英語と日本語の兄弟表現の違い
英語に関する素朴な疑問です。 なぜ英語では兄も弟も brotherと同じ語になるのですか?という質問です。
これは非常に多く寄せられる質問なんですけれども、もちろん兄弟に限らず、女性の姉妹も sisterと同じ語になるわけですよね。
日本語の場合は、自分よりも上か下かによって兄弟、あるいは姉妹というふうに訳し分ける。
しかし英語では brother sister というふうに、上下関係、年齢はポイントにはならないということですね。
もちろん英語にも、あえてですね年齢をはっきりと上下、言いたい時には elder brother elder sister と言い方がありますし、
younger brother younger sister と言い方はあります。 しかし、とりわけその年齢が重要ではない、ポイントではないという場合には、特に言わずに、普通 brother sister と言う。
日本語の場合は、その上下の関係が重要であろうがなかろうが、とにかく単語が決まっていて、兄弟、姉妹というふうに言い分けるということが、
半ば義務付けられている。この義務感の点で、日本語と英語がだいぶ異なった振る舞いをしているという、そういう疑問点かと思います。
これは社会言語学では、堅点という用語で整理することができます。堅点の堅というのは、明るい、顕著の堅ですね。
明らかな点ということです。つまりここに注目する、ここがポイントだよという点のことを、顕著な点ということで、堅点と呼ぶわけですね。
日本語の場合、この兄弟姉妹関係の語においては、年上か年下か、つまり年齢の上下というのが堅点になっている、ポイントになっているわけです。
ところが英語では、そこは察して、日本語ほどは堅点ではない。必要なときはelderとかyoungerで、確かにあえて言うことはできますが、デフォルトでは特にそこは問題とならないという点では、堅点ではない。
上下関係が堅点ではないということです。これは非常にわかりやすい例の一つではあるんですね。
日本語、あるいは日本文化であるとか、もっと広く言えば東アジア文化圏では、上下関係が非常に重要であると、いわゆる儒教文化ということです。
それによって上か下かという発想が文化的に非常に重要な意味を持っていて、それが語彙、つまり言語の語彙においても反映された結果、
兄弟と姉妹という語彙の区別につながっていると。一方で、そこまで上下関係が強くない、ゼロではないですが、そこまで強くない英語の文化圏においては、
兄弟と姉妹と言って済ませるという点で、つまり堅点の違いですね。文化において何を重要とみなさないかという程度の問題ですけれども、その違いとして、この英米の違いを理解することができるということです。
言語の多様性と文化的背景
他には、例えば、よく知られているものとして、ライスというものがあります。英語でライスと言いますが、実は日本語では稲と訳したり、米と訳したり、ご飯と訳したりするわけです。稲というのは植物の状態のときですね。
それから、そこから取り出した、調理前ではありますが、その状態を米という、調理された状態をご飯とか白米という言い方をする。これをすべて英語ではライスという、非常に大雑把な、雑な括り方に我々はすると思うわけです。
我々にとっては米というのはステイプルフード、主食であり、その生育段階、発達段階というんですかね、成長段階をそれぞれ細かく分けるということにとっても文化的な意義がある。これはそこまででもない、西洋文化圏、英米文化圏ではライスと一言で済ませる、でも成り立つということですね。
他、例えばgiveというのはどうでしょうか。英語のgive、与えるというふうに普通出ていますが、実際に日本語に訳すときにはやる、あげる、場合によってgive meの場合はくれるですよね。そして、相手との関係によってはくださるにまでなる。他にも訳は可能だと思います。すべてを英語のgive、一個で補っています。つまり、賄っていますね。
つまり、give一つに対して日本語では非常に複数の言い方があるということです。このようなbrother、rice、giveという点を見ると、日本語は非常に細やかで、英語は非常に大雑把と見れます。しかし、これは非常に相対的な問題です。逆を考えてみましょう。
日本語では借りると言います。しかし、英語では少なくともいくつかありますが、borrowとrentというのがあります。borrowというのは基本的に本を借りるであるとか、お金を伴わないものですね。rentはrent a carもそうですけど、基本的にお金が絡むように借りるという言い方は日本語は逆にするんです。
