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始まりました、志賀十五の壺。今回は、お便り回答会ということでやっていこうと思います。
できればね、3通お答えしたいと思います。まずは1通目、こまつなさんからいただきました。ギフトと一緒にいただきました。ありがとうございます。
言語相対性仮説の話を聞いて思ったのですが、日本語にあって英語にない感情表現とかあると思うのですが、英語圏の人は言葉がない感情は感じないと思いますか?ちょっと気になったのでお便り書いてみました。いつも楽しく聞いています。応援してます。ということで、どうもこまつなさんありがとうございます。
これね、いや、そんなわけないと思うんですよね。よく言われるのは懐かしいっていうのはうまく表現できないとかね、あるいは肩こりっていうのを感じない。なぜならそれにあたる言葉がないからとか言ったりしますけど、これはもちろん英語に限った話ではないですよね。その日本語英語感だけではなく様々な言語感で起こることだと思うんですけど、
そんなことはないと思うんだよな。それにあたる単語っていうのがないってことはあると思うんですよね。単語がないので、無限的な表現をする。ちょっと文章っぽくなるっていうかね。辞書の説明っぽいような表現になるってことはあると思いますね。
そういう、なんていうかな、食い違いっていうのはあると思いますが、うまく表現できないと言えばできないけど、感じないわけではないと思いますね。
これは感情に限らずですけど、例えばね、日本語で兄弟というとこを英語ではbrother一単語で済ますわけですよね。ただ言おうと思えば、younger brotherで弟みたいに、こういうのを無限的方法って言うんですよね。
っていうふうに言おうと思えば言うことができるので、全く感じることができないとか認知することができないということはないと思いますけど、しっくりはこないでしょうね、当然。
なので、結論を申し上げますと、日本語でしか表現できないような感情を非日本語母語話者が感じないことはないと思いますが、そしてそれを表現する方法がないわけではないですが、しっくりはこないんじゃないかなっていうね、ちょっとよくわけのわからん回答になってしまいましたが、
この言語によって見え方が違う、世界の見え方が違うっていうのが小松菜さんのおっしゃってくれている言語相対性仮説なんですよね。
ぜひね、小松菜さんにおすすめしたい本があって、丸山圭三郎先生の言葉とは何かという本です。これはもうこの番組では何回も紹介しているものです。
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ぜひね、これは読んでいただきたいんですよね。またこれAmazonか何かのリンクは貼っておくので、ぜひ読んでみてください。
では続きまして2通目のお便りです。春春さんからいただきました。こちらもギフトと一緒にいただきました。ありがとうございます。
志賀さんこんばんは。春春です。ポッドキャストアワードの推薦作品の選出おめでとうございます。やはり志賀さんの言語学のお話に私を含め皆さん引き込まれているのだと思います。
はい、ありがとうございます。さて今回お話ししたいのは、日本語母語話者は外国語の発音で不利になっていないかということです。
日本語は英語や中国語などに比べると発音の種類が少なく感じます。そのため意識的に練習しないと外国語の発音という点に関しては習得に不利なのではと感じる時があります。
口や舌の使い方も全く違うと思います。もしよければ志賀さんのご意見を教えてください。ではまた。ということで春春さんどうもありがとうございます。
これはね、こないだ収録した、こないだというわけでもないか、日本語は世界一難しい言語かというトークと関連していて、こちらもリンク貼っておきますね。
外国語学習といった時にその外国語ターゲットとなる言語が何なのかによると思いますね。
英語だと当然日本語より死音の数も母音の数も多いので苦労しますけど、逆にハワイ語みたいな言語を学ぶ場合、ハワイ語の音は日本語に比べてはるかに少ないんですよね。
世界の言語を見回しても少ない方なので、例えばハワイ語にはスっていう作業の音がないんですよね。その作業の音は家業の音で置き換えるのでメリークリスマスっていうのはメレカリキマーカーって言うんですよね。
