1. 大人になりたい旅がしたい
  2. #40【出雲】幽明の境を訪ねてP..
2024-08-15 1:11:32

#40【出雲】幽明の境を訪ねてPart4

さざなみの出雲・縁結び 幽明の境を訪ねて4日目


「幽世」(かくりよ)とは、現世(うつしよ)に対する“目に見えない世界”を指し、古代出雲を治めた大国主命が主宰する世界といわれます。目に見えない世界は、死、心、神、妖などの深遠なテーマに通じますが、いまなおそれらを本当の意味で統べることは誰一人できません。しかし、出雲においては、幽世へ通じた人物がときおり出現し、彼らの心眼によって特異な文化を継承してきました。今回は、神々の国出雲が最も賑わい、幻想的な趣を湛える秋の時季に訪れることで、“幽明の境”の一端を垣間見ます。


【目次】

〜 初めての“4日目”

〜 築100年超の“迎賓館”でクラシックモーニングを 【亀田山喫茶室】

〜 漆黒の色彩とシャープなデザインを誇る名城 【松江城】

〜 幽世との架け橋を繋ぎ、語り継いだ偉大な文学者 【小泉八雲記念館】

〜 ★ビッグニュース★ 朝ドラで描かれる小泉八雲とセツ

〜 松江の歴史・文化を広く解説 【松江歴史館】

〜 洋食の王道を掛け合わせた“カツライス”を堪能 【レストラン西洋軒】

〜 松江“茶道の聖地”の根拠地 【菅田庵】

〜 ★歴オタ話★ 松平不昧が生んだ“雲州の文化圏”

