1. 大人になりたい旅がしたい
  2. #48-2 【長野・川中島】川中島..
2024-10-03 54:05

#48-2 【長野・川中島】川中島兵乱記 後編

“竜吟虎嘯”の戦術論 川中島兵乱記 後編


“竜虎相搏つ”―――

戦国時代を代表する両雄が、5度に渡り相まみえた川中島。北信の小さな平野に過ぎないこの地に、なぜ大軍が集い、日本の戦史に不滅となった激闘を繰り広げたのか。信玄・謙信という、対照的な個性の結晶が生んだドラマは後年多くの日本人に偲ばれ、やがて大いなる“謎”を残したままに“伝説”へ昇華していきました。今回は、双方の本拠で彼らの特性を理解した前提で古戦場を巡り、“時代の悩みを悩んでいった”両雄の真情を浮き彫りにします。


【目次】

〜 ぜひ前編からお聴きください

〜 ★歴オタ話★ 探り始めた“落としどころ” 両雄の思惑とは!?

〜 川中島の戦いの虚実を学ぶ特別展示 【長野市立博物館】

〜 ★歴オタ話★ なぜその瞬間は伝説となった? 信玄・謙信の一騎打ちを巡って

〜 戦を終結させた一つの死 その遺徳を偲ぶ 【典厩寺】

〜 “似た者同士”だった両雄 コースタイトルと戦の真相

〜 1日の振り返り

〜 ★旅の終わりに★ 戦の秘密を握る“天才軍師” 山本勘助と山本菅助


#おとたびポッドキャスト

#ポッドキャスト

#国内旅行

#旅行情報

#旅行プラン

#長野旅行

#長野観光

#武田信玄

#上杉謙信

#川中島の戦い

#長野市立博物館

#典厩寺

#風林火山

#山本勘助

#歴史好き

お便りフォームはこちら

関連SNS 公式Xアカウント:⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠@ototabi_podcast⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠ 公式Instagramアカウント:⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠@ototabi_podcast⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠ 晴也旅行Instagramアカウント:⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠@hanakin_kozakura⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠ イラスト:shoki ⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠@shoki⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠ 音楽:BGMer ⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠http://bgmer.net

