その中でその著者の方のお姉さんがその知的障害を持っていたみたいなエピソードが紹介されるんだけど、なんかそこですごく思い出したエピソードがあって、
俺の小学校にその障害を持っている方たちが集まっているクラスみたいなのがあったのよね。
で、結構なんか離れてからさ、隔離されてあったのよ。
なんか普通の一般の校舎とは別にその体育館に向かう途中の校舎のところにあるみたいなところだから、なんかこう通常だと結構分担されてる。
物理的にも離れみたいな。
離れみたいになってて、だから行かないと会えないみたいな状態になる。
で、向こうが来ることもないみたいな。
ないんや。
ほとんどないかったと思う。ちょっと小学校時代の思い出だからさ。
確かに記憶がね。
記憶は薄いけどそういう状況だったのよね。
で、でもなんか知らないけど俺遊びによく行ってたのよ。
なんか覚えてるのは、そこの部屋にだけ自分が乗れる電動バイクみたいのがあって。
乗りに行ってた。
それがすごく面白くて、それを乗りに行ったのが多分初めてのきっかけだったと思うんだけど。
だからそこにいる子たちともね、わりと仲良しだったのよ。
で、それをすごい近所に住んでる子が一人いて、そのお父さんにほんと仲良くしてくれてありがとうみたいなめちゃくちゃ感謝されたことがあったのよね。
今思うとしみるというか。
思い返してね。
そう。なんかその時は友達とかは当たり前でしょみたいな感じなんだけど、結構俺すごいことしてたんだなって。
すごいことしてたんだなって。
今は思う。
でも今はすごいことだったなって思うんだ。
思う今は。
なんでそう思ったの?
なんかやっぱさ、大人になってさ、いろんな分断されたものを見て、やっぱ自分たちとは違うものみたいな形で、やっぱちょっと触れ合う機会がないから、そういうふうな認識をしているんだろうなと思って今も。
なかなかないじゃない?なんか障害を持った方たちとさ、触れる機会って大人になった今もうない。
でもそれが例えば俺の今の日常にあったとしたら、多分今の俺も思わないのよね。
だって別に一緒にやってるから何も変わらなくないみたいな話なんだけど、今まさに今生きている俺が分断されちゃってるから、昔の俺はすごいことしてたなって思うわけ。
そこの分断を軽々と飛び越えていく。
そうそう。
電動バイクで。
電動バイクで、きっと向こうのお父さんもそういうふうな形の見方をしてたから、仲良くしてくれてありがとうって言ってきたと思うわけよね。
それを容易に飛び越えてくる少年含みがいたから。
少年含みに。
そう。なんかそういうエピソードとかも思い出して、なんかやっぱ昔はさ、友達だったわけよ。
だから何とも思わなかったけど、今は友達じゃないし触れ合ってないから、なんかどう接したらいいのかが分からない。
確かにね。
だからちょっとなんか怖いみたいな。
はいはい。
腫れ者に扱うじゃないけど、なんかそういうふうにしちゃうような自分もいるんじゃないかなって思って。
確かに確かに。
だからこそ、なんかこう知らないから怖いっていうのがあると思うんだよね。
でも例えば今友達いたとしたらさ、怖くないじゃん。
うんうん。
だから本当に知るっていうのは、なんかやっぱ共感のスタートなんだなっていうのはちょっと改めて思った。
確かにね。
なんかさ、この障害みたいなのってさ、どこからが障害なのかみたいなのもさ、結構難しいなって思っててさ。
例えばADHDみたいなのもさ、多動症みたいなのもさ、ある種のラベリングだけどさ。
でも別にそういうラベリングがなかったらさ、わたわたしてる人だなみたいな感じのさ、なんか印象で終わるやん。
でもそれがなんか知的障害者、ADHDはちょっとわかんないんだけど、知的障害者ですみたいな感じでくくられることで、あ、私と違う人なんだっていうふうになんか分断されちゃうというか。
で、それをそこにでも関心を持つのか持たないのかっていうのはでも自分たちで選べることだし、
ある種そのラベリングを、障害というラベリングをするかどうかっていうところだけじゃなく、
日本人、イタリア人みたいなさ、国のラベリングとか女性と男性とジェンダーのラベリングもあるしさ、
いろんなそういう私たちはそのラベリングカテゴライズすることで、
あ、福民は40代の男性で既婚者でみたいな、日本人でみたいな、なんかそういうそのさラベルがあって福民という存在が認識される。
