下駄との出会い
本日は、1月の8日ですかね。
8日?9日ですね。の朝ですね。ただいまちょっと明治神宮の外苑に来ています。
ここはとても良い散歩コースですね。僕は結構、天気の良い日にはここにちょいちょい来ております。
さすがに今の時期に来ますと、もう芝生のところが霜が出てますね。白く芝生が染まっていて、池にはもう氷も張ってたりします。
でもその分、日が差している場所に来るととっても暖かいですね。 本当に太陽ってありがたいな、みたいなことを感じたりします。こういう時。
はい、では今回のテーマですが、 下駄で世界に触れるというタイトルにしてみました。
僕のポッドキャストのサムネイルの写真ですね。 あれは糸島の海辺で撮ったものなんですけど、あんまり深く考えずにですね、
これがいいかなって言ってつけてみたものなんですが、 その時、足が映っているのは僕なんですけれども、
下駄を履いているというのがお分かりかなと思います。 それで海辺で足を思いっきり濡らしているんですけれども。
ちなみに着物も着ているんですね。 僕は着物と下駄っていうのをもう普段着にしてまして、
それで言ったら会社にも行ってますし、 僕はエンジニアなので、着物姿でパソコンを叩いているわけです。
で、「なんでそんな格好してるの?」みたいなことを言われたりとかですね、 初対面の方からは
「落語家の方ですか?」とか、「着物関係の方ですか?」 っていうふうに聞かれたりすることも多いんですね。
いや違いますと、エンジニアですと、 みたいなことをいつも答えているんですけれども、
なんで僕が下駄を履いて着物を着ているということを 普段着にしているのかっていうのをお話ししようかなと思います。
元々は着物を普段着にするところから始めてですね、 最初は足の方は運動靴でした。
下駄の不便さと感覚
やっぱりそれが一番歩きやすかったので。 着物の話をしだすとちょっと長いので、それはちょっと別途譲るとして、
今回はなんで下駄を履いているんだという お話をしようかなと思います。
正直ですね、現代社会の中で下駄っていうのは すごい歩きにくいです。
まあ当たり前のことですけれども。 もちろん最近の下駄っていうのは基本的に裏面はゴム製のですね、
いわゆる普通のランニングシューズとか スニーカーみたいなギザギザのあるゴムが付いているので、
クッションにはなっているんですけれども、 ベースは木ですし、足がむき出しですし、とにかく雨に弱いし。
例えばもう物が木なのでね、例えば階段を上がっている時とかですね、 ちょっとうっかりつま先が階段の段のところにぶつかったりすることがあるわけですね。
これが普通の運動靴とかであれば、つま先とかにもクッション入っているので、
ちょっとぶつかっちゃったな、段に、みたいな感じなんですけども、 結構下駄ですとパコーンといい音をしながらぶつかるんですね、勢いによりますけど。
下駄をするとそれで下駄の先が欠けちゃったりするんですね。 特にキリンの下駄みたいな軽くていい下駄ですと、
それでちょっと欠けちゃったりすると、うわーやっちゃったーみたいな感じになるので、 正直不便さの方が多いです。
じゃあなんで下駄を履いているのかというとですね、 下駄を履き始めて、もともと例えばお茶会とか行く時はですね、
やはり下駄だったりゾーリだったりっていう、昔からあるようなお茶の場にフィットするような履物を、 その時だけ履いていたというのが最初だったんですが、
やっぱり普段履き慣れないので非常に違和感があるんですね。 ただそれと同時にすごい新鮮な気持ちもあってですね、
普段最近の運動靴って本当によくできているので、 例えば下駄を歩いているのがちょっとぬかるんでいるような道だろうが、コンクリートでガチガチのところだろうが、
芝生だろうが、なんというかそのオフロードカーのタイヤみたいな感じでですね、 もう足元がどんな状態かあんまり気にせずサクサクいけちゃうんですよね。
正直、足元を気にするっていう意識はほぼなかったんですね。 それに対して、やっぱ下駄とかと言われると、特に下駄ですね、
特に二本歯とか、もうカランコの音がするようなのを履いた日にはですね、 とにかくやっぱ足元というか歩くこと自体がおぼつかないわけですよ。
ちょっとそもそも走るとかってできないですしね。 慣れてくるとある程度できるんですけど、
少なくとも履き慣れてないときは絶対無理で、「おお、なんだこりゃ。」みたいな感じで、
そうですね、だからちょっと大げさな言い方をすると、町中を竹馬に乗って歩いているような、 そういうような感覚があります。