〜 地域文化と浮世絵に注目!渚の美術館 【島根県立美術館】

〜 ★深掘りネタ★ 松江の日常を彩る感動の夕景

〜 デザイン豊かなクラフトチョコを作っているのは…… 【La chocolaterie NANAIRO】

〜 1日の振り返り

〜 ★旅の終わりに★ きっとそこにある幽世 “さざなみの出雲”によせて


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00:03
大人になりたい旅がしたい。このポッドキャストでは、旅行と酒が好きな原沢男性2人が、大人だからこそ知りたい、ちょっとディープな国内旅行のモデルコースを紹介しながらお話をしていきます。
内田です。 あるやです。 はい。
今回は、さざ波の出雲、縁結び、幽明の境を訪ねての4日目ですね。 はい。
なんか気づいたら雨が降りました。 雨が降りましたね。良かったね。雷も凄かったけど。 うん。
だから多分今回は、ゴロゴロしてないっていう。 そうだね。はい。
タイトルのこの回収の4日目っていう感じですかね。 もっかねてです。はい。
初めての4日目ですかね。 そうなんですよ。
確かにね、回るところがたくさんあって、結構移動もしてるけどね。 そうですね。
出雲の国全土を今回駆け巡ってるので。 なのでまあ、なかなか3泊も行けないよっていう方は、2回に分けていただくでもいいんじゃないかなと。
そうですね。 それだけの価値がありますので、出雲は本当に凄いです。
じゃあそれの締めとなる4日目ですね。 じゃあ紹介をお願いします。 はい。
前日、松江城から松江駅にかけてのホテルのどこかに泊まっているという想定。
車もね、空港で借りていますので、まだ返していません。 その前提でちょっとお話をしたいと思います。
で、4日目の最後のこの日はですね、もう松江の城下町の観光になります。 昨日飲んでるだけなのでね、松江はね。
でですね、早速なんですけれども、朝ごはんを食べに行きたいわけですが、 実はですね、この松江は朝から凄いんですよ。
目指す場所が松江城をまず目指していただきたいんですね。 松江城の敷地の中、もしかしたら前日水道路に行った方はね、メイン会社の一つなので行ってるかもしれないんですけれども、
朝改めて松江城の中に入ってほしいんです。 で、そうしますとですね、その敷地内に幸運画。
幸というのは起こす、没幸するとかの幸ですね。 興奮するの幸か。に雲は出雲の雲に画。金画銀画の画ですね。
幸運画っていう洋館があるんですよ。で、その中にですね、カフェがあるんですね。 これを亀田山喫茶室というんですけれども、この幸運画というのは明治40年に、
後に大正天皇となる皇太子様を迎えた時に建てられた芸品館。 これね、あの出雲市のお蕎麦の時に、県城蕎麦の話があったあのタイミングです。
松江でもね、一大おもてなしをしようということで、わざわざこの幸運画というのを作ったんですよ。
それがね、幸い今も残されているんですが、その1階部分にね、この喫茶店が営業してるんですね。
03:00
で、なのでもう100年以上前の建物のクラシックな洋館をそのままね、カフェとして使ってるんですよ。
これ写真見ててもすごいよ。 こんなところで朝食いただけるんですか?って感じだね。 そうなんですよ。
明建築で朝食をってパターンですね。昼食じゃなくて。 えーすごい。なんか恐縮しちゃうね、これ。 恐縮しますね。
本当に雰囲気がね、クラシックでいいんですよ。凛としてる感じで。 いやーでもいいですね。体験としてはやっぱりいいですね。
モーニングはすごく至ってシンプルなんですけれども、 フレンチトーストがね美味しいんですよ。あ、それかな?
綺麗なフレンチトーストだね、これ。厚焼き卵かなって思っちゃう。 そうそうそう。それかしっとりふんわりとしたね、フレンチトーストのモーニングがいただけるわけですね。
トーストもあったと思うのね。そこは好みに応じてだと思うんですけど。 これが朝9時からだったかな、確かやっていますので、それに合わせてね、行くとね、
松江城観光ではなくて、実はその前にこの朝ごはんを松江城の敷地の中で食べれるっていうことがね。
で、あの1階でカフェやってるんですけれども、2階があってそっちはね、いわゆる建物の見学が普通にできるわけですね。
で実際に皇太子様が、後の大正天皇が使った部屋とかまだ残ってるんですよ。 なのでそういった名建築を訪ねるという意味でも生きがいはあるかなという気がします。
上質なモーニングが続いてますね。 そうなんですよ。
ちょっとね、この建物もね、ライムグリーンみたいな感じでね。 ちょっとなんかね、かわいらしい色合いなんですよね、非常にね。
これが松江城の敷地の中にあるんです。 というのがね、まず亀田山区筆者室さんの話でした。
そしてそこから敷地の中を通って10分ほど行くと、いわゆる松江城の天守閣にたどり着くはずです。
これはね、松江の中でおそらく家淵は有名なね、観光地になると思うんですが、 いわゆる玄尊十二天守の一つとなります。
前も出てきましたね。 どこだっけ? どこだっけ?
どこだ? すごく作るのに苦労をしたのに残ってて報われたねって話をしたの。
すいませんね、本当に覚えられなかったね。
山内勝豊が作った高知城ですよね。 大雨で山というものが段々こしらえなきゃいけないし、
調査壁がなんか怪しい動きをしてるしみたいな中でどうにかこうにか作って、 高知の街を開いたっていう。
そうか、高知城ね。 高知城も一つですが、なので玄尊十二のうちの二つ目がね、このポッドキャストにおいては登場しました。
松江城ですね。 松江城を築いたのは堀代義晴という武将です。
この人はね、実は山内勝というの友達だったんですね。 土佐藩のね。
06:00
共に徳川家康側に関ヶ原の戦いでついて、それまではやっぱり秀吉に仕えてたりってキャリアも同じ感じで歩んできて、
共に家康側についたのでご褒美で堀代家は出雲をもらった。 山内家は土佐をもらった。
ということでね、その二人がやりました。
ちなみに大河ドラマ、光明月寺、山内勝というのが主人公の時は、 生瀬勝飛沙さんが堀代義晴を演じてね、最後までずっと出る役でね、いい友達として最後までいました。
堀代義晴はね、入ってきたはいいんですけれども、 その時ね、実はまだ松江という街はなかったんですよ、あんまり。
その当時の出雲の中心地は合山戸田城です。
毛利がね、それまで関ヶ原の西軍の総大将である毛利がね、 治めていましたので、中国司法での一員を。
毛利がそれで西軍で負けたので没収されて、出雲があって誰もいなくなって、堀代が入っていった。
けど毛利家はまだ合山戸田城、天越の名残でずっとそこで使っていましたので、 松江の街は全然まだなかったんですが、
先ほど見たように合山戸田城というのは、 要塞としてはもう十二分というかもう凄すぎる要塞だったんですけど、
もはや瀬戸原の戦いが終わった後なので、 戦いが起こることは多分あまりないだろうと、平和の世の中になった。
ってなると、逆にあの山の上にああいうものがあっても、 なかなかちょっとあんまりかなっていうふうに思ったね。
それよりはむしろ、今後は経済とか物流がより促進されて、 それぞれの藩はそういった産業元になり立てていかないといけないから、
やっぱり経済とかのね、政治っていうことをより考えなきゃいけないだろう。
そうしたときに、やはり出雲の治めるにあたって、 最大限生かせる長所としては水なんですよ。
水運というのは最大限生かせる場所はどこかといったら、
西に新宿、東に中海、その二大岸井湖の間に挟まれている一帯しかあり得ないだろうと。
それが末裔だったんです。
なるほどね。それはそうだね。
これは高知城と同じ理屈ですが、 川の中にそのお城を築くって大変なんですよ。
地盤が弱いので。
ところが末裔には幸いこの山がね、丘みたいのが一つありましたので、ここに建てようということで、
堀尾義晴時代からこれを建て始めたんですね。
これが1611年にできた国宝の天守です。
これ実はね、国宝になったのは割と最近の話なんですよ。
ここ10年くらいの話であって、なぜかというと、
それまでは松江城が江戸時代の初期からあったことは分かってたんですけれども、
何年に建てられかったかという明確な記録が証拠がなかったんですね。
ところがとある調査をしていた時に、柱だったかと思うんですけど、
この1611年という年号を刻まれたものが出てきたんですね。
つまり1611年という年代を確定した。
そうすると実はこれめちゃくちゃ早かったんですよ。
原宗中林天守の中でも特に早い部類に入る。
09:01
もう築400年以上ですからね。
そうね。
っていうのが分かって、国宝に最近指定されたものになるんですね。
なんといってもこの松江城の特色というのは、外観を見るとね、分かる通り黒い。
漆黒のね。
かっこいいですね。
かっこいいですよね、これね。
単純にかっこいいね。
黒いお城というと松本城とか有名ですけれども、
松江城もなかなか負けてないですよ。
これは男心をくすぐられる感じですね。
そうですよね。
高知城とかは真っ白のね、純白な白のね。
姫路城とかもそうですけどね。
これはね、黒いんですよ。
これはなんか黒い見点はなんかあるんだよね。
これもいろいろ説はあるんですけれども、
一つはやっぱり保存、傍注の格好みたいなのがあったみたいですね。