00:03
大人になりたい旅がしたい。このポッドキャストでは、旅行と酒が好きな荒沢男性2人が、大人だからこそ知りたい、ちょっとディープな国内旅行のモデルコースを紹介しながらお話をしていきます。
内田です。今回はですね、【良銀故障の戦術論】川中島兵乱記、これの後編となっております。
今回はですね、前編の内容を前提としたお話がたくさん入っておりますので、ぜひ前編からお聴きいただければと思います。
ということで、川中島シリーズ3コースを締めくくる、完結編となります。ぜひお楽しみください。どうぞ!
会津城から見ても、実は西条さんも見えます。 西条さんから見たら、会津城はもうよくわかります。何をしてるかもわからない。
そんな戦ないでしょ。 そう。あり得ないんですよ。
まして真剣ほどのリアリストの戦の上手い奴が、こんなところにSSとジンを付けさせるはずって、僕はないと思うんですね。
そうだね。 っていうのがね、ただ一つ。
ただ事実として、後編の記録においては、この西条さんにウィスリケンシンはジンを張ったと言われてる。
そこでまた似合い目を続けるんですよ。 なるほどね。
というのがね、回戦前夜という感じなんですね。
ここからじゃあどうすればいいのか。ケンシンはケンシンで思いついたことをする。
シンゲンはシンゲンでその思いつくことを許す。
ということになった時に、お互いの落とし所をどういうふうに見つけるかという話になってきたんじゃないかと思うんですよ。
どうすればいいのかってことになるんですよ。
まあね、でもケンシン側からすると、そこまで攻められたっていうのは、もう実績の一つとして取れるんじゃないかと俺は思うんですよ。
なのでここで、とりあえず手で戦を始めて、これで武田側が勝てば、武田側は土地が手に入る。
上杉側は最序端までは行けたけど負けちゃったっていう実績を作れるなと俺は思うけど。
まあそういうことなんです。
ちょっとあえて言うならば、ケンシンは負けないんです。
負けないのがケンシンなんです。
なぜならビシャモンペンのケンシンだから負けられないんです。
戦には負けない。絶対に。
これまでの法杖も負けてないんです。
目的を100%達成できなかっただけで、戦には勝ってるってことになるんです。
小田原城まで攻め込んでね。関東一円を荒らし回せた法杖の間の手から一部を解放したみたいな。
でも結局帰っちゃうから、また法杖の間の手が広がる。
ケンシンは負けないんです。絶対に。負けちゃいけないんです、この人は。
じゃあどうすればいいんだ。
むずかしいね。負けちゃいけないのに土地は譲らないといけないんでしょ。
そういうことですね。真弦は絶対土地を取るんです。
03:01
あらゆる手を使って土地を取るんです、この人。
どうすればいいんだ。
ここはもうお互い攻めないですよ、みたいな。同盟結ぶしかないくない。
それだったらまたね、結局村上佳代からしたら、竹田とお前、竹田の土地を見たら知ってたのに。
え?無理じゃない?
土地に代わる代償が欲しいんですよ、ケンシンは。
パフォーマンスの、さらに盛大なパフォーマンスが欲しいんです。
はっきり言うと、すごいえげつないけどすると、首です。
うおー、それはね、俺の発想にないわ、それは。
戦国時代のね、ちょっと厳しいところなんですよ。
なるほどね。
首が欲しいんです、ケンシン。
ああ、まあそうか。頼んだ村上からしたら、取っちめてくれたっていう証にはなるのか。
そう。土地は取り返せないのはケンシン自身が一番分かってた。絶対に土地は取ってもらわないです。
賃金が絶対取るから。
けど、賃金を満足させた上で撤退させない。
それで村上をしても納得させない。
首なんですよ。
なるほどね。
ああ、まあそうか、それしかないか。
それしかないんです、もう。
確かに確かに。
そしてもう、このいい加減何度も何度もやってる河中城の戦いをもういい加減終わらせなきゃいけない。
終わらせないとね。
そう終わらせたいんです。お互いの達成したい。
そして、まあこれは後世の軍器物によるところの話をしますが、
1561年9月9日の夜だったと言うんですけれども、
上杉ケンシンが西条山に登ってから結構経った。
で、どうしようこの睨み、どう土地を見つけようと。
海図城を見ていたら、海図城にえげつない数の煙が上がったと記録されてるんです。
火事が起こったのかと思ったけど、そうでもない。
お城にいる人たちが煙を上げるって、これ何の証拠だと思うんですか?
まあ、のろしなんじゃないですか?
のろしね。
でも夜か。
でね、1本じゃなかった。
なんかいろんなところから煙が上がってる。
何かをしている。
宴?
宴ね。
飲んじゃうかもつまんねえしみたいな。
さっき我々も体験したことなんですね。
え?体験?俺ずっと喋ってたけど。
火を起こさない、まあ火じゃなかったんですけど、
火を起こして何かを準備し始めてるんじゃないかっていう風に見立てたって言うんですよ。
当時はね、ヒントで言うと炊飯器も電気もありませんから。
あ、飯?
そう。
ああ、なるほど。
戦のために飯を用意し始めたと。
そう。
その炊飯の煙がめちゃくちゃ上がり始めた。
9月9日の夜に。
なるほど。
武田が何か仕掛けてくるっていうのを察知したと言うんですね。
06:00
いよいよ攻めてくるんじゃないかと。
で、確かにその日付としても、
合戦があった数日前でね。
1日前です。
1日前か。
9月10日なんですよ。
あ、そうか。
9月9日の夜なんです。
そうか。
おお、なるほど。
謙信は西条さんの上から、
その炊飯の煙が開通所にめちゃくちゃ上がっているのを見て、
武田が何か仕掛けてくる。
これは先手を打たなきゃならないと思って、
密かに弁政粛々、夜、川を渡るというね、
有名な関心持ちの地を謳われるんですけれども、
真っ暗闇の善行時代らを誰にも悟らずに、
弁政粛々、つまり何の声も立たずに、
上杉軍は抜群の統帥力を持って、
密かに竹間川を渡って、北側に逃げ渡ったって言うんですね。
でも逃げちゃ首取れないんじゃないの?
武田軍がどこにいたかその時。
武田はじゃあ何をしようとしていたのか。
これはあくまで軍気者の話です。
山本勘助という軍師が武田信玄の側にいて、
狐突き作戦という作戦を信玄したという記録があるんです。
狐突きというのは鳥でしょ?
木をカンカンカンカン突いてね。
あれは何のために突いてるんですか?
木の中にいる虫を食べようとして、
穴を開けるために突いてるわけでしょ?
そう。
狐突き作戦という構成に言われているのは何かというと、
武田軍はおよそ2万人いたと言われてるんですけれども、
そのうちの1万幾千を西条さんの後方に密かに回らせて、
夜明けとともに西条さんの上から上杉軍を攻める。
驚いた上杉軍がそれにたまらず下に降りてきたところを、
武田の残りの部隊が海洋戦場から密かに出ていて待ち伏せする。
