それぐらいね、生きている時は評価されてなくて、亡くなってから非常に高く評価されて、今ではもうほんまにめちゃくちゃ有名じゃないですか、ゴッホってね。
これね、なんで亡くなってから有名になったのかっていうのが、このゴッホ展行くとわかるんですよ。
ああ、すごいな、これはみたいなね。
このゴッホ展のサブタイトルがですね、家族が繋いだ画家の夢っていうサブタイトルがついてるんですよ。
なんなのかと思ってたんですけど、これね、ゴッホってね、生涯短いです。
37歳の時に自分で自分の胸を打ってね、オリーブ畑でね、麦畑か、麦畑で自分の胸を打って、自殺しちゃうんですけども、そっからですよ。
これね、家族が繋いだ画家の夢でしょ。
これね、ゴッホの弟、そしてゴッホの弟の奥さん、妻ですね。
ギリーの妹になっておりますよね。
それね、ゴッホの弟の子供、要は甥っ子ですよ。
この3人がですね、めちゃくちゃ尽力したおかげ、結果でゴッホというものは、ファンゴッホはですね、世界中に認められたんですよ。
これがね、涙ながらですよ。めっちゃ感動するんですよ。
いや、そこまで後押しするんや、みたいなね、ことなんですよ。
ゴッホってね、画賞で絵を売買する会社に勤めたんですよ。
勤めてて、その同じ会社に弟も勤めるんですね。
弟の名前がテオドロスファンゴッホ。愛称テオなんですけど、このテオも同じ会社に勤めるんですよ。
で、お兄ちゃんは絵うまいから、才能あるよと。
これね、画家になったらええやん、みたいな。後押しするから。
もう画家になっちゃえなよ、みたいな。
ジャニーさん的なノリでファンゴッホにね、フィンセントにね、勧めるわけなんですよ。
じゃあ、画家になるかな、みたいな感じで、20代後半で画家を目指すわけなんですよ。
ちょっと遅咲きですよね。
そこから10年間、オランダとかパリに移ったりとか、アルルルに行ったりとかですね、またオランダに戻ったりとか、
いろんなことを旅というか、いろんな絵の勉強をしながらですね、画家としての一人前になっていくわけなんですよ。
でもね、生きてる間はね、全然評価されないんですよ。
でもね、画家になると絵の具のお金もいるしね、
あと住まいね、パリに行ったりとか、パリに移り住んだりとかするわけですよ。
それの家賃とかも、全部弟のテオが苦面してるわけなんですよ。
さらにね、テオの奥さん、ギリの妹にあたりますよね、フィンセントにとってみればね。
これがね、ヨハンナ・ファンゴッホ・ボンゲルって言うんですけど、愛称ヨウさんなんですけど、この妻も非常に協力的で、非常に支援してるんですよ。
このヨハンナさんはですね、オランダで民宿を営みながら、フィンセント・ファンゴッホの同志をしてるということでね、
弟と弟の奥さんが非常に手厚い支援をしてるわけなんですよ。
さらにね、フィンセント・ファンゴッホはめっちゃ手紙書いてるんですよ。
手紙をね、こういう絵を描けるようになった、この絵はこういう特徴で描いたんだよ、みたいなね、ひまわりとかね、有名な絵がありますよね。
こういうことに注目しながら描いたんだっていう手紙をね、弟に送るわけなんですよ。
で、テオドロス・ファンゴッホはね、その手紙全部残してんの。もう凄ない。
手紙なんてね、兄貴から手紙来たらね、捨てるでしょ、そんなもの。
全部、全部残してるんですよ。
だからその手紙の実物も展示してありますし、手紙も全部残しちゃうんです。
でね、フィンセントはね、絵を描きながらゴーギャンとかですね、いろんな有名な画家との絵も交換してるんですよ。
でもね、画家との間では割と評価されてたわけなんですよ。
その当時有名な画家と自分の絵を交換できてるってことは、それだけに評価されてたわけなんですよ。
でね、フランスに渡って独特な色彩も獲得し、非常にね、画家として超一流になってきたんだけども、
でも生前ね、全然絵が売れない。悩むっていうことで、うつ病になっちゃってね。
