そうです。何十ページか読んでるときに先にちょっと映画を見に行きました。
俺ちょうど100ページでした。100ページ読んだ状態で映画見て、その後100ページ読んで、
最後もう1日かけて80ページぐらいかな、読んでっていう。
3日ぐらいかけて。
あ、そうです。僕は映画見て、その後小説また1から、もう1回スタートから読み出して、1日で全部読み切りましたね。
でもこれ1日で読めるよね。わかる。
映画見た後だと小説読むスピードが変わりましたね。なんかもうスイスイ読んできましたね。
めっちゃわかるわ。多分スピード上がる気がする。最初の100ページの時とスピード全然違ったもんね。
いや、端的に言うと、映画、脚本上手すぎるっていう、私は個人的なもう第一印象でしたね。
ここ削ぎ落として、こここうしていくんだとか。
ね、そこを繋げるんだとかね。
いや、もう残す要素はもう本当素晴らしかったし、これはちょっと本好きな人はまず原作読んで、
どっちだけでもいいか。もうどっちもとにかくちょっと見てもらえたら、
いやこれ、さすがにこれをやっぱ2時間に収めていくにはこういうやり方するようなみたいな。
あと新しい解釈か。書いていくようなとか。そういうところがね、すごかったですね。と思いましたね。
僕は映画の方がどういう話なのかなっていうのはややわかりやすいのかなと思いましたね。
逆に原作の方が全体をぼやっとほのめかすような描き方をしていて、
そういう意味では多少とも輪郭が見えるのが映画で、輪郭がほんのわずかしか見えないのが原作かなっていう。
なんかそんな印象はありました。その辺りが好みが分かれるのかなと。
だからはっきり見える方が好きっていう人もいれば、もう全体的にぼやっとしてる方が、
そこからいろいろな自分なりの受け止め方がよりできるから、そっちの方がいいっていう人もいると思いますし。
いやでも映画はすごく、僕映像がすごい綺麗で良かったですね。1950年代の長崎。
ああね。すごい綺麗だったよね。
なんかそう、すごく青空とか綺麗で、街並みも昭和なんですけど、なんかちょっとそのフィルターかかったようなこの映像ですかね。
なんかそのすごくリアリティーよりかは、なんかちょっとフィルターをかけて、それを見ているような感じが。
ね。まあ今も多分長崎の観光スポットになってるけど、稲瀬山だっけな。稲瀬山かな。
そこにケーブルカーで上がっていくところとか、すごいなんかフィルター感があって、すごい綺麗だった。
そうですね。で一方でその暗さもあるんですよね。ここあんまり人が立ち行かないんですよみたいなところが、そんな暗いところも証言されていて。
うん。そうっすよね。なんか小説読んでる時は最初の方、その暗さが結構強かったんで、
江津湖が住んでる辺りって、なんか結構森の中なんじゃないかみたいなイメージすごい持っていたんで、映画見た時に、あれ全然違う。
なんかすげえ開けてるぞ。視界良好だなみたいな。そうですよね。僕はもうちょっと周りに家とかあるのかなと思ったら、本当ポツンと一軒だけでしたし、なんか空き地に。
その辺はちょっと思ってたのと、やっぱり映像は違うんだなと思ったりしました。
ちょっとこんな話をしてると進まないんで、先進んでいきますか。じゃあここで著者についてちょっと紹介したいと思います。
和尾石黒さんですね。もう皆さんご存知かもしれないですけど、ノーベル文学賞を取った方ですね。
1954年長崎に生まれます。5歳の時に海洋学者の父親の仕事の関係でイギリスに渡り、以降日本とイギリスの文化の背景にして育ちますと。
その後英国籍を取得し、ケント大学で英文学をイーストアングリア大学大学院で創作を学ぶと。
1982年本作ですね。遠い山並みの光で長編デビュー。王立文学協会賞を受賞。
1986年発表の浮世の画家でウィットブレッド賞を受賞と。
1989年第3の長編である日の名残でイギリス文学の最高峰ですね。
ブッカー賞に輝き。2017年にはノーベル文学賞を受賞しておりますと。
結構作品多数ですが、我々で紹介したところで言うと、クララとお日様。これが一応最新長編になってるかな。
そうですね。これは2021年の作品ですね。短編集で野草曲集というのも、我々ちょっと一度紹介しておりますというところですね。
なんとなくだけど、現代のイギリス文学で言うと、和尾石黒は日本で有名かなという感じですね。
ノーベル文学賞を取ってますしね。
この遠い山並みの光、デビュー作ですけど、25歳の時に書いた作品ですね。
ちょっと25歳でこれを追っているのはすごいよね。
すごいですよね。インタビューとか読んでると、小説の書き方とかわからないままに書いたと言ってるんですけど、いやー全然そうと思えないよ。
いやもうこれはちょっと今日いろいろ語るけど、いやこれはもうなんか本当にこの和尾石黒って作風がね結構一貫しているんですけど、
もう完全にもうここから始まってるなっていう、なんかもうびっくりするぐらいすごい作家だなっていうのを改めてちょっと今回読んで感じました。
そうですね。僕はクララとおひさまを読んだ時に思った、なんかその語り手がベールで物事を隠すような感じですね。
