1. 大人になりたい旅がしたい
  2. #119-1【美濃】物語となる“瞬..
2025-10-16 49:21

#119-1【美濃】物語となる“瞬間”を訪ねてPart2前編

薫るる風に山河在り 物語となる“瞬間”を訪ねて2日目前編


美濃を制する者は天下を制す―――

歴史小説の金字塔『国盗り物語』に現れるこの名言は、美濃すなわち今日の岐阜県南部が、日本の歴史を大きく変えた特別な土地であることを象徴しています。

広大な濃尾平野と木曽三川の流れ、そして四方に道の通じるまさに”日本の真ん中”には、必然的に数多の命と夢と野望が入り乱れました。

今回は美濃で生じた日本史のターニングポイントの痕跡を辿り、その”史実”が”物語”へ昇華した理由と人々の想いを考えます。


【目次】

〜 ちょっとショックなことがあって……

〜 衝撃のコスパモーニング! ついてくるのは茶碗蒸し!? 【スピーチバルーン】

〜 宿場そして“戦場”としての垂井町の意味を探る 【垂井町歴史民俗資料館】

〜 ★歴オタ話★ 若き日の秀吉を支えた天才軍師・竹中半兵衛

〜 ★歴オタ話★ 関ヶ原の戦いの定説をおさらい

〜 ★さらに歴オタ話★ 竹中重門を巡る戦いの真説 関ヶ原の戦いは“垂井の戦い”になるはずだった!?

〜 美濃国一宮に参拝して“垂井”の予定戦場を考える 【南宮大社】

〜 地元企業が営むカフェレストランとアートスペース 【未来食堂】

〜 今回はここまで! 11/30は沼津のみんなのポッドキャストフェスへ!


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サマリー

ポッドキャストのエピソードでは、岐阜県美濃地方の魅力やモーニング文化が深く掘り下げられています。特に、旅の途中で訪れた喫茶店や歴史的な名所である樽井町について語り、日本の喫茶店文化のユニークさとその背後にある歴史が探索されています。このエピソードでは、竹中半部の織田信長への仕官、関ヶ原の戦いの経緯、そして豊臣秀吉の戦略について詳しく語られています。特に、竹中半部の友情や信頼関係が秀吉によって築かれ、最終的に信長を支える人物となることが中心テーマです。また、関ヶ原の戦いにおける西軍の敗北の原因について深く掘り下げられ、竹中茂門の裏切りや地理的要因が戦局に与えた影響が考察されています。美濃の南宮大社や南偶山に等の歴史や文化、特に戦国時代の軍勢に対する戦略が語られています。さらに、関ヶ原の戦いに関するエピソードも含まれ、地域の特色や名物料理についても触れられています。今回のエピソードでは、中見瀬商店街でのポッドキャストの公開収録イベントが紹介され、地域の交流の重要性が強調されています。

