琉球王尚巴志の誕生
おはよう、こんにちは、こんばんは。武将について喋るラジオ、略して武将ラジのうっちーです。
この番組では、学生時代に学芸員を目指そうとも考えていた、歴史続きである私、うっちーが、毎月11日、そのポッドキャストの日に、様々な武将について話をするという番組です。どうぞよろしくお願いしま〜す。
今回、リスナー様より提問を頂きました、まことなと思います。今回、提問を頂きましたのは、かっしー様。
かっしー様から先日、僕の別番組、クスケンラジオでもテーマを頂きまして、その説も本当にありがとうございました。
今回、かっしー様から頂きましたメッセージ、読ませて頂きますと、
武将ラジの方も聞いております。知らない人物の話などを知ることができまして、面白く感じております。
ちなみに、北海道の武将を話されていましたけれども、沖縄の武将はどんな方がいるのでしょうか、というテーマを頂きました。
まことにありがとうございます。沖縄ゆかりの武将となると島津かなと思いましたけれども、
島津はやはり薩摩のイメージが強いですし、沖縄と言いますか、琉球の歴史を語る上では外せない、そんな人物で今回話をさせて頂こうと思います。
それでは、今回話をさせて頂きます。タイトルはこちら。
散々事態を終わらせた琉球王昭和氏。
昭和氏の名前がついたマラソン大会もありますし、沖縄への修学旅行とかでは、修理場は鉄板からと思います。
その修理場のことを勉強すると、この昭和氏という名前、絶対外せないですよね、という。
なので今回のテーマ、勉強された方多いと思います。修学旅行前とか授業でやったよ、という人も多いかもしれません。
なので正直、今回話す内容をご存知の方も多いかもしれません。
ただもう修理場や那覇港の整備に多大なる貢献をしたり、他国との交易による経済基盤の構築、そして一番有名であろう、
実は琉球散々事態を終わらせ、琉球に平穏をもたらした人物である昭和氏で、今回話をさせて頂きます。
またあらかじめお伝えしますと、昭和氏を初代琉球王と言われることも多いんですけども、
春天という伝説的な人物が初代琉球王と言われたりもしますので、今回初代琉球王という表現は控えさせて頂きます。
では昭和氏がどんな人物か話させて頂きますと、西暦で1372年に、小師匠という佐敷八次という役を持っている方、その方の長男として生まれます。
この佐敷八次、八次というのは領主という意味でして、佐敷八次は佐敷という場所の領主で、そこの長男として昭和氏は生まれました。
領主の息子ということで、それなりに良いところの生まれではあるんですけども、ただ、領主としてはそこまで力を持っているという場所ではなかったと言われております。
またこの頃はまさに三三時代と言われる時代、この三三時代、1322年頃からですけども、琉球の中で三つの巨大な勢力が生まれておりました。
父との関係と後ろ盾
その勢力は、北と真ん中と南の三つに分かれて勢力を誇っていました。それぞれが王を名乗っていました。
まず北、北の山と書いて北山という勢力。次に中の山、サッカー好きとかであればパッと出るかもしれませんけども、御中山の中山と書いて中山と呼ばれる勢力。
そして最後に南の山と書いて南山という風に、北、中、南でそれぞれ勢力が生まれまして力が傾向しておりました。
戦争のことはこづり合いも続いておりましたし、戦争ではなくてもいつ戦争になるかわからない、そんな緊迫した状態も続いておりました。
長橋の家である佐敷家寺の佐敷は南山地域の一つの地域でした。
ちなみに北山のことを三北中山と呼んだりもしますけども、今回は北山で統一させていただきます。
この三山地帯になりまして50年ぐらい経った頃に昭和氏は生まれていきます。
昭和氏の若き頃の資料は少ないんですけども、昭和氏の家は力があまりなかったと言われております。
1393年に昭和氏は父である小師匠の後を継ぎ、佐敷家寺になったと言われるんですけども、
この時にも他の勢力からちょっかいをかけられていたり、寮内からも反発の声が上がっていたと言われます。
緊張状態が少なか、領主である兄が狩るのは嫌だというふうに反発があったよと言われております。
父親が反対していたのかと言いますと、昭和氏と小師匠の親子仲は良かったと言われております。
