1. 大人になりたい旅がしたい
  2. #119-2【美濃】物語となる“瞬..
2025-10-23 1:06:10

#119-2【美濃】物語となる“瞬間”を訪ねてPart2後編

薫るる風に山河在り 物語となる“瞬間”を訪ねて2日目後編


美濃を制する者は天下を制す―――

歴史小説の金字塔『国盗り物語』に現れるこの名言は、美濃すなわち今日の岐阜県南部が、日本の歴史を大きく変えた特別な土地であることを象徴しています。

広大な濃尾平野と木曽三川の流れ、そして四方に道の通じるまさに”日本の真ん中”には、必然的に数多の命と夢と野望が入り乱れました。

今回は美濃で生じた日本史のターニングポイントの痕跡を辿り、その”史実”が”物語”へ昇華した理由と人々の想いを考えます。


【目次】

〜 今回は地図を見ながらお聴きください!

〜 “関ヶ原の戦い”のあらましを学ぶ新鋭のミュージアム 【岐阜県関ケ原古戦場記念館】

〜 西軍の指揮を執った三成の見た景色とは!? 【笹尾山 石田三成陣跡】

〜 三成との友情に殉じた名将の足跡 【大谷吉継陣跡】

〜 ★歴オタ話★ 戦場に芽生えた友情 湯浅五助の最期について

〜 前代未聞の敵中突破 “島津の退き口”とは何か 【島津義弘陣跡】

〜 ★歴オタ話★ 島津義弘を慕う地域文化の結晶

〜 三方から道の通じる美濃の恵みを凝集 【五感】

〜 歴史好き必見! 歴史をモチーフにしたオリジナルカクテルを 【時re風】

〜 1日の振り返り

〜 ★お知らせ★ みんなのポッドキャストフェス 公開収録の応募は早めに!

〜 一番好きな歴史小説があって……


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サマリー

このエピソードでは、関ヶ原の戦いについての詳細な探求が行われ、岐阜県の関ヶ原戦場記念館や再現された戦場の様子を通じて、歴史の重要な瞬間を体験します。また、石田三成の陣跡や大谷吉津部の位置についても触れられ、戦のリアリティが感じられる内容となっています。美濃の大谷吉津部と石田三成の友情がテーマのエピソードでは、三成の誘いに反対しつつも仲間を支持した吉津部のエピソードが語られます。吉津部の戦略と彼が選んだ陣営の重要性、さらには彼の最期の瞬間についての伝説も紹介されます。このエピソードでは、関ヶ原の戦いにおける大谷義都宮と島津義博の物語が語られ、彼らの武士としての誇りや義理が強調されています。また、島津義博が直面した困難な状況と独自の戦術についても詳述されています。このエピソードでは、関ヶ原の戦いにおける島津軍の戦術とその歴史的影響について掘り下げています。特に、島津豊久のスナイパー戦術が徳川家に与えた影響や、戦の結果が薩摩藩のアイデンティティ形成にどのように寄与したかを探ります。このエピソードでは、関ヶ原の歴史的背景を持つカクテルバーや名物のモーニング、そして関ヶ原に関連する観光地を訪れる様子が描かれています。また、同地の歴史や地元産の食材を使った料理についても言及されています。美濃の歴史を紐解きながら、一つの瞬間が物語となる様子を探求します。特に関ヶ原の戦いと柴田太郎の小説についての考察が行われ、読者に新たな視点を提供します。