岐阜の旅の始まり
大人になりたい旅がしたい。このポッドキャストでは、旅行とお酒が好きな同級生2人が大人だからこそ知りたい、ちょっとディープな国内旅行のモデルコースを紹介していきます。旅のお供はこの2人。
旅外着替えの旅行ガイドブックの編集者、はるやです。 ディープな旅がしたいけど知識がない旅行初心者、うちだです。
ちょっとショックなことがあって、俺ね、あのほんと長年使ってたね、センスをね、落としたんですよ。はいはいはいはい。失くしちゃって。あのセンスね。
俺ちょっとショックなんですよ、あれ。そうか、まさに今必要としている時だもんね。そうそうそうそう。
まあ別にね、全然いいもんじゃないんですけど。うん。相当使ってたよね、あれね。ほんと、7、8年ぐらい使ってたんじゃないかなと思うけど。うんうん。
いやー、あれ気に入ってたんですけどね。ねー。全体的に真っ黒なんですけど、青紫のトンボがね、3匹ぐらい飛んでるね。
あれオシャレでシックだけど良かったよね。ね、良かったよね。うんうん、いいセンスだなと思ってました、僕。だいぶ長持ちしてたし、好きだったんだけどね。不注意で。
そうね。あー、まあそればっかりはもうね。ちょっとこう急いで歩いてる時に落としちゃったんだけどね。あー、ポケットか何かに入れてたの?かな?あー、しまうとしてたんだったかな?わからないけど。なるほどね。
ショック。はい。いいんじゃない?センスを探す旅っていうね、新しいセンスを探す。ミノとかそれこそね、和紙が欲しい。和紙ね、そうそうそう。
そう、だから次のね、まあ2代目ってわけじゃないけど、センスなんか欲しいし、で、せっかくこういうことをやってるから。そうですね。番組やってるから。
なんかどっかの民芸品みたいなのでもいいのがあればいいなと思って、今後探していこうかなと。まあちょっとバージョンアップするというポジティブにね、捉えて。
今回は、香るる風に賛があり、物語となる時を訪ねての2日目ということで、岐阜県はミノ地方をね、巡ってるわけですが、1日目はその国鳥物語のメインにされている斉藤道さんのストーリーをね、巡って、
あとはうかいね、そしてその上質な夜のお店でね、堪能したというところで、2日目のテーマ的にはどういう感じになるんですかね。
さらにね、歴史によった感じになるんですけど、次はね、一つの戦いについて徹底的に検証したいと。これだけでも本当は2、3日会ったほうがいいぐらいのボリュームではあるんですけど、関ヶ原の戦いというね、おそらく日本で一番有名な戦いでしょう。
これが起こったことは、まあ皆さんご存知だと思う。それが岐阜県なんですね、舞台がミノなんですけれども、これの史実と物語というものをね、また考えてみたいと思うんですね。
またその史実とフィクションじゃないけどっていうのをまた比べてみる。
そういうことですね。なのでその今日の物語となる時を訪ねる、関ヶ原にその時を訪ねてみたいと思うわけです。
いや関ヶ原は多分いろいろあるんだろうな。
そうですね。
じゃあ早速ね、2日目よろしくお願いします。
岐阜のモーニング文化
はい。
前日ね、岐阜駅、JRでも名鉄でも結構ですが、岐阜駅近くのホテルに宿泊しているという前提になります。
岐阜のね、せっかくなので朝もちょっと食べてみたいと思いますので、モーニングを食べに行きましょう。
ホテルからだいたい5分ほど、昨日のバロッサコクテリエさんはすぐ近くなんですけれども、スピーチバルーンさんというね、喫茶店に行きたいと思います。
いいね、なんか可愛らしい明るい感じですね。
いわゆる昔ながらのレトロなね、喫茶店にはなるわけなんですけれども、すごい老舗ですね。
まあね、喫茶店でモーニングというのはね、これまでにも何回かご紹介もしていますし、皆さん結構なじみのあるね、パターンなんじゃないかなとは思うんですけれども、
モーニングってそもそもどっから発祥した文化とかって知ってますか?
発祥?
日本においてね。
発祥はわかんないな、まあ有名なのはやっぱり名古屋とかね、いろいろありますけども。
これも諸説あるんだと思うんですけど、一説にはね、愛知県一宮市というところで発祥したと言われています。
これは名古屋から岐阜に行く途中に通るね、都会でここ一の発祥でもあるわけなんですけれども、すごい都会ですね。
いずれにせるこの名古屋近辺がやっぱりこのモーニングの本場であろうっていうのはなんとなくイメージを持っている方もいるんじゃないかと思いますね。
ってなるとね、やはりこの岐阜市、美濃においてもね、名古屋の非常に近いですので、非常に岐阜はね、モーニングだったり喫茶店文化が盛んです。
なるほど。
ちょっとデータのまた引きなので恐縮なんですけれども、平成28年のデータですと喫茶店の数は全国で5位。岐阜県全体でね。
岐阜県か。
全国5位の数がある。そして1000人あたりの喫茶店の店舗数、密度ですよね、は全国2位というのがね、岐阜県なんですね。
そんないっぱいあるんだ。
人口で言うと必ずしも5位とか2位とかって話では岐阜県全然ありませんから、いかに岐阜県にあける喫茶店の割合が多いかということなんですよね。
なのでまあ岐阜の方はね、喫茶店あるいは朝食というのはね、非常にもう馴染みが深くて、もう日常の中の一つだと考えられている方も多いんじゃないかと思います。
その中でもね、このスピーチバルーンさんが特に僕はおすすめなんですけれども、ちょっとねメニューの写真を見てもらった時にね、おかしなことに気づくと思うんですね。
モーニングメニューを見てみましょう。
うん、トーストとパスタ、サラダ、これは唐揚げですかね、と茶碗蒸しがあるの?
はい。
モーニングで?
そうなんです。これね、僕も岐阜に通い始めてから知ったんですけど、岐阜市のモーニングって茶碗蒸しがつくんですよ。
ああ、そうなんだ。
そう。
地域的にそうなの?
地域的にそうなの。岐阜のモーニングって茶碗蒸しがなぜか引きついてくるの。
へえ。
すごく理由が不思議なんですけど、分かんないんですってこれなぜか。
ああ、みんな分かんないんだ。
うん。
へえ。なんで?いやでもいい気はするけどね。
まあモーニングだからさ、基本は洋食風なわけじゃないですか。そこに急に茶碗蒸しだけ投入されるのもちょっとね不思議だなと思ってるんだけどね。
うん。
いいんですよ、朝茶碗蒸し非常に。
いやいいよね、朝にこうつるつるっとね、だしの香りがして。それはおいしいだろうなと思うけど。この取り合わせが不思議だね。
そうなんですよ。
へえ。
で、どうもね、いろいろ僕もこの話にあたっても調べてはみたんだけれども。
うん。
まあ、岐阜にそもそも喫茶店が多い理由としては、生産量が盛んだったということがあって、商人の街なんですよ、岐阜って。
はいはい。
江戸時代に実は岐阜って、可能城っていうところに可能藩っていうのはあったはあったんだけど、今まで行ってきた城下町と比べて全然城下町の性格はないんですね。
