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こんにちは、志賀十五です。毎回テーマを一つ決めて、それに沿ってトークしています。今回のテーマは言語学、です。
僕は大学で言語学を専攻して、ツイッターで自作言語を作って、
自作言語を作るって変ですけど、そうやって遊んだりしています。
これから大学に進学して、何を専攻しようかと考えていたりとか、あるいは高校生の方で、
大学でどういうことを勉強すればいいのかが、まだはっきりわかんないという方がいらっしゃったら、ちょっとでも参考になればいいなと思います。
言語学ってその名の通り、言語を学問するということなんですけど、
僕の場合はですね、言語学っていうのがそもそも何なのかっていうのがよくわからないうちから、大学では言語学をしようと決めていました。
これは中学の時から決めてたんですね。
中学校に上がると、小学校の時の国語と違って文法っていうものをやると思うんですよ。国文法。
そこで初めて日本語の動詞っていうのはウダンで終わるっていう風に習ったんですね。
正確に言うとウダンで終わっているある単語のグループを動詞って呼んでるっていう方が順番としては正しいんですけど、
その動詞が必ずウダンで終わるっていうのを聞いたとき、これが衝撃で、
これはもう三つの意味で衝撃だったんですね。これはもう今でも忘れはしないんですけど、一つはその事実そのものに驚きましたね。
え、ウダンで終わるのかよ。歩く、食べる、話す。本当だ、ウダンで必ず終わる。
こういう規則性がある。文法ってルールっていうことですから、そういう規則性があるっていう事実そのものにまず驚愕しました。
二つ目は、その事実を知らずに今まで十何年間生きてきたっていうそのことに驚きました。
というのは、そういうルールを知らなくても生きてこれたっていうか、当時英語を勉強し始めた頃なんであんなに頑張って文法を覚えてるのに、
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母語となると全く何のそんなルールも知らないまんま喋れてる。
そのことに気づいてすらいないっていうことがこれ、第二の衝撃でした。
最後の衝撃は、このことに周りが全然驚いてないっていうのがまた衝撃だったんですね。
自分一人で、うわ、こんなことあんのって、それすら知らなかったんだとか思ってるのに周りの友達は全然何にも気にしてないし、
何なら面倒くさい科目が覚えなきゃいけないことが一つ増えたぐらいにしか思ってないふうだったんですね。
僕は当時、当時っていうか今でもそうかもしれませんけど、天の弱なとこがあったので、
人と違うことが好きでそういうことをやりたいっていうような気持ちがどっかにあったので、
これみんなは別に面白いと思ってないんだと思うと、じゃあそれを突き詰めてやろうっていう気になったんですよ。
それ以降、よし、じゃあ大学で言語学というのがどうやらあるらしいから言語学を大学でやろうっていうふうに方針を固めました。
それ以降ですかね、割と文法っていうものに目を向けるようになったのかな。
意識的にっていうわけではないですけど、なので英語の時間の英文法っていうのを別に嫌いではなかったし、
英文法よりもむしろ僕は古典の文法のほうが好きでしたね。
助動詞とか無理やり覚えさせられましたけど、多少そういう面倒くさいところはありましたけど、
でも助動詞を品詞分解っていうのを高校の時やらされたりしたんですけど、
助動詞ごとに切って、これはどういう接続で、活用形はどうで、どういう意味があって、
ゾーナムやアカンだと伝体形で、コソだと依然形で係り結びするとかね、そういうことを皆さんも習ったと思うんですけど、
割とそういう文法っていうのは全然嫌いじゃなくて、嫌いじゃないというかむしろ好きだったので、
一言で言えば肌に合ってたっていうことですね、そういう文法が。これは人それぞれなんでね、無理に面白いんだよって言っても、
はいそうですかっていうことでね、まあそのこと自体はいいんですけどね、だからあなたも好きになってよっていうのは気持ち悪いのでそこまで言わないですけど、
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僕の場合はそういうのがちょっと肌に合っていたので、国語、古典、英語問わず文法は割と好きな科目というか授業でした。
漢文はそうでもなかったかな、まあ嫌いではなかったですけど、まあ惹かれはしなかったですね。
まあそれで僕の思う言語学の面白いところというか、僕が言語学に惹かれているところっていうのは文法なんですけど、文法っていうのは言葉のルールのことですね。
自然科学の分野でも規則を見つけるっていうのは一つ大きなテーマですね。
学問って割とそういうことだと思うんですよ。個別的な事象を、事象の中から一般的な法則を見つけ出したりとかね、するっていうことだと思うんですけど、
何でもいいですけど、落下運動とかもそうだし、放物線を描くとかああいうのも一つの一般化というか規則性を見つけるっていうことであるし、
あるいは経済なんかもそうなんだろうなと思いますね。僕は全然疎いですけど、人の行動を一般化するっていうのが一つ学問を目指すところではあると思います。
不規則に見えるものの中から規則性を見つけるっていうことで、言語学の場合も日本語の動詞は無断で終わるとか、割とあれは分かりやすいものなんですけど、
個別的な事象あるいは雑多なものの中から規則性を見つけるっていう意味では言語学も自然科学的であると言えると思うんですけど、
言語学が他の自然科学と違うのは、そのルールを自分はというか和者と言った方が正しいけど、そのルールを知っている奴がいるっていうのが他の自然科学と違うところだと思います。
他の自然科学は法則を発見するっていうのが一つ目指すところですけど、言語学の場合は法則を発見するんですけど、その法則は潜在的に和者は知っているんですね。
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じゃないと言語なんて操れないわけですから。
なのでさっき言った僕が感じた第二の衝撃ですけど、自分はそれを知らないくせにそのルールを使っているんですね。
無断で終わるっていう動詞で言えば。
これは面白いし、ある意味気持ち悪いですよね。
自分の知っていることを知っているけど知らない、知らないけど知っているというか、だって正しいルールを知らないと言語なんて操れないので知っているはずなのに、それを自分であるいは誰かに規則性を見つけてもらうまではわからないっていうのがね、これはなかなか面白いと同時にちょっと気持ち悪いことではありますね。
そういうところに僕は惹かれています。言葉のそういう性質にね。
よく勘違いされていることなんですけど、言語学は良い悪いを判断しないんですね。
例えば、分かりやすいことで言うと裏抜き言葉とかですね、食べられるというところを食べれると言ったりとかするっていうことですけど、
こういう裏抜き言葉は良い悪いっていうのは言語学者は無関心です。
むしろこの裏抜き言葉はなぜ起こったのかどういう法則性があるのかっていうのを探るのが言語学者のすることなので、
なんか割とね、これは悪い表現だと言語学者が言ってしまうと悪いみたいな風に考えられているかもしれないんですけど、
実際そういう人ももしかしたらいるかもしれないですけど、そういうところは全然興味がなくていい悪いが。
実際裏抜き言葉もちゃんと法則性があるんですね。
あれはある意味効率化が進んだ結果裏抜き言葉ができたということなんですけど、これもまたの機会にちょっと話してみたいと思うんですけど、
そういうことで良い悪いは全然言語学者は気にしていません。
いい時間になっちゃったなというわけで、具体的な話は全然できていないのでまた次回お会いしましょう。
ではごきげんよう。