だから最初は正直、うん、やっぱりなかなか下駄って言うと履きづらいなっていう意識の方が勝つたんですけど、
ある時ですね、というか、歩いているうちにふと気づいたんですけど、
自分が今どういう場所を歩いているかっていうのがすごいよくわかるんですね。
例えば下駄でコンクリートの上を歩くとすごいカランコロンしますし、 もちろん下にほぼクッションがないんで、やっぱり結構足にダイレクトにその振動が来るんですね。
慣れないうちは結構足が痛くなるぐらい。 で、逆に例えばその芝生に行ったり、下が土だったりするところに来ると、
本当に、ああ、やっぱり草の地面とか土って柔らかいんだなっていうことが本当に感じられるんです。
で、考えてみたら、人間の五体で普段、第一というか、自分以外のものに常時ほぼ触れているものって足なんですよね。
椅子とかに座ってたら、お尻とか背中とか当たりますけれども、
もう本当に足の裏っていうのは、移動している時はもうほぼそれだけが常に自分以外のものに、
言ったら世界に触れてるっていう格好になるわけなんですが、
下駄を履いてると、そこがすごい敏感になるというか、ちゃんと世界と触れ合えるっていう感じがものすごいするんですね。
で、それと比較すると、やっぱり現代のすごい履きやすい靴っていうのを履いてると、もうそこで世界との繋がりが完全に遮断されちゃってるな。
自分が今、世界のどこにどうやって立っているのか、本当に感じられない心地良すぎて、っていう風になっちゃってるなって思って、
下駄の意義
そこから下駄っていいかと思って、ちょっと思い出して、できるだけ普段履きしてみるか、みたいなことをしてみたんですね。
もちろん、慣れるまでいろいろ大変でしたし、今でもそんな全力疾走とかできないので、そういうとこがあるんですが、
もうとにかく地面を踏みしめて歩いてるんだ、自分はっていう感覚がすごいするんですね。
ちょっと大げさに言っちゃえば、自分が本当にこの世界の中で生きている感じがするというかがしてですね。
例えば、さすがに僕も山登りをするときは、紐付きの登山靴みたいなものに履き替えたりします。
さすがに下駄でっていうのは、いろいろきついし危ないのでね、凹凸多いところで足ひねたらグヒッって行っちゃったりしますから。
なんですけど、履き替えたときに、もはやこれ変身に近いなって思うんですね。
普段の下駄履きの状態から登山靴に履き替えると、
お、なんかもう自分は今、本当にどこでも進めるようなパーツを変えて、そういう生き物に変身したぞ、みたいな感動があったりするんですね。
だからこれって実は、僕ら現代に生きる人間って実は、昔の人から比べてはすごい変身に近いことをいろいろしてるんですよね。
靴の話もそうですし、服の話もそうです。
今やみんな暑い暑いとか寒い寒いとか言いますけど、それを十分に普通に乗り切れるぐらいの衣類の着方っていうのをみんな普通にできるし持ってるわけで、
あとスマホもそうですよね。
もう世界のどこにいても地球の裏側だろうとの情報も拾えたり、そういうところにいる人と話せたり、
もうあんまり顔を見たりできる、みたいなことを僕らは普通にできちゃうんですが、
それって本来の人間には備わってないぐらいのすごいことなんですよ。
で、もう普通それが当たり前になっちゃってるんで、もう全然気がつかないんですけど、
さっきの下駄みたいなことで、人間本来の性能をちょっと思い出してみるということをすると、
あ、これって全然当たり前じゃないんだなっていうことで、世界の見え方とか全然変わってくるんですね。
そうすると、いい意味でちょっと身の歩道を知るというか、
自分と自分が使ってる道具とか身の回りの環境っていうものをちょっと切り離して、
等身大で考えられるようになるというか、
僕にとってはすごい身体的にも世界と時間に触れられる感じがあって楽しいし、感覚が研ぎ澄まされる感じがするし、
あと精神的にも、自分をきちんと見つめられるというか、
あんまりおぐり高ぶりがちなものを抑制できるというか、制御できるみたいなところがあってですね、
心身ともにとてもいいんです、僕にとって下駄を履くということは日常的に。
という理由で、僕は下駄を履いて、今日も下駄を履いて散歩をしております。
いつもだいたい4,5キロ歩くんでも、2,3時間ぐらい下駄で歩くのは平気でできちゃいますね。
今、糸島でもずっと下駄で平地だったら、1日10とか15キロぐらいは歩いてたんじゃないですかね。
というのが、下駄で世界に触れるというお話でした。
じゃあ、下駄を育として着物はなぜ毎日着とるんだというお話は、
これはまた次回にさせていただこうかなと思います。
それではありがとうございました。