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2025-08-25 05:56

「全国」「全世界」は1段階ズレている

「全国」という言葉がどうにも腑に落ちない。
漢字としては「全部の国」と書かれているのに
日本というひとつの国だけのことを指すのはなぜだ。
1段階内側にズレているように思う。

https://mclover.hateblo.jp/entry/20220604/1654313400

サマリー

このエピソードでは、「全国」と「全世界」という言葉の使われ方の違いについて考察され、言語における意味の理解が深まります。特に、これらの言葉が指す範囲の曖昧さが、言葉の使い方にどのように影響するかが詳しく探求されています。

言葉の使われ方のズレ
こんにちは。今回はですね、あなたが共有してくださったD.IKISHIMAさんのブログ記事、「全国」という言葉は、指す範囲が一段階ズレている、について一緒に考えていきたいと思います。
はい。
これ、2022年の記事ですけど、日常で何気なく使っている言葉への素朴な疑問、これがテーマなんですよね。
そうですね。特に、「全」っていう漢字が付く言葉、例えば全国とか全国が、文字通りの意味と実際の使われ方で、なんかちょっとズレているように感じると、その言語的な面白さ、これを探求するのが今回の試みですね。
いやー、面白い視点ですよね。
言葉の意味って、考え始めると結構奥が深いなって思うこと、あなたもありますか?
あー、ありますね。なんか、普段当たり前に使ってるけど、あれ?って思う瞬間とか。
ですよね。
では早速、その筆者が40年も感じているという、この言葉のモヤモヤの正体に迫ってみましょうか。
はい、お願いします。
まず、筆者が小学生の頃からずっと引っかかっていたのが、「全国」という言葉。
漢字を見れば、全部の国のはずなのに、実際には日本という一つの国だけを指している。これってどういうことなんだろうって。
うーん、確かに。これは確信をつく疑問ですよね。
文字通りに解釈すれば、それこそ地球上のアメリカとかフランスとか中国とか、全部含めた集合体を指しそうですけど。
そうですよね。
でも、それは一般的には全世界って呼ばれることが多いですよね。
あー、そっか。全世界。
ここにまず最初のズレがあるんじゃないか、というわけです。
なるほど。全国大会って言えば、日本の大会ですし、全国ニュースも日本のニュースですもんね。
そうなんです。
全部の国っていう意味合いは、普段ほとんど意識しないかな。
ええ。でも、そこで話が終わらないのが、この記事の面白いところなんです。
ほう。
筆者はさらにですね、全世界という言葉にも疑問を投げかけるんですよ。
全世界にもですか?
ええ。世界一が決まるとき、その世界っていうのは普通、地球全体を指すはずじゃないですか。
まあ、そうですね。
なのになぜわざわざ全世界って、全をつける必要があるんだろうと。
なんかまるで火星とか他の惑星まで含んでいるような、ちょっと妙な壮大さを感じちゃうっていうんですね。
ああ、なるほど。
言われてみれば確かに、全世界ってちょっとだけ大げさに聞こえるような気もしなくもないですね。
この感覚わかります。
ですよね。
それでこの一段階、ズレるみたいな感覚は、他の言葉にも見られると筆者は指摘しています。
それが全校生との話ですね。
ええ、そうです。
全校って聞くと文字の印象からは、例えば地域とか国内の全ての学校の生と合わせたような印象を受けなくもない。
でも実際は特定の一つの学校に在籍している生と全体を指しますよね。
はい。
ここでもやっぱり示し示す範囲が、一段階内側にズレている感じがすると。
確かに学生時代、全校集会って普通に使ってましたけど、他の学校のことなんて全く頭になかったですもんね。
そうですよね。
これも全国と同じ構造のズレっていうことなんですね。
そう考えられますね。
言葉の意味の考察
で、筆者がさらに指摘しているのが、この全オニャララは特定の一つのオニャララ全体を指すっていうルール。
これが必ずしも一貫してないんじゃないかという点です。
そこがまた引っかかるところですよね。
例えば全クラスって言ったら、普通は学年とか学校内の複数のクラス全体を指しますし。
そうですね。
あと全館って言えば、漫画とか小説の一館から最終館までの複数冊を指しますよね。
その通りです。
全世帯なんかも地域内の複数の家庭を指すことが多いでしょうし。
なのになぜか、全国とか全校だけは、一つの国、一つの学校という単一の集合体を指すことが多いのは、これどういうことなんだろうと。
この一貫性のなさが筆者のその40年にわたるもやもやの厳選なんだということなんですね。
こうして整理してもらうと確かに不思議ですね。
全っていう窃盗語が単一の大きな集合体全体を指す場合と、その中の複数の構成要素すべてを指す場合と、使い分けのルールが曖昧に見えるというか。
まさにそこが言語の興味深いところなんでしょうね。
必ずしも論理的な整合性だけで成り立っているわけじゃなくて、
慣習とか文脈とか、あるいは使いやすさみたいなものが意味を形作っていく部分もあると。
なるほどな。
このブログ記事は全国全校と全クラス全官の対比通じて、その見事な実例をこう提示してくれているわけですね。
言葉のその文字通りの意味と社会の中で定着した寛容的な意味の間にある種のズレがある。
そのズレ自体が面白いというか。
本当にそうですね。このズレについてあなたはどう感じますか。
日常で使っている言葉の中に他にもあれってふと立ち止まってしまうような、そういう不思議さとか違和感って覚えたことあります。
そうですね。この禅の話からちょっと一歩引いて考えてみると、私たちって普段言葉の寛容的な意味をどれほど当たり前のものとしてこう無自覚に受け入れてるんだろうなって思うんですよね。
確かにそうかもしれないです。
もし他の身近な言葉一つ一つに対してもその成り立ちとか示し示す範囲とかを厳密に問い直してみたら。
もしかしたら、何か思いもよらない言語の側面みたいなものが見えてくるかもしれないですよね。
面白そうですね。
ちょっとそんな視点で周りの言葉を改めて見つめ直してみるのも面白いかもしれませんね。
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