うん。
岐阜市自体は稲葉山城の城下町ではあったんだけれども、江戸時代には岐阜城はあれは藩を置かれなかったので、岐阜城はもうあくまで戦国時代の城で終わりなんです。
なるほど。
だから城下町よりも商人の街としてここが栄えたのが県庁所在地なんですよね。
ああ、なるほど。
うん。長良川の河原町を筆頭にして。なのでとにかく商売人の人が多かった。
はい。
のでその商談使うためにモーニングをね、まあ喫茶店を利用したっていうのはそもそもだと言うんですけれども、とはいえなんで終わりにはないね茶碗蒸しがミノにはつくのかって非常におかしな話で。
面白いなあ。
これはね色調べたんだけどね結論わかんないんですよ正直。
へえ。
どこを見てもね理由は不明だがって書いてある。
ああ。
うん。
ビールの代わりとかなのかね。
かもしんないね。スープの代わりに茶碗蒸しっていう風に思ったのかね。これねもしご存知の人がいたら教えてほしいんですけど。ただおいしいんですよ。
へえ。
ちょっとした楽しみなんですね岐阜に行く。
うんうん。
ただねもっとびっくりするのはねスピーチバルーンさんに関しては値段です。
うんうん。
そのモーニングメニューなわけなんですけれどもなんとねドリンクまあコーヒーとかね紅茶とか何でもいいんですけれども大体ワンコイン500円くらいで頼めるわけですよ。
はいはい。
でなんとねそこにワンコインつけるだけでこのモーニングをね足してくれるんですね。
ワンコインってどれだ。
はい。100円です。
へえ。
はい。しかも100円ですらない80円です。
えっ。
80円でこのボリュームのモーニングつけてくれるの。
ええ。やっぱモーニングっておかしいよね。
うん。大昔なんじゃないかって僕は心配なんですけど。
へえ。
80円でさトーストパスタフライ茶碗蒸しサラダデザートまで全部ついてきちゃうっていう。
へえ。
こんなコスパあっていいのっていう本当に。
なんだそれ。
うん。ボリューム満点なんですよ。
うれしい。
普通80円で茶碗蒸し一個だって買えないじゃないですか。
そうね。
ねえ。
へえ。すごいなあ。
かといって別に飲み物が高いわけでもないので。
うんうんうん。
大丈夫かなってちょっと思うんですけど。
すごいなあ。
うん。衝撃のコスパです。スピーチバルーンさん超いいですここ。
へえ。
雰囲気もほんとゆったりしててね。街の人がみんな来る感じなので。
いいね。明るい雰囲気だし。
うん。
なんか気持ちいい朝になりそう。
気持ちいい朝になりますね。
うん。
なのでここでその身のならではの茶碗蒸しモーニングをぜひ召し上がっていただいて。
へえ。
ただ大学生でもお釣りが来ちゃうようなね。
全然いいよね。
ほんとにバイト代にすら届かないようなね。
ああ。
超コスパのいい美味しいお店なのでね。
うん。
もう地元で愛される理由がもう何からもわかるというね。
はいはい。
ほんとに素晴らしいお店だと思いますので。ぜひね楽しみにしていただければいいんじゃないかなと思います。
うん。
でね岐阜市につきましてはここで一旦終わりです。
樽井町の歴史
ああなるほど。
はい。今日はねこの後も車を使って移動したいと思います。
うん。
岐阜市からさらに西の方にね西見野と言われている地域の方に移動したいという風に思うんですね。
はい。
なのでスピーチバルーンさんでモーニングをいただきましたら5分ほど歩いて岐阜駅近くに戻り。
うん。
そこでレンタカーを借りましょう。
うん。
で車を借りましたら西の方へ40分ほど行ってください。
はい。
そこにあるのが樽井町歴史民族資料館です。
うん。
なんでここに来るのかということなんですね。
はい。
しかも我々今関ヶ原を目指しているはずなのになぜ樽井に寄るのかということです。
そうね。
はい。でちょっとね地図を見てみましょうか。ここにあるんですね。
はい。
場所で言うと関ヶ原はその西隣です。
ああ本当だ。隣だ。
うん。関ヶ原行く途中なんですね。
はいはい。
はい。でねまずちょっとここの話をちゃんとしてしまうと樽井町歴史民族資料館さんなんですけれども
この樽井という町はね宿場町として非常に有名なところでした。
中銭堂がここは通っていてそれの一つの宿場町として栄えたところです。
なのでそれこそ浮世絵とかで樽井宿とかもね出てくるはずなんですけれども
そういう交通の要所だったわけですね。
はい。
僕はまあね歴史的の方にこれをお勧めするポイントとしては
竹中半部の出身地になります。
竹中半部って誰だよということに多分なってると思うんですけれども
戦国時代好きな方は皆さん知ってるでしょう。
若き日の秀吉を支えた天才軍師でねよく三国志の諸葛孝明にも例えられるような
すごい地貌に優れたね涼やかな軍師として知られている人ですが
その人の出身地であります。
なのでねこの歴史民族資料館においては
この樽井の井というのはそもそも湧水の井戸の井だそうなので
いかにねこの潤いのある町ということで
水資源が豊かな恵まれている環境化ということに始まり
まあやはりね太古の暮らしから
一番やっぱり花があるのはねこの竹中半部一大記というね
コーナーががっつり設けられていることで
地域の英雄である天才軍師竹中半部志原の一代をね
存分に解説しているものになります。
でまあその後その江戸時代に入った宿場だったりとか
あるいは民族の話だったりとかねそういったものもある
いわゆる資料館なんですね。
竹中半部というのはね
秀吉がねまだ本当に象織取りとかやっていた上で
その後からどんどんどんどん徐々に出世していくわけですけれども
あの前日の話でね
斉藤道さんが死んだ後にその孫の辰沖という代に至って
信長はね身の責めを行って
竹中半部の忠誠
そこで稲葉山城を取って義父というふうにするわけですよね。
でそのまあ義父にねするにあたって
美濃からどんどんこう
斉藤道さんに育まれた人材たちが各方にいるわけですよ。
光秀がその一人だったわけですけど
っていうのでいろんな人材が埋もれている。
ただその侵略者で信長にはつきたくないって言って
みんな外を向いちゃってる人がいるという中で
中でも竹中半部は何とかして俺に仕えてくれないだろうか。
秀吉お前何とか取り伏せてこいっていうふうに言ったと。
でこの樽井の方まで来て半部はその時もう隠居しちゃってたんですね。
まだ全然若いんだけど
もう世俗と立っちゃった。
この辺も孔明っぽいんですけれども。
伝説によればその草のいおりの中でね
密かにもう本を読むだけで暮らしていた半部を
秀吉が訪れてでこうこうこうでつって
信長様につきませんかって言ったら断るんですね半部はね。
ではーって言ってすごすごく返ってきて
でも信長怖いんですよ。許されるわけですよこの人じゃ。
だからどうしようかってなって
僕の好きな漫画とかだとこれいいセリフだなと思ったのは
