2025-11-10 1:03:36

#478. 英語ヴァナキュラー談義(岡本広毅&堀田隆一)

#heldio #英語史 #英語教育 #英語学習 #hel活 #英語史をお茶の間に
---
stand.fmでは、この放送にいいね・コメント・レター送信ができます。
https://stand.fm/channels/650f4aef0bc9d6e1d67d6767

サマリー

このエピソードで、岡本広毅氏と堀田隆一氏は英語ヴァナキュラーの歴史や文化的背景について語ります。彼らは特に、映画『グリーンナイト』に関連してアーサー王物語に触れ、その文学的意義やローカリティについて分析します。中世英語の作品『ガウェインと緑の騎士』について、言語のローカリティや詩的表現の変遷、その文学性を深く議論します。また、ノルマン征服による言語の変化や古い英語の表現の特徴が強調されます。このエピソードでは、『ガウェインと緑の騎士』における緑の騎士の象徴やその意味を掘り下げ、アーサー王物語の歴史や文化的背景についても触れています。特に、緑の意味やアーサー王宮廷のローカリティについての考察が展開されます。ポッドキャスト第478回では、中世英文学の傑作『サー・ガウェインと緑の騎士』について議論が行われ、作品におけるヴァナキュラー英語の重要性や英語の文化的アイデンティティについても掘り下げられています。ポッドキャストでは、英語のヴァナキュラーや言語使用について岡本広毅氏と堀田隆一氏が多様な視点から議論を展開しました。

英語ヴァナキュラーの紹介
おはようございます。英語の歴史の研究者、ヘログ英語史ブログの管理者、 そして英語のなぜに答える初めての英語史の著者の堀田隆一です。
9月21日水曜日です。いかがお過ごしでしょうか。 英語の語源が身につくラジオヘルディオ。本日の話題は
英語ヴァナキュラー談義)岡本広毅先生と堀田隆一の対談となっております。 こちら9月20日火曜日に収録したものをアーカイブとして配信するという形で皆さんにお送りしたいと思います。
ぜひお聞きください。
皆さんこんにちは。ケルフ会長のマスニャンです。 KOHISTORY OF THE ENGLISH LANGUAGE FORUM略してケルフとは、
慶応美塾大学の英語史ゼミ堀田隆一研究会をベースとし、現役の学生に加え卒業生、 通信教育部の英語史専攻の学生などからなるフォーラムです。
英語史の学術を通じて互いに学び合い、さらにはそれらを発信し、 英語史の面白さを広く伝えるということを目標としています。
4月、そして7月に発行した英語史新聞はツイッターでも広く拡散され、 多くの方々に楽しんでいただきました。
ケルフ公式ツイッターでは、また今後も様々なお知らせをしていきますので、 フォローがまだの方は是非こちらもフォローをしていただければと思います。
そして本日、このケルフカンファレンス2022ということで、 こうして複数の大学を含む様々な方々に参加をしていただけることを大変嬉しく思います。
それでは、今回のケルフカンファレンス2022の目玉企画のお時間です。
はい、まさにあんに紹介いただきました、ホッタリュウイチです。
以前より予告していました通り、本日この14時50分から1時間という枠でですね、 立命館大学の岡本博紀先生にお越しいただきまして、
私ホッタと対談するという、そういう企画を作りました。
題して英語バナキュラ談義ということでですね、 関連するグリーンナイトという映画の話であるとか、まさに14世紀後半ですね、英語という言語がどのような位置づけにあったか、
いわゆるバナキュラと呼ばれていた時代なんですけれども、 この辺りについてですね、
雑談ですね、いつものように雑談ということでいたしたいと思います。
ちょうどあの今最初にまさにあんから説明があったようにですね、 いわゆるウチワではゼミ合宿の真っ最中でして、その1時間の枠をですね、
公開収録みたいな形でお送りしているという次第です。
質問などもいただきまして、事前にですね、それを読み上げてもらう係として、 学生のKさんと呼んでおきましょうかね。
Kさんにもアシスタントとして、お願いし、進行をお願いしたいと思います。
じゃあ、Kさんからまず。
司会を本日務めさせていただきます。司会のKと申します。
それでは私の方から簡単にではありますが、岡本博紀先生のご紹介をさせていただきます。
岡本先生は立命館大学文学部国際コミュニケーション学位置の準教授であります。
岡本先生は中世イングランドの言語と文学のご研究をされています。
また、2022年11月25日公開予定のグリーンナイトという映画の字幕の監修もされていまして、本日の対談ではワラキュラだけではなく、グリーンナイトについてのお話も伺えるということですので、岡本先生本日はどうぞよろしくお願いいたします。
ありがとうございます。よろしくお願いします。
すみません、登場がすっかり遅れてしまいましたけれども、こちらの話が長く、岡本先生よろしくお願いいたします。
岡本先生とは今、Zoomでつないでいる形で、とうとう聞こえているといいかと思うんですけれども、このトボイシにはもう3度目ということで、今までも似たような対談を行ってきました。
念のためにですね、振り返っておきますと、1年前ですかね、最初は2021年の11月20日に173回の放送で立命館大学岡本博先生との対談、国際英語とは何かという、かなり21世紀的な話、国際英語という話で対談させていただきまして、その後ですね、今年に入ってから6月21日です。