それをねこの越子の語りからすごい感じて、まあこれは和尾石黒作品ではよくあると思うんですけど、
いやこのデビューの作品から、なんかその特徴を現れていたんだなーっていうのはね。
いやー本当ですよね。 和尾石黒らしいところが至る所にあるんだろうなと思いますね。
じゃあまず阪元ホームページから引用しますね。早川さんのホームページから引用します。
英国で暮らす越子は娘を失い人生を振り返る。戦後の長崎で出会った親子との記憶はやがて不穏の色を濃くしていく。
映画家原作というすごいシンプルな紹介ですけれども、ちょっとこれからストーリーも含めていろいろ話していくんですが、
そうですね。まずちょっとあのこの原作入る前に映画と原作との違いっていうところですね。
そこを軽くだけ触れたいなと思いまして、大きくはミステリー要素のところは全然違っているなとは感じましたね。
原作を読んでいて。これについては何を話してもネタバレになってしまうので、ここでは触れないでいようと思います。
はい。 こんなミステリーがあるって言ってしまうともう。
まあそうですよね。いやーこれ難しいな確かにな。どうしようかな。
特に映画を見る人は面白さが半減してしまうと思うんで。
まあそういう意味で、映画では実際このヒューマンミステリーという風にですね、歌っていて、そこがあの一つアピールポイントではあると思うんですけども、
確かにその要素はすごく映画にはあって、一方で原作を読んでいるとそこまでミステリー要素は感じないのかなと、そのあたりは大きな違いかなと思いますね。
そうですね。
この辺はでも小説の原作と映画っていうのはやっぱりもう別物だと思いますので、
どの小説とどの映画を撮ってもやっぱり全然原作と小説は、ああ映画は違うっていうのはあり得るので、この遠い山並みの光もそうということですね。
そうですね。
あと細かく映画で追加とか原作から変更された点とか、原作から省略された点っていうのがあるんですけども、その辺はまた後であれですね。
なんかこの原作の話をしていった後で、こういうところも違ったみたいなんですね。
そんなちょっと感想とかも話せれたらなと思いますね。
そうですね。まあ確かに結構そのミステリーのところはちょっとまた後で触れるかもしれないですけど、そうですね。そこは結構違うと思うんですよね。
じゃあちょっとその映画のことはもう改めてまたちょっと後で触れると思うんですが、ちょっとこの原作の方の特徴、まあこれ映画にも通じるところではあるんですけど、特徴の話をしていきたいんですけど、
まず和石黒さんの作風、これ結構一貫しているところなんですけど、よく信頼できない語り手ってよく呼ばれますね。
一人称の作品が多いんですけど、その一人称が故にその人のフィルターがあって、その人が見てる世界しか読者は提供されないんですね。
結果ね、その人が見てる世界とか思い込んでいることしか、ちょっと我々は情報として得ることはできないんですけれども、
和石黒さんのこの作風のすごいところは、それがもしかしてこれはこの人のただの思い込みなんじゃないかとか、これはちょっと現実と違うことがあるんじゃないかみたいなことを匂わせてくるんですよね。
それはもう日の名残でもそうでしたし、クラルドおひさまもそうですね。クラルドおひさまは割と結構わかりやすく描かれたかな、ですけど、それがもうこの遠い山並みの光でもすごく反映されていて、
読んでるとですね、途中からちょっとこれはどういうことだみたいなのが結構発生してきますね。この辺はちょっとこれ、後半私映画を見た状態で読んでるからすごくキャッチアップできた部分。
要はちょっとこれ伏線だったんだろうなっていうところがキャッチアップできてしまっている部分あるんですけど、もしかしたら結構注意深く読まないと何が起きてるかわかんなくなる人も現れるかもしれないですね。
なんか日の名残とかよりはやっぱりもうちょっとなんかぼやっというか注意深く読まないと、なんかちょっと置いていかれる感はちょっとあったかなとは思いますね。
これは非常に面白いですね。まあでもね、これ別に1人称だけじゃなくて3人称の小説でもこういうこと起きると思うんですけど、そのたられてることが真実ではない可能性っていうのは、
なんというかこの小説読むときにちょっと注意深く読むと、いろいろ後々こう展開に生きてくるところもあるので、ここはやっぱすごい面白いとこですよね。
いやでも考えてみると、なんか人が自分の、例えばその暗い過去とか、なんか重い過去とか、なんかそういうのを語るときに相手に対して全て正確に伝えようとするかっていうと、なんかそうではないかなと思うんですよね。
やっぱり話せるところもあれば、どうしてもそこを話せないこともあると思いますし、なんかその辺が結構ですね、信頼できない語り手ではあるんですけども、
でも事情をわかってきたりすると、なんかねすごく共感するところがあったりもしますし。
そうですよね。だからそこの作り込み方がやっぱり、この和尾石黒さんの作風ですよね。
そうですね。で、なんかそれがそう、信頼できない語り手だなってわかってきたときに、なんかうわすごいなってなってくるんですよね。