たとえ使えてはくれなくても
友にはなれそうな気がするっていうふうに秀吉は言って
もうなんかだからあんまり利害を解くとかじゃなくて
友達として接したんですね。年代もちょい下ぐらいなんですけど半部が。
秀吉はそういったことを言ったことによって
半部の心を徐々に解きほぐしていって
最終的に半部は織田信長に使えるのは
やっぱり私は斎藤道三様の家臣でもあったわけだから
斎藤家を滅ぼした織田に使えるのはちょっと借銭としないが
あなたに使えるならばいいですよ
秀吉の家臣ならば織田に使えるも実際同然だから
ただ秀吉様の家臣という条件ならば使えてもいいです
っていうふうに言って秀吉は見事ね
誰もが無理だと思われた竹中半部を説得するっていう要望を成し遂げて
半部は実際にその後ね
信長家臣としての秀吉を支える軍師として
秀吉を功名をどんどん立てさせていった
本当に若い日の恩人でね
残念ながらね36だか7だかの若さでね
本能寿の変が起こる前秀吉がまだ天下人になる前にね
病気で亡くなってしまうんですけど
そういった人でもありました
豊臣秀吉の戦略
でね竹中半部の有名なエピソードとしては
色々もうあるんですけれども
この人タイガドラマでもしょっちゅう出てきます
で過去にやった俳優さんだと
水道隆さんとか谷原翔介さんとかねやりましたね
谷原翔介さんやった時はV6の岡田くんが
黒田寛兵衛というね
これも秀吉の軍師なわけですけど
軍師寛兵衛っていうタイガドラマでやったんです
その時谷原翔介さんが竹中半部をやって
その2人が秀吉を支えたわけです
ところが黒田寛兵衛はある時
敵の城に説得しに行ったら
捕まっちゃって牢屋にぶち込まれちゃったんですよ
で寛兵衛帰ってこないと
でもあいつ死んだか殺されたかしたんじゃない
もっと悪く言えば裏切ったんじゃないか
って信長は思ったんですね
信長はタンキーなのに
それでもうふざけんなと
黒田はよそ者だったしもともと
なんか信用受けなさのやつなんだと
で怒っちゃって信長が
もう黒田は裏切ったから
黒田寛兵衛の子供殺しちゃえと
人質にとってあるやつを殺せって秀吉に命じて
秀吉も信長が怖いので
もう仕方ない絶対ああでもなーって思いながら
もう殺しますという風に言ったら
竹中寛兵衛がちょっと私に任せてくれませんか
って言った
そして竹中寛兵衛は殺したという風に報告したんです秀吉は信長にも
ところが黒田寛兵衛は実際裏切ってなかったんですね
というのは信長がその寛兵衛が閉じ込められてる牢屋のある城を
後で落としたらもう足が動かなくなって
ボロボロで病気もなってる寛兵衛が出てきたんですね
さすがの信長もしまったと思って
いやこいつ裏切ってないからこそこんな牢屋にぶち込まれてこんなことになっちゃって
でも子供殺しちゃったって思って
さすがに悪いことしたなってどうしようって思ってたら
寛兵衛が牢屋から出てきたらその殺したはずの子供が
パパって駆け寄ってきて秀吉信長もびっくりして
えなんでって話になったら竹中寛兵衛が絶対寛兵衛は裏切ってないから
いずれお家のためにならない殺すと
だから密かに生かしてこの私の身のたるいのところとかに
密かに置いておいたんですっていう風に言って
黒田寛兵衛はもちろん喜んだし信長も秀吉もああよかったっていう風になった
その殺されるはずだった子供こそが初代福岡藩主黒田長政です
かっこいい そうそうそういう役なんですよ
谷原正介さんとかいかにも涼やかでイケメンで
で色白のその武骨なとかなんか秀吉の下品な感じと違って上品な軍師として描かれる人です
非常に人気の高い人物ですね
そういう人だったんですね
ただ今回の話関ヶ原の話上では竹中寛兵衛はとっくに死んじゃってるんですよ
なんでじゃあわざわざこのたるいに寄るかということなんですけれども
ここでちょっと関ヶ原の戦いの話を振り返っておきたいんですね
簡単に話しておきますと小田信長がいましたよね最初ね
いましたが本の順で光秀に撃たれました
でその光秀は秀吉に撃たれました
で秀吉が天下を取りました
秀吉は小田原を攻めて法上を下して天下統一を成し遂げました
ところがその後秀吉は朝鮮出兵とかしちゃったりして
全然なんかめちゃくちゃのことやっちゃったわけですね
裁判内になってね
でその時徳川家康とか前田敏夫とかみんな家臣でね
代々名としていたんだけれども
秀吉には秀織っていう子供がいたんだけど
まだ5歳とか6歳なんですね
秀吉が死ぬとき
ろくな跡継ぎいなかったんですよ
けど秀吉は秀織がようやく最後にできた子供ね
可愛いも可愛いから
なんとかこの秀織をみんなで盛り立ててやってほしいと
っていうんで後大老後無料っていうのを置いて
家康とか前田敏夫ですね
に貢献を頼んだ
なんとか秀織になんとかしたってこと
一方で自分が若い時からずっと仕えている家臣である
加藤清政だとか福島正則だとか石田水成だとか
こういった人たちに徳川は野心があると思うから
それをくじけと
僕が変な動きを見せたらお前らがなんとかしろ
みたいなことを言ってるわけですよね
ところが秀吉によって運が悪かったのは
この戸外の武将たちは仲が悪かったんです
特になぜ仲が悪かったかというと
武闘派と分地派みたいになっちゃうんですよ
大会系と文化系みたいなもんです
大会系はみんなスポーツで集ってスポーツの話しして
放課後も部活やるわけです
ところが分地派の方はあいつらは脳筋だと
もう全然分かってない
戦のことしか考えてないしダメなんだと
学問ができてこその豊臣家だろうと
戦の言うなんて終わるから
槍一本ってあんな俺の槍自慢とか言ってるやつら馬鹿なんだ
言うわけですよ単純な言うだね
そういうやつは当然気に食わないですね
誰が命かけて戦ってるのと武闘派の方はね
あいつらは勉強しかしてない頭でかちのお坊ちゃんでってこと言うわけですよね
って実際になってたんですよ
石田光成というのはそのご部長だったわけですけど
いかんせん頭が綺麗だ
この人はもともと全然名のない小さな武士の子だったわけですけど
その才能を余りも見込まれて秀吉にスカウトされた
実際に天下取りの偉業も成し遂げたし
それを下手支えしたんですよね
とにかく数学的なものがすごいできた官僚の人だったわけです
光成も秀吉に対する注意が誰よりも厚かったので
家康がねいずれその武闘派を抱き込んで
豊臣家の御為とか言いながら絶対自分が天下取っちゃう家だと許せない
家康は家康で天下取りの野心がありますから
石田光成とかああいううるさいのを全部一掃しちゃいたいと
そこで合戦を起こしてあいつら殺しちゃって
で豊臣秀吉を傀儡にして自分が天下を取っちゃおうというふうに思って
戦ったのがセリガハの戦い
ここからじゃあセリガハの戦いの本当の話が入ってきますけど
石田光成は頭はいいんだけど弱いんですよ
なぜ弱いかというと領地が少ないからです
徳川家康は関東の二百何十万国っていう日本最大の大名で何万人て部を動員できる
