感情月間
【感情月間】ということで、
綺麗に一月に区切ることはできないかもしれないですけど、
今回のこの収録では、毎回収録で4本撮り、今、してるんですけどね。
その4本のうちの3本を、あ、2本かな。
まあ、わからないですけど、何本になるか。
感情月間にしてみようかなと思いました。
どういうことですか、感情月間っていうのは。
感情を一つ取り上げて、それについて語らうというものです。
僕らの感情を表す言葉を一個あげるのね。
私が一つあげたいのは、必ず取り上げたいのが一つあって、それが恥ですね。
恥?
恥という感情が、
恥は感情なのか。
わからないです。
でも恥を感情と定義する、そういう専門家の方も結構本でもたくさんいらっしゃいますし、
もしくはそれが根本だ、みたいな本も見たこともあってです。
根本?
人間の根本の感情なんじゃないかっていうふうに、
主張してらっしゃる方もいたりとか、
個人的に倉田さんのコンテンツよく触れているので、
恐れとか不安とかそっち系のはたくさん聞いているというのもあるかもしれないですね、私の場合は。
恥の感情
恥ずかしいと恥は同じ?
恥ずかしいと恥は同じ意味だと思います。
倉田さん何か取り上げたい感情はありますか?
今、恥を聞いたところで、
今日何食べようとか言って、じゃあカレーとか言ったとき、
口がカレーになったよとかっていうのはあるじゃないですか。
恥の恥の口になっているんですね。
そうするともうカレー屋が閉まってて、しょうがないうどん行こうかって言っても、
いやもうダメ、口がカレーになってるからっていう感じあるでしょ?
あります。
それと一緒で、今もう恥の頭になったから他は出てこない。
じゃあ恥で今日は行こうと思います。
人前に出るのが恥ずかしいとか、人前で堂々としたいけれども、
ちょっと躊躇してしまう、それがちょっと恥ずかしがってる感があるとか、
そういう方はぜひぜひ面白い回になるのではないのかなというふうに思います。
わかりました。
人はそんなに悪くない。
ほっこりするつねがりを思い出そう。
人間関係、知恵と、
それでは今日のお話、始まります。
知恵と、
そうなの?
はい、ということで、恥について今回は取り上げたいと思います。
取り上げるというよりも語らうというかね。
恥ずかしいはたぶん、リアルタイムに感じてる感じがするよね、そのとき。
今、人に見られてて恥ずかしいとかさ、
人前でおなら干してしまって恥ずかしいとか。
めっちゃ恥ずかしいですよね、おならね。
ブーッとかってね。
恥はそういうものが積み重なった結果、恥という感覚がどんと大きく襲ってくるような、
そんな感じの違いもありそうだけどね。
全部それで言い表せてない気持ちするんだけど、
雰囲気としては、言葉の違いとしては、恥ずかしいはその場で感じていて、
それが溜まってくると、ちょっと恥になるっていうね。
恥ずかしいの大きくて、なんか重いやつが恥みたいな。
恥ずかしい恥ずかしいと思っていると、だんだん恥になっていくみたいな感じかな。
本当に、負荷のないやつはテレみたいなことになるんですかね。
またちょっと言葉の定義が違うかな。
テレと恥ずかしいはちょっと微妙に違うかなって気がするね。
ではではです。
恥と罪悪感
恥っていう、感情だと今回はちょっと定義して話し進めていいですか。
恥っていうのは仮に感情だとしてです。
なんでそれが生まれてくるのかっていうのがすごく面白い、興味深い問いだなってすごい思うんですね。
千恵さんはちなみに、この恥に今興味を持って一発目に取り上げたのはどうしてなんですか。
これは前から恥っていう感情にも興味があって、
もともとこの人面白いっていう著者の方、岩風さんかな。
ちょっと名前が出ないんですけど、その方が恥に対してシェイムっていう本を出してらっしゃって、ちょっとした小冊。
それが当時の私にすごくリンクして、結構前なんですけど。
私は隠し事が多い人生だったので、マイノリティの性的なことについてもです。
あと仕事についても人に言うとちょっとやっぱり華厳な顔をされたので、情報招待で隠してました。
結構たくさんあったんですね、隠し事が。
それが全て一つずつなくしていく過程のステージに立ったのが、倉園さんとお会いするちょっと前ぐらいなんですよ。
