教育における正しさと伝達
デジタル時代の国語教育を語ろうにようこそ。パーソナリティのKasaharaです。この番組では、Google for Education認定トレーナーとコーチの資格を持つ私、Kasaharaが、教育にまつわる様々な話を配信していきます。
本日から9月ですね。勤務校では、今日から授業開始となり、長いようで短い2学期がやってきます。
約1ヶ月半ぶりぐらいの授業となると、なかなかリズムがつかめないところなのですが、今は何をどう伝えていこうかということに頭を悩ませています。
授業が始まるにあたって、今非常に悩んでるんですよ。正しく物事を伝えるとは一体どういうことなんでしょうか。
今、ポッドキャスト界隈ではちょっとした話題になっていること、というか議論になっていることがあります。
それは、自分もゲスト出演した再演マニアや人気科学系ポッドキャストの再演トークの配信者であるレンさんが、とある歴史系ポッドキャストの表現について疑問を表明したことによって、いろいろな議論が始まったというそういうものです。
詳しくは概要欄にレンさんのノートやポッドキャストのリンクを貼っておくので、リスナーのあなた自身の耳や目で確かめていただくことが大切かなと思います。
個人的にその事象に対しては、思うところや言いたいところはあるのですが、おそらく第三者の自分がリスクを取らないで言いたいことをフリーライドするのは違うだろうと思っているので、個人的に思うことはあるものの、今話題になっていることに関しては深入りはしません。
ただ、自分も大学院まで行って、今でも学会などに顔をちょこちょこ出して、アカデミックを遠まきに覗き見しているような立場の感覚としては、レンさんの主張を支持したいとは思っています。
今日はこの話題から少し派生したところで考えることが出てきたので、そのことについてお話をしようと思います。
それが何かというと、教育で伝えるということと正しさの関係という問題です。
今回のレンさんの問題提起の大切な点としては、何かを伝える時にはできるだけ正確なことを目指して、もし何か伝えたことに誤りがあれば修正を丁寧に行っていくことで、正しいことを目指し続ける姿勢を持つことが大切なのだということだと自分は思っています。
この姿勢がアカデミックの世界であれば割と当たり前に共通認識的なところなんだろうとは感じます。
自分も一応修士号を持っていて、学会関係にちょろちょろしているので、言っていることの意味は全くもってその通りだよなというふうに感じます。
何か引っかかりがあれば、自分で一時情報にあたる、つまりエビデンスを確かめるという姿勢は、何かを明らかにしたり、何かを伝えたいと思うのであれば必ず必要になることだろうと自分も思います。
実際にボイシーのパーソナリティのDr.林さんが、今回の議論について実際に一時情報を見ていきましょうという実践をして、どう考えるのかという投げかけをボイシーでされています。
概要欄にリンクを貼っておくので、ぜひそちらもお聞きください。
話がちょっとずれたので元に戻すと、基本的に何かを伝えるということは、開かれた場所で開かれた議論を行うということで、何か疑問があればエビデンスに基づいて議論をしましょう。
より確からしいものを関わる人たちで協力して目指していきましょうということなのだと思っています。
絶対に正しいものを伝えることはやはり難しいですから、開かれた議論と修正可能性というのを丁寧に扱いたいですよねというのが、今回の話でも大切になってくるポイントだと思っています。
ただ、今回のこの話に対するいろいろな反応を眺めていると、何かを伝えるということについて、もう根本的に発想が違う人はいるんだな、これだけレーンさんが丁寧に何を大切にしているのかということを伝えているのに、全然違うところが気になる方がいるんだなというのは感じるところです。
先に断っておくと、そういう意見、リアクションに対して、全くアカデミックのことを分かってないからどうしようもないみたいな上から目線の物言いをしたいわけでは全然ないですし、絶対ないです。
ああ、なるほどな、伝えるということについて大切にしたい価値観の軸が全く異なる人がいるんだなということをそういう現象として捉えている感じですね。
特に今回見ていて感じるのが、学問的な正確性を追求するという話とエンタメコンテンツとしての役割は全然違うという意見対立というのが根深いなということなんですよ。
エンタメ側の意見がダメだということでは決してないです。