ところが三成は奥美の国沢山これ彦根です今の
彦根のあたりの十何万国しかいなくて
どんなの戦っても勝てるわけないんですね
だから三成はまず仲間集めをしなきゃいけなかった
仲間集めをするためには豊臣家の恩子をのった人たち
秀吉様の恩に報いる人たちはみんな集まろうと
家康はあいつはダメだと言うんでやるんだけど
家康にただで戦う意味ないので
家康がまず大阪から出払った隙に
密かに仲間集めやって巨兵して家康と対抗しようと思ったんですね
家康も家康だったらそれ分かってるんですよ
そういう小賢しい奴らをまとめてぶっちぎっちゃいたり
からあえて隙を見つけたやろうと思ったかもしれない
結論をそれは思わかわからないけれども
秀吉と話をすると
藍津若松の上杉賭かつが怪しいことをしている
って家康が言い始めた
何をしてたかというと
小本座城っていう怪しい城を築こうとしてる
これ覚えてますか
藍津若松の2日目の最後に
完成しなかった幻の城に行った話
あれです若松の今ですらすごいあの鶴賀城の
約2倍の規模の城を築こうとしている上杉と名を得
あれはおかしいあんなもの必要ないはずなんでやるんだ
これは豊臣秀吉様に対する無本であると
いうんで質問状を送ったんですね
弁明があるなら家康が自分で大阪に出てこいと
したらそれから返っていった返事は
直江城っていうぶち切れ案件の手紙だったわけです
あんた方はもうだめだと要は
城を築くと当たり前だから
駄弱な武士だからそんなにいちいち
コンプレックスがあるんじゃないのみんなことを言ってきた
上杉はもう謙信様やりゃそんなに駄弱な奴らと違うんで
文官ならかかってこいよって言った
大阪にいた家康はぶち切れた
ぶち切れたフリをした少なくとも
でもう上杉はだめだと許せない無本だって言って
みんなに号令をかけて
大軍で持って東北へ行くわけです
藍沢貨物にまで行くわけですよね
そうすると大阪ががらけになるんですよ
ところに残っていた三成が挙兵したの
ただ徳川に対抗するために自分じゃできないから
誰を仲間に引き入れたかっつーと
まず上杉が指名し合わせてたんですよ
ただ上杉は東北にいて徳川を迎え撃つので
大阪には来れません
ってなった時に
西国の超巨大代名を抱き込んだんです
それが誰だったかっつーと
毛利てるもと
これまだ出てきてませんが
あの西国の覇者は毛利本成の孫
でもう広島を拠点にして
参院参院を務む超巨大代名と
岡山のやはり後退路の人である
浮田中名言浮田秀家ですね
こういうのを抱き込んで
西日本の主に武将たちを大阪に呼んで
東の徳川に対抗しようとした
だから東軍西軍になるわけです
ざっくり言って徳川が東軍ですね
東の江戸だから
で西の大阪毛利が西軍ですね
で東軍の家康は
藍津若松に行く途中にその報知らせを受け取って
密内が屠兵した
ましても毛利もいる
ってなったらよしっつって
急遽若松全部取りやめて
西に引き返した
そして西と東のその軍勢が
衝突した場所が
美濃の国だった
そしてそれが関ヶ原の戦い
ということです
関ヶ原の戦いの結果
ざっくりこういうことですね
でもちろんどちらが勝ったか皆さんご存知のはずなんですよ
でなんでじゃあその総勢も
実は10万台8万ぐらいで
西軍の方が人数は多いと言われてるんですね
本部かどうか知んないけど
明治時代以降に
外国の軍人に関ヶ原の戦いの
陣形図を見せたら
100%西軍勝つって言ったらしいんですよ
知らなかったからそれ
10万台ぐらい西軍が有利だと思われてた
で三成もそう思ったでしょ
数も多いし三成は待ち構えてたんですよ
そうかそうか
そう万全の準備を整える
だからそこに包み込んできた
イエスはもう一網打尽してやろうと
待ち構えてた
西軍の敗北の要因
なのになんで西軍が負けたんですか
え?
今聞いてる話だともう勝ち目はないですよ
西の方に裏切らせたというか
味方がいた?
西軍は10万人いたんだけど
まともに戦ったのはそのうちの半分ぐらいだったと
半分にも満たなかったと思われて
しかもその10万だかなんだかの中に
裏切り者がいたんですね
それが当日になって
西軍の陣地に襲いかかってきた
西軍だったのに前日までは
でそんなことになってるから
万全の陣形引いてたけど
そもそもそこの中で裏切って打ち思いしてるから
西軍は全然機能しなくって
東軍に負けたという風に言われている
そうじゃないと無理
ここで言われてるのはやっぱり
家康がいかに要意周到に
裏切られ続けた人生だからこそ
人を裏切る要意も入念に
なぜ人を裏切るのかというのを
彼は追求し続けたテーマだったとは思いました
ちなみにその裏切りの工作に一番活躍したのが
黒田長政だったんですけど
さっきの殺されるはずだった子供ですけど
これがいわゆるセリガハラの戦いの定説ですね
樽井と関ヶ原の地理的な重要性
がセリガハラの戦いの話なんですが
ちょっとじゃあすごい戻りますけど
なんでセリガハラじゃなくて
樽井にいるのかということなんですね
今まで話したのが
いわゆるセリガハラの定説だったんですが
最近いろんな研究によって
どうも西軍が負けた原因は
それじゃなかったんじゃないかっていう
要素があるんです
つまり裏切られて負けたのは事実なんだけど
もっと前から実は勝負は
とっくについていたっていう見方が
最近の学説で出てきてるんです
それはなぜかというのが
その限りになるのが樽井なんです
ちょっと地図を見てみましょう
位置関係をちょっと確認したいんですね
セリガハラ町というのはそこにあるわけですが
ちょうどその町の文字が被ってるところだけ
白くなっていて周りはみんな山ですよね
つまり中銭堂とか通っていたので
もう道はここしかない
そして西軍からしてみたら
細い道を通ってくる東軍を叩くのはここだっていう
絶好の場所だと思ったそうなんですよ
ところがセリガハラの戦いというのは
ちょっと不思議なところがあって
合戦があったのは1600年の9月15日なんですが
関ヶ原に西軍が着いたのはその前日なんです
つまり当初
関ヶ原を予定戦場としてなかったんじゃないか
っていう説が最近あるんです
なるほど
西軍はもともとこの辺地盤にしてますから
準備をしようと思えばいくらでもできたはずなのに
前日になって急に関ヶ原に移動したっていうんですよ
ああそういうことか
もっと準備する時間があったならば
初めから関ヶ原を超要塞化して
ずっとこれ待ち構えてるのがいいはずですよね
なるほどね
どっから来たのかっていうと
大垣省から来たんです
大垣市これ岐阜県第二の都市ですけれども
ここに西軍の本陣を置かれていました
当初合戦の前まで
ここから9月14日になって
慌てて関ヶ原に出発したっていうんですね
へえちょっと西側に移動したわけだ
そうそう
じゃあなんでこんなことになったのかっていうと
それが関ヶ原合戦の大きな謎なんですよ
西軍はどこでこれを待ち構えようとしていたのか