386回の放送で岡本博先生との雑談というタイトルでしたね、サイモンフォロビンの英語志望について語るということで、このサイモンフォロビンの英語志望について語るつもりだったんですが、話がどんどん流れてバナキュラー、談義にまさになったんでしょうね。
ちょっと面白かったので、今度もこの続きということでやろうということで、本日9月20日ですけれども、この場をセッティングするに至ったということです。
ただですね、これまた話が流れてしまう可能性が高いんですが、ちょうど岡本先生が今、Kさんから説明があった通りですね、映画のお仕事に絡んでいるということで、簡単に岡本先生からご紹介をお願いできますでしょうか。
そうですね、ちょうどそういうお話をいただいて字幕監修という形で、11月末に公開されるグリーンナイトという映画がですね、向こうではもう1年前ぐらいに上映されているんですけども、日本には今年来ることになってまして、
この作品はですね、中世絵文学の中でも、画園郷と緑の騎士という文学史をやっていれば出会う作品があるんですけども、こちらを原点に映画としての本案作品というか、非常に大枠としては忠実な形で、
本作品の映画的にも歴史に残るような作品なんじゃないかというふうに思うんですけど、それがいずれにしても日本に公開されるというふうになっています。
11月25日、全国公開ということですかね。IQがトランスフォーマーという会社で、美しい壮大なダークファンタジーという、確かにそうだなと思いながら、ダークファンタジーっぽいかなと。
字幕担当が松浦美奈さん。そしてその字幕の監修というお立場で、岡本先生が任に就かれていたということで、岡本先生といえばですね、これアーサー大物の作品の一つなわけですね。
その中で非常に有名な中世英語の最大の最高のロマンス作品と言ってもいいのかもしれませんけどもね、英語では。このアーサー大物に関しましては、岡本先生は2019年に、いかにしてアーサー王は日本で授業されサブカルチャー界に君臨したかという強調の形で水木書林から出していまして、
作品の言語と時代背景
まさにいかにしてアーサーのいかあさがですね、これが非常に注目されまして、それで岡本先生もこの界隈でね、いろいろと発信されるっていう機会も多くなったのではないかと思いますが。
はい、まあその本もきっかけとなっているというふうに思いますね。こうやって、そういう字幕とかのことで少し登壇というか、話をいただいたっていうのは、そういったところでの。
絶対あるでしょうね。
長いですね、タイトルやっぱり。
長かったですね、いかあさ。
よろしくお願いします。
このアーサー王物ということの一環の作品なんですけれども、そもそもこのグリーンナイトであるとか、その元本である英語ではサー・ガウェイン&グリーンナイトと、ガウェイン卿と緑の騎士と翻訳されている作品なんですが、これについてそもそもよく知らないという方もリスナーの方で多いかと思いますので。
時代背景であるとか、この元の文学作品の方ですね。こちらから簡単にお話いただきたいんですけれども。
今からもう500年くらい前で、14世紀末に英語で書かれた作品なんですけども、先ほどあったようなアーサー王物語という、ブリテン島の先住、もともと住んでいた人たちの語りの中で生まれた英雄の物語というものが、中世のヨーロッパで非常に人気になったんです。
そのアーサー王物語、あるいはアーサー王伝説の中の一つのエピソードというか、しかも11月に公開されるというのは非常にタイミングが良くて、これはやっぱりクリスマスのゲームを巡る話になっているということですね。
アーサー王宮廷というのは、キャメロットという王都ですけれども、そこで大体物語というのは、宴の席で何かをしていた、自分たちとは関係のない外から誰かがやってきて挑戦をする、そういうふうな枠組みがあるんですけども、
今回のアーサー王物語の一エピソード、災害のグリーンナイトという作品では、そのタイトルにも少しなっているように、緑の騎士という全身緑色の大男が、突如クリスマスの宴の席にやってきて、互いの首をかけたゲームを行うという、そういう挑戦状を叩きつけるようなものがあります。
こういう物語が14世紀の末にイングランドの、当時の中心的なロンドンというよりかは、書かれた、あるいは書いた人物の背景としては少しローカルなイングランドの北西部の方で、あるいはそこに質疑を持つ何らかの関係のある人間が書いたんじゃないかということが、いわゆる言語的な分析とかそういったところも含めて、
ローカルな作品が奇跡的に、写本と言うんですけど、それが一つ残っているという形で、今もこうして継承されて、映画になるような奇跡的な傑作とさっき言われましたけど、まさに傑作として残っているという。
今、いろいろなキーワードを挙げていただいたと思うんですけれども、ローカルであるとか、時代背景としてはその514世紀後半ですかね、ちょうど有名なジェフリーチョーサーがカンタウィリ物語を書いたっていうのと、ほぼ同じ時代ですね。
同じ時代の写本に一つ残っている。
幻想しているものは一つなので、これが失われていたら物語が伝わっていないという話ですので、偶然といえば偶然ですけどもね。
これカンタウィリ物語はチョーサーという人が書いたってことになってるんですが、このサーガンウェイン&グリーンナイトですが、これは書かれた人はわかっているんですか?