とりあえず全部成人になるまでは、ヨハンナさんが全部所有権を持ってるんでしょ。
私やったらね、もう全部売っちゃいますよ。そんなものは。
自分のお金欲しいし、もっと先立たれてるし、
第一次世界大戦とか、世界もちょっと怪しい時代ですよ。
お金欲しい。下宿いとらんでるけども、そんなに大金持ちになれないじゃないですか。
子育てもせなあかんし、下宿もするってことで、大変お金欲しい。
ゴッホの絵全部売っちゃってますよ。私やったらね。
でも売ってないんですよ。全然。
弟、お兄さんが、音楽のように、音楽を聴くように、人を癒せるような私は画家になりたいっていうことを整然言ってるんですよ。
それに同じく、弟もそのお兄ちゃんの夢を叶えたい。でもなくなっちゃった。
でも私やったら売っちゃってるけど、妻が展覧会開いたりとか、フィンセントの絵は素晴らしいよっていうことで、
どんどんどんどんアピールして売り込んでいくわけなんですよ。
知ってください。この画家すごいでしょってことをやっていくわけなんですよ。
すごないですか。血繋がってないんやで。
弟のお兄さんの絵を、世界中に彼は認められるべきだっていうことで動き回るわけなんですよ。すごないですか。
非常に上手くて。家計簿とかも全部残ってるんですよ。洋さんのね。
展覧会開くんだけども、非売品と売るやつを上手く分けてて、
非売品の横にこの絵は売ってますよみたいな感じで、小出し小出しに売っていくわけなんですよ。
売っていってアピールしていって、どんどんどんどんゴッホっていうのは素晴らしいよっていうことを売り込んでいって、
もうセルフプロデュースがめちゃくちゃ上手いんですよ。
全部が全部売ってないんだけども、もちろん生活のために売るんだけども、売り方も非常に上手で、
展覧会しながら、この絵は売れますよっていうことをやってきながら、大切なものっていうのは、
自分のコレクションに残しといたまんま、うまくフィンセントのことを売り込んでいくわけなんですよ。
これね、亡くなる前年にですね、1970年代ですね、あの有名なひまわりをですね、ロンドン美術館に売るんですね。
ロンドン美術館が買うということはですよ、あのロンドン美術館がゴッホの絵買ったでってなると、
ゴッホってめっちゃ有名なんやねっていうことが世界中に知れ渡るじゃないですか。
このひまわり売る時もですね、ひまわりたくさん描いてるんですけど、一番有名な資料集とか出てくるひまわりはロンドン美術館にあるんだけども、
痛みを伴った名製だみたいな感じで、本当は売りたくなかったんだけども、名製とかね、
リリーの兄の夢を叶えるためには、この痛みのある売却だということでね、非常に後悔してるらしいんですけども、
それだけね、非常にね、尽力したんですね。
それでヨウさん亡くなるんですけども、今度は御一子、要はですね、テオとヨウさんの子供ですね。
要はフィンセントから見たら御一子がその夢を繋いで、最終的にオランダにファンゴッホ美術館を開館したんですよ。
すごいじゃないですか。亡くなってから、周りの家族がフィンセントに対してですね、熱い思いで家族が繋いだ夢ですよね。
これでファンゴッホ美術館をオランダに建てて、一番有名、オランダで一番有名、さらに世界でも有名と言っても過言ではないです。
それだけの御一子というのはすごいよということをですね、家族が繋いでったわけなんですよ。
このフィレムの方はですね、御一子の方は非常に長生きで、ファンゴッホ美術館のコレクションが多く残っている。
手紙も全部残っている。確かに名声を得るためにですね、いろんな美術館に絵画を売ってはいるんだけども、
絵画の8割9割はまだ所有権を持っているし、永久に保存、永久に所有権を持っております。
それを対応したりとかして、なのでその多くのコレクションの中からこれは貸し出してもいいよということで、今ね、日本にやってきているわけなんですけども、
本当にね、家族のこの熱い支援、本当素晴らしいなというふうに思いましたね。