それがこの樽だったって言うんですね
どういうことかというと
この樽の地球見てほしいんですけど
見事に西軍側の方にだけ山があるのわかりますか
そうだね
その大垣の方は平野になってるので
関ヶ原方面に向かうためには
この山の細い道に収束していかないといけない
そうそうそう
まさに収束という言葉が本当その通りですよね
つまり平野と山だったら
当然山の方が位置が高いわけで
戦はそれが有利ですよね
ですから山に陣取って
この平野しかない樽に待ち構えていた
そこに東軍が入ってきたところを
みんな四方八方から山で包み込んで
潰しちゃおうというのが
西軍の腹だったんじゃないかっていう説があるんです
本当に三方が山だから
囲もうと思えば全然囲める感じですよね
絶好の地形ですよね
そうだね
特にしかも西側には平地がなくて
東側だけに弱い平地がある
位置関係からしてもこれ以上の場所って
なかなかないと思うんですよ
もう道もそこしかないわけですね
そう東軍を避けたくても
ここを避けては通れない道なんです
っていうので考えてたんじゃないか
だから大垣城に本陣を置いていて
すぐに移動できる場所
大垣城から敷居を取ることもできるような
場所にはあったんじゃないかって言われてるんです
じゃあなぜ赤ヶ原になってしまったのか
その鍵を握っていた人物が実はいるんです
西軍の裏切り者で一番有名なのは
小早川秀明っていう
毛利一族の武将で
秀吉の親戚だったにも関わらず
土壇場で裏切って
一万何千という大軍を持ってたのに裏切って
それで壊滅させたっていう西軍
裏切り者の代名詞みたいなやつがいますけれども
こいつは戦の当日に裏切ったんですね
ところがその戦の遡ること数十日に
裏切っていた人がいるんです
それが竹中茂門という人物だったんです
竹中ってさっき
阪米ね
あの天才軍師阪米茂春の息子です
が竹中茂門という人物で
この樽を治めていました
特に今地図上に
五大山城っていう城が出てると思うんですけれども
ここの城主だったんです
これが竹中家の城だったんですね
ここは大事そうだな
竹中茂門という人物は
豊臣秀吉に阪米茂春の息子ですから
並々ならえ近い関係があったはずなんですけれども
どういうわけか領地を全然もらえてなくて
この時まだみんな黒鷹とかが何万石ってもらえてるのに
一万石にも満たないような領地だったんです
だから軍事力は全然ないから
大して別に重要視もされてなかった正直
ただ場所がこの樽井と関ヶ原の
この二つを主に治めていたんですね
だから関ヶ原合戦の地元の人なんですよ
どうも雲行きが怪しくなってきて
この水野のあたりでぶつかるんじゃないかってことが
分かり始めて
時に石田三成は
この樽井を予定戦場として選んだ気配がある
そのために竹中を西軍に誘って
ぜひ我々と一緒に徳川を潰しましょうというふうに言ってきた
竹中もそれに乗ったんですね
逆らえなかったかと思います
石田三成に軍勢めっちゃいるから
今ここで逆らったらあっという間に潰されてしまう
西軍になったんですね一体
何をしたかというと石田三成の命令で
五大山城を明け渡して
犬山城というところに込められちゃったんです
犬山城というのは愛知県です
ちょっと地図を拡大しましょうか
犬山城これまさかの玄孫十二天神がまた出てくるわけなんですけど
犬山市がありますよね
そこが西軍の持ち物だったんですね
ここに援軍として行ってくれませんかって言われて犬山城に籠ってたんです
要は名古屋方面から来る東軍を迎え撃とうという話だった
この時実は関ヶ原の戦いっていうのは前哨戦がいくつかあって
9月15日が本戦なんですけど
8月は岐阜とか犬山をめぐる攻防があったんです
当時実は岐阜城には織田信長の孫がいたんですね
この信長の孫は西軍についてたんです
だからこの身の一体は西軍の持ち物だったんですね
ところがこの織田信長の孫は戦が弱かったんですね
滅亡
だから岐阜城というあの天下の名城を持っていたにもかかわらず
戦に負けてしまって
岐阜城はたった1日ぐらい東軍に訪れちゃったんです
それを見た重門は犬山城でそれを見てたわけですけど
状況がやばいことに気づいたんですね
これ見ていただくと岐阜市ってあるじゃない岐阜城
自分より西じゃないですか
でも自分は西軍なんですよ
西軍の本庄大垣にあるんですね
これ分断されちゃってるの分かりますか
そうだね
ちょうど間に東軍が入り込んでる形になるからね
そうなんですよやばいですよねどう考えても
ってなった時に徳川方がさすがにそこに目をつけて
犬山城も一人で頑張っても意味ないから
つって竹中に下れと東軍に寝返れっていう風に言ってきたんですね
竹中もそれを受け入れて8月の段階に東軍に寝返ったんです
なるほどね
そうするとどうなったかっていうと
母大山城というのはそもそも西軍が予定戦場として使うために
大量の改築をした跡が見られるんですって
それは竹中なんていう商業士ができるような規模のないレベルの改築の跡が
今一個年残ってるんですよ
つまり西軍は何かしらの理由でこの母大山城を何かに使おうとした気配がある
けれどもこの上司だった竹中が寝返ってたんですね、密かにね
ってなるともはやこれ使えなくなっちゃったんですね
ってなってえ?ってなってるうちに
東軍は竹中っていう最強の道案内人がいますので
地元は庭だからもはや
っていうのであっという間に大垣が北に進出してきたんですね
ってなってきた時にもはや当初想定していた母大山城と南偶大社ってありますけれども
この辺りから北か南を包み込んで東軍を殲滅しようっていうのは
竹中が裏切ったせいでそもそも母大山城の準備が全く進まなくなっちゃったので
できないというふうに思った
ってなった時にしかも東軍は東軍でもう大垣から北の方を
竹中が案内してどんどん戦闘しないといけない
竹中茂門の裏切りの影響
そうするともう鼻から血のりを生かせなくなっちゃうじゃないですか
西軍からしてみたら
だってその母大山城が東軍に行っちゃったらさ
もう山際にいるのが強かったわけですから西軍が
だってこれは予定戦場はもはや無理だってなって
やむを得ず樽で失敗した時の予備候補だった関ヶ原
ここならばまだ同じような地形でもあるし
東軍は一切進出してきてないから
こっちにより西にちょっと陣を後退させることになって
その場所だったのがこの関ヶ原だったという説があるんです
なるほど
もし竹中が裏切らなくて母大山城の攻略がちゃんと進んで
西軍がそこに万全の準備を整えていたら
もしかしたら関ヶ原の戦いというのはそもそもなかった
ああ 樽井町の戦いだったかもしれない
ああ なるほどね
でもしかしたら西軍が勝ってたかもしれない
なるほど
もしかしたらだけです
もしかしたらね
どっちにしろ裏切り者がいたわけですけど
そうだよね
っていうのが最近実は唱えられてる説があるんです
竹中っていうのはそれぐらい大事だったんじゃないかっていう話があるんです