父である小師匠は優秀であったと言われまして、昭和氏は父を尊敬していたよとも言われております。
また創作の可能性が高いんですけども、この二人、自分たちの家は力が弱いものの、いつかこの戦乱の世を終わらせてやろうと誓い合っていたとも言われております。
ここはおそらく創作のエピソードとも言われたりもしております。
ただ本当に昭和氏の父である小師匠が優秀だったということもありまして、優秀な人から未知数の人物に変わるのが嫌だよ、
緊張状態ついてるし、いつ戦争になるかわからない、だから領主は変えないでということで、
領民から反発の声が上がったと言われますので、小師匠は優秀だったと本当に言われております。
ただこの時であるんですけども、息子の方、昭和氏に強力な後ろ盾ができます。
それはイハアジという、イハという地域のアジ、イハの領主ですね、彼が昭和氏の後ろ盾になったと言われます。
このイハは貿易を盛んに行っておりました。
琉球という海に囲まれた土地ですと、薩摩とか台湾、中国、中国は当時は民という国名ですね。
そういった様々な国や地域とも近いということで、他国との貿易を行うことは強力な経済活動でした。
物やお金が貿易、貢献によって動くので、イハは財力がありまして、イハアジはお金を持っていましたし力を持っていたと言われます。
そのイハアジが後ろ盾、貢献になったということで昭和氏が父の後を継いで佐識アジになること、これを止める声も少なくなっていきました。
そして昭和氏は佐識アジになれたと言われます。
ちなみになぜイハアジが昭和氏の貢献になったかについては、
イハアジが若き昭和氏の優秀さに目をつけたから、昭和氏は大きなことをやってのけるんだという風に感じたというのは物語でよく語られますけども、
もう少し違った形での説を唱えますと、イハアジは昭和氏の貢献になりまして、佐識という地域を乗っ取ろうと考えられたと言われます。
佐識アジである昭師匠や息子の昭和氏はそこまで力がない。
でも昭和氏の父である昭師匠は優秀でした。
またこの昭師匠には民国との独自のパイプも持っておりました。
貿易で力を使っているイハアジとしましては、民国との関係性も強化したいと考えていましたので、
そこまで力はないけども、民国とのパイプを持つ佐識アジ一族は美味しいな、うまいなと感じて乗っ取ろうと考えました。
それで昭和氏の貢献になったのと言われております。
民からの信頼と評価
ただそんな恩悪もあったと言われる中、佐識アジを継いだ昭和氏はしっかりと自分の仕事を行いまして、周りからの信頼、特に民からの信頼を厚くしていきます。
例えばこの頃に昭和氏が神の心を掴んだと言われるエピソードとして有名なものには、今回二つ紹介させていただきますと、
一つ目は自ら寮内の見回りを進んで行っていた、二つ目は武器を農具に変えていたといったものがあります。
もう少し話をさせていただきますと、まず寮内の見回り、昭和氏は自ら率先して寮内の見回りをしていたと言われます。
自分の領土を見回りする、一見当たり前のように聞こえるかもしれませんけれども、この当たり前を出来ていない領主、アジというのが多かったと言われます。
見回りを部下に任せていたとか、それで自分は他の仕事をしていたというアジが多かったと言われます。
実際この頃は散々時代、緊迫した状態が続いておりました。
この緊迫した状態で生き残っていくためには、他のアジと頻繁に連絡を取ったりだとか、貿易に力を入れて貿易で財を成そうとする人、そういった方も多かったです。
武器や兵を集めて、戦争の準備をする人もいたと言われます。
緊迫している状態だからこそ、自分の領土のことよりも、領土から外に目を向けていたアジが多かったと言われております。
だからこそ、自分でしっかり領土を見回るという昭和氏は、自分の領民からの信頼が厚くなっていきました。
そして、座敷の近隣の領民からの信頼も良くなっていたと言われます。
これが自分で領内を見回っていたことが評価されていたということについてでして、もう一つ昭和氏が行っていたということで、武器を農具に変えていたということ。
この頃の時代は武器とか鉄を使うようになっておりました。ただ鉄は貴重品ということもありました。
また鉄は農具でも使いたいというものでした。
でも戦争状態が続いているということもありまして、農具よりも武器を作ることを優先したアジが非常に多かったです。