関ヶ原の戦場探訪
大人になりたい旅がしたい。このポッドキャストでは、旅行とお酒が好きな同級生2人が、大人だからこそ知りたい、ちょっとディープな国内旅行のモデルコースを紹介していきます。
内田です。今回は、香るる風に酸があり、物語となる瞬間を訪ねての2日目の後編となっております。
前回は関ヶ原の戦いの予定戦場であったかもしれない樽井町を巡っていきました。そしていよいよ今回は、実際に戦いが起こった関ヶ原に向かっていきます。
今回も前回に増して、位置関係が重要になって参りますので、ぜひ地図を片手にお聞きいただければと思います。それではどうぞ。
いよいよ戦場に入っていきます。この関ヶ原人間村も全く中です、戦場の。だからすぐ近くに関ヶ原合戦開戦地っていう石碑も建ってます。実際戦いが始まった場所ってこの食堂の目の前なんですけど。
改めて関ヶ原の戦いというのは何だったかというのを知りたいと思いますので、未来食堂さんから車で5分ほどのところにある岐阜関ヶ原戦場記念館に行きたいと思います。
きれいだね。お城っぽい感じだね。景色もすごいな。
このミュージアム見てのとおりすごい綺麗ですよね。というのもこれリニューアルしたばっかりなんですよ。2020年にリニューアルオープンしたばかりということで、すごい最新のミュージアムになってます。
その名の通り岐阜県がやっている関ヶ原の戦いのためのミュージアムになっているわけなんですけれども、歴史に興味がない方でも大いに楽しんでいただけるような工夫がありまして、すごいのは最新の映像技術を使ったシアターですね。
一階にはシアターがありまして、そこで関ヶ原の戦いのあらましだったりとか、何が9月15日と運命の1日で起こったのかというのを、結構アトラクション感覚で楽しめます。
VRではないんですけれども、3面盤くらいのシアターで、そこに馬のいななきとかもすごい再現されてて、アニメっぽくなってるんですよね。
実際に合戦が起こると関ヶ原がガタガタガタって振動するんですよ。
たまに映画館あるじゃないですか。あれと似てるようなイメージです。
すごい迫力のある演出とともに関ヶ原の戦いの1日を知れるということになりますので、お子さんとかでもすごい喜ばれるんじゃないかなという気がいたしますね。
岐阜関ヶ原戦場記念館
面白いね。やっぱ体感からまず入れるっていうのがいいね。
そうなんですよ。だからやっぱり最初に行くという意味ではいいんじゃないかと思います。
僕はね、ミノは1人でしか基本行かないんですけれども、迂回1人はなかなか厳しいかなとも思うんですね。
迂回はそうだな。
なので友達と2人から4人くらいで行くのがいいんじゃないかと思うんですけど、とはいえやっぱりこの関ヶ原の戦い、みんな興味あるかと言われるとね、なかなかマニアックなところでもありますので、
興味ない人と行く時でもこのシアターなら楽しめるというね、そういった利点もあるかなと思います。
なるほど。
結構だからこれ内田の観点から見てもね、面白いんじゃないかという気がします。
ちょっと見てみたいな。
CGとかもちろん当然過去のことなので、全部CGなんですけど、すごいこだわりのシアターですね。
見たいな。
これねちょっと補足なんですけど、シアターは行ったらいつもやってるというよりも、時間が決まってるんです。上映時間が。
なので事前にウェブページで何時にやるか、結構頻繁にやってるんですけど、っていうのをまず見ていただくのがまず大前提になります。
僕も予約なしで入れてはいるんですけれども、念には念をして予約もできるんですね。
その席の予約が。
定員オーバーしちゃうと、当日行っても見れないこともありますので、
絶対これを見逃したくないという方はウェブから予約をするとなお安心だと思いますので、その点はご理解いただければいいかなと思います。
一方でね、2階に行っていただくと、いわゆるもう歴史観としての展示室もあります。
今言ったような関ヶ原の戦いというのがそもそもなぜ起こったのかというところから、
いったい日本中の何万人という人がたった1日の戦いのためにこの小さな野に集まったっていう、異常なある意味自体。
それがどういう人が何のために参戦してきたのかっていうのがグラフとかになってすごいよくわかるようになっています。
あとは関ヶ原の戦いで生まれた数多くのドラマですね。
東軍西軍ともにキラ星のような戦国武将が散列していますので、
彼らの甲冑の再現したものだったりとかエピソードだったりとかというものもしっかり展示されているので、
もちろん歴史に興味ある方でも満足していただけるような内容になっているかなと思うわけですね。
この記念館では新説というか、東軍の勝利が決まっていたみたいな説も展示されています。
意外とまだそこはなかったですね。本当に最近の話なのに。
ただ竹中司令下と関ヶ原の農民たちっていうのがどれくらい困っていたかということはちゃんと書いてあります。
要はどうしても花々しい戦いが戦国時代に注目されがちなんですけど、当然農民たちもその場所に生きていたわけで、
彼らからしたら非常に迷惑なんです。戦が起こるってことは。全部焼かれちゃうしさ。
なのでどうにかして関ヶ原の民たちは竹中がしかも裏切ってるし、そこがよくわかんない理由で。
田畑は全部お見舞いされちゃいましたよ。これ9月15日って時期もまた悪いんですよね。
なぜかわかりますか。農民たちにとって嘘だろっていう。
ああそうか。もう稲が実ってると。
収穫間近だったんですよ。それを変な人たちが来ちゃって荒らしていくわけだから。
やむを得ず本当はまだ未熟な稲を仕方なく刈り取って、戦でも癒されるよりもマシだということで。
あんまりおいしくない稲を仕方なく刈り取ったとか、そういったリラルな話も書かれてます。
さすがにこのままじゃ立ち入りがないからって言って、竹中の殿様と一緒に頑張って勝った家康のところまで農民たちが滋賀県の方まで追っかけていって、家康に直訴して農民たちが。
もうこのままじゃ生活できないから何とかしてくださいって言って、さすがに家康もわかってますから、お米とかを暮らしていけるだけのものを現物収集とかしたりして、ようやくそれで関ヶ原の旅立ちは日常を取り戻せたっていう。
そういった当然あった一つの歴史をちゃんと解説してくれてますね。
石田三成の陣跡
なるほどね。
そしてね、この展望室が最上階5階になるわけですけれども、ここからはね、もう本当にこの関ヶ原の戦いが起こった現場すべてを見渡せるような状況です。
もう四方八方ガラス張りになっていて、そこからねあらゆる人の陣地を求めるんですね。
なるほどね。この椅子も赤と青に分けてんだね。 そうそうそう。
東軍西軍ってことね。 そうそうそう。この床にもねマップが実は敷かれてるんです。
へー。だからそうか、単純に景色綺麗とかじゃなくて、戦場としてここを見ると。
そうです。で関ヶ原というのは日本で一番有名な戦場でしょ間違いなく。
っていうだけあって、あの本当にね武将たちの旗とかまだ立ってるんですよ。
あの昔のじゃない、今の人たちが再現して当時の合戦のあった風景っていうのをなるべくね近づけてるんですね。
なるほど。
だから石田三谷方の旗も立ってるのをよく見えるし、黒田長政、島津維新入道、大谷押継、徳川家康みたいな感じでもう東西あらゆる大名たちの人種が見えるんですね。
だからまあ日本で一番リアルな戦場といって差し支えないでしょう。
すごいね。その街がもう展示みたいになってるわけだね。
そうそうそう。圧倒的な知名度がありますからね。瀬戸原町っていうね。
へー面白いな。
だから最初にまずどれくらいの距離感で戦ったのかっていうのを見てほしいんですよ。
でやっぱりそこに来て思うのは、東西合わせて20万くらいの軍勢がこの小さな間に集結したっていうその光景の信じられないおぞましさと驚きと。
いやーちょっとそれ面白いな、その戦場をリアルに感じられるっていうのが面白いね。
なかなかないと思いますよね。
だいたい想像するしかないもんね。
そうですそうです。だから想像で作ったシアターとかでその迫力で持って体感した上で、その上で本当のリアルな戦場を山とか谷も本当に今の風景を見て、そこに武将とか軍勢の姿を自分の頭の中でイマジネーションできるわけですよ。
なるほどね。面白い展示だね。
なのでここぜひ寄っていただきたいなと思います最初に。
まあ余談ですけれども、今回はね車で全部行ってますのでいいんですけれども、僕これ関ヶ原最初に行ったのは小学生の時だったんですけど、親いましたけどね、車なかったんですよ。
なので自転車で回ったんですよ、戦場基本。でそれより回れるくらいの距離なんです。
ただ今回午後から入って時間がないのでね、車にやっちゃいましたけど、むしろ自転車の方がリアルな起伏とかも結構わかったりするんですね。
なのですごく歴史が好きな人はもうね自転車で1日回る方が個人的にオススメです本当は。