あとはやっぱデザインというところもあったでしょう。
特にこの松江城はですね、
結構横に長いずんぐりとしたフォルムなんですけれども、
どっしりとした安定感。
あとはね、このハフっていうね。
破る風と書いてハフ。
この三角になってるね。
途中にある三角の。
そうそう。
この反り具合とかは松江城、あと大きさ。
やっぱりこれすごいんですよ、松江城。
あとはその黒い建物の下にある石垣は、
実は茶色いものとか白をうまく混ぜ合わせて、
交互にうまくやったりもしてるので、
デザインのセンスがすごい良かったと思います。
そうか、そういう見方が俺まだ分かってないな。
ぜひね、現地にまずは松江に行っていただけると。
戸瀬と松江はそれぞれね、良い対象ですよ。
というのがやっぱりね、外観の話ではまずこれがすごいでしょう。
あとは中に入ると、現存住人停止なのでね、
昔のままの建物に入れるわけですが、
やはり松江城は本当に難工事だったそうなんですね。
で、結局ね、3年以上の大工事。
やっぱりその地盤が悪い中で、
しかもちゃんとした周り、まだ町もそんなにない時代ですから。
っていうのに大変だったと。
でね、これがちょっと一つの伏線なんですけれども、
昔の人が大変だったからどうしようってなった時に、
あんまり今ではね、褒められた風習はもちろんないんですけど、
これも伝説ですよ。
伝説ですけど、松江城を建てるにあたっては、
人柱を建てたと言われてるんですね。
つまり人を、まあはっきり言って生贄に捧げた。
それで人知を超えた何かの、
その天才みたいなのを防ごうとしたと言うんですね。
このただ伝説が、
実はね、もう一つこの後松江の文化に大きな影を、
影というかね、影と魅力を落とすことになるんですね。
この江戸時代終わった後の話なんです。
ただそれだけの大工事を、難工事を完工してまで、
何とかどうにかこれを築いたと。
で堀吉というのはその後実はいろんな事情があって取り潰されてしまって、
山内区みたいに最後まで続かないんですね。
12:01
でその後は結局いろいろ変遷はあった末、
江戸時代の中期からは徳川家の親戚である松平家というものがここに入って、
それ以来ずっと松江藩は最後まで続きます。
なので松江藩は最初は戸様大名堀吉だったんですが、
最後は徳川家の親戚が治めてたっていうのが一つね、
工事とかとは全然違うポイントになってきます。
でまあそういった歴史の話ももちろんね、
中では触れることもできますし、
あとね特筆すべきこととしては、
ちょっと営業時間に注目してもらいたいんですね。
朝早いね。
そう、そして、
夜6時半まで。
そうなんですよ。
これね普通お城とか博物館で4時半とか5時じゃないですか。
ああそうか。
なのにね松江城6時半までやってるんですね。
これがなぜかということなんですけど、
これ僕高校生の時に行ってすごい感動したんですよ。
これ書かれるでしょ、教えもらって。
というのはこの一番上のね天守閣に登って見たらね、
真珠湖がね見えるんですね。
湖畔が。
で僕行ったのはその時確か4時くらいだったので、
まあ夕方にそう差し掛かる時だったんですけど、
後々話すんですが実は真珠湖というのは夕日の名所で、
それのためにね開けてるんですよこれ。
日曜月までちゃんと夏の間は。
なるほど。
その夕日まで見てくださいって。
そう。
これ僕ね結構なんかねその時、
高校生心にね感動したんですよすごく。
そういったなんかおもてなしの、
てかなんか素晴らしいなと思ってね。
それは営業目的というよりも、
その松江というものをいかにこう魅力を最後まで味わってほしいかって、
そのホスピタリティにね胸を打たれた覚えがあるんですね。
だから今でもね松江城この6時半ってのは実は結構、
おすすめするポイントの一つ言ってるところで。
今回はね朝行ってますけど、
あのそういうわけで夕方ね6時半までやってるので夏場はね。
9月30日までは6時半まで。
受付は6時まで。
なのでねこういったところも注目してもらえるといいかと思います。
前日の夕方ちょっと早く着いた人とかね、
夕日見るといいかもしれない。
かもしれませんね。
これが松江城の話でした。
そこからですね松江の城下町に入っていきます。
徒歩10分ほど北の方に歩いて行ったところには、
昔の武家屋敷みたいなのが残ってるんですね。
昔の建物が結構。
その中にあるのが小泉薬磨記念館。
小泉薬磨という人物については何か心当たりはありますか?
え?
You're nice.
はい。
じゃあちょっと小泉薬磨を見てみましょうかね。
小泉薬磨というのはもともとイギリスの方です。
これ外国の人なんです。
最初はね。
正式に言うと今でいうアイルランドの出身みたいな感じ。
ギリシャに生まれてアイルランドに育った。
当時アイルランドは独立国じゃないイギリスの1個なので、
イギリス国籍なんですけど。
本名はラフカディオ・ハーンさんというね。
ヘルンさんとも言われますが、
15:02
っていう方なんですね。
この人はどういう人だったかというと、
これ日本の国語の教科書に出てきてる人です。
文学者としてすごい有名な人なんですけども、
外国の方なんだけれども、
その後ねジャーナリストみたいな形でアメリカに渡ったりしてたんですね。
明治時代の最初日本でいうところ。
ところがその時ちょうどジャポニーズムみたいなのがやや早々に始めていた時代。
日本も明治時代になったぐらいなんですけれども、
1884年アメリカのニューオンリンズで万博があったんですよ。
そこに小泉役もジャーナリストとして、
アメリカの雑誌の記者なんですけど、
そして取材に行ったんですね。
そしたらそこに日本ブースみたいなのがあるじゃないですか。
そこで明治政府の事務官であるハットリイチゾウという人に出会って、
そこで日本の話を聞いたんですね、取材も兼ねて。
ハットリイチゾウというのは長州藩士だったんです。
つまり毛利だったんですね。
毛利家の家臣だったんですよ、元々。
っていうことも多分あったんでしょうけど、
日本の出雲の神話のこととかを、
なんか日本の文化として紹介したようなんですよ。
小泉役も自身も元々日本に対して結構興味を持っていたというところもあって、
日本に行ってみたいっていうふうにその後思うようになるんですね。
そんなことをやっている時に、
日本は日本で文明開化で条約改正のためにいろいろ精鋭を取り込まなきゃならないって言って、
お雇い外国人という人をね、外国から要は先生を引っ張ってくるんですね。
で、そのうちそういう募集があるっていうのを知ってか知らずか、
小泉役もは当初ですね、
ジャーナリストの記者として日本に取材に行くっていうふうに、
アメリカの会社にそう言い残して日本に行くんですけど、
なんと日本に行ってからその雑誌社を自ら辞めて日本に留まるんです。
それぐらい日本のことを興味があった、すごい知的好奇心旺盛な人だったんですね。
すごいね、辞めちゃうんだね。
そう、悪い言い方するとちょっと会社からしたら嘘だろって言って、
社員が急に勝手に辞めたっていうことなんですけど。
取材行ったと思ったら。
そう、辞めちゃったっていう。
そういうことがあって、
なんですけど、結局辞めちゃって日本に暮らすわけですね。
横浜に最初行ったんですけど。
そうこうしているうちに日本で学生制度というのが発表されて、
英語の先生が必要になっているということがちょうどその時期が重なって、
英語の先生いくらでも欲しいわけですよ。
まして英文の文章のプロなんですから、雑誌の記者ですからね、その人はね。
っていうのでもうちょうどいいってことで、
例のハットリー地蔵っていう、
そのハーンにそもそも初めてアメリカで日本のことを教えた人が、
この時結構な身分になってたので。
で、ましてハーンはね、出雲市にわたが興味を持っているというのを知っていたので、
島根県人情中学校というところにね、
あっせんしてあげるんですね、職場をね。
18:02
ということで、こういった末裔にやってくるんです。
よかったね、その興味のある場所に当てがってもらって。
そうなんですね。
これが1890年、91年くらいの話になります。
でね、ここからラブカディオ・ハーンは、
末裔で教師としての生活を歩むわけなんですが、
彼はもともとやっぱり知的好奇心旺盛な人なので、
この末裔のことをね、記録にいろいろ残すんですね。
で、それは今はもうこの人はもう不協の名を残した文学者として、
どこでも読むことができるんですけど、
特に印象深いエピソードをいくつか話すと、
末裔でね、当初来た時は、
最初はね、まだ仮暮らしみたいな感じなので、
例の大橋川の北岸、
つまり昨日の山市産のすぐ近くなんですけど、
の旅館に滞在していたと、来た当初はね。
で、ある時ですね、旅館で寝ていたら、
不審な音が川からしてくる。
どんな音かっていうと、
これなんですよ。
乾いた音が朝日が昇ると同時に、
急に橋とか川から乱立し始めて、
なんだこれは、何かのおかしなことが起こったんじゃないかって思って見たら、
何をしてたかっていうと、
末裔の人たちはその大橋川に架かる橋の上に立って、
東の方に中海が見えてるわけなんですけど、
中海の彼方から上がってくる太陽に対して、
みんな通るたびにこうかしわで打って、
拝み始めてたんです。
同時に新宿にたぶんしじみとかを取る漁船みたいなものも、
