2025-12-06 25:42

【再】#504. 黒衣と大鎌の骸骨「死に神」を言語学する

#heldio #英語史 #英語教育 #英語学習 #hel活 #英語史をお茶の間に #メタファー #メトニミー
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サマリー

このポッドキャストエピソードでは、黒衣と大鎌の骸骨「死に神」として知られるグリム・リーパーを様々な視点から言語学的に分析しています。特にメタファーとメトニミーという概念を用い、死を象徴するイメージの背景やそのメッセージを探求しています。また、コロネルの発音に関する興味深い事例を通じて、英語とフランス語におけるラテン語の影響を探求しています。特に、ルネサンス期における語源的綴り字の現象がどのように発生したのか、その背景や独自性が語られています。

死に神のイメージ
おはようございます。英語の歴史の研究者、ヘログ英語史ブログの管理者、そして英語のなぜに答える初めての英語史の著者の堀田隆一です。
10月17日、月曜日です。新しい週刊の始まりです。いかがお過ごしでしょうか。
英語の語源が身につくラジオheldio。本日の話題は、【黒衣と大鎌の骸骨 死に神】を言語学する、です。
週始めの月曜日から扱う話題ではないだろうという気もしないでもないんですけれども、一昨日、土曜日の502回の記事でですね、
The Black Death、黒死病の話題を扱いました。このDeath、死に引っ掛けて、西洋の伝統ではですね、このDeathが擬人化されて、
骸骨の、そして黒いマントをまとったですね、典型的に大鎌を持っているイメージ。あの絵っていうのはどこかで見たことがあると思うんですね。
これについて言語学的な観点から分析してみたいと、そのように思います。どうぞよろしくお願いいたします。
西洋では死の表象として、あるいは死の象徴として、骸骨っていうのがよく引き合いに出されると思うんですね。
西洋の絵画であるとか、アニメーションなんかでもよく出てくると思うんですけれども、
骸骨がですね、黒いマントを羽織っているんですよね。そして大きな鎌を持っているという、こういうイメージなんですけれども、
これなんでこんな姿形をしているんだろうということなんですね。そしてこの人物と言いますかね、これ英語ではGrim Reaperという風に言います。
Grim Reaperです。Grimっていうのは残酷なって意味ですね。それからReaperっていうのは収穫者っていうことです。
ReapにERが付けられたもので、Reapっていうのは刈る、刈り取る、収穫するということですよね。
ですのでGrim Reaperで残酷な収穫者という風に呼ばれているんですけれども、この名前であったり表象のこのイメージであったり、
これをですね、今回はメタファーとメトニミという2つの言語学上の、もう少し言いますと意味論上の用語、概念を使いながら読み解いていきたいと、そのように思います。
今話しているこのチャプターに典型的なそのイメージの画像ですね、これを貼り付けているので目にすることができると思うんですけれども、
白黒ですけれどもね、いわば本当に典型的なイメージです。ポイントは骸骨であるっていうことですね、そして黒いマントを着ているっていうこと、そして大鎌をだいたい持っているっていうこのイメージなんですけれども、
本当はですね、伝説、神話によると流れ、ストーリーがあるんですけれども、死ぬ人っていうのはですね、人間、死に至る時にはこの死神が家の戸口まで迎えに来るって言うんですよ。
そしてこの死神とともに家から出て旅立っていくという、そういう流れがあるんですね。
そこまで含めて前提知識ということにしまして、それでは言語学的に分析していきたいと思います。
メタファーの考察
メタファーとメトニミという2つの意味論上の関係付けっていうのがありまして、メタファーっていうのが比喩のことですね。
何かを別のものに例えるという働きで、非常に日常的に私たちも日本語でも英語でも使っています。
全く違う次元のもの、違うドメインと呼ぶんですけどね、領域、違うドメインに属するものをですね、類似点、ここポイントです。
Similarity、類似点を捉えて引っ掛けるっていうことですね。2つのドメインの間に橋を架けるっていうことです。
このメタファーっていうのは典型的には、抽象的なものを表現するのに具体的なものを引き合いに出すっていうことです。
具体的なものっていうのは直感的にスッと理解しやすいって言いますかね、頭に入ってくるので、抽象的なものを説明するのに具体的なものを持ってするというのは非常によくあることです。
説明とか描写っていうことですね。よく知られているのはTime is money、時は金なりということなんですけれども、時、時間って非常に抽象的なものですよね。
そのままでは捉えにくい。しかし、マネー、お金っていうのはこれも文明の産物なんでそこそこ複雑なものなんですが、少なくとも現代の我々はお金とかなり近しい生活をしているので、お金については常に関心もあるし意識が高いし、よく知っているっていうことですね。