いつ戦争になってもいいようにということを準備をしていたというアジが多かったです。
良い農具があれば農作業が楽になって民も助かるんですけども、武器に鉄を回されておりました。
そこで昭和氏は、あえて武器ではなくて農具を作ることに鉄を優先させたと言われます。
むしろ武器を壊してそこから鉄を取り出して農具へ作り変えたこともあったと言われます。
このことに領民としては非常に感謝します。
本当であれば武器を揃えたいはずなのに、民のことを思って道具を作ってくれること、これに領民はとても喜びます。
このこともありまして、自分の領土に高まった評判は近隣の他の領土にも伝わりまして、
別のアジに仕えていた人たちでも、そこを裏切って昭和氏に協力する人も増えていきました。
こういった領民からの評価が高まるとともに、伊波アジも昭和氏への評価を高めていたと言われます。
そして昭和氏は後継人である伊波アジの長女と結婚します。
これがやはり伊波アジが昭和氏のことを認めたと思われる一件でございます。
領民はもちろん自分たちよりも格上の人からも評価を高めていった昭和氏、
そして伊波アジ一族との関係性が高まったことで、財力や武力も増していくことになります。
昭和氏の力の増大
そしてだんだんと力をつけた昭和氏は、島添王座という地域、領土を手に入れるほどに力をつけていきます。
この島添王座とは南山、山山の地の南の山の南山において重要な地域でして、
南山の王、南山王とか山南王と呼ばれたりしますけども、南山の王である王王層が拠点としている重要な地域でした。
ここを手に入れるほどに昭和氏は力をつけていきました。
南山の王、王王層が住んでいた拠点を落としたんだということで、このまま南山地域を攻め落とし続けるのかなと思いきや、
今度は昭和氏は中山、北真ん中、南の中の真ん中にある中山に目を向けます。
なぜ南山の制覇に向かわず中山に目を向けたのかはいくつか説があるんですけども、後ほど別の説にも触れようと思うんですけども、
まずよく言われている説の方で話をしますと、昭和氏が島添王座と手に入れた頃、中山では政治不安が起きておりました。
その頃の中山の王はブネエという人物なんですけども、彼が王について10年ほど経っていたんですが、彼は中山地域をきちんと統治ができておりませんでした。
中山には那覇や中草湾のように貿易をできる港であるとか、船を多く置いておける場所がありまして、利便性が高く財力をつけやすい地域ではありました。
が、だからこそと言いますか、王であるブネエに対して強く出てくる味、各地の領主が王に対して強い態度をとっておりました。
那覇などは那覇港、那覇の港を使っての貿易とかも盛んでしたので、かなりの財力力を持っていたとあります。
だからこそ王たちの命令をあまり聞かないというのもありました。
力を持った味たちに対して王であるブネエが強く出ることもできず、各地の味に好き勝手にやらせてしまう傾向がありました。
そのため王と味の間でうまく連携ができていないというのが中山の状況でした。
一方の昭和氏たちは、もともと昭和氏は各種の味としっかり連携を取るようにしておりましたし、
特に貢献人である財力や力に優れる伊波味一門とは婚姻関係でもありました。
なので昭和氏たちは非常に連携が取れておりました。
その結果昭和氏たちはしっかりと連携をした群で、中山地域の各地を攻めていきます。
一方で連携が取れていない中山では、どこかが攻められても援軍すら的に派遣できない。
なので攻め落とされてしまう。
攻め落とされたことで王に対する不信感が募り、より中山王と各種の味で連携が取れなくなる。
そしてまた昭和氏一派が中山地域を攻めていく。
これを繰り返す状態になりました。
南山の攻略
そしてついには中山地域全体が昭和氏のものになります。
これが1406年、昭和氏が生まれて34歳の時でした。
中山を攻め落としたことで、中山の王、中山王を昭和氏が名乗ることができたんですけれども、
ここで昭和氏は、自分が王になるのではなく、自分の父親である、小師匠を中山の王とします。
このことに対しても、自分ではなくて父親の顔を立てることができる人物であるとか、
父親思いの人物であるということで、昭和氏の名声を高めることになりました。