何をどのように伝えていくのか、コンテンツ作りのスタンスの違いだけであって、世界のどこでもアカデミックの世界の厳しい正確さの追求のお作法でコンテンツ作りをしなければならないみたいなことになるのは、
まあそれはできないよね。自分もそれをやられたらポッドキャスト話せないなと思っちゃうので、事情としてはよくわかります。
エンタメコンテンツだとすれば、わかりやすさやコンテンツの量を出すことが大切になるので、そういう時にあまり厳格な正確性ばかり押し付けられてしまうと苦しいというのもよくわかります。
まあ、エンタメだからと言って開き直ってめんどくさい話だっていう風に言ってみたりだとか、指摘されたことに対してちょっと腹を立てたような反論の仕方をしているのを見たりすると、
個人的にはこちらの立場にはあまり共感できないかなぁとは思うことは多いんですけれども、それは感情的な話であってスタンスの良い悪いという話ではないです。
国語教育の課題
ただ、エンタメだから正確さを求められすぎると難しいという話については、実は自分がどっぷり使っている教育の世界にも似たようなことは言えるんですよ。
だから、何をどう伝えるのかというのを考えると、教えるということを仕事にしている自分としては、エンタメとしてコンテンツを伝える方々の意見をおかしなことを言ってるなんて全然思わないわけです。
つまり、学校の授業って子どもたちの発達段階や授業水の都合だとか、あとは教科の枠組みだとか、いろいろな要因のために絶対に学問的に100%正しいことを話すことなんてできないんですよ。
このあたりの話は野沢さんこと野崎先生がボイシーでお話しされていました。そちらの放送のリンクも概要欄に貼っておきますので、ぜひお聞きください。
野崎先生は科学の授業の話をされていましたが、国語科だって同じ、いやむしろ国語科の授業の方が、よりいろいろとややこしいこと、不要意なことを言いがちになるんじゃないかと思います。
というのも、国語科の授業で扱う題材というのは、文学もあれば、例えば科学論もあれば、社会科学もあるみたいな形で、言葉で表現できるありとあらゆるものがジャンルとして広がっているんです。
授業の中で、そういうあらゆるジャンルの文章を、特定の著者のたまたまその著者の主張として読んでいくことになるのですが、一つの事柄について考える時間というのは、単元全体のせいぜい4コマ5コマぐらいなんですよね、高校の場合だと。
文学作品にしても、科学論にしても、4コマとか5コマとかで、深く正確に理解できるようなものってないですよね。
しかも、国語科の授業だと、教科書1人の著者の1つの文章で、そのジャンルについて知るみたいなことになるので、情報の正確性という面で言えば、下手すればエンタメのコンテンツの方がよっぽど正しくて、それよりも正確性を書いていることを伝えてしまう可能性ってあるわけです。
今回の議論で、エンタメコンテンツを普段発信しているような立場の人からの意見やものの言い方には、自分は結構賛同できないところはあるんです。ちょっと嫌だなって正直思ってます。
でも、自分が普段仕事でやっていること、授業ってエンタメコンテンツが直面している正確性と伝わりやすさのジレンマと全く同じことなんだと思いますね。
むしろエンタメコンテンツとして伝わりやすさと正確性に自覚的に発信をされている方の方が、授業に対して無意識に流してしまっている自分よりは、よっぽどもしかしたら誠実なんじゃないかなと思います。
授業をする立場の人の方が正確性という議論について、教科書や学習指導要領があるせいか、ある意味で鈍感になっている面はあるなって、今回の話を追っていて、ふと思いついたわけです。
国語科に限定した話をすれば、もちろん国語科は教科書の文章の内容を理解することや、ジャンルについての知識を覚えて理解していくみたいな教科ではないのですが、
実質的に国語の教科書の文章がいろいろな学問分野だとかの考え方の入り口になっていたり、どうしても読むときに内容を理解するためには、そのジャンルの背景的な知識ということを覚えちゃった方が、ちゃんと説明した方が伝わりやすいみたいなことってあるんですよね。
そういうときに、国語の授業をしている自分が、なんちゃって衛生専門家になって、劣化塩溜みたいな話し方で子供たちに雑な話をしていないかって、めっちゃ不安になるわけです。
自分としては、国語科の授業であれば国語の力、つまり言葉をどのように扱うことができるのか、言語活動や言葉についてのスキルについて教えるということを大切にしたいとは思っていますが、言葉の力が発揮される場面や必要になる場面って、やっぱり何か人に伝えたい、表現したいという自分の中のパッションがあるものに対してなんですよね。