というふうに、ターゲットとなる言語の方が発音の種類、死音母音含め、声調とかも含め多い場合は当然日本語母語話者は不利でしょうけど、逆に少ないハワイ語みたいな言語だと有利というか学習はしやすいと思いますね。
まあこういうのはもちつもたれつっていうか、逆に非日本語母語話者が日本語を学ぶときは、例えばアクセントとかで苦労するかもしれないし、あめとあめの区別ですね。
あるいは中国語母語話者だと声音と濁音の発音の仕分けっていうのがちょっと苦労するかもしれないしということで、どんな言語でも苦労することはあると思うので、日本語母語話者に限った話ではないかなと思いますね。
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まあでも確かにね、日本語は比較的死音とか母音の数は少ない方かな、平均的かやや少ないぐらいだと思うので、総合的に判断すると、もしかすると外国語を学習するときにひょっとすると苦労することが多いかもしれませんけど、それはターゲットとなる言語によるということで締めくくりたいと思います。
どうもはるはるさんありがとうございました。
では最後のお便りです。こちらはマシュマロでいただきました。匿名の方ですね。
こんにちは。質問失礼します。
性濁の区別についてお聞きしたいです。というのも、どうも日本語は性濁の区別を軽視する傾向があるように思われます。
濁点、反濁点が当たり前になったのは、確か近世に入ってからでした。
それから私は速記を学んでいるのですが、日本の多くの速記方式では性濁の区別が曖昧で、私の学ぶ無意識速記もやはり例外に漏れず、特に必要なとき以外は濁点に当たる記号を付さないことになっています。
万葉仮名の功労にはしっかりあった性濁の書き分けが衰退して、濁点の有無で表すようになった理由と経緯が知りたいです。
ということで、どうもありがとうございます。
確かにね、書いてくださっているように、昔の初期体系だと万葉仮名は別として、性音も濁音も区別なく書かれてたんですよね。
あるいはこういうとこでちょっと濁音の軽視と言っていいかわかんないですけど、そういったことが見られるのは、しりとりやってて濁音で終わっている場合は、濁音でも性音でもどっちでもいいよみたいな感じになりますよね。
あれももしかしたら性音と濁音の区別がそんなに重視されていないことの表れと言えるかもしれません。
まあ結論から言うと多分面倒くさかったからだと思いますね。文脈で判断できるから一時性音も濁音も区別しなかったっていうことのだけなんじゃないかなと思いますね。
まず前提として、その初期言語というか書かれた言葉っていうのは音声言語のすべてを写し取っているわけではありません。
例えば日本語で言うと、さっき言ったアメとアメの区別は、つまりアクセントの区別っていうのは表記上は表れませんよね。
このアクセントっていうのは日本語において意味の区別に非常に重要な要素であるにもかかわらず、表記上はそれが表れていません。
あるいはアラビア語みたいな言語だと、アラビア語の表記っていうのは母音は書かないんですよね。子音だけしか書いていません。
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っていうふうに書かれた言葉っていうのは音声言語のすべてを反映しているわけではないので、性音と濁音の区別を表記上は表わさないっていうのも十分考えられることなんですよね。
あるいは濁音の場合は日本語においてかなり表れ方が限定的だからと言えると思いますね。
こちら関連トークがあるのでぜひそちらも聞いていただけたらと思うんですが、漢語が入ってくる前の日本語において濁音の表れ方はね、現代語に比べてかなり限定的で、例えば語頭には出てこなかったんですよね。
単語の頭に濁音が出てくるようになったのは漢語の影響だと言われています。
濁音っていうのは何をやってたかっていうと、大抵連濁だったんですよね。
鶴に対して芋鶴とかね。
連濁っていうのは何をやっているかっていうと、その単語が前の単語と一つになってますよ、複合語になってますよっていう表示だということができます。
そういうことも関係して、文脈から分かるだろうということで濁音は表記されなかったのかもしれません。
ぜひ関連トーク聞いていただけたらと思います。
というわけで今回のトークはここまでということで、また次回お会いしましょう。ごきげんよう。