私がこんなにしんどいの隠し事多すぎるせいやと思って、二度に何にも言われへんみたいな。
それで繋がりも浅くなるみたいな。
結構大元にその原因があるなっていう時にその方の本にあって、
倉園さんだったりとかのコンテンツでどんどんどんどんそういうものを手放していってっていうのがあった。
その経緯で恥っていう概念には常に興味を持ってます。
そっかそっか。
なるほどね。
つゆさんにとっての恥はそれをやってきて、今んとこどういう感じなんですか、答えを持ってるんですか。
恥とはこういうもんじゃないかなっていう。
恥とは。
私の場合は重い方ですね。
うんうんうん。
恥とはこういうものっていう、パッと出るような感じには今はなってないんです。
ですが、持ちたく、持たない方が気持ちよく生きれるものっていう意味付けがあります。
もうこの自然な流れと言って。
それは意味付けじゃなくて、多分本当のことじゃないかなって気がするよ。
そっかそっか。
僕もこれはずっと考えてるテーマです。
昔からね。
でもあんまり言葉として説明したりとかテーマとして取り上げたことはないんだよね、恥というのをね。
なんでかというと、僕にとっての恥はやっぱり罪悪感だからなんですよ。
だから罪悪感の話をすれば別に恥の話をしなくて済むなっていう、そんな感じがしてるね。
罪悪感を持たないようにしようっていうのはもう散々いろんなところで言う。
そうすると自然に恥もなくなっていくっていうか、と思ってるんでね。
なんかね、隠しておくっていうものがあるじゃん。
人に見せたくない。つまり恥ずかしいから隠しておく。
それは多分なぜ隠しておきたいかっていうと、自分にとっての罪だからなんだよね。きっと。
見せてはいけないもの。つまり罪悪感を持っているものだよね。
そうですね。
面白いことに、裸は見せないじゃん、人に。見せないでしょ。
だから多分僕らはもうこの自分の体に持っているんですよ、罪悪感を。
どんなふうに持っているかは人それぞれなんだけど、うっすら持っているんだよね。
だからそれは見せてはいけないってことになってるわけ。
でも例えば恋人同士とかだと、最初はあるかもしれないけど、だんだん見せられるようになっていくじゃん。
そうですね。
これは許したってことなんだよね。互いの、その裸をね。
あなたの裸、許します。私もあなたの裸、許します。
これが成り立つと、見せることができるようになるっていう。
これが恥ずかしさだと思うよ。
それで、これがいわゆるちょっとコミュニティとか集団になってくるじゃない。
そうすると、見せる見せないをもっと通り越してね。
ここに罪を犯した奴は罪人だっていう序列みたいなのがつくでしょ。
コミュニティの中でね。多分罪人って一番下なんだよ。地位が。
王様から数えていくとね。
で、罰を与えられるみたいな目に合うじゃない。
その状態を恥と呼ぶようになってるんじゃないかなって気がする。
だから恥ずかしいというのは、そこにも社会があるんだけど、
どちらかと言ったら本当に個人の中で関係する感覚なんだけど、
恥はそこにもうコミュニティの仕組みみたいなのがあって、
その中で私は罪人の位置にいるんだというこの感覚。
これが恥だっていう、そういうことなんじゃないかな。
確かになんかこう、私の体験談であれですけれども、
例えばです。
これは結構前の、本当にもう30代ちょい過ぎか20代後半ぐらいの話なんですけど、
とある知り合いの方にです。
その時結構よく接点があった方なんですけど、その方に、
ちえちゃん、そういう女性が好きっていうことを、
あんまり人に言わんほうがいいで、と言われたことがあったんですね。
当時は12、3年前ですかね。
やっぱり当時東京に住んでましたけど、
そこもやっぱり状況は今とは全然違うわけですよ。
今もね、行けばすごいオープンだし、
行くとこに行けばオープンだけど、行くとこに行けばめっちゃクローズやしみたいな。
それは変わらないんですけど、それでも今のオープンさえの多分半分ぐらいだったんですよね。
行くとこに行けばオープンっていうのが今の半分ぐらいだったので、
やっぱりちょっとこう、私その頃何も気にせずに自分のそういう性的マイナスっていうんですか、
そういうのを言うてたんで、
それはちょっと損してるでって思いやりで言ってくれはったんですね。