みんなでこうかしわで打って、
それを当たり前のようにして、
みんなそれぞれの職場だったり、
新宿の方に乗り出していく。
それは末裔の人にとっては当たり前だったんですよ。
なるほどね。
その一日の挨拶なのか、
安全祈願なのかっていうお参りをしてたわけね。
そうなんです。
ただラフカで終わるからしたら、
びっくりするわけですよね。
みんながやってて、
この人たちは何なんだっていうことは、
当然不審なんですよ。
英国にはそんな文化なかったでしょうか。
っていうことを印象に残っていて、
不思議なところに来たものだな、
みたいなことを言ってるわけです。
幸いですね、ラフカ両藩は、
末裔の職場でですね、
すごい親切な職場の皆さんに囲まれて、
いろいろ出雲の国をね、
出雲大社であった稲皿浜だったりも、
いろいろ連れてってもらって、
すごい充実したね、
英語はもちろん教えてたんですけど、
自分の趣味を満たしてくれるようなね、
充実した日々を過ごすんですね。
いいですね。
で、まもなくですね、
この小泉悪夢記念館が今建っている、
この末裔城のすぐ近くのね、
家をあっせんしてもらって、
そこに住めるようになったんですよ。
で、ところが当然、
旧末裔藩の武士の家なので、
あの家はね、
あの西洋建築というのは当然ないですから、
まあかなり慣れないじゃないですか、
で、不自由するんですね。
ということで、
その藩さん一人で住んでも住めないから、
21:00
住み込みでお手伝いさんをあっせんしなきゃいけないってみんな思って、
その職場の親切な方々の紹介で、
旧末裔藩氏の娘である節さんという方が、
ここにね住み込みで働き始めるんです。
この節さんとの出会いが、
小泉悪夢の運命を変えたんですけれども、
節さんは末裔の氏族のね、
末裔藩の侍の娘だったんですけれども、
この人もですね、
一人のまた隔離用に通じる人物だったんですね。
末裔というのは、
実は江戸時代の頃から階段がね、
非常に多く支えかれていた土地なんです。
それはなぜかというと、
末裔の殿様は今は栄えているが、
そもそもあの城を作る時、
昔ね人柱を建てたことがあるっていう話から始まって、
末裔というのは不思議なものがいっぱい、
実は目に見えないものたちが存在がいっぱいいるっていうことをね、
節はそれを聞かされて信じてね、
育ってきたんですね。
で、一方の落羽庭藩は、
アイルランドの出身なんですけれども、
今でもね、
あの辺のスコットランド、アイルランドとかって、
ゴーストっていうものが結構、
まあハリーポッターとかもそうです。
あれも近いですけれどもね。
っていうのでね、この人もやっぱりね、
目に見えないものっていうものをね、
親しんでたんですね。
相互してるうちに、小泉節さんなんですけど、
と定られる関係になるんですね。
住み込みで働いていたんだけど、
で、結局結婚するんです。
その節さんと。
なのでこの人ね、落羽庭藩なんですけれども、
日本に帰化するんですね。
なるほどね。
それで小泉役物になるわけね。
そうなんです。
小泉が苗字、役物が名前として、
日本人として歩み始める。
節さんは、落羽庭藩は英語しか話せないので、
その英語と片言の日本語みたいなね、
独特のこの藩の言葉、ヘルンサン言葉って、
当時その本に置いてるんですけども、
要はその二人にしか返せない、
独特の日本語と英語のワイを説中みたいな、
言葉で話をするんですけど、
節さんは藩の面倒を見る一方で、
彼女が松江の土地に生まれ育って、
聞いてきたその不思議な話というのを、
藩に教えてあげるんですね。
その時に藩は、役物は、
そこにやっぱり知的好奇心がビビッときて、
この日本の松江に伝わっている不思議な話というのを、
しっかりと記録しておかなければならない、
文学としなければならないといって、
著作を始めるんです。
それが小泉役物の代表作である、
階段っていうものなんです。
なるほど。
じゃあその土地にずっと伝わってた階段を、
書籍化したみたいな感じか。
小泉節さんが聞いていた話を主になんですけれども、
だんだん松江の生活の中で、
徐々に徐々にやっぱりそういうのが、
役物周りにもだんだんわかってくるんですね。
24:00
松江の町の特性だったり、
そしてこの柏で打っていた人たち、
彼らはなぜそんなことをしていたのか、
はやっぱりその人たち自身が、
出雲大社とか神々の国に住んでいるっていう、
自負とかそういった文化の中で育っているので、
目に見えないものに対する信仰っていうのが、
当たり前だったんです。
それはさっきのノンノンバーにも結局通じる話なんですね。
そうですね。
ということで出雲っていうものに対して、
特別な考えを寄せるんですね。
残念ながら役物自身は、
その後仕事の転勤の都合で、
出雲で、松江で暮らしたのはわずか1年くらいなんですけれども、
熊本に行ってね、
その後東京に行って東大の先生にまでなるんです。
すごいね。
最後は早稲田の先生にまでなって、
そこでいろいろ教鞭を取ってね、
教えていたんですが、
54歳で心臓を起こしたら最後は亡くなってしまう。
日本人としてその生涯を終えました。
ただ小泉悪夢が残したこの怪談をはじめとする、
日本の要は忘れ去られていく、
その目に見えないものへの信仰というのを、
この人が書き留めておいたんですね。
特にその松江に伝わっていた話っていうのを、
しっかり書いてるんですよ。
これ現代も怪談なんだね。
怪談なんです。
K-W-A-I-D-A-N
そのまま読むとクワイダンみたいな感じだけど、
怪談なんだね。
これ出版したのはアメリカの出版社です。
版は英語しか書けてないですから、
英文でちゃんと書いた。
だから日本の忘れ去られようとしている、
その目に見えない世界の隔離用なことを、
世界の人に紹介したんです。
そしてそれがゆくゆくは、
実は日本の近代化して過ぎ去っていった過去を、
書き留めておいた貴重な文学になった。
ということで日本の文学史において、
小泉悪夢というのは、
もう絶対に欠かせない人物として出てきます。
これなのに今、教科書に載ってるんです。
これ短いのが集まってるんだ。
20ペン収められてます。
で、雪女とか、
みんな四方一致がここに入ってるんだ。
あれ、この人が書き留めておいたのが原本なんですよ。
そうなんだ。
我々が当たり前のようにね、
子供の時怖い話として、
NHKとかで見たであろう、
あの話はこの階段なんですよ。
そうなんだ。
この作品というか、
その話だけは知ってるけど。
そう、それを書き留めておいたのが悪夢なんです。
そう思ったんだ。
で、生涯実はこの小泉悪夢は、
最後は東京で亡くなりましたけれども、
この出雲という土地、松江という土地に出会ったということが、
本当に人生の天地だった。
で、この隔離をと存在を知ったのを松江で知ったわけですよ。
ということで、松江に本当に生涯に渡ってね、
恋焦がれて、慕っていたんですね。
で、幸いにしてこの悪夢の住んだ家は残っていますので、
それが小泉悪夢記念館として、
今我々が目にすることができる。
27:01
悪夢はね、この話いろいろ切りないんですけれども、
この人はね、左目が見えなかったんですね。
怪我をして失明してしまって、
さっき写真見てもらうとわかるんだけど、
あのね、常にね、そのことを気にしていて、
右側からしか写真を撮らせなかった。
本当だ。
ただその実際の目以上に、
やっぱり心のすごい繊細なところにまで気づく、
要はこの人は日本人ではないし、松江の人ではないんだけど、
隔離をに通じた人物の一人だったんですね。
松江には、出雲にはね、たまにこういう人が出現するんですよ、歴史上に。
で、それがやっぱりね、その独特の文化を継承するキーになってくる。
そういったまあ、この人独自の精神性というのはこの記念館でよくわかるんですね。
いや全然知らなかったな。
そしてね、これはね、まあ僕本当に嬉しいニュースなんですけど、
先月、2週間くらい前だと思うんですが、
NHKから発表されたニュース見ましたか?
え?なんだろう。
2025年下記、朝ドラ。
あ、それ見たかも。
バケバケ、小泉節さんが主人公なんですよ。
なるほど、そうなんだ。
まだね、誰が演じるかが決まってないみたいなんですけど、制作発表されました。
あ、ほんとだ。
ラフカディオ・ハーン、小泉悪夢と小泉節さんの夫婦をモデルにした物語。
えー。
えー、まあちょっとNHKのね、リリースを読みますと、
2025年後期、連続テレビ小説バケバケ。
第113作目の連続テレビ小説は、
松江の没落氏族の娘、小泉節はモデルの物語です。
外国人の夫、ラフカディオ・ハーンと共に階段を会いし、
急速に西洋を欠かす明治の日本の中で埋もれてきた名もなき人々の心の物語に光を当て、
代弁者として語り紡いだ夫婦の物語をお届けします。
ということでね。
なるほど。
なので、来年すごいですよ。
このポッドキャストの親和性が。
2025年上記は柳瀬隆さん。
下記がこのラフカディオ・ハーンと小泉節さんです。
すごいね。
びっくりしました、これ本当に。
こんな繋がるかね。
あー、楽しみですね、来年。
ずっと見ます、一年間通してね。
上記も下記も。
へー。
誰が演じるかはね。
そうですね。
で、これがねキャッチがいいんですよね。
この世は恨めしい、けど素晴らしい。
