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2025-11-11 15:09

第12章「戦いよりも対話❗️不戦と家族の力で地位を得た大名"蠣崎季弘"」

テーマをいただきました先生誠にありがとうございました😭


今回は、家族の力や独自の仕事により立場を確立させた大名

「蠣崎季弘」はどんな人物だったのか❓

を話しております


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サマリー

有名ではないが重要な存在である柿崎家について、特に柿崎末広の業績が語られます。末広は和人と藍の民族との和睦を成功させ、経済的独立を目指し、安藤家との関係を強化することで地位を確立します。このエピソードでは、柿崎家が戦いではなく対話を通じて独立した大名としての地位を得た過程が描かれます。特に、彼らが愛の民族との交易を通じて持ち込んだ貴重な資源が、豊臣政権や徳川時代における彼らの重要性を裏付けています。

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おはよう、こんにちは、こんばんは。
武将について喋るラジオ、略して武将ラジオのうっちーです。
この番組では、学生時代に学芸員を目指すことも考えていた、歴史好きである私、うっちーが、
毎月11日、ソロポッドキャストの日に、様々な武将について話をするという番組です。どうぞよろしくお願いします。
今回のテーマは、とある薬剤師仲間の方からいただきました。
先日、僕が所属しております薬局の組合におきまして、
特定の栄養ドリンクとか支配薬を販売するための組合なんですけども、
この組合で北海道でイベントがありました。
そこに参加と言いますか、開催する側の一人として僕、イベントに参加しました。
そのイベントの懇親会の時に、イベントが北海道であったということもありまして、
北海道にまつわる戦国武将で話をしたらどうだというテーマをいただきました。
誠にありがとうございます。
ということで今回は北海道に関係するある戦国武将で話をさせていただきます。
それでは今回話をさせていただきますタイトルはこちら。
柿崎家の背景
戦いよりも対話。不戦と家族の力で地位を得た大名、柿崎末広。
柿崎家という大名、有名かどうかで言えばあんまり有名ではない気もするんですけども、
信長の野望とかそういうゲームを好きな方であれば、一番北の方にいる武将だよということでご存知の方もいらっしゃるんではないかなと思います。
信長の野望とかですと、確かに北海道の函館に城があるよなとか、そういったイメージが湧く方もいらっしゃるんじゃないかなと思います。
ちなみに北海道の大名と言いますと、松前氏が思いつく方もいらっしゃるかもしれません。
松前藩という名前で明治場に残っていた藩があるんですけども、
この松前藩は柿崎氏が後に名前を変えたものでありますので、松前藩と柿崎家は同じと考えていただければいいかなと。
そしてこの柿崎家の中で一番有名かなと思われます、柿崎家の立場を確立したと言ってもいい武将、柿崎末広で今回話をさせていただきます。
この柿崎末広の話をする前に、少し柿崎家の話をさせていただきますと、
西暦で言いますと1450年頃、柿崎家は元々は北海道の南、道南と言われるところの豪族の一つでした。
豪族はその地域にいる富とか力を持った一族ということなんですけども、
その豪族、いくつかの豪族の一つだよということなんですけども、
その頃はその地域に豪族、和人という日本の本州の方から流れを組む12個の豪族の家が力を持っていました。
その和人と元々住まれている愛の民族の人たちが共存していたんですけども、
ただ1450年頃、和人と愛の民族における闘争が起きます。
古釈前の戦いというものが起きるんですけども、この古釈前の戦いによりまして、
十にあった和人の豪族のうち、十の豪族が破られます。
お家が断絶とかまでは言ってないんですけども、十の豪族は自分たちの拠点を落とされるということで、
はっきり負けたと言える状態になります。
ただ、そんな中で柿崎家、特に柿崎家の脚本となっていたと言われる武将の活躍によりまして、
この古釈前の戦いは鎮圧されたと言われます。
ちなみにこの武将は武田信玄で有名な戒、今の山梨県とかの武田ではなくて、
若狭武田という福井県あたりに勢力を誇っていた、そっちの武田家の流れを組んでいたと言われます。
そしてこの武田信玄は活躍を認められたということもありまして、
当時の柿崎家の有力者、柿崎末重の向子容子となりまして、柿崎信玄と名乗るようになりますし、
他の敗れた豪族たちも柿崎家の力を見て、柿崎家すごいねということで、柿崎家に従うようになっていきます。
元々柿崎という家は豪族と呼ばれるくらいに力を持っていたんですけども、そこから大名をなねるくらいに力をつけましたし功績も上げておりました。
これの大元となったということもありまして、この武田信玄が名前を変えた柿崎信玄が柿崎家の子祖と呼ばれたりもします。
