大人になりたい旅がしたい。このポッドキャストでは、旅行とお酒が好きな同級生2人が、大人だからこそ知りたい、ちょっとディープな国内旅行のモデルコースを紹介していきます。旅のお供はこの2人。
旅がいきがいの旅行ガイドブックの編集者、はるやです。 ディープな旅がしたいけど知識がない旅行初心者、内田です。
旅がいきがいの旅行初心者、内田です。
はあ、とんてき、作ったことないな そう
そう、まかないチャレンジのYouTubeの、結構ねトップの方に出てきたと思うんだけど
これが下町のステーキだっていうね、とんてきっていうのがありまして ああ、なるほどなるほど、はいはいはい
それやったらね、めちゃめちゃうまくて あっそう?
うん 味付けどんな感じなんですかね?
味付けはね、どんなんだっけな、ちょっと見るか
豚ロース152?あ、なるほど、醤油、酒、みりん、あ、でも誰でも作れそうなもんですね そうそうそう
作り方はね、そんなに大変じゃないですよ、あのタレ作って焼いてみたいな感じ なるほどね
だから、そんなに難しくないんだけど、まあね、うまいね へえ、いいっすね
ああ、いいね、そうか片栗粉をまぶして焼くのがコツなわけだね そうそうそう
それでね、やっぱちょっと柔らかくなってて そうですよね
で、そのタレも絡みやすくなってるし、うまかったこれ いいっすね
確かにボリュームもそれにありそうさし、ご飯にも合いそうだしね、味付けとかにね そう、めっちゃ米進むの
ですよね、いいじゃないですか、しかも焼くだけと言ったら失礼だけどさ、でもまあ焼くだけでしょ でもそうなの、ほんとに、これがうまくてね
へえ、いいな、いいな、これやってみようかな、すぐできるの うん、すぐできますよ
巻かないチャレンジめっちゃいい ですよ、これいいよね
この隊長もね、いいんですよね そう、キャラクターがいいですよね
作るぜ、あれがいいですよね
ぜひね、今度また向こう島にリベンジしてもらって お店自体がそもそもすごいうまいんで
お店俺行けなかったからね、っていうね、ちょっと俺も料理熱が最近ちょっと高まってるっていうね
どうですか、また各県の郷土料理やってみるとか、ポードキャストのね
なるほど 僕、ケイちゃん家で結構作りますけど、あれうまいっすよ
ケイちゃんもね、楽そうだよね うん、味噌とお酒とっていう感じで、中華風にもできるし
あれもだからすごくご飯も進みますから 確かになんかアレンジもしやすそうだし
しやすいしね、だからスペイン風にもなるわけだしね そうだよね、ちょっと毎回は多分できないと思うけど
なんか気になるのあったらやってみようかな うん
ということで、今回は香るる風に酸があり、物語となる時を尋ねての3日目ということで
前日はね関原の古戦場を巡っていって、いくつかのね家の話を巡っていったという感じですね
で、その中で結構ね印象的だった島付にこの3日目は迫っていくと
そうですね、島付系自体はもちろん鹿児島とかね、それこそ宮崎とかが本拠地なので
あっちに文化が残っているんですけれども、実はね美濃にはねもう一つ島付にまつわる史跡があって
そのエピソードをねちょっとお話しして、そこからまあこの物語となる時は何なのかということをね
なぜ美濃にこういうことが起こるのかということをね、ぜひ考えてみて
そして美濃はその後の日本をどう変えてしまったのかということをね考えてみたらいいかなと思いますね
なんか不思議な因縁がある感じがしますね
じゃあ3日目紹介をお願いします
前日ですね、岐阜県第二の都市である大垣市の中心部、大垣駅の近くですね
の宿に泊まっているという想定でおります、せっかくなのでこれもね朝ごはんスポットを紹介したいと思いますので
朝9時頃にチェックアウトをしたとして、そこから徒歩5分ほど大垣駅の中に入っているお店を紹介したいと思います
目指すのはお惣菜プラスバル美濃美食、アスティ大垣店です
バル?朝からバル行くの?
はい、我々行ってますこの店
ここで日本酒飲んで岡田くん以外みんな日本酒飲んでました
後で写真ファイル見返してみてください
瓶の量がすごいな
これに朝行くの? そうなんです
ただね今回車がありますので飲めないわけですね、運転席の人はね
朝ごはんをここに食べに行きたいと
内田が見るからね酒に惹かれるわけであって
これそもそもお惣菜が最初にありますから
見る人って顔も違う、僕はねちゃんとお惣菜しか見てなかったのに
いや待ってこれ写真がね瓶ばっかりだよ
確かにちょっと酒引きな気がしますね、この公式の写真がちょっとね
このお店はねどういうところかというと
駅の中に入っているお惣菜屋さんでもあるんですけれども
大垣に生まれた会社さんらしいんですが
この大垣に生まれてみののね味わいというのを徹底的に表現した
もう名前からしてみのみしょうなので
お米もね岐阜県のブランド名初霜というものを作ったりとか
卵もね岐阜県産の濃厚な味わいの卵を使っている
そしてねそれらを炊く水ですね
もう大垣のねおいしい沸き水
あの大垣ってね水の都なんですよ
市内はねやっぱり川が近いからなんですけども
細いのがいろいろ張り巡らされてて
その中を船とかが観光船みたいに生き返るんですね小さな船がね
なので本当にね水の都として有名な場所なので水が綺麗でおいしいんですね
でね朝ごはんで何を食べれるのかということなんですけれども
お惣菜はその場で買って食べてもいいんですが
朝ごはんの定食としておすすめなのがですね
里の卵かけごはん定食というものがあるんですね
そうか卵もねさっき言ってましたもんね
そうですそうです大垣の水で炊き上げたフランド米のはずしもに
岐阜県産の卵をかけるという卵かけごはんに
小さな小鉢のお野菜のお惣菜とかがいくつかついて
そしてお味噌汁がねつくというね
本当に朝の和の定食という感じなんですね
でやっぱりおいしいんですよ
まあそうだろうな
卵かけごはん俺あんま食ってないな最近
そうね
意外とねやんないね
意外とやんないね
たまにやっぱりこういう旅先とかで
特にやっぱりおいしいところの卵をねいただくとやっぱ嬉しいですよね
いやいいないい朝ごはんだな
まあコンセプトとしてもね
頭と体と心においしいというね
コンセプトでミノの食材を使うっていう地産地消にすごい特化したね
すごくいいお店です
ちなみにコンセントとかもあったので
テレワークの方とかも迷惑にならない範囲でできるんじゃないかと勝手に思ってはいたんですけど
いやいいですね定食で始めるっていう
ただ地酒やワインおよそ15種類も揃っていることから
バルの利用もできると
我々は何年か前にそれを実際やったわけですこの店で
昼過ぎに行ったのでね