この人こういうことがあったのか、こういう記憶を持ってたのかとかってね、わかってくると。
あとこの作品の特徴なんですけれども、さっきちょっと三重さんも触れてましたけど、映画と比べて原作の方が結構解釈がぼんやりせざるを得ないというか、はっきり書いてないんですね。
なんでそこは結構この解釈の余地が結構ある部分で、そうなんですよね。ちょっとこれ映画との比較になるんですけど、映画と結構直接的に、それってこういうことだったのかなみたいなこととか、
例えばこのエツコが、実はこういうことが過去にあったっていうのが、まあ明確に映画では言われるけど、原作ではちょっとニュアンステイトだったりすることとかあったりして、
結構ですね、なんとなくちょっとこれ次の特徴でも話したいところなんですけど、結構会話が結構リアルで、で、自分だけが事情を知ってないときにくりひぐられる会話を聞いてるような感覚がたまにあるんですよ。
なんかそれはちょっとぼやかされてるんで、あれ、これってそういうこと?みたいなのを読みながら、たまにあると思うんですよね。会話聞きながら、あれ、これって、なんかこれが、なんか、なんかあった?みたいなこととか多分あると思うんですけど、遠い山並みの光では結構そういう部分がいくつかあります。
なんとなく、なんでこんなこと言ったんだろうとか、なんでこんな話の流れになったんだろうとか、ちょっと気になったまま明確に提示されないまま話は進んでいくってことは結構多いんですけど、わりかしほぼほぼその点に関しては映画の方ですね、映画の方では明確にちょっと提示してきた感じはありますね。
あ、やっぱそうだよな、みたいな感じのところとかあったんで、そのあたりは結構その、まあ原作と映画のちょっと比較にもなっちゃうんですけど、多分、和石黒さんのちょっと作風でもあるのかなっていうところもありますね。で、ちょっと今の話につながるんですけど、会話が結構リアルだなと思ってて、各登場人物の結構感情に寄り添ってる言葉が出てくるんで、なんかね、噛み合わないときあるんですよね、会話が。全然噛み合わないなっていう。
特に幸子とかね、全然噛み合わないです。
これもう本当にすごくリアルだなと思うんですけど、もうそれぞれの感情からこの言葉が発せられているんで、普通に我々が生きてても噛み合うことって結構なかったりすると思うんですよ。もちろんそれはコミュニケーションを取る上では一見噛み合っているように見えるときもあると思うんですけど、実は後々思い返すとあれ?なんか全然違うことをお互い言ってたかもみたいなこととかあると思うんですけど、
なんかそのあたりが結構すごくリアルさを持って私は会話が描かれてるなと思っていて、でこれがやっぱり各登場人物の本当にこれさっき言ったちょっと越子っていう人物と、これはあの越子はさっきちょっと触れましたけど、昔の若い時の越子と現在のもう夫を失って一人、娘も一人失ってっていう状態のいくつぐらいなんだろうね、50代ぐらいかなの越子がいるんですけど、
その二人の時ももうちょっと言葉の種類は結構変わるというか感情も変わってるんで出てくる言葉は結構違うなと思うんですけど、それぞれの感情に合わせて出てくるし、特に今みなさんが言った幸子っていうのが2階堂ふみ映画で2階堂ふみがやったとこなんですけど、一人で娘をあばら屋みたいなところで育ててる女性なんですけど、これあの長崎の記憶の回想の中で出てくる女性なんですけど、この人はもう自分が言いたいことをポンポンポンポン言うんで全然噛み合わないんですけど、
でももうそれが故にこの人が今何を感じてるかっていうのがすごいわかってくる作り方をしているなと思うんで、このあたりはすごくリアルだなって思いましたね。
あの解説で生沢夏樹さんも、まず会話の上手さっていうのがね印象的だっていうふうに書いてて、この幸子がやっぱり噛み合わない会話で、そのシチュエーションでそんなこと言うのっていうところを例に挙げたり、
例えば幸子の娘が家出てで見つかるんですけども、それで娘の心配とかしなくていいのって越子に思われるけど、でも幸子は全然そんなんじゃなくて、アメリカ行こうとしてる人なんですけど、アメリカ行くのは娘にとっていいことなんだみたいなふうに言うんですけど、
そこって全然越子と幸子の話噛み合ってないところなんですけど、実はそこには幸子にとってすごくその自分がこの先の運命を賭けた行動しようとしていて、そこに対しての言葉であるっていうふうにあって、なんで噛み合ってないようでいて、実はその人物の持っているものをすごく的確に表現している会話でもあるっていう。
そこが生沢之介さんの深い解説でよりもっとわかってくるっていうですね。
これあれですね、映画でその越子、若き日の越子と広瀬鈴がやってて、今話する幸子、二階堂文がやってるんですけど、この噛み合わなさというか、セリフのこのうまさ、演じるうまさっていうのはもうなんか幸子を演じてる二階堂文はもうめちゃくちゃハマり役というか、まあそもそも二階堂文さんが演技うまいってとこあると思うんですけど、めちゃくちゃうまいですと、でやっぱりその時のキャッチボールでやっぱり広瀬鈴もすごくうまいこの噛み合わなさが出てくるんで、