つまり小泉節さんはすごくね、
没落氏族、お金なかったんです先生。
だからもう仕方なく住み込みで働き始めたのがそもそもだったんですよ。
まあそうだよね、上手くいってる氏族の娘だったらそんなしなくてもいいもんね。
そうなんです。
人玉より彷徨い、お化けより生きるのが下手くそな人たちに囲まれ、
幽霊よりもこの世を恨めしく思う没落氏族の娘、末の時。
これが物語における小泉節さんのモデルにした主人公の名前のようですね。
でまあ、それで前向きにいったと。
その人生の途中に出会うのがゴースト以上に居場所を見つけられず、
時同様この世を恨めしく思いながら世界を転々とした末に日本に辿り着いた異国人。
30:05
時は妖怪よりも厄介な彼に手を焼きつつも、
怪しい話好きという共通点から次第に心を通わせると、
恨めしかったこの世界はいつしかかけがえのない素晴らしいものに化けていくのです。
でまあ末から始まるということですね。
そういうすごいニュースがありますので、これ楽しみです非常に。
なので今後末はどんどん注目されると思います。
そして小泉悪夢自体もね。
というのをね、楽しみなニュースでありますが、
小泉悪夢記念館でちょっとその予習をするのもいいんじゃないかと思います。
でそこから徒歩8分ほど武家屋敷の中をね、いろいろ回っていった時に、
末永歴史館というところがあります。
でこの末永歴史館というのは、末永のお城の天守閣の中でももちろん概要を学べたんですけど、
より広く末永というものの歴史を辿るすごい優れた資料館になっています。
まあこれはね、いわゆる高地のね、高地上前にあった歴史博物館も同じなんですけど、
末永というものを本当に体系的に、かつここも新しい資料館なので、
すごい洗礼された見やすい展示で解説してくれてるんですね。
元々はこれも末永藩の過労の屋敷だったところを改装してるそうで、
佇まいもね、昔の過労屋敷を再現したものになっているので、
雰囲気もね、たっぷりですし、庭園だったり、
あとちょっとこの後話すんですが、和菓子工房がね、実はこの中にあったりもして、
これは理由があるんですね。
でここでやっぱりね、この末永というところの街の歴史をね、しっかりと学んでおくのがいいかなと思います。
すごくいい資料館です、ここ見やすくて。
お城の見える博物館って、
そうなんですよ。
すごく畳で広くこう縁側みたいな感じになって、
その奥に末永城が見えてる。
そうなんですね。庭園がその前にあってね。
なので畳でこうくつろぎながら庭園を見て、
それの先に末永城の黒い姿が見えるというね、
非常にいい立地、いい見せ方のね、博物館ですよね。
なんか博物館だけじゃない感じがするね。
そうなんですよ。
これがやっぱりね、出雲の末永のね、オシャレなところなんですよ。
古き良きオシャレなんですよ、末永ってすごくね、凛としていて。
面白いですね。
はい。
なのでここでね、ちょっと順番が前後はしましたけれども、
よりこうなんだろうな、歴史を広いところから深めていきたいという方は、
末永城とか八雲の記念館に行く前にね、
この末永歴史館にまず行っていただけると、より理解がね、スムーズかもしれません。
そっから徒歩10分ほど大橋川の方に戻ってくるんですけれども、
ランチを行きたいと思いますね。
レストラン西陽軒さんです。
末永と言うとね、どうしても出雲の蕎麦とか、
あとはしじみとかね、新宿湿地という、
ちょっと和風のね、グルメのイメージが強いと思うんですよ。
33:03
ところがですね、末永のB級グルメとして最近注目を集めているのが、
このカツライスっていうね、全く趣が異なる洋食なんですね。
へー。これはカツカレーではない?
ないんです。ソースがカレーのようにも見えるんだけど、
これはデミグラスソースです。
あーなるほど。
そう。
へー。
ロースカツがご飯の上に乗っていて、そこにデミグラスソースをかけるっていうね。
まあそれはうまいだろうって感じだね。
そう、もう美味しいものばっかり組み合わせてるのでね。
すごいガッツリ系なんですけれどもね、
おしゃれでね、そんなに負担にならない、美味しいですね、これ非常に。
このカツライスというのは、今末永のね、洋食屋さんだと結構このご当地グルメとして広まっているんですけれども、
それを最初に作って編み出したのが、この西洋堅さんになっていると言われています。
へー。
なんかね、作りとしてはシンプルで、
割となんかまあ思いつきそうなっていうとあれだけど、
けどまあここが発祥なんですね。
そうなんですね。
でもね、思いつきそうではあるんだけど、
やっぱりこれ食べてみたの感想なんだが、
やっぱり油のね、やっぱりカツとご飯ってね、乗っててね、
ただそれだけだとやっぱりちょっとね、きつい気がするんですけど、
ソースがね、それをうまくね、中和してくれる気がするんですね。
このデミグラスソースが。
はいはいはい。
へー、じゃあうまいこうバランスを作り出してるんだね。
と僕は思うんですよ。
なかなかね、そのまま単純に食べても、
きついなっていう風になっちゃうかもしれないところを、
まろやかにね、落とし込む技術は実は相当のものなんじゃないかと思うんですね。
なるほどね。
はい。
この西洋圏さんもね、養殖屋さんではあるんですが、
内観見てもらうとね、喫茶店のようになっていまして、
一人席とかもすごい充実してるんですね。
なので本当に喫茶店に入ったみたいな感じで、
食事をいただくことができるので、
一人であっても全然気兼ねせずにいただくことができます。
カウンター席みたいなのが並んでね。
そういうことですそういうことです。
はい。
もうこれもね、創業90年ぐらいのレジェンド中のレジェンドです。
はいはいはい。
松江の一つの行き商人というかね、
もう本当に松江の頃名店なので、
込むと思いますが、一人なら逆にね、チャンスが多いと思いますので。
はい。
僕は結構好きなんですよ。
結構松江行ったりおりますね。
いいですね。
はい。
普通にね、オムライスとか。
そうそうオムライスもおいしそうなんですよね。
めっちゃ綺麗だね。
とかタンシチューとかね。
まあそうっすね。
というのが西洋圏さんになりました。
で、西洋圏さんはですね、実は今地図を見ていただくと、
松江城から小泉役物記念館、北行ってから、
徐々に東の方に、南東の方に松江歴史館がありますよね。
ああはい。
36:00
さらに南に行くと、西洋圏はね、その辺りにもあるんですよ。
なので徐々にホテル側に帰ってきてるっていうイメージなんですね。
ああ、なるほどなるほど。
ここでね、ホテルに1回帰って、預けていた車と荷物をピックアップして、
ここから車移動になります。
で、そこから車で10分ほど行ったところに行くのが、
寒田庵というところに行きたいと思います。
これは草冠の菅さんの菅ですね。
田んぼでいおりと書いて寒田庵です。
でね、さっきからちょっとちらちらに読ませてはいるんですけれども、
松江という町のね、1つ大きな特色があるんですが、
これはですね、お茶です。
佐渡の聖地として松江が有名なんですね。
なぜ松江にお茶が有名なのかというと、
これはね、日本の歴史上においても極めて奇妙な現象なんですが、
1人の人物がによってここまでのことになるってなかなかない文化なんですけど、
その正体というのがですね、松江藩の藩主、松平春里。
春里というのは伊見田なんですけれども、
合して不満という人物、松平不満として今歴史上長残っている人物なんですが、
この人のおかげで、実は今松江はお茶の町になってるんですね。
お殿様だったんですよ。
松平不満というのは、大体18世紀の終わりから19世紀の始めにかけて生きていた人物なんですけれども、
松江藩の藩主として家徳を継いで、
最初は松江藩はその時ちょっと状況がやばかったんですよ、経済状況が。
なのでどういうかして財政立ち直さなきゃならないって言って、
有能な人たちを投与して、朝鮮人参とかを栽培し始めたりして、
薬になりますから、それを生産して奨励して輸出することで、
財政の立ち直しを図って、結構それに成功するんですね。
明君として、なので慕われていたんですけれども、
ところがですね、彼には困った趣味があって、
それがお茶に目がなかったんですよ。
茶器に目がなかったんです。
お茶が大好きで、オタクだったんですよ、マニアだったんです。
せっかく財政を立て直したんだけれども、
お金が少し余裕できたら、
茶器を全国のあるいはあらゆる名機と言われているものを、
コレクションし始めちゃうんですね、お金払って。
で、茶器の大名物と言われている、
日本の宝みたいなものを手元に収集し始めて、
それの図鑑みたいのを自分で作っちゃったりするくらい、
お茶に成功を傾けた人なんですよ。
なのでせっかく立ち直した財政をそうやって、
何なんだって話をいろいろ家臣から不満は出るんですけど、
それにも一切耳を貸さず、自分の道を貫いた人なんですね。
なので、政治上は名君としてもいっぱい言われているんですけど、
その後半戦においては、茶器を集めすぎたせいで、
また財政が悪くなっちゃったりもして、
39:02
結構評価は分かれる人なんですが、
ただ茶器の異常なモチベーションは、
松江の城下町には、少なくとも300年の功力を残すには十分だったんですね。
その人はね、まあ尋常じゃなかったんで、お茶に対するこだわりは。
