古英語における謝罪の不在
おはようございます。英語の歴史を研究しています、慶応義塾大学のほったりびちです。 このチャンネルでは、英語の先生もネイティブスピーカーも、辞書も答えてくれなかった英語に関する素朴な疑問に、英語史の観点からお答えしていきます。
毎朝6時更新です。ぜひフォローして、新しい英語の見方を養っていただければと思います。 今回取り上げる話題は、
古英語には謝罪がなかった、という話題です。
昨日日曜日の午後6時にアップされたYouTubeの第7弾なんですけれども、井上一平先生と一緒に始めて、もう第7弾になるんですけれども、それがタイトル
昔の英語には謝罪表現がなかった。 えっ、謝らなかったってこと?
というタイトルでお届けしたんですね。 これだいぶ長く話したんですけれども、編集上の都合で短くカットしたっていうことで、その裏話といいますかね、編集でカットされたようなところをこのボイシーでお話ししようということで、今日はお届けしたいと思いますね。
趣旨としましては、古英語、5世紀から11世紀ぐらいですね、ざっと今から千年とか千数百年前の英語というふうに考えてもらっていいんですけれども、この古英語ではですね、謝罪という行為がなかったっていうんですね。
これ謝罪というのは社会的行為ですよね。一人じゃできないんです。2人迷惑をかけたその相手がいて、その相手にごめんなさいっていうのが、口に出してですね、言うのが謝罪っていうことなんで、極めて社会的な行為ですよね。
で、それを表明するのに言葉を使うってことです。 日本語の場合、ごめんなさいですし、英語の場合、現代英語の場合、I'm sorryっていうことなんですが、
この社会的行為を言語によって表すということですね。これ発話行為と呼んでるんですね。発話して社会的な何らかの行為を行うっていう、当たり前の用法と言いますかね。
難しいことではないんですが、これは発話行為、スピーチアクトというふうに呼ばれていまして、これは実は、語用論の分野ではですね、大盛り上がる、盛り上がっている分野なんですね。
そしていろいろな研究でわかっていることは、このある文化、例えば日本の文化、社会ですね、にとっては存在するのが当たり前というような発話行為。
例えば今回の場合、謝罪です。日本人はよく謝りますので、これは非常に短いというか、発話行為であり、ごめんなさいとかすみませんとかいうことですね。
これはもう社会の中に当たり前のようにあるわけです。 そして我々がよく知っている英語文化圏にももちろんあるわけです。I'm sorry、謝罪というもの。
アングルサクソン人といいますかね、YouTubeでもありましたが、日本人ほどは謝らないわけですが、ただ謝る、謝罪するという発想はありますし、発話行為ももちろんあるわけですね。
そうすると、他の名だたる言語にも謝罪、ごめんなさいに相当するものがあるというのを知っているので、こんなものはユニバーサルだろう。人間社会にとってこれなかったら円滑にコミュニケーションが回らないので、社会になりたたない。
だから、古今、東西、すべての文化社会において、謝罪というのはあるものなんだと思い込んでいると、そんなこともないということなんですね。
我々が当たり前にユニバーサルだと思っているものも、古今、東西の言語、文化を見渡してみると、それがないというものがあるんですね。そういう言語だったり文化が。
そして、かなり身近なところにそれがあった。つまり英語。今の英語はもちろんあるわけなんですが、その千年前の姿、いわゆる古英語においては、この謝罪という発話行為がなかったというんですね。
謝罪の文化的意義
これはですね、私自身も最近の専門の論文を読んだんですね。それによると、アングロサクソン人は謝罪しなかった。
アングロサクソン人というのは、古英語を話していた当時の人々のことですね。彼らは謝罪しなかったということなんですね。
にわかには信じがたい。謝罪せずに済む、一生を遅れる社会なんてあるのかと思ったわけなんですが、その論文を読んでですね、そこそこ納得しだしたんですね。
100%ではないんですけれども、そこでこの話題を取り上げたわけです。
どういうことかと言いますと、古英語で残っている文献ですね。これ洗いざらい探してもですね、I'm sorryに相当する、直接のI'm sorryっていう表現だけではなくて、それに類する。
つまり日本語で言えば、ごめんなさいに相当するだろうとおぼしき表現が、どうコンテクストを読み解いてもですね、一切出てこないんですね。
I'm sorryに相当するものが。これ相当する表現というのが厄介で、例えばある表現をとってですね、これがごめんなさいを意味知っていないと本当に言えるんですかと言われると、これ読み込みの問題ですのでなかなか難しい。
残っているのは文献だけですよね。当時の人に本当にあなた謝ってるんですか、謝ってないんですかと聞くこともできないので、文献からコンテクストとともに読み解くしかないんですが、どう控えめに見てもですね、なかなかごめんなさいに相当すると考えられるような表現が探しても出てこないということがまず最初の発見なんですね。
ここで私思ったんですね。ただ、ただですよ、言葉上をごめんなさいと言わないとしても、言葉以外の方法で、例えばジェスチャー、日本だったら頭を下げるであるとか、それこそ土下座するということだってそうですし、ジェスチャーであるとか、あるいは視線であるとか、仕草といったような、いわゆるノンバーバルコミュニケーションというようなものですね。
つまり言葉では謝罪しないけれども、何らかのジェスチャーで謝罪するっていうことはあるんではないかと。そうすると発話行為というにはふさわしくない、言葉に出さないんでね。ですが謝罪という行為自体はやっぱりあったという可能性は残るんじゃないかというふうに疑ってみたわけです。
言葉上どこ探してもそれらしきものは出なくても、やはり何らかの謝罪風のものがない社会なんていうのは、ちょっと想像できないしというふうに疑ってみたわけですね。確かにそういうジェスチャーであるとか、当時のジェスチャーとか視線であるとか、そういうものについて調べるっていうのは大変難しいわけですね。
残っていないわけなんで、映像とかビデオとか残っていないわけなんで。ですが、もし言葉にはなくてもジェスチャーとして謝罪に相当するものがあった、だと仮定するとですね、それでもやっぱり何らかの形でごめんなさいはなくてもですね、その行為に関する記述であるとか、
やっぱり文献上かすっているような何らかの表現であるとか記述っていうものがあるのが普通ではないかということなんですね。そういったものも探してもどうもあまりない、少なくとも研究者として気づかないということなんですね。
とするとですよ、しかも謝罪というズバリ行為を表す名詞であるとか動詞もないっていうことになると、言葉はないけどジェスチャーではあったかもね、というようなこともやはり怪しくはなってくる。何らかの形でやっぱりジェスチャーだって触れられても良いんじゃないか、それが全く見られないということは少なくともですよ。
少なくともそれが社会的に慣習化されて目立った行為ではなかったということは少なくとも言えるんじゃないか。謝罪がしたがって完全なかったと言い切ることは証拠不在でですね、なかなか言い切れないわけなんですけれども、ただ目立った行為ではなかった、社会的には慣習的行為として確立していなかったということはせめて言えそうかなということですね。
中英語への移行
つまりですね、現代ほどあったとしても現代ほど謝罪というのが社会的に重きを置かれていなかったということ自体はもう認めるほかないんではないかということになります。
さあこれが小英語の状態なんですが、中英語になるとですね、少し現代のアイムソーリー的なものが出てきます。
打点語のメアクルパーなんて言って、これはIt's my faultの意味ですね。私が悪かったんですみたいな言い方とか、15世紀、16世紀になるとアイムソーリーっていうのが出てくるんですね。
そうすると社会的行為として確立したからそういう表現が出てきたんだという解釈になります。
そこからひるがえってみるとやはり小英語にはなかったんだとみなそうかないわけです。