やっぱり色眼鏡で見る人がいるから、
だからそれは本当に親しくなった人だけに言ったらいいんじゃないみたいな。
びっくりする人もおるし。
すごく思いやりが伝わったので、
そうなんや、みたいな。
当時、私何でもそうなんや、そうなんやって、
何でもそう思って、自分で判断するっていう癖が全くなかったので、本当になかったので、
そうか、世間はそうなんだ、みたいな。
言わなくなったんですよ、そこから一切。
やっぱりちょっとさっき倉田さんがおっしゃった、
罪悪感っていうんですか、自分の根幹となる部分にちょっと罪を見るみたいな癖が。
そこから積み上がっていったのを今思い出しました。
多分そうだと思うんだよね。
でもその人はどうして言わないほうがいいって言ったのかな。
仕事関係の方だったのでです。
仕事であなた損するよっていう。
もっといろいろやりたいことあるでしょ、みたいな。
私があっぴろげに喋ってたら、びっくりしてる人たちもたぶんいたんでしょうね。
私は気づかなかったんですけど。
もっとうまく立ち振る舞いしなさいよ、みたいな。
大人の要領よく、みたいなことでたぶん言ってくださったなと思うんですね。
悪意は全然ないのもすごいわかりましたし。
だからやっぱりその感覚はやっぱり罪の意識だよね。
周りの人の視線というのをその方は予想して、気にしてやめた方がいいよって言うんだけど、
その視線はどういう視線だって言ったら、マジかっていう、やっぱり罪の視線だよね。
時代もあるんですけど、例えばレズビアンっていうことがアダルト一色だったので、当時は。
今はなんかちょっと違う風潮がありますけど、LGBTとかそういうことをみんな知ってるし、みたいな。
その頃は当時みんな何も知らなかったです。
だからそれで十何年経って、ずいぶんとそこが昔よりも、
恥の役割とは何か
なんて言ったらいいんですかね、その得意な目で見られなくなったっていう感じは千恵さんも今してるんですか。
私はちょっと今どちらかというとクロードなところに住んでいるので、今もガチガチに感じてますが、
それはもう何でしょう、そんなに取り乱しはしないですね。
知らない、得体の知れないものだから怖いんだろうなっていう感じがすごいあります。
年代が上の方が多いので。
もちろんそれはそうでしょうね。
でもその世の中の雰囲気というかね、アタリのキスさんみたいなのは、
その12年間の間に変わっては来ているのかな。
正直に言っていいですか。
いいよ、いいよ。
私、日本にいるときは思わないですね。東京にいても思わないです。
最近は遊びに行ったりはしないですけど、こっち帰ってきた頃ちょくちょく行ってたのがまた4,5年前ですから。
思わないですね。
変わってない。
やっぱりみんなちょっと、あ、みたいななんて言うんですかね。
頭にそれがないんですよね、選択肢として。
そういう人が存在するっていうのがデフォルトにある人が本当に少ないので。
そっかそっかそっか。
やっぱりちょっと、あれですね、言うときはその人をびっくりさせないとか、環境とかいろんなことを考慮して話すようにはしています。
それが、たとえば日本にいる海外の人とかと話すときとかは、あんまりない傾向が、やっぱりなんとなくですけど、それはあります。
なんか慣れてるのかな、みたいな。
そうですね。
だからやっぱりその、そのやっぱりこの、意図してないとは思うんだけどね。
なんかこの異質なもの、つまりやっぱりこれは罪悪感なんだよね。
罪と見ているこの感覚。
なんか悪いことしてるような感じ、みたいなね。
おそらくそこまでその心の中でね、こうひどくは認識してないと思うんだけど、もうほぼほぼ反応のような感じだね。
その思いが上がってくる。
ここをやっぱり僕らは、これからクリアしなきゃダメなんだろうなと思いますよ。
別にその今のね、千恵さんの話は、ジェンダーの問題というかね、そういう話なんだけど、もっともっといっぱいあるよね、きっと。
それだけじゃなくてね。
全域にわたっていて。
そうですね。
この恥ずかしい、もしくは恥みたいな言葉、日本だと多分その言葉で表すことが多いんだけども、多分これは罪悪感なんですよ、きっと。
2つあるよね。
自分に対する罪悪感と、そして人が自分と違っている行動とか趣味思考みたいなのをしてる時に、なんだこれ罪じゃないの?ってこういうふうに見てしまうこの感覚。