そうですね。作者はやっぱりわからないということになっているので、このガウェインを書いたガウェイン詩人とか、もう一つ有名なパールという作品があるので、パール詩人とかっていうようなそういう言われ方をして、
大体の中世の現代と違って作者がわかっていないものが多いので、作品名からなんとか詩人とかいう言い方が多いんですよね。
同じ写本にたまたま入っていたもう一つの作品パールというのも同じ人が書いただろうということで、パール詩人とかガウェイン詩人という言い方になっているということですかね。
その場合、作者は不明だけれども、どうもローカルっぽいっていう感じなんですね。それはどんなところからわかるんですかね。人物像って言いますか。
そうですね。確かにまず一つ言語が、明らかに今の方言という言い方をしていいかどうかわからないんですけども、いわゆる中央部で書かれていたものと言語的な特徴がいろいろと違う。
ところが大きな、なぜローカルで書かれたかという研究が非常に進んでいるので、方言学とか言語学的な知見からというのもあるんですが、もう一つ大きな要因としては、この作品は実は先ほどダークファンタジーというのがあったので、
いわゆるファンタジーの源流とかルーツというような位置づけがあるんですね。アーサー物語というと、皆さんそういうファンタジーって思い浮かべると思うんですけども、ファンタジーとかアーサー物語っていうのは、だいたいこのロケーションとかあんまりぼやっとしている。
通常であれば、あまり地名がどこどこで行われているとかっていうのが、ぼんやりファンタジーの世界っていうこともあるんですけど、この作品に関しては非常にローカルな地名があって、しかもイングランドの北西部あるいはウェールズの北のあたりからガウェイという主人公が旅をして、
最終的にイングランドの北西辺りに行ったんじゃないかということで、彼の旅の童貞がたどれるような地名を残しているっていうところがあって、こういうローカリティーを書き込めるっていうのはやっぱりそこに何らかの関係のある彼が精通した人物なんじゃないかっていうことですね。
おだしょー 面白いですね。なんか拠点みたいなところは地名なんか名前がついていたとしても、わりとたどれるみたいなんですね。本当にね。この作品の場合、その意味でローカルっていうことですかね。
一つ目に挙げていただいた言語、方言っていうことで言いますと、大体比較されるのはやはり調査だと思うんですね。同じ時代っていうこともありますし、調査はもう完全にロンドンの言葉ということで、現代にもわりと直につながっている、現代標準語につながるので、わりと読みやすいんですが、調査で中英語読めるようになったなと思ってガウェインに行くと、もうさっぽりっていうか、
もうさっぽりっていう感じになったりしますよね。
おだしょー 本当にそこがすごい壁のようにあるみたいで。
ありますね。
中世英語の特徴
おだしょー 本当になんかその、我々からしたらあれですね、同じ外国語として、英語っていうのは一つの外国語なんですけど、中世の英語っていうのはもう一つだけの外国語みたいな感じがあると思うんです。
方言語ね。
おだしょー さらに方言に行った時に、皆さんが小英語とかやるとやっぱりだいぶ違う程度と一緒で、ガウェインの英語っていうのは果たして英語って言っていいのかというようなものがたくさんあるぐらい、調査は比較的フランス語は多いんですけど、ガウェインは実はフランス語多いんですけど、土着のその土地に根付いていたローカルな言語っていうのが多く書き込まれています。
そうですね。非常に、読んでいく中でもローカルさを感じるというか古風さっていうかね、地方性みたいのを感じさせるわけなんですけれども、もう一つ言葉上の特徴について先に述べておくと、調査っていうのはいわゆる脚印っていう、大陸から来たような韻律の取り方ですよね。
行末の母音で合わせるっていうものなんですが、このガウェイン詩人は陶韻なんですよね。
後頭の詩音で踏むっていう、水と油のような脚韻と陶韻っていうことで、そのあたりもアンチロンドンっていうか、アンチ中央みたいな雰囲気で、余計にローカル性みたいなのが出てくるっていう。
そうですね。この後頭で合わせるっていう。これ先生とか教えられるときなんか例を出されると思うんですけど、セブンイレブンいい気分とかよく言われたって、これは語尾ですよね。
インテル、インサイドとか言ったら一応後頭なんで、後者の方が英語元々のゲルマン系の音の作り方っていうことですよね。
そうですね。小英語では陶韻で作る詩っていうのが基本で、脚韻っていうのは基本的になかったと考えていいぐらいなわけなんですが、
それがノルマン征服によって大陸のものが入ってきて、一気に音律のタイプって言いますか、好みみたいなものも変わってしまったっていう、大きな劇的音律上の変化っていうのを英語を経たんですが、
それにもかかわらず、このガウェインはだいぶ小英語から、もう時代は数百年経っているのに、なぜ陶韻っていうのは、これは文学史上っていうか英語史上も謎でやり続けてるんですよね。
そうですね。この作品が一つという、いわゆる古いものを復刻させたのか、それとも水脈としてそのまま残存していたのかっていう、大きな議論を呼ぶような。
そうですね。 あるいは意図的に、いわゆる古めかしくしているのかっていうような。最近だと、この作品を孤立的に見るのではなくて、あくまでもそういう調査とか、あるいはさらに大陸を超えたヨーロッパとの文化との接点であるとかっていうような、非常に幅広い見方で読まれることが多いんですけど、
ただそのローカリティといわゆる今まさにグローバルみたいな、同居しているような作品なので、こういったところも一つ大きな魅力になっているのかなというふうに。
当院の魅力みたいなのを感じるわけなんですけれども、原文を読んでいると、それがリバイバルなのかサバイバルなのかっていう問題であるとか、古めかしいっていうのはやっぱりローカル、つまりアングロサクソン的って言いますかね、まだノルマン政府、フランスに侵されていないような時代を彷彿とさせるので、
ローカル色っていうものとつながってくるっていう、そういうところはあるかなと思いますね。話の中身は本当に和訳も出ていますし、いろいろと出ているので、リスナーの皆さんにも読んでいただけると、本当に文学性高いですよね。
文芸作品の再評価