兄とあらゆる文化芸術を自分の好みに応じてカスタマイズして、
新しい自分の流派みたいなのを創設していくんですよ。
だから今でもお茶の一派として不満流というのが残っていますし、
その不満好みとして有名なのは和菓子です。
松江は和菓子の一大産地で、
中でもこの不満好みっていうので、
もう一種のブランドなんですよ。
不満が好きだった、あるいは不満が開発した和菓子というのが、
今でも残ってるんです。
そんなに好きだったのに。
この辺りの精神はね、なかなか僕もまだ読み解くのが難しいんですけれども、
そうなんですよね。
なのでですね、今でも松江の街中を歩いていると、
本当によく和菓子とかの店を見ます。
実際おいしいんですよ。
和菓子をもちろんお土産にしていただくのはいいんですが、
せっかくならば不満ゆかりのお茶室が残っているんですね。松江またさらにね。
その代表的なのがこの寒伝庵というものになります。
これはですね、松江城の北側にちょっと離れたところにあるんですけれども、
松平不満の使えた家老の有沢家というものがあったんですが、
その有沢家の敷地内に作られた茶室で、
これも不満以降お好みの建築ということでね。
不満の趣味、芸術への情熱が込められた茶室になっていますが、
これもまたおかしな話で、
たぶんね、さすがに殿様っていうメンツもあったので、
ちょっと離れたところにね、隠れ家的にこれを築いてるんですね。
なるほどね。
そうでその家臣たちがあんまりやりすぎてうるさいので、
ただこの有沢さんというのはお茶友達だったんですよ。
過労ではあるんだけど、気があったんでしょう。
趣味の面によってね。
だから不満は伝説によると松江城から抜け出して、
高借りに行くと称して北の方へ行って、
ここに寄るのが実は本来の楽しみだったみたいなことらしくて、
そこでこううるさい家臣たちから離れて、
昨日はお茶友達の有沢さんと、
とことんね、お茶に向き合う時間をどうしても必要だったようなんですね。
はい。
まあそうか、お金つぎ込んじゃうのは困ったことではあるのか。
だから当時の領民からしたら松江藩はどうなってるんだって思った時もあったと思います。
ただ長い目で見ると不満が残したもの、
松江に残したものというのはあまりにも大きい。
なるほどね。
文化的には。
もう松江の街の一つのカラーに一日の人物がそこまでをするって本当にないです。
いろんな日本の歴史を見ていても。
この関連案ね、実際行ってみると、
42:00
まず最初に目に入るのがお風呂場なんですね。
お風呂屋っていうところなんですけど。
不満はそういうわけでここに住んではいませんので、
馬を走らせて外で外出してその帰りにここに寄ったそうなんですね。
なのでまず高借りとかでアクティビティをした後に来るので、
まずちょっと体を清めたかったようで、
最初にお風呂屋があるんです。
これも本当に不満の時からある。
ここで赤を流して、汗を流して身を整えた後に、
そのまま茶室の自分の趣味の世界に入っていくわけですね。
光月亭、これが茶室というか邸宅なんですが、
月に向かう亭と書いて光月亭というわけです。
これ南を見てるんですね。
そしてここから何が見えたのかということを、
僕はこの行った時に教えていただいたの。
実はこれね、タイミングが合うと有沢家の御子孫、まだこれ有沢家のものなんですよ。
有沢家の御頭首自らが案内してくださるタイミングもあるんですね。
なのでそこで家に伝わっている話として色々聞かせてくれるんですけど。
このお風呂場から光月亭に向かう時に、
だんだん北から南に歩いていくんですが、
微妙に石の傾斜みたいなのがついてて、
垣根みたいな、お風呂場の中は結構日陰なんですけど、
そこから徐々に開けていくんですね。
10歩ぐらいなんだけど。
そしてその階段降りた先にこの光月亭があって、
そこには南がバーッと開けてるんですよ。
で、その先に見えたのが、この光月亭の中が示す通り、
出雲の南の中国山脈から登る月、
そしてそれが大橋川に月に揺らめく、
そして新宿にその月面が降りていく。
っていうのが不満の求めた究極の光景だったようで、
そのためにわざわざこういう設計にしたんじゃないかというふうに言われている。
でも実はあり得たと思います。
本当にこれ言ってみるとね、見事なまでに南に向いてるんですね。
そのアプローチがまた、お風呂で汗を流して、
日陰でじっくり静かに精神統一した後に、
徐々に徐々に開けていった先に夕焼けだったり、
月が見えてたりすると、それは楽しかっただろうなって思いますね。
それが今では残ってるんですね。当時のままに。
いいですね。趣味を詰め込んだ感じの茶室なんですね。
そしてさらに行くと、実際今も寒伝庵っていうお茶室が残っているという感じになっております。
実際、我々は寒伝庵とかには入れずに外から案内をいただくんですけれども、
この邸宅の方には入れまして、そこで実際にお茶と和菓子をいただくことができます。
なので実際ふまえが目指したであろう、実際見たであろう景色、南に面した景色を見ながら、
ふまえの愛したお茶と和菓子をね、本当にそのままにね、我々もいただくことができるっていうものなんですね。
45:05
なかなかね、お茶いただくタイミングってない。
そうですよね。家とかではまずやらなきゃいけないし、やっぱり京都とか行くとっていう感じだけどね。
そうなんですね。
ちょっとこのあたり僕はね、足立前行に通じるものをやや感じるんですけれども。
閣僚に通じたとはまた別のタイプの出雲人のね。
このふまえさんはやっぱりね、本当に大きなものを残していて、それはね、お茶の話ばっかりやっぱりクローズアップされるんですけど、
お茶にまつわるすべての文化圏というものをね、自分好みにしたんですね。
なので、当然お茶があれば建築がある。
茶室があるよね。
で、和菓子をそこで食べる。
そして見てる庭園がある。
実はね、雲州流庭園、雲の出雲流ってことなんですけど、っていう様式もあって、
実は2日目に行った雲州平田の中だったり、あるいはさっきの松江歴史館の庭園も、ふまいこうお好み雲州流庭園なんですよ。
そう、だから出雲っていうものがその文化の根源になってるんですね。
あとは、茶を使うこうね、差し物っていう木工の、お茶を入れておく木の箱みたいなものを作る、差し物師も育成して、
まあ日本の差し物師で多分一番有名なんじゃないかと思うんですけど、小林助手っていうね、人物、低い身分の人だったんですが、
その芸術的なセンスに惚れ込んだふまいが即気に取り立てて、ひたすらその差し物の技術をね、やらせたということで、
もう日本を代表する名工としてね、助手はその名をふまいによってね、残させてもらったということで、今でも松江歴史館とかに助手の作品も残っています。
っていう、お茶っていうものを中心としてその文化っていうものを、ふまいオリジナルに仕立てたものが、今でも松江オリジナルとして残るんですね。
ここにやっぱり町の文化ってものが今でも受け継がれている理由なんですよ。
じゃあまあその当時の歌詞は困ってたかもしれないけど、まあ今になってこう長い目で見れば、すごい文化の立役者になってるわけですね。
実際松江のね和菓子美味しいんですよ。特に僕は和菓子というものが好きで、緑のねもちもちっとしたね食感のものなんですけど、これ大好きでね美味しいんですよね。
実際本当にぜひ松江行ったからにはね和菓子をねたくさん和菓子ありますから。というのが寒伝案でした。
そしてですね、いよいよ大通りになるわけなんですけれども、この頃になるともうおそらく3時頃になっていると思いますので、
車で15分ほど新事故の方にね行きます。南の方に南下していきます。そして目的地が島根県立美術館というところに行きたいと思います。
おーすごいね。 立地がすごいですよね。 そうなんです。
48:00
これ県立美術館なんですけど、新事故の広範にある美術館になっていまして、ここがねー
これはすごいんですよ。感動しますよ。
そもそもは県立美術館ということでね、島根県にゆかりのあるアーティストの方ですとか、
あとはまあ展示内容でね結構特筆されるのがね浮世絵のコレクションがねあることでも非常に有名なんですね。
なので割と総合美術館的にね彫刻とか写真とかもあるんですけど、そういった島根県と浮世絵というのはちょっと特筆別かなと思います。
僕割と浮世絵好きなんですよねー。 おーそうなんだ。
なんかねー、小学校の頃に資料集とか見るじゃないですか。
でやっぱり富岳三十六景。はいはいはいはい。
神奈川大きなやつ? あーそうそう。
まあよく多分すぐイメージできる。あの波の奥に富士山があるやつ。
あれ見てやっぱかっこいいなーっていう。パワフルだし。 そうだね。
あれ見てなんかすごい心をつかまわれたんですよね。
そうするとますますここの島根県立美術館もいいでしょうし、 ちょっと旅から離れるけど来年の大河でしょ?そしたらなんといっても。
あ、そうなの? 須田谷寿座風呂だからね、来年。
そういった江戸の出版文化をプロデュースした伝説の編集者。 横浜流星さんね。
あ、そうなんだ。
でもいいと思いますよ、この浮世絵ね。
浮世絵なんか色味がいいんだよな。 あーわかります。
なんかね、こう淡い感じ。
まあなんか版画ならではなんだろうなと思うけど。
この力加減でもってね、スリシのね、グラデーションがね。 うん。