豪族から大名になったという感じになっているんですけども、ただこの柿崎家、完全に独立した大名というわけでもないです。
元々この北海道の東南を支配していたのは安藤家という大名でございます。
元々柿崎家も安藤家が支配している地域の有力な豪族の一つという立場です。
なので子者満員の戦いで柿崎家が名を挙げ力をつけたといっても、柿崎家はあくまでも安藤家に従う立場であるという状況です。
これが柿崎家の元々の状況でございました。
柿崎末広の業績
ここから柿崎末広の話をさせていただきますと、この柿崎末広は柿崎信広から数えて4代目の柿崎家の党首でございます。
この柿崎末広は1507年に3代目党首である柿崎義弘の子として誕生します。
そこから柿崎末広が党首になるのは1545年38歳の時です。
ちなみに戦国時代の作品とかですと、若くして家徳を継ぐ方法が非常に良いです。
10歳前後で継ぐという方もいれば、20歳前後で継ぐという方もいらっしゃったりします。
戦国時代という戦いに挙げくれている時代ということもありまして、党首が戦で死んでしまうとか、家臣に無本を起こされてしまうとかもありまして、
党首が早く亡くなるようなので、次の代は子供で家を継ぐということも確かに多い時代ではありました。
ただ、実際にはそういう大きな問題もなければ、家徳を継ぐのは40歳を過ぎてからということも多いです。
実際、織田信長が信太郎に家徳を譲ったのも40歳を過ぎてからですし、黒田寛兵も40歳を過ぎてから家徳を譲りました。
徳川家康が秀太郎に家徳を譲ったのは60歳を過ぎていますし、真田信行は90歳近くになれば家徳を継ぐことはできなかったです。
真田信行のように家徳をなかなか譲れなかったということで、後に真田騒動とも言われるお家騒動を起こしたというのもあったりして、
家徳をなかなか譲れないというの問題ではあるんですけども、ここらへんの話は脱線しすぎるのでやめますけども、話を柿崎誠博に戻しますと、
家徳を38歳で継ぐというのは一般的だったりします。実際、この後に家徳を継ぐことになる松前義博は36歳の時に家徳を柿崎誠博から譲り受けています。
ではこの柿崎誠博、家徳を継ぐ時の柿崎家どうだったのかと言いますと、
元々柿崎家は和人と藍の民族との争い、ここで闘格を表したということもありまして、
三代目当初義博の代でも藍の人の戦いに明け暮れておりました。
また柿崎家は安道家に従っているということもありまして、安道家からの旅立ての兵役を課せられていました。
兵役、安道家がどこかで戦いをするようという時には柿崎家からも兵を出す必要がありました。
藍の戦いや、主家である安道家に従うこと、こういったので柿崎家はかなり苦労をしておりました。
この柿崎誠博は、この二つの問題を両方ともクリアします。
何をやったかと言いますと、藍の民族との和睦、そして本来主家である安道家からの実質的な独立、
この二つを成し遂げまして、柿崎家の地位を確固たるものにしました。
まず藍の民族との和睦、散々争っていた間からでありましたけれども、
藍のも柿崎も両方とも戦争の継続には疲れ果てていました。
戦争をやめないかということを持ちかけたことで、藍のとしても戦争をやめたいという思いがあったので、これに成功します。
この和睦成功したのが1549年ということで、1450年から始まっていて、約100年近く戦っていたのが、これが和睦をなされます。
そしてさらには和睦に加えて、藍の民族との交易を復活させます。
もともと戦いが起こる前も藍の民族との交易が行われておりました。
でも争いが起きるようになったから代々的な交易は行われておりませんでした。
が争いがなくなったことでこの交易が復活します。
お互いに必要なもの、米とかお金とかはもちろんのこと、藍の民族、和人、それぞれの文化で作られたもの、こういったのが交換とか売買が行われていきます。
そして交易が行われるということはお金の回りが増えるということですので、この交易の再開によりまして柿崎家は経済的に潤いようになったと言われます。
戦いもなくなり、経済的にも楽になったということで、これだけでも柿崎家としては助かるんですけども、さらに柿崎成宏は柿崎家を楽にするため安藤家からの独立を目論みます。
安藤家との関係構築
独立とは言いましても安藤家と戦争しようとは考えておりませんでした。
元々敷けている安藤家の兵も強力でありまして、戦争をしても勝てるかどうかは難しいと考えておりました。
そして柿崎成宏は様々な大名と結びつきを強くしよう、そして他の大名の力とか威厳を借りることで柿崎家を独立させようと考えました。
柿崎成宏は子供がとても多いです。男13人、女性が13人子供がいたと言われます。
そしてこの子供たちを様々な大名やその有力な家臣の養子にさせるであるとか、後継ぎがいない家とかもありますのでそこにうちの子供養子にしませんかと持ちかけたりだとか、
または様々な大名や有力家臣たちの子供に対して自分の娘と結婚しませんかというのを持ちかけました。
その結果柿崎家は安藤家を含めまして欧州の様々な有力者と親戚関係になっていきました。
こうなってきますと柿崎家の立場上がってきます。そして安藤家としても強く言えなくなります。
