2025-10-31 25:33

#468. エリザベス女王の「死」を巡って

#heldio #英語史 #英語教育 #英語学習 #hel活 #英語史をお茶の間に #タブー #婉曲表現
---
stand.fmでは、この放送にいいね・コメント・レター送信ができます。
https://stand.fm/channels/650f4aef0bc9d6e1d67d6767

サマリー

エリザベス女王の死去を受けて、様々な報道がなされており、特に英語の表現の使われ方に注目が集まっています。報道英語では直接的な表現が多く使われる一方、敬意を表すための遠回しな言い方も存在することが議論されています。女王の急死に対する反響とその影響が探られています。女王の死がもたらした国民の動揺や今後のイギリスの状況についても言及されています。

エリザベス女王の死去
おはようございます。英語の歴史の研究者、ヘログ英語史ブログの管理者、そして英語のなぜに答える初めての英語史の著者の堀田隆一です。
9月11日、日曜日です。いかがお過ごしでしょうか。 この2日間、世界にショッキングなニュースが走りました。
イギリスのエリザベス女王が亡くなられたというニュースです。皆さんもご存知かと思いますけれども、私もですね、日本生まれ育ちではありますけれども、
留学を通じて日本の次に長く住んでいた、留学していた国としてイギリス、そこの君主ということでですね、やはり
思い出ということもありますし、各種のニュース新聞でも即席が語られていますように、やはり非常に長い間君主として勤められたということで、歴史を見てきた方ですよね。
現代史の憶象人ということで、亡くなられたということで、心よりお悔やみ申し上げます。
さて、今日の英語の語源が身につくらじゅうヘルギオの話題ですけれども、 謹んでエリザベス女王の死去をめぐっての話題をお届けしたいと思います。
よろしくお願いいたします。
一昨日、KKさんより次のようなご質問、コメントをいただきました。読み上げます。
英国のエリザベス女王が亡くなり、これを奉じる様々な報道がなされていますが、 BBC はじめ多くの報道で、
ダイやデフという直接的な語がそのまま使われていることが意外に感じられました。
これは個人的にはパスアウェイのような表現で述べられるのかなと思っていただめですが、 北田先生はどのように感じられたか見解をお聞かせいただけるとありがたいです。
というご質問コメントでした。KKさんありがとうございます。
実は私も全く同じことを考えていまして、感じまして、エリザベス女王が亡くなったという不法が入った時に、日本語、英語、様々なルーツからこの報道記事を私も触れたわけなんですけれども、
だいたい英語の場合ですね、この見出しにデフという割と直接的な表現が使われているんですね。
それからその後の、これヘッドラインとしてデフが使われているっていうことなんですが、その後の記事を見ましてもダイとかデフっていう表現が割と使われてるんですね。
ある意味ではこのような不法記事というのは、新聞であるとかニュースであるとかジャーナリズムでは日々繰り返しあることだと思うんですが、意外と注目していなかったんですね。
やはり大物が亡くなった時に、こういう形で気づくということで、いかに今まで注目していなかったかと言いますか、観察していなかったかということがバレてしまうようなことなんですが、確かにこのようなケースで非常に権威のある方が亡くなられた場合にもですね、
デフとかダイっていう表現は意外と使われているということに今回改めて気づいたんですね。この点では、KKさんと全く同じような印象を抱きました。
これにつきまして、まさに昨日の今日と言いますか、おとといの昨日の今日っていう感じなんですけれども、きちんと私自身も調べていません。
ただ非常に面白い、面白いと言いますかね、見当に値する問題だというふうに考えていまして、今後注目していきたいなということで、今回何か決まった答えと言いますか、確定的なことを何か述べられる自信は全くないんですけれども、KKさんにいただいたこの問題式、私も完全に共有していますので、
まずは、取っ掛かりとして考え方と言いますか、どういうふうにこの問題と言いますかね、本当は避けるべき直接的なデフとかダイという表現がそのまま報道英語では使われているっていうこの状況をどう見るかっていうことですね。
これをどのように考えていったらいいかなということを質問を受けまして、私自身も考えたことがありますので、それをご報告ということですね。何か確定的な答えがあるっていうことでは全くなくてですね、むしろいただいたことで、これから考えていこうということなんですが、お付き合いいただければと思います。