各地の有力者としても、昭和氏はよくできた人物だと考えるようになったと言われます。
昭和氏は父親のことを尊敬していたとも言われるので、
単純に父のことを思っての行動だったというふうにも取れるんですけれども、
この父親を王にするということには、ある計算があったとも言われます。
と言いますのも、父・小師匠が持つミントのパイプ、これを活用しての貿易、これを活性化させるという値上げがありました。
中山一帯を抑えたことで、那覇や中草湾なども支配下に置いた昭和氏たちは、
船太郎を用いての貿易、それによって財力を蓄えることを狙います。
中山を制した昭和氏たちは、今後北山や南山との戦いを見据えておりました。
特に北山は士郎が堅く、また兵が強いことでも知られておりました。
事実、昭和氏たちが北山を攻めた際に、昭和氏たちの兵500が北山の兵200に負けたことがあります。
守る側である北山が有利とは言っても、2.5倍の兵でも負ける、それぐらいに北山の兵は強いです。
そんな北山との戦いを見据えて、昭和氏たちは財力を蓄えることにしました。
財力を増やすことで良い武器を揃えたりだとか、また良民たちの暮らしを良くして、良民たちの士気を上げようということを狙ったと言われます。
そして、民という大国とのパイプを持つ、小師匠が王となることで、民国との貿易を活性化させまして、昭和氏たちは財力を蓄えていきます。
また、この貿易の活性化の狙いもありまして、中山の首都、都ですね、この都を裏添えから首里に移します。
首里城でおなじみの首里でございます。
これは裏添えよりも、首里の方が守りやすい場所にあるという戦略面での意味もあるんですけども、
首里の方が那覇との交通の便が良かった、なので那覇との連携を取りやすくして貿易を活性化させる狙いがあったとも言われております。
そして、貿易によりまして財力を蓄えていく昭和氏たち。
その蓄えた金を使って北山の有力者たちに賄賂を送るなどして、北山の戦力を削っていったり、北山地域の味たちを値上げらせることに成功していきます。
その結果、1416年に昭和氏たちは北山を半安地を倒しまして、北山一帯を支柱に収めることに成功します。
その後、まずは手に入れた北山、それと中山地域を政治的に安定させまして、そして残すは南山を攻めるだけとなるんですけども、
1422年、昭和氏の父である松子将が亡くなります。
この結果、昭和氏が中山王を継ぐことになります。
創作かもしれませんけども、かつて山山時代という戦乱の世を終わらせようと誓い合った親子、父である松子将は夢仲間でこの世を後にします。
ただその父との夢を継ぐための昭和氏たちは南山の攻略に向かっていきます。
そしてこの頃に南山を支配していた王はタルミーと呼ばれる人物。
このタルミーは暴君と呼ばれたり、私立欲が強い人物だったと言われております。
タルミーを強いてあげていたと言われるエピソードの一つに、宝と川を交換したというものがあります。
昭和氏たちが南山への攻略に向けて、なるべく兵の被害を減らしたいということもありまして、様々な面で南山の王と交渉していたと言われます。
その中で昭和氏側から宝物をあげるから南山のある川の権利をくれという交渉をします。
川は生活において欠かせないものです。
川から水を汲んで生活に使ったり、農作物を育てるためには水を引いたりだと、とてつもなく重要なものですけれども、
普通だったらどんな宝ともらっても交換するわけがない。川の権利を取られたら、その川の付近に住む人々を困らせることになるんですけれども、タルミーはこの交換に乗ります。
自分が宝が欲しいという欲望を叶う、それと引き換えに民にとって大事な川を敵にあげてしまったのです。
このことで民からは反感を大きく変えます。そしてやがて1429年、昭和氏たちは民の心が離れた南山をタルミーを倒すことに成功します。
ちなみにここで補足と言いますか、余談を入れさせていただきますと、先ほどなぜ昭和氏たちは南山ではなく中山に向かったのか、
島沿い大里を攻めようとした後に、なぜ南山をまず攻めなかったのかということで、いくつか説があるという話をしましたけれども、
今話してきた説はよく語られる説でありますけれども、これと別の説についても触れさせていただきますと、
昭和氏たちが島沿い大里を手に入れた時、この段階で南山地域の制覇はほぼ終わっているという説でございます。