私も最初に読んだ時もグロッサリ、後ろの辞書を引きながら、本当に読み慣れたいことは全くないんですが、読み進めていくと本当に格調高い言葉が並んでいて、私最初に読んだのはいつだったかわからないんですが、やっぱり強烈に印象に残っているのが色ですよね。
もちろんグリーンは当然なんですけど、その他の色もですね、白だったり灰色だったり、ブルーだったりっていうロマンス作品なので、そういうのは描写はもちろん多いんだと思うんですけれども、妙に色の描写っていうのが残っているんですけどね。
ですので、今回の映画なんかもとても楽しみなのは、完全にビジュアルに訴えかけるメディアなわけですよね。文学と違って。なので、この辺りがどう描かれるのかっていうのは、細かく見ていきたいなと思っているんですけどね。
まさにこの作品が、最初に発見されたり発掘されるのが19世紀なんですけど、その時はあくまでもタイトルはないんですよね。
そうですね。書き込まれてないわけですよね。
そうですね。後の皇帝本というようなものを作る人が、この作品はガウェインと緑の騎士との話だということで、ガウェイン・グリーン・ナイトというタイトルを付けたということで、緑の騎士になって、
完全に色は最大の問題点というか、疑問が起こるところで、その辺りは本当に今回の映画でもいろんなシンボリックな話題とか、非常に興味深い。
ちょっと読み解くのが楽しみというか、非常に細かいところまで作り込んであるのかなと期待したりするんですけれども、字幕監修についてもお話を聞きたいんですけれども、具体的に私も関与したことがありませんし、どういうお仕事なんですかね。
僕も少しそういうスクリプト、もうプロの方がやられてるんで、それを少し拝見して、主に古めかしい言い方とか歌みたいなのが少し入ってる箇所があって、それがそもそも何語なのかどうかっていうのが少し不明なところもあって、実際に見てみると中英語であったりとか古い英語だったっていうことが判明してまして、
しかもそれは映画に関わった方が自分で作っていたりもして、いわゆる擬似中継というか、昔のそういう歌とかをですね、自分なりに古めかしい英語で作って、映画のバックサウンドであるとか、そういうのに使われてたりとか、そこの歌詞とかを少しお手伝いさせてもらったりとか、
あとは、この作品はやはりですね、監督さんが若い頃にこの作品を読んでやっぱり非常に魅了されたっていうことがあって、原作を非常に読み込んでいる感があって、何よりセリフ自体は全然多くないんですけど、
セリフの一つ一つが深いというか、非常に詩作的なことばっかりで、どうとでも解釈できるところもあるし、ここは完全に最後とつながってるなとか、原作のそういうのも合わせて見てみると、文字にした時点であらゆるものは諦めざるを得ないようなセリフとかもありまして、
現代英語とバナキュラー
その辺のことを少し僕も感じたのをちょっと言わせてもらったりとかしたんですけど、最終的にはなんていうか、これが僕の一つ、これは原点へのオマージュというか、監督さんがおそらくこういうのを考えてるんだろうなって思ったのは、やっぱりその曖昧性とか良義性とか、
断定的に何かを作るっていうよりかは、その映画を見てる人の解釈に委ねるようなセリフとかを、あるしこれは意図的に作ってるなっていうところを感じたので、その辺の曖昧さとか良義性みたいなものを、
ハッキンというのが一つのテーマで、残しつつもわかりやすいメッセージというか、そういうのも、ここが非常に難しいなと。
なるほどね。なんかこのデイビッド・ローリーさんですか、監督さん。監督、脚本、編集っていうことで、これはなんか思い出ありそうだなっていうこの役職を見ただけでなんかわかって。
それもやっぱり昔から考えてはったり。
なるほどね。そうすると、それを字幕とするにあたっても、監督の言葉を聞いているっていうことでもあるのかもしれないですね、半分ぐらいは。
そうですね、監督の解釈とか。
そもそもさっき、画面級と緑の騎士というタイトルでお話ししたんですけど、この作品自体は実はグリーン・ナイトというタイトルなので、そこにも少し何ていうか、いろんな意味が実は込められてて。
そうですか。
そこを僕は感じているんですけど。
フルで言うとちょっと長いと言えば長いですかね。
そうですよね。
グリーン・ナイトはわかりやすいという感じはありますかね。
このあたりで、事前であるとか投げ込みであるとかの質問が寄せられてきたりしていますので、この数週間寄せていただきましたが、そちらをケースさんよりご紹介いただけますでしょうかね。
はい。それでは事前に寄せられた質問、こちら1件まず伺っておりますので。
はい、わかりました。
いくつかあるということですかね。
とりあえず。
とりあえず私のほうで分かるものからいきましょうか。
ありがとうございます。
いただいていた質問というのがいくつかありまして、これを読み上げたいと思います。すぐ出るかな。
あります?すみません。
はい。
じゃあケースさんからお願いします。
それではまず1問目ということで読み上げさせていただきます。
我々日本人英語学習者が現代英語を学ぶ際、最も気になる疑問に思う点の一つに、英語の発音と綴り字の不一致・剥離が挙げられると思います。
ほった先生もご自身のブログでカルペッパー2005を根拠に、中英語期におけるラテン語やフランス語と英語の関係性を挙げていらっしゃいます。
ここで先生方に質問ですが、英語におけるバナキュラーと英語の発音と綴り字が剥離していったことに何らかの関係性は存在しますでしょうか。
私の脳内ではダイボーインスイ、グレートバーバルシフト、最近ではロングバーバルシストが思い浮かびましたが、実際に例えば中英語期に起こった支配階級のフランス語と中、海藻の英語、その他ゲルマン語派の対立の影響があるかどうか気になったので、ぜひご教示いただけますと幸いです。
これは英語のバナキュラー、またバナキュラーの話は今日の本当は本番なんですけどね、後にいわゆる方言ということも含めてなんですけれども、これとの関係ってことですかね、綴り字と発音の乖離ギャップみたいな。これはどうですかね、答えますかね。
綴り字と発音の関係がバラバラであるっていうような現代英語なんですよね。それとその英語バナキュラーという話題ですかね。
なるほど。あまり言語的な専門的なことは言えないかもしれないんですけど、そのバナキュラーをどう捉えるかっていうのは一つあるとすると、英語がバナキュラーっていった場合に、
そうですね。いわゆるその中心的な権威のあるラテン語とかそういった言語に対して、ローカル、ローカルなんていうか、終焉というか、あまり重要視されていなかったという感じですよね。