もし柿崎家が安藤家に対して無本を企もうとします。
そしてその時様々な大名や有力者たちが柿崎家の味方をするかもしれない。
しかも柿崎家はあやゆうとの攻撃で力も金も蓄えてきている。
となると安藤家としては柿崎家と戦うことになると自分たちが負けるかもしれないとなってしまいます。
その結果安藤家は柿崎家が無本を起こさないためにも低調に扱う必要が出てきました。
柿崎家の独立
その結果安藤家はだんだんと柿崎家に対して強く言えなくなってきまして、
その結果柿崎家は安藤家と対等な立場となっていきます。
これによりまして柿崎家は安藤家家の実質的な独立を果たします。
さらに柿崎家はその後秀吉が天下統一をした際には秀吉から柿崎家が独立した大名である
というお墨付きも受けます。
柿崎家は愛の民族との交易とかもありまして珍しいものを持っていたり、
お金を蓄えていくこともありまして秀吉への贈り物などもありまして、
その結果晴れて正式に独立した大名として扱われるようになりました。
でまた秀吉は本来天下統一をした際に領土を変えるという大名が数多くいました。
もともと治めている場所にずっといるよりも秀吉とか秀吉の信頼している大名の近くに
這い違いをとかをして無謀とかを起こす人の大名に干渉をつけたりとか、
また同じ場所をそれぞれの大名が治め続けてしまって周りの大名と結託をしてしまう可能性があると。
それぞれ面倒なので這い違いをしたりとかでそういった結託を結ばせないとか
無謀を起こさないようにしてたんですけども、
あえねとの交渉とか交易、この大役は他の大名ではすぐに変わることができないな。
それもありまして柿崎家はそのような領土、道南の辺りの領土を認められることになりました。
そしてこのあえねとの交渉、交易という点は秀吉から徳川の時代になっても、
徳川からもこの仕事は他の大名がすぐに変われるものじゃないねというふうに認められていきます。
それぐらいやっぱり貴重な仕事をしていたということもやはり柿崎末広の凄さ、柿崎家の凄さというところもありますね。
ただ独立を認められたとは言っても、あえぬ民族と結託をして政権に反旗を翻すと思われたら、
いつ柿崎がお家取り潰しになるかわかりません。
そこで柿崎家としましては政権に従うという姿勢を見せるための家の名前を変えます。
この時には柿崎末広から次の息子の代になっているんですけども、
1599年頃、秀吉の死後、御武行という実質的に政治を行っている5人の代名と御大老という5人の代名、
この合わせて10人の合議制、会議によって政治が行われておりました。
そして柿崎家としましてはこの秀吉が死んだ後も残っている豊臣政権に忠誠を誓いますよということで、
名前を松前というふうに改名します。
この松前の松、まず徳川家康の元の名前である松平家の松、
それと前田利家、こちらも御大老で有名な前田利家の前、
この松と前を合わせて松前家となったと言われております。
豊臣政権における重要な2人の代々名から名前をもらったよ。
豊臣政権に対して反旗揺るがえすことはないですよという姿勢を見せます。
これで松前家となりまして、後に松前藩という形で世に残っていきます。
ただこれはあくまで一説でして、
あいぬごでの自分の領土をまとまえということで、
そこから松前になったよという説も有名だったりします。
実際松前と名前が変わった理由としては不確かなところもあるんですけども、
とはいえ長く続き、そして豊臣徳川からも変えがきかないよという判断をされる、
あいぬとの交渉という大仕事、これを任された松前ことの柿崎家。
この柿崎家をここまでで家にしたのは柿崎水広でありまして、
彼は戦という手段ではなくて、戦以外の方法、和牧や交渉、外交によって作られたものであったりしますので、
力こそ正義、武力こそは正義と言われることもありますけども、
力といっても様々な方法があるんだよということを学ばせられる武将でございます。
戦以外の方法
今回はここまでです。
改めましてテーマをいただきました先生、誠にありがとうございます。
戦国時代、生き残るのは難しい時代でありましたけども、
生き残る方法って戦だけではないんじゃないかなと思います。
その家独自のこと、自分たちにしかできないことがあれば生き残ることができるんだなと思います。
ナンバーワンよりオンリーワンというのはこういうことかなと思います。
また何かこういったすごい力があったというよりは、
面白いことをしていた武将などがあれば話ができればなと思っております。
ただ次回の武将ラジ、話すのは予測で決まっておりません。
ありがたいことに武将ラジ、聞いてくださる方が本当に増えております。
今では週1回配信の前のラジよりも1話あたりを聞いていただいている方は武将ラジの方が多かったりもします。
本当に嬉しいことでございます。
とはいえ、特にテーマをいただいたりはしておりませんので、
もしよろしければテーマ募集しておりますのでどうぞよろしくお願いします。
今回も最後まで聞いていただきまして誠にありがとうございました。
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