えたかということなんですが。
大禅寺から笹子峠を目指す。
徳川は通れなくなる。
仕方ないから、西には織田が迫ってるから戻れない。
東は通してくれない。
ってあった時に、いよいよここで覚悟を決めたようで。
自分の先祖に、かつて天目山というところで自害した人がいたんですね。
詳しい説明は省きますけど。
この天目山のお寺に自分の先祖の墓があったんですね。
ここで最後竹田家を滅亡の地と定めて、ここに行こうとしたんですよ。
そのために一度この海大和駅の方まで戻って、そこから渓谷沿いに谷合の道を行ったんですね。
なるほど。
大禅寺から南東に進んでって、南の方に行くと笹子峠があるんだけど、ここが封鎖されてたんです。
そういうことそういうこと。
ここが北東の方にありますね。
ここを目指してたと。
そう。
なのでこの干川渓谷という川沿いに山の道を進んでいくんですね。
ところがこの時には笹子峠でモタモタしてたから、かつよりがね。
織田軍の追手がここに迫っていて、ここで天目山に行き着く前に捕捉されてしまうんですね。
なるほど。
それでいよいよこれが最後の時だということで、竹田家はみんな命を。
かつより自身も戦死したとも、自害したとも言われていますけれども、その一族はここで全て死んでしまった。
天目山に行き着けず、その途中にある田野というところで竹田家は滅亡しました。
確かにね。向かう峠道の途中に慶徳院がありますね。
たどり着けなかったんだね。
そうなんですね。
実際この天目山の戦いというかつよりが最後死んだ戦いの話もいろいろあって、僕らは今大禅寺から車で行こうとしてますけれども、
57:06
これ僕ね、いつも貝山戸駅の最寄りなんですが、慶徳院の最寄りなんですけど、ここから歩くんですね。
あえて。40分くらい慶徳院までかかるんですけど。
なぜかというと、歩く途中途中にここで誰が死んだ。竹田家の家臣のここで誰が死んだ。
ここで誰がどうなったっていうのがね、石碑みたいなのがいっぱい立ってるんですよ。
それが慶徳院まで続くんですね。
なんか生々しいね。
そうそうそう。
いろんな話があってね、これももう話し出すといろいろあるんだけど、そういうわけで裏切りが続出してたわけですよね。竹田家というのは。あれだけの勢力を持った。
で、にもかかわらず勝頼にね、以前ちょっと些細なことで追放されてしまって、この大和のあたりに筆即していた。リストラされちゃった武将とかがいたんだけど、その武将が勝頼なんか恨みを抱いてるはずなのに、
このいよいよ天目山に差し込む時になって、あえて自らこの軍に加わって、それで最後ここで死んだっていう人もいたりとか。
なかなかね、いろんな人間模様がここにかわされるんですね。
あとは竹田勝頼の奥さんはそういうわけで小田原の北条氏の娘なんですよ。
で、まだこの時19歳だった。
で、勝頼は当然逃がそうとしたんですね。
実家小田原に逃げた方がいいと。若いし、ここまで強くないって言ったんだけど、それを断ったんですね、この奥さんの方はね。
添い遂げると。
で、自らね、ここで命を絶った。
まあ、慕われてはいたんだろうなって感じですね。
そう、勝頼は人間的な魅力があった人だと思うんですね。
で、決して無能な奴でもなかったと思うんですよ。
そこまで聞くとそうだね。
僕からしたらね、本当に小田原に帰ってくることもできたと思うんですよね。
で、またあの綺麗な海が見れて、美味しい魚があってっていうのがあったけど、その道を選ばなかったんですね。
もしかしたら、兄貴に対する不満もあったかもしれません。
兄貴が小田原の漁師なのね、その時に。
もっと助けてくれればいいのに、自分がいて、こういう状況なんだから。
そうか、もしかしたら自分さえも助けてもらえないかもしれないし。
そういう意地とか、ちょっともう今更そんな非常な兄貴のように小田原には帰りたくないって思ったのかもしれないし、いろんな感情があったでしょ。
なるほど。
これが竹田家滅亡の地で、実際慶徳院に行くと、これ結局さっき言ったように勝頼が死んだ場所。