上杉軍はにゆうまなくなって壊滅する。
なるほどね。
じゃあその西条さんを木に見立てて、
一回叩いてみると。
そこを出てきた虫の上杉軍をとっちめてやると。
そういうことです。
なるほどね。
っていうのを立案したと。
進軍をすると悪とした。
そして9月10日をその血行の日と定めて、
9月9日にその炊飯の煙を持って、
今は別同体の組織で2軍に分けるんですね。
武田軍を分けて、
一つを遊軍みたいにして、
最初に裏に密かに移動させようとしたと言うんですね。
じゃあそのための召使はいるね。
っていうのが通説なんです。
なるほど。
けど僕は思う意味なんですけど、
進軍はそんな馬鹿じゃなかったと思うんです。
そんな煙見せるような真似は普通はしないだろうな。
だってあたかも明日動きますよって言ってるもんじゃないですか。
そうだね。
武田進軍の戦っていうのは徹底してるんですよ。
絶対に勝つんです。
勝つ戦しか絶対にしないんです。
子供を殺してまで。
そんな馬鹿なことは進軍はしなかったと思うんですよ。
なるほどね。
もし本当にしたならば、
あえて献身に僕は行ったと思うんです。
09:00
つまり武田は明日本気で攻めるから、
逃げるなら今のうち。
パフォーマンスはもう最上さんまで攻めず持ったことで、
もう十分なんじゃないか。
で、進軍としても絶対勝てる戦しかしない人ですから、
無駄なことはしないので、
動くからもう引き上げろとそろそろ。
これで一回手打ちにしようっていうメッセージだったんじゃないかと僕は思うんです。
だからまあ、俺がさっき言った、
のろしの代わりになってたっていうことね。
ただ、敵に向かってのろしをあげるなんて馬鹿な話じゃないですか。
だし、武田くんからしても嘘だって思うじゃん。
そんな大将があいつへと通じてたんだって思う。
それの代わりが垂範だったんじゃないか。
なるほどね。
でももうカムフラージュしながらね。
通戦に乗っとるならばね。
結果としては、9月10日の朝を迎えたときに、
最上さんに上すぎにはもうすでになかった。
前甲寺ダイラーを筑波川を渡って北の方に進軍して、
八幡原というところにいた。
そして武田くんがそこにいた。
武田くんは通説によると、やはり2軍に実行したって言うんですね。
それで1軍を最上さんが裏手に回らせて、
もう1軍、武田信玄本体は海津城を密かに出ていて、
川口で待ち伏せしていたって言うんですよ。
通説によれば、そこで意図せぬ遭遇戦が起こった。
武田川からした意図せぬ遭遇戦。
上杉はもう一度別胴体に攻められて追っ払って来られてくるはずなんだけど、
いつの間にかそれより早く先に察知して静かに川を渡って自分の目の前に行った。
武田川はあと何時間か待っていれば来るだろうと思ってたら、
両側を開けて切り替えて目の前に上杉天神がいた。
別胴体は空振りですよ。
そこで大遭遇戦が起こって、
上杉天神からしてみれば、武田の動きを察知していたらしいので、
今こそが信玄の首を取るチャンスだと思って、
車任務に攻め立てる。
そして信玄の方はヤバいと思った。
予期せぬ、想定外の事実が起こった。
けど今もうちょいちゃんと守っていれば、
いずれ空振りによっては別胴体が追っかけてくるから、
それが追っかけてくれば結局作戦は成功する。
とにかく今しのげと。
いう風にやった。
それが起こったのが八幡原というところだって言われてる。
その八幡原というところに行きたいと思うんですね。
はいはい。
急にコースに戻ったなって間違えちゃいましたけど。
これね、西条さんから車で12分ほど行ったところに、
長野市立博物館というところがあります。
その通りね、
長野市のいろんな自然だったり歴史だったりを
開設展示している博物館になるわけですけれども、
この場所があるのが川中島湖泉城史跡公園というね、
いわゆる信玄と謙信の遭遇戦が起こった八幡原というところの
敷地内にあるんです。
なるほど、もう本当に戦地だ。
12:00
そうです。湖泉城にあると言われているんですね。
もちろんね、長野市の自然とかにもね、
山の美しさだったり川の美しさだったりも
開設しているんですけれども、
今回の用途で言うならば、
やはり展示室川中島の戦い。
これ最近オープンしたそうなんですけれども、
1561年9月10日の、
いわゆる第4次川中島の戦いに焦点を当てて、
ただそこに至るまでの我々が今話してきたような話だったり、
そして川中島の戦いをめぐる大きな謎がいくつかあるんですけど、
その辺のミステリーを解き明かすために、
特別展示室をオープンさせたということなんですね。
これ僕が以前に届いてなかったんですよ。
この7月に初めて僕見てきたんですけど。
本当に八幡原の戦いの紹介映像も見れるんですね。
そうですね。
そしてこの床地図というのがありますけれども、
縦看板みたいなのが地図に立っているわけですが、
これが川中島第4次以外にもね、
第1次から第5次、6次まであった中で、
どういうとこで睨み合ったか。
そしてそこにまつわる謎がいくつかあるということを提起してくれてるんですね。
これはもうだから床地図って書いてあるけど、
床に地図が書かれて、それぞれの要所となるポイントに
縦看板が立って解説が書いてあると。
そういうことですね。
なので川中島の戦いというのは、
以前申し上げたように、
武田信玄というのは徳川家のリスペクトを集めていて、
神格化されてしまった。
中部伝説化した戦いになってきてるんですね。
江戸時代においても。
けれども、改めて今のね、
現代日本の科学をもって、
歴史学を紐解いていくと、
必ずしも伝説に沿わないんじゃないかっていうところが見えてきてる。
その辻褄がないところがある。
おひれはつくだろうしね。
そうそう。
おひれが本当におひれなのか、
それも実は本当にあったおひれなのか、
っていうところも含めて、
いろんな提案というかね、
問題提起をしてくれてるっていう、
面白い展示なんです。
残ってる資料によると、
こういうふうに書いてあるんだけども、
ここおかしくない?とか、
そういうことです。
いうことを展示してるんだ。
それはやっぱりね、
長野市っていうね、
もう地域密着ですから、
長野市の地勢とか風土とかに鑑みて、
おかしいところはおかしいんじゃないか。
でもそれはおかしく決めつけずにね。
あくまでもそれ分からないよね、
はっきり言った方は誰にも。
こういう説もあるけどっていうのを、
紹介してくれてる。
なんか面白い展示だね。
なんか投げかけてくる感じなんだ。
そうそうそう、現代的というかね。
お子様が多分来るんじゃないかと思うんですけど、
そういう方にとっても、
いわゆる一般的に言われている歴史と、
また違う歴史があったんじゃないかっていう、
ちょっと歴史の深みにハマっていくような、
きっかけを作ってくれるようなね、