そのレンタサイクルとかをこの記念館でできるようになっていますので、なのでここを拠点に自転車を借りてレンタサイクルをするっていうのもいいと思います。
ということでねこのミュージアムで関ヶ原を学んだ後に、最後その戦場に立ってみたいと思います。
始めに行くのが笹尾山石田三成陣跡です。
今見るとねすごく景色のいい展望台みたいな形になってますね。
西軍のね実質的な指揮官であった石田三成、この人が構えた、実質的には西軍の本陣が置かれたような意味合いの場所ですね。
でちょっとこれで改めて戦場の地図を見てみましょうかね。
記念館が真ん中に今ありますね。
この小さな中で何万人が来たんですよ。
そうだね、地図で見るとやっぱりすごく狭い範囲だなって感じがするね。
すごく狭い範囲ですね。
で石田三成が当時西軍なので、西の方に大体陣所があります。
石田三成の陣地がどこにあったかというと、盆地の北西を占める山地の中の一つの山である笹尾山に陣取ったわけです。
ただね標高自体はそんなに高くなくて丘程度のものです。
なので山陸まで自動車で行けますので、そこからは整備された歩道で歩くことができます。
でやはりねさすがに西軍の指揮官の陣所というだけあって、今ちょっと画像も出てきましたけれども柵とかもね再現されてるわけですね。
まあやっぱ再現とはいえすごく想像の助けになるというかリアリティに感じるよね。
そしてね僕が改めてこの地に立った時思うのは近いんですよ。とにかく東軍西軍の距離が。
さっきの古戦場記念館が徳川家康がね後から移した陣の跡なんですよね。
最初はもっと東にあったんだけど、戦の形成がなんか来たりしてるから前に出てきたんですよね家康に。
その出てきたところがあるんですけど、全然見えるんですよ笹子山から本当に人が歩いてるところとかも。
なので家康その人も捉えたかもしれないもしかしたら。
なるほどね。
なのでね予定戦場であったかどうかはちょっともう分からないですけれども、
少なくとも木ヶ原が戦場になると分かった時点で一番やっぱり最適な場所に彼は陣取ったんだろうという気がしますね。
本当だねこの上りとかもね立ってますもんね。
この第一雷門大吉という有名な上りがありますけど。
なのでぜひここに立っていただくと、いかに赤ヶ原が狭くてリアルな戦場だったかというのはよくよく分かると思います。
記念館行った後でここを見るとさらに分かると思うので、ぜひここで立って見ていただいて、いろいろと体感してもらうといいなと思いますね。
で今回は主にね東軍の徳川方の方は結構ESの回で話しましたので、西軍の方の人種を主に巡ってみたいと思います。
石田三成の陣から車で7分ほど南に行ってください。そこにあるのが大谷吉津部陣跡です。
大谷吉津部という人物は聞いたことありますかね。
見えない気がするな。
吉津部と三成の友情
この人は戦国時代の中でもすごく人気の高い武将です。
三成の友達的な友情という言葉が本来なかったはずの時代なのに、友情に準じてこの場所で死んだという名称ですね。
これもいろんなエピソードがあって伝説もあまりにもあるんでちょっと分かんないんですけど、三成と同じ大見の国の出身で年も多分かなり近かったんだと思います。
ただ残念ながら吉津部は関川の戦いの直前にはハンセン病に侵されてしまっていて、
顔が形がとどめられなくなったりとか、足腰も動かなくなって馬にも乗れない状態だったっていう病身だったんですね。
にもかかわらず腰に乗ってだから死期をしたというんですけれども、そういった人でした。
これは本当に伝説なんですけれども、吉津部と三成の関係性を決定付けた内容として、ある時お茶会があったそうなんですよ。
当時のお茶会って何人か招かれた人がいて、それをみんな回し飲みしていくんですね。
ところが吉津部はそういった病気なわけですよ。
それをみんな周りに知ってるわけですね。
なので頭巾で覆って吉津部は顔もほぼ見えなかったという人らしいんですが、
気をつけてはいたんだろうけれども、吉津部の病気にかかってしまった皮膚の一部がお茶の中に入ってしまったんですって。
足飲みをした時に。
それを見た周りの部署たちはあって思ってしまって、後の人たちはみんな飲むふりをして飲まずに、形だけやってみんな飲まずに回していった。
吉津部はそれも当然気づいて、すごくたぶんいたたまれない気持ちになったと思うんですよ。
申し訳ないよね。
ところが最後にいた石田光奈美がそれを取って全部飲み干したっていうんですよ。
っていうのに感動した。
つまり光奈美はそういう差別とかは嫌いな人だったんですよ。
そういう整理感というか、そういったものに吉津がやっぱり胸を打たれたっていうエピソードがある。
それはすごい救われただろうな。
わかんないけど伝説ではそういう話もある。
関ヶ原の戦略
ただいずれにせよ、大谷吉津というのは関ヶ原を語る上ですごく有名な部署ではありますけれども、
光奈美は実は関ヶ原の直前に罪を得ていて、なすりつけられちゃって罪を。
沢山の教堂に閉じ込められてたんですね。
家康の合図成罰には、その石田光奈美にもちろん声をかかってたので、子供を代理で出すと。
大谷吉津がこの時越前鶴賀という、今北陸新幹線が通った場所ですけど、越前の国に領地を持ってたので、
奥美の彦根に、今ちょうど前原は北国家で降りてきて、三成の友達だから友達の息子を預かって、
ただ全然小学生みたいなのが指揮ができないので、石田勢を大谷が預かってそのまま一緒に東へ行こうとした。
つまり大谷吉津は本当は家康に味方するつもりだったんです。
彼は家康ともすごい親しかったし、しかもすごい戦に優れた人物だったので、家康が絶対勝つって思ってたんです。
だから三成に変な気は起こすなと、大人しく家康に従えって言って、お前の息子は俺が面倒見てやるからって言って、預かって一緒に徳川に行こうっていうふうに言ったんですね。
そして中川道統帝関ヶ原の方まで来た時に、石田三成から急に呼び出しがかかった。
どうしてもちょっと話したいことがあるから、うちの城まで来てくれないかと。美和子の方まで。
何だろうと思って嫌な予感がするなと思いつつ、吉津が腰に乗って大名で行ったんですね。
そこで軍は止まっちゃったんです。三成と話したら案の定巨兵をしたい。今がチャンスだから是非味方になってほしいと。
吉津が猛反対した。絶対に負けるそんなことをした。誰が見ても家康に勝てる者はいない。絶対にやめろと。
お前の人生、お前の子供の人生もどうなるかわかってんのかって話絶対止めたと。
一夜オウルで議論をして止めようとしたんですけれども、三成の決心は堅かった。
そうなった時に吉津はもう負けると分かっていたにも関わらず、三成との友情をもんじて西軍に着いた。
途中まで攻軍してたのは戻って。
戻ったんです。自ら北陸に居場がありますから、北陸地方の兵隊とかをして、要はこの人は戦は強かったんですよ。
戦略だったので、香川の前田って言いましたけれども、金沢のね。あれが東軍についてるんですよ。
なので、竹ヶ原に香川から攻めてこようとしたんですけど、それを小さい軍勢でもって巧みに打ち破って、前田を金沢に追い返して、
それで北陸から誰も攻めてこれないようにしてっていうのをやった上で、竹ヶ原にやっていったんです。
そしてこの場所に陣を構えた。
ただね、この陣を構えた場所というのも非常に意図が読み取れる場所でして、ちょっと地図を見て欲しいんですけれども、松尾山張房地っていうのがありますよね。
これが大谷吉津郡の陣の跡です。これどういう場所なんでしょうか。
だからもう、竹ヶ原のこの盆地の西の端ですよね。
何が通ってますか、ここ。
東海道新幹線が通ってるわ。
さらに。
中銭堂が通ってるわ。
そうなんです。つまり、竹ヶ原ってやっぱり、これ昔不安の関っていう関所が置かれてたから竹ヶ原なんですけれども、
この中銭堂の真っ先に押さえたんですね、大谷吉津郡。
これを通っていけば要は奥美とか大阪の方に行けるんですけど、そうさせないように真っ先にここを手早く押さえておいたっていうんです。
だからもう本当ここ破られたらもう終わりだぐらいの最後の砦になる。
そうそうそう、一番大事な場所ですよね。
手の前もってここに陣を構えていたっていうんです。
だからここある意味彼にとっては予定戦場だったのかもしれません。
そしてもう一つポイントがあるんですね。
それが南の方に行ってもらうと松尾山という山があるはずなんですね。
小早川秀明陣だと。
小早川秀明ってさっきちらっと出てきたの覚えてますか。
裏切った側だよね。
そう、裏切りも代名詞と言われてるぐらいの毛利一族だったんですけど、秀吉の親戚だったんだけど裏切っちゃった人。
で、西軍だったのにこの松尾山にいたんだのに西軍を攻めちゃった人ですね。
この人は挙動不審だっていうのをみんな言ってたんですよ。