お昼ご飯食べながら多分この飲んだんだと思いますね
やっぱり西見野もね岐阜とはまた違う文化圏の食材があってね
それはそれですごいおいしいのでね
お酒なども是非召し上がっていただいてもいいのかなと
車運転しない人はね
そうね
思います
朝からね
朝から
ということでねここで朝ご飯をいただきましたら
午前中は大垣の市内をね観光したいというふうに思います
そういうわけで大垣市というのも非常に岐阜県の中でも大きな町です
かつね岐阜市が戦国時代はまあともかくとして
江戸時代には城下町ではなかったという話はしたと思うんですが
大垣市は烈気とした城下町です
ということで大垣駅から徒歩7分ほど行ったところにある
大垣城を見学したいと思います
すごく綺麗な天守閣ですよね
四層でね反り返しもすごい綺麗
その周りに桜が咲いていてね
座日本のお城という感じでしょうか
そうだね
これはね石田三成が関ヶ原の戦いの時にね
西軍の本陣に当初はしていたところというのを話はしましたが
戦国時代からもう本当に大垣というのは幼少中の幼少でした
西人における最大の幼少です
で斉藤道さんもねこの大垣というものを非常に苦労して手にしたりとか
そんな話もあったりしますが
そういう場所なのでねやはりここを治める人物はね
徳川家にすごい近い人物が治めていました
三河以来の不大の家臣がね主にここに入ってきて
その不大の家臣戸田氏というんですけれども
彼らによって近世の大垣城としてこのお城は建てられました
この天守閣ね非常に綺麗なんですけれども
現在のものは残念ながらね江戸時代のものは残っていなくて
昭和時代の戦後の再建なんですが
実はねこのお城はね大変惜しいことに
1945年まで残ってたんですね
戦争のね空襲によってね失われてしまったお城なんですよ
なんか残念だね うん残念ですね本当に
なのでねもしその戦争さえ乗り越えていればね
現存12天守のさらにもう一つのね
13個目の天守におそらくなったであろうお城なんですね
ただまあそういうわけで江戸時代を経てもね
ずっと残っていた城でしたので
当時の姿が忠実に再現されているものになります
そうか最近まであったからね そうですそうです
岐阜城は模擬天守なのであれは想像のイメージのやつなんですけど
これは本当にあった城をそのまま再現したんです
なるほど はい
なのでそういう意味で歴史的価値でもね
非常に高いお城になっているわけです
中に入っていただくと歴史の資料館があります
そういうわけで戸田氏を主にした大垣藩のね話もされることながら
やはりね歴史ファンの間では
関ヶ原の戦いの西軍本拠地だったという話はすごい有名なことですので
確か展示室が何回かに分かれているんですけれども
そのうちの真ん中の回だったかなは関ヶ原の戦いの話にも収支しています
なるほど はい
なのでちょっと順番は前後してしまうんですけれども
合戦が起こる前の時に石田三成が何を考えていたのか
そこで島津となんか喧嘩したりとかしてるんですけれども話があったり
そしてね前回のね宮崎の時に高鍋藩という藩の話をしたと思うんですよ
そこの領主が秋月というね領主で
元々福岡にいたんだけれども宮崎に来たという話があったと思うんですが
宮崎の一日目の高鍋藩のねパートで多分話したと思うんですけれども
秋月はそういうわけで西軍でした
秋月とあと延岡のお城を作った高橋というこれ兄弟なわけですけれども
そういう九州の小さな代名を西軍でまとめてついていて
彼らは石田三成からこの大垣城の留守を任されてたんですね
なので関ヶ原には出陣しなかったんですがずっと合戦の間大垣城守ってたんです
ところが東軍勝っちゃったじゃないですか
で大垣城も当然攻められるわけですね
でもうそんな九州の小さい代名がいくらいたってもう敵うわけないので
どうするかとなった時に徳川方はもう無駄な戦いを避けたいので
この九州の諸代名たちに今このお城を開き渡してくれれば
あなたたちの命は取りませんっていうふうに誘いをかけて
秋月たちはそこでもうこれは従うしかないって言って
三成の親戚が大将にいたんだけれどもそれを騙して引っ取られてしまって
でこの土壇場で裏切ってなんとか命脈を保ったというような話がありました
それが高辺藩の起こりですね
というのを舞台になった城なので石川の戦いの後にもそういったエピソードが実は残っていたりします
そうかだから戦場にならなかったからこそっていうことだよね
そういうことですね
なのでその後でポッドキャストを聞いていただいている方は
宮崎の開花の関連も結構今回岐阜はあるなというのは見ていただけるといいんじゃないかなという気がしますね
大垣の城下町については本当に古式ゆかしいというか
そういうわけで戦争があったためにもう昔の建物はあまり残ってないんですけれども
城下町の文化というものは連綿と紡がれています
そのためそういうわけでお城の周りの掘りに水路が張り巡らされていますし
その間に小さな川がやっぱり水路としてあってそこを湧き水がコンコンと湧き入れていて
それを市民の方がペットボトルに汲んでいる風景とかもよく見られるんで
本当に水の都でね大垣市さんの公式サイトもスイートリップってありましたけど
そういったなので夏に訪れるとそういう涼しさも感じられるような場所になっています
なので水饅頭とか名物だったりしますので
そういったグルメも楽しめるかなという気はしますが
今回はですねちょっと別のスポットに行きたいと思います
大垣町からホテルに1回戻りましょう
ホテルに戻って車をピックアップします
そして車で5分ほどなので本当は歩いて行けるんだけれども
ちょっと今後の動線考えてここで車をピックアップして車で5分ほど
南の方に行ったところにあるのが奥の細道結日記念館です
なんか急に来た感じがしましたけど
ここで奥の細道は終着点というか
そうなんです
これね意外と知られてない事実なんですけど奥の細道って覚えてますか
えーとね岩手の甲州の1日目かな
で吉津根とかそこで戦った人たちをしのんで
夏草屋ってあの句を読んだっていう話はしましたね
はいおっしゃる通りです
松尾芭蕉という人が17世紀の後半に江戸から東北の方へ旅をした
というのが非常に有名で
多分古典の授業とか絶対やったと思うんですよね
大体それは夏草屋もそうだし静けさや岩にしみえる蝉の声とか
いろいろあるんだけれども
要は東北を描いた気候っていうことでみんな知ってると思うんですよ
ところが奥の細道って東北がメインではあるんだけど
実は江戸から福島を経由して太平洋側を1回行って
日本海側に移って日本海側から北陸の方を巡って
大垣まで続いてるんですね
で大垣が最終点になってるんです