面白い展示があるかなと思うんですね。
まあなんかその、
俺なんかからするとさ、
教科書に書いてあることが事実だろうと思って、
授業とかを聞くけど、
15:02
そうじゃないかもよみたいな提供をしてくれてるのね。
そういうことですね、ソフトに。
それはいいですね、いい展示だね。
最近できたので特別展示してますね。
川中島の戦いの第4兆というのは1561年ですから、
450年というのは2011年だったりしていますので。
いい展示ですね、これは。
それだけ言われるほど、
川中島の戦いというのは、
伝説化していると同時に謎が多いんです。
で、なんかおかしなところもある。
なるほどね。
じゃあこの展示を見ながら、
自分なりの考察をね、
巡らせることができる。
そういうことです。
そしてあえて言うならば、
ネタバレすると、
僕ね7月自分に行った時は、
長野手裏博物館を見た後に西条さんに行ったんです。
だけどモデルコースは逆にしたんです。
なぜかというと、
上杉謙信が行ったと言って、
実際ルートを辿ってみたかったんです。
つまり、長野手裏博物館から西条さんに行くと、
実際と逆なんですね。
上杉謙信は西条さんを下って、
長野手裏博物館のある地にまで行ったと言われている。
それが本当なのか。
その謙信が見た景色って何だったのかっていうのを、
僕は確かめてみたかった。
だから2回往復したんです。
時間があったね。
で、もう一回西条さんから行ってみたんです。
したら、
やっぱりね、
僕はね、これはね、おかしいというかね、
野望調だったと思うんですよ。
言ったことでいいと思う。
実際に道を通ってみて、それをまあ覚醒に変えたというか。
まあ、確信ということのことはないんですけど、
確信を深めたって感じかな。
まあこういうことがあったんじゃないかなとも思った。
通説によれば、
1561年9月10日の早朝に、
上杉謙信は密かに西条さんを下って、
橋本原に下り、
武田信玄はそれを全く知らなかった。
知らないまま、
上杉謙信が何時間後に来るだろうと思っていた。
ところが霧が晴れたら、
上杉謙信がそこにいた。
上杉謙信は武田の首を取るチャンスだと思って、
社人部に攻め立てた。
そこで大激戦が起こった。
武田軍は信玄を守ろうとした。
謙信は信玄の首を取ろうとした。
龍虎相打つ。
越後の龍、蚕の虎が相打つ。
伝説になる戦いが起こったと言われている。
その戦いの中で、軍師山本勘助、
そして武田信玄が最も信頼した弟、武田信玄。
これも死んだと言われている。
ところが、数時間経ってやっぱり、
物受けのからだった西条さんのことに気づいた、
別胴体が山を一緒に下ってきて、
上杉軍を攻めていった。
それによって武田軍は形勢を盛り返して、
上杉はこれ以上の戦いは不可能と見て、
越後に引き上げていった。
そして武田軍はそれによって、
18:02
北進、前後時代らを結局自分のものにした。
上杉謙信は武田信玄を打ち取ったという。
そして山本勘助を打ち取ったということを代行立てて、
越後へ凱旋した。
双方とも勝ちだと言って譲らずに、
お互いの味方の武将に勝ちました。
って書いてる。
っていうのが通説なんですよ。
なるほどね。
それは通説ね。
今まで春屋の説をずっと聞いてるから、
それに照らし合わせると、
両軍うまいこと言ってるね。
そうなんです。
つまり目的を達成してるんですよ、お互い。
なるほどね。
武田信玄は、
はっきり言って、
善行自体が手に入ればそれでいいんです。
別に上杉がどうだろう知らないけれど、
その途中が手に入れば満足。
上杉謙信は、自分のブランディングのために、
何かしらの成果をあげなきゃいけない。
パフォーマンスとして何か分かりやすいものがなきゃいけない。
武田信玄の首輪はもちろん最大の例でしょ。
そして、一説に言われているのは、
上杉謙信、武田信玄は、
この八幡原において一騎打ちをしたと言われてる。
すごいね。
武田信玄の本陣に深く攻め入った上杉謙信が、
短期、つまり一騎で馬を駆けて、
ドカッと突っ込んでいって、
武田信玄の本陣に到達し、
自らその太刀を振り抜いて、
武田信玄に蹴りかかった。
武田信玄はそれを受け止める暇がないから、
刀を出さずに、
持っていた軍梅でそれを受け止めた。
本当だ。
この絵にも書いてありますね。
上杉謙信は三太刀切りつけた。
しかし、武田信玄の軍梅には、
七太刀の傷が残っていた。
君主、武田信玄の騎龍を見た原大墨の神という人物が、
上杉謙信の馬、
持っていた馬を、
パシンて槍で叩いた。
それに驚いた馬は、
上杉陣に帰っていって、
上杉謙信を惜しくも、
武田信玄を打ち漏らした。
武田信玄は、その騎龍を乗り越えて、
結果的に前甲司代らを手に入れた。
と言われている。
そしてこの八幡原の、
長野市作物館のある八幡原史跡公園には、
その二人の一騎打ちの名場面ですよ。
500年かかり続けている名場面が、
再現された一番有名な銅像がありますね。
なるほどね。
ここまで、ハリアの見たてを聞いているので、
めちゃめちゃ斜めな見方をすると、
一騎打ちって、
怪しくない?
話し合ってないとかとすらも思えてくるよ。
一騎打ちなんて普通はないじゃないですか。
ないですよ、この大名同士が一騎打ちなんて。
三国志の世界じゃないんだからさ。
キングダムじゃないんだからね。
そうそう、キングダムでしょ、これなんてね。
でもこれあったと言われているんですね。
実際それがいろんな本に書かれているわけなんですよ。
21:02
僕は結論から言うと、これあったと思ってるんですよ。
でもそれはパフォーマンスだと思っている。
上杉 武田総合にとって必要なパフォーマンス。
もっと言えば上杉謙信にとって必要なパフォーマンスだということを
武田信玄が知っていた。
まあそうね、この一騎打ちに関しては、
謙信のキャラを守るっていう性質の方が強そうな気がするね。
だから武田信玄が軍配を受けたかどうかはともかくとしても、
上杉謙信はそこまで武田信玄の首を取ることに本気になっていたということに、
宣伝するパフォーマンスとしてこの一騎打ちに近しいものを僕は知ったんじゃないかと思うんですよ、実際に。
いやでも十分な証、頑張った証拠なんじゃないですか。
そういうことなんですよ。
うーん、なんかすごいね。
晴山の説もすごく信憑性があるよ。
まあ本当に主観だけどね。
でも謙信信玄それぞれの人格というのは、
僕はそういう人物だと思うんですね。
とにかく僕はこの二人ほどお互いのことを知り抜いていた人いないと思うんです。
お互いの強みも弱みも求めているものも、
何をすれば満足するかもこれほど知り抜いていた人いないと思うんですね。
だからこそ一騎打ちは必要だったんです、双方にとって。
けど謙信は信玄を殺さなかった。殺せなかったのかもしれないし。