まだ19歳とかで意思があんまりないし、なんか挙動が怪しい、頼りないし。
っていうんで、大谷義次はこの小早川が寝返るんじゃないかっていうのを予見してたんですね。
なるほどね。
でも小早川松尾山に行ったときに、小早川が松尾山から下って西軍を攻めようとしたら、真っ先にぶつかるのがこの場所なんですよ。
だって石田三谷の陣地はどこにあったか思い出してほしいんですけど、もっと北にありますよ。
そうだね。
だから南から小早川を攻めてきたときに、真っ先にあったのがこの大谷陣なんですよ。
しかもこの大谷が陣取ったこの山には、南側に中銭堂が通って、ここは平地になってますよね。
つまり山から下った小早川は、一旦この平地に降りて、そっからさらに山を登って大谷を攻めなきゃいけない。
それを予見していたから、ある意味この中銭堂とか堀のように見立てたって言うんですね。
そうか、だからここで食い止めといた方が楽になるというか。
そうそうそう。
ここで食い止めないと、後で大変なことになっちゃう。
そういうことですそういうことです。そういうことなんですね。
っていうのをもうあらかじめ分かっていたから、もうここにしかないっていうピンポイントで陣を置いたという。
なるほど。
大谷押し継ぐは全然領地は狭いかったので、自分の手勢は少なかったんです。
吉津部の最期
なので実際行ってもらうとさっきの笹尾山と比べて、この陣は非常に薄そうとした森みたいな中にあります。
森のなんか尖った丘陵の中にあるんですね。
なのである意味ゲリラ戦的なことをやったと僕は思うんですね。
大きな平野に散会してやると、数が多い方が圧倒的に勝ちますから。
そうじゃない、ある意味この小さな砦みたいのここに築いて、それで中で巧みにゲリラ戦みたいになって、
攻めかかりはしないんだけど絶対破られないようにしてたんじゃないかと思うんですね。
そして同時に小早川の監視もしてた。
この今まさに写真がありますけれども、あっちに見えるのが松尾山です。
本当だ、ちゃんと見えるね。
ここに陣を張って裏切らなかったことを考えると、どれだけその友情が強いものだったかっていうのはよくわかるね。
そうですね。 本当に大事な場所だもんね。
そうですそうです。
ところが結果としては小早川も裏切るわけですよね。
大谷押人がそれを予期していましたから、あらかじめ複兵をしてあったんです。
脇坂安晴陣跡というものが出てくると思うんですね。
これが大谷の、この時部下じゃないんだけど、大谷のチームだったんですよ。
対小早川チームみたいなのを大谷は作っていて、小早川が降りてきたらまずは大谷陣に攻めかかる前に側面から脇坂たちが小早川を撃つはずだったんです。
そのための兵を残してあったんです、あえて活戦に参加させずに。
ちょうどそれぞれの陣の中間のちょっと東っていう感じですね。
ところがこいつらも裏切ったんですね。
なるほど。
土壇場で裏切ったとも前から計画だったのも言われてますけれど。
とにかく小早川を食い止めるはずのチームだったらこいつらまで一緒に裏切ってきたんですよ。
で、なるともう支えられなかったんですね。
で、大谷義都宮は噴水したのちに自陣した。
これたちで自衛しました。
なのでね、陣跡を今いるわけですけれども、そっからちょっと5分くらい森の中に入っていただいたところに大谷義都宮の墓がね、ありますね。
陣なので小早川を攻められたので北に逃げてその山の中でね、自衛をしたという風になってます。
なるほど。
でね、この大谷義都宮の墓行っていただくとね、義都宮の墓は立派にあるんですけれども、その片割にもう一つ小さな墓があるんですね。
それがね、湯浅御助の墓というものがあります。
この湯浅御助という人物が何者だったかということなんですけれども、
これは大谷義都宮の直近だったんですけれども、義都宮を解釈した人物という風に言われています。
なるほど。
大谷義都宮は病気の顔だったので、自らの首を絶対に取られたくないって言ったんですね。
晒し者にされるのがあざけられたりね、そういった差別みたいなことを向けられるのがすごい嫌だった。
まあそれは嫌だな。
言うので絶対に死ぬけれども自分の首だけは渡すなっていうのをくれぐれも命じたっていうんです。
そして湯浅御助はその義都宮を首を切って解釈をした後に埋めてたんですって。
ここで誰も見つからない森の中で。ところがそこに東軍が来ちゃったんですね。
東軍の東道高虎という、これ伊勢の大将ですけれども後々の手勢が来ちゃったんですね。
見られちゃったんですよその現場を。どうしたと思いますか?
えーそれはもう切りかかるしかないな。見られた以上はみたいな。
そうそうそう。切りかかったんですよやっぱり。
そしたらその来た兵士が自分の知り合いだったんですね。東軍西軍に分かれたとはいえ。
で東道なんとかさんじゃないですかって言ってお前は湯浅御助ってなって、お前こんなん何してんだって話になって。
でたまたま知り合いだったので、湯浅御助なんて言ったかっていうと、もうお前は信頼できるから話すけれども、
実は我らがある城義都宮様は今この場所で自害されて、私はこうこうこういう事情で今ここに首を誰にも見つからないように埋めたところなんだ。
義都宮の誇りと秘密
で頼むから義都宮様を絶対恥かしめたくないので、今俺はもうお前の手にかかって死ぬから、
その代わり義都宮の首のありかを秘密のまま黙っておいてくれないかっていうふうにお願いをした。
そしてその東道という敵方の東軍の一発もそれを感じて、湯浅御助をその場で切って首を取った後に東軍に持参したんですね。
ところが家康はやっぱり賢いので、湯浅御助ほどのものがそう安々と切られるはずはないし、
湯浅御助がそんなところで一人でいたとは思えない。
お前湯浅御助の周りに義都宮はいなかったのかっていうふうに東道に行ったんです。
そしたら東道が何て言ったかというといました。
義都宮はいました。
首はあったんです。
だけど僕はこうこうこういう理由で持って御助を打ち取って御助の義理に応えるために内府様と言えども今は応えられませんっていうふうに言った。
そしたら内府、徳川家康ですね。
もうそれに感じて、それは首相の心がけだって言って、東道には何も罰せずに大谷義都宮の秘密は守られたままこの地にひとしずつ眠っていった。
島津義博の戦い
この戦場においてすごく人の心が通った逸話だね。
そうなんですよ。
なので今もね、このグーグルマップにも大谷義都宮の墓、中黒、湯浅御助の墓というね、この二人は今でもここに埋葬されてるんです。
なんかいいね。戦いの中にあっても、敵の人であってもそのプライドをちゃんと尊重するっていうのはね、いい話だな。
そういったことがあってね、この大谷義都宮というのはね、非常にギリがたくね、家臣たちもやっぱり義都宮をすごい慕ってたということでね、有名な武将になってますね。
これがまたひとつの物語的な伝説としてはそうなってる。
ところがね、関ヶ原の戦いに吹いて、ある意味最も大きなインパクトを与えたのは、このことじゃなかったんですね。小某家の裏切りでもなかったんですね。
西軍によって、最後の最後によってとんでもないことをやらかした奴がいたんですよ。
その人の後をちょっと見て、この事件が一体この日本をなんで変えてしまったのかということをね、考えてみたいと思うんです。
大谷義都宮の陣の後から車で5分ほど北の方、未来食堂のすぐ近くまで戻ります。
そこにあるのが、島津義郎陣の後です。島津義郎、この人物聞き覚えないでしょうか。
もうね、ちょっと人がいっぱい出てきてない。どこで出てきたっけって感じなんだけど。
島津というのは。
えーと、どこで出てきたんだ。
悲しい出来事ですね、これは。島津は前回の宮崎において出てきた人ですよね。
あー、もう今完全に今回のやつで考えてた。
そうですそうです。覚えてますかね。
宮崎の一日面に耳川の戦いというものがあって、キリスト教王国を作ろうとした文後の大友総理人というものがヒューガに出てきて、そこでムシカというところでキリスト教国を建てようとした。
その野望をくじいたのが南にいた島津ですよね。島津がそれで奇襲作戦で持って大友を殲滅して、大友総理の夢は崩れていった。
あの島津です。つまり薩摩です。
それがここまで来たんだね。
島津はああいうわけで大友を打ち破ったんだけれども、その後豊臣秀吉に降伏して豊臣秀吉の敗下の大名として南九州を治めていました。
ところが大友の時にも語りましたけれども、この島津というのはとんでもなく戦が強かったんです。
作戦もめちゃくちゃに強かったしバリエーションもあったんですよ。
なので朝鮮出兵の時とかにも行くんですけれども、現地で10万人だかっていう民の軍を相手に何千人っていうやつで戦ってそれを打ち破ったっていう伝説的な、本当にリアル戦国武装みたいなことをやって、