はいはいはい
本当ちっちゃいけれどもその場所がねとても重要で
そこが裏切っちゃったから
裏切っちゃったというかもう下るしかなかった
なかったっていうことだよね
竹中がいる前提で西軍は戦略を組み立てたっていうんです
まあまあそういうことだよね
ちっちゃな領主なんだけど
なるほどね
樽井町っていうものが東軍についたことで
西軍の強さが大きく崩れたっていう説があるんです
まあ本当かわかりませんが
ただいくつかの物的証拠がそれを示してる
いや全然理にかなってるというかありえそうな話だよね
というものがあるんですね
なるほど
なので西軍の陣というのは実際関ヶ原の本戦で言っても非常に中途半端でした
なぜかというと予定戦場にしていたのは母台山城と南宮大社あたりなわけなんですけど
南宮大社の方はまだ西軍のものなんですよ
なので実は西軍というのは分散したんですね
南宮大社の軍は南宮大社に残ったまんま本戦を迎えたんですよ
なるほどね
だからやはりここで垂れ入れ本当は決着をつけたかったっていうのはマジだと思うんです
そこに総大将毛利テルモトの代理である毛利一族
毛利秀本、安国氏AK、菊川っていうそういった大軍は
南宮大社の方にずっといたんです
そして関ヶ原の本戦には入ってこれなかった
来なかったというのが正しいんですけれども
毛利も裏切ってたんです
すごいな家康の根回しが
根回しがすごいね
ということでちょっとその現場を見に行きたいと思います
南宮大社の神話と歴史
五大山城は非常にマニラックでガチで準備しないといけない山城なので今回は行きません
が南宮大社の方行けるんですね
なので樽井町歴史民族資料館から車で5分くらいのところにある南宮大社に行きたいと思います
ええ
ずいぶん不思議なムービーが流れてきましたけれども
藤井さんが刀を打ってるんですか
そうなんです
南宮大社というのは美濃の国一宮
つまり美濃で一番格式の高い神社なんですけれども
金属の神様なんです
ええすげえもうほんと叩いてますよ
叩いてますそうそう
これ金山彦の狼という金の山ですよ
なのでやはり金属とか鋼鉄っていうものの祀った神社だった
これは推測でしかありませんが
おそらくやっぱりこの美濃の山中においても鉄とかを産出する鉱山があったんだと思われます
遥か古代の時代から
実際に美濃というのはやっぱりそういった気配があって
石というのは今回行かないんですけど
刀鍛冶の聖地と呼ばれている
今も石刃物ってよく台所であると思うんですけど
包丁の名産地ですよねとかもありますし
そういった鋼鉄を扱う文化とかそういった人ができる人がいっぱいいた気配があるんです
なのでここに金山彦の狼というものを祀って
そういった人々のご利益を願った
実際に宝物館もあるんですけれども
そこへ行くと実際にどんな信仰がこの地で紡がれてきたかということだったりとか
そういった実際のアイテムを見ることができます
なのでそもそも神社としてめちゃくちゃ有名なところで
かつすごい僧侶な舎殿で赤い舎殿がすごい綺麗で
僕もこれ2週間も行ってきましたけれども
その時は境内に一面の風鈴が飾られていて
すごい涼しさを感じるいい雰囲気でしたね
南偶山と戦国時代の戦略
これ門がかっこいいですね
すごいですよねこれね
高さもすごいあるし
舎殿は本当に大きくてかっこいいです
迫力ありますよね
その今写真の裏手に山が見えますよね
これが南偶山です
南偶山というのは今言った通り
西軍総大将の代理であった毛利秀元一族
毛利一族がここに陣取った場所です
毛利一族は伊勢海道の方からセリガハレの方に入ってきて
南から入ってきたために南偶大社に陣を置きました
ここで戦況を見ようとしたんですね
つまりやっぱり毛利っていう総大将をここに置いたぐらいですから
あるいは石田三成が五大山城に入るつもりだったんじゃないかと思います
毛利が南、石田が北っていう風にして
東軍を進もうとしたんじゃないか
この南偶大社の南偶山にいたのは毛利一族と
あと有名なところで言うと
我らがトサの長足部森地下
これも西軍に加わってしまって
毛利一族と一緒にここに来てました
しかし毛利一族のうち
菊川博家っていう家老みたいのがいたんですけれども
こいつが願ってたんですね最初から東軍に
有名な話で言うと空弁当の話が周りにも有名なんですけど
セリガハラの戦いが要はセリガハラの方で起こってるわけですよね
南偶山の方にいたら
たるいの予定戦場ではなくなったかもしれないけど
東軍が目の前を素通りしていってセリガハラに入ってるわけですから
東軍の後ろをつけるわけですよ
ある意味南偶から出ていけばね
三つなりは当然むしろたるいてやるよりも理想的な形になったくらいに
思ったかもしれない下手したら
狭いところをハサミ打ちにできる
そうそうそうハサミ打ちにできる
ていうんで毛利にあなた今南偶山から出て
セリガハラの背後についてくださいよって当然言うわけです
ところが菊川博家たちはもともとしてて
なんかああって言ってると
何してんのお前らって話になって
ふざけんなってブチギレて何度も何度も伝令を送るんですけど
とうとう言い訳に困った毛利と菊川は何て言ったかっていうと
今弁当を食べてるって言い始めたんですよ
お前食事の時間邪魔すんのかって逆に言い始めたっていうんですよ
それはしかも嘘だと
だから空弁当っていうことわざになっちゃったほど
間抜けな言い訳をしたっていうんで
でとうとう最後まで動かなかった
戦わずに帰っちゃったんですよ
で西軍は負けた
面白いな
本当に絞り出した言い訳だよね
そうなんです
これが南偶大社一帯に毛利一族がいたので
何が見てほしいかというと今回のテーマにおいてね
もちろん南偶大社時代に参拝していただくのももちろんなんですが
瀬戸原とか樽井に関する位置関係をじっくり眺めてほしいんですね
ここにいてね
五大山城もよく山の上で見えますよ
もう建物何もありませんけど
そこを見るといかに樽井に来たら
南偶大社に自分がいたら
包囲できたかっていうのはありらゆるとわかると思います
なるほど
いやだからここをさ
東軍は通ってるわけだよね
そうなんですよ
だからそれ考えるとやっぱ通れると思わないと
通る勇気ないじゃないですか
そういうことです
だからまあ行けるやろうって思ってるわけだよね
東軍はこの南偶さんの軍勢が動かないの知っていたんだと思います
だから三成のある意味浮かしさであり純粋さっていうのは
自分のところに裏切り者がいるなんてあんまり想定してなかったと思うんですよね
なるほどね
だってなんつったってみんな秀吉に恩恵を受けてると思ってるから
もともとはそうだからね
ただ人の心はそう堪えやすくないっていうことですね
なるほどね
ちなみにキッカーはねその後どうなったかっていうと
毛利一族は当然残ってるわけですけれども
キッカーは家康との間に我々が動かなかったら今の領土を安堵してもらえるって約束でやってたんだと思う