これまでもですね、このヘルディオでは、いわゆるタブー、シっていうのは典型的なタブー語でズバリ言ってはいけないって言いますか、ズバリ言うと土吉すぎるということですね。遠距離表現に変えて表現するっていうのが一般的だと。
ということで、このタブーの話題は私自身も関心がありますので、このヘルディオでも度々取り上げてきたんです。
例えばですね、一番最初はですね、79回のですね、小英語には大という動詞がなかったという話題でですね、そこでタブーと引っ掛けて小英語における死を意味する単語についてお話ししました。
それから第198回の放送なんですけれども、大とデス、中小名詞を作るTHということで、これは形態的な話ではあるんですけれどもね、大とデスの語源的な関係について語りました。これもタブーに関連する話題として触れました。
それから一番最近では244回の放送で遠距離表現の作り方ということで、これ死、大そのものを扱ったどうかはわからないんですが、関係する話題としてですね、このタブーに対してではどういう言い方で言い逃れするのか、遠距離表現を作るのかというような話題で扱った、そういう回があるんですね。
この3回ぐらいですね、タブーと遠距離表現というのを扱っていて、このお話をするときに常に頭にあるのはだいたいですね、死とか性的表現ということなんですよ。本当に死っていうのが一番直接的ですね。
これは人類共通の思いが乗っかったある種、用語であり概念であると思うんですよね。名詞であれ形容詞であれ動詞であれっていうことです。
日本語でも死とか死ぬっていうのはやはりちょっとどぎついわけですよね。そこで様々な言い換え表現がありまして、言い換えの中でも近いものから遠いものっていうのがありまして、この2日間の報道を見てみますと、日本語の新聞とかニュースでは死去という、ある意味非常に無難ですよね。
死とか死亡ではなく死去という言い方をしていると。これは取り立てて経緯を込め過ぎてもいないけれども、だけれども死とか死亡というような生々しさを感じさせないというか、その中間ぐらいの語感があるかと思うんですね。
この語感というのは非常に難しいもので、言語ごとにいろいろあるんだろうなというふうに今回私は思ったんですけれども、英語の場合ですね、やはりdeathとかdieっていうのは直接的にわりとニュース新聞の英語では使っていますね。
一方で、その下の記事ですね。記事そのものの中では、例えば謹慎の謹慎と言いますかね、いわゆるチャールズ皇太子、今もチャールズ三世王となるわけですけれども、であるとか謹慎の人がこの記述をする場合にはdeathという言葉をあまり使っていないですね。
やっぱり名詞としてはpassingであるとかlossであるとか、いわゆる遠距離表現、比喩表現ですけれどもね、比喩表現というのは遠距離表現です。比喩表現を使って直接的にdeath、dieというのを避けている雰囲気はあります。
ただ、報道上はdeathとかdieというのを特に嫌っていないと言いますか、意味嫌っていない感じっていうのは非常に感じましたね、今回。
言語の多様性とタブー
これについてはいろいろ調べなければいけないなというふうに、KKさんにも指摘いただいて、本当に思った次第なんですけれども、一つこの段階で私が考えていることは、レジスターっていうことはあるかなと思うんですね。
いわゆるジャーナリズムイングリッシュ、報道英語ですよね。このポイントは、最大のポイントは状況を端的に伝える、事実を端的に伝えるっていうことだと思うんですよ。特にヘッドラインっていうのはそうです。ある意味ではショッキングでもいいぐらいということですね。
その中の記事を見ると割と遠距離的な表現が使われているんですけれども、ヘッドラインっていうのはズバリ物を言うっていうことが心情であるということがあるんではないかと。もちろん言葉の世界には柔らかく言う方が適切であるというのは、いわゆるユーフィミズム、遠距離語法が適切であるっていう側面が多いわけなんですが、
それも含めて、実はレジスターと言いますか、使い分けというのがあって、敬意や丁寧さが大事っていう時と、事実を伝えるのが大事っていう時の区別があると思うんですね。
例えば、目上の人であっても逃げなさいではなくて、本当に命がかかっている時に逃げろって言うわけですよね。同じようにニュースの英語でも事実の描写がまず第一であるというような、ある種のポリシーと言いますか哲学があるのかもしれません。
いただいたコメントに対してコメントバックいたしたいと思います。少し前の回でしたが、436回ですね。英語史の始まりの瞬間から英語はすでに多様だったに対しまして、カミンさんからコメントいただきました。ありがとうございます。読み上げます。
この回も私にとっては神回となりました。