今そういうバナキュラーでニュアンスみたいなものがある種逆転してですね、ワールドイングリッシュとかそういう多様性を認めるようになっていると思うんですが、いわゆる英語の歴史自体、特に中世のノルマン・コンクエスト以降バナキュラーというふうに捉えるならば、綴り字と発音のことに関して言えるとすると、
人々がそもそも英語にあまり関心がなかったっていうところを挙げれるんじゃないかなと思うんですよね。関心がない分、その自分たちの言語に無頓着で、そういったいわゆるスペリングリフォームとか発音をどうにかしようっていうのが非常に後に起こってくるようなことだと思います。
そういうバナキュラー言語っていうのを、この場合否定的に取るならば、そもそも関心がないっていうところが大きいんじゃないかと思います。
そうですね。私も同じように思いますね。バナキュラーって基本的に低い言語だと、地位の低い言語だっていうのを、字と共に認めているようなところがある使い方、伝統的な使い方ってそうだと思う。
これをまた違う解釈もあるんじゃないかっていうことは、この後時間があったらお話またしたいと思うんですが、伝統的にラテン語っていうのが中世ヨーロッパでは偉い言語で、それに対してイギリスだったら英語とかフランスだったらフランス語みたいなものは、今でこそ名立たる言語ですけど、当時は下の言葉で、その言葉をバナキュラーと言っていたわけですよね。
このような下の言語の発音と通り字を頑張って合わせるような面倒な営みっていうのは普通やらないっていうことが前提としてありますかね。
あるいは野話にしとくぐらいですかね。そこの英語の地位、バナキュラーっていう地位と、今に至ってもそのかつてのバラバラだったものが残っているっていうのは、やっぱり緩い関係っていうのはあるのかなっていうふうに思いましたので、聞いていてなるほどっていうことで、それに乗っかる形で今補足ということです。
おだしょー 私の方からも一ついただいた質問なんですけれども、これはまさに岡野先生は得意とすると言いますかね、色々お答え聞けるんじゃないかっていうことの質問なんですが、読みますね。
アーサー王物語の歴史
ガウェイン教が書かれたのは14世紀後半ですが、古仏後のアーサー王物語群が12世紀末には書かれ、13世紀、14世紀には長大な三文化、物語のサイクル化が進展していたことを考えると、物語の舞台であるイングランドでのテキスト化はかなり遅いように思えます。
14世紀後半に英語でアーサー王などの騎士の物語が書かれるようになったのは、百年戦争によるイングランドナショナリズムの形成と関連づけても良いでしょうか。またこれ以外の中英語のアーサー王物語群、ガウェイン教以前以後についてもご紹介いただければ幸いです。
イングランドにおけるアーサー王物語のちょっとした歴史概略みたいなことですが、これは文学史上の大きな話題です。
この質問の方はものすごい詳しいですけど、いわゆる中世ロマンスというジャンルがあるんですけど、ロマンスというもののある種の晴れ感というか、時代遅れ感というのは調査でも揶揄されていたりするんですが、
その場合のロマンスというものの捉え方にもよると思いまして、いわゆるテイルライムのロマンスとかっていうのは揶揄されたりするんですけど、アーサー王物であっても。
これ難しいですね。ガウェイン教と緑の騎士っていうのがすごく突出した傑作のように今言われてるんで、我々はそういうふうにして少しこの作品を美化する傾向はあるかもしれないんですが、ただ、おっしゃる通り時代的にはアーサー王ロマンスに対するイギリスの方が逆輸入した形になって、それが遅れてやってきて、
そうですね、さっきのローカリティーの話に結びつけるとすると、やっぱりガウェインっていうのは一つのスコットランドとか大国諸島出身というような設定もありまして、非常にローカルなローカリティーを体現する。
あるいはローカリティーを通してナショナリティーというかイングリッシュメスみたいなものを体現する意味もあるとするならば、やっぱりイングランド側のアイデンティティの表明みたいなところはこの機器を通して作りたかったっていうようなところはあるんじゃないかなというふうに思いますけど。
なるほどね。
アーサー王物あたりかっていうのはね。
確かにね、フランスなり大陸なりで一世を風靡していたものを少し遅れたような時代関係でいうと形でイングランドは受け取って、しかもそれを大陸のものを受けておきながらちょっと突き放すような形でローカリティーに自分の側にというかイングリッシュ側に引きつけて描いているっていう点でも。
なんともね、英語的なんですよね。やっぱり読んでみても、さっきの党員も結局そうで帰ってくるんですけど、反ヨーロッパ的な話題というふうに一般的にアーサー王って。
もともとはね、結局イギリスでブリテン島の土地という頃から始まっていきながら大陸に出て、もう一度戻ってきたかと思ったら英語化っていうか非常にローカル化してたっていう。
そうなんです。
なんともね、どう考えればいいんだろうっていうのは色々とね。
本当にその党員誌というのとフランス語っていうのはある意味で矛盾する形で現れている。
もう交わらないですもんね。
しかもローカルの地名がいっぱい出てきて、党員はその旅先でですね、むしろ自分がフランス流の流儀を学ぶみたいなことがあるんですね。
自分のいるキャベロットっていうのはどういう空間かあんまり具体的に記されない中で、地方の宮廷に訪れてみるとそこではフランス流のマナーが展開してて、
自分がそこで自分のアイデンティティーになるのは何なのかって言ってられるような逆転現象というか。
本当にローカルとナショナルとそういうフランス大陸的なところが非常に色々と混ざり合っているような気がします。
そうなんですよね。なんか不思議な感じが読んでてするんですけれどもね。
映画ではどんな描き方がされているのかっていうのもね、これも楽しみですけれども。
それでは私の方に追加で2問質問が届いていましたので、2問目を読み上げたいと思います。
こちらはすごい熱意のこもったかなりテンションの高い質問なんですけれども、よろしくお願いします。
読み上げます。
ホッタ先生、岡本先生こんにちは。私は前に英語版のグリーンナイトをDVDで見たことがあり、11月にやっと日本で公開されると聞いてとても楽しみにしているところですが、字幕監修をされた岡本先生と英語誌にお伺いしホッタ先生に聞いてみたいことがあります。