一方で信玄は謙信を攻撃することはしてなかった。受け止めるだけだった。
刀は抜いてないもんね。
抜かなかったんです。最後まで刀は抜かなかった。
なぜならば信玄にとってそれは意味がないんです。
謙信の首を取っても彼は意味がないと思ってる。
彼は善行自大を自分の目にすることしかないんです、目が。
なるほどね。
結論を言うと、川中島の戦いの9月10日に何が起こったかということについて、
水犯の懸命を見た。
謙信は武田の動きを察知して、山を抜いて奇襲をかけたというのが通説なんですが、
僕はこれはおかしいと思う。
信玄はそんな変をしないんです、絶対。他の人跡を見ていると。
だから僕が思うに、信玄は三十三を責めたんじゃなくて、
長野の善行自大を責める。お前の態度はマジでなくなるよっていうことを、
案に威圧したんじゃないかと思ってるんですね。
そしてそう考えてみると、武田信玄が実際に善行自大に出陣して、
海越城を出て北に向かっていた理由もわかるんですね。
確かにね。
彼は善行自大にしか目がないんです、はっきり言って。
そして上杉謙信、あいつは実はすごい物分かりのいい奴だから、
威圧をして戦を避けると思う。
三十三まで責めたことで、十分なパフォーマンスができたから、
もう俺らそろそろ動くんで、撤収してもらっていいですか?
パフォーマンス十分にしたでしょ?
村上将棋を満足するでしょ?
そろそろ越後に引きなっていうことを示すために、
わざわざ大陸に追犯を絶えた。
ここからが分からないとこなんですけど、
24:02
謙信はそれを多分分かっていた。
信玄が自分に向かって出したサインだってのも分かっていた。
だから越後に引くために四季間川を渡った。
北へ向かおうとした。
その時に遭遇戦が起こった。
つまり武田信玄が善行自大に攻めるようとする軍と、
上杉謙信が越後に引こうとする軍が風雲にしてぶつかった。
その時に遭遇戦が起こる。
遭遇戦が起こった時に、早く沈みなきゃならない。
そういう時に何かパフォーマンスをしなきゃいけないと思って、
謙信は信玄の本陣に突っ込んでいった。
じゃないか。
っていうのが、僕は本当に大和川中島の戦いの真相なんじゃないかと思うんです。
なるほどね。
いやでも確かに、追犯の煙が上がったところで、
最序山に来るまでは分からないもんね。
だから何か動くぐらいしか組み取れないだろうから、
そう思ったら、攻めてくるよっていうことで引くことしかできないというか。
そろそろ引いて、村上義彦に対しては、今回は本気だって。
マジで信玄を組み取ろうとした。
だから最序山まで行った。
けど信玄が臆病だから出てこなかった。
で、大和が塞がれちゃったらみんな死んじゃうから、
やむなく今回は引いた。
けどめっちゃ頑張った。
小田原城を攻めたぐらい頑張った。
けどやめ終えなかった。
っていうポーズになろうとした。
すごくね、辻褄が合うね。
ただそれが不運にしてなぜか遭遇したんですね。
それが、信玄、謙信それぞれ読み違いだったのか。
つまり遭遇しなくていいはずの分が読み違えて遭遇したんです。
もしかしたら謙信からしてみたら、
謙信自身をもう禅公寺の方に越後に帰ろうとしたけども、
遅れた陣の方が竹谷に直下を出されてたかいを起こってて、
それを助けないわけにはいかないんですよ。
謙信は人を助けなきゃいけないから。
それで早く終わらせるために竹谷の陣に突っ込んでいって、
遭遇戦が起こったのかもしれない。
信玄は禅公寺であれさえ手に押さえればいいんだけど、
なんかウイスキーが本当にもたもたしてた。
あんだけあいつを送ったのに。
だからなんか遭遇戦で変な直下出されちゃって、
不幸な遭遇戦が起こった。
より深読みをするんであれば、
竹谷の方は首を差し出したんじゃないかなとかも思える。
だからそこすらも示し合わせて、
こいつらの首を渡すっていうところまで、
読み合ってた可能性もあるんじゃないかとすら思えてくるけど。
本当に台本見てないんだよね。
見てないよ。
僕もその説が実はあると思ってるんです。
ちょっと深読みすぎる気もするんだけど。
そりゃそうです。
あくまで推測って言うんですよね。
最後のスポットなんですけれども、
長野市立博物館から、
久留村3分ほど行ったところに、
天宮寺っていうお寺があります。
27:01
字が難しいんですけれども、
式典の典に馬屋と書いて、
きゅうと読むんですが。
こういうきゅうって読むんだ。
これに寺と書いて天宮寺と読むんですね。
馬屋ってみんな想像つくのかな?
なんて言えばいい?
説明できないね。
最近、諸独太子が馬屋堂の王子になってるらしいけど、
その馬屋でしょ?
そうそう。
要は馬がいるところなんです。
馬屋で変換してみてほしい。
天宮寺、川中島とか全部出てくる。
天宮寺というのは何かというと、
天宮という不思議な言葉の意味なんですけれども、
仙宮みたいだね。
そうね。
これはね、
日本の漢名で言うところの、
様之助という官職があったんですが、
朝廷のね。
それの中国の呼び名を天宮と言った。
様之助の寺というのが天宮寺の意味なんですね。
そして様之助という名の立ち入りは誰だったかというと、
武田信玄の実の弟、武田信助だ。
信助という人物って、
第四次川中島で首を取られた人でしょ?
そう。
その前に出てきてるんですか?
幸福の回。
えーと、何だっけ?
あーもうね、パンクしてきてますよ。
じゃあ一日はずれてね。
武田信玄の父は信虎が、
信玄が権威食わねえって言って、
もう信玄ダメだと。
自分の後目は、
そうだそうだ。
信繁に継がせると言った、あの信繁です。
あーなるほどね。
武田信繁というのは、
武田信玄と4年離れていたという実の弟。
お母さんも一緒だと伝わってます。
信玄と信繁というのは、
信虎追放の経緯からすると対立したように見えるんだけれども、
実際のところは信繁は最後まで兄に忠誠を尽くして、
兄に常に協力をしてた人物。
まあそうね、ここまで一緒にやってきてんだもんね。
尾立信繁とかを限りに見ると、
兄弟って結構殺し合う世の中ですから。
戦国時代なんて。
どっちが当主になるかっていう、一番のライバルだもんね。
ましても信繁からしたら、
信虎があと何年かいてくれれば、
自分が当主になれたかもしれないんですよね。
気に入られたから自分が。
けども、信玄信虎追放に自分も加わって、
信繁は当主になることをやめて、
信玄に支え尽くしたり、
っていう弟だったんです。
それを天宮、様之助信繁といった人物なので、
それが天宮という中央の峠を取って、
お寺を建立したんですね。
なので事実として、
この武田信繁、天宮信繁は、
この川中島の戦いで命を落としたんですね。
で、ここでちょっとね、
さっき内田がさらっと言った疑問というか、
クイズを思い出してほしいんですけれども、
先ほど内田はその飢えすぎ方がね、
30:01
首を求めていた。