なので島津っていう名前だけが今も民に伝わっていてシーマンズっていう言葉があるくらい鬼のように恐れられたっていう島津軍というの。
っていう戦国最強の軍隊と言ってもいいでしょ、当時の。っていうのがいたんですね。
ところがこの島津義博というのはこの時相当の年だったんですけれども、鹿児島に本拠があったわけなんですが、大阪に出てきてたんですね。
島津も戦の正中の名称なので、徳川がそもそも島津をなんとか手懐けようとしてたんです。
なので徳川と島津は結構絆が強かった。
これはね、なんでこんなことが起こったのかよく分からないんだけど、徳川家康は自分が合図詰めで柄掛けになるわけなんです、京都を。
ときに島津義博に対して、私が当国行ったらあなたが私の代わりに京都とか大阪を守ってくださいっていうふうに、なんか口癖を起こしたとかって言うんですよ。
島津は義理堅いので、私家康と仲良かったので、この義博自らが出てきて、大阪とか京都に残された徳川方の拠点に入ろうとしたら、徳川の留守を守っていたその徳川家康の部下がそんな話聞いてないと。
島津が来るなんて聞いてないって言って、島津はもう直手の戦上手だから、もしかしたらこれ陰謀なんじゃないかと。
我々の将軍これ取っちゃおうと思ってんじゃないかって疑心暗鬼になって、鉄砲を打ち払って追い払っちゃったんですね。
島津からしたら、呼ばれたから来たのになんで追い払われなきゃいけないのってなって怒っちゃって、は?ってなって、何これって思ってたら石田三重方が居兵してると。
じゃあいいやもう西軍行っちゃおうかなってことで西軍に就いちゃったんですよ。
それで就いちゃうのか、そうか。 ってか塚沢を植えなかったんだと思うこれも。
もう包囲されてる。 そう、だし島津はこの時せいぜい大阪にいた軍勢だけでなんとかしてたんで、千人にも満たない軍勢しかいなかった。
で薩摩の方には隠居したお兄さんがいたんだけど、こいつは徳川とめちゃくちゃ仲良かったので、もうやめろと、もう帰ってこいそんな余計なことやって。
って言って国元から援軍を送らなかったんですね。弟に対して。だからもう島津軍がこれ何万人って言ったらもう最大の脅威ですよ。
だけどもう800人とかしかいなかったんです。島津はただ誰もが見逃せるのに戦上手で、しかも誰よりもベテランだったので、
石田方の西軍も、うわ島津さんいるじゃんってなって、すげえってなってあの島津と共になったってなんで島津がいんなら勝てるってみんななって、島津にぜひこれは指揮をとってもらえよと。
特に野戦の上手さと奇襲の上手さはもう尋常なものじゃないから、島津の意見を聞こうって言ったんだけど、島津の意見は余打ちとか奇襲とかせこいと思われたんですよ。
それで大友みたいな大軍打ち破ってるんで彼らなりの整理はあったんだけど、石田三成はそれを転まなかったと言う。だから島津の意見あんまり聞かなかったんです。
せいせい堂々と豊臣家のお名前でやるわけだから、余打ちなんてことをやったら卑怯だと思われる。それは島津の軍法にあるかもしれないが、この戦ではあり得ないみたいなことを言って、島津がなおさら負けるって言ってるのに石田三成が聞かないから、
敵中突破の策略
若層はみたいな、どうせ戦も知らないくせにって言って、不抵抗されちゃったんですよ。島津は島津で、もういいやなんかどうでもみたいになっちゃって、成り行き上従ってはいるんだけれども、叩くわけがあんまりないんです。
ところが島津は島津でESに対しても含むところがあるわけですよ。約束を破られたって思ってるから。だからこいつら何をしてたかというと、この関ヶ原にあって全く動かなかった。何もしなかった。
まあね、両方にこう、なんだこいつって思ってるわけだよね。 そう。で、どこにいたのか動かない割に。住処に引っ込んでればまだいいですよ。ところが島津がどこにいたかっていうと、もう石田三成の陣のすぐ南。
そうだね。 で、すごく大事そうなところにいるじゃないですか。真ん中の。 そうだね。狭まっていく入り口のところだよね。
ここにいたんですね。ここにいながらにして何もしないんですこいつら。ただぼーっと見てるんです。で三成がブチギレて笹山から下ってくるんですよ。お前なんで島津動かねえんだって言ったら、私たちはわしらのやり方があると。島津は島津のやり方でこれまで天下で勝ってきたわけだから、お前の指図を受ける筋はないとか言い始めちゃって。
俺たちがやりたい時になったらやるっつって、戻れっつって追い返しちゃって三つ目。ところが東軍は東軍で、あの島津があそこにいるのかって怖いんですよ。戦国最強の軍隊がしかも静かに何もいないって不気味じゃないですか。 確かに。
でも西軍に明らかにいるから、周りの軍がめっちゃ戦ってるんだけど、島津はちょっとみんな避けてあそこには手を出すなみたいな。どうせ向こうから何も落ちてこないしって言って誰もここに攻めてこなかったんです。最後の最後まで。小林秀明が裏切ってもうみんななだれを起きて西軍が逃げていっているのにもう島津にはみんな怖くて攻められないんです。だから島津はもう周り四方八方全員東軍になった中で一人だけここに残っちゃったんですよ。何もしなかった。
はいはいはい。 どうしたらと思いますか?この後島津・吉洋というのは。 え?どうすんだ?西軍はもういないわけですね。 いないです。味方誰もいないです周りに。 でももう東軍と話をするしかないの。 そうですよね。でも東軍には東軍でこいつは含むところがあるんですよ。
もう関係ねえって言って帰るしかないのか。 うん。どこやってでも帰れますかこれ。 無理だな。 うん。 何これどうすんの?
はい。前代未聞の敵中突破というものをするんですね。もう島津ののき口ってあまりにも有名なエピソードなんですけど、たった数百人しかいない島津の軍隊で、今記念館のところあるじゃないですか。そこに徳川家康の本陣があったんです。近いですよね。 近いね。
西軍がみんな消えていって、東軍が勝ったーって言ってよかったよかったって言ってたら、急に島津軍が立ち上がって、徳川家康の地に攻めかかってきたんです。本陣に。そして攻めかかってきたと思って、うわーって殺到してきて、はーってやばい島津が動いてる動いてる。
うちの友さま狙ってんじゃんって、やばいやばいやばいってみんな大当てで大混乱になって、まさか島津とはいえ何十万の中を八百人だか何だかで突っ切るなんて誰も思ってないから、完全に突きを突かれたんですね。島津はその突きを突いて家康の本陣まで迫ってきた。ところが家康の本陣今攻めかかって、こいつら死ぬ気なのかな、差し違える気なのかなと思ったら、急に異世界道に入っていったんです。
家康の本陣の前に道が今通ってますよね、大きな国道が。このまま南に消えていったんです。で、どこ行ったかっつうと伊勢の国に入っていったんです。三重県に移動したんです。行けますよね。そっから大見の方は徳川がいるから奈良の山の方を通っていって、伊賀とか奈良の方で大和の山を密かに通っていって、大阪の堺までたどり着いて、堺から船で薩摩へ帰ったんです。
帰っちゃうんだよ。 そう。これが前代未聞。しかもただではもちろん東軍も返しませんから、島津が攻めてきたって思ったら勝手にどっか行っちゃうから、慌ててみんな遅ればせながら追っかけていったんですよ、島津を打ち取ろうと思って。徳川の直進たちがやっていったんですよ。つまり東軍の周りの武将はみんな知っちゃってるから、徳川の本陣に残ってる人たちが追っかけていったんですね。
伊賀大正とか本田忠勝だとか松平忠義っていう家康の息子、もうみんなで追っかけていったんですよ。そしたら島津は何をしたかというと、こいつらもう練りに練られた戦術があって、捨てがまりっていう非常に怖い戦術なんですけど、最初から生き残る術のない死の軍団っていうのを置いておいて、そいつらが敵が目前まで迫ってきたときまで草むらに伏せていて、鹿児島って要はひなわじゅがそもそも伝来したところですから、鉄砲を使うんですね。
島津軍の戦術と戦の影響
それでもうスナイパーみたいな道を置いてるんです。それでもう敵の一番良い兜を被ってるやつだけをスナイパーで狙え、それでも当然見つかって殺されますよ。だけど敵の大将撃ち取ったらみんな周りが大当たりはもう一回来なくなるって言って、なんと徳川家康の子供を狙撃したんですね。それで家康の子供はそれが原因で死にました。
さらに伊伊直政っていう家老をね、これ後々伊伊大老を出す伊家ですけれども、あれも島津のスナイパーにやられて、これで負傷してその何年後かに死にました。っていうように島津は撤退しかしてないんだけれども、そのスナイパー戦術でもって徳川家の直親とか息子とかを傷つけて帰っていったっていうとんでもないことやってるわけなんですよ。
すげえな。 これがね大変なことになるんです後々。ちょっとその遺跡を実際見てみたいと思います。島津吉洋神話とさっきの真ん中であったところですよね。ここから車でその軒口をたどってみたいと思います。実際島津君がどうして行ったのかっていうのをたどってみたいと思うんです。