で、これは一定便利だし、一定なんかこういろんなことを簡単にするなって考えることとかを簡単にするなと思う反面、
考えずに決めつけてしまうもの可能性もすごくあるなと思って。
さっきのその知的障害、知的じゃないのかな、なんかその障害を持ったその友達が少年福民からしたら、
別にそんなラベルはあんまり大したことではなく、ただの友達だったって。
ここにこのでも障害を持ったっていう形容詞がつくことで、ある人と一つラベルが出て、
なんかそれを知らない人からすると、なんかそのラベルで判断しちゃうというか。
そういうのってなんかお互いにやり合ってるなっていう感覚はすごくあってさ。
なんかそもそも、なんかそのタレントプレーナーってその起業家スクールだからさ、なんか自分たちで事業をやってる人とかが多いわけよね。
で、例えばその事業をやってる人が、なんかワークショップやりますとかさ、マルシェやりますっていうふうになったときに、そこに行こうって思うわけよ。
で、そこで買おうって思うわけよね。その人がいるから。
で、それを買いに行って、例えばじゃあそれが2000円です、5000円ですってなったときに買うわけよ。
別になんかお金が高かろうが買うみたいな状況が生まれてるよね、そこって。
それはその人との関係性があるから、みたいな感じだから、なんかこれは金融資本社会じゃないなって思う、この関係性は。
逆にさ、それをさ、これくらいでも売れるんだって思っちゃうとさ、なんかそれはそれでちょっと抜けてしまうというかさ。
関係性があって、応援的な意味も含めて買うよって言ってくれてるんだみたいなことを、なんか自覚しとくのは同時に大事だなと思った。
確かに確かに。
なんかいくらでも売れるわじゃないやん。
もし例えばそこがさ、ユーモでやりとりっていうふうになったら、なお良いよね、たぶん。
確かにね、確かにね。
だってそれってこういうお金のやりとりだよねっていう共通認識があるわけだからさ。
確かに確かに。
なんかめちゃくちゃいい、そこで今日から資本社会の関係性が生まれるなって感じがするよね。
なるほどね、いいね。なんか既に関係性があるところでユーモを使うっていうのもまた一つ良さそうってことだよね。
ね、ね。
確かに確かに、いいですね。
っていうところかな。
あともう一個は、今を生きるって言葉が出てくるんだけど。
またシンプルな。
これシンプルだけど深いなって思って。
シンプルなことって深いよね。
シンプルなことって深いよね。
うるせえうるせえ。繰り返すな繰り返すな。
なんかさ、結構今生きてないなって思うわけよ。
例えば今頑張ってるのって何のためって言ったら、例えば未来を良くしたいとか、今お金貯めてるの何のためって言ったら、例えば老後問題を解決するためみたいなさ。
結構将来のために頑張ってるみたいなさ、ことの方が多いなと思って。
よく今の自分の行動を棚下ろしするとそういう風になってるよね。
そうそう。そう考えると今を生きてないなって思うわけよ。
だから改めて今を生きるってすごい大事だなっていう風に思ったのと、この文脈の中でどういうことが今を生きてるのかっていうと、例えば何も目的がなく寄り合い所みたいなところが。
寄り合い所。日本語。
で、そこにいた誰かしらいて、その人たちと喋ってたらなんか楽しいみたいな。
それ今生きてるじゃん。将来的なためにこの人と喋ってる感じですとかじゃないじゃん。
でもそこで生まれるものってあると思うんだよね。じゃあ明日遊び行こうぜとかさ。
じゃあ何か来週キャンプ行こうぜとかさ。
それってまさに今生きてるなと思っていて、そこで生まれるものってめちゃくちゃワクワクするなって思うわけよ。
だから何も目的がないところっていうのって結構大事だな。
そこで目的がない同士で人が集まるとか、そこでたわいもない共感しあったりとかさ、会話をしたりとか、意見をぶつけあったりみたいなところってまさに今どんどんアップデートされてってるみたいなところだから、
なんかこの今を生きるっていう概念というかさ、っていうのは結構今失われてるものだなって思う。
なんかさ、私10月末にさ、キューズというコミュニケーターっていう仕事を卒業したんだけどさ、1年間働いたのね。
で、1年前になぜキューズに行こうと思ったかって、もっと言うと仕事、手に仕事というか、雇われ仕事というかお給料仕事をやろうと思ったかっていうとこが、
目的を持って人と会うことに疲れたからなのよね。