当然勝頼のお墓、そして法上夫人っていう小田原から突入できた奥さんのお墓もあります。
そこに徳川家康が寺を建てたっていうのがミソなんですね。
これどういうことかって言うと、要は前日に話したように、徳川家って竹田家のことをすごくリスペクトしてたんですよ。
1:00:02
それでその竹田家が滅んだ後にその家臣たちを大量にスカウトするんですよ。
それで実際幕府に原動力になった。
さっきの山形雅家の家臣とかもすごい呼び込むんです。
あれだけ強かった武将の下にいた。
とにかく人材の宝庫だったんです、竹田家というのは。
信玄が作り上げた最強の組織だった。
ただそういった人ももちろん心に配慮して、
ちゃんとあなた方が前使えていた竹田家のこともリスペクトしてますよってことで、
敵だったはずなんだけど、母代を弔うために立派なお寺を建ててあげたんですね。
境内に行くと勝頼のお墓に今もう出ることができます。
なんとも哀愁漂うところなんですね、海大和の景徳のあたりは。
なんかちょっと境内もひっそりとしてる感じちょっとあるね。
本当に山道を最後の最後に辿っていったっていう。
そこで死んだからこのお寺が建ってるので、もともと開けた場所が全然ないんですよね。
というのがこの風鈴火山攻防儀の最強の軍団ができて、それが滅んでいったまでの天末です。
そこから車で15分ほど走らせると、当初1日目の最初に降り立った勝沼インターチェンジが最寄りになりますので、
ここから高速道路に復帰して東京なりに帰っていただくというのがいいかなと思います。
電車の方は海大和駅が景徳の最寄りです。
ということで2日目を振り返っていきましょう。
まず朝9時ぐらいにホテルを出発しまして、徒歩3分ほど、
寺崎コーヒー、おしゃれな店内、そしてフルーツを使ったマフィンがいただけると。
軽やかな朝食って書いてますね。
本当にそうだったですね。
ここで朝食をいただきまして、車で40分ほど神父城跡ですね。
勝寄りが神父から移したお城の跡ですね。
わずか2ヶ月で自ら燃やしたお城の跡ですね。
お城の周りの遺構っていうのが綺麗に残されてる。
すごい良いところですよ。
なのでお城好きの方はぜひと。
そこから車で40分ほど戻る形になるのかな。
そういうことです。
八堀屋さんですね。
麹カレーをお昼にいただきます。
そこから車で40分ほど川浦温泉山形館ですね。
この山形っていうの、ガタの字はね。
そうそう。
都道府県の県ですね。
山形県のガタじゃない。
そういうことです。
武田軍のみんなが使ってた温泉っていうことですよね。
その川浦温泉。
1:03:00
温泉地自体。
その川浦温泉の中で山形朝陰の子孫がやっている温泉旅館ですね。
ここで日帰り入浴ができるということですね。
最近できるようになった。
時間がちょっと限られてるので、間に合うように時間見ながら行っていただければ。
そこから車で25分ほど大禅寺ですね。
ここはワインデラっていうのが印象的かなと思います。
そして仏像も。
そして右端のロケ地でもあるということで。
いろんな方面から楽しめるお寺かなと思います。
そこから車で10分ほど慶徳院。
ここが武田家終焉の地ということで。
武田勝頼が亡くなった場所に後に徳川家康が建てたお寺ということで。
ここで今まで巡ってきた武田家に思いを馳せる最後のスポットという感じですかね。
そこから車で15分ほど勝沼インターチェンジに戻りまして。
そこからご自宅へということですね。
この番組ではお便りを募集しています。
番組の感想・質問・リクエスト・旅の情報・不通多など何でも結構です。
番組概要欄に記載しているお便りフォームのリンクから投稿をお願いします。
またYouTubeのチャンネル登録・高評価・コメント・ポッドキャストのフォロー・レビュー。
それから我々の関連SNSアカウントのフォローなどよろしくお願いいたします。
そして感想をつぶやく際はぜひハッシュタグおとたびポッドキャストを付けて投稿していただけると嬉しいです。
最近ですね。
