発話行為の定義
おはようございます。英語の歴史を研究しています。慶応義塾大学の堀田隆一です。
このチャンネルでは、英語の先生もネイティブスピーカーも、辞書も答えてくれなかった英語に関する素朴な疑問に、英語史の観点からお答えしていきます。
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今回取り上げる話題は、発話行為の比較文化、という話題です。
昨日放送で、小英語には謝罪がなかったと題して、小英語時代のアングロサクソン人はアポロジー、謝罪をしなかった。
つまり、謝罪という行為を行わなかったという驚きの事実について話題を提供したわけなんですけれども、
このように、現代の日本であるとか、あるいは英語圏でもいいですが、当たり前にあると思い込んでいるもの、例えば謝罪というような行為ですね。
これが本当に、古今、東西、ユニバーサルにあったのかというと、必ずしもそうではなくて、現在ですら謝罪という行為が見られない文化というのはあるし、
現代はある、例えば英語という社会においても、千年遡ると、時代を変えると、その問題の行為がなかったということはあり得るんですね。
非常に文化依存という色彩の強いのが、こういった行為なんですね。
そして言語学の領域では、発話を伴う行為ですよね。
謝罪というのは、確かにジェスチャーで頭を下げるとか土下座をするという方法もありますが、大抵言語表現を伴います。
つまり、ごめんなさいとか、すみませんとか、アイムソーリーというふうに発話が伴いますね。
なので、このように大抵発話が伴う社会的行為というのを、言語学の中でも語用論というプラグマティックスという領域の話題なんですけれども、これを発話行為と呼んでいます。
これは一応専門用語なんですね。英語で言うとスピーチエクトと言います。スピーチエクトですね。発話行為と言います。
謝罪というのも、ごめんなさいとか、アイムソーリーという言葉を伴って、それによってある意味完結した感がありますよね。
言って初めて本当に謝罪が行われたんだというふうに、自他ともに認めるというのがありますよね。
これが謝罪という、アポロジーという発話行為ということになります。
この発話行為というのをいろいろ書き集めて分類すると、本当にたくさんのものがあるんですけれども、何でもいいです。
例えば約束というのも典型的な発話行為ですよね。これは日本語にもありますし、英語にもあります。
文化差による発話行為の不在
約束というのは、そもそも約束する内容が必要なんで、これというのは言葉でお互いに伝え合って合意するということですよね。
最後に、これこういうことを約束しますというふうに、言葉で言って初めて成立するタイプの行為なので、これは典型的な発話行為ということになりますね。
確かに言葉を伴わない約束ってありますかね。どうでしょうかね。
例えば、指切りというのが日本にありますね。指切り玄関というやつですが、これも基本的に発話を通じてコミュニケーションを通じて、言葉で分かり合った上で内容を確認した上で、最後の締めとして指切り行為をするという意味では、
単に指切りというジェスチャー、物理的行為だけで完結するものではなくて、言葉が介在していないと、普通は成り立たない行為なのかなと思いますね。指切りだって、実際、歌詞のついた歌を歌うことが多いわけですよね。まさにやはり発話行為なんだと思います。
この約束という人間関係、社会関係を円滑に進めていくために、大体どんな社会でもあるだろう、ユニバーサルだろうと思うかもしれません。確かに英語でも日本語でもこれはある。
ところがですね、現代でもこの約束という発話行為がない、社会的監修としてない言語、あるいは文化だってあるんですね。例えばですね、フィリピンのイロンゴット族、彼らの社会あるいは言語習慣にはですね、約束という発話行為がないって言うんですね。
約束の背景には誠実さであるとか、真実っていうようなことがあると思うんですが、それよりもイロンゴット族の社会では、むしろ社会関係ですね、それ自体の方が重視されて、結果としてですね、約束という発話行為がそもそも存在しないんだって言うんですね。
これ、こう説明されると、ああそうなんだと思うんですけれども、本当には納得できないというか、するのは難しいですね。約束がないってどういうことだろうというふうに思うからですね。
他には、例えばですね、感謝っていうのも典型的な発話行為です。日本語でもありがとうがありますし、英語でもthank youとか関連語がありますよね。ところが、これ現在の話ですが、オーストラリアのアボリジニのヨロンゴ族ですね、の言語においては感謝という発話行為がないというふうに言われるわけですね。
ただ一方で、そのような言語には日本語や英語っていう、我々が身近と感じる言語には当然あるような発話行為がない、一方で逆に知らない、そんな発話行為あったのかっていう類の発話行為があったりするものなので、これは本当に文化依存であるということですね。
ユニバーサルなものではないということに気づかされます。これは広く、古今、東西の言語、社会、文化っていうのを眺めてみると、実はユニバーサルと思い込んでいたものが、実は非常に相対的なものであったりなかったりするものなんだっていう気づきになるわけですね。
ですので、前回のですね、古英語、アングロサクソン人にとっては謝罪という発話行為がなかった。I'm sorryに相当する表現もなければ、それに謝罪という行為につけた名前もないわけです。つまりapologyとかapologizeという単語すらまだなかったわけなんで。
これはにわかには信じがたいことなんですけれども、先ほどのイロンゴット族において約束がないであるとか、アボリジニのヨロンゴ族には感謝がないというようなことですね。いろいろ事例を集めると、確かに稀なのかもしれません。しょっちゅうあるということではないのかもしれませんが、少なくともユニバーサルではないんだということが分かってきますね。
発話行為の文化間コミュニケーション
非常に相対化されると言いますかね。目を開かれるという思いがします。そしてですね、例えば2つの比較している文化言語の間に同じ発話行為がちゃんと存在するという場合であっても、その発話行為の出方って言いますかね。使い方、分布は違っているっていうことは非常によくあります。
例えば日英語で比較しますと、当然両方感謝という発話行為はあるっていうことはとてもよく知っているんですけれども、例えば日本語で話していて褒め言葉を述べられる。褒められると日本人は照れちゃうんですね。そのまま受け取るんじゃなくて、いえいえいえっていうふうに否定するわけで感謝はしません。褒められたから普通に考えれば感謝しても良さそうなのにあまりしないですよね。
これ典型的な場合ですけれども。ところが英語の場合褒められたらやっぱりThank youと明るく返すわけですよ。つまり感謝という同じ発話行為があったとしても使い方、出方、分布と言いますかね。これは日英語でだいぶ違うっていうことになります。
そしてこういった違いですね。発話行為の使い方の違いみたいなことは場合によってはミスコミュニケーションと言いますか、一つが失敗するっていうケースになることもありますね。いわゆる語訳というものとの関連も深いんですけれども、有名な例として日本語で善処します。
これ文字通りには上手に処理しますよ、良い方に持っていきますよっていうことなので、おそらく英語的に言えばI'll do my bestっていうことでしょうね。ところがこれ政治の場で使われて誤解が起こるっていうことがあり得ます。そして実際ありました。大変な語訳だったんですけれども。
1974年、ニクトン大統領が佐藤英作首相に対して日本の繊維市場の自由化を求めたっていうですね。そこで佐藤首相は否定的な意味合いで善処しますと日本風に答えちゃったと。それを通訳の方がI'll do my bestという風に訳した。
そうするとこれ英語的にはですね、よしやるぞとイエスの意味でアメリカを受け取ったっていうことなんですね。不幸なミスコミュニケーションでした。ではまた。