はいはい。 なるほどここは本当歩きか自転車が面白いんだけど、今回車がありますので車でまあたどっていこう。車で7分ほど行ったところにあるのが島津豊久比です。これ宇東坂っていう宇はね、カラスの頭の坂で宇東坂っていうところです。ちょっとその位置環境見てもらうと、さっきの島津の軒口のルートをたどっていてほしいですね。
記念館の前からここまでね、爆速で逃げたというか戦いながらそのスナイパーを道々に置きながら撤退してきたっていうんです。そして島津吉洋というのは大将なわけですけれども、それの老いっ子に島津豊久っていうのがいたんですね。この豊久は自ら心狩りを引き受けてそのスナイパー戦術の指揮をとって、ここで死んだというふうに伝わってます。その日があるんですね。
この関ヶ原の平野の南の端っこだね。 そうなんです。ここでスナイパーでもって狙撃したっていうんです。なので島津軍としても非常に大きな被害を受けてて、そうですよ。てかましろ全滅しなかったのが奇跡なんだよね。
800何人だかいたっていうのも、もう数十人しか帰れなかったと。さつまりはね。というふうに言われて、その犠牲者は主にこの宇東坂のあたりで多大な犠牲を払いながらここで心狩りで食い止めたというんです。なので当軍にはほとんど対象レベルで打ち取られた人はいないんですけれども、この最後の最後になって島津にやられたんですね。
なんなんだろうな。なんか巻き込まれて、ただ帰りたかっただけなのに、その対象レベルを打ち取ってしまったっていう。なんとも。
ただ島津はやっぱプライドがすごいんですよ。なのでただ逃げ返るだけは絶対したくなかったと思います。だから一回当軍を脅して、本陣にまで切り込むくらいの部位を見せた上で堂々と逃げて、しかも敵と戦いながら逃げるっていう、誰もが絶対不可能だと思った上人の発想にないことをやったんです。
まあでもそっか、ただ帰るだけだったら西に行けばいいんだもんね。 そうそう、西に行けばいいだけなんですよ。ただわざわざESの岸前にまで攻めてきた上で逃げてたんですよ。 そっかそっか。不思議、異色だね。
異色です。さすがは島津という上人の考え方をしないんですよ。っていうことが起こったんです。 ただこれがね、さつまはやとたちからすると誇り中の誇りなんですよ。つまり島津は西軍ですよ。だから当然罰られるべきなんですよ。ところが島津は原報されなかったんですね。なぜかというと徳川も島津はさすがにやばいと思う。
鹿児島で黙ってるならいいんだけれども、もし九州の諸大名、東軍大名が我が薩摩に一歩でも入ってきたら、もう全員が死ぬまで戦いますみたいなことをね、逆に脅迫してきたんですよ。 それはさすがに第二の大戦争が起こる。島津なんてもう上人の部類じゃないから。
全員で家康も分かったじゃん。減らさないなら黙ってるんだなと。従うんだなって言って島津は領地を減らされずにそのまま残った。それが薩摩藩です。 これがだから家康の留守を守ってねっていう約束をちゃんと守れてたらどうなってたんだろうな。
島津は東軍に着いたでしょ。ただ一方でその場で死んだかもしれない。要はその守ってねって言われてた城は石田三成が何十万人包囲されて死んでるんですよ全員。だからなんで家康が島津をその場に呼ぼうとしたのかもね、いまいち消せないんですね。だからやっぱり何かの行き違いがあったのか。それが薩摩藩守ってねって言ったんじゃなくて、ちゃんとあいつに一緒に来てねって言いたかったはずなんです。
そしたら島津は喜んで東軍に来たでしょ。慣れ寄りの戦力になったと思います。 なんかすごい分岐点でもあるなって感じがするね。 そうなんですよ。それはこの関ヶ原の戦いのターニングポイントでもあったんだけど、日本の歴史のターニングポイントでもあったんです。この島津がのき口をやったということ。
何が起こったかというと、つまり薩摩藩は残ったんです。その上、島津に対しては徳川は一番の敵だと思う。仮想敵国だと。だから薩摩藩に対しては一番の警戒を払ったんです。その流れから最後、高森とか大久保としみちが出てきて、さっき同じ政軍についていた毛利と組んで薩長同盟で結局明治維新を成す。というのもやっぱり薩摩というのはとにかく武勇の家。徳川は権威はあるかもしれないけど、いくつだったら薩摩藩が強いというプライドが常にあった。
それはこののき口を見てもわかる通りだと。この鹿児島の皆さんの賢明騎士というのは今でも本当に残っていて、何よりの証拠になるのがですね、びっくりするんですけど、この現代においても、毎年夏になると鹿児島県日亡騎士というところから有志の中学生と学生さんたちとかが中心となった何十人かが関ヶ原までやってきて、
島津義博の陣と豊範の日を祀った後に徒歩で大阪まで帰るのき口を再現踏破するっていうのを毎年やってるんですこの人たち。
すげーそんなに残ってるんだ。 ちょっとそのニュースも参考リンクに貼ってあるので見てみましょう。関ヶ原戦跡踏破隊というね、島津勢の退陣退路を二日間かけて踏破します。
試練克服の感動や支え合い、隊員会の友情を培え、人や自然に感謝の心を学びます。というね、みんなこの背中を見てください。この家紋ですよ。丸の十字の。鹿児島県日亡騎士ですよ。ここから来るんですよみんな。日亡騎士というのは吉博の出身地です。
チェスト池っていうね。 ほんとだ。 われわれホークさん川崎胸取さんの合言葉ですよね。さつまのね。こうやってみんな歩いてくるの。こうやって傘かぶって。丸十字の傘をかぶって。
すごいな。 でこうやってみんな吉博と豊さんのところにもう出るわけです。吉博は死んでないんですけど。で、大阪までね。大阪城まで踏破するのがね。やってると。
これをなんと65年間ずっとやり続けてるんです。今年は66回目です。すごいんですよ。島津というのは。ちょっと尋常じゃないんですよ。
で、このね島津義博の陣の近くにはこの踏破隊たちのね石碑が立ってます。最初に始めた時から踏破した人の名前が書いてあるんです。それでみんなそれが島津義博の陣の周りを囲むようにしてね。立ってるんですよ。もうさつまのプライドの結集ですよね。
なんかそれ見るともう島津軍がもう今でも増えてる感じ。 そうです。やっぱ苗字を見るとみんなやっぱ島津の家臣たちにいたなっていう。やっぱ鹿児島の苗字の人たちが多いんで。
まあすごいですよ。島津というのはちょっと尋常のものじゃないんですよ。 はあすごい。だからある種もう島津軍が今にもいるみたいな感じだよね。
だから軒口をやったことによって島津軍たちのね薩摩藩のプライドというのも大いに起源が上がって幕府何するものぞの多分ね不当もあったでしょうし。一方で徳川からしたら家康にとって最後の心残りだと。島津は潰せなかった。しかも軒口とかいうバカみたいなパフォーマンスもやられてうちの家臣の子どもも死んだし。
っていうのであの島津だけはいずれ徳川が滅びるとあいつらのせいだから何としても島津を抑えつけろと言うんで無理矢理にしても島津をどうにかして懲らしめなきゃいけないってことで江戸時代300年が続くわけですよ。
いやでもやっぱそこの威風を考えちゃうな。 東軍についてたら。 そう東軍についてたら現代も変わってるかもしれないしね。 変わってると思いますよ。もしかしたら徳川幕府はまだあったかもしれない。薩摩藩は倒そうと思わなかったかもしれない。
薩摩藩のアイデンティティ
すごい分岐点だな。 すごい分岐点なんですよ。というのも現代にもこれが語り継がれている物語なんですね。ということでここでちょうど関ヶ原の戦いが終わりを迎えたということで我々の旅も観光としてここで終わりにしたいと一回思うわけです。
関ヶ原から離れるわけですけれども今日の宿は大垣にとってあります。大垣というのは先ほど申したように西軍の本陣が当初あったところですね。岐阜県下第二の都市になってますのでここに泊まってみたいと思うわけです。
島津豊之さんの日、宇東坂ですね。から車で25分ほど東へ行ったところに大垣駅があります。大垣というのもそういうわけですごい都会ですのでホテルに困ることはありえません。のでここでビジホレ撮ってください。そこに車を置いてチェックインをしましょう。
大垣駅の旅もちょっと紹介したいところがあるので行きたいと思います。大垣駅から大垣城の方南側の方です。に歩いて行ったところが昔の城下町になって今の繁華街になってます。大垣駅からだいたい5分ぐらい歩いたところにあるのが五巻山です。
なんか創作和食な感じがするね。 まさにですね。ちょっと前日岐阜市は洋でまとめたのでね、大垣では和を食べたいと思います。 いいな。上品な感じがしますね。 上品な和食ですね。
これうまそう。 これうまそうやね。アスパラですねまたね。ここもやっぱりね岐阜県の食材、特にやっぱり山の幸ですよ主にね。野菜ですとかそういったものをね食べれるわけです。
