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2025-07-23 07:13

他人との距離感がうまくつかめない学生の特徴

家庭内における家族の接し方が原因で
他人との付き合い方が身についていない学生がいる。

https://mclover.hateblo.jp/entry/20080218/1203304980

サマリー

D.I.福島さんのブログ記事を通じて、樋口さんの過去の報告書が現在にも影響を与える理由を探ります。特に、社会不適応の学生に見られる親の過保護や自己認識の問題が、現代社会の人間関係にどのように影響を及ぼしているのかを考察します。

過去の報告書の重要性
今回はですね、DIKUSHIMAさんというブロガーの方の記事、「プチメタ3.0」に注目したいと思います。
大学教員の樋口康彦さんによる、もう20年以上前の学生指導に関する報告書を読んで、今でもリアルでやや恐怖を感じると。
その考察をちょっと深掘りしていきましょう。
情報源としては、そのDIKUSHIMAさんのブログ記事と、記事の中で言及されている樋口さんのPDF報告書、
生徒指導が極めて困難な事例の研究、この2つですね。
今日の目的というか、私たちが探りたいのは、DIKUSHIMAさんがなぜこの古い報告書にこれほど強く反応したのかということ。
報告書に出てくる社会不適応とされる、社会生活で困難を抱える学生の事例を通して、その辺りを探っていければなと。
樋口さんの報告書というのは、1998年から2000年にかけての、ある男子学生、Kさんとの接触の記録ですよね。
そうですね。
DIKUSHIMAさんが指摘しているように、これって単なる昔の特殊な事例というわけじゃなくて、
これ自身も似たようなケースに今でも遭遇するという点が、この話のポイントなのかもしれないですね。
なるほど。20年以上経っても全然古びていない問題だと。
そういうことだと思います。
DIKUSHIMAさんは、樋口さんの分析を非常に鋭いと評価していて、ご自身の経験と重なる特徴をいくつか挙げてますよね。
特に親が甘やかして、本人に対してOKしか出さないみたいな、そういう家庭環境。
その結果として、他人の都合に左右される社会とのギャップにぶつかってしまうと。
そこから、自分は常に被害者なんだという、多席的な考え方が生まれやすいんじゃないかと指摘してますね。
その描写が、あさに樋口さんの報告書に出てくるKさんの姿とかなり一致する部分がありますね。
そうですか。
Kさんは対人スキルの乏しさとか、社会的なルールの不理解、他人との距離感が適切に測れない様子がかなり詳細に記録されています。
なるほど。
例えば、初対面なのにいきなり個人的な不幸話をしたりとか、コミュニケーションが一方的だったり、
あとは多席的な態度とか、必要な連絡とか、待ち伏せ行為とか。
うわー。
樋口さんは、これを社会的スキルの学習不足と結びつけて分析されてるんですが、
DI ゆくしまさんはまさにこういう行動パターンを、今のご自身の周りでも、ああ、あるある、みたいに感じているということなんですね。
ええ、そうなんです。
他にも、DI ゆくしまさんが挙げている共通点があって、例えば、妙にプライドが高くて、自分の知識をやたらひけらかそうとするとか、
あー、はいはい。
逆に、他人の知識はバカにしようとするとか、あと、友人が極端に少ないんだけど、自分に気に入った相手には逆にものすごく近づきすぎるとか。
距離感の問題ですね。
そう。それから、アルバイト経験がなくて、親からの資金援助で生活してるとか、責任を負う場面からへの体制がなくて、なかなか社会に出られないとか。
うんうん。
これらも、樋口さんの報告書にある計算の特徴リスト、例えば、アルバイトが続かないとか、被害者意識が強いとか、友人がいないとか、能力以上の目標を設定しがちとか、距離感の欠如とか、そういった項目と、ほんとぴったり重なるんですよね。
樋口さんのリストは、どちらかというと客観的な分類を目指したものだと思うんですけど、D.I.福島さんのブログを読むと、そういう特徴を持つ人に実際に接したときの、なんとか切り口回し感覚が伝わってきますね。
ああ、わかります。あれ?と、なんか違和感を感じる瞬間っていう表現がすごく印象的でした。
社会適用の難しさ
そうなんですよ。周りはそのズレに気づくんだけど、本人は全く無自覚。
うーん。
これが、いわゆる空気が読めないやつみたいに周囲から見られて、さらに孤立を深める原因になるんじゃないかと。
そういうことですね。で、D.I.福島さんは、そういう特性っていうのは、20年近くも年齢を重ねて、もう固まってしまっていて、数ヶ月程度では修正ができないほど人格が固まっているとも指摘してるんですね。
うーん、厳しい指摘ですね。
これは樋口さん自身がKさんへの指導の効果がほとんど全くなかったと認めて、生半可な覚悟では社会不適用者と接することができないと結論付けていることとも通じるものがありますよね。
本当にそうですね。20年以上前の報告書なのに、D.I.福島さんが今読んでもリラルで怖いと感じるっていうのは、
やっぱり彼が指摘するように問題の根深さとか、あとはおそらくですけど、社会とか家庭環境の中に似たような構造を生み出す要因が今もあり続けているってことなのかもしれないですね。
そうかもしれませんね。
周囲の反応としてD.I.福島さんが挙げている、接触しないように距離を置くとか、苦しらいをしつつ無難に対応するとか、単純に嫌うっていうのも、
Kさんが孤立していった過程を考えると、すごくリアルに感じます。
関わることの難しさとか、エネルギーの消耗を考えると、ある意味自然な反応なのかもしれませんが、
D.I.福島さんの考察を通して見えてくるのは、単なる過去の事例研究っていうだけじゃなくて、現代にも通じる人間関係とか社会適用の問題なんだなっていうことですね。
特に過保護とか、過過半生とか、あるいは過法人とか、そういう家庭環境が、本人の自己認識とか、他者との関わり方に長期的な影響を与えうるっていう、その重みみたいなものを感じます。
そうですね。では、今回の話をまとめると、D.I.福島さんのブログ記事をガイドにして、樋口さんの報告書にある事例を読み解いてきました。
20年以上前の記録が、今これほどリアルに響くというのは、D.I.福島さんが言うように、そこに描かれている社会適用の困難さとか、その背景にある家庭環境、自己認識の問題っていうのが、今も私たちに関わる、ある種、普遍的なテーマだからなのかもしれませんね。
社会的スキルとか、自己認識の大切さ、そしてそれを身につけたり育んだりすることの難しさが、両方の資料から浮き彫りになったように思います。
はい。最後に、これを聞いているあなたにも、ちょっと考えてみてほしい問いがあります。
何でしょう?
もし、Kさん本人が、もっと早い段階で、周りが感じていた違和感の正体に気づくことができていたら、あるいは、教育の現場とか社会がその差異をうまく捉えて、何か違う形で関わることができていたとしたら、Kさんのようなケースは、少しでも違う未来を迎える可能性があったのでしょうか?
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