だからこそ、実はコンテンツ自体が非常に大きな力を持っているのは事実ですし、子供たちとコンテンツの出会いをどう考えるかというのは課題になるわけです。
授業の難しさ
そんな大きな課題があるのに、自分が授業で何か単元として挑戦したいことがあれば、自分が子供たちにそのコンテンツについて責任を持って分かりやすくかつ誠実なことを伝えなければいけないということになるんですよ。
よくよく考えると、これって簡単な仕事ではないですね。
自分が当事者でないことを子供たちに問題だよねって伝えて、考えるように指示して考えさせることはそれほど難しいことではないです。
でも当事者ではない自分が、不要意な、不勉強な問題の切り取り方をして、不要意に考えさせることになったら、かえってそれが当事者にとっては苦しみだとか悩みだとかを増やしてしまう問題をこじれさせるようなことって、実際起こってしまう可能性ってあるわけなんですよ。
やっぱり授業をするってことは、改めて考えるととても怖いことなんだと思います。
ただ、授業で触れたからこそ、そこがきっかけとなって何かを始める子どもたちもたくさんいるわけなんです。
正確なこと、絶対に自信があることしか伝えられなくなってしまったら、おそらく授業の多様性みたいなところというのは完全に窒息してしまうだろうなって思います。
話がちょっとあちこち行ってしまって、何か結論めいたことがあるわけではないのですが、こういうジレンマを抱えていることを前提にして、やっぱり授業ができることって、それこそ最初の話に戻るのですが、準備の段階では誠実に100%正しいことを目指しつつ、何か誤りや問題があったなら、丁寧に問題を修正していくっていうことなんだろうというふうに思います。
もちろん謝ったことを伝えたのであれば、子どもたちに謝罪するということも実さないという、そういう姿勢なんだろうと思います。
まあ、これが難しいことでもあるなというのはよくわかります。授業で間違ったことを教えたら、間違ったことを教えるとはどういうことなんだという非難は、おそらく相当厳しいものになると思いますし、子どもたちに対して謝るって、やっぱり勇気のいることなんですよ。
自分なんかはもう、何か間違ったらすぐごめんごめんと軽く謝ってしまいますけれども、普通は子どもたちに謝らなければいけない事態が起こるということ自体が相当大事なので、いろんな関係性の中のことを考えると結構厳しいなとは思います。
理想と現実の折り合いとして、教えるということ、伝えるということの難しさに、今、直面しているなという感じです。
教える側の姿勢
今回の配信はいかがだったでしょうか。教育で何かを教えたり授業をしたりする時には、今日話題として出た性格性以外にも、いろいろなことが教育だからで緩く考えられがちだなと感じることがあります。
実際問題として、学校は様々な制約の中で子どもたちに知識を伝えていくということがあるので、例えば著作権のように一般的なルールよりも少し自由度の高い仕組みがあったり、本当は適切に謝礼をお謝らいしなければいけないような事案であっても、
後援者が子どもたちのためにと本当に拍手で協力していただけるようなこともあります。地域で何か子どもたちが活動すれば、地域の方々が非常に好意的に子どもたちを支援してくれることは、毎挙にいとまがないくらい本当に多く親切に協力してくださるんです。
でもそういう特別な相手の配慮はご好意に、教える側、学校の教員が当たり前でしょうとアグラを書いてしまうようでは絶望的に良くないなと思うんです。
でもあまりに慌ただしく過ごしていると、そういう相手に敬意を払うということが遅れてしまったりだとか、相手に甘えてしまったりということが定期的に度々起こりがちなんです。
だからこそ教育現場の当たり前、こうであって欲しいと思うことが傲慢にならないように、常に自分の仕事を丁寧に振り返らなければいけないと思います。
授業も同じですよね。子どもだからといって生徒を侮らず、何かを伝えるときにはできるだけ様々なことを考えて、今選べる一番誠実な言葉を選ぶということを大切にしたいと思うところです。
リスナーのあなたはどのように考えますか?
本日のポッドキャストの裏話は、私のボーイシーで6時半から配信されています。
今日の配信を聞いてくださった方は概要欄のリンクから是非続きをお聞きください。
ここまでお聞きくださりありがとうございました。
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この番組は毎週月曜日に1回配信されます。
次回の配信もお楽しみに。
ではまた。