じゃあなんで大垣なのかっていうことなんですけれども
これはですね大垣というのが非常に文化都市だったんですね当時の
松尾芭蕉というのは俳句の先生なわけですけれども
彼の門人たちがね実は大垣にたくさんいたんですよ
だからその知り合いたちに会いに行くっていう意味もおそらくあったと思うんですけど
そこで門人たちと会って旅を終えたっていうのがね
この奥の細道の最終章になってます
意外と知られてない事実がある
大垣の文化があったからこそここに芭蕉が足を止めたということもありますので
そういったものをね記念して作られた記念館です
でねここの展示はすごいんですよ
すごいこだわっててここ結構僕びっくりしたんですけど
ここのシアターがあるね
あのね多分奥の細道についてここまで詳しく解説してる資料館は
日本でここが一番だと思うんですよ
結びの地ではあるんだけど
もうなんせこの奥の細道の商談ごとに全部一個一個展示があって
ちょうど平泉のページが出てますけど
その原文からこうそれぞれの文に吹き出しが出てて説明がされてたりとか
本当に詳しく展示をされてるんですね
あとそういうわけですごい東北の自然を映したね
すごい映画みたいのもあったり
やっぱり俳句の方々がみんなこう関わってるので
真泉窓川さんってすごい有名な俳句の方いますけど
あの方が名誉館長かなってて
そういう施設の結構展示も開設されてたりするので
すごい失礼な話なんだけど僕も大垣って城下町のイメージが強くて
大垣城がやっぱ観光の目玉かなと思ってたんだけど
ちょっとここね意外と言ったら失礼なのがすげえなと思いました
すごいちゃんとしてますここの展示
本当だね松島平泉それぞれにパネルというかね
分けて展示がされてるっていう
だいぶ詳しそうだな
しかもねこの館については
場所館というのが松島場所に関するものなんですけど
もう一つね専権館っていうのが併設されていまして
これはねこの大垣だったり西見野に活躍した先人たちの偉人館になってるんですね
主に江戸時代の大垣藩に仕えた人たちのね
やっぱりすごい文化が交流した土地なんですね大垣というのはね
なのでそういう人たちの主に文化的な足跡というものをここで解説しています
それもやっぱりその街道が交わってるっていうのは結構大きいんだろうね
あるかもしれないですね確かにそう言われてみたらあるかもしれませんね
でねはい今ねここに一人見覚えのある名前が
さすがにこれは意地があるかな
我々ね先週高知に行っていたわけですけれども
その牧野植物園にね行ってきたじゃないですか
その時にね牧野富太郎さんが少年時代にね
あの酒場の名工館で読んで開眼した植物に辞書があった
それが飯沼玉斎の作った草木図説
この人が大垣藩の出身の人です
大垣の人ですこの人
そうかだからこれに影響を受けて牧野富太郎は植物にね
そうそうそう
植物にというか植物の図鑑に興味を持ち始める
そういうことですね
ちょうど飯沼玉斎さんね1783年から1865年ということで
富太郎は1862年の確か生まれなので
ちょうどギリギリ入れ違いぐらいだったんですね
だから彼の行跡の集大成みたいなものを
子供の頃の富太郎が読める環境にあったはずなんです
っていうね意外な繋がりがねここにあったりしますね
ということでねこの奥の細道だったり
この大垣西見野にいた先人たちの文化的なすごい濃厚な香りというのをね
よく留めている感になっていると思うのでね
ぜひ巡っていただければいいかなと思います
ちょっと早いんですが大垣はこの辺でダイジェスト的に回ってですね
本日はこの大垣からねちょっと南の郊外の方へ行きたいと思います
じゃあそれは一体どういう地域なのかというのを
はじめに地図でちょっと見ておきましょう
大垣がねそこにありますね
そこの南の方行っていただくと
海津市という市がありますね
今回巡るの大体ここなんですが
地形的にどんなところですかこれ
これ川がね集まってきてますね
これ基礎産線ってこと?
そうです
基礎産線すべてが集まった地域なんですね
もう本当にもう隣り合わせですよ
最初の1日目で見野の国というのは川の国だという話をしましたが
ここほど川の国の感じられる場所もなかなかないのではないかというふうに思います
なのでねここはね海津市の観光に主に移りたいと思うわけですけれども
小学校の社会の授業で和柱っていうのあったの覚えてませんか
あった気がする
なんだっけそれ
全然覚えてないね
何かというと要はこの辺り水資源豊富という良い面はあるけれども
何よりもまず考えなきゃいけないのはこの洪水対策ですよ
どう考えてもこれは
そうだねこんな川集まってたら気が気じゃないね
本当ですよねその中に島みたいにこの海津市はあるわけなんですよ
なので和柱というのは自分たちの住んでる居住区を土手みたいな包みでまず囲って
その中にさらにその石垣とかをちゃんと積み上げた高い建物を建てて
っていうこの基礎産線の中で生きる知恵を領収したいのが建築様式なわけです
それをちょっとね見てみたいと思いますね
奥の細道結びの地記念館から車で25分ほど南へ行っていただいたところにあるのが千代宝稲荷神社です
千代宝稲荷神社まあ1000の何代目市川断重郎みたいな代ですよね
に保つというふうに書きます
で千代宝稲荷これね地元のね皆さんおちょぼさんって言いますね
ここの神社のことを ちょっと縮めてね
言いますが千代宝稲荷神社が一応正式名称になります
ここはね海津西見野においてはすごい有名な神社になるんですけれども
そもそもは源義家という人物でこれはね頼朝の先祖にあたるわけで
王子藤原氏の成田地にも関わった人ですね
藤原の清平田の金色堂を建てた人とかと関わった人なんですけれども
その人たちが自分の息子にねこの見野の地を与えて分化させるとなった時に
源氏の統領ですからね義家はね
彼から宝物を分化する子供に分け与えたと
そして千代これ千代との永遠にという意味ですね
千代に八千代にって言いますけれども国家ね
それのことですねなので永遠にこの栄を保ちなさいということで
千代を保つで千代宝稲荷になったと義家がそう言ったと言うんですね
なので結局その義家の分化した子供たちの子孫が室町時代になって
義家由来のねそういった宝物とかを守るためにね
祠を作ったのがそもそもの始まりだったと
ふうに言われています
それがねちゃんと今まで続いてるからね
そうですね 今のところ保ててるってことですね
そういうことですね
でねこの千代宝稲荷神社自体もねもちろん優秀ある神社ですから
参拝をねしていただければと思うんですけれども
実はねここに来た理由はもう一つあります
それ何かというとねお昼ご飯食べに来たんですね
うん?神社に?