これはちょっと映画見ててすごいなってちょっと思ったとこですね、というところで、ちょっとこのあたりが結構この作品の特徴かなというところですね。
あとはなんかね、その会話とかそういう時点で出てくるその人物像っていうんですかね、なんかそこ翻訳もすごくうまいと思うんですよね。
なんか英語で書かれているのを日本語にしてるんですけど、そこの日本語がやはりなんか人物のそのセリフというか、作っていると。
いろいろ調べていくと、そもそも英語自体で結構その人物にあったこのセリフっていうんですかね、なんかそういうのがなんか表現されているみたいなんですけども、でも翻訳もすごくうまいんだろうなと。
そうですね。もう日本の小説としか思えないぐらい。
そうですよね。
っていうぐらい読みやすかったですね。
そうですよ。じゃあちょっとここまで、えつことかさちことか、いろんな人の名前を読んでたんですが、
一体誰が誰なのかというところで、ちょっと簡単にですね、ストーリーの紹介を入る前に登場人物をおさらいしたいと思います。
それを踏まえてのストーリー紹介をしていきたいなと思います。
まずは主人公はえつこですね。1980年代イギリスで、この時は年老いたえつこなんですけども、出てくるんですけども、その前ですね、1950年代長崎で若き日野えつこが登場して、
映画だとイギリスにいる時はヨセトヤさん、長崎にいる時がヒロシスカという主人公のえつこさんですね。
次がさちこという女性は、えつこが長崎にいる時に知り合った女性ですごくハイカラな人で、英語も喋れるし、見た目もすごくオシャレ洋風な感じなんですよね。
なんかね、周りの日本人とはちょっと違うなという。で、次マリコさんという人物ですね。は、さちこの娘さんになります。
たぶんね、小学生ぐらいの年齢なんですが、小さな女の子で。ちょっとね、暗いところがあるんですけども、そんな子供がいると。
で、次ケイコという人もいるんですけども、映画とか原作では実際には出てこないんですけど、名前は出てくると。
このケイコという人は、えつこの長女になります。長崎にいる時、えつこが妊娠しているんですけども、その時に生まれた子供も長女になります。
ただこのケイコはその後、イギリスに渡ってからなんですけども、ちょっと自殺をしていて、というのでちょっと作中では出てこないと。
名前だけ出てくる。で、次がニキですね。ニキというのは、えつこの二人目の娘になって、で、えつこは一回離婚して、イギリス人の男性と再婚しているんですけども、その再婚相手との娘さんになります。
で、ニキは1980年代のイギリスのところで出てくる人物ですね。で、あと二人だけ。で、ジローですね。
ジローというのが1950年代、長崎に出てくるえつこの結婚相手ですね。その当時は二人暮らしをしていると。で、もう一人、尾形さん。
で、尾形さんというのは、そのジローのお父さん。で、えつこにとってギリのお父さんになります。
なんで、えつこも尾形、えつこというのがね。
結婚してね、尾形さんに変わったんですけど。で、この尾形さんは、ちょっとお父さんというにはですね、もともと、えつこが学校の先生で、で、尾形さんがその学校の校長先生というのもあって、旧地の仲だったんで、
お父さんとなんか言いづらくて、やっぱ昔からのあれで、尾形さんと今でも呼んでいると。
その他にもですね、作中には藤原さんとか、松田茂雄とか、フランクとか出てくると。
原作では、あともう一人、靖子さんという人もね、出てくるんですが、映画ではね。
そうですね、出てこなかったですね。
と思いますね。まあちょっとね、そんな人物たちが出てくるストーリーのちょっと話をしていきたいなと思います。
で、特にあの核心にすまるようなことはしなくて、まあこういう時代に、こういう人物たちでこういうことが起きていったというですね。
まあそんなちょっとサラッとした話になるかなと思います。
で、まず始まりは1980年代イギリスで、その当時、閲子は一人暮らしをしていて、夫はもう亡くなっていて、娘も一人立ちしてロンドンに住んでるんですけど、
そのロンドンに住んでいる娘のニキーですね、が閲子の元を訪ねてくると。
で、ちょっとそのお母さんにね、長崎にいた時、当時の話をですね、ちょっと教えて欲しいというふうに言うんですね。
閲子はそんな自分が語るようなほどのものはないけどっていうふうに最初はちょっとですね、なんか遠慮しつつなんですけども、
ちょっとその当時の夢を見て思い出してしまったりとかですね、してまあちょっと話をするようになります。
で、あとはですね、ニキの友人の詩人がいるんですけども、その人がですね、
閲子が長崎に住んでいた時の話というか、その閲子の人生をちょっと真に従っているというのもあって、ニキが聞き出そうとしています。
ちょっと映画と違うところですね。映画ではニキが作家で小説を書こうとしてるんですけど、原作ではニキの友人の詩人が詩を書こうとして、
閲子の話をね、ニキ経由で聞こうとしているという、そんな違いがあります。
そこでちょっと閲子が回想していくんですね。で、その前にですね、閲子には最初に生まれた娘、ケイ子がいたんですけど、