タルミーの前の方、王その土地が島沿い大里です。なのでここを落とした頃、南山をほぼ制図したといいでしょう。
ただ、南山の他の地域、まだまだ勢力が誇っていたので、結果的に次にタルミーという王も生まれますけれども、
実はこのタルミー、出生に謎がある。明確に誰の子なのか不明な部分があると思われております。
そのため、この南山の暴君タルミーは昭和氏たちが送り込んだ人物で、後に昭和氏たちが南山を手に入れやすいように、
南山をボロボロにするための送り込んだ人物だったんじゃないかと言われております。
だからこそタルミーは民を強いてあげましたし、宝と川の交換なんてことに応じたんじゃないかと言われております。
なので、王王相を倒した時点で、南山の制覇はもう目前、後はタルミーを送り込んで、
南山をボロボロにしてゆっくりと自分たちの領土にしようと考えたんじゃないかというふうにも言われております。
ただ、これはあくまでもちろん仮説の一つでございます。
タルミーがわざと送り込まれた人物だったら、南山の地域支配はもっと早くできただろうと言われますし、
琉球王朝の成立
いくらなんでもおかしいよという説だったりもするんですけども、
ただ、それぐらい宝と川の交換などタルミーがやったことはおかしいと言われたりもしております。
で、また話を戻させていただきますと、いろいろと説はあるものの、
最終的に昭和氏は琉球の統一を果たしまして、琉球王朝を成立させました。
父との約束を果たしまして、戦乱の内容を作り上げました。
その後、昭和氏は首里城を拡張整備して、王の住む城としてきちんと整備したりだとか、
また那覇の港、那覇港をしっかりと整備。
それによりまして、日本や民や朝鮮、南方諸国との貿易を活性化させまして、
琉球の繁栄をもたらしたと言われます。
この日本との貿易は薩摩藩がよく行っておりまして、
それによって薩摩藩も潤うことになったと言われます。
薩摩藩が戦国時代にも金を持っていたのは、この琉球との貿易が絡んでいたと言われますし、
特に薩摩藩による琉球振興があった以降は、
琉球が行っていた貿易、貿易を薩摩藩が行うようになります。
琉球の歴史的な転機
それによって薩摩藩は農業に向かない土地でありながらも、金持ちの藩だとなります。
明治維新の時とかで薩摩がなぜ力を持っているか、
例えばこの琉球の貿易の力を手に入れたからでございます。
話が取れましたけれども、昭和氏は三山時代に見られた琉球において、
琉球統一を成し遂げて、琉球を繁栄に導いた王として知られております。
もしも皆様、沖縄に旅行に行った際に首里城に行きようとするときは、
昭和氏たちのことを思い出してみてはいかがでしょうか。
今回はここまでです。
かっしー様、テーマいただきまして誠にありがとうございました。
テーマが沖縄で昭和氏はひねりなさすぎだと思われるかもしれませんけど、
すみません、本当に僕の知識不足です。他に思いつかなかったです。
これを機に沖縄に関する武将を勉強しようと思います。
普通武将とか軍師って授業でやること少ないんですけども、
昭和氏は中学旅行前に授業やってるところって多いと思うんですよね。
中学旅行の前後に沖縄に関する歴史とかで絶対昭和氏触れるよなとか、
首里城ができた経緯とかってやっぱり授業でやるよなと思いました。
なので今回話してきた内容も知ってるよという方が多いかもしれません。
本当に申し訳ないです。
ただもう沖縄に関しては昭和氏で語るか島津で語るしか思いつかなかったです。
授業を聞いたことなんてもう覚えてないよとか、
沖縄は中学旅行じゃなかったとか、
沖縄だと大抵養成層のことしか授業やらなかったよという方もいると思います。
なので今回の話、忘れたよとか知らないよという方が多いことを祈っております。
せめてものでタルミーが昭和氏一派だったという内容に触れましたけども、
本当にそれが僕の精一杯でした。
ただテーマをいただけると自分で勉強する機会になります。
本当は嬉しいです。
ただ皆様どうぞ僕を鍛えるという意味でもテーマをいただけると嬉しいです。
この部署で話してといったテーマから、
地名や時代など何でもテーマをいただけると幸いでございます。
どうぞよろしくお願いいたします。
今回も最後までお聞きいただきまして誠にありがとうございました。