フランス語史におけるフランス語、le françaisとは一体何かという問題や、標準フランス語とフランス語諸方言、地域語の関係についてずっと前からもやもやとしてきたことが、先ほど閃くようにわかったのです。
フランス語史やフランスの地域語方言学の専門家にとっては自明のことであったかもしれないけれど、私も明確に記述意識されていなかった事柄だと思います。
英語史を学ぶことはやはりいいことだらけですね。メタ言語史的なネタですが、精度を上げてどこかで発表できればいいなと考えています。
ということでカミンさん、大変貴重な、そして非常に元気づけられるコメント、ご意見ありがとうございます。
本当にそうなんですよね。
英語でも、やはりあまりに英語もフランス語もそうですが、いわゆる国家語というものは一つ形を成しているんですよ。
教育のために、いわゆる国語の教科書というものができているということですよね。
ですけれども、これ自体は非常に新しい現象で、ここ100年とかそれぐらいの話なんですよね。
ところが、英語なりフランス語なりの歴史というのは千数百年あるわけなんですけれども、
この直近100年ポッキリの教科書があるということだけを我々は知っているので、その前に何があったかってなかなか気づきにくいわけなんですけれども、
実際には一つのホニャララ語というのが完成していたわけではなくて、ホニャララ語の方言集団というのがポワーンとあった状態なんですよね。
そこにわかりやすい形を与えるっていうのが、いわゆる標準語というある種のプロジェクト。
私は標準語とか標準語化っていうのは国家プロジェクトだっていうふうに考えてるんですけどもね。
そのような発想がなかった中世以前の時代は、そもそも標準語とか一つの言語っていう発想すらなかったんではないかなというふうに考えてます。
したがいまして、英語も元々は何か一つ種があったわけではなくて、多分複数の種があったんだろうと。
そしてフランス語も一緒です。
そしてラテン語やギリシャ語という西洋の社会では、一応規範的な一番重要な言語だとされる古典的な言語ですら、スタートは複数あったんだろうと、複数の編集からなっていたんだろうというふうに考えてます。
そしてもっともっと言いますと、紀元前3000年とか4000年というレベルですけれども、引用祖語ですね。
これも理論的に構築された産物なんですが、ズバッと星印をつけてこういう形だったんだよっていうことに、理屈上は学問上はなってるんですけれども、私はそれ自体も疑っていまして、
それは一つの参照形って言いますかね、レファレンスフォームぐらいのものであって、実体その当時生きていた人々は様々な方言、名割でもって話していたんだろうなと。
つまり当時ですら引用祖語ですら様々な形があった。それをいわゆる今風に言えば標準的な形にクリスタライズしたと言いますかね。
推奨化したのが星印付きのいわゆる再見形と言われるものなんではないかと。つまりどこまで遡っても言葉っていうのは多様性を帯びていたんじゃないかなという風に考えています。
エリザベス女王の死の影響
引用祖語ですら多様だったという問題についてはまた、私も非常に関心のある話題ですので、お話しする機会を持てればと思います。
【佐藤】ありがとうございました。そして昨日、同じく加民さんからいただきました。
466回に私が宣伝を兼ねまして、このボイスでの生放送についてご案内したんですね。
9月20日火曜日と21日水曜日の午後に生放送を2件。岡本ホッタの英語バナキュラ談義と、それから宿見ホッタの英語に関する素朴な疑問1000本ノックということでちょっと長いタイトルでしたけれども。
10日ほど後に予定されています生放送についてお話ししまして、それについてコメントをいただきました。
加民さんからのコメントです。読み上げます。
カジュアルでオープンなアカデミズム、しかも英語誌という地味で堅そうな領域で素晴らしい心意だと思います。
生放送会楽しみにしていますということで、ありがとうございます。本当に大変嬉しいコメントをいただきまして、私もこのボイスであるとか他にブログであるとかYouTubeなんかでも活動しているんですけれども、このカジュアルでオープンなアカデミズムというのを一つ狙っているところではあるんですね。
アカデミズムってやっぱりすごく高いところにあるというイメージを持つ方が多いと思うんですね。
実際に難しいことをやってますので、当然高いと言いますか、難しいことは確かにやってるんですよ。
ただそれをただやってるんではなくて、どうにかして、これを特に専門としていない方にも通じさせたいっていう、分かってもらいたいっていうのは、アカデミズムの私は基本だと思っているので、こういう活動をしているんですけれども。