神社そのものではないんですが
実はこの千代宝稲荷神の周りは参道がねめちゃくちゃいい感じの中見せになってて楽しいんですよ
具体的に何があるかというのがね内田が好きそうな話をするんですけれども
まず一つはやはり美濃の国のね名物である川魚料理
これはねやはりこれまであゆとか食べてますけれども
生酢とかねそういったものの料理って結構実はあるんですけど
そういった昔ながらの名店もかなりあります
ただねこの辺になると実は美濃の中でも終わりの国に非常に近いんですね
そうするとねこの名古屋文化圏の食文化が入ってきてるんですよ
名古屋ってねいろんな名物ありますけれども
僕はこの千代宝稲荷行った時にねすごく楽しかったのがね串カツなんですね
ちょっと千代宝稲荷串カツとかで敷いてもらったらね多分出てくると思うんですけど
いくつか店があるんですよ
すごい大量に揚げて大量にタレにつけて
しかもねこれ面白いのがね
立ち食いだ
そう
立ち食い屋台がね2軒あったかなあるんですよ串カツの立ち食い屋台
なんかちょっと思ってる賛同と違う
そうそうそうそうなんですよ
面白い
なので賛同の途中に1本100円からということなので
これでねちょっと小腹が空いたくらいでも寄っていいと思うんです
川魚料理と全然合わせていけると思います
自分好きな分だけ食べればいいので
でそっから車で20分ほどのところにあるのが行喜寺です
実はね僕ねミノにはまったという話をね最初の方にしてますけれども
このお寺に行きたくてね岐阜に通い始めたんですよ
ミノに通い始めたんですよ
このお寺のとある風景を見てめちゃくちゃ心惹かれて
これ見てみたいって思い始めたところからミノに通い始めたんです
なんで実はこれ本当はこれを旅の締めにしてもよかったんですけど
配管時間が短いんです3時がね確か最終入場とかそれくらいのレベルなので
なのでね時間にはくれぐれも気をつけてください
なのでお昼食べたらすぐ行ったほうがいいと思います
でじゃあなんでそこまで僕はここが好きになったかということなんですけれども
ちょっとね画像検索してもらっていいですかね行喜寺
天望がすごいわ
このね畳敷のね和室からもう壁一面が窓みたいな感じ
そうなんですよ
ここから平和を見渡せる感じになってますね
そうです
これ気分良さそうだな
ここすごく良くてね
これねはじめに言うとすごい山の上にあるんです
なんで車じゃないとまず行けないと思った方がいいです
西ミノの方の養老山脈っていう岐阜県と滋賀県を隔てるような山脈が南北に走ってるんですけど
その山腹にあります
そして東を望んでいるんですね
なのでもう能備平野名古屋岐阜大垣の方が全部見えるすごいところなんですよ
でそれをね畳敷の額縁のように切り取られた広間の中からゆっくりね眺め渡すことができて
ミノを制するもの天下を制すと言われたほどのね
このいかに富裕な豊かなね土地がねミノという形で潤しているかというのはよくわかるんです
まず何よりこの青々としたね川と緑の風景が美しいことといったらこの上ない
ここから見るとそのね山泉が集まってるのも見えそうだね
そうなんです最初にここに行く意味はこれから和中を見るにあたって
いかにこの基礎山泉というものが大きくて雄大でその集まっているかっていうね
その地形をまずちゃんと抑えておきたいというねそういった意味でもあります
なるほどねこれはよく見えそうだわ
そしてねもう一つがねこれです
お庭がこの植栽かわいいね
こうねちゃんと丸く剪定されててねなんかポコポコある感じでかわいいね
そして向こうにね納庇平野がねあるわけでこの平野そのものを尺径にしてるっていうねすごいお庭なんですよ
そうだねすごく広く感じるわ
開放感がすごいんですよねこのね風がねすごく心地よく入ってくるんですよ
川にすずめられたね涼やかな風がね山の方に上がってくる感じがすごくね風通し良くて
それを受けながらこの平野をね見るっていうのはねすごい良いんですよねこのロケーションが
遮るものないもんね 本当そうです本当そうです
いやー気持ちよさそう
たまにねこういう風景から旅をすることあるんですけど似たような例で言うとね
随分前になりますけど阿波のね徳島の本楽寺あれと近い土地でねここを訪れました
いやいいなー本当にね山もないんですよね
そう一面の平野なんだよ
本当に空も広いし見渡すってこういうことだなって感じがするね
いいですね本当そうですね
でまあね失礼な話だけれどもここね人あんまりいないんですよねどんちに行っても全然
なのでなかなかアクセスが難しいところもあるんですけど
まあ穴場といったあれだけどでもここはまあねぜひこのポッドキャストならではの紹介したいポイントですね
すごくここ癒されますよなんか心から発達したいものがある時とかねぜひここいいんじゃないかと思います
でねちなみにこのお寺はねこの辺り一帯収めていた高須松平家という松平の徳川の一族ですけれども
彼らのね母大寺でもありましたので建物自体も高須松平家のね優秀あるお部屋とかが宝物が残っていますので
歴史的にもすごい優秀あるお寺ですそもそも凝器というのは奈良時代の構想ですから
1300年ほど前に生きていた人なわけですねでまあこのなんで凝器所作ったかっていうのも伝説によればね
この瞑に相次いでいる災害にねやはり心を痛めてその人たちの心の癒しとか
供養とかっていうものをね誰もが見渡せるこの場所にねその仏法があるようにということで作ったと
このあたりねどこか初日で紹介した消防士の義父大仏ともね何か近いモチベーションを感じるわけですが
やはりどうしてもね自然の猛威というものに晒されるのもまた一方でねあの水野の宿命だったわけで
まあね切実だろうなー そうですねやっぱり特に当時技術の発展していない古代なんかは多分多くの人がそれで命を落としたことなんでしょう
洪水とかによって そうだね っていうのをねおそらく考えてねこの業基寺というのを建てられたというふうに伝わっています
というところでまずノービヘイヤーの基礎参戦をしっかりとまず目に焼き付けていただく
そしてねそうしましたら実際にその和中の中に入っていっていきたいと思うんですね
業基寺から車で15分ほど行ったところにあるのが基礎参戦和中ミュージアムです
和中ミュージアムがあるんですよ このミュージアムね僕ちょっと実は運命的な出会いをしてましてちょっと大げさな話になっちゃうんだけれども
このコース何回かの旅行をアレンジしてこのコース200日になってるんですけれども