このTime、時という抽象的なものをマネー、お金という具体的なものに例えることによって、本質の一部、時間の本質の一部がわかってくるっていう、わかりやすくなってくるっていうことですね。
例えば貴重であるという性質であるとか、浪費してはいけないということとかですね。
このようにメタファーっていうのは、抽象的なものを具体的なものに置き換えて、理解を促進するっていうような働きがあるんですね。
死もまた、確かに生きている以上ですね、死は逃れることができなくて、その意味ではかなり身近なものという言い方はできますが、やはり抽象的なものではありますよね。
例えば死人とか死体ということで言うと、目に見える、触れるものということで非常に具体的なんですが、死といった瞬間に抽象名詞になるわけですよね。
捉えにくい。それを死神という形、姿形のしっかりと見えるものですね。イメージとして理解できるものに置き換えているので、そもそも今日のお話、イメージに置き換えてみたり、あるいはグリムリーパーと言い換えたりするというのはですね。
死を既に何者かに例えて、比較的わかりやすい、見えやすいものに例えているって意味で、そもそもが今日のお話は全体がメタファーの話だということなんですね。
ただ、もう少し細かいレベルで見ますと、何がメタファーかと言いますと、まずこの大釜です。大釜っていうのは穀物を刈り取るための道具ですよね。
穀物っていうのも植物ですから命があります。それを切ってしまうと植物の命、その穀物の命っていうのはもう終わりになるわけですよね。
そこに引っ掛けているということになります。人間も同じで、生きているんだけれども刈り取られると言いますかね。植物の皮膚で途中で刈り取られることによって死に至るということです。
要するに人間の死というものと植物の、穀物の死というもの、これを引っ掛ける媒介としてですね、大釜というのが持ち出されているっていうことです。
いわば農作業、収穫という農作業の費用をですね、人間の命、こちらの領域、ドメインに引っ掛ける形で使っているっていうことで、穀物を刈り取るっていう作業ですね。
これは人に死をもたらすという作業であり、そしてそれを実際になす道具と言いますかね、それがあの大釜であると。これは一つのメタファー、費用になっていると思うんですね。
死の象徴としての骸骨
次はメトニミーというものです。日本語では勧誘というふうに訳されることもありますが、今、言語学ではですね、横文字そのままメトニミーと言って済ませることが多いです。
メタファーが類似性に基づく2つのドメインを、何か共通点があったらそれを類似性とみなして2つのドメインに橋を架けるっていうのがメタファーでしたが、メトニミーの場合は領域は特に2つあるわけではなくて1つです。
1つの中に収まるんですが、その中で隣接関係にある、英語で言うとcontiguityっていうんですけれども、隣接関係にあるという関係です。
典型的には同時に起こるとか、あるいは時間的に前後して起こるとか、あるいは通常ですね、隣り合って存在しているという場所のようなものですね。
あるいは性質であるとか、メタファーに比べてかなり広い、ゆるい概念です。
何らかの点で似ているんではないんだけれども関係づけられるっていうとき、大体このメトニミーが関連しています。
ではこの死神、グリムリーパーの場合にどうメトニミーが関与しているかというと、これはですね、2点あると思うんですね。
まず分かりやすいのが骸骨です。
骸骨というのはなぜ死の象徴になるかというと、人が死んだら、死んだ後に大体肉が腐って骨だけが残るという時間関係です。
つまり生きていた状態があって、そして死が訪れる、その後肉が削ぎ落とされてですね、腐って骨だけになるという時間関係を表しています。
このように時間的隣接性というような観点から、これはメトニミーと言えるんですね。
死の象徴になり得るというのは、死んだら人は必ず骸骨にいずれなるからということです。
もう一つは黒いマントです。
これは葬儀を行う聖職者、修道士のイメージですね。
死ぬっていうことは必ずその後に葬式というのが社会的に行われることになっている。
そして葬式の現場に必ずいるのが、というよりも葬式を司るのが文句、修道士たちということですね。
したがってこの骸骨に修道士の常に着ている着物である黒いこれを着させているということは、やはり死のあるいは葬式のメトニミーなんだということになります。
コメントをいろいろとリスナーさんにいただいていながら、なかなかそれに対してコメント返ししたり、そこからさらに展開するということはできていないで心苦しく思っているんですけれども、
今日のこのタイミングを捉えまして、過去数週間で寄せられてきましたコメントについて簡単に紹介させていただきたいと思います。
少し前になりますが、487回言語か方言かそれが問題だと題する回だったんですけれども、H74さんから次のようなコメントをいただきました。読み上げます。