グリーンナイトはガウェインと緑の騎士という中世の作品を原点としているそうですが、なぜ恐ろしい騎士は緑なのでしょうか。
続けます。すみません。
映画内にもガウェインを誘惑するオクガタが、Why green, not red or blue?みたいなことを言う場面がありますが、なぜですか。また赤色との対比もありましたね。
映画のネタバレがない範囲で教えていただければと思います。
これは個人的な趣味になりますが、私は実はガンダムが好きです。
そのアニメの中に出てくるジオン軍という勢力が乗っているザクというモビリースーツ、戦闘ロボットは緑一色なんです。
この緑の戦闘ロボは量産型でたくさんいるのですが、一つだけ赤色のロボがいます。
その赤色にはシャアというキャラクターが乗っており、比べ物にならないくらい強いのです。
なんて、シャアが乗っている赤ロボは緑よりも3倍性能がいいのです。
という話なのですが、聞くところによるとガウェインも3倍の強さで戦えるそうですね。
そのような共通点から、なぜ緑なのか、大変興味が出てきて質問させていただきました。
長くなりすみません。よろしくお願いします。とのことです。よろしくお願いします。
いかがですかね。これは答えを持っていないんですけど。
立ち戻って緑の話で、これはやっぱりなんで緑なのかという、この究極の問いですよね。
そうですね。
これは研究的にも答えは出ていなくて、
むしろ従来言われているように、自然とか地獄崇拝であるとか、
生命の再生であるとかというような、いわゆる自然が持っている力を
みなぎる形でグリーンナイトというのが、それを代表して文明とかの象徴であるアーサー王宮廷にやってきて、
自然と文明という対立的な構造で読まれることが多かったと思うんですけど、
最近はこういうのはあまり好まれていないようで、学術的には。
ただこれポピュラーカルチャーだったら、こういうことになると非常に好まれていると思うんです。
やっぱりグリーンナイトとか緑は何か。
そこに何を見出すかというのが人それぞれで、
僕としてはこの緑っていうのは、やっぱりポジティブとネガティブというか、
プラスとマイナスというニュアンスをどっちを持っているものとして解釈したいなと。
緑っていうのは再生するんですけど、その後滅びゆくというか、変動の色みたいなことも言われてますよね。
緑というのが葉っぱでいえば落ちてしまう、その季節の循環とか。
この作品はその循環というテーマが非常にあるので、
人生とか人の営みそのものというか、それを緑が体現していると言ったらこれは大げさなんですけど、
様々な視点でこの緑というのが解釈されてきたっていうのは間違いないところですけども、
作品への解釈と翻訳の課題
最後のガンダムに関して言うと、その3倍の力というのは本当にガウェインのことにも少しありまして、
ガウェインというのは伝統的に力が正午に向かうまでは、
要は太陽が上がっているときは力が増すというような力があって、
ガンダム界隈の人たちはそういったものを取り入れながら実は作っていたかもしれないし、
ガンダムってロボットって言ったらダメなのかもしれませんけど、
そういうアーマーを使って西洋の甲冑とかに影響を受けているというふうに聞きますから、
もしかしたらアーサー物語とかインスピレーションがあるのかもしれないなと思った。
なるほどね。サブカルチャー界に君臨していたとやっぱり。
君臨してましたね、緑の地下。
なるほどね。私も中世文学のよくあるモチーフというのが、
最新再生というかね。緑であるとか植物の比喩というのが、
調査の例の缶食べ物語もそうですし、
一方でよく対比的にされるのが、
普通ね、春の訪れって言いますか、3月4月から始まるところ、
極めて珍しく冬のシーン、クリスマスのシーンで始まるっていう、
つまり真っ白なイメージのところから始まって、
緑が出てくるっていうようなね。
そういう流れをどう解釈するかっていう、
そんな議論はね、私も聞いたことありますが、
これは究極の質問ですよね。
なんかこういうやっぱりその、
古の伝承とか文化というか、
影響的なところも含めて、
ファンタジーってやっぱりどっちかっていうと、
影響的なイニシエの素材とかっていうのが好まれまして、
ポップカルチャーとか大衆文化的にはそういうのがやっぱり、
ガウェインっていうのは太陽神だった。
すごくそれは人気で、
そういうことが継承されてるんですけど、
なんか研究を見てみると冷めてるんですよ。
その辺が面白くて、
おそらくこの緑の解釈も最新のものっていうか、
一定のコンセンサートを得ているものは、
緑に意味はないだと思うんですね。
意味はないっていうのは、
意味はあるんでしょうけど、
これまで読み込まれすぎて、
実際それが本当にこの詩人が意図したかどうかは分からない。
詩人は明らかにガウェインの縦の模様の意味については言ってるんですけど、
その緑については謎のまま終わるっていうところを、
なんていうか、重視したい。
なので、現代のそれ以降の人たちの過度な読み込みに継承ならすようなものが多いんですよね。
アカデミズムはってことですかね。
アカデミズムはっていう。
それもそれでロマンではないんですけど。
そこが面白いですよね。
ちょっと一般の読まれ方で好まれ方とちょっと違うギャップがあるみたいな感じですかね。
サブカルチャー、ポップカルチャーとアカデミズムという感じですかね。
そういうのを今回の映画とかがいろいろ解釈の多様性というものを軸につなぎ合わせていくんじゃないかと。
なるほど。それも一つ面白そうな視点ですね。
新たに教えていただいた視点だと思います。
もう一つお願いします。
それでは最後の質問を読み上げたいと思います。
放送全体の趣旨とは少しずれてしまうかもしれませんが、岡本先生に質問です。
今回担当された映画の字幕翻訳で、特に難しいと感じられたことはありますか。
例えば、英語のこの部分はどうしてもしっくりくる日本語がないんだよな、など。
日本語から英語の場合だと、いただきます、ご馳走様、お疲れ様です、などを訳しづらいように感じられます。
お願いします。
具体的にはあるんですけど、
字幕というのは文字制限というのがあるし、
意図セリフの長さによって文字をどのくらいにしないといけないという、
そういったところが僕は分かっていないところもあって、
非常に難しい問題だったんですけど。
具体的には、実はもう一度ね、