ちょっとさっき言ったように自殺をしていて、そのような過去があったので、閲子はケイ子のことはちょっと伏せるような形で過去を回想していきます。
なので妊娠中ですね、ケイ子が生まれる前の時代のちょっと思い出というか、過去を語っていくんですけど、その当時、すでにすごく印象的な出会いがあって、それが幸子との出会いなんですけども、
1950年代、映画では52年かな、長崎で。で、その当時というのは戦後の復興の時期であるんですけど、一方であの朝鮮戦争があったので、
長崎にはまだアメリカ兵がたくさんいたというですね、そんな状況で。で、閲子はですね、サラリーマンの旦那さん、二郎と結婚していて、二人でアパートに住んでいると。
で、妊娠もしていると。で、そのアパートの窓から見下ろしたところにある空き地ですね、の外にあのバラックがあって、すごいみすぼらしい小屋みたいなところがあって、
そこで幸子が住むようになると。で、この幸子がアメリカ兵をですね、その家に迎え入れたりしてですね、結構それが近所の主婦の間でよからぬ噂の種になったりするんですけど、
閲子はですね、ちょっとそんな幸子にちょっと興味を持つようになります。で、ある時ですね、この幸子の娘のマリ子ですね、がまた近所の男の子たちとちょっと結構派手な喧嘩をしているのを目撃して、
閲子がね、それをちょっと幸子に知らせに行くんですね。ちょっとあの娘さん喧嘩してるけど大丈夫っていう。ただ幸子はですね、それを閲子から知らせを受けても全然驚きもせず、
当然のように受け入れると。まあ子供だから喧嘩ぐらいするでしょうみたいなんですね。そんな感じで。まあその日以来ですね、その他にもいろいろ会話はあるんですけど、その日以来二人はですね、
話をするようになって、だんだん友人になっていきます。で、マリ子は学校にも行ってなくてですね、一人でいることが多いので、閲子がですね、まあことあるごとにこのマリ子の面倒を見るというふうに、そういうふうになっていきます。
で、幸子がアメリカに行くことを本気で考えている人で、まあちょっと日本でこのままいてもどうしようもないと。実際今もね、そのバラックの三つ葉らしいところで住んでるし、
で、アメリカに行ったら将来が見えるだろうと。というので恋人のフランクっていう人がいて、その人とアメリカに行こうという計画をですね、
それを本当に実現しようというのを思っていると。ただこのフランクという男が結構いい加減な人間で、お金が貯まったと思ったらもう飲み屋で全部お金使っちゃったりとか、
他の女性に手を出してしまったりとか、あとはアメリカ行きの計画が迫ってると思ったら急に逃げてどっか行ってるとか。
まあでもなんだかんだ幸子との関係はまだなんか続いているみたいなんですね。どうも当てにできない男ではあると。
というのでまあ幸子はアメリカ行きたいと思って、それを実現しようとするんですけど、なかなかそれが実行されないみたいなんですね。
ちょっと状況が続いたりします。一方でその娘のマリコですね、変わった子で自分の殻に閉じこもっているようなね、女の子であんま他人に心を開かないと。
どうやら女に追われているらしくて、そのマリコがね、たびたび女に追われているって言うんですね。
これもですね、ちょっとこの作品の謎のところではあると。幸子がアメリカに行きたいって思ってるんですけど、それは幸子自身のためでもあるし、マリコのためでもあると幸子は考えていて。
マリコもこのまま日本にいてもうまくやっていけないんじゃないかと。いやでもアメリカに行ったらこのマリコの才能が活かせて、仕事とかうまくやっていけるんじゃないかというふうに幸子は思っている。
けど一方でマリコはアメリカには行きたくないと言ってるし、どうなるのかって言うんですね。あとはあれですね、マリコは家で子猫を家を飼っていて。
子供が生まれるところからちょっと始まるんですね。子猫が生まれるところからね。
そう、妊娠している猫を拾ってきて、猫好きで。この話の中ではこんなことがあったというので、幸子がですね、ちょっとその越子に仕事紹介してほしいと。
ちょっとお金を区分したいというところで、越子の知り合いの藤原さんという人が営んでいるうどん屋さんで、幸子がマリコと一緒に働くことになるというですね。
そんなことも多くいます。
この藤原さんというのがこの越子が結構この場所に来た時に結構頼っている人ですね。
もともと夫の二郎さんのお父さん尾形さんってさっき出てきましたけど、尾形さんとも窮地の中の人ですね。
そうですね。原作ではですね、結構この藤原さんのこの人物の過去背景がですね、やっぱり語られているところがあって、その辺ちょっと映画との違うところでしたね。
実は戦争ですごいね、もう被害を受けて、もともと上流階級ですね、住んでたのの人だったんですけど、ちょっとうどん屋さんをやることになったとかですね、そんな系になる人です。
そうですね。ただ、これあれなんだよね、映画でも端的にちょっと藤原さんが希望の象徴として描かれるシーンがちょっとあったりして、まあ原作でもあるんですけど、割とこの原作読んでないとあのシーンなんでって思うようなところもちょっと映画でもあったような気は起こしましたね。