今日のお話はまさに目から鱗でした。これまでは母語と母国語はイコールでないほどの認識でした。我々が使う言葉を日本語と言いますが、それは国家に帰属するものでもなければ国家のコントロール下にあるものではないのだろうが、実際はそうなっているということは政治と大きく結びついているということですね。
考えるべきテーマをご提供くださりありがとうございます。ということでありがとうございます。
そうなんですよね。普段日本語といって日本国を強烈に意識するっていうことはないと思うんですね。
確かに日本国の公用語であるというぐらいの意識はありますが、普段の日本語の使用においてそこまで国とか国家というものをことさらに意識するということはないかもしれませんが、その意識が国家と言語の結びつきというものを常に意識せざるを得ないような状況に置かれている国、国家、あるいは国民というのも意外と多く存在しています。
日本の場合、そして日本国民の場合、ほとんど99%の人が日本語を母語とするということで、この辺の間隔がわかりにくいところなんですが、一種の平和ぼけみたいなところはあるんですよね。
もっとこの問題が切実な国家、国民があるということは気に留めておいていいのかなというふうに思って、この回お話ししました。コメントありがとうございました。
放送会は前後するんですけれども、さらに遡って464回、マサニャンとの対談、提案命令要求を表す動詞のざっと説中では、シュッと原形、もしくは原形という回でしたけれども、これにつきまして、同じくH74さんからコメントをいただいています。
先生のある視点に立てば事実だけれど、別の視点に立てば事実でないというコメントは、英語の見方を遥かに通り越して学問としての大切な姿勢だと思います。私も若かった時にはそのような柔軟な考え方をしていたと思います。
その頃の物の見方が喚起されたようで、ハッとさせられました。最近は、都各論破、右、左、正義、悪など、ゼロか百しかないような風潮があります。知らず知らずのうちに、そのような思考に陥っていたのかもしれません。先生のお話を通じて、柔軟な思考を取り戻していきたいと思います。
ということで、マサニャンとの対談の中での一言を捉えていただきまして、大変重要なポイントを捉えていただきまして、コメントをいただきました。ありがとうございます。
私は言語学って物の見方の学問だと思っていまして、何が正しいかということを明らかにするっていう、もちろん学問ですから真理を極めたい、真理を明らかにしたいという思いはもちろんあるんですけれども、どちらかというと言葉というものは見方によっていろいろと変わってくる、見え方が変わってくるというようなところがあるんですよね。
それで様々な言語理論というものも提案されているんですが、どの理論が正しいとか妥当だというような議論は、私はあまり面白みを感じなくて、それよりも同じ一つの現象、例えば構文とかいうことに対して、この理論からだとこう言える、こっちの理論だとこう言えるみたいなものの寄せ集めによって、
語源的綴り字の理解
その知りたいと思っている対象の様々な面が明らかになっていくのが楽しいというか、面白みを感じてこの学問をやっているというところがありますので、どちらかというとズバッと答えを知りたいというよりは、いろんな見方があってそれが何か面白いという、そんなスタンスでやっていますので、
自然といろいろなこのオボイシでも話している中で、そんな雰囲気が出てしまうことが多いと思うんですね。このマサニャンとの対談会で述べたことも、私の考え方がそのままストレートに言葉にちらっと出てしまったというようなことかと思います。
お指摘ありがとうございました。とても重要なポイントで、私が大切にしているところを取り上げていただいたというふうに思っています。H74さんありがとうございました。
それから498回、なぜコロネル大佐ですね、Colonelと書いては、Colonelのような発音なのということで、LとRの話でした。これにつきまして、カミンさんからコメントといいますか、非常に重要な面白い情報をいただいています。
思いかけない展開で面白かったです。ルネサンス期に語源のラテン語の綴り字が、当時の実際の発音とは関係なく取り入れられてしまうというのはフランス語でもよくあるのですが、取り入れられたラテン語綴りは大抵目字だと思います。カーナオのような例もあるのですね。
あとフランス語でも綴り字は、16世紀以降ラテン語の影響で、クロナスがコロネルLになりましたが、発音も変更された綴り字に合わせてLに変わっています。同じラテン語の語の綴り字を復元しながら英語とフランス、この違いも面白いですということですね。
ありがとうございます。私もこの英語におけるラテン語からの綴り字を参照して、強引に本来なかった綴り字を入れてしまうという、このルネサンス期に特有の語源的綴り字、Etymological Spellingという現象について、かなり入れ込んで研究してきたんですけれども、
お隣のフランス語でも、やはり同じことが起こってきたということも関連して調べておりまして、その際に一つの仮説としては、お隣フランス語でも同じことをやっているんだから、英語でもというようなフランス語に追随する形でやったというのが一つの仮説。