これはあくまで借りると言っていますが、経済的にはだいぶ違う話で、英語のborrow、rentと言葉を分けるというのも、よく考えれば分かるということになりますね。
他に話すはどうでしょうか。日本語で話す、確かに言うとか、述べるとかいろいろありますけれども、話すといった場合に英語に対応するのはspeak、say、tell、talk、その他、他にあると思うんですよね。
この場合、英語が非常に詳しく分けてあって、日本語では非常にずぼらに借りると言って済ましたり、あるいは話すと言って済ませたりすると。
もう一つの例として、早いはどうでしょう。日本語で早いと言います。ですが、英語ではearly、fast、quick、いろいろあります。
確かに日本語の早いも、中国語のいわゆる漢字を借りて、早い、早起きの早いという場合と速度の速という場合では、意味が違うというのが分かったりしますが、ただ和語として、本来の日本語としては早いしかありませんね。
それが英語ではearly、fast、quickに対応するわけです。
このように、ある意味、2つの言語を比べれば、単語の意味の分布というのはお互い様なわけです。
brotherの場合は英語がずぼらで、日本語が非常に細かい。
rice、giveも同じ。英語は非常に粗雑だけれども、日本語は細かく分ける。
一方、借りるに対して英語はborrow、rentと細かく経済活動の方式に伴って分けるし、早いに関してはearly、fast、quickと分ける。
話すに関してもspeak、say、tell、talkとある。
これも、そもそもお互い様でこんなもんな言葉というのは、どちらかが細かいから偉いなんて言い出したらキリがない話で、それぞれ世界の切り方が違うというただそれだけなんです。
もちろん、ただそれだけと言っても、ある程度文化的背景がある、つまり文化的背景で説明できるものはあります。
先ほどのbrotherに対して兄弟は東アジアの儒教文化、これは関わっているということは非常にありそうなことですし、非常に説得力があると思うんです。
同じようにrice、これは日本のある東アジアの主食ですから、細かく生育段階を分けるというのは当たり前のことです。
だから、稲、米、ご飯と分ける。それに対して、そうでない。英語ではriceと一言で言ったところで、別に混乱は生じないし、問題ではない。
つまり、見点の違いというのは、確かに文化的にある程度うまく説明できる。brotherとかriceのようにきれいに説明できますし、早いに関しては日本語は早い一つしかない。
しかし、英語にearly、fast、quickあるということが、じゃあ日本の文化と英語の文化の何らかの違いであるかというと、これは非常に疑問です。微妙な問題です。
brother、兄、弟は割と文化的に説明できる。rice、稲、米、ご飯、これも文化的に説明できそう。
しかし、早い、early、fast、quickについてはどうだろうか。このように2つの言語を比べれば、必ずこのような食い違いが出ます。
そのような食い違いの何割かは確かに文化的に説明できるというか、文化に依存して割と説得力を持って説明できるものはあるかもしれない。
しかしそれ以外のものに関しては、実は文化もへったくれもなくて、ただ違うということが実は多いのではないかということですね。
そこで単語のこのbrother、兄、弟だけで、儒教文化とそうでない文化というのは、そこそこいけたとしても、これすら注意する必要があるのではないかと。
非常に単純な比較文化論、非常に単純な文化論に発展する可能性があるという意味では、実は培わなければいけないのではないか。
さまざまな例を見て、実はランダムに何の意味もなく、あるところではこの言語は細かい、だけどあるところではこの言語はズボラだというような、
それが実は言語の実態なんではないかと思えてくることも非常に多いわけです。これは例をたくさん見ないといけないと思います。
brotherは非常に原点がはっきりするポイントということで例に上がるかもしれませんが、それ以外の多数を見て、やはり日本語と英語にしろ比べていく必要があるのかなというふうに思います。
この問題につきましては、ヘログの3779、1868、1894、2711、そしてとても重要なんですが、1337、一単語文化論に要注意、この記事を読んでいただければと思います。