映画ではね、柴田理恵さんの演技がすごい良かった。
良かったですね。
ではちょっと話を元に戻して、次ですね、そんな幸子、まり子と出会った越子さんなんですけど、越子さんは夫の二郎と二人暮らしをしています。
その年の夏ですね、この二郎の父である尾形さんが家にやっていきます。この尾形さんがもともと学校の校長先生をしていて、もう本当に教育者なんですね。
長崎ではもうかなり名の知れた人で、特に戦前の実績がすごくあって、本当に偉い人だったと。
今は校長先生を引退して、地元が福岡なんで福岡で一人暮らしをしていると。奥さんも亡くなられたということで。
そんな尾形さんがちょっと休暇中に家にやってきて、ちょっとここで越子が二郎と出会ったという経緯なんですけども、戦時中ですね、やはりこの長崎というところで、どうやってこの戦時中生きていくかというところで、越子が尾形さんの家でちょっとお世話になっていたんですね。
で、そこで二郎とその後、結婚することになってというので、そんなですね、戦時中というところが一つ、越子二郎が結婚するきっかけになったというのがあって、それ以来関係ですね。
で、尾形さんのお父さんと呼ぶのには抵抗があって、越子は尾形さんと呼んでいると。で、実はですね、越子は二郎以上に夫以上にこの尾形さんを慕っているというのがあります。
これは映画も原作も、なんか読んでいると、そうかなーってね、自然と読み取れるところかなと思います。
そうですね。
ただですね、そんな尾形さん、すごい良い人なんですけども、もうチャーミングなところもあって、すごい気の優しい人なんですけど、一方で戦前の教育館に誇りを持っていて、やっぱりその国のために団結するのが大事だっていうところですかね。
ちょっと保守的な教師であって、そこに対してですね、教え子であった松田という先生ですね、現役の先生が、とある雑誌記事に、そのそういう戦前批判の記事を書いていて、そこでですね、戦争が終わって、この尾形さんが教師の職を失ったというのは、これは自然なんであり得るみたいな、そういうちょっと批判記事を書いていたのをちょっと気にしているというですね。
そんなところがあります。
で、尾形さんがね、この長崎に来たっていうのも、実はね、そこでこの松田に対して、元教え子である松田に対して、なんでそんなことを書いたのかっていうのを聞きたかったっていうですね。
そこがね、長崎に来た一つの理由ではあるんですけども。
そんな尾形さんに対して、息子の二郎はですね、やっぱりですね、価値観の違いですね。
戦前戦後とか世代観とかですね、そういった価値観の違いもあって、ちょっと煙たがっているところがあって、なかなかそのお父さんの相手をね、ろくにしようとしないっていう。
将棋を二人刺したりするんですけど、お父さんはですね、この将棋、もっと真剣勝負でやりたいのに、息子はですね、自分の負けでいいよって言ってるんですね。
なかなか将棋を刺そうとしないっていうですね。そんなこともあって。
ここがなんかちょっとすごい世代観のね、こだわりが出ちゃってるとこですよね。松田の話も含めてね。
そうですね。そんな世代観と言いつつ、この二郎はもう本当仕事一筋の人ですね。やっぱりあの産業もこれから成長していこうっていうですね、本当に右肩上がりな時代だったのかなと思うんですけど、本当にもう仕事一筋の二郎ですね。
で、えつこがさちこと出会うことで、やっぱりそれまでの女性の生き方っていうのが、自分を殺して生きるしかないと。結婚したら旦那さんを立てて、奥さんは主婦として頑張ってというですね、そういう生き方しかないのかなと思っているところに、
さちこという本当に自分らしく生きようとする。自分の道は自分で開こうとするような人ですね。出会うことで、やっぱりさちこに惹かれるところもあって、ちょっと象徴的なシーンとして、えつこがさちことまりこと3人で出かけてケーブルカーに乗りに行くシーンですね。
さっき弟子さんが言ってた、あそこの稲瀬山ですね。そこに行って、ケーブルカーに乗りに行って、この遠い山並みの光の風景をですね。すごく綺麗なこの描写もね、あったりするんですけど。
そこで、えつこはさちこからですね、最初の結婚の話とか、もともと英語の勉強が好きでしてたんですけど、結婚したらですね、ちょっと旦那さんから英語の勉強をやめさせられたとかですね、そんな過去の話を聞いたり、だから今アメリカに行って道を開こうと思っているっていうですね、そのさちこの決意を聞いたりします。
でまぁちょっと時間流れて、ついにですね、このさちこもアメリカに行こうとするんですね。このフランクとなんだかんだありつつ手筈が整って、急遽ですね、もう今家出ないといけないというので家を出ようとすると、えつこ、さちこ、まりこっていうですね、登場人物たちの運命が大きく動いていくというですね。
そんな回想ですね。ちょっとここで80年代に戻るんですけど、イギリスで、えつこが50年代長崎ではこんなことがあったんだよという回想ですね。2期に語って、2期はですね、お母さんの過去を知ることになっていくというですね。そんな話ですね。