難しすぎるとか、それを単純化しすぎるというような、なかなか溝っていうのは現実的にありまして、これを少しでも少なくしたいということで、このHeldioの放送もお届けしているということです。
なので、二つの非常に相入れないっていうか、相入りにくい二つのことをつなげようとしているのかなと言いますか、それをしたいんだなということで私は活動していると思うんですけれども、
その二つっていうのは、めっちゃくちゃ専門的で難しいことっていうのが一つの極にあるんですね。一方で、それはだけれども、みんなが分かりやすい形に還元するっていうことがやっぱり仕事ではないかというふうに私は思っています。
本当に言うはやすし、行うはかたしというのは、まさにこのことだと思うんですけれども、活動を通じて、これ少しでも実現していければいいなという思いで、この放送もしておりますし、皆さんにも聞いていただいて支援していただいていると、そのように思っております。
はい、少し小難しい話になってしまいましたけれども、私としては、とにかく毎日このような話題をお届けしていくということが、まさに今言ったようなことを実現する一歩、二歩だと思っていますので、これからも続けてこの放送をお届けしていきたいと思います。今後もどうぞよろしくお願いいたします。
エンディングです。今日も最後まで放送を聞いていただきましてありがとうございました。
国民の反応と今後の展望
このチャンネル、英語の語源が身につくラジオヘルディオでは、あなたからのご質問、ご意見、ご感想をお待ちしています。
ボイシートコメント機能を通じてお寄せください。
最後に、生放送のお知らせです。
連日お知らせしていますけれども、9月の20日、来週と言いますか、10日ぐらい後になりますかね、9月20日の火曜日および翌日の21日水曜日の午後に、それぞれ一つずつということで、2回生放送をお届けします。
一つ目は、9月20日火曜日の午後の2時45分開始で、1時間ほど続く予定なんですけれども、英語バナキュラ談義と題しまして、立命館大学の岡本博先生と対談します。
岡本先生は、このヘルディオにも過去2回ほど出演いただきまして、実は直近の1回目で、このバナキュラというですね、ラテン語に対して西洋のラテン語、偉い言語に対して偉くない土着の言葉、
イギリスなら英語、フランスならフランス語、ドイツならドイツ語というですね、この関係について、岡本先生、中世英文学のご専門でいらっしゃいますけれども、一緒に対談したいと思います。
中世英文学のですね、一つのちょっと変わり種の芸術的文学的作品としてですね、ガウェイン教と緑の騎士という作品があるんですね。サー・ガウェイン&グリーン・ナイトというのが現代なんですけれども、こちらアーサー大物です。
これがですね、実は11月25日にグリーン・ナイトという映画が風切られますが、これはですね、このサー・ガウェイン&グリーン・ナイトの本案作品ということで、この字幕監修を行っているのが、今回対談する立命館大学の岡本博先生ということで、そのあたりの裏話。
私もこういう翻訳ものであるとか、監修とか映画関係は関わったことがないので、いろいろねほりはごり聞いてみようかなと思っているんですけれども、そんな企画が9月20日火曜日の2時45分から企画されています。
そしてもう一つはですね、その翌日なんですけれども、9月21日水曜日、同じく午後なんですけれども、今度は4時からの1時間ということになりますが、こちらは熊本学園大学の宿見博先生、近代英語の社会言語学のご専門ということなんですが、
と私、堀田隆一が組んでですね、皆さんから寄せられた様々な英語に関する素朴な疑問につきまして、主に英語史の観点からですね、2人とも英語史が専門ですので、英語史の観点からどんどんお答えしようという英語に関する素朴な疑問専門ノックというような無謀な企画を立ててみました。
こちらもボイシー生放送として公開の予定ですので、合わせてお楽しみいただければと思います。
この2つのこの生放送会につきまして、前もってですね、ご質問であるとか、こんな話題について話してほしいというようなことがありましたら、ぜひお寄せいただければと思います。
このチャプターにですね、その投稿フォームのリンクを貼っておきますので、そちらからコメントなり質問なりということをふるってお寄せいただければと思います。
その当日本番の直前まで受け付けておりますので、ぜひどうぞよろしくお願いいたします。
それをですね、話題にしまして1時間それぞれおしゃべりすると、そういうことを考えていますので、ぜひお寄せください。
それでは本日、日曜日ですね、皆さんにとって良い休日となりますように、ほったり市がお届けしました。また明日。
25:33

コメント

スクロール