この島根県立美術館においてもね、やっぱり松江の方でそういった有名なコレクターの方がいたんですね。
その方のコレクションをここに寄贈してくださってるということで、我々が今目にすることができると。
で、あとはね、建築も実はここすごくてですね。
これを作ったのが菊武清則さんという建築家。
で、もう日本の美術館建築のもうプロフェッショナル。
もう亡くなった方ですけど。
代表作で言うと、江戸東京博物館とか、九州国立博物館、これダザエフにあるやつですね。
そして石橋文化センター、久留米市美術館。
覚えてますか?
あの久留米の会でね、青木茂坂本範二郎の話をした、あの時ブリジストの石橋翔二郎さんがね、久留米に建てた文化センター。
そしてこの菊武さん自身も久留米の出身なんです。
この辺がまたいいんですよね。
その方が建てた県立美術館になっていて、コンセプトとしてはね、渚らしいです。
要はこの新宿湖はね、目の前にありますから、この水と陸地のこの間、渚ですよね。
51:06
それ自体がこの美術館になるというように。
そして新宿の景観、松江の人が愛するこの新宿の景観を壊さないように、うまく調和して、水のそのまま続いているようなイメージでね。
ちょうどなので湖のこのカーブに沿って建築もカーブしていて、低い軒でね、そのまま波が続いているような感じで作られているというのが、
この島根県立美術館。
なんか不思議な形だけど、それが渚を表現しているっていうことかな。
そういうことですね。
そして、やっぱり何よりここの見どころというのが夕日です。
これはね、本当にすごいです。
これ、この美術館のページのトップに結構ね、でっかく書いてあるんですけど、
開館時間がね、日没後30分までになっているんですね。
で、本日の日没ということで、今日は19時26分になってますけど、
ってことは19時56分まで開いてますよってことね。
日没を見てくれと。
こういうところなんですよ、松江のすごいところって。
まあやっぱ自慢なんだね。
自慢です。いや、これはね、一度見るとね、忘れられない。
本当にすごい。
俺今までいろんな夕日見ましたけど、ここが一番だと思った。
それぐらい感動します。
このね、県立美術館から続いていける広場みたいなのがね、新宿の広範にあるんですけど、
そこがですね、夕日の名所としてね、名高い歩道になっていて、
もちろん季節によってね、やや方角が変わる時ありますけど、
新宿がね、西に面していますので、
その西の新宿の中に墓していくような夕日がね、見られるんですね。
いいですね。だからこの新宿にね、夕日の反射があって、
こう夕日からまっすぐこう夕日の道みたいな感じになってて。
そうなんですよ。
いいですね、これは。
この道がね、しかもこう綺麗にできるその理由というのは、
僕が今ね、海の近くに住んでるので余計それを感じるんですけど、
波がないからなんですよ。
ああ、なるほどね。
一つに言うと、相模湾はね、すごい波が結構高くてね、
だからあれは月がまた綺麗なんだけど、
まあそういう意味で言うと、やっぱりこの静かな波が立ってない湖だからこそっていうのはね、
大きいポイントだと思うんですね。
で、この公園にはね、野外アートみたいなものも結構邪魔にならないくらいにね、
展示されていて、それとともにこう夕日の写真を撮ったりするとね、
すごい幻想的なものが撮れたりとかしますし、
何よりね、やっぱりこのまあさっき内田がね、
自慢なんだねというふうに日没後30分の話してくれましたけど、
あの僕住みたいと思った理由、これもういろんなとこあるんですけど、
平日に僕行った時に学校帰りの子たちとかがここにこう普通に寄って夕日見て、
54:03
そこでアイスとか食べたりしてなんか帰って行ったりとか、
おじいさんとかが犬の散歩してワンちゃんをこう遊ばせておきながらこの夕日を見てたりとか、
あとジョリング帰りのお父さんとかね、
っていうのを当たり前のようにこのすごい光景が生活の一部になっている、
こんな贅沢な街があるだろうかと。
なるほど、いいっすね。
静かで、綺麗で、開けていて、
そしてこの彼方に出雲大社があるんですよね、方角的に言うとね。
だからまあラフカディオハーンの時代の人からね、そうだったと思うんですけど、
東の日が昇る時には中海の方にみんな大橋川から手を合わせた。
そして一日が終わる時、新宿から漁船が帰って行く時はみんなこの夕日に向かってね、
拝んだ。それを出雲大社大国主を拝しながらね、拝んで一日を終えていったっていう光景がね、
松江寺にとっての当たり前だったようですね。
これは確かにね、ここじゃないとない体験だよね。
そうなんですよ。なのでまあ今回の旅はね、だいたいここは5時くらいに行く想定になっていますけれども、
その時々の日没に合わせてね、目一杯ここは時間を取った方がいいと思います。本当に離れられないです。
これ一度見始めると。でまたその湖面を渡ってくる風が気持ちよいんですよね。
いやーいいなぁ。
というのがね、島根県立美術館ということでね、すごい超オススメです。
これでもうね、旅の目的地は概ね終わったんですが、最後出雲空港の方に帰って行く時にですね、
車でだいたい30分くらい、県立美術館からはかかります。実は空港に行く前にですね、とっておきの最後おまけでお土産スポットをご紹介して終わりたいと思います。
それが、ラ・ショコラテリーナナイロさんです。
ショコラテリー、なんか我々の番組だと割と珍しい感じですけど。
そうなんですよ。僕個人でね、これは言ってるのは、皆さんとはあまり言いませんけどね。
これはどういう、チョコってことですよね。
クラフトチョコレートの工房兼カフェになっていまして、なんといってもね、デザインが僕好きなんですよ。
このパッケージがね、木加工模様があってね、デザイン性が高いという感じですよね。
実はね、このデザインは期間限定で変わるんです、色々。
あーなるほど。
今はなので、我々見てる木加工模様ですけど、これ僕今日初めて見ました。
僕が行った時はですね、虫が絵の具であしらわれてるようなね、ちょっと幻想的な虫の世界、テントウムシとかカブトムシがね、あしらわれてるようなね、
淡い絵だったんですけど、今回は木加工模様になってますね。
っていう、これでデザイン変えるっていうのがまた面白いんですよね。
なぜそしてここまでデザインにこだわるかということなんですけど、
57:01
これ面白いのがね、実はここを運営してる会社は、食品会社とかじゃないんですよ。
え?
映像制作会社なんです。
え?そうなんですよ。
何?どういうこと?
あのね、これはね、大阪市に本拠を構える映像制作デザイン会社が運営されていて、
今ね、この工房の代表、このショコラデリーのやってる方が趣味で作っていたチョコレートが社内で評判を呼んで、
社内新規事業みたいなことでね、チョコレートを作り始めた。
ええ?
すごいな。
そうなんですよ。
趣味から始まっちゃうんだ。
そう。
で、その映像会社、親会社自体が出募に進出するっていう時、まあ会ってたみたいなんですけど、
あのチョコレートのね、工房作っちゃったんですね。
すごいな。
はい。なのでやっぱり本業がそもそもデザイン会社なので、デザインのプロがやってるんですよ。
だから食品の、今はプロでもあるんだけれども、チョコのプロでもあるんだけど、出発点はデザインなんですね。
なるほど。
なので、これだけやっぱりすごいデザイン性を担保できるというわけなんですね。
もちろんチョコの味自体もすごくて、もともと好きでやってたチョコマニアの方だと思うのでですね、
カカオ豆1つを取ってもすごくしっかりと工夫が凝らされていて、
かつ面白いのはこれもやっぱデザインなんですけど、フレーバーノート、今ちょうど見てますね。
これがどういう味なんですかっていうのでね、
もちろん産地とか書いてあるんだけど、この文章が文学的なんですよね。
非常に詩を読んでるように独特の言語表現をすることが僕は面白いなと思っていて、
これとそのパッケージのデザインが合わさった時にね、ちょっと唯一無二の魅力を持っているチョコだなと思うんですね。
面白い。
本当に田んぼの中にあるんですよ、これ。
へぇー。
そのシーズンごとにね、味も違う感じなんですね。
そうだね、豆が違うんだね、やっぱね。
僕が言ったのはこれですね、2022年10月、レインツリー、これがさっきの虫のやつだ、これだったと思いますね。
やっぱそのシーズンごとにテーマがあって、それに合わせたデザインのパッケージになってるっていうことなんですね。
そういうことです。
面白いんですよ、これすごく素敵なんです。
そのバックグラウンドも含めてすごく個性的で面白いんですね。
そう、まして映像制作会社ということでね。
僕はいつも、これ出雲空港から車で5分くらいのところにあるので、最後飛行機乗る直前にここで寄ってお土産を買ってっていうのがいつものパターンなんですけれども、
カフェ利用もできるはずなので、イートインでチョコだったり、確かにカカオドリンクとかも飲めたはずなんですよ。
なのでお土産じゃなくてもイートインでも楽しめますので、そのあたりは柔軟に。
ただちょうど出雲空港の前というところがね、非常に嬉しくて、7時までやってるのでね、おそらく飛行機の時間にも間に合うと思います。
1:00:01
ということでね、出雲空港に帰って今回の旅が一旦終わりというふうになりました。