一方でねメニューをちょっと見ていただくと、
なんか岐阜県らしくないものがあるのわかりますかね。
越前卸そば。だし一番ちょっとね名物がなぜか焼き鯖寿司というね。つまり越前若狭の料理なんですよ。
なんでこれちょっとテンションの方に聞いたわけじゃないんで、僕の想像でしかないんですけども。やっぱりね関ヶ原のこともやっぱり僕本当に思い合わされるんですけれども。
関ヶ原ってなんでそこが要所だったかって、北国海道、北陸からの道ですよね。と中銭道。と伊勢海道、島津が逃げた伊勢海道です。
要は東西南北の交差点なんですよ。でやっぱり大垣っていうのはもうこの北国海道とか関ヶ原方面に近い街なので、ギフトクラブって。
北国のねこの北陸の文化も結構入ってきてるんですよね。街の中にもね。なんでここにもそういうのが現れてるんじゃないかなっていう気がします。
なので今回夏の想定ですので、卸そばなんてなおさらいいんじゃないかっていう気がしますね。シメの一杯で。夏野菜とか、あゆもこの季節だと思いますので。
夏を恵みをいただいた上でね、この最後は卸そばで越前で以前食べましたけれども、シャキッとシメるというのもね一つ大垣ならではのポイントかなと思います。
で最後にもう一軒ね行きたいお店があるんですけれども、それがですね5巻さんから5分ほど駅の方に戻っていきます。
お店すぐ近くなんですけれども、ジレフというお店です。
時のリ・アール・イーの風と書いてね、ジレフなんですけれども、ここどんなバーかわかりますかね。
全然わかんないんだけど。これ今インスタを見てるんですけど、お店の画像が一個もないのよ。
歴史をすごくインスタだと載せてますね。
歴史バーです。歴史好きの方がやってる歴史オタクが集まる歴史バーなんです。
へー。なので今回のテーマにぴったりだと思いまして、ご紹介をさせていただきたいと思います。
そんなのあるんだね。
あるんですよ。なかなか珍しいと思うんですけれども。
何がすごいって、バーなのでね、カクテルとかもいただけるわけなんですけれども、これがカクテルメニューの撮影したものなんですけれども。
おお、え?
歴史的カクテルバーの魅力
これメニューだと思えないんだけどさ、戦国っていうジャンルがあってね。
関ヶ原東軍、関ヶ原西軍っていうね。
関ヶ原東軍は、ブルー、グレープフルーツ、トニック、だからカクテルになってるわけだね。
はい。
面白いなあこれ。
他には幕末っていうジャンルがあったり、三国志っていうね。
うん。
諸葛四天とかね。
そう。
へー、面白いね。
そうなんですよ。これね、見ての通り、歴史の人物に着想を得た創作カクテルをね、作ってらっしゃるんですね。
へー。
で、名前もちょっと、パロディーが結構あって。
はいはい。
別のメニューで、とんでゆきむら、甘く毒眼流。
これ三大英雄ですね。
もとちか、うみえ。もとちかってのは、蝶争壁もとちかです。
はい。
本能寺、事故。
進撃の地部。地部ってのはこれ、石田三谷のことです。
どこかで聞いたことあるタイトルがいっぱいあるわけなんですけれども。
へー。
こういうね、すごく面白いユニークなね、歴史創作カクテルをね、出されている場なんですね。
面白い。
めちゃめちゃ面白いですよこれ。
うんうんうん。
なので当然ね、もう関ヶ原の話がめっちゃ盛り上がりますし。
うんうんうん。
日本全国、いろんな歴史のね、お話ができるわけですね。
さっき三国志もあったからね。
そうそうそうそう。
国外も含めてと。
はい。世界史も含めてです。
うんうんうん。
へー。
っていう場が大垣にあるんですね。
面白い。
めっちゃ面白いですここ。
へー。
いやだから、俺みたいなさ、全然詳しくなくても、ちょっとでも興味あったら行ってみて、
このカクテルの名前ってどういうことですかみたいなね。
そうそうそうそう。
教えてもらうのもいいかもしれない。
いいと思います。もちろんもちろん。
へー。
はい。
面白い。
めちゃくちゃ面白いですこのお店。
うんうんうん。
うん。
なので今回はやっぱり歴史好きの方にはね、ここはマストだなと思いまして。
確かに。
はい。
素晴らしいお店があるんですね。
歴史好きだったらいろいろね。
めっちゃ面白いですよ。
語り合えんだろうなー。
だしそのパロディが何か、そのなぜこうなのかもよくわかるんですよ。
あーなんか繋がりがある。
繋がりがあるかとかね。
うーん。
これだから関ヶ原だからこそあるのかもしれないね。
そうだと思いますよ。間違いなく。
関ヶ原で観光する人が大垣に来るパターンめっちゃありますから。
そうね。
はい。
うーん。
これインスタ見ててもね、この島津の家紋の画像がわかってたりするね。
そうなんですよ。
するしね。
ただね、歴史的じゃないと楽しめないとかそういうわけでは全然なくて、
実はここね、同時にすごいポイントがありまして、
めちゃくちゃ豊富なウイスキーバーでもあるんです。
へー。
カクテルはそういうわけで、今のような創作歴史カクテルが主になるんですけれども、
ここの方ね、ウイスキーにめちゃくちゃ詳しくて、
へー。
このようにもうね、
あーすごいわ。
絶版になってる。
つまりもう生産が終わっているプレミアムウイスキーとかも、
この貯蔵庫に取ってあるんですね。
へー。
でももちろんお値段はなかなかなんですけれども、これも飲ませていただけるんです。
へー。
うん。
へーすごいな。
だからまあ本当にバーとしてもそもそもすごいんですけれども、
歴史的だとさらに遊べるっていう、そういったバーになってるんですね。
へー面白いな。
ここはね、本当になかなかマニアックですけど、まあおすすめのお店です。
うん。
関ヶ原の観光スポット
興味あればぜひいただきたいね。
そういうことですね。
はい。
でね、ここでねもう夜、僕ももうこれ何時までいたかな。
もうお店閉めるぐらいまで、2時ぐらいまで最後にいたと思うんですけど、
あまりにも楽しくって。
はいはいはい。
はい、居させてもらいましたね。
なのでまあここでもう心ゆくまでね、飲んで楽しんでいただいて。
語ってね。
語っていただいて。
そしてもうその近くのホテルに帰って、この日を終了にしたいと。
はい。
はい、思うわけです。
それでは2日目を振り返っていきましょう。
ギフ駅近くのホテル泊まっているところを朝9時頃チェックアウトします。
そこから徒歩5分ほどスピーチバルーンさんですね。
まあ名古屋のねイメージが強いかもしれないですけど、モーニングをねこちらでいただきます。
はい。
そしてここならではのモーニングとして特筆すべきなのは茶碗蒸しと。
そうです、ギフ氏ならではですかね、ギフならでは。
ですんで、まあ珍しいね茶碗蒸し付きのモーニングをね、ドリンクプラス80円でつけてくださるので、
もうぜひねこちらでモーニングをまずいただきます。
そこから徒歩5分ほどギフ駅の近くでレンタカーを借ります。
そこから来るまで40分ほど関ヶ原方面に向かうわけですが、まず樽井町に一度寄るということですね。
樽井町歴史民族資料館。
まずなぜ樽井町に寄るのかということですが、関ヶ原の想定していた戦場はこの樽井なんじゃないかということなので、
もしかしたら戦場であったかもしれない、樽井の歴史だったり種族だったりね、そういうものをこの資料館でまず見るということですね。
ちょっとね余談なんですけど、樽井町今回も飛ばしてしまったんですが、竹中茂春阪米ですね、竹中阪米だったりのお墓があるところもありますし、
竹中市はその後関ヶ原で無事に遠くに逃げられましたので、残ったんですね。明治時代までずっとここを収めました。
その陣野の門とかも残っていてね、ありますので、もしそういった視点に興味ある方はそちらも行っていただいていいかと思います。
なるほどね、その竹中家に興味がある人はこの樽井町をぜひ見に行ってもらうといいかなってことですね。
そこから来るまで5分ほど南宮大社、関ヶ原の拠点の一つであったということですね。
神社としてもすごく荘厳な立派な神社ではありますが、南宮さんがすぐ後ろにありますので、
戦場であったらここでどういう戦いがあったのかみたいなのを想像することができるということですね。
そこから来るまで15分ほど関ヶ原の方についに入っていくわけですね。
その前の花ごしらえということで未来食堂に行きます。
ここは地元の関ヶ原製作所という企業が運営しているカフェレストラン。
ここ未来食堂がある場所は関ヶ原人間村という一個の施設の中の食堂に行く。
こちらでパスタだったりスイーツだったりカフェメニューみたいな感じですかね。
地元さんの食材をふんだんに使っているということですので、こちらでランチをいただきます。
そこから来るまで5分ほど岐阜関ヶ原戦場記念館。