Spotifyがコメント機能が付いたみたいなんですよ。
そうなんですか。
だからそれぞれの回にコメントをYouTubeみたいに打てるみたいなんですよ。
前はなかったんだ。
前は質問機能みたいのが今まであったんですよ。
毎回自動でこの回についてどう思いましたかっていう質問がついて、
それに答える形はあったんだけど、それが変わってコメント機能っていうのになったみたい。
そうなんだね。
ちょっと俺見たんだけどね、どっから打てばいいのかよくわからなかったんだけど。
それを探してもらって。
わかる方はSpotifyの方はコメントもできるみたいなので、ぜひよろしくお願いします。
ありがとうございます。
どうでしたかね。
武田家をひたすら巡った2日間っていう感じですね。
武田家3代のそれぞれの方針と、それでうまくいった進言と、ちょっと限界にぶち当たった立寄りというひきこもごもっていう感じでしたね。
やっぱりこの歴史の話をこの番組でいろいろ聞くじゃないですか。
1:06:00
なんともうまくいかないねっていうのを常々感じるよね。
そうですね。やっぱりこれは今の世も変わらないでしょうけどね。
みんなそれぞれにやっぱり無能な人はそんなにいなかったと思うんですよ。歴史の名を残している以上は。
ただ何かがやっぱり掛け違っている。
そうだね。
ただ武田家でいえばね、後日だみたいな感じになるんですけど。
武田家というのはこういうふうに滅びました。
しすち自体はね、進言の他の息子だったり娘だったりに受け継がれているんですけれども、家としては滅んだ。
武田家っていうのはただ最強の組織。
そして進言の時代には貝の国もすごく潤っていたっていうので、
そして江戸時代にすごいリスペクトを集めるわけなんですよ。
あの徳川家康を任した武田進言、24章。
っていうのでだんだんリスペクトの度合いが高まっていって、
それをもちろん山梨県の貝の国の皆さんもそれをやっぱり誇りに思っていく。
さっきえりん寺に1日目行きましたけど、
そこで24章の図がそれぞれ松本風子という人によって書かれた。
あれも実は武田進言が亡くなって300年経ったっていう記念事領を、
武田家の旧神の子孫たちが発起人としてやる。
それにあたって松本風子に絵を依頼して、それで奉納した。
だからやっぱり信用が熱い感じですよね。
やっぱり武田家、あの最強の武田家の組織の一員だったっていうことが、
いかに貝の国のその人たちにとってプライドとして根付いていったか。
これは今も4月12日ってのは武田進言の命日なんですけど、
その前後に進言公祭りといって、
皇府市内を武田24章たちの騎馬武者たちが練り歩くってすごいパレードがあったりしますし、
今でも24章の子孫たちは山形館も結構つながりを持ってるという話も聞きます。
なのでやっぱり武田家というのはね、ちょっと単純に言えば滅亡してしまったんですが、
それ以上のインパクトを残したっていうのでやっぱり特筆される存在だなと。
そして進言のね、もう自らの心を捨てた。
人格も見えないっていうのはもうそういうことだと思うんですよね。
ひたすら組織の歯車になったっていうのが、
今なおその知恵がね、徳川家を伝って経由して今のリーダーたちにも大きな影響を与えてる。
まあ進言については大成功というか、それだけの手腕があったという感じですよね。
いやいいですね、歴史のストーリー聞いてるとさ、作説ストーリーで終わらないじゃないですか。
そうですね。
だからなんかこう、いい話とうまくいかない話が聞けてなんかね、いいですよね。
なんか今の人の成功話を聞いてる感じじゃない人生だなっていうのをすごく感じますよね。
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今回もそれをすごく感じましたね。
はい。
ということで、じゃあ今回はこの辺で。
ありがとうございました。
ありがとうございました。
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