キッカーというのはなかなか戦うまい人でしたから
西軍が負けるってのは絶対分かってたんですよ
未来食堂の魅力
だから西軍にうちの殿様テルモトがついちゃったけど
このままじゃ毛利のお家が潰されてしまうと
だからせめて自分家老一人でも裏切っておいて
その代わり毛利一族全員の領土を保証してくださいと
絶対東軍を勝たせるようにするから
っていう約束で裏切ったんです
ところが家康はそんな甘くないんですね
その約束を保護にして
毛利は結局西軍総大将なので
名目上はね
なので3,4,3,4ほぼ全部だったところから
傍朝2カ国今の山口県です
諏訪の国長戸の国傍朝の2カ国に山口県1個に押し込められちゃって
それでキッカーとしたらもうふざけんなと
なるしそもそもだったらこんなになるくらいだったら西軍としてもっとちゃんとやっとけばよかったじゃん
ってなって
マジうざい徳川許せないってなって
幕末一臣の時に何が起こるかというと
長州藩というのはね
一臣の先駆けになって徳川を倒しに行くわけです
そうか
俺らだからそこまでのスパンで
全然見れてなかったけど
なるほどね
そこで生まれた家康が東北にまで
そう繋がったんです
なるほどね
キッカーと毛利総家の間も結局江戸時代として微妙なんですよ
微妙じゃないですか
極めて微妙じゃないですかキッカーは
なるほどね
ということでこの南宮大社に
関ヶ原的観点でいうと
予定戦場になり得たはずの
南宮大社に行ってきました
はい
いよいよね関ヶ原に入っていくわけです
本当に戦い起こってしまった場所に
ただね
お昼を食べに行きたいと思います
南宮大社から車で15分ほど
関ヶ原町に入ります
その戦場の
真っ只中にあるんですけれども
未来食堂というお店にね
行きたいと思います
おしゃれ
開放感あるね
これはカフェですか
カフェ&レストランといったところですかね
僕ね7月に
追加取材してきた理由の一つがここなんですよ
まあそうだよね
2週間前に行ってきたんですこれ
台本のために追加取材したんだよね
というのねふとね
昼を食べたことないように気づいたんですね
なるほど
ここすごい
いいですね
行きたかったんですよ前からずっと
すごいですよねここね
このね壁の一面が
ガラス張りになってて
お庭ですかね
開けたね景色が広がってて
開放感がすごくあるね
ウッディだね
感じで温かみもあって
デザインも洗礼されていて
この食堂なんですけれども
実はね地元の企業さんが
運営しているものなんです
関ヶ原製作所というね
鉄工業の多分会社だとメーカーさんだと思うんです
そういった工場の方が
運営している食堂になっているんですね
関ヶ原人間村っていうね
施設をね
丸ごと運営しているのがその企業なんですけれども
その中にこの食堂がある
そうそうそうそういうことです
なのでねこの人間村についても
あるんですけれども企業理念とかとして
まずやっぱり社員とかの
幸せというか一人の人間として
その働く上で
この製作所はあるけれども
人間がその文化だったりとか
自然だったりっていうものを
ちゃんと直に触れ合って感じて
そういったその充実した人生を送れるように
っていうある意味一つの
社員福祉的なところにも
あるわけですね
でそういうわけで
ここの製作所関ヶ原人間村という一つの
テーマパークではないんだけれども
こういった施設を運営しているわけですが
このカフェ以外にもね
数多くの芸術作品に触れるというのが
人の人生を豊かにするっていう一つ強い
思いがありますので野外アート
彫刻の森みたいにね
このガーデンの中に多くのアートが
点在していてそれを無料で
見ることができます
あとはちょっと未来食堂から離れてるんで今回は行かないんですけれども
ご自身のプライベート美術館を
持っていらっしゃるので企業のミュージアムです
そこに事前予約制なんですけれども
芸術家たちの作品が
収蔵されていますので
アートが好きな方という観点でも
ここはおすすめです
肝心なのはお昼ご飯なわけなんですけれども
これがまた美味しかったんですよ
非常に
ランチのメニューはね
大体パスタのランチだったり
キッシュのランチだったりっていう風な
洋風の定食といった感じです
ただねこのパスタも
また美味しかったですね
これ
既説によってだと思うんですけれども
僕が行った
7月の段階ではですね
やはりバジルのパスタがね
すごい美味しかったですね
ただねそのサイドにキッシュも
付いてくるんですね
キッシュもやっぱりリフケンさんの
卵とかを使ったものになって
すごいまろやかな味わいでしたね
極み付けはねスイーツも
付いてくるんですよプレートの中で
そこで付いてきたのが
僕が行った7月の
段階ではですけれども
関ヶ原さんのブルーベリーを使ったね
ソースのアイスクリーム
はいいいなぁ
いただきましたね
はるやが食べたのは結構夏らしい
爽やかなメニューになってるわけだね
というのをいただいたところでね
僕ね男一人で
行ったわけですけど周りのみんな
カップルとか多かったんですけれども
それでも全然ねみんな
思い思いな感じで広くてそんな気にならない
感じですので一人で行っても
全然いいと思いますね
だしやっぱり僕が行った時もすごい晴れていましたので
窓の外のねガーデンと
関ヶ原の山並みというのが非常に
綺麗でしたね
ゆったりとね食べられそうだね
そうですね
ちなみにこの材木の杉とかも全部
地元の岐阜県産の杉を使っている
ということでした
すごいオシャレな良い
レストランですね
これを製作上が
作っているんだね
はい
編集辞典の内田です
今回も盛りだくさんになってしまったため
ここまでとさせていただきます
次回はいよいよ
関ヶ原の戦いが実際に起こった
関ヶ原に向かっていきます
そして
最後にお知らせです
来る11月30日
日曜日
静岡県は沼津市においてですね
第2回
みんなのポッドキャストフェス
公開収録イベントの紹介
ポッドキャスト×地域創生
のイベントがございます
現在ですね
こちらのイベントでは当日
会場となっている中見瀬商店街で
公開収録をしていただける
ポッドキャスターの番組さんを
募集しております
募集期間は10月末までと
なっております
商店街が会場となっておりますので
地元の方だったりイベントにいらっしゃった
方々と交流をしながら
公開収録をすることが
できます
興味があるポッドキャスターの方は
ぜひオフィシャルサイトをご覧ください
そしてリスナーの方々は
ぜひ当日会場に
お越しいただけると嬉しいです
我々も当日会場で
お手伝いをさせていただく予定となっております
ぜひ皆さん
沼津にお集まりください
ということで今回はこの辺でありがとうございました
49:21

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