武田信繁は首を差し出すことによって、
土地の代わりに飢えすぎの川を建てて、
長野を自分のものにしようとした。
それを示し合わせてたんじゃないか、
みたいなことを言ったと思うんですよ。
これはあくまでも推測なんですけれども、
もしかしたら、
このことを気づいていたのは、
信玄、謙信の他に、
この信繁自身も気づいたんじゃないかと、
僕は思ってるんですね。
はー、なるほど。
自分から討ち取られに行ったっていう説。
それはね、さすがに大げさだと思うし、
自害したわけでは決してないので、
違うんですけれども、
なかなかこの不良の遭遇戦で、
武田方は今日疲れていたとはいえ、
副将軍レベルの人が死ぬって、
なかなかないことなんですよ、普通はね。
もちろん信玄自身も一騎打ちの八百尾を、
呼んでいるような状況ですから、
かなりのピンチだったら間違いないんですけど。
信繁は別に自殺したとは決して思わないんですけれども、
どっか心の堅すぎには、
自分の首が討ち取られるって、
自分の首をある意味差し出すことによって、
上吊り方としては高らかに、
あの武田の副将軍信繁を討ち取った、
っていうぐらいのパフォーマンスって、
他にないような気がするんですよね。
なるほど。
なので、目的としては、
まず信玄を守り抜くために戦ったのは間違いないんですけど、
かなり無理をして、
副将軍自らが前線に張って出てきたっていうのは、
なんかそういう意識もあったんじゃないかなっていう気もするんですよね。
覚悟の上で。
っていうぐらいの人だったような気がするんですね。
なるほど。
さっきの俯瞰読み、俺が言った俯瞰読みは、
信玄がそれを分かって、
そういう配置にしたんじゃないかと思ってたけど、
よりね。
そうそうそう。
信玄も首を差し出したとはいえ、
その信繁というのがね、
これが非常に優秀な人物だったと言われてる。
で、信玄信繁ということは、
二人の兄弟が双方に優秀で仲良くやっていたからこそ、
武田家っていうのはすごく大きくなったと言われているんですね。
それを首を差し出すことまではしないと思うんですけれども、
信繁はお兄さんレベルに優秀な人だったので、
分かってたんじゃないかっていう気もするんです。
自分の存在というのがどういった意味を持っているか、
っていう客観視できる能力を、
この人もまた深く持っていたような気がするんです。
なるほど。
いや、かっこいいなあ、なんか。
これはね、天宮寺の話さっきしましたけれども、
この天宮寺ってね、
建てたのがね、実はね、
松城藩の真田のお殿様なんですね。
江戸時代に入ってその信繁の墓を、
さらにちゃんと整備しようということで建てたんですけれども、
ここで一つね、
ちょっとそのかっこいいなって話がありましたけれども、
現にね、竹田信繁というのは本当に、
同時代の人からもすごく尋謀の厚い人だったというのは間違いないことなんです。
これは諸説あるという前提なんですけれども、
一個それを示すかもしれないエピソードとして、
真田丸っていう大河ドラマで描かれた、
33:02
真田幸村っていう武将がいるじゃないですか。
有名ですよね。
有名ですよね。
これただね、
真田幸村っていうのは、
実は後世によく伝わっている名前ではあるんだけど、
本名が違ったって言われてる。
てか違ったんですよ。
なんかそういうパターン多いね。
そうそうそうそう。
じゃあその本名が何だったのかっていうと、
これが信繁なんですね。
え?
そうなんですよ。
それは竹田信繁から名前を頂いてるっていうこと?
説があるんですよ。
信繁という名を真田信繁の方をつけたのは、
お父さんの真田正幸という人なんですけれども、
大河ドラマでは草刈正夫さんが演じてたんですが、
この真田正幸は竹田信繁に側近としてずっと仕えていた人なので、
竹田信繁の方がどういう人物だったかということを
よくよく知っていたはずなんです。
真田幸村というのは次男なんですよ。
彼との人もまた。
長男には信幸っていう松城藩の半祖になった人がいて、
その弟として真田信繁というのが生まれてるんです。
だからおそらくなんだけど、
お父さんは真田正幸の人生において、
最高の弟像というものが、
竹田信繁の弟信繁だったっていうふうに
思ってたんじゃないかと。
それで自分も次男として生まれた子供に対して、
この信繁、字も全く同じなんです。
というのを名付けたっていう説も本当にあるんですね。
真田信繁が生まれる6年前に竹田信繁は川中島で死んでるので、
世代はかぶってないんですけどね。
それは偶然にしちゃできすぎるね。
そんな気はしますよね。
その気持ちもわかるしね。
兄を助ける一番の理解者で、
身をこにして助ける弟であれと。
そういうことですね。
っていうぐらいの人物でね。
そういうわけで非常に同時大臣から、
また後世からもすごい人気の高かった竹田信繁という武将なので、
今もこの天宮寺には彼のお墓がもちろんありますし、
あとは宝物館みたいのがあるんですけど、
そこにおいて竹田信繁が実際に川中島の時に使ったと言われている、
衣服だったりとか武具だったりとか、
あとは川中島の戦いってすごい数の師匠者が出てるんですけども、
一般兵の間でね。
そういった人たちが使っていたであろう出土したものとかもね、
ここに展示してありますので、
川中島の戦いそのものを知るという意味でも、
ここはぜひ行っていただきたいなというふうに思いますね。
その状況が垣間見える品が並んでるって感じですね。
そういうことです。
事実として、竹田信繁を打ち取ったっていうのが最大の戦果とした上杉軍は、
竹田の別増隊が追ってくる前に越後を引き上げて、
そして第5次という睨み合いがもう1回あるんだけれども、
結果としてこれほどの戦いを竹田上杉双方ですることはもう二度となかった。
そしてシナノの北部というのは新芸の手に帰して、
ただ上杉軒進は非常なパフォーマンスを一騎打ちで切り込んだかもしれないし、
36:04
堂々と川を渡っていくし、
で、竹田信繁を打ち取ったしっていうところですね。
っていう戦果を収めて、
川中島の戦いというのは終わった。
なるほど。
だから両者にとってそれぞれに価値だったわけだね。
そう。
というのはこの川中島の戦いの後を見ればわかることで、
この戦いの後、竹田信繁は結局目指していた禅光寺周辺のね、
シナノの北部も自分のものにします。
上杉軒進はやはり小田原の北条寺を作るために別の力を取った。
そして土地を強化していって、
竹田信繁とは別に同盟結んでないんだけど、
二度と争うことはなかった。
つまり軒進と信繁はお互いに何を相手が求めているかわかり尽くしていたから、
逆にそれさえ超えなければ
実質的に相手が攻めていくのを知っていたんです。
暗黙の同盟がそこで出来たんだね。
そう、出来ていたと思うんですよ。