11月25日の前後にお話したいな、ということを考えていて、
直後だと、公開された後で具体的な字幕の話とか、
もうちょっとなんか面白くなりそうだなと、見てからだと、みたいなことはちょっと思ってたって、
事前に苦労した点がいろいろあったっていうのを聞いてきたので、
具体的に聞いてみたいところでありますね。
確かに。言いたいんですけど。
もうちょっと待ってた方がいいみたいな感じですかね、戦略的に。
何カ所かあって非常に面白いです、それは。
それちょっと議論、予約っていう感じでしたいですね。
私もそこは関心があります。
それからもう一つ、名前、ガウェインっていう名前であるとか、
そういう名前の語源みたいな話なんですけれども、
一つ、コフツ語ではフランス語ばりにゴーヴァンっていうふうに呼んで、
アーサー王宮廷の登場人物は架空の騎士たちですが、
名前的にはアングロサクソン系なのでしょうか、それともケルト系なんでしょうか。
ケルト系の物語
物語のルーツや伝承はケルト系だと
学んだように思うのですが、ということで。
ケルト系という、これもいくつかあるようなんですけど、
あるようですか。
時代によって言い方も変わったりするんですけど、
やっぱりケルト系のっていう言い方だと思うんですが、
なんか面白いですね、確か名前、原作でもこれ中英語の問題なんで、
CがWとかでワウェインとか。
完全に投印のために名前を変えちゃうんですよね、頭のシーンが。
GとWは割と近い音というか、語源的に関係するので、
たまにGで都合悪いとWに変えてワウェインとか言ってますよね。
あの辺もやっぱり最初読むと驚きで。
同一人物だとわからないっていう。
同一人物だとわからないですね。
実は映画の話さっきちょっとやったんですけど、
このガウェインっていう名前も、
映画の中で発音が何パターンかあるんですよ。
それはめちゃくちゃ面白いですね。
これも多分意図的にやってて、
誰がその騎士を呼ぶかによって、
少しアクセントというかストレスが変わったりとか、
多分現在英語でもガウェインとかガウェインとかあると思うんですけど、
その辺も活かされてたような気がします。
そこはちょっとすごい細かい作りですね。
注目したいですね。
ありがとうございました。
ここにですね、今話しているバックに数十名の学生というか、
中英語なんかを学んでいる学生とか院生もいるんですが、
何かありますかね、聞いてみたいこと、中英語、文学。
中英語。
中英語ガウェインやってるんですか。
ガウェインやっている人は、今ここにはいないんですかね。
この場所には直接。
緑色やってる子いましたよね。
緑をやっている学生いましたっけ。
新聞で拝見しましたけど。
そっかそっか、新聞で拝見したと。
英語誌新聞というのを出してましたね、我々。
英語誌新聞で緑、緑だと思って。
緑について何か思うとこありますか。
もしかしたら、ご意見。
緑の色が文学中で疲れてる時に。
安らぎとか。
安らぎ、優しさとか。
それ以外のイメージで。
他に英文学なんかで緑がこう、という色が注目されるものって何か思い当たりありますかね。
英文学じゃなくて。
英語学だとやっぱりシュレックとか。
映画ですね。
シュレックとかマスクとか、映像的には非常に思い浮かべる色ですよね。
映像的に映えるんですかね。
映えるのも結構やっぱり西洋のものに素材を持ってるんで、シュレックの緑とか面白いなと思ってますね。
安らぎとか、環境に優しいっていう20世紀、21世紀的なグリーンのイメージっていうのも現代時に持ってますし、そことの関係で捉え方もきっと変わってくると思うんですけどね、イメージが。
優しいか。
優しいっていうのがあるっていうことですかね。
変なイメージもありそうですけど。
バナキュラー談義ということなんですが、バナキュラー、実際にはバナキュラーのことをずっと話してたんですけど、バナキュラーに正面から取り組んだかわからありませんので、少しだけお話しようということなんですが、
当時14世紀後半で、町さんにしろこの画面主人にしろ、英語で書くっていうことの結局意味ですよね。
画面主人がよりコテコテなローカルな英語という話をしたんですが、比べてみれば程度の問題であって、やっぱり町さんは英語だったと書いたものは、フランス語ではなかったというような、あるいはラテン語でもなかったというような、
当時英語っていうのはどういう位置づけと言いますかね、バナキュラーとして位置づけだったのかっていうことなんですけどね。
そうですよね。やはり町さんが全ての作品を英語で記そうとしたというか、結果的に英語の作品を残したというのは非常に画期的なことなんじゃないかというふうに思いますので、
その状況下で、どの程度英語という言語に対して国家的に何かある、国のレベルで何かある、ローカリティーを反映させるとかっていうのは非常に難しい。今の感覚とはまた違うと思うんですけども、
一方で町さんは作品の中で方言を書いてたりもするので、すごくそういう英語っていう言語自体に関心も向かっていったし、その英語っていうのが非常に実は地域によってバリエーションもあるし多様なんだっていうことも徐々に認識し始めていったような時代なんじゃないかっていう考えで、
やっぱりその顔円鏡と緑の騎士のローカリティー、ローカル言語っていうものの非常にこれはその先見のある程度あるんですけども、そういったところまで見てたんじゃないかっていうのは言い過ぎかって。
【佐藤】そこですね。やっぱり国家的アイデンティティとしての英語みたいな、そういう発想とか議論そのものが時代的にはちょっと早いような気もしないでもないわけですよね。15世紀、16世紀になるとやっぱり芽生えてくるのかなと思うんですけれども、14世紀の少し種って言いますかね、そんなものの種みたいのはだけどあったのかなという岡本先生の認識に近いですかね。
英語のバナキュラーとしての位置づけ
逆に言われすぎたりする議論もありますよね。調査こそが英語を完全に作ったとか、復活させたとか。個人がというよりはやっぱり時代の雰囲気で徐々にそういう英語の国家語としてのアイデンティティみたいなものは、このあと100年、200年かけてゆっくりできてくるのかなっていう私はイメージなんですけどね。
今、英史の父とかっていう呼び方も、どこまで本人に聞いたら英語っていうものを代表するような作家になろうとしていたかって言われると、本人に聞いたら、いや別に自分は英史の父になりたかったんじゃない。自分はあくまでもヨーロッパの中でのバナキュラーな作家になりたかった。