ということで最終日、4日目を振り返っていきましょう。
まず朝は松江駅から松江城の間あたりのお好きなホテルに泊まってるということですので、そこを9時ぐらいに出発。
そこからモーニング徒歩15分程度、松江城の中にある幸運角という洋館の中にあるカフェ、亀田山喫茶室ですね。
ここはもうちょっとなんか豪華な気分になれる、貴族の感じを味わえるカフェですね。
そこでフレンチトーストが名物。
そこから徒歩10分、敷地内ですけどね、松江城ですね。
かなり古い、現存している店主ですね。
黒い壁と破風が特徴的な、かっこいいお城という感じですね。
そしてお城の中では松江藩の歴史を学べて、水戸都松江の街並みを一望できるということですね。
そこから徒歩10分ほど、小泉八雲記念館。
この松江に魅了されたイギリス人、後々もう日本人になるわけですね。
松江に伝わっている階段を出版したという小泉八雲の記念館がここにあると。
そこから徒歩8分ほど、松江歴史館。
松江城の中でも歴史を見れるということですけど、より深く広く松江の歴史を学べると。
そして中に和菓子工房があったりとか庭園があったりとか。
歴史だけじゃなく、いろんな楽しみ方ができる歴史館ですね。
そこから徒歩10分ほど、西洋圏洋食屋さんですね。
カツライス発祥のお店ということで、絶妙なバランスを作り出しているカツライス。
ここでランチをいただくと。
そこから徒歩5分ほど、ホテルに戻りまして、車をピックアップ。
車で10分ほど、寒伝庵ですね。
松平不舞が趣味とお金を継ぎ込んだ茶室ですね。
ここからお茶を中心とした文化をどんどん生み出していったということですね。
今回は寒伝庵を紹介したんですけど、
松江の城下町には他にも不舞のゆかりのお茶室が残ってるんです。
城下町により近いのは明明庵とかもあるんですけど、
不文院ってお寺と、あと月照寺ってお寺。
月照寺は不舞の和歌とかもあるんですけど、
1:03:01
コースによってそれぞれの不舞のお好みのお茶をいただければいいのかなと思います。
全部行ってもいいですしね。
そのお茶室の中でもお茶や和菓子をいただける。
それぞれのお茶室でいただけます。
寒伝庵から来るまで15分ほど。
島根県立美術館ですね。
浮世絵を中心として様々な島根ゆかりの芸術家の作品を所蔵していると。
そして夕日が名物ということですから、できれば夕日を見て、
その後来るまで30分ほど。
最後にショコラテリー七色さん。
映像制作会社が作っているチョコレート広報ということですね。
チョコレート自体もそうですし、パッケージのデザインにも注目ということで、
ここで最後のおやつにするのか、お土産にするのか、
チョコを堪能しまして、
そこから車で6分ほど出雲空港に行きまして、
車を返して、そこからご自宅へということですね。
この番組ではお便りを募集しています。
番組の感想・質問・リクエスト・旅の情報・不通多など何でも結構です。
番組概要欄に記載しているお便りフォームのURLから投稿をお願いします。
また、YouTubeのチャンネル登録・高評価・コメント、
ポッドキャストのフォロー・レビュー、
それから我々の関連SNSアカウントのフォローなど、よろしくお願いいたします。
そして、感想をつぶやく際は、ぜひ、
ハッシュタグおとたびポッドキャストをつけて投稿していただけると嬉しいです。
松江の魅力、いろんな魅力が詰まった1日って感じですね。
そうなんですよ。
歴史あり、文化もあり、夕日ありと。
そういうことですね。
全体通して、島根の出雲とか見穂の関とか、
各地の魅力をそれぞれに堪能して回ったっていう感じの旅ですね。
そうですね。今回は出雲の国、ほぼ全土をだいたい行ったので。
ただね、今回一人旅だからあえて行かなかったんですけど、
本来は松江の近くにある玉作温泉っていう温泉町がすごい有名なところがあったりするので、
そういったところに泊まられてもいいと思いますし、
まだまだこれでは、かなり省略したスポットもあるかもしれないですね。
一日ごとにそれぞれの町っていう感じだから、
ちょっと3泊取れないよっていう人はどこか目がけてね、
行ってもらったりとかするといいかもしれませんね。
すごい出雲の魅力を外観できた感じですね。
そうですね、外観ですね。
いいですね。ここからは自分の好きなスポットがどんどん増してくる感じがしますね。
1:06:02
あとは総括というか、タイトルの話も含めてなんだけれども、
出雲の歴史を見ていたときに、
一つ本当に不思議なことではあるんだけれども、
隔離よっていうものの存在がやっぱりどうしてもついて回るんですね。
そもそも大国主の見事の話から始まって、
目に見える世界、見えない世界っていうのは、
目に見える世界が我々の今生きている現世で、
目に見えないのは何なんだろうっていうところも謎なんですけれども、
それっていろんな説があるし、いろんな解釈ができると思うんですよ。
わかりやすく言えば、生きている時間と死んでしまった時間の話なのかもしれないし、
あとは目に見える歴史と目に見えない神話の世界と言えるかもしれないし、
あるいは人の体表情とその中に宿ってる心の話なのかもしれないし、
あとは極端なし、昼と夜かもしれないんですよね。
目に見える昼と目に誰も見えなくなる夜の世界、
っていうのも一つの写し世と隔離世の話なのかもしれない。
っていうことをいろいろ考えていったときに、
出雲っていうのは、その我々が生きている写し世から
目に見えない世界、大国主がいるはずと隔離世まで、
架け橋というか一瞬だけその写し世の方に、
その隔離世というのが一瞬だけ開かれた現象が起こる世界なのかなと思うんです。
で、ごくごく稀に出雲人の中で特に感度の高い人が、
その隔離世に通じる心を持っている人がたまにいる。
で、それはノンノンバーであり、小泉八雲であり、小泉節さんであり、
そしてそれを受け継いでいった美月茂さんも一人だと思うんですけど、
それがやっぱりノンノンバーのセリフにあったように、
都合のいいときだけ拝んでもダメなんだと。
常日頃からその隔離世、目に見えない何かがいるっていうことを信じているからこそ、
そういった現象に気づくことができるんだよっていうふうな話をしたと思うんですね。
で、それのヒントとチャンスっていうのがたぶん出雲にはね、
実は我々の気づいてないところにいっぱいあるんじゃないかと思うんですよ。
ラフカディオ・ファーンもね、そもそも柏で打ったことに不思議を覚えて、
そこからその隔離の世界というのを知っていったわけなので。
でも柏で打つのはたぶん出雲の人ならではだったと思うんですよ、その時にね。
それを日頃からやっていたっていうのはね。
とかってことを考えたときに、このサザナミの話なんですけれども、
これは別の出雲とは全く関係ないとある小説で言われていたことを今回アレンジしたんですが、
要は新宿の夕日がね、県立美術館で最後見る。
それでこう波が立っていない世界だから綺麗にすごい見えると思うんですけど、
要は我々はそういった現象を見てるわけですよね。
あの夕日が湖面に映っている。
その中にふとした瞬間に風がバッて吹いた時に、
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波がこう立ち騒ぐ時があると思うんですけど、
この風が吹くっていうこと自体がもしかしたらその何か。
要は写しようじゃない別のところからの何かふっとしたものが来たんじゃないかなっていうような。
そういった意味合いも実はあって。
だから目に見えない世界って何気なく見てる我々が目に見てる世界の中から、
実はそういったヒントがちょっとしたらあるんじゃないかなっていうところで、
それのヒントが新宿の夕日を見ながらサザナミが起こったその瞬間に、
なぜ風が急に吹いてきたのかっていうところも何でもないことなんだけど、
そこにもしかしたら感度の高い、稀にその隔離をに到達する出雲人は、
そういうところに何かを見出したんじゃないか。
それが妖怪のせいって思った人もいたかもしれない。
その夕日ってこと自体が昼から夜への到達する一つの現象なので、
だから最初の稲妻の浜でも夕日を見ましたし、
最後の県立美術館で夕日を見たっていうそのマージナルなところっていうのが、
何か出雲の象徴的なような気がするんですよ。
でもそれぐらいいろんなことを考えさせられる。
本当にお勧めです。
出雲は松江は、本当に出雲松江は日本の中でも特別お勧めします。
すっごくいいところです。
本当に住みたいと思うし、
特に少人数一人で行くならば絶対欠かせないです。
特別なお勧めです。
なるほど。
そのまあ熱量がこもってたからかその散髪っていうのもあるし。
そういうことですね。
いやでも確かに、目に見える部分だけでもすごく魅力的な部分がたくさんあったし。
まあそういう視点、隔離を討ちしようっていう視点を持ってみると、
何かを感じ取れるかもしれないし。
確かにそれはちょっと面白かったな。
ということで、
結構撮れましたね。
雨の中断もいつの間にか良くなったけど。
そうですね。
次回は雑談会ですね。
ということで、今回はこの辺で。
ありがとうございました。
01:11:32

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