これはもう本当にここの二人にしか分からない、
通じ得ない何かがあったような感じがするね。
それは僕はやっぱ真剣と剣士 ライバルで対処できて悪いけれども
僕は解釈でするとこの二人は 似た者同士だと思うんですね
自分が何を求められているか
何をすべき人間なのかということを
非常に客観的に冷静に分析する力を持っていた
だからこそ自分の身を捨ててまで
お互いにパーソナリティを捨てて
何かにならざるを得なかった
一方は機械に一方は美車本店に
ならざるを得なかったこの二人の親中
だからお互いが弱かったと思うんですね
というところでタイトルのところに戻っていただくと
涼銀湖章 四字熟語辞典さんの名前を読みますけれども
同じ類のものはお互いに気持ちや考えが通じ合うということ
つまり越後の龍と呼ばれた上杉謙進
蚕に捕らわれた武田信玄
この二人はライバル関係で
龍虎相打つと呼ばれたほどの
河中島の戦いなんですけれども
僕はその本質は野王調達本です
すごいな
ゴミ箱にハマる四字熟語あんの
これをここに逆算していってましたね
でもお互いに龍と虎って呼ばれてたのは
もうほんと事実なわけでしょ
こんなハマるかね
ちょっと鳥肌もんなんですけど
そうなんですよ
これが河中島の戦いの本当の姿だったんじゃないかと思うんですね
コースに戻るとね
19時から車で15分ほど行ったところで
長野駅に戻ることができます
おそらく17時半頃にはね
戻れるんじゃないかと踏んでいるので
そっから新幹線などで東京なりに戻っていただければ
いいのかなというふうに思うんですね
はいじゃあこのコースをね
39:01
振り返っていきましょう
まず11時頃に長野駅に着く
そこがスタートということですね
そこでレンタカーを借りまして
車で25分ほど松城城跡ということですね
松城城っていうのは真田のお城ではあるんですが
その松城城が建つ前に
武田が河中島の戦いに向けて
最前線の拠点として作った
海津城の跡でもあるということですね
ここでまず海津城側
武田側から河中島の戦場をまず見ると
そこから徒歩4分ほどで真田宝物館
ここは真田をメインとした
城がある博物館ということですね
なので河中島とは多少それるけれども
せっかく公園に来たなら
真田宝物館も寄ってみましょうということですね
そこから車で3分ほど深呼吸
ここで本当に優しい
体に優しいランチをいただくということですね
ランチをいただいた後
車で10分ほど西条山展望台ですね
今度は上杉側から河中島の戦場を見る
だからここでいかに近い場所に
お互いの基地があったのかっていうのを
まず体感するということですね
そこから車で12分ほど長野市立博物館
ここが実際の戦場になった場所にある博物館
その博物館の中に河中島の戦いについての
展示室が最近オープンしたということで
ここで通説を学びつつ
そこに対する矛盾を提示してくれる展示があると
なのでここを巡りながら
自分なりの説を考えてみるっていうのも
楽しいかもしれないですね
そこから車で3分ほど天宮寺ですね
今まで散々語ってきた
太陽寺河中島の戦いで亡くなった
武田信重を祀るお寺
そして戦死された6,004名の魂も
ここで弔っているというお寺ですね
そこから車で15分ほどで長野駅に着きますので
そこで車を返してご自宅へということですね
全然ね歴史に興味ないって言うとあれですけど
歴史素人の俺からすると
今までの歴史館ってさ
やっぱ教科書で学ぶものっていう感じがすごくあって
お互いの人物像みたいなものが
結構捨てられてるというか
教科書では見えてこない部分だったと思うんですけど
42:02
やっぱねこの一つの戦いについて
こんな何時間も聞くと面白いですね
良かったです
だし通説とはちょっと違った
春夜説に基づいて話してくれたから
なんか面白いですね
そう言ってもらえると嬉しいですね
普通ではない見方ができたような気がしてね
面白かったですね
なかなかヘビーではあったけども
ヘビーですね3回に渡ってね
いやでも面白かったですね
良かったです
だからちょっと今回というか
これまでのコースは旅行っていうよりかは
歴史の授業みたいな色が
とても強かった気がするんですけど
でもそれに基づいたコースに
それぞれなってると思うんで
ぜひね歴史に興味ある方は
巡ってみてほしいですね
そして最後に小話というわけじゃないんだけど
この河中島の戦いにおいて
引き続き作戦を立案したと言われているのが
武田信玄の軍師山本勘助という人物だったという話は
さっきからチラチラちょっとしてたと思うんですよね
この山本勘助というのは
2007年の大河ドラマ風鈴飾の主人公で
うちの西洋さんが演じたほどのね
世に知られている戦国時代代表する軍師と
言われているんですが
これはねこの人の活躍
そしてこの引き続き作戦とかっていうのは
紅葉軍官っていう
今世に出された軍紀物にしか
ほとんど出てこないんですよ
同時代授業じゃないというもの
後に書かれた歴史小説って言うとあれだけど
ノンフィクション物みたいな
そんな意味合いです
にしか出てこないんです
だから当時からこの山本勘助っていうのは
何者だったのか
もうよくわからないねさっき言って
記録がないからね
だからもう今世にね言わせれば
伝説上の人物だったんじゃないかっていうような
もう捏造された人物だったんじゃないか
ってほど言われてたんですよね
ところがですね
これね昭和時代に入ってから戦後の話なんですけれども
大河ドラマでね
上杉謙信を主人公にした
千と千尊っていう大河ドラマがあって
これ河中島戦を描いたものなんですけれども
上杉側からね
これがね公映されたのが1969年なんですが
これがねすごいヒットして
それを見たねとある視聴者が
北海道の旧家の方だったんですけど
なんか自分の家に
武田関係の古文書がそういえばあったなって
このドラマを見て思い出して
ちょっと改めて調べてみようかなって風になったと
それして調べてみたところ
なんとですねその古文書の中に
山本勘助の名がねあったんですね
じゃあいたんだね
そうなんです
実在したんですよ
ところが字が違った
45:00
紅葉文化に描かれる天才軍師山本勘助は
勘が働く直勘という
あのいわゆる勘の勘助なんですけれども
この古文書にあったものは
草冠に勘職の勘と書いて
要は菅さんですよね
山本須賀助と書いて山本勘助
と読ませる漢字が違ったんです
っていうのがね一つあったと
さらにねこれがちょっとこの後
別のね平成に入ってからだったと思うんですが
静岡県の方のね民家でも
やはり古文書を調べていたら
山本勘助の中見つかったんです
これもやはり草冠に勘職の勘の山本
須賀助の勘助が見つかってる
山本勘助という人物は
字は違えども確かに
武田の家臣として実在したんです
幻の人物じゃなかったんです
ただ紅葉軍艦に収容されているところの