そう、だから千恵さんが最初に言ったみたいに、多分これはない方がいいんですよ、きっと。この恥という感じはね。
一つ疑問が出たんですけども、不安や恐れがないと、無茶をしすぎるみたいな話が出てくるのかなと思ってて。
なので、そういう感情にもしっかり役割があるんだなっていうのを、グッドバイブスのお話だったりを通して感じてるところがあったんですけど、恥っていうのを一つの感情だと仮定するなら、何かあるんですかね、役割って。
だから、これは最近ではだいぶ少なくなってきたけど、例えば武士の時代、武士としての恥だとかって言って、自分の行動を正そうとしたっていうのはあるでしょ。
それからたぶん戦時中の日本も恥晒しみたいなことで怒られるとかっていうのもあるじゃない。だからやっぱりこれは、それは罪を犯してるぞっていうのの言い換えに過ぎないんだよね。
でもそれはね、何を言っているのかって言ったら、例えば間違いとかね、それから失敗とかさ、それからそうだな、例えば勘違いみたいなのもあるかもしれない。
そういう人間の困った行動とかね、そういうものに対して恥知らずとかね、恥を知れとかって言うわけじゃない。
でも僕はその恥の感覚なんかなくても、人はそういうものをちゃんと正せると思うのよ。
知恵さんだって、例えばなんかこう、まずいことしたなとかね、ここちょっとやっぱり問題だから修正し、もうちょっとよくしたいなとかね、そういうふうに思う時に、別に毎回恥を感じる必要はないじゃん。
たぶん純粋に何ていうのかな、ここは直そうかなとかね、ここの行動を改めようかなというのは僕らはきっと冷静にできるはずなのでね、
そこにそれを変えさせるためには、あえてその恥みたいな言葉を使う必要はないんじゃないかなって気がする。
なんか嫌じゃないですか、恥だよ、知恵さんそれは恥だぞとかって言われて、わかりました、じゃあ改めますとか言わなくても、知恵さんそこをした方が良くないって言って、そうですねって言ってやればいいだけのことじゃん。
だからやっぱり僕らの中にそのように恥だとか恥知らずぐらい言わないと人は改めないっていうそういうちょっと不信感があるんだよね、きっと。
そういうことになんか僕は恥という言葉が使われてきた感じがするかな。
なんか忘れちゃったんですよね、見といたらよかったな、また別の機会にお話しします。
その本には恥にもしっかり人が生きていくための役割があるみたいな、ちょっと忘れちゃったので、私に対してひびしてなかったのかわからないですけど、でもまた見た時にお話しします。
結局、さっきの恥ずかしいで言うと恥ずかしいものは隠すでしょ、僕らはね。恥ずかしいものは隠すということはやっぱり自分の中に人には見せてはいけないものがあるということじゃない。
もちろん今、外を歩くのに裸で歩くみたいな話をしてるわけじゃなくて、そこはもうこの話は別にね、そういうことはありえないわけだから、別に裸に関して見せなきゃいけないという話をしてるんじゃなくて、前話で自分をちゃんと正当に評価してあげたいねって話したじゃん。
それっていうのは、人に見せてはいけない、隠しておかなきゃいけないものがあるということの真反対じゃない、それって。だから知恵さんがそれは言わんほうがええでって言われたってことは、それは人に見せてはいけないことっていうのを自分の中に持っちゃうじゃん。
そんなものがないほうが僕はいいと思う。
知恵と。
恥と罪悪感
さて、今日の会をお聞きの方は何か恥ずかしいなとか思ったことあるでしょうか。
ぜひぜひ今回の会の恥っていう感情は罪悪感が元になっていることが多いかもしれないよっていう話、ぜひぜひ聞いてみていただけたらなというふうに思います。
あと、あれも貼っておきます。私が読んだ本、面白かったので。
確かシェイムっていうタイトルだったと思うので、それのリンクも貼っておくので、ご興味のある方は読んでください。
このポッドキャストでは、あなたからのご相談、ご質問、こんなテーマ取り上げてほしいなどなどお待ちしておりますので、気軽に概要欄のお便りからお送りいただければと思います。
では蔵殿さん、今日はこんな感じで終わりましょう。
はい。
今夜もほっこりした夜をお過ごしください。さようなら。
さようなら。