そうですね。ここからもうちょっといろいろあって終わっていくわけですけれども、この辺りですかね。まず自軸はえつことさちこの話なんですけど、それにプラスしてこの尾形さんと二郎とか松田の世代のこの溝なのかな。
はいはい。価値観の溝みたいなところですかね。
ここはちょっと結構大きぼりに、小説も映画もなっていて、松田っていうこの男をですね、映画では渡辺大地がやってるんですけど、あのシーンはなかなか結構緊迫していて、あって話があるんですけど、原作にももちろんあって、そこは結構緊迫していて、すごい見応えがあるところでしたね。
でも原作はちょっとやっぱり映画とは違いましたね。あそこのシーン。
ちょっとトーンが。
そうですね。なんかその原作の方がよりなんかその共産の話とか、細かく説明がされてましたし、なんか映画だと尾形さんが最後に怒って雑誌を叩きつけたりしたんですけど、
そこが原作ではね、もうちょっとなんか、何でしょうね、もうちょっと会話で終わる感じですよね。
そうですね。
なんか怒って悪いじゃなくて、あ、そっかーっていう感じでね、しょぼんとして終わる感じ。
そうですね。松田側も結構ちゃんと説明したいみたいな感じが原作では。
そうですね。
時間があればもうちょっとお話するんですがみたいな感じではあったけれども、映画はちょっともうね、なんだかんだあなたわかってるんでしょ?今わかってない感じだけどみたいな。
うん。
感じでちょっと突き放すような感じではありましたよね。
っていうのであって結構この時代のうねりみたいなのも結構ね、描かれている作品で、主軸としてはこの過去の回想の中で、
えつこが自分を見つめ直すというか、いろいろ回想していく、思い返していくっていうのがメインのところなんですけど、それに加えてこういうちょっとこの長崎っていう、この1950年代の長崎っていうのが描かれているので、結構その辺は重層的な作品だなというところですね。
でもこれ、最初読んでる時あの結構、えつこが自分は幸せなんだっていうのを言っててですね。
あの50年代、長崎の回想の最初の方ですね。妊娠していて、もうすぐ子供も生まれようとしていて、旦那さんも仕事頑張って順調だし、自分今人生で一番幸せなんだみたいなことをですね、何度か口にしていて。
そこが結構印象的でしたね。その、えつこにとって幸せって何だろうとか。あと、えつこにとって希望って何だろうと。そのさっきのね、ちらっと出てきた藤原さんの話でも、藤原さん希望を持ててっていうところで、幸せとか希望ってその人にとって何だろうみたいなところがですね、この作品の中で口に出して言ってるところもあるんですけども、でも読んでいくと後々で、
なんかそのあたりが考え方が変わっていくところが。
それこそ尾形さんが思ってるこのこうあるべしみたいなところと二郎が思ってることとか、あいつこが思ってることとかが、まあもうそもそも藤原さんが思ってることとかって、なんか結構それぞれ全然やっぱり違っているんで、すごい一人称の小説だけれども、なんかそのそれぞれの視点が結構ちゃんと描かれてるので、
それぞれにとっての幸せというか人生観みたいなところっていうのが結構出てて、が故にぶつかるよねみたいな。
で僕はあと好きなところで、そうやって考え方とか価値観に違いがあってぶつかるところあるんですけど、その尾形さんとか藤原さんみたいなちょっと古いタイプの人ですね、がこの作品の中ではすごい人情味があってですね。
で、えつこはそういう尾形さんとか藤原さんのことがすごい好きなんですよね。まあ慕っていて、でも今の若いその世代の若い人たちと比べると溝がある人たちでもあると。なんかそのあたりの描き方がすごいなんか好きでしたね。
古い考え持ってる人だからなんかダメな人だとか悪い人だとかって一概にはね言えないなと。そうともなかなか見えないところもありますし。
そうですね。
でもそんな尾形さんも、これ原作であった話なんですけど、夫婦で別の政治家に投票することに対して苦言を呈するっていうのもね。
で、二郎の会社の同僚が自分と奥さんでね、その政治家、投票する政治家。奥さんはなんか親戚のちゃんにこの人と顔が似てるからこの人に投票しようと思ってたんです。
いや、そんなんで決めちゃいかんみたいなんで夫婦喧嘩になったっていう話を聞いて、尾形さんが夫婦で別々の政治家に投票するって、いや気しからんだろみたいな感じでね、苦言を呈するっていう。
うん、確かにそんな一幕もありましたね。
そうそう。
でも時代が時代なんでしょうね、やっぱり。
そうですよね。
なんかこれをやっぱり改めて25歳で、20年以上日本に離れていた和尾石黒が書いてるってのがやっぱすごいですよね。
雰囲気、この雰囲気どうやって掴んでたんだろうみたいな。
なんか映画のパンフレットに和尾石黒のインタビューが載ってて、そこにやっぱりなんか5歳だったけど鮮明に覚えてるみたいなことが書かれてましたね。
逆に離れてしまったからこそその記憶を守り続けていたんじゃないかっていうようなことが書かれていて、
なるほどなーとか思いながら、私なんかもう5歳の時の記憶なんてほぼあるようでないというか。
幼稚園生?