今年の3月に業基寺が見たいと春の業基寺が見たくなって行ったんです
そのとき大垣に泊まってね歴史場も行ったんですけれども
ところが五感山の中だったのかなあれがホテルの中だったかちょっと思い出せないんですけど
3月の20何日に僕が大垣に泊まってるんですが地元の新聞紙に載ってたのをちょっと見たら
ついにオープン基礎参戦和中ミュージアムとかってなんか豪快的に書いてあって
なんとね僕の行ったその土日がねこれのリニューアルオープンのその日だったんですね
でよく見たらこの話ちょっと後で話すとある歴史上の事件が起こったってここかっていうのをふと思いついて
ここ俺めっちゃ行きたいところじゃんってそのとき初めて気づいてで行ったんですよ
なんで僕その新聞見てなかったら業基寺で帰っちゃったかもしれない正直
でこのミュージアムなわけなんですけれどもそういうわけでこの基礎参戦というもののまず自然史的なものですよね
なんでこの川がこんなに集まってるのかっていうことも含めてなんですけれども
まずはその自然の成り立ち参戦がどうしてここに流れているかっていうことをねまず解説をしてみます
そしてそれによってもたらされる水野のね本当に豊かな土地お米だったりお酒だったりいろんなものがねこの地育まれた豊かな土地であるということ
そして同時に何度も言ってるようにこの災害にやはり悩まされて災害との戦いの歴史だったわけですねここに住む人々はね
ということで和中まさにこのね実際このミュージアム自体がね高い石垣が連なっていてお寺みたいになってるじゃないですか
これもだから水がね水位がどこまで上がっても居住空間だけは守られるようにということでねしっかり計算されているわけですね
そういった休暇を改装しているわけです
なのでその和中というものとそこに生きる人々の知恵ですよねというものをしっかり解説しているわけですね
けどねだいぶポップにやられてるんだろうなという感じがホームページからわかりますよね
すごくやっぱりね親しみやすいね水色のカラーのねミュージアムになっているのでそんなにこう歴史博物館のような感じじゃなくて
写真もねお子さんいっぱい入ってたりとかしてね感覚的にわかるようになんかしてくれてるのかなっていう感じがするね
あとはねもう一つ歴史博物館としての意味合いもありまして
ここね先ほど申し上げた高須松平家というものの解説もすごく詳しくしています
高須松平家というのは何だったかというと実は松平の徳川一族なわけなんですけれども
高須四兄弟と言われたね4人の兄弟が幕末に廃止としていましてそれがねすごい有名なんです
で実はねこの高須というのは尾張徳川家つまり名古屋の御三家ですよね
のある意味四藩的なたてつけになっていまして実はね幕末の時の尾張藩主はこの高須家から出しています
から尾張の本家を養子に入って尾張藩を継いだんですね
でそれが一番上の兄貴なんですけれどもその他にも実は有名な弟がいまして
そのうちの一人がいわゆる松平固盛です松平固盛というのは幕末好きな人は絶対知ってますが
幕末の時の藍津若松の藩主です藍津藩主松平固盛もこの高須家から出しています
藍津というのはね以前高須でもやりましたけれども最後の最後幕府側にね立ってね
そのために飯盛山での白虎隊の悲劇ですとかそういったものも起きてしまったわけなんですけれども
やはり幕末のね歴史にすごくかっこたる存在感を持った藩主藍津藩なわけなんですが
そこはねこの高須の出身なんですね
優秀だったんだね そういうことですね
なので尾張も藍津もここから出てるっていうのはなかなかすごい大名なんです
で実際ねこの3階に行っていただくとそういった高須四兄弟のねそれぞれの辞席ですとか
この高須城っていう高須藩の居所だったところの復元したような感じのね
大広間だったり能舞台とかっていうすごい大きなねダイナミックな展示があります
こんな感じですね へえ本当だ立派な能舞台とかねすごい再現されてる
というものがありますのでね意外とね末代の方も藍津の人っていうふうに思われがちなんですけど
というのにね展示は楽しめると思います
そしてねここからちょっとね歴史の深掘りに入っていくわけなんですけれども
このミュージアム実はね僕3月行ったわけですよ
リニューアルした2日目に行ったんですけれどもリニューアルオープンイベントみたいのをやっていて
玄関から入ったところにねこの地元のご出身のすごい世界的なイラストレーターさんが
その場でね公開制作みたいなのをしていたんですね
で実はそのアーティストさんが完成するまでに訪れた人は
なんとねその絵画の制作に参加させてもらえるっていうイベントをやってたんです
もちろん絵は自身はねアーティストが描くんですけど描いてらっしゃるんですよその場で
だけど訪れた人みんな老若男女問わずですねお金いらずに
例えば黒いところの背景のところに黒く塗らせてもらうとか
市民もね市民って僕観光市民でもないんですけど
作成に参加させてもらえたんですよ
でその間はアーティストの人が一回手を止めて僕がその絵を描けるんですね
もちろん変なこと描いちゃダメですよ
で小さいやっていったんですよやらせてもらえたんですね
その絵がねこちらなんですね
へーすげー
これに春矢も筆を入れたわけね
真ん中にいる人物の黒い衣に僕の筆跡が残ってるわけです
もう分かんないけど
分かっちゃダメですよ
ここを塗ってくださいみたいな感じで言われるの
大体この辺りをどこかって言われて黒い筆持ってで塗れる
へーすげー
その世界的アーティストの作品にね僕の筆跡が投じられてるよって
すごい面白いイベントやってたんだね
でここで注目していただきたいのはこの絵が一体何なのかということなんです
はいはいこれね真ん中にこちらを指さしてる人物がいて
で周りにもね4人ですか人が描かれていますけど
何なんでしょうこれ
どちら様でしょう
そうですよね上に何か文字が書いてありませんか
法力治水270アニバーサリーって書いてある
これなんです法力治水
たぶん初めて聞く名前なんじゃないかと思うんですけど
この話をねちょっと最後にこの締めくくりに旅の締めくりにしたいと思ってます
法力治水というのは何かということなんですけれども
これはですね1754年から55年
これまでにねフォトキャストで話したところちょっと空白時代になってる江戸時代の中期
ちょうど今ね大河ドラマでやってるね
蔦谷十三郎とか生まれるぐらいの話ですね
法力宝の暦と書いて法力という時代があったんですけれども