ただもう一つは独立して、ラテン語というのは、とにかく当時のヨーロッパ全域において、イギリスでもフランス語でも威信のある言語だということですし、ルネサンスという現象そのものも半ヨーロッパ的でした。
したがって、同じことが独立、並行的にイギリスでも起こっているし、フランス語でも起こっているということは十分にあり得ると思うんですね。独立説というのが二つ目の仮説なんですが、単語によってこの第一の仮説でよく説明できる場合と、第二の場合によってよく説明できること。
そして一と二の混合なんではないかと考えられる例とか、いろいろとありそうだなっていう感覚は持ってるんですね。しかもその後のですね、振る舞いと言いますかが、英語とフランス語とで異なるっていうことも結構あるんですね。
つまり、例えばダウトなんていうのを単語にですね、英語ではBが入ってる、通り字に入ってるんですが、フランス語ではルテと言って入っていないわけですよね。ただ、フランス語の入っていた時期があった。その後の振る舞いっていうのは、その後、やはりBを改めて落とそうであるとか、あるいは発音はどうしようかという標準化に持っていく際の振る舞いとか決定、選択。
みたいなものが英語側とフランス語側で異なるっていうことも結構あったりするので、今回のカーネルの場合もですね、たまたま違う方向に結論を見たということだと思うんですね。英語とフランス語とで違う方向に結論を見たということなんだろうと思いますね。
英語とフランス語の比較
英語の中でも実は一貫していなくて、通り字は挿入されたものも、それが本当に発音される場合と目字になる場合とということで、揺れがかなり見られて、そしてそれがですね、方言なんか見ますと、現代まで揺れが持続しているっていう例もあるくらいです。
ですので、英普通対象言語詞的にはなかなか面白い、しかしおそらく厄介な問題になっていくんだろうなと思っております。
エンディングです。今日も最後まで放送を聞いていただきましてありがとうございました。
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ご意地のコメント機能を通じてお寄せください。
さて、最後にですね、2つほどお知らせなんですけれども、1つ目はボイシーのですね、フェスが、22年版フェスが世界を変える声の祭典と題しまして、10月の27日、28日、29日、木金土と週末に開催されます。
60名ほどのトップパーソナリティが対談をするというような企画なんですけれども、私はこの中に入ってないんですけどもね、そんなパーソナリティではないわけなんですけれども、私自身、リスナーとしてボイシーは非常によく聞きまして、
いろんな方の放送をですね、フォローしながら聞いているということで、非常に楽しみにしています。
こちら、声の祭典ということで有料になるんですけれども、チケットを3800円で購入して、すべて生、あるいは無効1ヶ月、アーカイブで聞くことができるというようなもので、私自身このヘルディを続けながら、声での発信ということに非常に大きな将来性といいますか可能性というのを感じています。
YouTubeのような動画っていうのはもちろんいいんですけれども、やはり目を使うので集中しなければいけないんですよね。それに引き換え、耳だけで済む音声というのは、箇所分時間が長いというふうにボイシーの尾形代表もよく言っていますけれども、
ながら劇もできるし、高速再生もできるしというようなことで、起きている時間であればすべて使えるというような、これは非常に大きなポテンシャルだなと思っています。私自身もラジオ人間、ラジオよく聞く人間だったので、結果としてこういう活動をしているということになりますが、
ボイシーの理念に共鳴しているということで、こちらでご案内、宣伝させていただきます。このチャプターに案内のURLを貼り付けておきますので、そちらから情報を入手していただければと思います。
未来の音声メディア
そして2点目は、お知らせといいますよりも、私自身の活動予告といいますか予定ということなんですが、本日10月17日月曜日の午後に東洋大学文学部のグローバルプロジェクト講演会の一環として講演させていただくことになっています。
英語に働く求信力と遠心力、世界英語ワールドイングリッシュのルーツを探るということで、最近私自身も関心を寄せていますし、このHeldioでもいろいろと取り上げてきています。世界英語に関する話題ですね。これについてお話しすることになっています。
学生さんとのQ&Aといいますか、インタラクションする機会もあるそうですので、今から大変楽しみにしているんですが、明日あたりその報告といいますか、どういう講演会になったかということも含めてお話ししようかなと思っている次第です。
さて、10月ももう半ば、中旬になってきましたね。今日からまた1週間ですけれども、皆さんにとって良い月曜日になりますように。ほったりうちがお届けしました。また明日。
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