で、結構それまでめちゃくちゃいろんな人と会ってきたし、いろんなビジネスコミュニティみたいなのがいっぱい入ってきたし、そこでみんな目的を持って集まってるわけよ。
で、それ自体はもちろん素晴らしいことなんだけど、一人一人の活動は。
でもやっぱ出会う人出会う人に対して、やっぱその、私はそのときコーチングをやってたから、どこかやっぱコーチングの見込み顧客、見込みクライアントになるかどうかみたいな目線で見てる自分っていたのよね。
なんかこの人見込みか?みたいな感じで。
行けるか?みたいな。
そうそう。行けそうだったらグッと行くみたいな。
で、なんかそういう、それが悪いわけじゃないよ、もちろん。悪いわけじゃないけど、でもそういう関わりしかやってない自分ってなんか貧しいなと思って。
すごく苦しかったのよね。
で、純粋にこの人との今の時間を楽しみたいっていう風に思って、じゃあそのときの私の状況としては、やっぱ自分で契約を取っていかないとお仕事が回っていかない状態だったから、一旦ちょっとそうじゃない要素を入れたいと思ってQ'sに行ったのよ。
なるほどね。
そう。
最初だってUber行こうかなとか言ってたもんね。
Uberいいとしようかなとか言って、福美にダメですって言われて、結果的にQ'sという素晴らしい施設を見つけるに至ったんだけど、Q'sでやってたことってマジでその場で目的なくおしゃべりするみたいなことだったわけよ。めっちゃ楽しかったよね。
確かに。そうよね。そういうのあんまりないなって思うもん。今の俺の生活において。唯一だとしたらキャンプ行くぐらいかな。
はいはい。目的なく。
今は好きだから行ってるだけで、キャンプ場で何かしようみたいな目的とかなんもないわけよ。そこで寒いとか、死の危険を味わったりとかね。そこで出てきた太陽の温かさに命の恵みを感じたりとか。
これは本当に目的ないから生まれたものだなって感じはするわけよね。こういう経験とか体験とかは必要だなって思う。それをどんどん自分の心を豊かにしていったり開いていったりするものなんだろうなって。
同時に今聞いてて思ったのは、とはいえその場その場だけで生きていけますかって言われても、生きたいかどうかは別として難しいと思ってて。
確かにね。
なんかやっぱその、とはいえみたいな気持ちもあるし、なんかじゃあ何のために生きていくのってなった時にさ、なんか自分自身の進みたい方向性みたいなものは、やっぱみんなそれぞれ持ってると思っていて。
なんかそれを踏まえた時に、なんかその目的なく人と会ったり目的なく行動したり何かをしたりした結果、目的が立ち上がってくるみたいなものってあるのかなっていうのはすごい感じて。
それって頭で考えた目的じゃなくて、心が向かいたい目的地になるのかなっていうふうに思って。
やっぱさその、今そのCOCOAをもうすぐ1年ぐらいになって、別に最初さそのCOCOAでなんか人儲けしてやろうみたいな全然なかったわけ。
だからイベントをとにかく毎週開くということしか決まってなくて。
一生懸命開いて、一生懸命来てきてって言って、誰も来ないみたいなことをさ、繰り返してたらさ、半年経ちもうすぐ1年になるみたいな状況で。
でも、結果目的なくみんなでシェア活動しようよって言ってたら、今ちょっと目的らしきものが立ち上がってきている感覚もあってさ、なんかそれはちょっと次話したいなと。
確かに。
だけど、なんかすごく立ち上がってくるっていう表現が自分の中ですごいしっくりくるなと思った。
なんかそれはさ、やっぱ人が集まってきたからだと思うんだよね。
やっぱ俺とナーミンだけだと生まれなかったものがさ、別の人が加わることによって、なんか別の共感が生まれて、新しい何かが生まれるみたいな感じがあるわけじゃない。
やっぱこう人と人との関係性っていうのは、目的を生むみたいな観点でもそうだし、なんかこう人生を豊かにするって観点でもそうだし、なんかやっぱ必要なんだろうなって感じは改めて。
人にとって必要って感じがね。
そうね。
なんか、だからそのお金はあるし生活はしていけるけど孤独感があるみたいなことってさ、将来のためにとか今後のために今を犠牲にするっていうさ、生き方だとどうしてもやっぱそういう気持ちにはなっちゃうよね。
孤独感とかね。
いや大事ですね。染みますね。
なんかこういう染みるワードがいっぱいあるんだよ。
今なんか2つしか紹介してないけど、もうなんか100個ぐらいあるから。