この時代に幕府が公共事業として
この基礎産線の治水を行ったんですね
治水というのはつまり洪水とかが起こらないように
包みをもちろん作ったりとかあるいは川の流路をちょっと工夫して
あまり衝撃が集中しないようにするとかっていう
土木工事ですよねもちろん今も世界各国でやられてはいますが
非常に困難を伴う大規模な土木工事です
これを幕府がやったんですね
ところが幕府は自分の手は使わなかったんです
とある大名にこれをやらせたんですね命令して
それが誰だったかというとお察しの通り薩摩藩なんですこれは
なるほど
薩摩藩つまり島津です
大変じゃないわざわざ呼んできて
その近辺の人にやらせればいいのに
そうさせなかったんです
なぜそんなことをわざわざやらせたんでしょう
前日の話だと土地は奪わないから
そのままにしとくから逆らうんじゃねえぞというところで
前日は終わってるよね
そこから聞くとわざわざ火種を生んでるような気がするんだけど
一方でイエスは最後に言いましたけどすごい心残りだったと思うんですよ
そうか島津を潰さない
おそらく江戸幕府の知性化においては
日本一の不穏分子なんですよ島津っていう
だから仮想帝国として常に幕府は島津というものを見ていた
なんでわざわざ島津に確かに火種を交差することをやるかということなんですけれども
これは島津だけは必ずしも被害あってるわけじゃないんですが
お手伝い部心とか言って幕府の命でお手伝いをしなきゃいけないっていうのを
いろんな代目に命じていてそうすることによって
戸様大名島津が一番ヒットを狙ったわけですけど
彼らの経済力とかをそごうとしたんですね
これ幕府の命でやってるんだけどお金は島津が持たなきゃいけないんですよ
ひどい ひどいです
とんでもない迷惑だと思いますよ薩摩藩からしたら
なにそれどういう名目でそういう制度があるわけ
これはもう本当に幕府に従う従属の証です
ただ従わせる 従わせる逆らったら潰すよ
で金貯め込んで鉄砲とか買われてるといずれ無謀を起こすと思ったから
所々で無理なんだよ申し付けてそれによって経済力をどんどん削いでいこうと
幕府に無謀を起こさせないようにしようっていうのが一つの腹だったようです
同時に幕府の政治として無駄な公共事業したくないので
幕府としてこの高須松平っていう自分の親戚が治めている
そして難工事が必要になっている基礎産生のところを
最も危険分子である始末にやらせることで
その力を添いでかつこの高須松平の土地を潤そうとした
すごいことすんな
ちょっと地図を見ていただくとこの工事ね今から考えてもめちゃくちゃ大変だったんですね
当時はもちろん重機も原機もありませんから
全部人力でやらなきゃいけないわけなんですよ
ただ例によってこの基礎産生は暴れまくってるからなんですよね
なので毎年のように何かしら起こってるっていうのを
どうしたらこのプロジェクトできるのかと
サボると幕府に潰される命令も与えるのでやらなきゃいけないんですよ
薩摩藩も本当嫌々だったけど
鹿児島の方から人を出して部隊を派遣して
なんとかやらなきゃいけないってなったんです
どうすればいいんだろうね
とりあえずコンクリーもないわけじゃないですか ないないないない
五眼工事つったって土もったり石やったりとかしかできないわけだもんね
そうですそうです
なのでやったことというのはいくつかの段階に分かれてるんですけれども
その流路を少しでも合流するのを防ぐために石を作ったりしたんですね
このね木曽川と長良川の間に細い石みたいのがあるのわかりますか
この間に道が一本走ってるでしょ
こういうことなんですよ
つまりせめて川が合流してドガーンってなって猛威を振るう前に
分ける工事をしたんですね
ギリ合流させないようにしてるんだ
これもいろんな時代でやってるんで一概に薩摩藩がやったわけではないんですけど
例えばこういうことなんです
あとは直進している川の流れを少しでも緩やかに変えるために
斜めに包みを築き上げて何とかしたりとかっていうのをやったんですね
地道だな
当然のことながら人もいるし金もかかるし
せっかく作った包みもまた夏が来て台風とかが来たら壊されちゃうというとんでもない工事だったんですね
だから薩摩藩やらせたんですよ
皮肉にもするがかつて当時からかつて150年ほど前に
ファンス・ヨシヒロが駆け戻った伊勢海道にまさに面しているんですけれども
ちょっとこれだけ見ると幕府がひどいことしてる
まあそうなんですよね
結局多大な犠牲を払いながらも
結局薩摩藩は藩士たちが独属と来るんですけれども
数百人規模やってくるんですね
ところが慣れない土地でもあるし工事で重労働だし
しかもうまくいくのかよくわかんないし
これはねどこまでちょっと伝説化してるので本当にこの方がやったかわかんないんだけど
一説にはまた幕府の役人が嫌がれそうしてきたとかっていう説もあるんですよ
なんか包みをいじったりとか
地元の農民たちを煽動して薩摩藩へ対する反感をたちつけたりだとか
やったとも言われる本当かわかんないさすがにちょっとおかしい気もするんだけども
っていう説もあるんですけどともあれ1年におよび大工事になったんですね
ところがなんだかんだ言って結局最後はどうにかやり遂げて
すごい何十人って人が亡くなってしまって
基礎でミノで今回はギフって思われがちなんですけど
この参戦は愛知県にも三重県にも注いでるところです
本当だ本当の一番最後の加工はもう三重だ
そうなんです
だから三重の人たちも恩恵を受けてる
そういうことです
実際ちょっと和宗の先端に寄ってもらっていいですか
多堂
ここの人たちが薩摩義士たちのことを祀らなければならないんじゃないかということで
やはりミノの人たちとも協力をして北京になって
秩序神社どこにあるかというとね
この三角巣じゃないけど
長良川と
指川ですね
指川が合流する本当その先端のところに立ってますね
なのでもう三重ミノの国境に渡ってるわけなんですけれども
この先端にねまさにこの和宗守るかのように秩序神社というのが建てられたんですね
そして祀っているのはねさっきの言った通り平田幸江がまず神様として祀られています
そして幸江とともにねこのミノや敵命を落としてしまった薩摩の人たちというのも同時に祀っているという神社になっているんですね
実際この和宗のね秩序神社の南行くと車道一本走っていってね
その南の方に法力秩序の碑っていうのがあります
ここがだから工事現場でもあったわけです
ここもすごいなあ