あの天才軍師の働きとはだいぶ違っていて
その古文書に何が書いてあったか
山本勘助何してたのかって書いてあったかっていうと
なんかね武田信玄のメッセンジャー
みたいな役割だったんですよ
つまりとある家老が病気で伏せてるから
その人お見舞いしてやってくれねえか
っていうことを信玄の代わりに
お見舞いをしに行ったりとか
なんかそういう連絡係みたいなことをね
していたふうにね
実在の山本勘助はそんな人物
っていうふうに推定されてるんです
須賀助の方で
須賀助の方です
へえ全然軍師じゃないね
じゃあなぜここで大きな謎となってくるのは
山本須賀助の勘助が実在したのに
なぜ天才軍師に立て上げられたか
っていうことなんですよ
そうねちょっとよくわかんないね
ここにね僕はね
河長島の戦いの大きな謎のね
特仮が秘められてんじゃないかと思ってて
このね天才軍師山本勘助を描いた
紅葉軍艦というのは
実はこれもね誰が描いたかも
よくわからなくなっちゃってるんですけれども
伝承によると
高坂壇上って覚えてますか
河合頭上の上主だった
武田信玄の副審としてね
やったあの高坂壇上
この人の原稿録みたいなのを
その後世の人がまとめたって書いてあるんですよ
言ったことを限り起こしたやつ
そうそうそう
というふうに伝わっているんです
でここで想像を高ましくするならば
天才軍師山本勘助は確かにすごい人物だったと
でまあその紅葉軍艦によれば
片目がねもうダメになってしまっていて
足もまともに動かないような
非常にハンディーを打ったような人だったと
だけど頭はすごく冴える
けどもそういったいろんな事情があって
なかなかみんなに相手にされなかったような人だったけども
武田信玄だけはその才能をね
徹底的な能力処理になって
認めて諸国を潤していた
報われない軍師山本勘助を
自分の手元において活躍をさせた
というふうになっている
48:00
ただねよくよく見てみると
もちろんいろいろすごいことやってそうなんだけど
彼のやっぱり一番大舞台で有名なことっていうのは
この鬼継ぎ作戦を立案して失敗した
上杉軒氏に見破られて
その責任を取って川中島に突入して
自ら死んでいったっていうところしか
ほとんど実は大きな成績というのはないんです
でこれはもしかしたらの話なんですけど
なぜじゃあその実在した山本須賀介が
こういうふうになったのかっていう話をすると
もしかしたらこの鬼継ぎ作戦の失敗というのは
仲間を押し付けられてるんじゃないかと思うんです
僕はこの天才軍師に対して
ただそんな無能な人物を
杉原は手元に置いとくはずがないから
有能ですごい武田杉原というのが
度量が広くて人を見る目があって天才軍師
ただそれは鬼継ぎ作戦だけは失敗をしてしまって
杉原を守って死んだ天才軍師に仕立てられた
でなぜその人があったかっていうと
あるいは鬼継ぎ作戦に似たようなことを
武田杉原その人あるいは高坂男女が
実は考えて企画して実行した
ただし不幸な遭遇戦が起こって
結果として激戦になり
武田杉原は最愛の弟信繁を失ってしまった
っていうこの事実歴史的史実を
高坂男女あるいは杉原の失策というのを改変する
残さないために天才軍師山本勘助という人物を
捏造したんじゃないかと思ってるんです
杉原が考えてやった作戦だけど
ミスったからそうすると示しつかないから
じゃあちょっと天才軍師を作り上げて
須賀助からちょっと名前取って
でそいつが考えてやったけどミスったから
戦いで死んだよっていう話に仕立てあげる
死ぬ前には報われなかった関係を
仕立ててあげたっていう
主にね土壌の広さを示す材料として使う
あとはじゃあなぜいろんな捏造軍師を作るために
この山本須賀助に白羽の矢が立ったのか
ということなんですけど
これは本当にわからないけど
もしかしたらなぜこの一人じゃなきゃいけなかったのかって考えると
さっきこの山本実在した山本勘助は
メッセンジャー的な役割だった
もしかしたら僕これはこの人こそが
本当は上杉と武田における
その一緒めしあわせは八王朝みたいなものの
鍵を握るメッセンジャーであって
それに失敗したからこそ
この人を河中島の戦いの天才軍師山本勘助っていう
人物に変容させたんじゃないかと思ってるんです
ヤンヤンじゃあもしかしたら
その患者的な役割をしてたんじゃないかって
深井そうじゃなくて
まだ天才軍師山本勘助を作るのになぜ
山本須賀助の勘助を引き立てたのかが理由がないんですよ
だから僕はあるいはこの人こそが
51:01
上杉武田のその八王朝の秘密を知っていた人物で
ただそれが不幸な遭遇戦が起こったのは事実なので
もしかしたらこの人そこで死んだのかもしれないし
っていうことで人物像として作りやすかったんじゃないかなっていう風に思うんですね
ヤンヤンしくじりはあったかもしれないみたいなことね
深井かもしれないこれはもう全部想像なんですけど
事実としてその天才軍師山本勘助は
山本須賀助という閣位勘助
実在した勘助をなぜかこの人がモデルになってる
まあこれもね今後新しい発見があったら
より本当のところをわかってくるかもしれないな
という気もしています
ヤンヤンなんかそれさ
深井すごいね
なんか自分のミスをさ隠すだけでなくさ
自分の奴隷の広さを示す嘘を書くって
ヤンヤンそうそう
ヤンヤンすごいことするなってちょっと思ったけどね
深井真剣が書いたのか一緒に書いたことは伝わってないんですよ
あくまでも高坂壇上がね言ったと言ってるんです
だから高坂壇上が真剣のことを
かばったのかもしれないし
ある意味は僕は高坂壇上その人が
実はこの秩序作戦の企画者だったかもしれないと思う
ヤンヤンなんかいろんな思惑が隠れしとるね
深井というので現代に伝わってる川中島の戦いというのは
徐々にイメージ付けられていったんじゃないか
というのがまあ一つの見方としてね
お話しさせてもらいました
ヤンヤンずっとこの一連で話してるのは春矢説ってことね
深井もちろん全然違う
あんまり信用しないで欲しいんですね
ヤンヤン妄想の部分が多分に含まれている
深井ただ一流の自分が一定の信念というか
こうだったりじゃなくて自信はある
ヤンヤンただまあそのあらゆる矛盾を繋ぐ説として
春矢が考えている
深井川中島の戦いの本当の姿だったんじゃないか
いや面白いですね
という最後の小話でしたね
そして感想をつぶやく際は
ぜひハッシュタグおとたびポッドキャストをつけて
投稿していただけると嬉しいです
2時間撮ってますね
えこれ?
マジで?
1日で2時間撮ってますね
そんなにあった?
1日だったの?
ヤバいですね
ちょっと硬いすぎましたね
ちょっと熱が入りすぎたかもしれない
ちょっとうまく削ってもらっていいですか
最長になりましたね
削りましょうどんどんばっさりいってください
今回はこの辺でありがとうございました
54:05

コメント

スクロール