そうですよね、ないですよね。
もうちょっと断片的なほんと記憶しかないですね、っていう感じになっちゃうんでね。
他にもいろいろありましたね。
映画では結構印象的だったのはこのエツコが被爆への恐れみたいなところ。
被爆意識みたいなところを結構言及していたと思うんですけど、原作ではそこあんまりなかったんですよね。
そうね、これね、結構ぼやかしてましたね。原作では割とストレートに描かれていて、
これは多分もう完全に映画で完全にこっちに舵を切っている感じはしましたよね。
だから原作だとあんまり触れずにっていう。
そうですね、触れてなかったですよね、あの被爆の話とか被爆者の話とかね。
でも映画だともう結構いろいろな場面場面に出てきましたよね。
そうですね、なんかそこは映画でちょっと追加された要素かなと。
そうですね。
思いましたね。
なんかメッセージは感じましたよね、そこには。
映画ならではの。
そうですね、そこは思いましたね。
あと原作と映画の違いで、映画ちょっと怖かったですね。
確かに。
これでもそうだよね、割と忠実なところはあって、
だからその忠実なところが結構怖かったところもあって。
そうそう、映像にするとこんな怖くなるかって。
ああ、やばいなって。
そうですよね。
ちょっとホラー映画見合ったよね。
そうですね、小説読んでたらそこまで感じなかったんですけど、
やっぱりあれは映画ならではなんですね、やっぱり。
映像の質感とかもあったけど、ちょっと怖いシーンがありますよね。
そうですね。
さて、ちょっといろいろ話してきましたが、
結構ね、今回我々のエピソードの中でも結構この映画と原作扱うときって割とパキって分けて話すけれども、
今回はごちゃごちゃにしながらあえてちょっと話していったんですけど、
どっちも良さがあるなと思っていて、
これ結局どっちがお勧めか分かんないなと思ってて、
映画を先に見るほうがいいのか、小説を先に読むほうがいいのか、
どっちだったんだろうなって。
ちょっと今回特集で100ページまで読んで映画見に行っちゃったんで、
ちょっとスケジュール上仕方なかったんですけど。
個人的にはなんかその、
感でいうと映画先のほうが自分の中では消化できたなとは思いますね。
その後の原作を、映画見た後原作読んでもより消化しやすかったなっていうのはありましたね。
入ってきやすいし、原作はそうかここを曖昧にしたんだみたいなのもすごい分かりやすいんですよね。
曖昧にしたというか、ちょっとここは解釈の余地残してるんだなみたいな。
これは確かに原作、映画見てから原作読むと、
あ、そういうことだったんだみたいなことはすごい分かるし、
あとやっぱりそうかな、個人的には最初話したけどやっぱり、
映画でやっぱり2時間に収めるために作ってる構成っていうのはすごかったなと思うんで、
それもやっぱり映画見てから小説読むと感じるとか、
ここは削ぎ落としたんだとか、ここはこうまとめたんだみたいなのはやっぱり映画見た後、
だからこそ感じやすかったところはあると思うんで、
これもしかしたら映画先かもしれないですね。
おすすめは。
ただ一方でですね、みんなにおすすめってわけじゃないんですけど、
パズー・イシフルが25歳で書いている小説なんで、
そこのですね、しかもデビュー小説になってるんですけども、
デビュー長編か、25歳だから書けたところとかですね、
もしかするとその後のパズー・イシフルの作品ほどまとまってないのかもしれないけども、
でもなんかもう本当にいろんなものが重大無尽に、
270ページに収まって書かれているんで、
そこの芸術性というんですかね、感覚的なものですけど、
それを素直に味わうには小説からじゃないとできないことかなと思いますし、
このパズー・イシフルのデビュー小説が持ってるこの、