わりと新しくリニューアルをされて関ヶ原がどういう戦いだったのかっていうのをまず知るにはいい記念館ということですね。
シアターでまず関ヶ原を体感することができる。
知識としてというよりかは、わりと戦場を体感して、最後には展望室から戦場を見渡すことができる。
そこから来るまで3分ほど笹尾山石田三成陣跡ですね。
西軍の総指揮官という感じですかね。
石田三成の陣の跡を見に行くと。
総指揮官の陣跡ですので、柵があったり旗が立っていたりということで、より臨場感を持ってこの戦場を見ることができるんじゃないかなと思いますね。
そこから来るまで7分ほど大谷義次陣跡。
大谷義次はもともとは東軍になびいていたわけですが、石田三成との友情を取って西軍に着いて、
本当にその要となる場所に陣を張って石田三成を守ろうとしたという陣跡ですね。
小林川軍の山を見えたりとか、いかに重要な場所であったのかというのが実際に立つとわかるかと思います。
そこから来るまで5分ほど島津義輝陣跡。
西軍の中でもちょっと異色ですね。
不思議な動きをしたこの島津義輝の陣跡に行くと。
ここから来るまで7分ほど島津豊久比宇東坂に向かいます。
この島津義輝が先ほどいた陣跡からこの宇東坂のところまで奇襲をかけつつ逃げる道にね。
この島津豊久はこの場所で何とか東軍を食い止めているというね。
この道をたどっていくとこの島津軍の不思議さを追っていけるんじゃないかなと思いますね。
そこから来るまで25分ほど大垣の方、ちょっと東にね戻る形になりますね。
大垣駅の近くの宿にチェックインをします。
そこから徒歩5分ほど五巻さんですね。
粗作は食居酒屋という感じですね。
地の野菜だったり時期によってはあゆだったりね。
あとひらぎゅう。
あとはその北の方の越前の文化も入ってきているね。
だからもうここ大垣っていうのが街道のね交差点であったっていうのが食べ物からも分かるという形ですね。
そこから徒歩5分ほどチレフさんですね。
珍しい歴史バーという感じでカクテルの名前にも歴史のね東軍というカクテルがあったり西軍というものがあったりね。
他にも時代世界を越えてねいろんな歴史にまつわるカクテルがあります。
あとはそのウイスキーもね無難に取り揃えてらっしゃるということなのでバーとしてもね楽しむことができるということで。
ということでこちらでその歴史カクテルをいただきながら思う存分語っていただいて。
そこから徒歩5分ほどでホテルに戻りまして2日目が終了ということですね。
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そして我々のマイマップ、年表、ノートそれぞれありますのでご参考に見ていただけると嬉しいです。
ここでお知らせがございます。
11月30日日曜日みんなのポッドキャストフェスというのが沼津で開催されます。
こちらで公開収録をしていただけるポッドキャスターの方を募集しております。
対象は地域の人物ことを発信するポッドキャスターの方です。
そんな話してないっていう方もいるかもしれないんですけど、自分のこととかあるいは自分の出身地とか地元自慢的なことでも全然大丈夫ですよね。
なので普段そういう発信じゃない番組の方でもそういう感じの話をしてくだされば全然OKという感じですね。
コラボでの利用もできるということですから知り合いのポッドキャスターの方を誘ってとか。
もし我々で良ければ全然コラボしますからご相談いただければという感じですね。
参加費は無料。
当日機材としてはマイク、ヘッドホン、スピーカー、完備と。
ここで収録したデータは後日お渡しして自由にご活用いただければということですね。
当日はボランティアスタッフの方がサポートをしてくださいます。
美濃の歴史を探る
そして機械室としてポッドキャスターの交流スペースもございますので結構手厚いというか。
手厚いですよ。
無料でエントリーすればやらせてもらえるってすごいよね。
手ぶらで収録できるってことですね。
無料でね。
そういうことです。
音源も自分の番組にも使わせてもらえるしこういった交流スペースでステッカーとかも置かせてもらえるから自分の番組を多くの人に知ってもらえるすごいいい機会になると思うし。
実際去年も我々参加させてもらってすごく我々のことも新米なのに知ってもらえましたもんね。
楽しみですね。
ここでしか多分できないですからね。
こんなオープンエアで公開収録して周りから見てもらいながらみたいな。
エントリーがね10月31日までってなってるんですけどこれ先着順ということでね。
もうなんとなく結構集まってるという噂もちらっと聞いたのでですね。
もし興味ある方はすぐに応募していただいた方が本当にいいと思います。
なくなっちゃう可能性全然あると思うんで。
そうですね。
ぜひぜひお早めにエントリーをしてください。
もう俺の頭はパンクしてます。
川中姉妹以来の衝撃。
いやでもこの関ヶ原ってやっぱりその大きなね東軍西軍の戦いっていうのは皆さん知ってるかもしれないですけど。
その中でもどういう戦いがあったのかとか。
それぞれの家がどういう動きをしてたのかっていうのをこの戦場を巡りながらね。
辿っていく感じですね。
これもね本当に今回の物語となる時という意味で言うと。
シンプルに言うと僕一番好きな歴史小説があって。
それがね柴田太郎さんの書いたね関ヶ原っていう小説があるんですよ。
これもすごく良くて。
国取物語が道さんっていう一人のね人生を骨太に変えていったのに対して。
関ヶ原は徳川方石田方あるいは島津なんとか官とかっていういろんな人の群蔵劇を。
いろんな視点でこう最初やっていって。
3巻にわたってやるんですけど最後の下巻の最後の瞬間まで。
いろんな人の群蔵劇があってみんなの思惑がだんだん分かってメンバーが揃った段階で最後その決戦があって。
そして石田三谷が最後斬首されるまでのねことをやるんですけども。
この小説僕小学校5年生の時これ読んだんですけど。
すっごくハマってそれから読書が好きになって本を読むようになったんで。
それも本読んでもなかったですよあんまり。
くらいほんと人生を変えた読書でした。
今でもだからやっぱこの子に行くとねその小説のこと思い出しますね。
柴田太郎さんのやっぱり作品っていうのは本当にすごいなって思います。
なんで今日は全然話せなかったんですけどもいっぱい古戦状が散らばってるんですよ。
他の家もいっぱいあるわけですね。
ぜひね興味ある方はね赤ヶ原っていう本もね今でも全然新刊でたくさん手に入りますから。
小説読んでいただけるとねいいんじゃないかなと思いますね。
読書と歴史の関係
その赤ヶ原に関してはそのまあ同じ感じだよね。
歴史の史実にのっとって。
でもまあ確かに脚書もそうです。
そうですね。
ただよりこう同産一人ぐらいの内面に入っていかないで。
神の目線から歴史。
主人公はね誰かと言うと難しいんだよね。
もうその秀吉が死んでから三谷が死ぬまでの2年1ヶ月がっていうその時代が主人公なんだよ。
その時代そのものがどういうものなのかっていうことを描いた話なので。
小学生ぐらいの読書遍歴だと多分存在しえなかったこれまでのパターンなんですよ。
視点がね。
主人公とかじゃない視点が全然違うんだよ。
でもそれをねしばりお太郎さんはちょうど国取りと並行して連載してたぐらいなので。
すごいかけ分けてたんですよね。
一人はもうね一人の人生なんで骨太のね。
少年漫画的な。
もう一つは本当に大人の本を。
だから僕はその赤ヶ原は本当にハマりました。
今でも何回読んでもいっぱいいいし。
どうしてもねいつも小田原から関西へ行く途中は岐阜羽島を越えるともう窓をずっと見てます。
それは赤ヶ原の古戦場を通るからなんですよ。
新幹線が。
旗もよく見たら見えますから。
もし今度大阪行くときねチャレンジしてみてください。
ここが古戦場かってバーって見えていくんで。
一瞬で終わりますけど。
狭いもんね。
そうかだから読む人によって主人公が変わるかもしれないね。
そうそうそうそうそう思いますよ。
ということで。
この3日目はじゃあまた別の瞬間を見に行くっていう感じですかね。
そうです。
そしてねこの赤ヶ原の話をなんであんなに島津の話を強調したかっていうと。
3日目の伏線なんですね。
3日目に江戸時代に起こった幕府と島津の話をねちょっとこの大垣のあたりでしたいと思って。
これがすごくねまた大きな歴史の転換点になった。
じゃあその時代をまたいでまたこの付近で大きな分かれ目が起きる。
なのでぜひ2日目から必ず3日目を聞いてほしいなと思います。
なるほど。
ということで次回もお楽しみに。
今回はこの辺でありがとうございました。
ありがとうございました。
今回はこの辺でありがとうございました。
ありがとうございました。
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