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おはようございます。英語の歴史を研究しています慶應義塾大学の堀田隆一です。 このチャンネルでは、英語の先生もネイティブスピーカーも辞書も答えてくれなかった英語に関する素朴な疑問に、英語史の観点からお答えしていきます。
毎朝6時更新です。ぜひフォローして、新しい英語の見方を養っていただければと思います。 今回取り上げる素朴な疑問は、なぜ命令には動詞の原形を使うの、
というものです。 これ確かに言われてみれば、習うときは、命令するときは動詞の原形をそのまま使いなさいというふうに習いますね。
原形というのは、辞書の見出しの形でもあります。つまり裸の形で、後ろにsもつかなければedもつかないしingもつかない。
裸の形ですね。 これは原形なわけですが、命令文においては、これを原形をいきなり使いなさい。
主語を抜いて、言うというものを省略して、いきなり動詞、しかも原形で始めるというのが英語の文法ということで、これを習うわけです。
calm down から look out から wait a minute
be nice to the dog とかですね。 このように、確かにいきなり動詞の原形で始まるということがありますね。
これは何でかということです。 いろいろな答え方があると思うんですね。
角度の問題なんですが、言語学的に考えてみましょうかね。 この不変化の形、これが原形なわけですが、使うというのはですね、
命令文というのが、一種簡単文、叫びですね。 それ自体で完結する一文となり得る性格を持っている。
ということで、裸にせずに、そのまま感情から出たかのように、動詞も裸のままで使う。
これによって、感情がそのまま、自然の発露と言うんですかね。 そのまま出る。
これは命令の持っている感情の発露という性格と、形上裸であるということとが同じ方向を向いている。
非常にお似合いだということですね。 そういうことなんじゃないかと。
簡単詞であるとか、関東詞のようなものである。
確かにですね、例えば、ヘルプ、ウォーターという時ですね。 水持ってきてという時ですが、分解すれば確かにこのヘルプというのは、助けてという動詞の原形で命令ですよね。
だけどウォーターというのは、分析すればこれ、名詞ということになります。
だけど気持ちとしてはですね、ヘルプ、ウォーター、一個一個が完結していて、動詞も名詞もない。
一つでそれぞれが関東詞として、感情の発露になっているということですね。
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この感情の発露、しかも切羽詰まった時に言うわけですね、ヘルプ、ウォーター。 こんな時にいちいち語尾なんかつけているということは、そもそも発想できないですよね。
そのまま感情の発露として、自然の発露として、裸の形が出るということと、命令というのは、形式と機能が同じ方向を向いている感じがするということですね。
別の言い方をすれば、言語が文法的形式にとらわれずに、その心の急なままに原始的自然の言い方に還元されたものと、こういうような説明というのが一つあり得ると思うんですね。
これは言語学的な、あるいは認知的な説明の仕方だと思うんですね。
このラジオでは英語史、英語の語源であるとか、英語の歴史ということを考えていますので、歴史的に見るとどういうふうに説明できるかというと、これはですね、だいぶ違った説明になってくるんですね。
1000年ぐらい前に話されていた古英語という時代ですね。古い英語の時代に遡りますと、この原形に相当するもの。じゃあ、goっていう単語でいきますか。行くですね。この単語でいきますと、原形に相当するものはがーんという形だったんですね。がーにnがついた形です。
このnというのが原形の語尾なんです。今ですね、原形というと、とにかく裸の形ということなので、それに何かつくという発想はないと思うんですが、古英語の時代にはですね、原形となるからには何らかの語尾がつくと決まっていて、これ典型的にnなんです。がーんという形ですね。
そして、これが実際の文の中で使われる時には、いろいろと形を変えます。例えば今でも三単元のsというのがありますが、古英語でもそれぞれですね、がーんの部分の次にですね、何か違う語尾がつくわけですよ。命令形も実はですね、特別の語尾がつきまして、命令というのはあなた、二人称ですよね。
二人称に対する命令ということなんですが、古英語では実は2種類あります。これ、単数のあなたと複数のあなた方に対して命令するときは違う語尾がついたんですね。そしてまず単数、二人称単数であなた一人に命令するときはがーとなります。
これは語尾がつくというより、むしろ原型のがーんから見るとnが取れたというふうに見えますが、こういう特別な形を使うわけです。原型とは違うということがポイントです。原型はがーん、nがあったのが、二人称単数への命令はがーなんですね。
さあ次にですね、二人称複数あなた方への命令形はどうなるかというと、ここにthがつくんですね。がーす、thですね。がーす。つまり全て違う形なんですよ。原型はまずがーんですね。そして二人称単数への命令はがー。
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そして二人称複数への命令はがーすというふうに異なっていたということです。簡単に言えばですね、これが全て形状ですね。後の英語ではですね、goという一つの形に集約されてしまったということなんですね。
つまり結果的に発音の都合でですね、集約されてしまったgoが今、原型と呼ばれていたり命令型と呼ばれたりしているということで、ある意味たまたまなんです。原型と命令型が一致しているのということです。つまり歴史的に見るともともと違っていた。
もちろん木の役割が違うわけですから、違う語尾がついたりして形が異なっていたというのは非常に分かりやすい話で、それが歴史の過程でいくつかの変化を経た後でですね、結局集約、修練されてしまったということに過ぎません。
この結果的に集約されたものをですね、話題にして命令型と原型は同じ形である。その心はといってもですね、英語史の観点からはもともと違っていたんだ。それがひょんなことで一致してしまったんだという見え方になります。
ですから最初に述べたですね、言語学的な説明といった、いわば命令というのは簡単詞に近いもので感情の発露がというような説明ね。これも一つ確かに踏み落ちる説明ではあるんですね。言語学的な立場からはそれなりに受け入れられるだろう説明だと思っています。
一方で、それでは全く異なる歴史的立場、英語史の立場から見ると、いやいやもともと全て分かれていたのが違う形だったのが発音の変化によって集約されてしまったというだけで、そこに何か深い意味があるわけではないというような言い方も可能なんです。
どちらが正しい説明かということはあまり問うても面白くないと私は思っていまして、それぞれの立場からそれぞれの説得力のある説明がですね、出てくるというこのことが私は面白いと思っているんですね。
では最後にですね、小英語の原型のがーんと命令形二つのがーとがーふでしたよね。これが何で一緒になっちゃったのかっていう最後その経緯を説明して終えたいと思うんですが、まずですねがーんとえぬがある原型のほう、これはですね、英語の歴史で一般的に起こっていることなんですが、語尾のえぬっていうのが弱まって最終的に落ちてしまうんですね。
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小英語にはあったものが中英語、それから近代語にかけてどんどん落ちてきます。で、結局がーんになっちゃったってことです。
まあ、母音もまあ、goに変わるわけですが、こうしてまず二人称単数向けの命令形と不定詞がこうして一致してしまいました。
そして最後に残ったのが二人称複数への命令であるがーすというTH。このTHは比較的しっかりした詩人なので普通に考えれば落ちません。
弱まって落ちるっていうことでなくなったわけではなく、そもそも二人称の単数複数の区別が一般の代名詞でもなくなっちゃったということです。
今でもUといえばこれ、あなた一人なのか複数なのか状況見ないとわかんないですよね。昔は分かれていた。ところがこれがある理由でですね、一緒くたにUにまとまってしまった。
なので連動して動詞の方もですね、単数複数区別しなくなったということです。
ではまた。