まあそうか結構下降だと思ったけどまあでもまだまだ全然ね土地があるからね
ここもやらなきゃいけなかったんだね
でまあね明治維新というのは当然のことながら薩摩が主力になってやったわけですから
非常にやっぱり薩摩藩の人たちはねここをすごい大切に厚くね保護したと
でまあねこの平田幸江のことなんですけれども
結局ねこの法力秩序というのは何で日本の歴史を変えたのかということなんですが
これはまあねまあ内田がさっきから言ってる通りなんですけれども
薩摩側からしたら大変な迷惑だったわけですよこの法力秩序
そして過労一人が腹を切ってしまったっていうまあ普通じゃありえないことが起こっているわけですよね
その恨みっていうのはねすっごく薩摩の中に沈殿したんですね
誰に対する恨みかっていうともう当然のことながら
幕府だよね
これはねだから薩摩藩が平田幸江が死んだ100年後くらいですけれども
幕末維新を成し遂げる時の一つの思想的なスローガン的なものになって
平田幸江というのはある意味そういった風にもねなっていったんですね
そうかだから対幕府のシンボルというかね
一つの気持ちをね束ねる一つのアイコン
まあアイコンというと失礼かもしれないけどとして祭り上げられてる形ですね
そうですねただそれだけこうまあもちろん平田幸江だけじゃなくて
彼についていった多くの人たちがいたわけですよ薩摩藩からね
彼らも犠牲になっているのでこの法力秩序に筆頭されるね
恨みというかこの世の中があっていいのかっていうようなことはね
多分薩摩藩の中にすごく大きな影を落とした事件だった
それがやがてね明治維新の原動力の一つにもね
なっていったと考えられると思うんですね
だからまあもしかしたらもう関ヶ原まで遡って
そこからの恨みがずっと溜まり続けて
でこの法力秩序でそこからこう討伐に進んでいくというね
だから歴史はこの川を通じて繋がってるんですよ
結局島津義博がねああいうことをのき口でやって
西軍について僕が言うやつを脅して
感じで謎のパフォーマンスを繰り広げて帰っていったわけですけど
そうやって薩摩藩というのは取り潰されなかった
しかし家康は薩摩が一番危険だとはやっぱ思っていたから
何とかして薩摩を懲らしめて力を削ぐことに集中しろと
自分たちの歌詞に言い残していった
そして生まれたのがこの法力秩序の事件だった
そして平田家庭は命を落として薩摩藩というものは
幕府に対する割と決定的な悪い感情を抱いてしまった
そしてその100年後に西郷隆盛大久保俊道とかが出てきて
まずお参りをしましてそこから山道の方に行きまして
ここで食べ歩きをしながらお昼ご飯ということで
お勧めというか目立つのは串カツですかね
ここでちょっと終わりの文化も入ってきているという食べ物から知ることができると
そこから来るまで20分ほど行旗寺ですね
行旗がこの紀蘇三線の災害を悼んで購入したお寺と
そこから眺望がすごく綺麗ですので
本当に綺麗ですここ
この納尾平野を見渡すと
紀蘇三線を眺めることもできると
ですのでいかにこの川が脅威であったかというのも感じることもできるかもしれないですね
そこから来るまで15分ほど紀蘇三線和中ミュージアム
こちらは本当に今年リニューアルしたてのピカピカの
この紀蘇三線に対抗する知恵として和中というものがありましたので
この和中というものがどういうものなのかっていうのをこちらのミュージアムで知ることができると
このミュージアムの入れた地からも見ることができる形ですね
そこから来るまで15分ほど地水神社ですね
この紀蘇三線に対抗する地水事業を行った法力地水で犠牲になってしまった方々を祀っている神社ということなので
こちらでこの地水事業をやってくださったありがたみとそれで命を落としてしまった方々を忍んでお参りをすると
そこから来るまで45分ほど岐阜駅に戻りまして
車を返してそれぞれのご自宅へというところでこの旅は終了ということですね
この番組ではお便りを募集しています
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そして感想を呟く際はぜひハッシュタグおとたびポッドキャストをつけて投稿していただけると大変励みになりますよろしくお願いします
そして我々のマイマップ年表ノートございますのでそちらもぜひ参考にしていただければと思います
これ結構年表が威力発揮するかもですね
ミノでフィルターかけていただけると今日話したような雄大な時の流れがダイジェストで確認できるかもしれないですね
ちゃんと打ち込んでおきたいと思います
ここでお知らせがございます
11月30日日曜日みんなのポッドキャストフェスというのがね
沼津で開催されます
こちらで公開収録をしていただけるポッドキャスターの方を募集しております
対象は地域の人物ことを発信するポッドキャスターの方です
まあこれねそんな話してないっていうね方もいるかもしれないんですけど
自分のこととかあるいは自分の出身地とか地元自慢的なことでも全然大丈夫ですよね
なので普段そういう発信じゃない番組の方でもそういう感じの話をしてくだされば全然okという感じですね
コラボでの利用もできるということですから知り合いのポッドキャスターの方を誘ってとか
もし我々で良ければねコラボしますからご相談いただければという感じですね
参加費は無料で当日機材としてはですねマイクヘッドホンスピーカー完備と
ここで収録したデータは後日お渡しして自由にご活用いただければということですね
当日はボランティアスタッフの方がサポートをしてくださいます
そして控室としてねポッドキャスターの交流スペースもございますので
結構手厚いというか 手厚いですよ
無料でエントリーすればやらせてもらえるってすごいよね
要は手ぶらで収録できるっていうことですかね無料でね
音源も自分の番組にも使わせてもらえるしこういった交流スペースでステッカーとかも置かせてもらえるから
自分の番組をね多くの人に知ってもらえるすごい良い機会になると思うし
実際去年も我々ね参加させてもらってすごく我々のことも新米なのに知ってもらいましたもんね
楽しみですね
ここでしか多分できないですからね
オープンエアで公開収録して周りから見てもらいながらみたいな
エントリーがね10月31日までとなってるんですけどこれ先着順ということでね
もうなんとなく結構集まってるという噂もちらっと聞いたのでですね
もし興味ある方はすぐに応募していただいた方が本当に良いと思います
