みなさんこんにちは。だれせめ相談室のお時間です。
だれせめ相談室長で、臨床心理師のゆう子さんです。
ようこそお越しくださいました。
はい、みなさんこんにちは。ようこそキャリアコンサルタントの坊ちゃんです。
だれせめ相談室は、職場や家庭での日常的なお困り事を解決するべく、
役に立つ考えや、具体的エピソードなどをおしゃべりでお届けしていく番組です。
2人が波乱万丈な人生経験をもとに、ちょっと思いつかないようなユニークな解決法や、
聞くだけで元気になるような応援メッセージをお送りします。
はい、いつもはご相談に答えていくんですけれども、
今日は、ゆう子さんと坊ちゃんとで、フリートークでお届けしたいと思いますので、ゆったりとお聞きください。
はい、今日はですね、私がちょっとテーマとして考えてきたのが、
それが良いことかどうかは状況次第という、今で話してみたいと思うんですよね。
良いことね、はいはい。
良い、悪い、みたいにこうね、なんかこういうことは良いこと、こういうことは悪いことみたいに、
脳が勝手にこうね、パパッと判断しがちですけど、
それはまあよくよく考えてみるとどうかな、状況次第ではどうかなっていうね、そういう話になります。
私の実話としてのちょっとエピソードを、いくつか子どもの時の話なんですけど、
それはちょっと、なぜこのテーマになったか、ちょっと私が考えてね、
なぜこのテーマになったかっていうことなんで、ちょっとね、長くなっちゃうかもしれないですけど聞いて欲しいんですけど、
私小学生の時、足が速かったんですよね、1年生の時に、かけっこで一番になり、
もっと幼稚園の頃からかもしれないですけど、だんだん毎年選抜リレーに選ばれるとか、
なんか学校でも足の速い人っていう感じになってきて、
でももともと自分はそんなにスポーツ運動好きじゃないし、
足が速いってことにそんなに特段の価値を感じている子どもでもなかったんですけども、
でもね、親がね、特に私の場合、父が毎年大喜びするんですよ。
私がね、ごぼう抜きでリレーでバーッと何人か抜かしていったら、
もうその話をもうずっと、もう次の年ぐらいまでずっとその話を繰り返し繰り返し、
次の年まで?
もうずっと、もうね、食いついてきて、そこビール飲みながらの時は、
いやあ、ゆう子ちゃんはどうのこの足、ごぼう抜きしていったからなあ、みたいな感じで嬉しそうに言うんですよ。
親が喜んでいるとは子どもも嬉しいけども、もうだんだんそれがプレッシャーというか重荷になってきて、
高学年ぐらいになるとみんなだいぶ足も速くなってくるし、
私は4月生まれだったんでみんなより成長がちょっと早いっていうのもあって、
だんだんでも学年が上がってくるとみんな速くなってくるし、
すごい子が転校してきたりとかして負けることも出てくるわけですよ、普通にね、掛けっこで。
そうですよね。
普通なんですけど、でも運動会の時の私の活躍を楽しみにしているこの父親の手前、
もう運動会がだんだん憂鬱になってきて、
勝てないかもしれないのに、お父ちゃんはまたなんかこうね、期待してるっていう感じ。
プレッシャー。
プレッシャーで、それでね、5年生だったか6年生だったか覚えてないけど、
なんか運動会の日に朝、熱が出たんですよ。発熱になって。
これはもう私はラッキーって、これで今日のこの掛けっこ、リレー、全部出なくてすぐ、
父親の悪意のない変な人。
来たよね。
もうこれで答えなくていいやということで、それでもうこのプレッシャーから解放されたんだけども、
例えば足が速いとか、あと勉強もできたりなんかしたんですけどね、
今っていうかその後全然もう勉強嫌いになっちゃったんですけど、
小中学校ぐらいは勉強もできて、学年10番ぐらいに入るとか、
またこれで父がはしゃぐわけですよ。
二刀流だったんだ。
そう、文武両道みたいな感じで、しんどかったでしょ、でももうずっとね、
父親がそんな風に喜ぶもんで、子供はもう一生懸命ですから。
それでね、私としてはもう、勉強ができるとか足が速いっていうことに、
逆に価値が受けなくなるわけですよ、どんどん。
そんなものを維持すればするほどしんどくなるから、立場が。
そうか、そうか。
なのでね、その頃はもう親に評価されるとか先生に評価されるとか、
なんかで勝ったりするよりも、どんくさくてもいいし、勉強もできなくていいから、
本当に毎日楽しそうにキャッキャキャッキャ笑ってるクラスメイトが、超羨ましかった。
そうか、私逆だからね、二刀流で何でもできるっていうクラスメイトに
一人か二人必ずいる人いるじゃないですか、特に女子とかね、
そう、憧れちゃって憧れちゃって。
自分と比べて、私、あんなキラキラできてない。
もう全然ダメダメっていうふうに思っちゃう方でしたね。
そういう尺に絡めとられちゃうとね、
コンプレックスとか、なんか自分はダメだみたいになっちゃうんだけど、
何が良いとか悪いとかってね、
あんまりこういう事は良い事、こういう事は悪い事みたいに決めちゃいすぎると、
しんどいんじゃないかな。
ね、なんかもちろんね、どうしても良い事悪い事っていうのは、
生きていく中で判断する事が必要な事って沢山あると思うけれども、
あまりそこにこだわりすぎちゃうと、
逆に自分が苦しくなっていっちゃうって事もありますよね。
だからね、尺は広い方がいいというか、多い方がいいというか、
色んな尺度があった方が価値観と言っても良いかもしれないけど、
そこはやっぱり柔軟っていう言葉があるように柔軟な方が、
幸福と立派であるとか立派じゃない事と、
幸福、自分の主観的な幸福ってあんまり関係ない所にあるよなーって思ったりします。
あとね、病気のね、私発熱で運動会に行かなくて済んだっていうこのね、
普通に考えたら病気って、
かわいそうにせっかくの運動会、熱が出ちゃったのかわいそうにとかっていう見方もあると思うんだけども、
私はもうやった、病気になって熱が出てやったっていう感じで、
良かったって事はですね、病気になって良かったってなったわけで、
病気もね、病気イコール悪いことっていう風に決めちゃうと、
またそれはそれで狭まるんだけど、
例えば、よくある会社に忙しくずっと会社勤めしてて、
もう長年家庭の事も仕事の事も苦労がたたってね、
メンタル疾患と言われる不安とか鬱とか、
休むことになるようなケースもありますけども、
これもね、悪いことっていう風に思わなくていいような気もするんですよね。
そうなんですよね、なんか疾患になっちゃって、
もちろんね、会社休むっていうのはご迷惑はかけてしまうからっていう思いはあるかもしれないけれども、
でもそれによって助かってる部分っていうのもたくさんあるんじゃないかなって思います。
そうそう、私が発熱で運動会行かなくて済んだみたいに、
本当に苦しい、例えば人事的にね、
ここ休まないと、この人と上司とか部下でもいいんですけど、
もうとてもこれ以上はやっていけないみたいな人が当たっちゃってる時なんかにね、
例えば骨折ったでもいいし、メンタル疾患でもいいんだけども、
それでちょっとその期間、病急休職で、