これ矛盾はしないとは思うんですけど、過度にナショナルなものをある種賛美して調査を読むとかってのはほとんど今できなくなってるんですけど、かといってそれを全員一手でできるのかっていうところもあって、どのレベルで作品とか作家の意図っていったらそれをやり込んでいくのかっていうのが非常に複雑なんだなと思う。
そうですね、我々も英文学史とか英語史っていう全体の流れを知っているので、そこから振り返って位置づけようとするわけなんですが、そこの難しさかもしれませんね。
当時は本当にどういう役割だったのかっていうのは、なかなかね、まさにそういうことも含めて我々研究しているっていうことかとは思いますけれどもね。
本当に50分過ぎちゃって、もう5分ぐらいになってしまって、何か計算ありますか、最後に聞いておきたいことみたいな。
先ほどの字幕のお話でちょっと繋がっているかもしれないんですけれども、日本語も結構英語と同じような感じで、だいぶ独自の環境で作られただったりとか、あとは外国語という外来語を受け入れやすいだったりとかっていう共通点があると思うんですけれども、
その字幕監視を抑えた中で、そういった共通点だったり類似点だったりっていうのを何かございましたら教えていただきたいなと思うんですけど、いかがでしょうか。
具体例問題ですか。
これは場合によっては次の機会っていうことで、具体的なスクリプトっていうかね。
これはこうしたほうがやっぱり、こうしたほうがっていうのはやっぱり。
なんかありそうですね。
ただその映画っていうものと、僕の知識は原作をある程度抑えているということと、映画っていうことの見せ方で見たときに、やっぱりそのプロの字幕の方の意見のほうが尊重されるべきだと思うんですね。
そこが原点とかに関わっていた場合は何かあるとは思うんですけど、
なのでその程度その訳すときの、字幕をするときの、そこが担当者になれるかという領域的に。
難しそうですね。
やっぱりその監督さんが曖昧に明らかに作ってるんだろうなと思ったので、その文字にした時点でもう何かしらはこぼれ落ちてるみたいな。
なんか悩ましそうですね。
監修っていうのもね、俺はどういう立場なんだみたいな感じで仕事をしながら。
ありがたい。
その具体例はお話、後日伺えればと思いますね。
時間も迫ってきましたが、岡本先生の方から一つ見どころ、今までも述べてきましたけれども、
とりわけ、監修者の立場として、何かこのグリーン・ナイトという11月25日公開の映画について、見どころみたいなことをお聞かせいただけますでしょうか。
この作品は何回か映画化してるんですけど、あんまり映画の評価がかんばしくないっていうのはこれまで実は言われてまして、
それをある程度覆すような作品なんじゃないかなというふうには思いますね。
映像美っていうのが描かれてて、それは本当にその通りだと思いますし、アイルランドロケーションで撮られていて、
原作のファンタジーだけではない視覚的な部分、旅の背景であるっていうのを非常に上手く描き込んでるなというふうにも思いますし、
何よりガウェインっていう人物ですね、これに注目してもらえれば。
いろいろ皆さん、今やっぱガウェイン像っていうのは熱いらしくて、憧れてる部分がいろいろあるんですけど、
そういうのもしかしたら、ちょっと崩されてしまうかもしれない。
崩されたところに人間美というか、やっぱり人間ってこういう部分あるよなみたいな、非常に共感とか同情すら覚えるような作りかなと思うんですけど、
ぜひ僕もちょっと楽しみにしています。
関連する情報はこのチャプターに、アーカイブでお聞きの人も多いと思いますので、チャプターに貼り付けておきたいと思います。
私もこの映画なり岡本先生との対談なんかをきっかけに、ブログであるとかこのボイスなんかでもちょくちょくとこの話題ですかね、
ガウェイン郷と緑の岸の話題を放り込んでいこうかななんていうちょっと気になってますので、一緒にこの分野っていうかね、少しでも盛り上がっていくと楽しいなと。
はい、ほぼほぼ1時間、丸1時間お話しさせていただきましたが、本日は生出演ということで立命館大学の岡本博先生にお越しいただきました。長時間にわたりましてありがとうございました。
ありがとうございました。またよろしくお願いいたします。
はい、リツナーの皆さんもありがとうございました。それでは放送終了いたします。失礼します。
エンディングです。今日も最後まで放送を聞いていただきましてありがとうございました。岡本博先生との1時間にわたる対談ということでですね、これでも短かったということがわかったんですけれども、
後半の方にですね、少し匂わせる形だったんですけれども、11月25日の映画の公表にまして、またですね、改めて機会を設けたいというふうに思っております。
今回は、事前にお寄せいただいた質問なども含めながら、サー・ガウェイン&グリーン・ナイトというですね、中世英文学の傑作ロマン作品について、その外堀と言いますかね、概要をお話しするという形になったかと思います。
そして当時の英語というバナキュラー言語である英語の立ち位置についても少しお話しすることができたのではないかと思います。
本来であればですね、この英語のバナキュラーとしての立ち位置っていう非常に大きな英語史上あるいは英文学史上の問題について語りたいなと思っていたんですけれども、
ちょっとあまりに大きい問題ということですね。今後もこの問題には注目していきたいと思います。
そして、鎌田先生にもまたですね、この放送に出ていただいてお話をいただきたいというふうに思っておりますし、すでに交渉済みでありますので、またお楽しみにいただければと思います。
映画『グリーン・ナイト』の見どころ
事前に質問をお寄せいただいた皆さん、そして当日ですね、投げ込みで質問を寄せていただきましたリスナーの皆様に感謝いたします。
ありがとうございました。こちらにですね、ボイシンのコメントとしまして、今回の生放送あるいはアーカイブで聞かれている方も多いと思いますけれども、こちらにつきまして何かご感想であるとかご意見ありましたら、ぜひぜひお寄せください。
次の機会もですね、設けることができそうですので、そちらの機会に生かしたいと思っております。それでは長い時間の生放送をお聞きいただきましてありがとうございました。今日も良い1日になりますようにもったる市がお届けしました。また明日。
01:03:36

コメント

スクロール