無くなっちゃう可能性全然あると思うので
ぜひぜひお早めにエントリーをしてください
本当にいろんな点か分け目がここであったんだなっていう感じがしますね
本当ですね
特にこの2日目3日目の出来事が同じ地であったっていうのは
本当に因縁めいた不思議な因果があるんだなっていう感じがしますね
そうですね
やっぱりそれは本当に知性学の観点でもすごく面白いことでもあると思っていて
やっぱ日本の真ん中なんですよねこのミノの国というのがね
南北東西考えても
僕はやっぱりそれを思うのは1日目の夜に行ったね
バロスアコクテリアさんの方に行った時に
なぜそのボタニカルの宝庫なのかという話
例え話の一つとして
リンゴの南源ミカンの北源という話だったと思うんですけど
これが一つ何かの象徴であると思うんですよ
つまり東西南北のこの文化のちょうど結節点にこのミノというのはある
だから自然の生き物たちもそれをわかってるんですよね
っていうのも一つあると思うし
そして東軍としてアイズの方から登ってきたトグアイアスと
大阪で待ち構えてから出陣した石田三成が会うのも必然的にミノになってしまう
実は今回全部省いたんですけど
古代にも人心の乱という戦いがありましたが
これの戦いもミノのセリガハラの時に起こってますし
南北朝時代以前日大をした話しましたけれども
南朝北朝の大合戦青野ガハラの戦いっていうのもあったのも
このやはりセリガハラの近くです
なので日本の東日本と西日本っていうのが戦う時に
このセリガハラとか西ミノの一帯っていうのは必ず戦場になるんですよね
これやっぱり本当にちょうどしのぎを削るその場所だからなんです
そういうこともあって国とり物語でいうところのミノを制すものは天下を制すというのはね
そういった夢ももしかしたらあったのかもしれない
なるほどね
本当に地図上で物理的に分け目になってるわけですね
そうなんですちょうどフォッサマグナとかも走ってますし
だから僕よく笑われますけどね
セリガハラより東で一番住みたいのは小田原で2番目は森岡でなんていうと
会社の子たちはみんな大笑いしますけれども
あんな話も冗談で言ってるわけではなくて
東日本西日本ってどっからが東日本って誰も明確に言えないと思うんですよ
明確な定義があるわけじゃないと思うんです
でも一つのその知性学とか歴史の考えからすると
東西の分岐点そして歴史のターニングポイントになったのはやはりこのミノだった
っていうのはあながち偶然じゃないと思うんですね
その川が流れてて平野があってっていうところもかなり大きい気がしますね
そう思いますそう思います
豊かな土地だからみんなが欲したっていうのも間違いなくあるわけですよね
なるほどね
だからこれは実際に行ってみてその土地を見て感じてみると
より体感するところなのかなって感じますよね
特に和中については僕も本当にこの3月初めて行ったので
やっぱりこの大河っていうのはすごく綺麗でもあるんだけれどもやっぱり怖くもあるし
日本でこんな3つも大きなものが集まってるっていうのはなかなかないと思いますから
やっぱりそうですね行ってみて現地で川の流れの音を聞きながら分かるところはあるんじゃないかなと
セリガハラももちろんそうですけどね
そうだね戦場にしたって基礎参戦にしたって
実際その場に立って見てみるっていうのは結構大きそうな気がする
だから今回最初の斉藤道さんの話でもよく話しましたけど
歴史と物語の因縁というか関係性っていうのもこのミノは本当に大きなテーマとしてはらんでると思っていて
要は斉藤道さんはもはやしばりお太郎さんの小説はあれは完全の物語だったということが証明された数少ない歴史小説なんですよ
斉藤道さんという人物はそもそも二人いたっていうことがもう分かっちゃったので後からね
本人の意図とは別で後から分かったけども史実自体が違ったっていうね
そうそうそういうことなんです
だから完全にフィクションになってしまったっていうね
そうそうっていう歴史小説の中でも特殊な歴史小説なんですよね国取物語は
ただ一方でね関ヶ原とかのこともそうなんですけれども
結局島津野木口というのも実際会ったことだし伝説もうすごい偉量だったと
ただそれがすごくある意味古代宣伝的に薩摩藩はそれを使った部分もあって島津兵というのがいかに強いか
だから幕府から領地を削られなかったああよかったと思った
一方でただそれがきっかけになって法力治水というのが後々になって起こって
平田由紀は命を落としましたけれどもそれが一つのある意味イデオロギーのように物語となっていって歴史が
そしてそれが歴史を変えていったんですよ
つまり歴史と物語ってのは巨術の間を存分に流れながら
歴史というもの新たな歴史を作っていくっていう逃れられない宿命なんですよね
そうだね確かにな
事実は一つなんだけど本当に見方で変わるんだなっていうのは確かにね
この旅を通すと感じるね
これある意味ポッドキャストも同じでさ
ある意味我々としてもね僕がそうなわけですけど
旅のことはもちろん全部事実を話しておりますけど
平田由紀のことも関ヶ原も銅さんのことももう一応ある事実を元には全部知ってるけど
創作はしてないけれども口ぶりとか話の持っていき方っていうのは
僕自身も自分の旅行した事実とかその元にある地域の歴史というもので物語をしてるわけなんですよ
そこに悪意はないんだけど
だからそれを聞いた方によって平田由紀のことやっぱり今回同情したいな
関ヶ原氏はすげえなと思う人もいる一方で前の家康の回も聞いていただけると
徳川幕府というものが何を目指していたかというのも一方でまたやっぱりあるわけですよ
そうなんだよね俺もその結構幕府ひどいなみたいな感じで今言ったけど
でもやっぱりその国防っていうことを考えるとそれは反論分子はそりたいし
創世だろう得ない部分は確かにあるんだろうなっていうのはちょっと話しながら俺もちょっとあれ言い過ぎかなって反省はしたところはちょっとあって
だからそうだよねやっぱその立場とか見方でやっぱ事実が変わって見える
そうなんですよ
確かにそうだねこの旅は結構両方がぶつかってる土地だからこそそれを相対的に感じることができるという旅だね
一概に東軍が悪かったわけでも徳川は悪かっただけども一概に西軍が敗者であり弱者だったわけでもない
ただそれは一つの事実としてそういったね今まで話した歴史的な事実はあって
それをどう解釈して物語として後世に伝えていってそれがどういう歴史を作っていったかっていうものが